石作氏と伊福部氏

★はじめに

石作氏と伊福部氏(<イホキ>の表記には五百木、五百城、五百旗、五百籏、廬城、伊富岐、伊福など多々あるようだが、「新撰姓氏録」では河内国・五百木部連以外は伊福部となっているので以後「伊福部」と主に表記する)は、石作氏が石棺や石槨の製作など、主に陵墓の石の加工を職掌とした石作部の伴造氏族と解されているのに対し、伊福部氏は何を職掌にしていたのか諸説紛々として定説らしきものはない。従って、両氏を並べてみたところで通説的にはまったく意味のないことなのだが、私見では両氏は石工と言うことで同じことをやっていたが時期が少しばかり違うと言うことで解説を加えたいと思う。
古典等に出てくる両氏の記録は、伊福部氏が石作氏を圧倒しており、伊福部氏が古代からの石材を扱う豪族であったのかとも思われる。しかるに、「新撰姓氏録」では、
左京|神別|天孫|石作連|連|火明命六世孫建真利根命之後也|垂仁天皇御世。奉為皇后日葉酢媛命。作石棺献之。仍賜姓石作大連公也|とあり、
石工の元祖は石作連と言わんばかりのお説だ。もっとも、これに対しては「『古事記』の垂仁段、日葉酢媛命の<石祝作>伝承を石作連に関わるとする根拠はなにもない。むしろ、『新撰姓氏録』は『古事記』の伝承を石作連氏が自身の事績として取り込み、改変した結果として成立した可能性があろう」と説く見解もある。石作氏は後発だったので箔を付けるのに四苦八苦していたか。

★石作氏

石作氏の本貫地としては1.尾張国。式内社石作神社が六社あるうち四社が尾張国に集中して鎮座。石作連氏と尾張氏族は同族。但し、石作連氏は尾張氏族(高倉下の子孫で海人族という)とは祭祀・習俗を異にするという見解がある。2.山城国乙訓郡石作郷。現在、大歳神社の相殿に式内社石作神社が祀られている。六社ある式内社石作神社で唯一公的記録(「三代実録」)で従五位下(じゅごいのげ)の神階が与えられている。3.播磨国宍粟郡石作郷(「播磨国風土記」では播磨国宍禾郡石作里)「播磨国風土記」が著された霊亀元年(715年)ないし霊亀3年(717年)頃には此の里に石作首らが住んでいたという。
1.は石作連氏と尾張氏とは祭祀・習俗を異にするばかりでなく、石作連、石作部が和泉国、摂津国、山城国、尾張国、美濃国、播磨国、近江国にいたと言うのも、大まかに言って畿内と尾張美濃に偏在しており、土師宿禰や伊福部宿禰が大和国(古墳の発祥地であろう)に留まっていたのとは大いに異なる。
2.は神社に位階もあり、伴造氏族やその部民に由来する郷名もあるので、一応、本貫地としては有力ではないか。
3.は伴造氏族の石作首や石作部などが実在していたことは間違いないが、カバネとしては「首」の上には「連」があり、本貫地とは言いがたい。
以上より判断するならば、石作連の本貫地は山城国乙訓郡石作郷であり、尾張、美濃系統の石作氏とは系統を異にする氏族か。このことは、伊福部氏についても言えることで因幡国・出雲国や播磨国に盤踞した伊福部氏と美濃国や尾張国に盤踞していた伊福部氏は別系統と考えざるを得ない。おそらく、因幡国・出雲国と播磨国の伊福部氏は元々同族であり、美濃国と尾張国の伊福部氏は同族ではなかったか。
石作氏の難点は文献露出が少ないことである。まともな文献としては「播磨国風土記」と「新撰姓氏録」くらいと言う説もある。「記紀」には登場しない。
「播磨国風土記」では、【印南郡】大国里
此里有山名伊保山、帯中日子命於神而息長帯日女命、率石作連大来、而求讃岐羽若石也、自彼度賜未定御慮之時、大来見顕、故美保山
但し、この一文は解釈が一様ではないようである。即ち、「御慮」とあるのは1.息長帯日女命などの宿泊所を言うのか2.帯中日子命の遺体の仮安置所を言うのか。また、大来が見顕したのは、石材なのか、はたまた、御慮の適地なのか、解釈はまちまちのようである。
一応、私見の勝手な解釈としては、仲哀天皇が亡くなり神功皇后が石作連大来を連れて讃岐国で羽若石を求めた。讃岐国から播磨国に帰り宿泊所がなかったので大来が美保山に探し出してきた。美保山で探し出したのは宿泊施設かと思われ石材ではないと思う。石材は既に讃岐国で確保している。
「播磨国風土記」はこのほかにも石作氏が出てくるがこの件(くだり)が一番インパクトがあるらしい。
「新撰姓氏録」左京 神別
石作連 連 火明命六世孫建真利根命之後也 垂仁天皇御世。奉為皇后日葉酢媛命。作石棺献之。仍賜姓石作大連公也
これは上述したように「古事記」垂仁天皇段 最末尾にある「またその大后日婆須比賣命の時、石祝作を定め、また土師部を定めたまひき」とあるのを、石作氏が自己の事績として取り込んだだけと言う厳しい見解がある。
石作郷も、一応、取り上げてみると、
「和名抄」には、山城国乙訓郡、尾張国山田郡、尾張国中島郡、播磨国宍粟郡があるが、播磨国宍粟郡の石作郷は写本によっては石保郷となっているものもある。従って、石作郷に入れない見解もある。

★伊福部氏

伊福部氏は全国に散在していたようで、その居住地としては、
「和名抄」に出てくる伊福郷は、
遠江国引佐郡、尾張国海部郡、美濃国池田郡、大和国宇陀郡、備前国御野郡、安芸国佐伯郡にある。
「伊福」の語源については、石城(イハキ)→五百木(イホキ)→伊福(イフク・イフキ)と音韻変化したものか。従って、原意は「岩」「石の多いところ」の意味か。なお、辞書によっては石槨も石城(イハキ)と言う、と書いているものもある。
諸国の伊福部氏は、
有姓では、
美濃国(君姓)、因幡国(臣姓)、石見国(直姓)、播磨国(連姓)の諸豪族があり、国々における国造氏族の一族であろうと考えられている。
なかでも、因幡国伊福部臣氏は延暦三年(784)に作られた「因幡国伊福部臣古志」と題する古系譜を伝え、その系譜には伊其和斯彦(いきわしひこ)宿禰が成務天皇の時代に稲葉(因幡)国の国造になったという伝承を記している。
無姓では、
山城、伊勢、尾張、遠江、武蔵、美濃、陸奥、因幡、出雲、播磨、美作、備前、安芸、薩摩など全国的に広がっている。伊福部氏が全国に散らばっていると言うことはその需要が全国的にあったと言うことなのだろうが、伊福部氏が何をしていたかは諸説があってはっきりしない。文献等に出てくる人物の職業を現代風に述べてみると、1.守衛(門番) 2.経師(写経生) 3.雅楽奏者(笙) 4.風呂のボイラーマン(湯人)などまちまちになっている。学説も諸説分かれていて、主なものは、
1.景行天皇の皇子五百木之入日子命の名代部の伴造氏族説
2.天皇の食饌を煮焚する火吹部説
3.笛を吹く吹部説
4.踏鞴を掌る製鉄・製銅関係の息吹部の伴造説
などがあるが、五百木部(景行天皇の皇子五百木之入日子命の名代部)、伊福部(踏鞴を掌る製鉄・製銅関係の息吹部)、有姓の伊福部氏は各々その氏素性が違う、とか細かく分類をする説もあるが、私見ではおそらく伊福部氏は古墳築造の石材業者で大型古墳が大化の改新(薄葬令)で激減した際、土師、伊福部の両氏は徐々に仕事を失ったのではないかと思う。その時、土師氏は技官から文官(菅原氏、大江氏、秋篠氏など)へ華麗なる転身を図ったが、伊福部氏はそれがうまくいかなかったのではないかと思われる。中央の宿禰姓の伊福部氏では男依・種麻呂・紫女・毛人・永氏・広友などの名が見えるが、際だった人物は皆無という。そこで、伊福部氏がとった方法は《なりふり構わぬ転職》で、あちこちの縁故者に就職依頼をした。宮城十二門の一つに伊福部門(改号後、殷富門)があって、その守衛に奉仕したと言うのも、門の管理の上級伴造である大伴氏や佐伯氏と縁故があったからではないか。いろいろな職種に進出したので“伊福部氏とは何をしていたか”となるのだが、元々は古墳時代草創期以来の石工ではなかったか。

★まとめ

以上より鑑みるならば、石作氏も伊福部氏も本職は古墳の石槨や石棺、葺石工事等を行った集団と思われる。古墳造営には土師氏や伊福部氏のほか六人部氏、石作氏、津守氏などの氏族が「新撰姓氏録」に見えるが、そのほかに出雲臣氏と尾張連氏が見られる。出雲は四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)と言う独自の墳墓で著名であり、尾張は前方後方墳は東海地方が発祥の地と言う説もある。伊勢湾沿岸地域は前方後方墳しかないらしい。尾張氏が石材工事に固執して石作神社が全国六社中四社までが尾張国にあり、石作郷が播磨国宍粟郡石作郷を除けば全国三郷中二郷が尾張国にあり、伊福部氏は景行天皇の皇子五百木之入日子命は美濃国不破郡伊吹山、伊富岐神社などの地名を負いたる名という説がある。皇子の母堂は尾張氏の上司たる八坂入彦命の息女と言い、妃は尾張氏建伊那陀の女、志理都紀斗売と言う。これをもって尾張氏が石材工事に固執する理由とはみなしがたいが、古墳の築造にあって石の加工がもっとも魅力ある仕事であったのであろうか。
石作氏と伊福部氏は出現期は異なると思う。まず、伊福部氏があって伊福部氏が大化の改新後その職を離れたので尾張氏の推薦により石作氏がその職に就いたのであろう。しかし、「三代実録」貞観四年(862)六月十五日壬子条に、
「播磨国揖保郡人雅楽寮答笙生無位伊福貞。復本姓五百木部連」とある。
何か石作氏の能力にでも問題があり、石工を引退していた伊福部氏を、再度、姓を連に戻し石工として働いてもらおうと思ったのではないか。これは石作氏の時代が数十年ないしせいぜい百年で幕を下ろしたと言うことだろう。やはり石工は素材の採れる播磨で活躍するのが本筋だったのだろう。石作氏も尾張氏の押し込みで播磨に来たのかも知れない。上記の文章では伊福氏は播磨での岩石採掘権を石作氏に譲ってからも播磨に在住していたようだ。年に何回か平安京の雅楽寮へ行って笙の練習をしたところで上達はおぼつかなかったであろう。平安時代に入ると巨大古墳は完全に造られなくなり、朝廷御用達石工も細々と露命を繋いでいたのであろう。播磨の石作氏は「播磨国風土記」が著された霊亀元年(715年)ないし霊亀3年(717年)頃がピークでその後は漸次衰微していったのであろう。また、山城の石作氏は貞観元年(859)正月27日正六位上石作神を従五位下に叙した(「三代実録」)とあるので平安時代に入っても細々と石工業にいそしんでいたようだが、これまた石作神社の叙位後は衰微の一途だったのではないか。尾張の石作氏は四社ある石作神社の創建で平安時代があったり、現在では県内の石作氏が皆無だったりと雲を掴むような話ばかりだ。おそらく、石作郷にあっても墳墓の石棺や石槨に適した岩石が採れたかは疑問である。これを見ると伊福部氏を引き継いだ石工の石作氏の事績は惨憺たるものであったのではないか。現存の伊福部、五百籏頭、五百旗頭、伊福、五百木などの姓が少なからず存在するのに、石作は風前の灯火だ。鹿児島県に多いのはそういう地名(石作)があるからではないのか。伊福部さんが地に足がついた石工だったのに対し、石作氏は尾張氏に惑わされたにわか石工だったのだろう。

(追記)

伊福部氏が石工だったとする説は私見の勝手な見解であり、また、以前に述べた土師は都市牛利の子孫とか、伊福部氏は伊聲耆の子孫というのも、はたまた、古墳の草創期の築造実務者を但馬、因幡の人々などと言うのも私見の勝手な説であることを申し添えておく。

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