丹波国天田郡には誰が住んでいたの

★はじめに

丹波国天田郡(現・福知山市)の『和名抄』に記される郷名は六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷、和久郷、拝師郷、庵我郷、川口郷、夜久郷、神戸郷と十郷があり、特に、前の四郷は古墳造営と関係するような気がして、どうしてこんなところに古墳造営業者が集中しているのかなと思っている。
六部は現代流に言うと土木工学における数学的管理を行い、
土師は墳丘の築造あるいは埋納土器の制作を行い、
但し、ここの土師は『日本書紀』雄略天皇十七年春三月丁丑朔戊寅、詔土師連等「使進應盛朝夕御膳淸器者。」於是、土師連祖吾笥、仍進攝津国來狹々村・山背国內村俯見村・伊勢国藤形村・及丹波・但馬・因幡私民部、名曰贄土師部。」にある丹波の贄土師を言う、と言う説がある。また、中央の土師氏は古墳造営の統括管理者で土石工事を担った。
宗部はサカあるいはスガあるいはソギ(削)の訛でサカなら語源的には〈サカシキ(嶮)〉〈サカヒ(堺、境)〉〈サカフ(逆)〉〈サキ(割)〉の原語のサとカ(処)とから成る等の説がある。しかし、坂といわれる場所が地域区分上の境界をなしたり、交通路の峠をなしたりしている事例が少なくない、とある。スガと解するなら、「州処(すか)」の意という。川岸・海岸の砂地や砂丘を言う。ソギなら土砂を削って墳丘築造に用いると言うことか。古墳造営的に言うと宗部とは古墳の墳丘用に土砂を手当てしたり、あるいは、用地選定などを行ったか。こちらは宗宜部首と言い中央の蘇我臣とは関係がないようである。
雀部は読みは『和名抄』のルビーとしては散々倍とか佐々伊倍とかがあるが、松尾大社文書に「さゝいへ」とあるので「ささいべ」を正としているようである。雀はミササギの当て字で「陵」即ち古墳のことか。ササギには小高い丘の意味があるという。読みはほかの文章ではササギとかササイの二通りが有力であったらしいが、また、ほかにもいろいろな読みがある。雀部で著名なのは仁徳天皇の名代氏族で雀部があり、膳部を担当した。雀部は古墳の造営完了後のメインテナンスを主に担当したものか。参考になる氏の名として近江国蒲生郡に佐々貴山(ささきやま・<みささぎやま>で古墳のことであろう)氏がある。あるいは、膳部で工事従事者の食事を調理していたのかも知れない。
以上の四氏は全国的に分布している。
六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷の地名が「部」とか「師」などの人間の集団にまつわる地名なのに対し、和久郷以下は地形地名のようである。石材工事業者と思われる石作とか伊福部(五百木部)などの文字がないのが残念ではある。但し、『先代旧事本紀』巻第五の天火明命の九世の孫「弟彥命」の弟に「若都保命.五百木邊連祖」とある。なお、尾張氏は古墳造営(前方後方墳)も得意だったらしく一族には、津守連、六人部連、石作連、身人部連などの名が出てくる。

★『先代旧事本紀』の諸氏の系図は信用できるのか

丹波国天田郡の六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷の四郷(四氏族)については『先代旧事本紀』巻第五の尾張氏の系図に天火明命につながる玉勝山代根古命と言う人物を祖とする天田郡四郷に似たような氏族が出てくる。無論、土師氏は表向きは天穂日命の子孫と言う野見宿禰を遠祖としているので六人部、宗宜部、雀部のグループには入っていないようだ。ところで、『先代旧事本紀』だが、「序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。」とある。現今でも「〇×詐欺」とか言って詐欺に引っかかりやすいのが人間の性(さが)だが、歴史の書物を見ているとその道の大家までが『先代旧事本紀』を引用している。浅学菲才の身なのでその顰み(ひそみ)にならうこととする。
早速であるが、『先代旧事本紀』の当該部分(巻第五)を引用すると、
九世孫-弟彥命.
妹,日女命.
次,玉勝山代根古命.山代水主雀部連‧輕部造‧蘇宜部首等祖.《山代水主<直>・雀部連・輕部造・蘇宜部首等祖が正で、直の文字が欠落したか》
神名帳云,山城國久世郡水主神社十座就中天照御魂神‧山背大國魂命神二座御相並祭.
今按天照御魂者,天照國照彥天火明尊‧山背大國魂者,御勝山代根古命乎.
又按姓氏錄,火明命之後‧榎室連祖-古麻呂,家在山城國久世郡水主村.
次,若都保命.五百木邊連祖.
次,置部與曾命.
次,彥與曾命.以上六柱,倭得玉彥命子也.
問題となるのは「玉勝山代根古命、山代の水主直・雀部連・輕部造・蘇宜部首等祖」なのだが、丹波国天田郡の十郷のうち六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷が類似しているので双方の関連性を説き、なかには、玉勝山代根古命は山代から丹波に渡り丹波国を開発後また山代に戻ったなどという見解もある。前述のように「『先代旧事本紀』は偽書」と江戸時代の国学者から指摘されたにもかかわらず、今になって「正」とするがごとき意見を述べる人物もいるようだ。曰く、『京都府の地名』(日本歴史地名体系第二六巻、平凡社刊。P326。雀部郷の項)『「日本地理志料」は「天孫本紀、玉勝山代根古命雀部連、蘇宜部首等ノ祖也、蘇宜部ハ即宗部也、与六人部氏為同系、其族居此、因名」と記す。天田郡内に宗部・六部・雀部の三郷が接近してあるのは、古代各郷の先住者がその祖を一にしたことと関係があるように思われる。』と。「同一の祖」とは玉勝山代根古命を言わんとするようであるが、ほかに丹波氏もその候補にあがるようだ。『続日本紀』延暦四年(785)正月二七日条に天田郡大領丹波直広麻呂の名が見え、丹波氏は丹後国丹波郡丹波郷を本貫としたと考えられているが、あるいは、丹波国天田郡でも支配的地位にあったと思われる。神社は式内社、天照玉命神社、生野神社、奄我神社、荒木神社のうち天照玉命神社が天火明命を祀り、奄我神社が天穂日命を祀るという。天照玉命神社は六人部氏、宗宜部氏、雀部氏が祀り、奄我神社は土師氏が祀ったと言うことか。

★まとめ

丹波国天田郡は数は少ないが縄文時代より遺跡が残り、
武者ヶ谷遺跡 福知山市堀 縄文時代 京都最古の縄文土器(刺突文小型丸底土器)
奥野部遺跡  福知山市奥野部 縄文時代 北部の旧期洪積層の谷(小字エンジョ)から早期縄文時代の有舌尖頭器が発見されている。
半田遺跡 福知山市半田 縄文後期 桑飼下式を中心とする縄文土器のほか、打製石錬、打製石斧、磨製石斧、敲石、石錘などの石器類が出土している。
上野平遺跡 福知山市石原上野平 石器、土器(縄文、弥生、土師器、須恵器の土器及び土器片。)
などがあり、弥生時代の遺跡としては今安(いまやす)、新庄、厚(あつ)、前田、土、中、興(おき)などで発掘されている。古墳時代になると至る所に古墳が築造され、代表的なものとして、
前田宝蔵山古墳 四世紀の甕棺
猪崎因幡山古墳 五世紀の前方後円墳。人物、鳥、馬、琴、靭(うつぼ、ゆぎ)などの形象埴輪の破片。
報恩寺奉安塚(ほうあんづか)古墳 後期古墳。鏡、勾玉、鉄刀、鉄工具類、馬具類、須恵器等の遺物が出土。馬具類は、鐙(あぶみ)を除く金属部が残欠を含めてほぼ完存している、として朝鮮文化との近縁性を説く見解もある。そのためか、由良川沿岸には、阿良須、有路(ありじ)、荒河(あらが)、荒倉など、ARで始まる発音の地名が多いことから朝鮮語の影響と見る向きもある。但し、阿良須は本字は蟻道(安里知)で、蟻巣と変わり、転訛して阿良須となったと言うので阿良須と有路は元は同一語であったのではないか。従って、有路を割愛する。難癖をつけるわけではないが、この「あら」は漢字で書くと「新(あら)」となり、当該地は洪水被害が多く、洪水があるたびに新しい地形が現れ、「あら××」と名付けられたのではないか。
福知山盆地の洪水被害だが、盆地内を流れる由良川は盆地出口から河口まで狭く勾配のない峡谷が続き、大量の降水をさばけず盆地内に滞留するため氾濫原の広さと相まって洪水被害が甚大であった。それは近代になって始まったことではなく、縄文・弥生の古代から続いてきたものと思われる。古代にあってはその復旧作業はほとんど人力に頼り、莫大な労力と時間を要したことと思われる。当然その回数を重ねるうちに技術も向上し現代的に言うと早くに土木工学の泰斗も現れてきたのではないかと思われる。その代表が、六人部、土師、宗宜部、雀部だったのではないか。これらの人々は大和国で大型古墳(箸墓古墳か)を造営する際、中央に召集され、現在の城陽市に住まわされたのではないか。そこには、玉勝山代根古命がいたと思われるが、「玉勝山代根古命、山代の水主直・雀部連・輕部造・蘇宜部首等祖」とあり丹波国天田郡からやって来た六人部、土師、宗宜部、雀部とやや構成が違う。丹波国天田郡の人々は古墳造営に関わった人々と思われるが、玉勝山代根古命の子孫は必ずしも古墳造営とは関係がないかも知れない。玉勝山代根古命の直系は水主直と思われるが、水主には1.水の神2.井戸掘り係3.用水路管理4.飲料水管理5.厨房係など諸説がある。水主氏は栗隈大溝(『日本書紀』には仁徳朝と推古朝に大溝が開削されたとある。)の開削に尽力した、とする説が有力で、用水路の管理者だったと思われる。しかし、私見では古墳造営にも水が必要で(例、土砂、石材などの材料の運搬に水路を設け筏等に貨物を載せて運ぶ、あるいは濠に注水する、飲料水を確保するなど。但し、濠は造営当初は空堀と言う見解もある。)この水主氏も古墳造営に関わったのではないか。あと、軽部氏だが、軽部(かるべ)=允恭天皇太子木梨軽(きなしかる)皇子の御名代部とする説。しかし、玉勝山代根古命は允恭天皇より遙か前の時代にいた人物で軽部と名乗る前の軽部氏が何をしていたかは不明。これは後世のこととは思うが、縄を編んで畚 (もっこ) のようにつくった軽籠 (かるこ) と呼ばれる運搬具を用い、これに荷物を載せ、棒を通してかついで運んだ軽子即ち軽部のことか。
以上をまとめてみると、丹波国天田郡の氏族と山城国久世郡の氏族との氏の名の類似性だが、おそらく丹波国天田郡の氏族が古墳造営のため招集されて山城国久世郡に定住し、旧来の氏族と一体化して『先代旧事本紀』は玉勝山代根古命の子孫としたのではないか。従って、野見宿禰が現れる前の古墳造営の担い手は丹波国天田郡の人々であり、古墳が頗る頑丈にできているのは度重なる水害にもめげず技術向上を図った丹波衆の努力のたまものではなかったか。日本では技術的なことになると何でも朝鮮人や中国人を引き合いに出すが、それはなかったのではないか。古墳時代草創期の古墳築造は部分的には半島からの土工や石工が加わったと思うが、多くは日本人だけで行われたものと思われる。箸墓などは墓作り工人がどこからともなく現れ、パッと築造し、パッといなくなった、と言う感想を持たれる大家もいるようだ。よって、『日本書紀』が言う「「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。」というのは信じがたい。古墳作りを主導した丹波の人はやや持って縄文系の人であり、大陸や半島からやって来た弥生系の人とは違うのではないか。

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葛城襲津彦と大伴狭手彦

★はじめに

葛城襲津彦と大伴狭手彦の共通点と言えば、双方とも朝鮮半島に出陣し成果を上げた武将である。とは言え、『日本書紀』によれば葛城襲津彦は「新羅王の人質を護送中に対馬にて新羅王の使者に騙されて人質に逃げられた。」とか、『百済記』逸文によると「新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣されたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪(襲津彦のこと)を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせた。」とか、「天皇は帰化を希望している弓月君の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、三年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。」とか、これが応神天皇の朝鮮半島における後継者かと思うと、現代の口の悪い人に言わせると、とんまでアホと違うか、と言われそうな人物である。そこで『日本書紀』の編者は汚名挽回とばかりに正統・葛城襲津彦として時代は下るが大伴狭手彦を描いたのではないか。無論、葛城襲津彦は4世紀末から5世紀前半頃の人と推定されており、大伴狭手彦は6世紀中頃の人物と推定されている。おそらく二人の年代差は100年以上あり、また、一般には二人は実在の人物であると考えられている。二人の事績を見ても葛城襲津彦はへまばかりしており、それが延々と葛城襲津彦の事績として書かれているが、大伴狭手彦の方は名家出身の優等生らしく失敗はないが「高句麗討伐」などは伝承の誇張として非難されている。ここで両名の事績を簡単にまとめておくと、

葛城襲津彦

神功皇后5年3月7日条
新羅王の人質の微叱旱岐(みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。

神功皇后62年条
新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』を引用する。

『百済記』逸文
壬午年(382年)に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという。
また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという。

応神天皇14年是歳条
百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。

応神天皇16年8月条
天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。

仁徳天皇41年3月条
天皇は百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。

以上を見るとずいぶんと長寿の人だったようで、その記録は神功皇后5年(在位神功元年から神功69年)から(応神天皇:在位応神天皇元年1月1日 – 同41年2月15日)、仁徳天皇41年までにわたり、ざっと見積もっても146歳と言うことになり、話半分としてもおそらく武内宿禰のモデルは葛城襲津彦ではなかったか。パッとした話はないが、これは『日本書紀』の編者が『百済記』に惑わされたもので事実とは考えづらい。何分にも葛城襲津彦の子孫は男性なら大臣、女性なら皇后、皇妃などとなっており、トンチンカンな人の子孫がそんな高い地位につけられないと思われる。それに葛城襲津彦は朝鮮半島専門の重臣のように書かれているが、内政の重臣としても活躍したのではないか。
『百済記』は沙至比跪は新羅討伐に派遣され新羅の美女二人に惑わされたと言うが、これは後述の大伴狭手彦と松浦佐用姫の話を誤解したものではないか。「一云」とあって、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないので石穴に入って自殺した、などと言っているが、これは襲津彦が亡くなって古墳に埋葬されたということを言っているのであって『百済記』の曲解である。もし『百済記』が言っていることが正なら襲津彦はそんなに長寿ではなく、神功皇后の時代に政治の表舞台から遠ざかってしまったはずである。『日本書紀』が言っている応神、仁徳両朝の事績とはマッチしないだろう。とにもかくにも『日本書紀』が言っている葛城襲津彦は応神、仁徳両朝にあって朝鮮半島で武人として活躍した一団の人があって、その主将ではなかったかと思われる。『古事記』で武内宿禰の子とされる、羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、若子宿禰などは葛城襲津彦の配下の将軍だったのではないかと思われる。

大伴狭手彦

宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った。

欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)。

『日本三代実録』貞観3年(861年)8月19日条の記事にも見えており、狭手彦の献じた高句麗の囚が山城国の狛人の祖となったという。

『肥前国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻5には、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられている。

宣化2年の「新羅の任那への侵攻に際し、大伴狭手彦を派遣、撃退したという。」 説話であるが、一説に「欽明天皇の即位は辛亥年となって先の継体没年(25年辛亥<531>・日本書紀)とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。」というつれない説もあり、そうなれば狭手彦の派遣もあり得ないと言うことになる。しかし、『日本書紀』原文は「二年冬十月壬辰朔 天皇 以新羅冦於任那 詔大伴金村大連 遣其子磐與狭手彦 以助任那 是時 磐留筑紫 執其國政 以備三韓 狭手彦往鎭任那 加救百濟」とあり、これもどこからか持ってきた文章かと言うことになるのだが、思い当たるのは『好太王碑文』の「倭の辛卯年(391年)における三韓征伐」が考えられる。三韓征伐の日本側記録の主役は神功皇后であるが何せ実在性にも疑問が呈されており、ここでは神功皇后は横に置き応神、仁徳両帝が新羅出兵を行ったとする。応神、仁徳両帝は『記紀』では親子とされるが、実は兄弟ではっきりした古代の兄弟相続の形で現れるのはこの兄弟で、次の世代は末弟の子供が継ぎ(仁徳の次は、履中、反正、允恭)、(允恭の次は、安康、雄略)、(雄略の次は、清寧<清寧天皇には後継者がいなかった>)、後継者がいるときは問題ないが弟や子のない天皇は問題を起こす。一応、三韓征伐の時は応神天皇が半島へ渡り戦闘部隊を指揮し、仁徳天皇が後方支援(兵站)を行ったようだ。大伴狭手彦の新羅撃退の時は磐と狭手彦は、磐が兵站業務を担い、狭手彦が前線業務を担ったものであろう。こういう高度な軍事手法は軍事氏族と言われる大伴氏が継承していたのかも知れないが、大伴氏が天皇家に従属するようになったのは大伴室屋の時代からと言う説(丹羽基二説)もあり、応神・仁徳の時代に大伴氏が国政に関与していたかは不明。この頃は史上に出てくるのは武内宿禰とか葛城襲津彦を含んだ武内宿禰の子供たちが活躍しているようになっている。

★まとめ

長々とくだらないことを書いたので、某歴史作家の言うように「長々と書くと読者に嫌がられる」という説を採用し、まとめてみることにする。
1.まず、『百済記』に出てくる、沙至比跪(さちひこ)と『記紀』に出てくる狭手彦(さてひこ)だが妙に似た名前である。『日本書紀』にある大伴狭手彦の説話がいい加減な話とするなら、あるいは原話は三韓討伐の話だったか。
2.『百済記』に言う、迎えの新羅の美女2人の話だが、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との話を脚色したものか。
3.狭手彦の「高句麗討伐」は伝承の誇張と非難されているが、実態は日本的に言うと国造や縣主の屋敷を攻撃したのに彼我の文化の差で王宮と勘違いしたのかも知れないが、三韓討伐の話と類して高句麗が出てくる。
4.狭手彦の説話は安閑・宣化朝なんてなかったというなら虚構と言うことになるのだろうが、狭手彦の事績は葛城襲津彦と比べ非常に少なく(新羅撃退、高句麗討伐、弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話)若くして亡くなったとは思う。しかし、『新撰姓氏録』によればその子孫に「神別 左京 榎本連 – 道臣命十世孫の佐弖彦の後。」とあり、「刺田比古神社」の祭神の一神という。榎本姓は和歌山県や淡路島に多いとされ、関西近県では和歌山県南部・三重県南部、奈良県御所市(旧:榎本・金剛山の麓にあったようだが不明。)あたりが発祥の地か。和歌山県と淡路島は大伴氏と結びつく地域か。「刺田比古神社」の祭神は古文書喪失のため本来の祭神は不明と言うが、刺国大神、大国主命などが有力である。神社側は「古屋家家譜」では道臣命の父を刺田比古命とし、道臣命については「生紀伊国名草郡片岡之地」と伝える。この記載から刺田比古神社側では、本来は祖先神としてこの刺田比古命を祀ったものと推測している、として刺田比古命を祭神としている。岡の里古墳があり出土した土器の形状から6世紀頃と推測されており、刺田比古神社や大伴氏との関係が指摘される、と言う。要するに、これらの説は大伴氏は現在の和歌山県出身と言いたいようだ。
5.葛城襲津彦に関しては『記紀』にはその実態が正確に表されていない。おそらく『百済記』に引かれていい加減な作文になったのだろう。
6.以上より葛城襲津彦と大伴狭手彦を比較してみると『日本書紀』の編者はでたらめな葛城襲津彦像を作り上げながら、大伴狭手彦のところで少しばかり修正を加え本来の襲津彦像に仕立て上げたのであろう。けしからん話とは思う。

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葛木氏について

★はじめに

葛城氏については葛城襲津彦以降の葛城氏の興亡について論じる書物は多いが、それ以前のことについてはあまり興味を示さないのが現今の学説の主流かとも思われる。襲津彦(そつひこ)、葦田宿禰(あしたのすくね)、玉田宿禰(たまたのすくね)、円大臣(つぶらのおおおみ)の四代で滅亡したようである。葛城氏自身は『古事記』に葛城襲津彦の子孫として「葛城長江曾都毘古(そつびこ)は<玉手臣、的(いくは)臣、生江(いくえ)臣、阿藝那(あぎな)臣等の祖なり>」とあり、円大臣が雄略天皇に滅ぼされてお家断絶となったようだ。これには後日譚があり、蘇我馬子は何を血迷ったのか図々しくも「「葛城縣者、元臣之本居也、故因其縣爲姓名。是以、冀之常得其縣以欲爲臣之封縣。」と言いだし、推古天皇に拒否されている。馬子が蘇我馬子ではなく葛城馬子とでも名乗っていたらその言い分にも一理はあったかもしれないが、遠い先祖は同じ(それも蘇我馬子がとりまとめた系図と思われる)でも、お門違いの申し立てと言うべきものだろう。また、存在していないはずの葛城氏について『新撰姓氏録』は、

左京 皇別 葛城朝臣 朝臣 葛城襲津彦命之後也 日本紀。続日本紀。官符改姓並合。

太政官符により改姓したというのであろうが、一説に、「<葛城朝臣>は忍海原連から朝野宿禰を経たのちの改氏姓であり,渡来系氏族であったと考えられる(天武紀10年4月庚戌条・続紀延暦10年正月己巳条)」とある。どうして渡来人の子孫が「皇別」とか、「葛城襲津彦命之後」とか名乗り、太政官がそんなことを認めているのか。一説は間違いで朝廷は、一旦、滅亡としながら、また、復活というのであろうか。一般常識では考えられぬ。
葛城襲津彦に関してはほかに襲津彦の時代は未だ氏の名はなく、葛城襲津彦の葛城は地名であるとするもの。また、欠史八代の天皇には葛城の地に宮を置く天皇があるが、
綏靖天皇の宮は「葛城の高岡宮」(古事記綏靖段)・「葛城の高丘宮」(綏靖紀元年正月己卯条)
安寧天皇の宮は『日本書紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、『古事記』では片塩浮穴宮(未詳。奈良県北葛城郡、現・大和高田市片塩町か)
孝昭天皇の宮は『古事記』では葛城掖上宮、『日本書紀』では掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)
孝安天皇の宮は『日本書紀』では室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)、『古事記』では葛城室之秋津島宮
とある。
これらの初期の宮や天皇陵が葛城地方に措定された経緯については、当地にも勢力を拡大した蘇我氏(推古紀32年10月癸卯条・皇極紀元年是歳条)による最初の国史編纂事業(天皇記・国記)にかかわってのこととする説がある。この説によれば欠史八代の時代は葛城王朝の時代などというのは成り立たないと言うことだろう。欠史八代の時代は資料や文献が少ないのであったのかなかったのかや蘇我氏あるいは飛鳥官僚の作文だったのかは判断ができないというのが現実かと思う。
私見がここで問題にする葛城氏は襲津彦の前の時代の葛城地方にいて畝傍とか磐余とか橿原とか言われる地域の大王だった神武天皇に対抗した葛城氏を言う。

★葛城の地名

「葛城」の文献初出は『日本書紀』神武天皇
「戊午年九月天皇、祇承夢訓、依以將行、時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、」
「己未年春二月因改號其邑(高尾張邑)曰葛城。(又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。)
「二年春二月復以劒根者、爲葛城國造。」などと神武天皇の時代より見える。
以上より判断するならば、神武天皇の頃は高尾張邑と葛城邑が混同されていたようで、あるいは、高天原の比定地の一つとされる「奈良県御所市高天(葛城・金剛山高天台)」を高尾張と言い、その台地の下を葛城と言ったものか。「皇軍結葛網而掩襲殺之」というのは葛城の地名より類推されたものであろう。
剣根が葛城国造になったというのであるが、一説によるとこの国造氏は小国造と言い、奈良県葛城市葛木の地が発祥か。但し、葛木の名は、明治維新後に桑海村と正道寺村が合併してできた葛木村が基盤となっ ています、とある。とは言え、葛木御県神社が鎮座しているので、この周辺が葛城県の中心であったとする説もある。
葛城の語源であるが、「カ」(高いところ)、「ツラ(ヅラ)」(連なる)、「キ」(場所を表す接尾辞)で、二上山、葛城山、金剛山が連なる金剛山地を意味したものか、はたまた、「カ」(カハ<川>の下略)、「ツラ」(~のほとり)、「キ」(場所を表す接尾辞)で、川の畔を意味したか。「カ」(高いところ)、「ツラ(ヅラ)」(蔓)、「キ」(場所を表す接尾辞)で、蔓が多く生えていた高地の意味か。『日本書紀』は蔓説のようである。葛木御県神社のあたりが「葛城」地名の発祥地なら「川(高田川)のほとり」ほどの意味ではないか。京都の桂も桂川のほとりにある。

★葛城にはどんな人がいたの

『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀戊午年九月に、磯城邑には磯城八十梟帥がおり、高尾張邑(葛城邑)には赤銅八十梟帥がいた。これらの人々はみんな天皇と戦おうと思っている。
『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀己末年二月に、高尾張邑には土蜘蛛がいて、その人となりは短身で手足が長い。侏儒と相似ている。皇軍は葛の網を結(す)いて襲い殺した。邑の名前を葛城邑と改めた。
これを見れば当時の大和盆地には東の大関(磯城邑・倭国)には磯城八十梟帥、西の大関(高尾張邑・葛城国)には赤銅八十梟帥がいた。盆地中央南部大和三山々麓には一人横綱の神武天皇がいた。このほかに高尾張邑には土蜘蛛がいて短身、手足長く、侏儒に似ると言う。
何か『魏志倭人伝』の読み過ぎか、とも思われる話だが、同じく神武天皇の論功行賞に、珍彦(椎根津彦)には倭国造、剣根には葛城国造に任じられた。神武天皇の時代に国造などという制度はないと説く向きが多い。虚説と言うことになるのだろうが、ここで読み取るべきは、大和盆地は当時にあって倭国と葛城国と言う上部組織があって、その下に県という組織があったようである。ここでも異論を唱える人がいて国も県も同列であるという見解もある。神武天皇条には猛田県(縣主は弟猾)と磯城県(縣主は弟磯城)が出てくる。県は天皇家直轄領(水田)という見解もある。
以上を総括すると、磯城八十梟帥(倭国)、赤銅八十梟帥(葛城国)はともに一般的な弥生人であって、高尾張邑の土蜘蛛は旧石器時代からの縄文人で、天皇氏は縄文人・弥生人の中間あたりの人と言うべきか。水稲稲作の点から見ると葛城国は倭国よりその導入を先んじて行い、報道では「奈良県御所市の中西遺跡を調査中の県立橿原考古学研究所は8日、弥生時代前期(2400年前)の水田跡約9000平方メートルを新たに見つけたと発表した。これまでの調査で発見された水田跡は計2万平方メートルを超え、弥生前期では最大。」(2011/11/8付日本経済新聞)とある。また、高尾張邑(葛城邑)には赤銅八十梟帥がいた、と言うのも赤銅とは青銅のことと思われ、青銅器も葛城国が先んじていたと言うことなのだろう。倭国と葛城国ではその差は厳然としてあったようである。しかし、天皇氏はその後倭国と同盟し、木津川水系や淀川水系の豪族と同盟や協商を結んで畿内一円に勢力を拡大したようである。大和朝廷の勢力が拡大する過程で葛城国は消滅してしまったのだろう。但し、地名は残った。

★まとめ

磯城八十梟帥や赤銅八十梟帥の末裔はその後どうなったのかと言うことだが、天皇氏直臣の珍彦(倭国造)や剣根(葛城国造)がその地位に取って代わり、支配者としての地位はなくなったのだろう。珍彦、剣根の子孫は「大和宿禰」とか「葛木」とか言う氏の名で『新撰姓氏録』に見える。葛城氏と葛木氏の関係だが、葛城襲津彦に関して『紀氏家牒』逸文では荒田彦(葛城国造)の女の葛比売が襲津彦の母という。しかし、『記紀』には記載がない。特に、『日本書紀』では襲津彦の系譜の記載はない。『新撰姓氏録』で、「左京皇別 葛城朝臣 – 葛城襲津彦命の後。」というのは眉唾物であろう。おそらく、公式には葛城氏はお家断絶となっている。葛城氏は武内宿禰の子孫というのは少しばかり苦しいが、応神天皇の頃に葛城国で勃興し、雄略天皇の御代に滅亡した一族なのであろう。
遺跡については、縄文晩期から弥生早期の奈良盆地の代表的な遺跡として、倭国の領域では橿原遺跡(橿原市畝傍町)、葛城国の領域では竹内遺跡(葛城市竹内。旧・當麻町竹内)、両国の中間的領域では東安堵遺跡(安堵町東安堵)がある。
橿原遺跡については、畝傍山東麓に広がり、縄文晩期中葉から後葉の土器が多量に出土し、特に、西日本では珍しい土偶が多量に出土した。ほかに特筆すべきものとしては、タイ、ボラ、スズキ、フグ、エイなどの魚類の骨、クジラの骨なども出土し、大阪湾岸地域との交易が想像されるという。遺物包含層中には大型の土器と獣骨類のほか木炭がしばしば混在して出土し、更に磨製石斧、敲石、打製石斧、砥石などが集中して出土する箇所がある。果実では多量のイチイガシの果実が出土している。出土する土器の交流範囲は北は関東や東北地方から南は九州地方中部まで広範な分布を有している。
竹内遺跡については、縄文前期から弥生、古墳にいたるまで、地点を変えながらも継続して営まれた拠点集落である。出土遺物は縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、石製品(紡錘車、双孔円盤、石庖丁)、木器(建築部材)、動物遺存体(ウマ(歯))など。縄文晩期には土壙墓群や配石遺構が検出され、祭祀センターとなったか。
東安堵遺跡については、縄文中期末から晩期の低地部に立地する遺跡。土器や多量の植物遺体が出土。どんぐり(クリ、コナラ、アカガシ)、他の堅果(トチノキ、オニグルミ)。晩期の土器は終末の凸帯文土器である。
橿原遺跡は出土する石器や土器、その他の遺物も種類が多く、土器の交流範囲も当時としては全国的なものである。検出された魚類の骨は大阪湾岸地域との交易のたまものとも思われるが、あるいは、道臣命(大伴氏)が神武天皇(天皇氏)にプレゼントしたことの痕跡か。政治的には磯城国の方が優位にあったのではないか。竹内遺跡は長期間にわたって葛城国の拠点集落であったようだが、こちらも豊富な出土物があるが、御所市の葛城臣氏の台頭とともに衰退に向かい、葛木国造は祭祀のみを行うようになったようである。
宮都については、確実な遺跡は藤原京からで、それまでの『日本書紀』に書かれた宮都の推定地は、桜井市13、高市群明日香村9、橿原市7、御所市3、天理市2、大和高田市、磯城郡田原本町、奈良市、北葛城郡広陵町が各々1となっている。
以上よりまとめてみると、奈良盆地は旧石器時代よりそれなりに栄えており東部の倭国、西部の葛城国、南部の磯城国(敷島の大和国から勝手に推測)が鼎立していたのではないか。推定宮都で俄然多いのが南部でほかの地域はまばらだ。特に、北部は有力な豪族が輩出しなかったらしくほとんど宮都が設置されていない。ここでも奈良盆地南部の磯城国が大和国の本宗の地位にあったと思われる。
大和国の倭国造や葛城国造のその後であるが、天皇氏に主導権を握られると「祭政」の「政」の方は天皇氏に取り上げられ、「祭」の主催者だったと思われる。
『新撰姓氏録』によると、
倭国造氏は、
大和国 神別 地祇 大和宿祢 宿祢 出自神知津彦命也 神日本磐余彦天皇。従日向地向大倭洲。到速吸門時。有漁人乗艇而至。天皇問曰。汝誰也。対曰。臣是国神。名宇豆彦。聞天神子来。故以奉迎。即牽納皇船。以為海導。仍号神知津彦。[一名椎根津彦。]能宣軍機之策。天皇嘉之。任大倭国造。是大倭直始祖也
珍彦:うずひこ、推根津彦:しいねつひこ、神知津彦命:かむしりつひこ、は同一人物で、倭(やまと)は、大倭、大和、大養徳とも書き、姓ははじめは「直」その後、連、忌寸、宿祢となったようである。大和(おおやまと)神社の神主は長尾市を始祖とするが姓は大和直で大和の国造を兼ねる。『続日本紀』和銅七年(714)条に大倭忌寸五百足を氏上として神祭を司らしめた、とある。この一族からは有力な氏人が出ている。
葛城国造氏は、
大和国 神別 天神 葛木忌寸 忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也
河内国 神別 天神 葛木直   直  高魂命五世孫剣根命之後也 (こちらが本宗家という説もある。)
葛木国造氏と葛城臣氏の関係だが、おそらく無関係の関係で両氏の出身地は葛木国造氏は現在の葛城市竹内あるいは葛城市葛木あたりで、葛城臣氏は御所市名柄あたりかと思われる。葛木国造氏は小国造で、姓は、一応、直、連、忌寸と順当に進んだようだが、大和朝廷からは一顧だにされなかったか。もし、河内国の葛木直が葛木氏の本宗家と言うことなら、蘇我馬子が葛木県(葛城襲津彦の支配していた現在の御所市界隈を言うのであろう。葛城氏直系の子孫はいない。)の押領に成功したなら葛木氏の領地をも押領しようと河内国へ追いやったものであろう。しかし、この計画は推古天皇に払いのけられたもののようである。押領魔の蘇我馬子に比べ葛木氏の子孫には有為な人がいたようで、葛城連戸主(へぬし、と読むか。後に宿祢)は、妻和気広虫( 和気清麻呂の姉)の献言によって恩勅が降り、京中の孤児に葛木連の姓を与え、戸主(へぬし)の戸に編入したと言い、また、恵美押勝の乱で飢疾した棄子八十三児を収養し、彼らに葛木首の姓を賜ったという。
天下国家も大事だが、葛木連戸主・和気広虫夫妻のように本人の意志とは関係なく奈落の底に突き落とされた孤児たちをすくい上げた行為は称賛に値すると思う。

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天皇・大伴組はどうして葛城・吉備組に勝ったのか

★はじめに

日本の人皇から始まる有史時代は現在の奈良県から始まったようで、『記紀』には初代神武天皇は九州南部(日向)からやって来た(いわゆる、神武東征)とあるが、現在の歴史学・考古学では史実であるとは考えられていない、と言う。当然と言えば当然で、日向がどれほど先進的地域であったかは解らないが、船に乗って東征したとはいうものの、九州南部で古代遺物として船や櫂はあまり見かけないようだし、隼人は漁師だったと言っても何を釣っていたのか。あるいは、遠く北海道などまでにゴホウラ貝とか、オオツタノハとか、イモガイ等が発掘されるがこれらの貝が当時は沖縄県が主産地だったので当然海運があったとか、西都原遺跡からは船の埴輪が出土していると言うことで、それを復元した「ひむか-神武東征の船-」(絵画、服部  武司)とか、古代の船を再現した全長12mの模造船「おきよ丸」とか言う重さは約1.3トンの船が宮崎神宮に展示してある。しかし、こんな大型の船が当時日本にあったとは考えづらい。兵庫県豊岡市出石町出土の船団の線刻画(袴狭遺跡群)は準構造船の船団を描いているもののようであるが、「おきよ丸」ばりの大型の船は一隻のようである。言うなれば、「神武東征」とは何かを下敷きにした創作譚なのかと思われる。それも諸説あっていろいろ言われているが、「神武東征」の研究をするのがこの論考の意図するところではないので割愛する。
そもそも天皇氏をはじめとする我が国草創期の主要な氏族は現今の奈良県を中心に畿内及びその周辺の出身者がほとんどで当時の国土(倭国)の果てとも言うべき九州南部までにはとても及ばなかったと思われる。『記紀』の原典ができた頃に大和朝廷の勢力が九州南部にまで及び隼人族懐柔の一環として「大和・隼人同祖論」が出てきたのではないか。隼人とは『日本書紀』景行天皇条に出てくる、厚鹿文(あつかや)、市乾鹿文(いちふかや)、市鹿文(いちかや)の鹿文(かや)と隼(はや)は同じ語で地名の現・鹿児島県鹿屋市の「鹿屋」に基づくものである。当時は「K」と「H」は交替しやすかったのであろう。従って、熊襲も隼人も同じ種族と思われるが、熊襲に関しては「球磨」+「阿蘇」とか「球磨囎唹」(『筑前国風土記』)を語源とすると言う説がある。どうしてこんな混乱が生じたのかと言えば、大和朝廷軍が熊襲隼人軍を攻撃する際、現在の熊本県側からと宮崎県側の二手に分かれたため、同じ人物を攻撃しているのに別々の人物を攻撃したように報告したり、鹿児島弁にも多少の違いがありその聞き取りの差とか、生活習慣の違いとかが出てカヤとかハヤになったのではないか。よってこれをまとめるなら、地域名は「熊襲」(語源は「球磨囎唹」か。九州南部のこと。)、種族名は隼人(ハヤト)ないし鹿文(人)(カヤないしカヤト)と言うべきか。もっとも、熊襲には頭領が二人おり渠師者(イサオ)と呼んだと言うが、これも実態は一人の人物か、あるいは、まとまりの悪い隼人を大隅隼人、薩摩(阿多)隼人に別てそれぞれの長を言ったものか。
いずれにせよ天皇氏が隼人の長だったとか、熊襲に在住していたとかは考えづらく、歴史学や考古学の通説が言うように史実ではないと思われる。

★畿内における合従連衡

国家が特定の王家などに統一されるまでにはあまたの肉弾戦や外交政策が必要だ。「合従連衡」の語彙にしても元々は中国の外交術で、戦国時代に西方の秦が強大になり東方の国々を併呑しようとしたので、燕、趙、韓、魏、斉、楚の六カ国は大同団結して同盟し秦に対抗しようとした(合従策。蘇秦の説)。この合従策に対して、秦は各国の利害対立を奇貨として、同盟を瓦解させ、秦と個々に同盟して、自国への秦の攻撃を避けようとした(連衡策。張儀の説)。大和朝廷の草創期も同じようなことが行われたのではないか。日本ではこの合従連衡政策より「遠交近攻」政策の方が重要ではなかったかと思われる。
大和盆地では天皇氏をはじめ有力氏族が争っていたようであるが、だんだんと集約され神武天皇の頃には天皇氏と葛城氏が有力となり大和盆地の覇権を巡って争っていたかと思われる。一般には、神武天皇即位から欠史八代の第九代開化天皇までの期間を葛城王朝と言い、第十代崇神天皇から第十四代仲哀天皇までを三輪王朝と言い、その後を河内王朝と言うようだが、葛城王朝というのがあったとしたら葛城王朝とは葛城氏が王であった頃の王朝を言い、その後は神武天皇に始まる現・天皇氏となるのではないか。勝手な推測で申し訳ないが、ここでは葛城氏による葛城王朝と現・天皇氏による大和王朝と言うべきものとに分けることにする。
まず、葛城氏が支配したのは現在の金剛山地の裾野であり、天皇氏が支配したのは笠置山地の裾野ではなかったか。奈良県立橿原考古学研究所は「2011年11月8日、同県御所市條の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)としては国内最大の水田跡(約2万平方メートル)を発見した」と発表した、と言うのも、葛城王朝の所産ではないかと思われる。これほど大きな水田を作るというのも葛城氏が天皇氏より先行しており、少なくとも大和盆地を平定していたのではないか。とは言え、このような水田耕地をすぐさま右から左へ整備することは難しい。「何事にも先達はあらまほしきことなり」で、その先達は誰かと言えば、吉備国ではなかったか。
天皇氏と葛城氏は現代的に言うと隣家(国)同士で大和盆地の覇権を巡り小競り合いなどを繰り返していた。合従連衡の時代は終わり仲間を募るには遠交近攻策が必要だったと思われる。具体的には、遠交の対象としては、天皇氏は山城国の賀茂(八咫烏)氏、摂津国・河内国の大伴氏、内氏、葛城氏は紀国の紀臣氏、摂津国・河内国の大伴氏ではなかったかと思われる。しかし、これら大和国周辺の諸豪族は葛城氏には与しなかったようで葛城氏はそのまた外郭にある吉備氏と同盟を結んだのではないか。吉備氏はここで大いに喜んだのか当時にあっては最先端の技術である水田耕作の方法を伝授したのではないか。しかし、最先端の技術だからと言って葛城氏に役に立ったかは不明。例えば、天皇氏は葛城氏に後れを取るまいと大伴氏をせっつき四国北岸から淡路島を経由し河内国丹比郡依網郷・摂津国住吉郡大羅郷(現在の大阪市住吉区・大阪府松原市の一部か)で水田稲作を行った(崇神六十二年条に「六十二年秋七月乙卯朔丙辰 詔曰 農天下之大本也 民所恃以生也 今河内狹山埴田水少 是以 其國百姓怠於農事 其多開池溝 以寛民業 ○冬十月 造依網池 ○十一月 作苅坂池 反折池 」とある。天皇氏の草創期の水田は摂津国や河内国にあったのか。)が、崇神天皇のご先祖さまの神武天皇は衆人環視のもと米を試食してみたもののあまりおいしくなかったので関心を示さなかったのではないか。

★葛城氏の遠交近攻

葛城氏の遠交近攻政策はどのようなものだったのか。一応、遠交近攻策とは一般論では魏の范雎(はんしょ)が、隣国を越えて遠方の国を攻める秦の対外政策には効果がなく、逆に遠方の国とよしみを結び、隣国を攻めるべきことを説いた政策で秦はこの遠交近攻策で成果を上げ中国を統一したという。葛城氏が天皇氏を攻略しようと遠交の相手国として選んだのが吉備国だったが、吉備国は大和国より遙かに遠く、両国の間には去就のはっきりしない大伴氏がいた。葛城氏が天皇氏と戦って勝てる保証は何もなかった。そうこうするうちに天皇氏は周りの大伴氏、内氏や賀茂氏、紀氏とよしみを結び葛城氏に攻撃をし始めたのではないか。吉備氏は押し気味に大伴氏との戦いを進めたが、かと言って、勝利するわけではなく、結局、葛城氏にとってはほとんど役に立たなかったと思われる。葛城氏は王朝を開くことなく天皇氏の下風に立つことになったのではないか。従って、葛城王朝というのはなかった可能性が強いのではないか。
大和国には出雲国とともに吉備国の遺物が多いようだが、出雲国の痕跡は天皇氏の関連の遺跡としても、吉備国の痕跡は葛城氏の影響があったのではないか。もちろん、吉備氏は、後世、天皇氏(大和朝廷)の傘下に入ったと思われるが、それ以前の大和国における吉備遺跡も多いものと思われる。

★まとめ

崇神天皇以前の天皇家の系図は欠史八代に、綏靖天皇には食人の趣味がある、安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看/玉手見)」という名の古い神であった、懿徳天皇の原像は「すきつみ(耜友/鉏友)」という名の鋤の神であった、孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神であった、孝安天皇の原像は「くにおしひと(国押人)」という名の古い国造りの神であった、孝霊天皇の原像は「ふとに(太瓊/賦斗邇)」という名の古い神であった、孝元天皇の原像は「くにくる(国牽/国玖琉)」という名の国引きの神であった、開化天皇の原像は「おおひひ(大日日/大毘毘)」という名の古い神であった等、と説く見解があって、ケチのつけられっぱなしである。現代流に言えばイカサマ系図と言うことになるのであろうか。要するに、実名が解らなかったばかりに名前をつけるに際してのネーミングが良くなかったと言うことかと思われる。しかし、第九代開化天皇の皇后は伊香色謎命と言い、妃に丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘、同じく妃に鷲比売(わしひめ) – 葛城垂見宿禰の娘あるいは吉備津彦命の娘の包媛(色媛?)とあり、 第八代孝元天皇の皇后は欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命) – 穂積臣遠祖の欝色雄命(内色許男命)の妹であり、第七代孝霊天皇以前の皇后が縣主系の娘であったのに対し、ステータスの上がるごとに有力者とよしみを通じ、その子女を皇后や妃にしていることがうかがわれる。これで見ると、葛城氏と吉備氏が中央政界にデビューしたのは第八代孝元天皇か第九代開化天皇の頃かと思われるが、両氏が神武天皇以来同盟関係を継続していたようだ。それに対し、大伴氏は神武天皇以来その先祖が天皇氏と同盟関係を保っていたことは間違いないがその間の天皇の皇后や妃に大伴氏の子女はまったく出てこない。神武草創期に活躍した大伴氏、久米氏には宅地を、賀茂氏には恩賞(山城国葛野郡の縣主か。)を与えたようだが、いずれも後世にいたっても天皇氏の姻族とはなっていない。久米氏、賀茂氏はその後中小豪族の域を出なかったようで大伴氏も大連になったとは言え同じような扱いだったか。しかし、大伴氏は大阪湾岸のコングロマリットのオーナーとしてその後景行期や仁徳朝、継体朝などに多大な貢献をしており、やはり大阪商人気質の大伴氏と権力主義的な天皇氏とは馬が合わず、大伴氏が天皇氏を敬遠したか。
天皇氏と大伴氏のそもそもの接点は海部系の大伴氏は山の資源を、山部系の天皇氏は海へ出るルートを探していたが、神武天皇と大久米命は道に迷い途方に暮れていたところたまたま日臣(道臣)一行に出会い道臣命が天皇一行を家まで送りとどけた、と言うことではないのか。当然のことながら、天皇の大久米命に対する信頼は低下し、臣下ではなかったものの序列一位は道臣命、二位は大久米命になったのではないか。道臣の名前の由来もここいらにあるのでは。大伴氏と葛城氏は多少の面識はあったかもしれないが、天皇家も皇后としては仁徳天皇皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと、石之日売命。葛城襲津彦の娘)が主なるものでその後仁徳天皇の後継天皇は葛城氏の子女を母や皇后にする人が多かったが、仁徳系天皇が途絶えると葛城氏も衰退した。仁徳天皇が磐之媛命を皇后としたのは対高句麗政策のためで、皇后の父葛城襲津彦が朝鮮外交巧者であったので一旦緩急あれば半島出兵をお願いしようと思ったのであろう。
このように見ると、大伴氏も葛城氏も天皇氏草創期よりその名が知られるが(但し、『記紀』では葛城氏は武内宿禰の子葛城襲津彦を祖とする皇別氏族と言うが疑問。葛城氏は神武天皇と同じ頃に葛城地方にいた豪族と思われる。)、やはり双方とも活躍したのは仁徳朝の頃で、葛城氏が天皇との血縁関係で優位に立っていたが、允恭天皇になると「葛城は酒を飲むことしか能のないやつ」とばかりに、大伴氏を再登用したのではないか。
神武天皇は大伴氏や賀茂氏、大和国の縣主などを自陣営に引き入れグループを結成することに成功したのに対し、葛城氏は吉備氏としか手を結ぶことができなかったのであろう。地域的に見ると神武・大伴組が四国北岸から淡路島、大阪湾岸、具体的に言うと後世の山城国、摂津国、河内国(和泉国を含む)等を支配地にしたのに対し、葛城・吉備組は大和国の一部と吉備国だけだったのではないか。葛城氏が吉備国に行くとしても大伴氏の領有地を通らなければならず大変不便だったと思う。吉備氏は強行突破し吉備国から淀川河口までの回廊を造ろうとしたが失敗したようだ。葛城・吉備組は初めっから勝ち目はなかったようだ。

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縄文祭祀

★はじめに

日本には縄文時代にも祭祀はあったようで、祭祀遺跡もあるにはあるが一般には日本で言う祭祀遺跡は「古墳時代を中心とする時期に、山岳・島・沼沢などの自然を対象に神霊をまつったことが、付近の出土品によって認められる遺跡。」と言うことで「縄文時代以前はその後の文化との継続性に問題が多いため除外する。」とするのが通説である。通説は縄文時代一万年以上はおろか、弥生時代700年(諸説あるが主なるものは600年、700年、800年説のようである)をもないがしろにするごときである。日本には縄文時代や弥生時代の研究者もおりあまり問題にするようなことではないと思うが、縄文文化がその後の文化との継続性に問題が多い、と言うのも、かって、先土器時代・縄文時代の文化を築いた先住民を、大陸から渡来した今の日本人の祖先が駆逐したとする説があったが、現在は分子人類学の進展により完全駆逐説(民族総入れ替え説)は否定されているとあるので、縄文文化の影響は徐々に薄まったとは言え現在に及んでいるのであろう。縄文文化と後続の文化との関係を調べるのが面倒だと言うのなら問題外の発想とは思う。
通説は、また、弥生時代も何か得体の知れない時代とみているようだ。弥生文化と言っても、食料生産に基づく生活を基盤とし、稲作・米食、青銅器・鉄器の製作・使用、紡織などが始まり、専門技術者や政治的指導者が生まれたと言うもののようである。政治的指導者が生じたと言うことは、支配・被支配の関係が生じ、地域社会にクニが発生したと言うことである。とは言え、日本の弥生時代(鉄器時代)は何か変則的らしい。
鉄器時代に入ったと言っても、「大陸新来の要素のなかに伐採斧(太形蛤刃石斧<ふとがたはまぐりばせきふ>)や加工斧(柱状片刃<ちゅうじょうかたば>石斧、扁平(<へんぺい>片刃石斧)、穂摘<ほつ>み貝(石庖丁<いしぼうちょう>)など新式の磨製石斧が含まれている」と言い、「弥生時代の前半は、石器をなお多用する不完全な鉄器時代と考えてよい。後半ないし終わりころには、石器が消滅している事実によって完全な鉄器時代に入っていると理解できる。」と説くが、この場合の弥生日本とは中部・近畿・中国・四国・九州 の西日本であって、残り半分の東日本はどうなっていたかと言うことだ。それに、日本には鉄鉱山はなく、あったとしても一大産業を形成するには難しく、砂鉄にしても後世の『出雲国風土記』(733年頃)には、飯石郡の条に「波多小川。源は郡家の西南二十四里なる志許斐山より出で、北に流れて須佐川に入る。鐵あり。」、「飯石川。源は郡家の正東十二里なる佐久禮山より出で、北に流れて三刀屋川に入る。鐵あり。」とあり、仁多郡の条には、横田郷、三処郷、布施郷、および三澤郷の四つの郷を指して、「以上の諸々の郷より出す所の鐵、堅くして、尤も雑具を造るに堪ふ」とある。奈良時代には民生品を造っていたらしい。神原神社古墳(島根県雲南市加茂町、3世紀後半の築造か)の副葬品には、大刀(たち)、剣、鉄鏃(てつぞく)、鍬(くわ)、鎌(かま)、斧(おの)、なた状鉄器(やりがんな説あり)、鑿(のみ)、錐(きり)、縫い針等の鉄器があり、(砂)鉄の当初の目的は軍需品の生産にあったか。「舟木遺跡」(兵庫県淡路市舟木、弥生時代後期~末期<1世紀~3世紀初頭>)や「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(同市黒谷、弥生時代後期<1世紀半ばから3世紀初め>)、「稲部(いなべ)遺跡」(滋賀県彦根市稲部町、《鉄器生産の最盛期》弥生時代終末から古墳時代初め<3世紀中葉>)などの近畿地方鉄器工房遺跡群は現在で言う軍需工場の色彩が強い。争いがなくなり鉄も武器から民生品(『出雲国風土記』では雑具と言っている)に用途を転換されたようだが、国民の多くがその恩恵に与ったものかどうか。なお、日本の製鉄の歴史では出雲国のほか吉備国が著名ではある。製鉄原料として鉄鉱石と砂鉄を使用していたと言うが、具体的に何を造っていたかは不明である。一般的には武器や農具などが挙げられているが、確証はほとんどない。
日本の弥生農業も問題で、世界の各地(中国、朝鮮半島北部、インド、西アジア、ヨーロッパなど)では、本格的な農耕開始にあたって、穀物の栽培と、食用(肉用あるいは乳用)家畜の飼育とが相並んで行われた。しかし、日本では、稲作を主とする農耕が、食用家畜を抜きにして始まり、食用家畜をもつ社会に共通する風習は日本に根づかなかった。例として、1.渡来人たちは、家畜をいけにえにして「漢神」を祀(まつ)っている。2.食用家畜を飼う社会で広く行われる血(家畜か人間の)を用いての誓いも到来しなかった。3.頻繁には肉を食べない習慣が根づいた。4.内臓や血を口にしない、という世界的には珍しい食習慣も形成された。
1.の生け贄は家畜ばかりでなく人間も生け贄にしていたようで、東北大学大学院特任教授の安田喜憲博士は『古代日本のルーツと長江文明の謎』(青春出版社、2003年)で、中国の遺跡で人間の遺骨が無造作に捨てられているのを見て驚いている様子だった。
2.血(家畜か人間の)を用いての誓い、と言うのも、他人の血を吸うというのであろうが、危険な病気にかかる可能性がある。
3.頻繁には肉を食べない習慣、とは、余計な成人病にはかからないと言うことで長寿にもつながる。
4.内臓や血を口にしない、という食習慣は栄養学的にはマイナス(イヌイットは生肉を食べることでビタミン補給をしてきた)かも知れないが日本人はその分新鮮な魚を生で食べているし、モツ料理も食べている。
以上、いずれも日本人の生理には合わない習慣ではなかったか。

★縄文時代の祭祀

縄文時代の祭祀と言っても竪穴式住居から発見される、土偶、石棒、手形・足形付土版などは一般家庭の今で言う仏壇や神棚で祭祀を行う神具であろう。ここでは私的祭祀は割愛して大衆に受け入れられた縄文時代の祭祀遺跡を筆者の独断と偏見で代表的なものを取り上げてみる。

1.大山(神奈川県伊勢原市大山。大山をご神体としたと思われる大山阿夫利神社が現存する)

*大山は古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂からは祭祀に使われたとされる縄文土器が発掘されている。発掘物としては、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や、古墳時代の土師器片・須恵器片、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されているが、縄文土器等については、後世になってから修験者が持ち込んだ可能性を指摘する説もある。
*大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞い信仰の中心地としても知られていた。
*大山は航行する船の目印となった。
*大山は『万葉集』東歌で、「相模峰の雄峰」と称されているようである。
以上が大山に関する古い記事である。
また、大山阿夫利神社については、
*『延喜式神名帳』に相模国大住郡四座並小と記載された相模国の延喜式内社の一社。「阿夫利神社」と記載されている。
*祭神は、現在は本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。江戸時代以前は本社に石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)、摂社奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。
*創建は、社伝によると崇神天皇の御代。
*天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。
*阿夫利(あふり)の意味は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、「あめふり(雨降り)」の義という。ほかに、アイヌ語説として「アヌプリ」(偉大なる山の意味)から「あふり」「あぶり」とされたとする説、原始宗教における神の所為である「あらぶる」が転じたとする説など。

以上、古いところを抜粋してみたが、大山のところで「縄文土器等については、後世になってから修験者が持ち込んだ可能性を指摘する説」もあるようだが、修験者が考古学に詳しくて縄文土器、土師器、須恵器などの区別ができて持ち込んでいるのならともかく、おそらく各々の土器は別々のところにあっただろうし、地中から掘り出さなければならないだろうし、あれやこれや考えると左様な説は考えすぎなのではないか。ストレートに縄文土器なら縄文人が、土師器・須恵器なら古墳時代人が祭祀のために持ち込んだのではないか。従って、大山信仰は山岳信仰、航海神、磐座信仰、雨乞い信仰など諸説あるが、三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた(大山信仰)とするのが現今の通説のようである。山岳信仰の対象の山は世界的には信仰は山自体に捧げられ、その山に登るのは禁忌とされる場合が多い。しかし、日本では山頂に達することが重要視され、民衆の間でも信仰の顕れとして登山を行う習慣がある。山自体の信仰はもとより早朝に山頂より拝まれるご来光に<あの世>の極楽を念願しているらしい。以上より、日本人は縄文時代より神体山(神奈備、霊峰)に登る風習があったのではないか。

2.諏訪湖 (長野県岡谷市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町。諏訪大社が現存。)

*中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線の断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層陥没湖)。
*『古事記』に州羽海とある。
*諏訪湖を取り囲むように諏訪湖南西側を諏訪湖南岸断層群、諏訪湖北東側には諏訪断層群がある。南西岸および北東岸に断層が通るため山地が迫り,北岸および南岸に平たん地が広がる。
*遺跡としては、旧石器時代(諏訪市上ノ平遺跡、諏訪市茶臼山遺跡等)、縄文時代(諏訪市細久保遺跡、岡谷市樋沢遺跡、原村阿久遺跡等の山間地遺跡)。
*地域の開拓を巡って渡来・海部系の建御名方神(出雲系)と土着・山部系の洩矢神(もりやしん)の対立があったらしい。
*全面氷結(近年は発生頻度が減少している。)、御神渡り(おみわたり)、七ツ釜(湖底源泉の湖上は氷結せず、湖上に7ヵ所の穴が開いて見えた。)、漁業も諸般の事情により振るわなくなった。
*現在は天竜川の水源地(湖)となっている。
以上が諏訪湖に関する特筆すべき事かと思われる。
諏訪大社に関しては、
*『延喜式神名帳』に信濃国諏訪郡二座並大「南方刀美神社二座<ミナカタトミ>(名神大)」とある。
*祭神は、建御名方神 (たけみなかたのかみ)、八坂刀売神 (やさかとめのかみ・建御名方神の妃。)。異説として、ミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神など。
私見では、御名方は諏訪湖を指し、八坂刀売は周辺の八坂(傾斜地)や刀売(崩壊地形)を表し、建御名方、八坂刀売はともに諏訪盆地の開拓者だったのではないか。なお、南方刀美とか建御名方富命神とあるのは夫婦神を一体化して読んだものか(現代なら河野太郎花子夫妻というような表現)あるいは元々一神だったものを二神に分けたものか。いずれにせよ一方が北岸(諏訪大社下社)の開拓者であり他方が南岸(諏訪大社上社)の開拓者で婚姻等により一本にまとまったと言うことかと思われる。なお、ミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などは旧石器時代から縄文時代のプリミティブな神様で諏訪の人には一万年以上にわたって信仰されてきたので諏訪大社の祭礼や神事には建御名方神(弥生神か)は出てこないそうだ。土着神の最高神とも言うべきミシャグチ神だが、漢字で「御赤蛇」とか「御蛇口」と書いて金精信仰の神と主張する向きもあるが、やはり漢字では「御石神」と書いて石の神様を意味するのではないか。当該地は少し遠くになるが霧ヶ峰や八ヶ岳の黒曜石産地があり、石神とのつながりは深いのではないか。また、守屋山は諏訪大社の神体山である、と言うが、語源がソハ(嶮岨な地形)ならそれでもいいが、ス(砂)ハ(端)で、砂地の湖岸と言うほどの意味ならいかがなものか。守屋もモリ(盛)、ヤマ(山)の下略で単なる山を言ったものか、守谷でモリ(盛)、イハ(岩)の転で高い岩山を言ったものか、モレヤ神ともあるのでモレ(漏)、ヤ(谷)で湿地を言ったものか、はなはだ判断が難しいが、神名を建御名方神としながらご神体山を定め「大社には本殿がない」というのもいささかちぐはぐな話だ。以上を総括すれば、諏訪大社の祭神は諏訪湖そのものであり、水神を祀ったものではないのか。
*創建年代は不明。
*御柱祭(社殿の四隅に御柱<おんばしら>と呼ぶ木柱を立てる。)、御頭祭(本宮より前宮へ神輿渡御のあと,古くは鹿の頭75個を供えて流鏑馬<やぶさめ>を行った。)等独自の神事がある。

以上より諏訪大社は縄文信仰が根強く残り、大和朝廷が弥生信仰への改宗を推し進めようとしたが失敗したようだ。弥生化を拒否した地域は現在でも頭脳明晰な人が多いように思われる。但し、長野県が教育県というのは過去のことで今は批判が多いらしい。

3.三輪山 (奈良県桜井市。大神神社が現存する。)

*鳥居が二本の柱とその柱をつなぐ注連縄でできているのは東日本の縄文時代の立柱遺跡と同趣旨か。
*三輪山の祭祀遺跡は、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)と言うが、これは後世宗像祭祀遺跡のそれぞれからとられたと言う。山の神社なのに「津」というのはおかしいと言うことか。
*奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡があり、と言い、縄文時代の関東・東北で多く見受けられる配石遺構(環状列石)と同趣旨か。
*山は松、杉、檜などの大樹に覆われている。
*山麓に初期の大型前方後円墳が多いので、人間が三輪山に関わるようになったのは古墳時代以降か。
三輪山はさほど縄文時代の痕跡をとどめていないようである。
大神神社(奈良県桜井市三輪)に関しては、
*『延喜式神名帳』には、「大和国城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」とある。
* 大神神社は古墳時代以前、纒向一帯に勢力を持った先住族が崇敬し、諸説あるが、代々その族長により磐座祭祀が営まれた、と言う。
*三諸山そのものを御神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。
*主祭神は大物主大神で、大物主神は蛇神であると考えられている。
*大物主神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば大国主の国作りに協力すると言った。その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。
環状列石が出てきたり、蛇神が出てきたりと東日本の縄文文化に似たところがあり、縄文文化は全国的に拡散していたものと想像される。

4.大阪湾(大阪府、兵庫県。大阪湾岸にはたくさんの有力神社があるが、ここでは住吉大社を取り上げたい。)

*大阪湾の定義は、田倉崎(和歌山市)と生石鼻(淡路島)を結ぶ線(紀淡海峡)、松帆崎(淡路島)と朝霧川河口左岸(明石市)を結ぶ線(明石海峡)及び陸地によって囲まれた海域、と言う。陥没湾。
*古称の「茅渟の海」は、五瀬命(神武天皇の兄)が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来と言う。
*黒鯛がよく獲れたことから、チヌ(茅渟)は黒鯛の別名のひとつになっている。
*瀬戸内海航路の起点として、淀川の河口には難波津や住吉津などが置かれ、シルクロードの日本の玄関口であった。
*難波(なにわ)の語源は魚介類が豊富な「魚の庭(なのにわ)」説がある。
*森の宮遺跡(大阪市中央区森ノ宮中央一丁目)では一時期遠く関東・東北地方や九州西北部と交流したことが判明したと言い、また、日本各地から移動する縄文人の集散の地にもなっていたと推定される、と言う。
*篠原遺跡(神戸市灘区篠原本町)では縄文時代晩期の遮光器土偶(部分)や東北系縄文土器片、石棒が出土。
大阪湾沿岸には縄文時代にはさほど人間が住んでいなかったと言われるが、遺跡・遺物もそれなりにあり東日本との交流が偲ばれる。
住吉大社(大阪市住吉区住吉町)については、
*『延喜式神名帳』では、「摂津国住吉郡 住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」とある。
*浦島太郎の物語は全国的に広がっているが、摂津国では『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)がある。一応、『丹後国風土記』(逸文)にある「筒川嶼子」、「水江浦嶼子」]は、浦島太郎の物語の原型と解されている、と言う。しかし、日本の昔物語に鶴だの、亀だの、鰐だのと動物が出てくるおとぎ話は元々は中国人が話していたものを日本人向けに語り直し(書き直し)たものと言う説がある。その点、摂津の浦島太郎は亀姫などとは言わず「海若 神之女」(海神の女)と言っており、『丹後国風土記』(逸文)とは別の、あるいはもっと古層の物語ではないかと言われている。高橋虫麻呂は物部氏系の藤原宇合の副官と言うが夫人が大伴氏でその別荘で浦島伝説の話を聞いたものか。『万葉集』に載っていると言うのも何やら大伴家持との関連を想起させる。従って、丹後の浦島太郎の話は弥生時代のものならば、摂津の浦島太郎の話は縄文時代のものなのだろう。
*住吉三神(大神)が底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと)と言うのも日本では珍しい神である。そもそも日本ではワタツミ神は意外と多く、まず、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。神産みの段で伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)二神の間に生まれた。次いで、山幸彦と海幸彦の段では、火照命又は火須勢理命(海幸彦)の釣針をなくして困っていた火遠理命(山幸彦)が、塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)の元を訪れ、綿津見大神の娘である豊玉姫と結婚と言うもの。最後に、綿津見三神(底津綿津見神・中津綿津見神・表(うわ)津綿津見神)及び住吉三神(底筒男命 、中筒男命 、表 (うわ) 筒男命)である。漁師用語で「つつ」とは<アナゴやウナギを捕獲する筒状の罠。アナゴ籠。>を言ったもののようで、大阪湾では今でもウナギやアナゴがとれ、地名でも鰻谷とか靱(うつぼ)とか言うそれらしき地名もある。あるいは、住吉三神の「筒男」は「地引き網」「船引き網(中層引き網)」「底引き網」などの漁法を言ったかとも思うが今ひとつはっきりしない。海を三階層に分けているので潜水漁法を主とした海人族の神か。一説に、「住吉三神の神々の名にある「ツツ」の二番目の「ツ」は、神威、神霊を意味する「チ」が転じたものといわれています。あるいは、津(港)、さらに航海の指標となるツツ(星)と関連があるとの説もあります。」と。また、神主を津守氏とするのもはなはだ疑問で、津守氏には別に大海神社と言う神社があり、神功皇后が田裳見宿禰を神主としたのも何やら唐突で田裳見宿禰の前に住吉三神を祀る神主がいたと思われ、それは摂津の有力者大伴氏だったのではないか。大伴氏が中央政界にコミットすればするほど摂津との縁が薄くなり、津守氏が神主職を代行したか。但し、垂直志向は北方圏に多く水平志向は南方圏に多いそうだ。

★まとめ

「縄文文化がその後の文化との継続性に問題が多い」と言うのも、日本の神社には上記の四社をはじめ縄文時代から続いている神社が多いと思われる。環状列石にしても東北や北海道ばかりでなく大神神社の磐座にもその痕跡があるという。また、蛇神信仰も関東の中央線沿線界隈や奈良県の大神神社が著名でここいらでも縄文文化の東西交流があったのではないか。縄文前期には日本列島内に九つの文化圏があったようだが、時代が下ると「ナラ林文化」(「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」)、「照葉樹林文化」(「北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」)、石狩低地以東の北海道、トカラ列島以南と四つに収束された。これを持ってしても、日本は全国均一的な国家であり現代日本が縄文時代と継続性がないなどと言うことは考えられない。現代の神社においては縄文神は客神とか言われてあまりいい扱いを受けていないようだが、かと言って完全に否定されているわけではないようである。縄文時代の現代のおける痕跡(例、和弓、土器<土鍋など>、漆器、石器<石臼など>など)は途中で途切れてその後朝鮮半島や中国から入ってきたものではなく、日本古来のものが改良、工夫されて今日にいたっているのではないか。神社の祭祀にあっても、神木とか磐座等というのは弥生稲作には何の関係もなくひとえに縄文祭祀の痕跡である。従って、縄文時代と弥生時代は断絶はしていないと言うことで、縄文時代が弥生時代に進み、弥生時代が古墳時代に進み今日にいたっていると考える。

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柱について

★はじめに

「柱」には1.建築や土木構造物の部材として、 地面・礎石・土台の上に垂直に立て、屋根・梁(はり)・床・冠(かんむり)<坑道の天井部>など上部の荷重を支える部材と、2.荷重を支えず類似の形状を持つ縦に長いもの、の二通りのものがあるようだ。一般的に柱と言えば「1.」を指すが、ここで取り上げたいのは「2.」の方にしたい。「1.」は研究者も多くたくさんの書籍も出回っている。柱と言ってもいろいろな単語があり、鼻っ柱、茶柱、粥柱、貝柱、氷柱、柱絵、霜柱、火柱、太陽柱、柱松、水柱、蚊柱、帆柱、標柱、門柱、電柱など挙げたら切りがないが、ここではこの種の日常生活的な「柱」の語も割愛する。
それでは何を論ずるのかと言えば、我が国には縄文時代から意味不明の巨木文化があり、現在ではかすかに長野県の諏訪大社に代表される御柱祭(「式年造営御柱大祭」)にその痕跡をとどめるが、そのほかにも祭場に大きな柱や柱松(柱の上にたいまつを掲げたもの。柱、柱松とも20m以上のものが多い。)を立てて神事を行う神社は全国に散在しているようだ。日本では縄文時代から竪穴式住居や高床式建物があり荷重を支える柱はあったと考えられ、また、三内丸山遺跡の目的不明の六本柱建物や北陸地方を中心とした環状木柱列(真脇遺跡では柱は10本)なども縄文時代の遺跡から発掘され、荷重を支えない柱も縄文時代からあったと思われる。但し、当時は荷重のかかった柱とかからない柱は別の語で呼ばれていたかも知れないが、文献上そのような例がないので双方とも柱と呼び起源が違うとした。

★古代の柱

柱の語は「古事記」上巻には早々と、
1.是に天つ神の諸の命以ちて、伊邪那岐命・伊邪那美命、二た柱の神に、「是の多陀用幣流(ただよえる)國を修理(つくろ)い固め成せ」と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)いて言依(ことよ)さし賜いき。
2.其の嶋に天降(あまくだ)り坐(ま)して天の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てき。
と述べているが、
1.の「二た柱の神」というのは通説あるいは古典によると二神などとは言わず、二柱と言うそうな。語源は柱(ハシラ)は階(キザハシ)などと語源を同じくし、天と地とを結ぶ橋(ハシ)であり、神は柱を目指して降臨するからか。階(キザハシ)は現在で言う階段であり、はしご段あるいは縄ばしごの類いのものか。具体的には、高床式建物(神殿や倉庫が多い)の階段を上り下りする人とか建物の上層階に住んでいて階段あるいは柱で上り下りする人を死後に神と言ったか。特に、神殿を上り下りする人は集落の長とか神官であった可能性は高いと思う。
2.の「天の御柱」は、柱を立てて八尋殿を建てたと言うのであるから、後世の大黒柱のことではないか。『古事記』ではその後伊弉諾尊と伊弉冉尊が結婚することになっている。『日本書紀』では「便(すなわ)ち淤能碁呂島を以ちて國中(くになか)の柱(みはしら)【『柱』、此を美(み)簸(は)旨(し)邏(ら)と云う】と爲して陽神(おかみ)は左より旋(めぐ)り、陰神(めかみ)は右より旋(めぐ)る。」とあり、『古事記』の 「天の御柱」と『日本書紀』の「國中(くになか)の柱(みはしら)」とは前者が建物の柱を言うのに対して後者は国土の中心を言うもののようである。現代的に見ると前者は常識的であり、後者は何か『世界の中心で、愛をさけぶ』的発想で大げさな話と言うことになろうかと思う。
現在、御柱と称する柱のある神社としては、
1.伊勢神宮 伊勢神宮正殿の床下中央に立てる柱。「心御柱(しんのみはしら)」として神聖視されるが、これは梁(はり)にとどかぬ短い柱で、構造部材としての柱ではなく、神籬(ひもろぎ)を象徴するものかと思われる、と言う説もある。
2.出雲大社 出雲大社本殿は田の字の構造になっており、建物は九本の柱で支えられている。浜床(前面)から見て両側の「側柱」が三本ずつ、中の三本の柱の真ん中が「心御柱」(岩根御柱)で、他の二本の柱が「宇豆柱」という。有名な三本の柱が束になっているのは「心御柱」と「宇豆柱」である。出雲大社における「心御柱」も伊勢神宮の心御柱と同じく梁にも届かぬ柱で構造材ではないとする人もいるが、柱を三本束ねた意味がわからない。絵図で判断しているようなので「正」かどうかは不明。出雲大社は過去に何回か自然倒壊しているが、それは荷重のせいではなく宮大工の勘違いによる施工ミスと言うことか。
3.諏訪大社 諏訪大社の御柱祭は「山の中から、選ばれた16本のモミだけが御柱となり、 里に曳き出され、7年毎の寅と申 の年に諏訪大社の社殿の四隅に建てられます。 宝殿の造り替え、そして御柱を選び、山 から曳き、境内に建てる一連の行事を「御柱祭」と呼び、・・・」とある。伊勢神宮、出雲大社の「御柱」が社殿の中にあるのに対し、諏訪大社の御柱は社殿の外にあり趣を異にしている。諏訪大社は上社本宮(ほんみや)、上社前宮、下社春宮、下社秋宮と四宮があり、それと関係するか。あるいは、本来の祭神はミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々で、敗者の将は神殿の外に追いやられてしまったものか。
4.一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ) 群馬県富岡市一ノ宮にある上野国一宮。社殿は単層二階建てで、真御柱が荷重を支えている、と言う。構造的には出雲大社に似ており、側柱が四本ずつ、中の柱は三本で出雲大社の宇豆柱に相当するものは「立通し」と言い、「真御柱」と同じ寸法、材質らしい。こちらの「真御柱」は出雲大社と違い両端がしっかりと大地と棟引と称する棟木に付いている。
そのほかにも「心(真)御柱」と称する柱を有する神社等があるが、割愛する。

★まとめ

柱に荷重のかからない柱は伊勢神宮の「心御柱(しんのみはしら)」と諏訪大社の「御柱(おんばしら)」であるが、伊勢神宮の心御柱は一説によると神籬の痕跡と言い、神籬とは神道において神社や神棚以外の場所において祭祀を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの、と言う。「ひもろぎ」の語源は、「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、「き」は木の意とされ、神霊が天下る木、神の依り代となる木の意味となる、と言う。要するに、伊勢神宮といえども原初は社殿がなく「神籬」を用いて神事を行ったと言うことかと思われる。但し、神籬については「古書は、神をめぐる空間の構造を磐座、神籬(ひもろぎ)、磐境と区別している。《日本書紀》天孫降臨の条では、天孫の座を磐座と呼び、神体・依代(よりしろ)・神座の意に、神籬は柴垣・神垣の意に、磐境は結界・神境の意に用いている。」と異なった趣旨に解釈している見解もある。この見解では、神のいる世界は真ん中に磐座(神体・依代)があり、その周りを神籬(神垣・柴垣)が囲み、さらにその外には磐境(結界・神境)があるとするもののようだ。従って、屋外神事等を行う場合は会場の中心あたりを磐座として神体・依代を置き、その周りを神籬(垣根)で囲い、さらにその外周部を磐境(現今では糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄や幕のことか)を巡らし神事を行うと言うことではないか。
諏訪大社の社殿屋外の四隅に御柱が建てられるというのは諸説あるが、神殿の柱説、トーテムポール説、結界表示説、天地を支える柱説などがあるようで、おそらく一社殿につき四本というのは何らかの自己主張を表したのではないかと思われる。おそらく端的に言うならばこの四本の柱でできた四角形は自己の建物敷地の占有先占を主張したもので、形は丸でも何でも良かったのであろうが、日本では宅地は一般的に四角形がほとんどだ。定期的に立て替えられるのは柱が腐蝕等により機能しなくなるので再建したものであろう。縄文時代にあっても自己が建てた建物や耕した農地などには現今で言う占有や所有の意識があったのではないか。
北陸の巨木文化であるが、主なものに以下の例がある。
小矢部市の桜町遺跡(中期)では「環状木柱列が2基」とある。ほぼ同一の場所に重複して作られており、建替の結果か。10基の柱穴からなる。直径6.2mの円周上に、約2mの間隔で線対称に並ぶ。
金沢市のチカモリ遺跡(中期)では直径85cmの木材が半截され、半截面を外側にして直径6.5mの円形に10本並べるという構造。A環からD環まで発掘されている。
富山県井口村の井口遺跡(後期)では直径1mの柱穴が10個、直径約8mの円形に並ぶという遺構。
石川県能登町の真脇遺跡(後・晩期)ではA環からF環が発見されており、▽まん丸の円であること▽柱が10本あること▽柱を縦割りすること▽クリ木を使うこと、などが共通点という。
金沢市の米泉遺跡(後・晩期)直径約5.5mに、門柱部2本を含めて8本で構成されている。中央部にサケの骨を含んだ穴が検出され、祭りの場と見なされる、とある。
富山市の古沢A遺跡(晩期)では直径が約1mの柱穴が4個一対で方形に配置された遺構が2基みつかつています、と言う。
これと名古屋大学教授山本直人博士が言う、
「北陸で水稲農耕を受容するのに約400~約500年ついやした理由は、そうした指導者層(筆者注・縄文古老のこと)が水田稲作に基盤をおいた生活システムという新しいものを拒絶し、従来とは異なる価値体系の受容を拒否したためであると筆者は考えている。北陸という地域社会の指導者層が従来の価値観を守旧し、狩猟民、採集民、漁撈民としての自分たちの存在を再確認し、その儀礼を強化しようとして建造したのが環状木柱列であると考えている。新たな生産システムや価値体系に対抗し、地域共同体の紐帯を強めるために建造した装置が環状木柱列であると考えている。」とを考え合わせてみると、
1.「水田稲作に基盤をおいた生活システムという新しいものを拒絶」とあるが、これは米が狩猟(鳥獣の肉)、採集(どんぐり、果物)、漁撈(魚介類)より劣っていたと言うことで、味も劣っただろうし、収穫期もバラバラ、思いのほか手間暇がかかる、水がなければならないなどすぐに米食へ切り替えるとは行かなかったのではないか。この地域の人は心身共にはっきり、すっきりの生活を選んだと言うことだ。
2.「指導者層が従来の価値観を守旧し、狩猟民、採集民、漁撈民としての自分たちの存在を再確認し、その儀礼を強化しようとして建造したのが環状木柱列である」とあたかも環状木柱列が非科学的なものと言わんばかりだが、上述のように環状木柱列は縄文時代中期よりあり、稲作の脅威が縄文中期まで遡るかは疑問である。環状木柱列は円周上に柱が10本で線対称に並ぶと言うのが基本のようで、晩期には「柱穴が4個一対で方形に配置された」とあるのでだんだん改良されたのではないか。円周の内部には建物や土壙墓などはなく儀礼の会場とは考えづらい。
3.「新たな生産システムや価値体系に対抗し、地域共同体の紐帯を強めるために建造した装置が環状木柱列である」とある。縄文人が弥生人の生産システムや価値体系に対抗したのは当然としても、地域共同体の紐帯を強めるために環状木柱列を必要としたとは思われない。縄文人が弥生人の生産システムや価値体系に対抗と言うのは経済力の対抗でありそれはとりもなおさず生産性を上げると言うことである。当時にあって産業技術の向上とは豊かな資源と少ない人口のバランスの上に成り立っており、ただただ資源を採りまくるにつきるのではなかったか。そのための技術革新であったかと思うが、狩猟、採集、漁撈はともに自然相手の仕事であり、その収穫期を知ると言うことは重要なことだったと思われる。例えば、鮭漁の時期に村を挙げて狩猟に出かけ、帰ってきたらおいしいところはみんな上流の人たちに採られていたなどというトンチンカンなことをしていたらそんな村なんて遅かれ速かれ消滅してしまう。私見ではこの縄文環状木柱列は縄文人の狩猟期や採集期、漁撈期を事前に知ろうとした努力の表れではなかったか。環状木柱列の利用法についてははっきりしないが、当時は太陽の移動で一年間を10等分していたのか。富山市の古沢A遺跡(晩期)では直径が約1mの柱穴が4個一対で方形に配置された遺構、とあるので、縄文晩期には10等分が4等分でいいとなったのか。おそらく太陽の観測地点が環状木柱列のあったところが一番いいとなって同じところに建て替えられたのだと思う。環状木柱列は現代で言うカレンダーかと思うが、ストーンサークルと併用してあるいはストーンサークルは日時計的に利用されたのではないか。但し、日本ではストーンサークルは一族の墓であるというのが通説である。

 

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洪水について

★はじめに

『記紀』を見ていると、いわゆる「洪水神話」というものが非常に少ないようである。 世界的には洪水神話というものはいたるところにあり、起源と言おうか元祖と言おうかその種のものは二流あり、文字に残された最古のものは「古代シュメールの洪水神話」で、3000年前とか6000年前とか、日本から見ると気の遠くなるような諸説があるようだ。この神話のたどり着く先は『旧約聖書』の「ノアの箱舟」の神話と言うことになる。しかし、日本にはこの種の西アジア系洪水神話は入ってきていない。神話の内容は、1.ノアという人名、2.不敬な人間を罰するための洪水、3.一対ずつの家畜を箱船に入れる、4.鳩を放って減水を調べる、などが主なものである。もう一方は、東南アジアからオセアニアにかけての洪水神話で、宇宙の二大原理あるいはその代表者が相争う過程において洪水が生じたと言うものである。東京大学名誉教授大林太良博士は「日本神話の山幸彦が潮みつ珠で高潮を生じさせて海幸彦を苦しめた話もこの系列に入る。」と言う。この洪水の後、兄妹二人だけが洪水から生きのび、結婚して人類あるいは特定氏族の先祖となったという。この神話も日本には無縁のものと思われるが、大林太良博士は「日本のイザナギ・イザナミの国生み神話に痕跡がある。」と言う。
当然のことながら、洪水神話は大雨の少ないアフリカ大陸には少なく(中央アフリカのマンジャ族に洪水神話があるという。但し、「ノアの箱舟」の類話か。)、キリスト教やイスラム教が入ってきてその影響下の「ノアの箱舟」の類話があるのみと言う。
洪水神話の定義としては、「洪水によって人類や生物のほとんどが滅亡し、現在の世界はその後新しく作られたとする神話。」とする見解があるが、これは洪水による集落の滅亡とその後の別の地域の住人による地域の再建を言ったものであろう。

洪水神話の構成要素としては、
1.来たるべき洪水の予告。例として、魚が洪水を予告し、船を造って王は助かった。
2.洪水を逃れる方法。例として、船や容器(カボチャに入って生き延びる。太鼓に入って水上を漂う、など)に入る。大魚を食べずに、高い椰子の木に登った。
3.一族は助かる。例として、小山に避難した少数の者だけが助かった。
4.儀礼。例として、洪水の収まった記念に毎年祭りを催していた。
ほかに、洪水が去った後の後片付けやこれから来るであろう洪水の対策などを説く神話もあるようだ。

またその原話はほとんどの地域でキリスト教の『旧約聖書』(西アジア系洪水神話)からで出ているものが多いようだ。

類型による分類もあり大別すると、
(1) 懲罰型 驕慢になった人間を懲罰するために神が大洪水を起すという型で、ノアの箱舟の神話がその典型的な例である。エジプト、バビロニア、ギリシアなどの洪水神話。
(2) 予告型 (1) に似ているが、懲罰要素を欠く型。インド、ペルシアの伝説がこれにあたる。インド伝説では、角のある小魚 (ビシュヌ神の化身) の予告に従って舟を造って難を免れたマヌが人間の祖となる。
(3) 偶発型 偶発的な事件が洪水の原因になるもので、洪水を起すのは物の怪 (ボリビア)やカエル (オーストラリア) であったりで、必ずしも神とはかぎらない。ポリネシア,オーストラリア,南アメリカの洪水神話。ソシエテ諸島の伝説では、一人の漁夫が釣針を海神ルアハクの髪にひっかけてしまったので、ルアハクが怒って海水を氾濫させ、人間を滅ぼす。
(4) 治水型 中国の『淮南子』『山海経』などにみられるもので、洪水そのものよりも治水の面に重点をおく。尭・舜の代に大洪水が起こり、初め鯀(こん)が起用され治水に失敗、子の禹が後を継いで刻苦13年で成功し、禅譲を受けて夏王朝を創始したという。

★日本にはどうして洪水神話が少ないのか

洪水神話は当然のことながら洪水による被害が発生しなければこのような話は成り立たないのであって、その原因の多くはサイクロン(インド洋・ベンガル湾・アラビア海)、台風(北西太平洋・マリアナ諸島・カロリン諸島・南シナ海)、ハリケーン(大西洋西部・カリブ海・メキシコ湾)などの熱帯低気圧かと思われる。そのほかに地震による津波なども一因かと思われる。洪水神話が多いのは大河流域と島嶼で、大河流域では大雨を洪水の原因にし,島嶼では海水の氾濫をその原因にしている。前者は熱帯低気圧が主因かと思われ、後者は地震が主因と思われる。
前述したように『記紀』における洪水神話と呼ぶべきものは大林太良博士によれば、

「日本神話の山幸彦が潮みつ珠で高潮を生じさせて海幸彦を苦しめた話もこの系列に入る。」として、「東南アジアからオセアニアにかけての洪水神話で、宇宙の二大原理あるいはその代表者が相争う過程において洪水が生じたと言うもの。」
「日本のイザナギ・イザナミの国生み神話に痕跡がある。」として、「(東南アジアからオセアニアにかけての洪水神話で)洪水の後、兄妹二人だけが洪水から生きのび、結婚して人類あるいは特定氏族の先祖となったという。」

以上より判断するならば、大林博士は日本の洪水神話は東南アジア系で不完全なものと考えておられるようだ。しかし、「イザナギ・イザナミ」神話についてはうろ覚えで恐縮だが、「ノアの箱舟」の洪水の予告と洪水を逃れる方法がカットされた神話(西アジア系洪水神話の後半部分を取り入れたもの)と曰っていた先生がおられたような。この種の話の起源になると日本ではほとんどが外国に起源を求むべく外国の文献を探すようだが、よくよく見てみると日本が起源だったり、日本で開発されたと言う日本プロパーないし日本オリジナルの方が多いような気がする。
イザナギ・イザナミの神話にしても、舞台は、場所(旧河内湖。湖の中央部に小高い淤能碁呂島がある)、時代(弥生晩期から古墳初期)、場所の状況(陸地化寸前の泥沼、あるいは、湿地)、主演(湖畔の若き恋人同士)というところで、シナリオライターは大伴氏一族の人物か。ここで大伴氏一族としたのは大伴氏は摂津、河内(和泉)、淡路、場合によっては四国北岸に勢力があったと思われ、多くの歴史学の先生も「伊弉諾・伊弉諾神話」は天皇家ではなく大伴氏の所伝と考えられているようだ。奈良盆地と河内湖は河川(大和川のことか。一説によると、大和川は古代には大和から河内へ入ると、幾条にも分岐して河内湖に流入したという)によって直結していたと言うが、天皇家が河内や摂津に定住したのは応神天皇以降のことでそれまでの天皇は大和国に在住していた。また、『記紀』に書かれた舞台は淡路島で大伴氏と無関係ではなかったと思われ、大伴氏が三原平野や洲本平野の開発(水抜き、干拓など)にあたり、かっては湖沼地帯(三原は水原のことか)だったと思われる三原平野が舞台となったものか。但し、淡路島については、
応神十三年秋九月「一云・・・時天皇幸淡路嶋 而遊獵之」
応神廿二年春三月「喚淡路御原之海人八十人爲水手 送于吉備」
応神廿二年秋九月「天皇狩于淡路嶋・・・天皇便自淡路轉 以幸吉備 遊于小豆嶋」
以上の応神天皇の行動は吉備国並びに淡路国に対高句麗戦を想定した陣地設営のための視察か。
反正天皇が『書紀・反正前紀』に「天皇初生于淡路宮」とあり、履中天皇が五年秋九月「天皇狩于淡路嶋」とか、允恭天皇が十四年秋九月「天皇獵于淡路嶋」とかあって、天皇家の発祥の地が淡路島と考える向きもあるが、いずれの天皇も仁徳天皇の皇子であり、生母が葛城氏なので別の要素からと思われる。反正天皇の出生地淡路宮と言うのも所在未詳とするのが多数説かとも考えられる。

山幸彦の潮満珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおふるたま)の神話だが、西都市にある鹿野田神社(かのだじんじゃ)の境内にある「潮の井」は「潮の満ち引きに合わせてその水位が上下するといわれています。」とあり、単純に潮の満ち引きを神話化したものではないのか。あるいは、大地震による津波とも考えられるが、そういう大地震による津波はそうそう簡単に発生するものではなく、結局、呪具で人々を錯覚に陥らせるのはせいぜい規則正しくやってくる潮の満ち引きか小さな津波ではないのか。

『記紀』に述べ立てるほどの洪水がなかったとしたら当時の天気はどうなっていたか、と言うことである。
縄文時代は多くの人々が東日本に住んでおり(一説によると縄文中期の東日本の人口は日本の人口の96%、縄文晩期で86%と言う)、東日本の気候がどのようだったかを厳密に調べなければ解らないが、おそらく降水量、気温、台風の発生回数及び日本への上陸回数、雨期、四季のありよう、日照時間などは今とほとんど変わらなかったのではないか。但し、気候に左右されると思われる植生に関しては一つは西日本のカシ・シイ・クスなどの常緑広葉樹林(照葉樹林帯)があり、もう一つは東日本のブナ・ナラ・クリ・クルミなどを主とした落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)とがあるという。しかし、これも縄文前期から現在にいたるまで変わっていないという説がある。それらを総括すると縄文時代は今と同じで北日本では台風や雨期の水害は少ないと思われ、特に、人口密度が高かったと思われる関東地方に関しても自然排水路あるいは流水路とも言うべき河川が発達し、さしたる洪水災害はなかったのではないか。現今の関東地方の水害は人工的なものという説もある。
弥生時代の人口は縄文時代とは逆で西高東低となったようである。西日本の人口増加の一因には中国大陸の内戦があったと思われる。秦の始皇帝の死に始まり、陳勝呉広の乱など反乱の勃発、項梁(後に甥の項羽)率いる反乱軍による秦の滅亡。劉邦と項羽の垓下の戦いにより劉邦が勝利し前漢(紀元前202年ー8年)を建国。新(紀元8年ー23年)、後漢(紀元後25~220)と王朝が変わるたびにゴタゴタが続き迷惑を被ったのは朝鮮半島と日本ではなかったか。西日本の人口増の一因にはやはり大陸・半島の社会変動があると思う。話はそれるが、現在でも朝鮮半島有事の際は日本へ押し寄せる難民は10万人単位という政治家もおられる。話半分とは言わなくとも10分の1ほど、即ち、1万人ほどが五月雨式に日本列島へやって来たか。当時の我が国の縄文人は水田稲作は知らず、渡来人の唱導するままに灌漑溝を掘削して言わば新しい川を建設して水害を防いだのではないか。
以上より縄文時代は縄文人の居住地域により、弥生時代は水田が導入されて水害時の貯水槽(現今の首都圏外郭放水路)になったのではないか。
以下、『日本史大事典』3 <P.95(こ~し)平凡社>に載っている「洪水」を抜粋する。執筆者は新潟大学名誉教授大熊孝博士。
1.豪雨や融雪などによって流水が急激に増大し、河道いっぱいに流れる現象を、河川工学上、洪水という。
2.日本の河川は、地形的に急峻な山地から流れ、比較的短距離で海に注ぐため、台風や前線による豪雨で発生する洪水の継続時間は、多くの河川でせいぜい数時間であり、利根川や信濃川などの大河川でも二日ないし三日程度である。
3.洪水ピーク流量の平均流量に対する比は、大陸の河川では、砂漠の河川を除けばその比が小さいが、日本では数十倍から100倍と極端に大きく、そこに日本の河川の特徴がある。<中国の河は河道が広く深く河道が普段よりフル活用されているが、日本の河は普段はわずかの水量が流れるだけで洪水時になって河道がフル活用されると言うことかと思う。>
4.日本における洪水現象のもう一つの大きな特徴は、明治以降の河川改修工事によって、かつて上流であふれていた洪水が河道に閉じ込められ速く流下し、また、流域の都市化によって舗装や屋根が降雨の地下浸透を妨げ直接流出を増大させ、下流における洪水のピーク流量が極端に大きくなってきた。
5.洪水現象は単なる自然現象だけでなく、社会現象である。

★まとめ

ここで論ずる洪水とは主として縄文・弥生の先史時代の洪水のことなのであるが、日本にははっきりとした洪水神話(原古に大洪水が発生し、それまでの人類、世界の秩序は滅び、その後に現在の秩序が確立され、現今の住民が繁殖した)とか治水神話(氾濫していた水を制御した)とか原初海洋モティーフ神話(原初には世界は水でおおわれていた)というのはなく、逆に、弥生時代に入ると水田用の水不足が露呈し、崇神天皇の時代に「崇神天皇六十二年秋七月乙卯朔丙辰 詔曰 農天下之大本也 民所恃以生也 今河内狹山埴田水少 是以 其國百姓怠於農事 其多開池溝 以寛民業 ○冬十月 造依網池 ○十一月 作苅坂池 反折池 【一云 天皇居桑間宮造是三池也】」とあり、灌漑用溜池を築造したと言うことか。
洪水の原因は1.台風、前線(前線の存在は降水を生じやすく,この降雨を前線性降水、と言う)、低気圧等による高潮等、2.地震による津波、3.融雪等が考えられるが、台風等による大雨や融雪による洪水被害は痕跡をほとんど残さないため、現在となっては縄文・弥生の台風や融雪による水害は解らないといった方が正解かと思う。これに対して地震による津波の被害は地震考古学という新しい学問分野で古代の地震の研究もなされているが、縄文時代の地震の痕跡は東日本にはやや少なく、人が住んでいない西日本に多かったようだ。但し、調査する人によっては東日本に多かったとする人もいる。弥生時代になると西日本の大地震が多くなり、津波及びそれに基づく洪水被害があったかどうかはほとんど解らない。おそらく、人口はそれほど多くなかったので人的被害はさほどなかったようだが、家屋、水田、灌漑設備等の被害は当時の人々にとっては甚大であったという見解もある。兎角、インターネットなどを見ていると一般の人が地震のことを書くと、書いた人は「アホ呼ばわり」され、「不安をあおるもの」と決めつけられているようだ。ましてや、縄文・弥生の地震・津波などは裏付けのとれない問題外のことらしい。日本で資料的裏付けのとれる地震は 『日本書紀』允恭天皇5年7月14日(416年8月22日)の条に「五年秋七月丙子朔己丑 地震」の記述が最初と言う。
大熊孝博士の見解にある「(明治以降の)洪水現象は単なる自然現象だけでなく、社会現象である。」というのは、現代の我々が遭遇している洪水は古代の自然現象の洪水ばかりか、諸々の社会現象により生じた洪水にも直面していると言うことである。その意味で、我々は古代の人々より遙かに多くの洪水に遭遇しており、それを改善しようとして不完全な技術が投入されますます持って不便な生活を余儀なくされている。かって、昭和61年(1986)8月に台風10号がもたらした小貝川氾濫の洪水につき、全国紙のコラムが江戸時代に伊奈忠治が川の流れに湾曲部を設け洪水の弊害を避けようとしたのに明治以降それを非効率とばかりに直線化したのが原因と曰った。しかし、これには「中・下流は河道の曲流が多く、水害の多発地」(「角川日本地名大辞典 8 茨城県」P408)とあり、少しばかり驚きだ。
地震だって同じことで、過般、東京大と産業技術総合研究所の研究チームが「江戸時代前期の1703年に起きた「元禄関東地震」(マグニチュード=M8.2)と同型の巨大地震は、6300年前から2200年前までにも4回起きており、最も短い発生間隔は500年だった。従来は、元禄型の関東地震は7200年前から3000年前までに3回起き、最も短い発生間隔は2000年とされていた。」と言い、大地震及びそれに伴う津波の発生間隔もだんだん短くなっているようだ。原因は何かと言えば、地震の原因はプレート運動と言うのが一般的で地球の内部が勝手に動いているようにも思われるが、最近の地下核実験とか相次ぐ大規模火山の噴火なども地震の一因ではないのか。2004年スマトラ島沖地震では「M 9.3 の地震の発生から約3ヵ月半後の2005年3月12日にスマトラ島西部のタラン山が噴火、また翌3月13日にはジャワ島西部のタンクバンプラフ山が噴火するなど近隣に存在する火山の活動が活発となった。」とある。但し、学説では地震と地殻変動(火山もその一種か)は関係がないという。

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