縄文人と弥生人

★はじめに

我が国の『記紀』神話を見ていると、概ね大同小異で、①天地開闢②高天原神話③出雲神話④葦原中国平定⑤天孫降臨(高千穂神話)⑥人皇(神武天皇と欠史八代の天皇)⑦三輪王朝⑧ワケ王朝、と続くようだ。

「天地開闢」は、<「『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」は、中国の古典の『淮南子』(紀元前2世紀頃の書)の「天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず……」>に由来すると言うのが我が国の一般的な見解である。こう言う人のものまねはここでは論説を省略することとする。

「高天原神話」は、<日本の神話においては,海上のかなたに想像された常世(とこよ)の国の考え方と並んで,天上に高天原(たかまがはら)(高天原神話)をおく観念が成立し,そこには数多くの天津神(あまつかみ)が存在すると考えられた。高天原の構想は地上の政治的・社会的現実の天上への反映とみることができるが,同時に天照大神(あまてらすおおかみ)においてみられるように太陽崇拝の痕跡も否定することができない。>という。要するに、世界の神話は水平思考の神話(南方系。日本では琉球神話など)と垂直思考の神話(北方系。日本では高天原神話など)があり、日本では地域によっていずれかが取り入れられているようだ。また、現実の世界においても日本では垂直な世界を連想させるものとして、高地性集落(弥生時代に発生・収束したと言う)がある。高地性集落については、「逃げ城」や「狼煙台」などの軍事目的の集落とか、眼下の交易路を見張る監視施設、まつりなどの聖域等の諸説があるようだ。ほかに注目すべき説としては、眼下の集落の統括本部機能を有する集落と言う見解もある。これなどは現代的に言うと、本社(高地性集落。天照大神会長、素戔男尊社長、その他諸々の部課長の天津神。)、支社あるいは下請け会社群(平地の集落。全国的に言えば出雲国など。)となって、垂直思考に近いのではないか。但し、我が国のこの種の神話などは世界的に見たら比較的新しいものであり、どこかの書物の受け売りかも知れないので痛し痒しのところがある。

「出雲神話」は、二系統の神話があり、まず、『古事記』上巻の高天原神話に関連付けられた神話と、次いで、『出雲国風土記』に登載された出雲臣氏の神祖とも言うべき八束水臣津野(やつかみずおみつの)命の「国引き神話」がある。
『古事記』の出雲神話は、
素戔嗚尊の大蛇退治、奇稲田姫との結婚、その裔大己貴神が白兎を救う話、地下の根の国を訪問し難題にうち勝って須勢理毘売命と呪器を得てかえり、名も大国主神とあらためて出雲国の王となる話、さらに八千矛神(やちほこのかみ)という名での妻問い(相手は高志国の沼河比売)の歌物語などからなる。少名毘古那神(少彦名命)や三輪の大物主神とともに〈国作り〉を始める。 但し、最後は国土献上という形で高天原神話に統一される。大和政権による国土統一を反映している、と言う。
『出雲国風土記』の出雲神話は、
群を抜いているのが八束水臣津野命の「国引き神話」で、「新羅の三埼(みさき),北門(きたど)の佐伎(さき)の国,北門の農波(ぬなみ)の国,越(こし)の都々(つつ)の三埼の諸方より,それぞれの土地に綱をかけて引き寄せ出雲の国に結びつけたと語られている。国引きの有様は〈童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして 大魚(おうお)のきだ(えら)衝(つ)き別けて はたすすき穂振り別けて 三身(みつみ)の(3本よりの)綱うち挂(か)けて 霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに 河船のもそろもそろに 国来(くにこ)国来と引き来縫へる国・・・」とある。まとめれば、新羅や出雲国の北方にある国、越(北陸)国から国土を引いてきたと言うのである。

出雲神族と出雲臣氏との関係であるが、『古事記』において須佐之男命の4世孫と言う淤美豆奴神(おみづぬのかみ)と八束水臣津野命は同一神と言うのが我が国の通説のようである。淤美豆奴神は『日本書紀』には登場しない。『出雲国風土記』に八束水臣津野命の別名として意美豆怒命(おみづぬ)・伊美豆怒命(おみづぬ)とある。長浜神社(島根県出雲市西園町)では八束水臣津野命と淤美豆奴神を別神と言い、それぞれ国引の神、妙見の神として祀っている。はなはだ解りづらいが、おそらく出雲神族と出雲臣氏は関係がなく、後世の系図の神名の似たところを取り上げ(淤美豆奴と臣津野ないし意美豆怒あるいは伊美豆怒)同一神族ないし氏族としたのではないか。

★日本海沿岸の国々

上述の『出雲国風土記』の出雲神話(国引き神話)では、「新羅の三埼(みさき),北門(きたど)の佐伎(さき)の国,北門の農波(ぬなみ)の国,越(こし)の都々(つつ)の三埼の諸方より,それぞれの土地に綱をかけて引き寄せ出雲の国に結びつけた」とある。新羅の三埼(みさき)(韓国・慶尚北道浦項市の長鬐串(チャンギゴッ(チャンギ岬)か)、越(こし)の都々(つつ)の三埼(一般には石川県珠洲市・珠洲岬を言うと解されている)に関しては、一応、見当はつくが、北門(きたど)の佐伎(さき)国とか北門の農波(ぬなみ)国と言う国はどこかは解らない。おそらく、出雲国に近ければ現在の隠岐諸島(島前、島後)か、遠くになると北朝鮮とかロシアの沿海州になるのかも知れない。日本と対岸のロシア・朝鮮半島の考古遺物を見てみると、

*北海道・白滝産の黒曜石は日本海を越えて、対岸のロシアやサハリンでも使用されていることが、昭和63年(1988)立教大学の鈴木正男グループの分析で確認されている。さらに津軽海峡を越えた青森県の縄文前~中期の遺跡(三内丸山)からも発見されている(金山喜昭「石材」『図解・日本の人類遺跡』東京大学出版会, 1992)。

*隠岐産の黒曜石は主に中国地方北部の海岸地域と中央山岳地帯の遺跡に使用され、一部は瀬戸内側にも運搬されていることが判明している(藁科ほか 1988)。縄文時代が中心で、隠岐島から海上交通によって本州島に丸木舟で運ばれたものである。最近、鈴木正男によって、隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州にも渡っていることが判明している。日本海を丸木舟でロシアと日本の先史人が交流している事実が浮上してきたのである。

*九州北部最大の黒曜石原産地は腰岳(佐賀県伊万里市)で、ここの黒曜石は北は朝鮮半島(鈴木正男分析)から、南は沖縄本島(鈴木正男、二宮修治分析)にまで運ばれている。

また、男性のY-DNAについても、「ハプログループN1*は円筒土器の担い手であり、N1*が観察される遼河地域や沿海州、日本の東北地方北部、北海道南部から円筒土器が発見されている。また、下位系統のN1a1は櫛目文土器の担い手であり、朝鮮半島から遼河地域、モンゴル、シベリア、バルト海沿岸、北欧などにみられ、N1a1に属すウラル系民族(フィン・ウゴル系民族)の拡散と対応している。」とあり、大陸の遼河地域や沿海州と我が国の東北地方北部や北海道南部とでは人々の交流があったと思われる。 しかし、「日本におけるハプログループN-M231(ハプログループN)の分布がかなり薄い上に、日本で確認されているハプログループNのY染色体は少なくとも三つの異なる下位系統に属しているため、一度のまとまった民族移動によって日本にもたらされたのではなく、複数の渡来人の末裔である可能性が高い。」とのご見解(Wiki)である。

以上より、我が国はやや大げさに言うと旧石器時代、縄文時代から朝鮮半島や大陸の日本海対岸の地域と人的交流があったことが解る。

★中国古典(『論衡』、『山海経』)にある「倭」のこと

「倭」ないし「倭人」は、まず『論衡』(著者:王充(紀元27年~紀元105年頃)、編纂年代:後漢時代)に出てくるようで、それによると、「倭人」が出てくるのは周の時代で、

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王(在位:紀元前1,000年初頭)の時、
越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

これによると、倭人は紀元前1000年頃の中国・周の成王のもとに出入りしていたようである。即ち、今から3000年前と言うことになる。

次いで、「倭」ないし「倭人」が出てくる中国の古書は『山海経』(著者:不明、編纂年代:不明。戦国時代から秦、前漢の頃か)で、「倭」が出てくるのは、

「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海経 第十二 海内北經)
蓋(がい)国は、強大な燕の南、倭の北にある。倭は燕に属している。朝鮮は列陽の東の海、北山の南にある。列陽は燕に属している。
蓋国 今日の北朝鮮北部に名のある「蓋馬(ケーマ)高原」あたり。
燕(国)今日の中国河北省北部以東(現在の北京あたりから遼寧省あたりまで)の大部を占める大国。紀元前1100年頃 – 紀元前222年。
倭 現在の日本のこと。朝鮮半島も日本領だったのか。
朝鮮 朝鮮半島のことか。列陽とは遼東半島のことか。東の海とは渤海・西朝鮮湾か。北山は長白山脈のことか。

いずれの史料も我が国が3000年ほど前から中国に出向いて交易をしており、さらに、政権中枢の人と謁見をしていたようだ。そこでこれらの倭(日本)の使節団は倭のどこから行ったのかであるが、『記紀』の神話の記載順序から見て奴国(後世の筑後国)、出雲国、丹波国(後世の但馬国、丹後国)あたりの日本海沿岸の国ではないか。特に、これらの国々の人は語学に堪能であり、但馬国の開祖は天日槍と言う新羅からの渡来人で、中国語や新羅語を駆使して半島や大陸と交易を行ったのではないか。『魏志倭人伝』 に出てくる、對馬國や一大國の人は「乗船南北市糴」即ち船で食糧確保に余念がなかったようだし、末廬國、伊都國、奴國、不彌國の人々にしても半島に渡ることは日常茶飯事だったのではないか。投馬國、水行二十曰。邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。とあるのも、『記紀』神話から判断するならば、高天原神話および出雲神話の地で、後世の出雲国(投馬国)と大和国(邪馬壹國)と言うことになるのではないか。

★まとめ

縄文・弥生時代の倭(日本)国民は大陸や半島の人に比べ劣っていたと言うことではなく、自国に足らざるものを輸入し、自国の特産物を輸出していたのではないか。実態は圧倒的な倭の入超で弥生時代になると食料生産がそれまでの焼畑農業から水田稲作に大きく転換し、水田稲作に必要な各種技術やノウハウが細大漏らさず輸入されたのではないか。しかし、日本の入超が増えるのは高度技術の導入の時代だけで、時代が遡れば遡るほど大陸や半島と倭(日本)の技術格差は少なくなり倭人が大きく海外に飛躍したのではないか。特に、当時の黒曜石は日本産の製品は極東では最良品でその石と諸々の技術をつけて倭人は売り歩いたのではないか。細石刃も同じことで石材はその地域で利用できる岩石が用いられたが、品質的には黒曜石が最上のものであったようである。交換物資の乏しいところにはその土地の岩石を用い、細石刃技術者が必要とするものがあるところでは黒曜石が使われたのであろう。もっとも、細石刃は4万年前にバイカル湖付近で発祥したとされる。日本ではない。
日本と半島・大陸方面の交易ルートはいろいろあったようである。一番ポピュラーだったのは壱岐、対馬を経て釜山に至るルートではないかと思われる。次いで、上海と長崎市の直通ルート。松江→竹島→鬱陵島→元山(ウォンサン)。韓国・浦項と豊岡市出石の直通ルート。ナホトカ(ウラジオストク)と青森市(三内丸山遺跡)の直通ルートなど。著名な『魏志倭人伝』 の初めの方にある「舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」というのも当時の倭(日本)からはいろいろな地方からいろいろな経路で帯方郡へ行っていたのである。この書き方からすると当時は倭からの一方的な朝貢外交と思われるが、『魏志倭人伝』 にも見えるとおり中国の皇帝からの答礼品も相当なもので双方にメリットがあったのではないか。倭の卑弥呼女王の貢ぎ物は「奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到」即ち、男生口(奴婢の奴のことか。不明)四人、女生口(奴婢の婢のことか。不明)六人、班布二匹二丈と、いたってシンプルなものであるが、皇帝の答礼品は「今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也」と。女王始め使節団の正使・副使には官位(女王へは魏の王位と金印紫綬、正使・副使には官職と銀印靑綬)を与え、倭国には答礼品として絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹を贈り、特に女王へは紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤を与えるという。これは弥生時代に入ると日本的な重厚長大のものはだめで軽く薄い短かな小型のものが貢ぎ物として好まれたのではないか。そういうものは日本では少なかったので中国王朝からのご下賜品は当時の倭国においては大いに参考になったのではないか。倭国が贈った人間の貢ぎ物であるが、人間は三度の食事もするし、気に入らないことがあると文句も言うし、きちんと教育をして贈ってくれるのならいざ知らずあれやこれや難しい貢ぎ物ではなかったかと思われる。しかし、私見では日本の生口は優秀な生口で、民間のホテルに泊まった船員や使節団員の秘書、身の回りの世話係、力仕事係などの人々の通訳や案内(ガイド)、秘書の秘書のようなことをして使節団員を助けたのではないか。三角縁神獣鏡も皇帝が答礼品のリストに記載し、倭人の生口に作成させたのであるが、生口は倭人好みの三角縁にして倭国向けには爆発的な人気を博したのではないか。但し、中国では三角縁神獣鏡を鋳造した影も形もないと言うことだ。
日本の古い神話や神社を見てもなぜか日本海側の要素が入ってくる。それも半島や大陸の玄関口である筑紫国ではなく出雲国(神話)や丹波国(神社・外宮の豊受大御神は丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)と言っている。外宮神主度会家行は、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であり、外宮は内宮よりも立場が上であるとする伊勢神道(度会神道)を唱えた。)
『記紀』の古典によると、倭国には高天原神話の前に出雲神話があったことは「天照大御神之命以 豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者 我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國 言因賜而天降也 」あるいは「今平訖葦原中國矣 故汝當依命下降而統之」(『古事記』上巻)とか、「二神(經津主神と武甕槌神)、於是、降到出雲国五十田狹之小汀、則拔十握劒、倒植於地、踞其鋒端而問大己貴神曰「高皇産靈尊、欲降皇孫、君臨此地。故、先遣我二神驅除平定。汝意何如、當須避不」(『日本書紀』巻第二神代下第九段本文)とか言っているが、これって現代流に言うと「乗っ取り」とか「押領」とかあまり芳しくない言葉であり、現代語の解説でも武甕槌神の行為は「恫喝」などとなっている。現代用語では「恫喝」「脅迫」「恐喝」などは犯罪行為だそうな。失礼ながら、天照大神も犯罪まがいのことをして出雲国を乗っ取ったようだ。
神社に関しても元伊勢、元出雲があるようだ。元伊勢に関しては元伊勢神宮(もといせじんぐう・丹後国・現京都府福知山市大江町、皇大神社と豊受大神社はそれぞれ元内宮と元外宮と伝わり、これらが近接してあるので、大江町の二社を総称して元伊勢神宮という 。また、同地内の岩戸山という異称を持つ日室ヶ嶽の麓には天岩戸神社があって、これらで元伊勢三社ともいう。)あるいは、著名な籠神社(京都府宮津市字大垣)も元伊勢を名のっている。元出雲に関しては著名なのは出雲大神宮(京都府亀岡市千歳町)で、別称として「元出雲」や「千年宮」と言う。しかし、出雲大社と出雲大神宮は平成の御代になるまであまり行き来はなかったようで、出雲大神宮の方が「当社が元出雲なり」と主張していたようだ。但し、学術的には根拠がないらしい。出雲大社の旧称は杵築大社で出雲大神宮は「弘仁9年(818年)12月16日、名神に預かる (『日本紀略』) – 表記は「出雲社」。」以降、一貫して出雲神となっている。一般には、出雲神は地元の豪族が信仰していた神で古代には出雲勢力が今の亀岡市にまで及んでいたのかも知れない。
以上より判断すると、日本の国は大和朝廷が歴史に表れてくる前は日本海側の地域が発展し、現在の畿内や瀬戸内地域は後発地域だったようである。大和朝廷が現れる前とは神武天皇即位前と言うことで、天皇の即位が『日本書紀』では、辛酉年1月1日、橿原宮に初代天皇として即位した。この日付はグレゴリオ暦(西暦)だと紀元前660年2月11日である、と言う。『日本書紀』の言うことが正しければおよそ2700年前に我が国は建国したと言うことである。2700年前と言えば我が国は、丁度、縄文時代と弥生時代の境目で2700年前の日本海側は縄文人が活躍していた時代となるのだろう。縄文時代の二大発明として、土器と弓矢の発明があげられるが、私見ではこれに丸木舟も加えたい。丸木舟は旧石器時代からあったのかも知れないが、外洋航海用の丸木舟は縄文時代からあったのではないかと思われる。だいぶん時代が下るが兵庫県豊岡市で発掘された古墳時代前期(四世紀)の杉板に描かれた船団の線刻画は中央に描かれた母船と思われる船は大型で準構造船と思われるとのことである。当時にあってもまだ帆走船はなかったようである。日本海側の縄文人は丸木舟で船団を組んで外洋へ出かけたのではないか。その行き先も弥生人のように固定した行き先ではなく見ず知らずのところへも出かけたようだ。
弥生人は『魏志倭人伝』 にあるがごとく「旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。」と言うのは「旧百余国」は縄文時代で「今三十国」と言うのは弥生時代のことかと思われる。これらの数字はどのように数えられたかははなはだ疑問であるが、弥生人は中国系が主で多数派の縄文人を尻目に抗争を繰り返し集落(国)の数も減ったとみるべきか。これを断ずるなら、縄文人は広く半島や大陸と交易をして一方通行ではなく双方の人が行き来をするという、言わば全方位外交にあった。これに対し弥生人は内向きで自分の米一粒でもなくなったらヒステリーを起こして争いになることが多かったようだ。奈良県御所市の中西遺跡を見てそういうことを言うのはおかしいと思われるかも知れないが、あれは特別の地域でさればこそ倭国(日本)統一の原動力になったのだと思う。

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正能(しょうのう)について

★はじめに

インターネットか何かを見ていたら「正能(しょうのう)」という苗字の人が現れた。東日本に多い「せいの(清野、制野、青野、情野、清埜などと書く)」の異形かなと思ったら、<日本全国で見ると、「正能」さんは主に「埼玉」「東京」「神奈川」「千葉」「茨城」の順に多く分布しているようです。>とあり、読みも<一般的に「しょうのう」とよみます。>とある。挙げ句の果てに、「正能(しょうのう)という地名もある。」と言い、旧所在地名称は「埼玉県北埼玉郡騎西町正能」で、現在の地名は市町村合併により「埼玉県加須市正能」となっている。もっとも、「正能」が文献に現れるのは江戸時代からだそうで、それまでのことは良く解らないが、おそらく地名的には「正能」の方が「騎西」より早い地名ではなかったかと思っている。玉敷神社も元は正能にあったと言い(現在は騎西にある)、創建も「大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年(136年)、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいう。」とあり、古い神社であることは間違いない。また、「埼玉県の元荒川流域を中心に数多く分布する久伊豆神社の総本社的存在である。平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。」
ところで、后(きさい)は后(きさき)の音変化で私市とか騎西とも書くらしい。「私市党 は、騎西(北埼玉郡騎西町)の皇后の御料地である私市部の管理をした。牟自の子孫の黒長から私市氏を称した。」と言うが、『埼玉苗字辞典』(茂木和平著 茂木和平 2004-2008。インターネット版あり)では、
「騎西 キサイ 埼玉郡騎西庄あり。鷲宮村付近の寄東郡に対して、寄西郡と称す。持田村(行田市)長福寺正慶元年阿弥陀如来坐像に武州騎西郡糯田郷と見ゆ。」とあり、これが事実とすれば、騎西(寄西)というのは埼玉郡の西部即ち埼西(きさい)のことであり、寄東とは埼東と書くのであろう。また、同書は「私を紀佐一と称す。私(きさい)は后(きさき)の転訛にて、私部は皇妃の封民を云う。日本書紀・敏達天皇六年条に「詔して日祀部、私部を置く」と見ゆ。・・・・・私市党は熊谷郷を本拠地とし、西熊谷郷(大里郡久下村付近)、東熊谷郷(埼玉郡成田村、今の上之村)の一帯に一族が居住す。寄西郡(騎西町)の地名より発祥したのでは無い。・・・・・私市(きさいち)氏は、東京都あきる野市に五十四戸、木佐一氏は京都府竹野郡丹後町此代に九戸存すのみで、諸国には此氏の集落はどこにも無い。」と。最後の方は少しばかり言い過ぎで東京都、福井県、大阪府、北海道などに分布しているようだ。「私を紀佐一と称す。私(きさい)は后(きさき)の転訛にて、私部は皇妃の封民を云う。」というのもやや持って怪しの説で、古く國學院大学教授に高柳光寿と言う先生がおられたようでこの先生がお書きになったもので中央貴族が荘園の管理者に送った書状に「すだれ」を至急送ってくれという下りがあったらしい。先生は<こんなものまで荘園に調達させていたのか>とのことだが、平安時代になっても貴族は貨幣経済の意義を理解していなかったのではないか。京都の町に商店街があって日用品はそこでお金と引き換えに買うことが一般的ではなかった。奈良時代末の蓄銭叙位令も意味のないものではなかったか。ことほどさように私市とか荘園は当時の都の近くにある必要があったのではないか。著名な私市の地名としては、

*大阪府交野市私部
大阪府交野市私市

平城京・平安京に近い。

*京都府福知山市私市
*京都府綾部市私市町

いずれも平安京に近い。

史料では、『日本書紀』巻第二十敏達天皇の項目に「六年の二月の甲辰の朔に、詔(みことのり)して、日祠部(ひのまつりべ)・私部(きさいちべ)を置く」(577年)、と掲載されているのが初出である。「きさいちべ」という訓は、『釈日本紀』(鎌倉時代末期)にも現れる古い読み方で、「きさきチべ」のイ音便化である。
「私部(日本古代における后妃の私有部民。)の呼称の淵源(えんげん)は、中国漢代の皇后の付属の官を私官(しかん)・私府と称したことに関連を求めるのが有力。〈私〉は寵愛を受ける人の意で,中国漢代には皇后に付属する官を〈私官〉といった。」と。私部の分布は全国に及び、管掌者は首(おびと)、直(あたい)、または造(みやつこ)の姓(かばね)を有した、などという。但し、語義未詳とする辞書もある。
以上より、文献的には武蔵国に私、私市、私部なる苗字を名乗る人は多かったようであるが、私市党といえるかどうかは疑問。加須市騎西の地名が私部によったものかは不明であり、また当地にいたとされる私市氏が私部の管掌者であったかは不明と言わざるを得ない。それに、私市党が現れるのが平安時代の末というのも私市氏が本当に后妃の私有部民の称だったのかは疑問もわく。騎西を地形地名とし、「きさ」は刻むの意味の崩壊地形、浸食地形とし、「い」は井あるいは居として、騎西城の城郭構造は驚くべきことに「平城(沼城)」とする説あり。

★正能とは

正能とは全くもって現代風の読み方であり、文献初出も江戸時代というのはさもありなんと言うところである。また、正能は地名にも苗字にもあり、地名は埼玉県加須市正能(旧埼玉県北埼玉郡騎西町正能)とあり、苗字は1 埼玉県(約400人)、2 東京都(約70人)、3 神奈川県(約30人)、4 茨城県(約30人)、5 千葉県(約20人)、6 群馬県(約10人)とあり、埼玉県とその隣接県あるいは旧武蔵国に集中している。同じような発音の苗字としては ショウノウ 【庄納】、 ショウノウ 【松納】、 ジョウノウ 【城生】、 ジョウノウ 【城納】、 ジョウノウ 【上能】等があるようだ。これらの場合「のう」は上の者へ何かを「納める」意味に解する場合が多いようで、何かを「上納」していたものが自分の苗字に「しょうのう」とか「じょうのう」とかをつけて名乗っていた、と言う見解が有力なようだ。
翻って、地名と言うからには土地の地形や地質等の特徴を持って名付けるとするならば、「正能」に関しては、

「ショウブ」
①細い流れ、水路、清水 ②沢、田、沼 ③低くて平らな水田地 ④案山子、水車(のある所)/菖蒲、尚武、正分/ → ソウズ・ソウヅ
【例】 埼玉県加須市菖蒲町菖蒲(低い平地の水田地)但し、埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲と思われ、加須市芋茎と隣接する。著者の勘違いか。

「ショウズ」(ショウブの転訛語)
①小規模な水路 ②沢、田、沼 ③低くて平らな水田地 ④案山子、水車(のある所)/清水/
【例】 佐賀県唐津市肥前町菖津浦(現在は唐津市肥前町鶴牧と言うらしい)

『あぶない地名 災害地名ハンドブック』(著者:小川豊、三一書房)より抜粋。

菖蒲は、シミズ(湧水)→ショウズ→ショウブ(菖蒲)と転じた地名との説あり。

以上より判断するならば、正(ショウズ・清水・小規模な水路)能(ノウは野のこと)のこととなり、菖蒲と同じ「低い平地の水田地」の意味ではないか。いつ頃からの地名かと言われれば、私市党が台頭した平安時代末期、鎌倉時代、室町時代にはすでにあったのではないか。玉敷神社の創建が大宝3年(703年)と言うので、その頃からあった地名と言っても過言ではない。もっと子細に言うと、ショウズ(正津、清水<ショウズ>、菖津など)は全国区の地名で埼玉県加須市に偏った地名ではなく、弥生時代以降に日本に導入された「沼(ショウ)」の字が日本語化されたものではないか。騎西城が沼城と言うのも単なる湿地と言うよりも周りを水田に囲まれた城郭でこの場合の「沼(ショウ)」とは水田を言ったものではないか。但し、日本語の湖、池、沼などの差異は地域等によりはっきりしない。

★まとめ

1.騎西に関しては、「騎西 キサイ 埼玉郡騎西庄あり。鷲宮村付近の寄東郡に対して、寄西郡と称す。」とある。おそらくこれは「埼西」と書くのが本筋だとは思うが、埼玉郡の有力地(現在の熊谷市、行田市、鴻巣市)から見ての東西ではなく、鷲宮から見て西と言うことのようだ。あるいは、今はないが日川(にっかわ)という川があってそれの東西と言う説もある。とにもかくにも、騎西は后(きさき)の転訛語ではなく、武蔵国の何らかの理由(一説に信仰圏の違いと言い、東の鷲宮神社にたいし西の玉敷神社<久伊豆神社>)によって「埼東」「埼西」と呼称されたものと思われる。『和名抄』では埼玉郡埼玉郷とあるので、あるいは平安時代末期あたり以降の地名か。一説に、中世後期から近世初期にかけてみられる郡名と言う。本当だとしたらますます武蔵七党との関係は薄くなる。
2.私市党については、その発祥が騎西町と言い、元の職業が私部だったという説が有力ではあるが、「私市党は熊谷郷を本拠地とし、西熊谷郷(大里郡久下村付近)、東熊谷郷(埼玉郡成田村、今の上之村)の一帯に一族が居住す。寄西郡(騎西町)の地名より発祥したのでは無い。」との反論もある。現在、旧武蔵国で「私市」の苗字を名乗る人は「東京都あきる野市」に集住しているようで、これらの人々にご先祖が熊谷市から来たものか、はたまた、加須市騎西から来たものか尋ねてみなかったら解らないが、地名の私市、私部、騎西などと苗字の私市、私部、木佐一等とは直接の結びつきはないのかも知れない。地名に関しては『和名抄』に丹波国何鹿郡私部郷、因幡国八上郡私部郷、肥後国飽田郡私部郷(二十巻本和名類聚抄[古活字版]・巻九)などにあり、人名に関しては「私部氏(私部首)は私部の統率者(地方伴造)氏族。」(Wiki)とあり、インターネットで「私部」をまとめた人名を見ても「私」「大私」「私部」「奈癸私造」がすべてで「私市」という苗字(氏の名)はない。私市党の始祖が武蔵国の農産物の私的な市場を開いたので私市と言ったものか。要するに、武蔵国の私市氏は中央の私市、私部とは何の関係もなく、経済力で興った過渡期の豪族で軍事力がなかったため衰退したと言うべきか。私市党を吸収して台頭したのが野与党か。
3.久伊豆神社の久伊豆であるが、久伊豆(ひさいず)、騎西(きさい)の語頭の「ひ」とか「き」は入りわたり音で「ひ」と発音しても「き」と発音しても同じものか。久伊豆の発音も通説は「ひさいず(づ)」と読みをつけているが、「ひさいつ」が正で、「久伊(騎西)の」を表す「の」に相当する「つ」ではないか。「久伊豆神社は埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。」とあるが、武蔵七党の野与党や私市党は存在感が薄くいつの間にか沈んでしまったという感じだそうな。野与党は旧与野市のことだ(足立郡司武蔵武芝の息子・武宗(野与二郎)が受け継いだ野与荘は足立郡内にあったという。但し、旧与野市<現さいたま市中央区>には久伊豆神社は一社もなく野与党・私市党との信仰圏と合致するかどうか。) 、とか私市党は大阪府交野市私市から来たなどと言わば当てずっぽうな見解もあるが、この場合の「ヒサイツ」は「キサイツ」であり、「キサイチ」即ち「私市」に転訛したのではないか。
野与党発祥地の野与荘については今のところ位置不詳とある。候補地としては現在の行田市(行田市持田)、加須市(加須市内田ケ谷)、白岡市(白岡市野牛・篠津)などがあげられている。現在、白岡市には「のよのみち」(篠津より野牛に向かう道)、「のよの家」があるという。

ここで言いたいことは、私部と私市は似て非なる関連のない語であり、「きさいち」の漢字表記を現代流に書くと「騎西地(池)<きさいち>」であり、私市氏の初代あたりが見栄えが良いようにと「私市」としたのではないか。この場合は意味は「埼玉郡の西、あるいは、段丘(刻む)のあるところ」か、はたまた、日本は『魏志倭人伝』 の時代より公設市場の発達した国で私市氏の初代あたりが近郊の特産物を集め私設の物産市場を創設しその私設の市場を私市と言ったのかも知れない。但し、私市の地名は関西にもありその発祥も一考を要する。関東では私市氏が野与氏より先行したが、野与氏に吸収され野与氏が私市氏の影響を薄めるために「久伊豆神社」とか「騎西」にしたのではないか。

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歴史上の感染症

★はじめに

最近の我が国と言おうかやや大げさに言うと世界のマスコミは毎日「新型コロナウィルス」「新型コロナウィルス」と宣って何やら「新型コロナウィルス」に振り回されているようだ。このニュースはあちこちで見かけるが、「愛知県内の病院の精神科医は、2020年3月下旬、外来患者の「主訴」を独自に調査した。その結果、1日に診察した68人のうち、58人がコロナへの強い不安を述べたという。患者の8割(85%)以上が同一の心配事を語るというのは、東日本大震災を含めてこれまで一切なかったという。」端的に言うと日本が「コロナ鬱」で倒れそうな感じだ。日本は欧米に比べればまだマシなどという御仁もいるが、疲れ切った人も多くそろそろ精神的限界に近づいているのではないか。
歴史的に見るとこの種のパンデミック(ある感染症<伝染病>の世界的な大流行を表す語)は古代からあったようで、疾患名としては古い順に、ペスト、コレラ、インフルエンザが多発しているようである。原因としては「人々の移動」があげられ、「世界各国で、国内旅行だけでなく、航空機を用いた外国旅行も世界的に非常に盛んになっているので、国境を越えて世界規模のパンデミックが発生しやすくなっている」とされる。このたびの新型コロナウィルス肺炎も旧暦の正月に当たる「春節」を利用して世界各地へ旅行に出かけた人々があるいは関係しているのではないかと思われる。
また、「ペットが新型コロナウイルスに感染したとみられる事例が報告されているとして、厚生労働省は17日(2020/04/17)までに、動物との過度な接触を控えることなどを求めた飼育者向けのQ&Aをホームページなどで公開した。」とあるが、これは日本では古くに「日和見感染」などと言われ、通常の生活では何でもないことだが、免疫力が落ちたときに訳のわからない病気に襲われ感染してしまうとか。その種の原因物質(ウィルス・細菌とか)はほとんどが未解明とも言う。トキソプラズマなどは発見された極々一部という。

★日本の感染症

日本は島国であまりこの種の疾病はなかったようだが、主に渡来人により朝鮮半島や大陸からもたらされたもののようである。記録に残るものとしては疱瘡(ほうそう。天然痘)がある。『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」と。但し、麻疹(はしか)などの説もある。具体的には、
欽明天皇十三年冬十月「大臣(蘇我稲目)跪受而忻悅。安置小墾田家、懃修出世業爲因。淨捨向原家、爲寺。於後、國行疫氣、民致夭殘、久而愈多、不能治療。」(最初の疱瘡の記録か)
敏達天皇十四年春二月「是時、國行疫疾、民死者衆。」
同上      三月「疫疾流行、國民可絶。」
同上         「又發瘡死者充盈於國、其患瘡者言「身、如被燒被打被摧」啼泣而死。」(疱瘡の具体的記録か)
などが天然痘の流行について記述しているのではないかと考えられている。仏教の受容即ち天然痘の流行だったようだ。外国人は先進文化ばかりか重篤な疾病ももたらしたようである。類似の話としては、崇神天皇紀「五年、國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。」と「六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。」とがセットになっている。但し、この蘇那曷叱知は『魏志倭人伝』 に言う魏の外交使節団とも思われ、使節団のなかに感染症に罹っている者がいたか。魏は222年に三方向から呉を攻めたが、疫病が流行したため退却した、とある。

こう言う典型的な感染症のほかに、日本には特異な感染症がある。日沼頼夫京都大学名誉教授によると縄文人由来の感染症とも言うべきもので「成人T細胞白血病」と言う。特徴としては、
1.1976年(昭和51年)に高月清熊本大学名誉教授らによって発見、命名された。
2.発症の原因はHTLV-Iウィルスの感染である。
3.感染後の潜伏期間は40年~60年と言う。
4.多くの人は発症することなく、ウイルスに感染しただけの状態=キャリアのまま生涯を終える。平均寿命50歳の戦前の日本では発症がなかったのは当然か。
5.世界的には日本、中南米、アフリカ、ニューギニア島などにHTLV-1感染者の多い地域がある。
6.日本では九州・沖縄地方を中心に約110万人のキャリアが存在し、そこから発症するのは40歳以降、60歳前後に多く、3~5%と推定されている。
7.日本国内の分布の子細は、南九州や沖縄、アイヌに特に高頻度で見られ、四国南部、紀伊半島の南部、東北地方の太平洋側、隠岐、五島列島などの僻地や離島に多いことが判明している。九州、四国、東北の各地方におけるATLの好発地域を詳細に検討すると、周囲から隔絶され交通の不便だった小集落でキャリアは高率に温存されている。

日本への感染経路はアフリカが起源でベーリング海峡を渡り、「約3万 – 1万3000年前のウルム氷期の最寒期とされる頃、ベーリング海峡地域は陸地化しており、いわゆるベーリンジアとなっていた。ユーラシア大陸のモンゴロイドは、このベーリング地峡を渡ってアメリカ大陸に進出した」という。この人々の一派が、途中、日本列島に定着し、中南米にも定着したと思われる。ニューギニア島は「ギニア」という地名が元々アフリカの地名でアフリカ人が直接やって来たものか。当時にあって、日本、中南米、アフリカ、ニューギニア島などは辺境の地であったか。ただ、この病気はその後も撲滅せず現在も残っているようだ。本州中央部の「成人T細胞白血病」は弥生人により撲滅されたと言うが本当か。日本人が海外に定住していたのは朝鮮半島南部で白村江の戦いで負けて完全撤退したのが東アジアの国々に同病が見当たらない原因か。潜伏期間が40年から60年だ、などとのんきに構えず撲滅対策をしっかりやってもらいたいものだ。調査にもよるが現在でもキャリアが110万人もいるという。

★まとめ

毎日、毎日、マスコミは新型コロナウィルスの話で持ちきりだ。なかには「もうそんな話は、見たくもない、聞きたくもない」という人がいるようだ。一説によると、こんなだらだらした状態が2022年まで続くという。今でさえ国民の疲弊は極度に近づいているのに、今後二年間もこんな状態が続くといろいろな病気が顕在化してくるのではないか。なかにはいったん収束したようになるがその後またぶり返し三波(三年間)に及ぶなどとご託宣を述べる人もいる。古代人の感染症対策はどんなものだったのであろうか。

欽明天皇十三年(552)、「國行疫氣、民致夭殘、久而愈多、不能治療」と言い、治療法はないと記されている。病気に対してなすすべもなかったと言うことかと思う。
天平九年(737)、疫病(天然痘と思われる)が大流行し、この疫病によって当時、政権の主たる担い手であった藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)全員が病死した。この四兄弟は当時にあっては権勢並ぶ者なき人物であったろうに疾病対策は何もせずにただご臨終となったのであろうか。
正暦5年(994)、天然痘が大流行して、藤原道隆、藤原道兼(いずれも藤原道長の兄)はともに天然痘のために死去したといわれる(ただし、麻疹とする説もある。道隆はアルコール依存症か。)
また、京都市百万遍に所在する浄土宗知恩寺(左京区田中門前町)は、京都に天然痘が大流行していた元弘元年(1331)、後醍醐天皇の勅により百万遍念仏を行い疫病を治めたことから「百万遍」の寺号が下賜されたものである、と言う。
慶応2年(1867)、孝明天皇の急死は天然痘によるものであったと記録(診断)されている。天皇自身が当時かなり普及し始めていた種痘を嫌悪したために天然痘に対して無防備であったといわれているが、毒殺説も有力。

以上を見てみると、古来より日本の上層部の人は医学の効用をあまり信用せず、加持祈祷とか単に病床に伏していたようだ。現在でも解明できないものを1000年以上も前に病原を発見せよと言ったところで無理筋の話ではある。
庶民の感染症対策としては、加持祈禱(かじきとう)、戸口に疫病退散のお札貼り、病気を追い払う太鼓や鐘の打ち鳴らし等があったらしい。また、村の入り口には「ほうそうのものこのむらにはいるべからず」などと言う看板を掲げ、他国者を寄せ付けなかったらしい。また、幕末のオランダ医術が効果を上げたらしく、今日とはほとんど変わらない衛生観念を推奨させたようだ。具体的には、「身体と衣服を清潔に保つ」「室内の空気循環をよくする」「適度な運動と節度ある食生活」など。何か西洋の医学が入ってくる前の日本の医学は前近代的なもののような気がする。

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縄文語と弥生語

★はじめに

一説によると、言語は一万年もたてば文法、語彙、発音等がきれいさっぱりと変わり、別な言語のようになるとの説がある。我が国で言語を用いた人としては、旧石器時代人、縄文時代人、弥生時代人、古墳時代人以降と言うことになるようだ。旧石器時代人はその後縄文人に発展したと言う説が近時有力だが(現在の日本列島が縄文海進により成立するまで、日本はユーラシア大陸の東端になり、そこに脱アフリカを果たしたY-DNA CやY-DNA Dがポツン、ポツンと集落を形成して住んでいた。その後縄文海進が進んで日本は島国となり、日本列島に取り残された旧石器時代人が縄文時代人と進化したと言うものである。他の説は、縄文時代人は日本列島になってから北方ルートや南方ルートからやって来たものとする。)、

*旧石器時代人も人間同士が意思の疎通を図る場合言語を用いたかと思われるが、土器等を用いた縄文時代人ほどには文化の進展は見られず、言語もそれほどのものではなかったと思われる。おそらく、「ア」とか「イ」とか言う単音語が主で、感情の起伏は高音とか低音とかで表し、危機が迫ったときなどは後世の怒鳴り声のようなものを発していたのだろう。こと、この時代の言語に関しては何を言っても妄想以外の何物でもない。
*縄文時代については、一般的には約16000年前から約3000年前までを言うとするのが多数説である。縄文時代としては13000年ほど存在していた。前述の一言語の寿命が一万年とすると現代は第二縄文語時代とでも言うべき時代で現代語と全く無関係ではないようだ。縄文語がすっかりとなくなったのに何を言う、と言う見解があろうかと思われるが、「過去の⾔語は⽂字がなければ検証不可能であり、『縄⽂語』の解明は、その試みは存在するものの、極めて難しいと⾔わざるを得ない。⽇本列島における縄⽂時代の⾔語は、共時的にも通時的にも複数存在したと考えるのが⾃然である。(縄⽂⼈は時期によって異なるが地域ごとに4から9のいくつかの諸集団に別れていた、からか。)」お説ごもっともではあるが、こと日本人に関して言うと、日本国開闢以来の頃から旅行好きと見え、旧石器時代の琥珀が「湯の里4遺跡(北海道上磯郡知内町)」や「柏台1遺跡(北海道千歳市柏台)」から出土しており、当時の琥珀はまだ国産品とは考えづらく、バルト海とまでは言わなくともカムチャッカ半島やバイカル湖あたりから仕入れてきたのではないかと考えられている。また、「出雲方言に東北方言と音韻の類似する面がある」と言い、「細石刃は日本全国に広がっており、北東日本の楔形細石刃と南西日本の野岳・休場型や船野型細石刃の二つの分布圏に分かれる。前者はシベリアから北海道を経由して本州へ、後者は中国黄河中・下流から九州を経由して本州へ及んだらしい。」とある。とにもかくにも、二万年前の頃の日本人は陸路にせよ海路にせよ動き回ることが好きな人たちだった。交易品がどのような形(例として、日本人が直接海外の生産地へ行ったとか、中継貿易地があってそこを経由して交易品を入手するとか、仲介貿易を行うとか)で入手したのかは不明ではあるが、交易品が広くカムチャッカ半島、シベリア(バイカル湖)、黄河流域などに及んでいるところを見ると、これらの地域が二万年前頃には一地域で一言語の世界だったかも知れない。当時は覚える語彙もそんなに多くはなかったと思われるので当時の言語は広域言語でバイカル湖からカムチャッカ、日本、中国では同じような言葉が話されていたのかも知れない。
*古墳時代以降については、おそらく日本語としては引き続き改良を重ね、現在に続いている言語と思われるので、ここでは割愛する。

★縄文語

日本で言語が本格的に機能しだしたのは縄文時代かと思われる。土器、弓矢、丸木舟、建築物(ロングハウス、三内丸山遺跡の六本柱建物跡等)、都市計画(鹿児島県霧島市国分の上野原遺跡等)などの発明や構築は無言語や単に意思の疎通を図るための貧弱な言語では無理で、精緻な言語が必要だったであろう。特に、三内丸山遺跡の六本柱建物跡では、①測量の技術が存在していた②35センチメートルの倍数の長さの単位は他の遺跡でも確認されている。「縄文尺」は広範囲にわたって共通規格として共有されていた③大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要とした。集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できる指導者がいた。以上を考え合わせると低レベルでの言語は意味をなさず、かなり高度な言語で意思の疎通を図ったのではないか。特に目立つのは、測量技術とか、長さの単位の広範囲での共有化とか、丸木舟の製造とかには単に従来の経験や勘に頼るのではなくはっきりとした数値でやりとりすることが必要であろう。それには我が国古来の「ひ」「ふ」「み」「よ」「い」「む」「な」「や」「こ」「と」で間に合ったのか。もっとも、これは十進法で飛鳥時代あたりに完成したもので、縄文時代の数詞は前期には「1(fi)・2(fu)・4(yo)・8(ya)」しかなかった説(「倍々数詞」「分配数詞」と言い、1の2倍は2、2の2倍は4、4の2倍は8となる。8の2倍はどうしてないのだと言われても当時は数詞は一桁しかなかったと言うことか。縄文後期に「3・5・6・10」が加わった。弥生時代に「7・9」が伝来し(高句麗からか)我が国の十進法の祖型ができたらしい。但し、こんな紆余曲折を経て十進法にたどり着いたのは東アジアでは我が国だけで真偽のほどはつまびらかではない。4個とか8個の数字を駆使して建物を建てたなんてあまり考えられないことだ。
語彙については現在残っている一語一音節の語彙はほとんどその出現が縄文時代にあったのではないか。例として、あ(吾、我)、い(藺)、ゐ(井・水のことか。中国語の水(シュイ)が弥生時代に導入され「ゐ<wi>」となったか。)、う(鵜)、え(江、餌)、お(麻)、を(尾、小)など。そのほか重要な語としては、き(木、黄、生)、け(褻、毛)、こ(子、蚕)、す(州、巣)、せ(瀬、背)、た(田・弥生時代に中国から田<たん>が導入され<た>になったか。)、ち(乳、血)、つ(津・後世、集<つど>う、となったか。今は船が集うところ即ち港の意味だが、かってはどうだったか。)、て(手)、と(戸、外)、な(那=土地、国。名、菜、汝)、に(荷、丹)、ね(根、音)、は(歯、刃、端、羽、葉)、ひ(日、火、樋)、へ(屁、辺)、ほ(穂)、ま(真、間)、み(実、身、箕)、め(芽、目、女)、や(矢、屋)、ゆ(湯)、よ(世、夜、四)、わ(輪)等。これらの単語全部が縄文由来とはとても考えられないが、ある程度縄文後期由来のものはあるのではないか。
語順であるが、日本は一貫して「主語 (Subject) – 目的語 (Object) – 動詞 (Verb)の語順をとる」言語のようである。世界の言語の約45%がSOV型言語である、と言い、一説によるとSOV型がSVO型に先行し語順の祖型であるらしい。しかし、現代ヨーロッパ諸語、中国語、東南アジア諸語などはSVO型が主流である。ともあれ、「アル=サイード・ベドウィン手話のように自然発生から100年とたたない視覚言語が、周囲のアラビア語などと異なるSOV型語順を自然にとるようになった」とあるので、日本語、琉球語、アイヌ語、朝鮮語は世界の、あるいは、極東の最古参の言語なのであろう。
発音については、小泉保関西外国語大学名誉教授(物故)は<「出雲方言に東北方言と音韻の類似する面がある」と言い、この裏日本的な音韻は、縄文語(裏日本縄文語)を受け継ぐものであるとされる。即ち、「ズーズー弁」が飛び地状に分布するのはかつて日本海側で広く話されていた基層言語の特徴だとし、「ズーズー弁」と言われる出雲方言は、縄文語を正当に受け継いでいる縄文語本流の言語である>と言う。出雲地方や東北地方では一万年以上にわたって縄文音が話されていると言うことか。

★弥生語

弥生時代は中国から稲作技術が伝わった時代と言われ、さぞかし日本語は中国語に置き換わったとまでは言わないものの中国語の影響を受けたのではないかと思われるが、来日した中国人の数が日本人を圧倒するものではなく、かつ、稲作以外に目立った中国の物品や文化遺物がないと言うことで、おそらく中国の一部地域の人が来日しただけである。それが証拠に、稲のRM1遺伝子は全部で八種類あるそうだが、日本には三種類しか入ってきていない。中国には八種類全部が、朝鮮半島には七種類が、あるらしいが、朝鮮半島にない遺伝子の稲が我が国に多い等の理由により、日本の稲は中国から直接入ってきたと解されている。こと、稲作農業に関する限りは日本と朝鮮は何の関係もないと言うことらしい。また、中国系の遺物が少ないことから中国の影響はほとんどなかったのではないか。奈良県の唐古・鍵遺跡の絵画土器に描かれた楼閣の絵が中国っぽい。類似の絵としては鳥取県米子市の稲吉角田遺跡の弥生中期の壺絵がある。 あるいは、奈良盆地に稲作がもたらされたのは日本最古か。例として、奈良県御所(ごせ)市の中西遺跡と周辺で、確認された水田跡が約4・3ヘクタール、約2400年前の遺跡(弥生初期)、大規模な水田稲作遺跡。4ヘクタールと言えば現在でも豪農の部類に入るのであり、当時にあっては開墾した人は一国一城の主だったのではないか。領主としては現在の御所市方面に勢力のあった葛城氏、尾張氏など、天皇氏の前に大和盆地へ天下ったという伝承を持つ物部氏、最後発かも知れないが天皇氏などが考えられる。これらの領主層の人々が渡来系の人とは思われず、少数の渡来人は圃場の作成、運営、種籾の管理等を指導したのではないか。即ち、日本は朝鮮半島と違って中国人の支配はなかったと言うことで、言語も基本的に旧来のもので、専門用語の借用等があった程度か。
言語に関して言うと、語順(文法)や発音はあまり変わらなかったであろうが、語彙が、俄然、中国由来のものが多くなったのではないか。そもそも、水田稲作なんて日本にははっきりしたものはなく、体系化されたものが語彙共々渡来人とともに日本へ入ってきたのではないか。なお、小林昭美「日本語千夜一夜~古代編~」というウェブサイトに[古代日本語語源字典](第160話ー第206話)という一項があり、日本語単語の中国起源説が網羅されている。例として、米(こめ)<「米」の古代中国語音は米[myei]である。隋唐の時代以前の上古音には語頭に入り渡 り音があって「米」は米[hmyei]だったと考えられる。日本語の「こめ」は上古中国語の米[hmyei]に依拠したものである。>と。

★まとめ

日本列島で文化を築いたのは縄文人で、13000年ほど日本列島に存在した。また、その後も日本列島に存在したことは間違いなく現在でも縄文人の血を引くと思われるY染色体ハプログループD1a2系統の人々は35%いる。日本の場合これらの人々が言語の寿命は一万年で、縄文時代は一万年を突破したので縄文語は消滅したとか、また、弥生時代に入ったら弥生人の弥生語に押されて消滅したとか、その種の話は現在でもY染色体ハプログループD1a2系統の人が35%もいると言うからには考えづらい話だ。日本語はやや大げさに言うと現在でも「古文」などと言う学科があるので、大きな変化がなかったと言えば間違いになるかも知れないが、中国語が日本語に変わったというような劇的変化(日本語の起源は中国語にあり、と言う説はあるようだ)ではなく、基本となる原日本語(縄文語)があってそれが周りの国(中国や朝鮮)の言語の影響を受けて緩やかに変化し、現在の日本語があるのではないか。
日本語は孤立言語と言われ「新石器時代以降の文明の中心都市からすると周辺地域ないし孤立地域に属している。」言語となり、あまり芳しくない言語となっている。今でこそそこそこの人口を抱え、経済的にも発展しているので「こんなのは怪しの説だ」などとなるのであろうが、やはり縄文時代は地の果ての国であり、人口も少なく明日にでも消滅してもおかしくない国だったようだ。しかし、一方で「世界の言語の約45%がSOV型言語」とあるように、日本語もそのお仲間入りを果たしているところを見ると中央アジア方面との言語とつながりがあったのではないか。中央アジアと極東は当時にあっては離れすぎで双方の言語のつながりは消滅してしまった。

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智頭郡のこと

★はじめに

現在の日本の地名で「チズ」とか「チヅ」とか読む地名は鳥取県八頭郡智頭町しかないようで、先日、智頭枕田遺跡のことを見ていたら、「智頭」にせよ「枕田」にせよあまりなじみのない地名と思った。そもそも、智頭と言っても枕田と言っても全国にこの地名しかないのではないかと思われるほどだ。枕田については①マ(接頭語)・クラ(崩壊地形)・タ(場所を表す接尾語)とか、②開墾地の地割で最後に残った不整形地(イメージとしては布団が整形地なら枕が不整形地となるのか)などの意味が考えられるようだ。一方、智頭については、『和名抄』にも出てくる地名(郡名)で、因幡国智頭郡には美成(みなり)、佐治(さじ)、土師(はじ)、日部(くさかべ)、三田(みた)の五郷があった。智頭郷はないのではっきりはしないが郡家、道俣駅は三田郷(現・智頭町智頭付近)にあったというので、そこが智頭郡の起こりで、また、発祥の地であろうかと思われる。現代的に言うと、千代川、土師川、新見川の合流点となる一帯の小盆地が智頭郡発祥の地となるようである。

★智頭郡の歴史

因幡国智頭郡は現代的に言うと鳥取県八頭郡智頭町となるのだが、智頭枕田遺跡は縄文草創期から遺物が存在するという。町内から出土した最古の考古資料は、縄文草創期の石槍で、段山遺跡(智頭町市瀬・石槍2本・昭和47年)から出土している、と言う。

縄文時代早期・中期~晩期 約8000年前・約4000~2500年前の遺跡がある。

縄文早期前葉 (約8000年前) には、この地に居住の痕跡がある。
縄文中期末葉~後期初頭 (約4000年前~2500年前) には、県内最大のムラがあったという。
縄文晩期末葉 (約2300年前) には、石棒などの祭祀具が出現し、掘立柱建物跡(神殿か)、配石遺構(祭祀場か)、土坑群(墓か)が出現。

具体的な文化度を表すものとしては、縄文土器がある。

縄⽂早期の土器には、復元可能な遺物があり「⼤深鉢」が復元されている。しかし、土器の多くは中期末以降のもので、
中期末~後期には、磨消縄文、波状口縁深鉢、箱状山形口縁、平口縁深鉢、晩期約2500年前には沈線文があるという。
西日本最大級の集落遺跡で、特に縄文時代中期末~後期初頭にかけては、住居、貯蔵穴、掘立柱建物、配石遺構から構成されている。
住居の形態などに東日本と類似の形式(住居内の石囲埋甕炉)が見らる。東日本の縄文人は、定期的に西日本へ交易のために、あるいは、移住してきたか。
晩期では、東日本の影響を受けた土器が出土している。
しかし、総じて同じ縄文時代中期に新潟県に現れた火焰型土器や王冠型土器に象徴されるような、立体的で力強い装飾をもつ土器、あるいは、そのほかの東日本の縄文土器に比べて失礼ながらやや見劣りがする。
ところで、「智頭枕田遺跡」はその出現を持って脚光を浴びるのだが、それ以前の現・智頭町に関する古代の評価と言えば、

『鳥取県の地名』(日本歴史地名体系32 平凡社 1992年10月3日発行)に以下のごとくある。

「智頭郡」P.63
「佐治村に縄文時代の遺物を出した遺跡などがあるものの他地域ではほとんど発見されていない。」

「智頭町」P.353上段
「縄文時代の遺跡は確認されていないが、弥生時代後期の段山遺跡からは弥生土器・石槍などが、また弥生後期の後半に属する埴師(はにし)の長瀬向和(ながせむかえ)遺跡から器台や壺が、そして高下古墳周辺からは後期の壺・甕・高坏などがそれぞれ出土している。」

『鳥取県の地名』の出版後10年にして、2002(平成14)年、2003(平成15)年に「智頭枕田遺跡」が発掘された。
「2017年(平成29年)3月までに計約80カ所の遺跡や遺構が確認され、発見当時は縄文時代から平安時代の複合遺跡として九州を除いた西日本では最大級の遺跡であった。」と言う。何か「智頭枕田遺跡」が発見された後と先ではこうも違うのかと思われるが、智頭町最古の遺物という石槍は段山遺跡(一説に、智頭枕田遺跡からも発見されているという)で昭和47年に発見されており、このときは弥生時代の遺物と解釈されたようである。遺物の評価が時代によって異なり、判然としないが、鳥取県には縄文時代の遺跡(有力どころでは、鳥取市気高町の常松菅田遺跡と智頭枕田遺跡)が少なく、考古学の専門家には今ひとつ取り上げられないのではないか。
以下、弥生時代以降は割愛する。

★智頭の意味

智頭の地名の発祥地は現在の智頭町(大字)智頭のあたりの小盆地を言うようで、あるいは智頭の原意は盆地に絡んだ言葉かも知れない。「智頭」の語源については、

1.智頭町役場説
「『日本後紀』(808年)の記録では、智頭郡道俣駅(ちづごおり みちまたえき)の駅馬の記録があり、奈良以前より智頭という名前は存在しているようです。
一説には、道俣(みちまた)とは、『道が合流するところ』という意味があり、元々は『道頭(ちづ)』・・・道の頭という意味から変化して『智頭』になったのではと云われています。 」
「都から因幡国に入る最初の郡」の意、とも。

2.チヅはツツの転で「ツツ(筒)」状の地形の土地の意、と言う。

以上二説が有力である。

『古代ー近世「地名」来歴集』(日本地名研究所監修)P.196によると、
「『綜合日本民俗語彙』によると、津という言葉はもともと土地の交通の便・不便を表すもので、津がよい、津が悪いなどと使い、(現在でも地方の方言にある由)現在は船の発着所を「港」と言うが、古くは「津」を用いた。」と引用し、智頭は漢字では千(ち)津(つ)となり、千(たくさんの)+津(交通の便の良いところ)があるところ、即ち、現代用語で言うと、「交通の要衝」と言うことではないのか。智頭は物見峠(津山市と鳥取市)、黒尾峠(岡山市と鳥取市)、志戸坂峠(赤穂市と鳥取市)と津に恵まれ、智頭とは、畢竟、千津の意味か。とは言え、チヅ、チツ、チチ、ツツは稀少地名ないし苗字で一般的なものではない。一応、近時、縄文遺跡も発見されたといい、縄文時代から人間が住んでいたと思われ地名もあったと思われる。縄文時代の地名は一音節語がほとんどだったと思われ、智頭ならチあるいはツと言われ、人間の少なかった縄文時代でならそれでも良かったが、弥生、古墳と進むにつれ一音節では意味もわからなくなった。時代が下ると一音節の単語はなくなり、智頭の場合なら「チ」を重ねて「チチ(知々、千々、父など)」、「ツ」を重ねて「ツツ(筒、豆酘、通津など)」とした。「チチ」も「ツツ」も現在の地図で見ると川っ縁や、海っ縁の危なかっしいところで、現代流に言うと崩落地、崩壊地、急傾斜地などを言ったものではないか。従って、智頭の意味するところは広い意味での崩壊地形を言ったものか。縄文時代の智頭は東日本の各地域から人がやって来て、今の新潟県出身なら崩壊地形を「チ」と言い、今の宮城県出身者なら「ツ」と言ったので、双方出身者が解るように崩壊地形を「チ・ツ」と名付けたのではないか。あと、考えられるとしたら縄文時代から長く続いている土地の地名には焼畑地名がある。現在も千津という地名があるようだがほとんどが「センヅ」と読むようだ。神奈川県南足柄市千津島カナガワケンミナミアシガラシセンヅシマ、群馬県邑楽郡明和町千津井グンマケンオウラグンメイワマチセンヅイ、和歌山県日高郡日高川町千津川ワカヤマケンヒダカグンヒダカガワチョウセンヅガワ。語尾の「井」とか「川」は現今で言う「川」の意味かと思うが(特に、群馬県邑楽郡明和町千津井は現状では利根川の隣接地)、どこも語義不明と言うことらしい。ただ、一般的には「センヅ」は後世の読みで「チツ」が先行していたのではないか。但し、焼畑地名の類例としては、沖縄県の焼畑地名という「知名(チナ)」、「喜名(キナあるいはチナ)」がある。おそらく、知名は火入れした後の耕作地で、喜名は休閑地のことかとも思われる。知は火の訛りで、喜は木のことか。名は土地の意味であろう。しかし、沖縄県方面では「チ」と「キ」は混用される傾向にあり、知名も喜名も同じ発音・意味かも知れないので、お前の余計な妄想を言うなとお叱りを受けたら大変なのでお断りしておく。

★まとめ

智頭枕田遺跡が発見され、縄文遺跡と言われてからまだ20年足らずである。おそらく、インターネットなどではしゃいでいるのは一部の古代史好事家なのだろう。良い悪いは別にしてその道の大家はあまり関わりを持っていないようである。智頭枕田遺跡が発掘物から見て縄文遺跡であることは間違いないとは思うが、おそらく峠を越えた交易の範囲は畿内および吉備あたりが主要交易地ではなかったか。智頭商人はもっぱら陸路を移動したようで、同じ内陸の地の人と言っても大和国の人が海や川の航路を重視したのに対し大いに異なった交易路を取ったようである。これは智頭商人が単に中継貿易だけをしていたばかりではなく、何らかの自国特産品を背負って移動していたのではないか。智頭枕田遺跡から出てくる遺物は、爪形文土器、押型文土器、石鏃、石錘、石斧、石棒、石錐、石匙、石皿、磨石、土製耳飾、などと、何の変哲もないようなものばかりで、人間が生活していく上で必要なものである。土器や石器は重たいもので遠方への交易品としては不適当である。ところで、智頭はやや不適当かも知れないが、出雲国と吉備国の中間ほどのところにあり、特に近隣の美作国とは古代遺物が智頭枕田遺跡と奈義、津山は似ているものがあるという。「まがね吹く 吉備」と言われ備中の総社市域から美作の津山市にかけては古墳時代より製鉄遺跡が多いようである。五斗長垣内遺跡(兵庫県淡路市黒谷)、淡路市舟木遺跡(兵庫県淡路市舟木)(いずれも弥生後期後半~弥生終末期<2世紀後半~3世紀前半>の鉄器工房遺跡)があるので、これらの鉄器工房の原材料の鉄鋌の全部が朝鮮製というのもおかしく、智頭商人は津山あたりで鉄鋌を仕入れ、淡路島まで運んだのではないか。当時は日本には製鉄技術はないと言うが、淡路島や滋賀県彦根市の稲部遺跡の鉄器製造群落遺跡の規模から見て考えづらいことではないか。しかし、「弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップ」は未だ解決されていない、と言うのが通説とか。(日立金属)

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智頭枕田遺跡について

★はじめに

鳥取県というと著名な遺跡は妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡であるが、近時「智頭枕田遺跡(ちづまくらだいせき)」という降ってわいたような大物複合遺跡が出現し、発掘・研究が進み青森県の「三内丸山遺跡」や佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」ばりに有力な遺跡になるのかと思いきや、古い考古参考図書は言うに及ばず新しい参考書にもほとんど取り上げられていない有様だ。良くは解らないが「国民健康保険 智頭病院の建設によって、遺跡は消滅した」と言う。考古遺跡は記録保存もさることながら現状保存と言おうか現物を保存しておくことが重要で「三内丸山遺跡」や「吉野ヶ里遺跡」がその名をとどろかせたのも現状保存があったからこそではないか。もっとも、「三内丸山遺跡」や「吉野ヶ里遺跡」は県立の施設(吉野ヶ里遺跡は「国営吉野ヶ里歴史公園」として一部を国が管理する公園、と言う)で、町営の智頭病院とは政治力、資金力においても雲泥の差があったのかも知れない。残念無念の極みなのではあるが、一応、インターネットなどで報じられているところを見ると、「智頭枕田遺跡」の概要は、

智頭枕田遺跡

1.2017年(平成29年)3月までに計約80カ所の遺跡や遺構が確認された。
2.縄文時代から平安時代(縄文・弥生・奈良・平安時代)の複合遺跡である。
3.九州を除いた西日本では最大級の遺跡である。
4.遺物としては、石囲埋甕炉をはじめ、爪形文土器、押型文土器、石鏃、石錘、石斧、石棒、石錐、石匙、石皿、磨石、土製耳飾、など20万点を超える土器片が発見され記録保存されている。
5.2017年(平成29年)4月15日に智頭町歴史資料館(旧土師(はじ)小学校の校舎)を開館し、当遺跡などで見つかった土器や文化財約300点を展示している。
6.住民の居住の連続性がなかったのかは解らないが、「縄文時代では、早期から前期末、中期末から後期初頭、晩期の遺構・遺物が多量に検出された。」とある。
7.縄文早期以降どの時代でも、遠隔地との交通・交流を示す発見があり、交通の要衝としての役割を演じていた。
8.信州・北陸地方の浮線網状文土器や東北の変形工字文土器の出土。中国地方に普遍的な突帯文土器、弥生前期初頭の北九州系遠賀川土器の出土。
9.住居址の形は、長方形で2本の柱穴と石囲炉を伴っている。この住居形態は兵庫県東部(神戸市内の住居址遺跡のことか)で多く見つかっている。

今となっては上記のことが正か否かは判断が難しくなっているが、縄文時代の智頭枕田遺跡の人々は信州・北陸地方とか東北、中国地方、遠賀川、兵庫県東部などと言っているところを見ると、やはり東日本からやって来て中国地方の山間部(遺跡は標高180mという)に定住したのではないか。おそらく縄文人は北方系の人で暑さに弱かったのでこう言うやや冷涼の場所に居を構えたものと思われる。

★鳥取のこと

鳥取は一般的には、『古事記』(中巻・垂仁天皇)では「於是天皇因其御子定鳥取部鳥甘部品遅部大湯坐若湯坐」とか、『日本書紀』(巻第六・垂仁天皇・廿三年冬十一月甲午朔乙未)では「則賜姓而曰鳥取造因亦定鳥取部鳥養部誉津部」とか言い、「鳥取造(ととりのみやつこ)の管掌のもと、「鳥取部」は愛玩用の水鳥を捕まえる「部」で、「鳥養部」は捕獲した鳥を飼育し、養う「部」であったと推測される。」と理解されている。但し、異を唱える見解もあり、
「(地名学者の)谷川健一は、金属精錬と鳥の伝承との間には深い関係があり、「誉津別命」という名前が火の中で生まれたことを意味しており、「湯坐」の語に「融解した金属の湯」の意味が隠されていると指摘した。天湯河板挙と少彦根命との関連性などもあげ、雷神である饒速日命(にぎはやひ の みこと)を祖神とする物部氏は鳥養部を管轄していたのではないか、と見ている。」(谷川健一氏の地名関連の著作には<鳥取という地名>などとして述べられている)
しかし、これを子細に観察すると、「誉津別命」と言うのも、後世、応神天皇が諱を「誉田別(ほんだわけ)」と言い、旧名を「大鞆和気(おおともわけ)」と言ったという。誉津別と誉田別とはなんとなく似た部分もあり、応神天皇が大鞆和気から誉田別に入り婿あるいは養子になったとすると「子孫もいない誉津別命の説話が長々と『記紀』に語られているのはおかしい」と言う批判も、元々は応神天皇に付属した説話だったか。また、応神天皇陵とされる「誉田御廟山古墳」も「東側の内濠と内堤が大きくくびれており、そのくびれ部に接して「二ツ塚古墳」があります。これは、二ツ塚古墳が先に造られていたためにこの部分の濠と堤を屈曲させて誉田御廟山古墳を築造したと考えられています。」とか、「大王の墓を造るに当たってわざわざ本来の設計を変更し、変形させてまでして残された二ツ塚古墳とは、いったいどんな人が葬られていたのでしょうか。」とか言う疑問も呈されている。応神天皇には非常に気を遣わなければならない養父とかその種の人がいてこんな御陵になったのかと思われる。墓の主は誉津別命のことか。
「湯坐」、「天湯河板挙」の「湯」の意味については多々あり、①溝。溝川。用水路。②ヰの転。温泉ではなく、「井」即ち「泉」の意。③湯。特に、温泉。④ユミ(弓)の略。⑤ユズ(柚)の略。⑥イハ(岩)の転の
ユワの略。⑦ユ(油)で石油の湧出にちなむ。⑧ユ(斎)で「神聖」の意味。⑨動詞ユル(揺、弛など)の語幹に由来し「地盤がゆるむ」。⑩動詞ユル(淘)の語幹で、砂丘など砂がゆりあげられた地。⑪形容動詞ユル(緩)の語幹で、「緩傾斜地」を言う。
一般的には、1、2、9、10、11、4、6、7あたりの意味で使用されるとか。谷川健一説の<「湯坐」の語に「融解した金属の湯」の意味が隠されている>というは穿ち過ぎか。
湯坐(ゆえ)の語が出てくるのは『古事記』中巻・垂仁天皇段で「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉。」とあり、湯坐とは子代の一般名称か。同類の表現には『新撰姓氏録』の丹比宿祢の記事中「奉号曰多治比瑞歯別命。乃定丹治部於諸国。為皇子湯沐邑。」<湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)は、飛鳥時代から平安時代までの日本で、一部の皇族に与えられた領地である。>と言う。『日本書紀』(巻第二十九)天武天皇十三年(684)十二月に大伴連以下に宿禰を与えたときに大湯人連・若湯人連とある。大湯坐・若湯坐の伴造か。以上より湯坐は金属の湯とは関係がない。おそらく古代にあっては乳幼児は産湯から始まり三日ごととか定期的に入浴を行っていたのであろう。乳母の主要業務は入浴をさせることではなかったか。
天湯河板挙命であるが、河板挙(かわたな)は現今で言う河岸段丘のことかと思われる。湯は川のことか。即ち、天湯河板挙とは河岸段丘に居を構え捕鳥を業としていた人ではないか。垂仁天皇とて全くの素人に鵠の捕鳥を命じたわけではなくそれを生業にしていた天湯河板挙に依頼したのであろう。
ところで、ここで言う「鳥取」とはどういう意味なのであろうか。『記紀』によると「鳥取部」は愛玩用の水鳥を捕まえる「部」で、「鳥養部」は捕獲した鳥を飼育し、養う「部」であったと推測される、と言う。おそらくこれは後世の概念で描かれたもので、『記紀』に出てくる鳥取の類話としては、『古事記』中巻・神武天皇段「宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流(うだの たかきに しぎわなはる わがまつや しぎはさやらず いすくはし くぢらさやる)と言うのがあり、我が国においては鳥類は有史以来食用と認識されていたのではないか。中には垂仁天皇の誉津別命の説話を全否定する先生もいる。一応、『和名抄』では鳥取郷という郷は、因幡国邑美郡鳥取郷・河内国大県郡鳥取郷・和泉国日根郡鳥取郷・越中国新川郡鳥取郷(「今亡」)・丹後国竹野郡鳥取郷・備前国赤坂郡鳥取郷・肥後国合志郡鳥取郷の七カ所になっている。これに対し鳥養郷は筑後国三瀦郡鳥養郷のみである。鳥取郷・鳥養郷はなぜか中部・東海以東にはなく、かろうじて富山市以西となっている。しかも、越中国新川郡の鳥取郷は「今亡」との注がある写本があるといい、あるいは、早くに消滅していたのかも知れない。鳥取郷はやや持って大和朝廷勢力が強いところにあり、鳥取造、鳥取部などは何らかの政治的意図のもと置かれたものか。単に愛玩用の水鳥を捕まえる「部」ではなかったと思う。鳥取、鳥養の地名が西日本を中心に分布しており、白鳥飛来地と関係するのであろう、との見解もあるが、鵠(くぐい、白鳥)からの連想かと思うが、白鳥は留鳥のほか渡り鳥がおり今は北海道を初めとする東日本で越冬することが多いのではないか。また、鳥を霊鳥として呪力を期待する向きもあるが、多くの動物にはそのような力が備わっている。従って、当時の人にあっては鳥類は食用動物であって、愛玩動物として飼養するのは非常に少ないと思われる。おそらく、白鳥が出てきたからこんな話になったのであって、一般的な鳥類としてはカモ(鴨)とかシギ(鴫)とかが多かったのではないか。
話は横道にそれるが、因幡国には古墳造営に関わる氏族が多い。古墳造営者には中央では土師氏とか伊福部氏とかが有力であるようだが、地方では尾張氏、石作氏、出雲氏、伊与部氏、神門氏、六人部氏、水主氏、三富部、五百木部等があり、土師氏は因幡国八上郡土師郷または因幡国智頭郡土師郷に由来するか。伊福部氏は宇倍神社神主兼因幡国造。尾張氏は因幡国智頭郡佐治郷(現・鳥取市佐治町)の佐治氏は本姓を尾張氏という。また、因幡国巨濃郡宇治郷は武内宿禰の出身地で、景行天皇(恩志呂神社神官か。本名は忍代別)とは同郷の人で土建国家として国家復興を果たそうとしたのではないか。手っ取り早いのが古墳造営だった。古墳造営の総監督は武内宿禰で、土師氏が土木工事、伊福部氏が石材工事を担ったのではないか。次いで、垂仁天皇の誉津別命の説話も因幡国邑美郡(おうみぐん)品治(ほんじ)郷・鳥取郷とあるように現在の鳥取市界隈にあった説話を寄せ集めたものではないか。誉津別命の説話を全否定する先生がいるように同説話は本物の垂仁天皇とは全く関係がないような話ではないのか。鳥取についても因幡がイナ(砂地)ハ(端)で鳥取砂丘そのもののことかとも思われる地名だが、当該地は潟湖が多いようで渡り鳥の飛来地としては絶好の場所とも思われ、捕鳥の民としての鳥取部がいたとしても全くもっておかしくはない。しかし、宇倍神社を見るに、祭神は「本来は伊福部氏の祖神を祀り、後に武内宿禰命を祀るとされた」と言うが、初めから古墳造営の総監督武内宿禰命で、「本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部であり、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたとされる。」とあるが、宇倍神社自体が古墳に由来するものではないか。摂社に、国府神社があるが周りの神社を合祀し祭神は、建御雷神・日本武尊・速佐須良比咩神・武内宿禰命・伊弉諾尊・菊理姫命・土御祖神・奧津彦命・奧津姫命・宇迦之御魂命の10柱と言う。これも古墳造営には各種の職人さんが必要でこんな結果になったのだと思う。

★まとめ

因幡国は出雲国の後塵を拝してあまり著名ではないかも知れないが、我が国草創期(因幡の白兎の説話)から勃興期(誉津別命の説話)などにその足跡が垣間見られる。その基盤となったのが縄文時代から平安時代までの長きにわたって因幡国に影響を与えてきた智頭枕田遺跡の功績ではなかったかと思う。同遺跡と出雲国や大和国の交流関係は具体的にははっきりしないが、縄文弥生の時代はまだ九州を除いて東日本の方が先進的であったと思われ畿内、東海はまだ中継点の域を出なかったのではないか。智頭枕田遺跡の人々にとっては目的地は東は関東、西は九州北部だったと思われる。「弥生中期の土器は、山陰、吉備、畿内で使われたものが出土しており、これらの3つの勢力が智頭町で交差していたことを示す。」という。関東と九州は脱落したと言うことか。山陰、吉備、畿内は『魏志倭人伝』 にも出てくる古代国家の基礎ともなる地域で山陰(投馬国・出雲国)、吉備(狗奴国・吉備国)、畿内(邪馬台国・大和国)と思われる。
とにもかくにも、こう言う重要遺跡を記録保存のみと言うのは文字の解釈即ち文学的解決では話にならない。やはり現状保存をして後世の優秀な先生に解釈してもらわねば正しい結論は出ないのではないか。残念至極である。

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虎柏神社

延喜式神名帳の武蔵国多磨郡八座の内に虎柏神社と言うのがある。写本によっては「トラカシハ」と読みがついているらしい。動物の虎は多摩地域はもとより日本には古代より生息しなかった動物であり、この虎の字は当て字で柏の形容詞かと思われる。ちなみに、延喜式神名帳の虎柏神社には論社が二社あり、一方は虎柏神社と書く東京都青梅市にある神社であり、他方は虎狛神社と書き東京都調布市にある。調布市の虎狛神社は「こはく」(この読みが一般的で、地元でもそう読まれているようである)ないし「こま」(武蔵国多磨郡狛江こまえ郷にあったからと言う)と読む人もいる。虎柏は虎狛の誤写で狛江郷由来の神社名と言ってしまえばそれで終わりだが、一応、トラカシハと読みまで付けている写本があるので、それが正とは言い切れないがそれに副って話を進める。
 虎は何も動物の虎だけではなく、地名にもついている。例として、虎、寅、都羅、登良、東浪などと書かれ、青森県南部町の旧・名川町虎渡(とらと)や千葉県一宮町東浪見(とらみ)(江戸時代には虎見之郷と書いたらしい)などがある。また、寅の字を用いて寅の年、寅の月(旧暦1)、寅の日(月に2回あるという)、寅の刻(午前4時頃)、寅の方(およそ東北東の方角)などを表すが、動物の虎と寅の字は元々意味が違うそうな。従って、日本でも「トラ」と言ってもいろいろ意味があると考えられる。
 まず、地名の「トラ」の語源として有力なのは、トラク(蕩、散(バラバラになる)の語幹「トラ」と関係し、崖など崩壊地形・浸食地形を言うか。また、蕩の字はとろける、とろかすなどを意味するので泥状の土地を言うか。とらかす(蕩かす、盪かす)のトラを語源とするらしい。
 動物の虎はどうか。古朝鮮語の虎を意味する「ホーラ」が日本語化してトラとなった、や、日本語の「捕らえる」の語頭がトラになった、「鋭(と)ら」の意で鋭い猛獣、などが有力である。
 虎柏神社の虎柏は地名と推測され、トラカシハ→トラカシ→トラカスと変化し、元の土地を開墾してバラバラにした土地、とか、泥土を言うものか。また、調布市の虎狛(こはく)神社のように読むとコカシハとなり、宇都宮市の古賀志山(こがしやま)と関係があるのか。
 なお、動物の虎の語源であるが、虎の文様に注目してみたい。古代の人はあの虎模様を樹木で言うと年輪、日時計で言うと時刻を示す棒の陰を連想し、時(とき)、年(とし)の「と」と接尾語あるいは複数を表す「ら」を付けてトラと言ったのではないか。虎ははっきりはしないが、万葉仮名で書くと「刀良(とら)」、「刀良売(とらめ)」(いずれも人名)となり、刀は甲類のトと言う。しかるに、「時」の万葉仮名は和段、等伎、「年」の万葉仮名は和級、登斯と書きいずれも乙類のトであるという。よって、時や年の「と」は虎の「と」とは違う、と。しかし、少し時代が下るが和名抄では虎を「止良」と読んでいる。止は乙類のトである。当時は奈良と京都の言葉には少し地域差があったようで断言はできないが、私見のような考えもあり得るのではないかと思う。但し、和名抄の時代には甲類乙類の区別はなくなったというのが通説である。しかし、甲類乙類の分類は奈良盆地だけの方言であり、ほかの地域までに及んでいないという有力説もある。なお、偶然ではあろうが、虎柏神社と虎狛神社の主祭神は大歳御祖神と言うマイナーな神(但し、中部地方より以西には多い。奈良県の葛木御歳神社が総本社という)となっており、神名に「歳(とし)」の文字がある。農業神と言うことであるが、神名からして年や時には関係がないのだろうか。ちなみに、この場合の「歳(とし)」は稔(みのる)の意味であって、一年、二年を意味する歳()の意味ではないと言う。

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御柱祭のこと

今年(20104)は長野県諏訪大社の7年に1度の御柱祭だそうで、連日、テレビではその勇壮な様が放送されている。観客と言っては失礼かも知れないが、見学者の中には次回は見られないかも知れないと言って真剣そのものの人もいる。その起源を尋ねれば、平安時代初期まで遡るとか。地方の神社なので記録が残りづらいのかも知れないが、近時、御柱祭イスラエル起源説が気を吐いているようだ。Googleで検索をすると日本語のページ(もっとも、外国ことにイスラエルでかような説が顧みられているとは思われないが)だけで約20000件とあった。ものすごいエネルギーでこの説の信奉者が増えていることは想像に難くない。しかし、日本人がどうしてこのような説に飛びつくのか分からない。或いは、日本人には外国かぶれの人が多く、何でも似た外国の事柄を日本の事柄の起源に結びつけると支持を得られるのであろうか。

 まず、ユダヤの行事が日本に入ってきたと言うからには、ユダヤ人が日本に来訪したと考えられる。しかも、木材の切り出しのような作業を伴うことなので一人や二人では足りず、少なくとも十名単位の人数が必要と思われる。しからば、奈良時代や平安朝初期にさような大勢の外国人が来朝したのだろうか。おそらく、ここで言う外国人とは中国系ユダヤ人のことであり、ユダヤ人が中国まで来た足跡の詮索は割愛するとして(一足飛びにユダヤ人が日本にやって来たとは考えられない)、奈良時代や平安朝初期に日本に大陸難民が大量に流入したのは高句麗の滅亡(668)による高句麗人の流入がある。716(霊亀2)、これらの難民を一ヶ所に集めるため武蔵国に高麗郡を設置し、関東界隈の7ヶ国1799人の高句麗難民を高麗郡にうつしたという。おおざっぱに見ても大量の難民が大陸からやって来て、日本各地に住み着いたことが分かる。ちなみに、この7ヶ国は甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野で信濃はない。その中に、中国在住のユダヤ人がいてもおかしくないのかも知れないが、ユダヤ人は、古来、商才や学才に恵まれ中国政権の中枢に食い込んでいたと思われ、辺境の地である高句麗などにはいなかったのではないかと思う。大陸や韓半島の政変の度に日本が多かれ少なかれ影響を受けたことは間違いないだろうが、その際文物は日本に入っても、作業までが日本に入ったかははなはだ疑問だ。そもそも中国に日本の「御柱祭」に類似の祭事が残っているのだろうか。但し、世界中には柱信仰や木信仰があるようで、御柱祭のように聖地に柱を立てたり、木を立てたりする行事は珍しくないそうな。

 御柱祭の最終目的は四本の柱を立てることにあると思うが、これは神道の「ひもろぎ」のことと思う。常設の神殿ができる前の祭事の際の施設(神の坐、依り代これを「ひもろぎ」と言う人もいる)であり、四隅には榊か竹(榊が一般的)が立てられると言う。しかし、「ひもろぎ」には常磐木(常緑樹)が使用されるのに対し、御柱祭では丸太が使用されるので、地鎮祭説もある。宝殿の式年造営と考え合わせると地鎮祭説が正当か。宝殿の地鎮祭における「ひもろぎ」がデフォルメされたものが御柱祭か。もしそうなら、御柱祭は縄文時代や古代イスラエルに源を発する神事ではなく、常設の神殿が作られた後の比較的新しい神事ではないか。そうは言っても、諏訪大社上社本宮は広大な社背林を有し、これが神体山と称せられ、本殿はない、というのは、大和国最古の神社とされる大神神社と同じである。縄文、弥生の系譜を受け継いでいるものなのであろう。

 大野晋博士ばりにヘブライ語の単語を拾い出し、日本語の単語との類似性を説いて御柱祭がイスラエル起源であると説く見解もある。1200年以上前の日本語の発音とヘブライ語のそれとがどれほどの共通点を持っていたかは分からないが、論者の中には無理な当て推量ではないかと思われるものもある。それに、そんな比較はユダヤ人が直接日本に来て、彼らの発音をそのままうつしたというなら比較もできるが、おそらく中国人のフィルターのかかった、或いは、現在の比較であろう論者の見解は首肯しがたい。

 そのほかに、イスラエルにモレヤ神とかモレヤ山とかがあって、諏訪の洩矢神や守屋山はその後という。洩矢はモレヤと訓ずる人とモリヤと訓ずる人がいるが、もし「モレヤ」と読んでも森(もり)屋のことではないか。即ち、森の誤読の範囲ではないか。例えば、英語のrecordをレコードと発音する人と、リコードと発音する人がいる類。柱の語源も古代イスラエルの女神アシラ(アシュラ)だ、と言っている人もいるが、柱は嘴、箸、橋などと同じ、端を語源とする同根の言葉ではないのか。アシラとか言う言葉を語源とする孤立単語ではないと思う。

 また、洩矢神について見てみると、

 諏方大明神画詞
 「尊神迹垂ノ昔、洩矢ノ悪賊神居ヲサマタケントセシ時、洩矢ハ鉄輪ヲ持シテアラソヒ、明神ハ藤ノ枝ヲトリテ是ヲ伏シ給フ」

 洲羽事跡考
 「橋原村に鎮座する守屋大明神と川向なる何某の神中あしくおはせし・・・此守屋の神はしめは大明神(諏訪大明神のことと思うが他地区の大明神かとも筆者)を拒み給ひて後に服従し給ひし神也」

 などとあるように、洩矢神は悪賊とまではいかないまでも腕力を恃み、他の地区と諍いばかりを起こし、今で言うトラブルメーカーになっていたのではないか。そのためか、よそ者である建御名方命と一戦を交える際、彼に助力してくれた地元の大明神は誰もいなかったのではないか。洩矢神が諏訪地方の主となれなかったのは、何もイスラエル人の子孫であったので白眼視されたためではなく、近隣対策に難があったためだと思う。

結 論

 多数説は建御名方命は出雲の神ではない、即ち、大国主命の御子ではないと解釈している。そうなれば、彼は新来神か地主神と言うことになる。まず、新来神とすればどこからやってきたのだろうか。学者ではっきり説く人はいないようだが、天竜川を遡上してきて諏訪地方に稲作を伝えたと言う見解がある。さもありなんという見解ではあるが、天竜川のどこいらから来たか、またその先も判然としない。そこで、私は新来神とするならば新潟県糸魚川市から来たのではないかと思う。当てにはならないが、先代旧事本紀の地祇本紀では、建御名方命は大己貴神と高志沼河姫の間の子となっている。建御名方命は、事代主命が宗像(魏志倭人伝に言う不弥国)に生まれ大国主命が出雲に連れ帰り帝王教育を行ったのとは異なり、そのまま生まれ故郷に滞在していたのではないか。その後、機会があって諏訪地方に進出したか。地主神とするなら、諏訪湖を囲んで有力豪族として岡谷市の洩矢神社にいた洩矢神、下諏訪町の諏訪大社下社にいた建御名方命の妃神という八坂刀売命(但し、上高地の穂高見命の妹説あり)の実家及び諏訪市の諏訪大社上社の建御名方命であろうか。三者が鼎立状態だったが、建御名方命と八坂刀売命の実家は連合を組み洩矢神を封じ込めたのであろう。もっとも、諏訪大社下社がそんなに古くからあったのかと言われる向きもあるかも知れないが、そこにさような有力豪族がいたと言うこと。また、諏訪社の鎮座縁起では、建御名方命が諏訪湖の水の神を打ち負かし、これを眷属にすると言う話があるそうな。私見は、地主神説をとり、建御名方命と八坂刀売命の実家が連合して回りの有力豪族を征服し、諏訪の地を平定したものと考える。 日本の伝承や神話では新来者や外来者は、どこから来たか分からないので、まず近くの山頂に天降り、その山頂から里(里宮)にやって来るというものがほとんどだ。その極めつけは穂高見命で、まず標高3190mの穂高岳(あるいは、上高地)に天降り、そこから徐々に開発を進め、里(穂高町)へやって来たという。建御名方命にはさような伝承はないので、地主神ではないか。
 そこで、御柱祭の建御名方命に絡む起源だが、やはり外来者が絡むのであろうか。考えられることとしては、先代旧事本紀の国造本紀では成務天皇の御代、出雲族兄多毛比命が无邪志国造に任ぜられたとある。信じるか信じないかは別として、当然、兄多毛比命は出雲より无邪志へ渡ったはずで、私はその実体は出雲族一団による无邪志の開拓だったのではないかと思う。一昔前の言葉で言うと満蒙開拓団とでも言うことか。その行程としては、まず大国主命の頃よりの高志における出先機関であった今の糸魚川市へ渡り、その後、姫川沿いを南下し、穂高(穂高神社の地)では安曇族に出会い、開拓の話を聞き(日本の盆地の伝承の多くは、その盆地は昔湖沼で開拓者が来て湖沼の水を抜き沃野にしたというもの)、その後、諏訪の地に到達したのではないか。諏訪では地場の人で開拓意欲に乏しかった建御名方命もしくはその子孫の人に、諏訪湖の水を抜いて沃野にするとか、出雲大社ばりの大きな神殿ないし邸宅を建てるとか、大きく吹いたのはいいが彼にはそんな土木技術や建築技術はなかったのではないか。即ち、御柱祭とは兄多毛比命が建御名方命あるいはその子孫の人の大邸宅を建てるために裏の守屋山から木材を切り出したはいいが、完成できぬまま、あるいは4本の掘っ立て柱を立てた後に无邪志へと旅立ってしまった。そもそも、兄多毛比命の取り得はあちこちに寄ってきたため見聞が広いだけ。残された諏訪の人は訳の分からぬままみんなが力を合わせて行った作業なのだからと神事に格上げしたのではないか。 もっとも、一般的に御柱祭の始まりとされる平安朝初期と兄多毛比命の時代は大いに違う(500年ほどか)。いくら満6年に1度の行事と言っても、記録が現れる前に500年も続くものかは疑問である。古代においてこの種の行事を行うのは住民の団結を図ることが狙いと言われるが、諏訪の人は平安時代から現代まで1200年はその団結を誇ったが、それ以前はどうだったか。何とも判断がつきかねる。
 そのほかに、御柱祭を行う神社として長野県上田市の生島足島神社(名神大社)がある。しかし、此方は摂社で下社と称する諏訪神社の御柱祭が取り入れられたものではないか。生島神、足島神は大和朝廷の神で地主神の諏訪神を下に見て、諏訪神は二神に奉仕する神になっている。但し、神社の由緒では二神は建御名方命より先に信濃に居て(地主神か)、後から出雲よりやって来た建御名方命はこの地に逗留した際、二神に米粥を煮て献じたという。また、「全国神社名鑑」では、建御名方命が米粥を献じたのは「土民大神」という。或いは、生島足島神社の本来の祭神(地主神か)は此方の神で生島神・足島神は、後世、国司が類似の神として大和から導入し、祀った神か。御柱祭の起源についても神社は独自の見解を述べている。即ち、建御名方命がこの地を去る際、二神に御柱を奉ったことに由来すると言う。よく分からないが、何でも諏訪神の上でなくちゃあならないようだ。神名を見ても、南方富命と八坂刀売命の富(トミ)と刀売(トメ)は中央の彦(ヒコ)、姫(ヒメ)の信濃版のように感じるし、南方=水方と八坂は湖と山の対をなした名前ではないか。信濃に根ざした神名のように思うのですが。だから、信濃のみならず全国区の神社になったのではないか。

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恩荷のこと

★はじめに

恩荷でインターネットを検索すると「秋田県男鹿で、地元の若者を中心に結成された和太鼓団体。」というのが頻繁に出てきて、元祖「恩荷」さんはWikipediaとコトバンクでしか出てこないようだ。それに読みも従来の「おが」ではなく「おんが」と言うらしい。恩荷さんの時代は「おんが」などと言う読みはなく「おが」が正当と思われるが、和太鼓団体が蝦夷の恩荷とは関係がないと言われればそれまでのことではある。一応、ここで論じるのは人物の恩荷さんであって和太鼓団体の「恩荷」ではない。
恩荷は『日本書紀』斉明天皇4年(658年)段にわずかばかり出てくる人物で国政に大きく寄与したとか、特異な活動をしたとか言うような人物ではない。現在の秋田市から能代市にかけての地元の有力者であったことは間違いないだろうが、正史で取り上げるほどの人物かどうかはその後の活躍の記録がないのでなんとも言えないが、ただ、阿倍臣某(比羅夫と言うのが通説)から小乙上の冠位を与えられたと言うので大和朝廷よりそこそこには期待されていたのであろう。阿倍臣某が冠位を与えたというのは現代流に言うと阿倍臣某は知事で市町村長を任命したと言うことだそうな。『日本書紀』で恩荷が出てくるところは、
『日本書紀』巻第二十六斉明天皇紀で、
「四年春正月甲申朔丙申、左大臣巨勢德太臣薨。夏四月、阿陪臣闕名率船師一百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降。於是、勒軍陳船於齶田浦、齶田蝦夷恩荷進而誓曰「不爲官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓失、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上、定渟代・津輕二郡々領。」と言うもので、

齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降とは、「齶田(あぎた)(秋田),渟代(ぬしろ)(能代)の蝦夷が恐れて降伏を乞うたとき」
勒軍陳船於齶田浦とは、「軍船を整え、齶田浦に停泊した」。齶田浦は旧雄物川河口か旧雄物川河口から男鹿市船川港あたりまでのどこかと言う見解が有力。
齶田蝦夷恩荷進而誓曰とは、「齶田蝦夷の恩荷が進んで誓って言うには」
定渟代・津輕二郡々領とは、「渟代・津輕二郡の郡領(後の郡司のこと)を定めた」ここも意味不明で恩荷が齶田、渟代、津軽の郡領になったのか。恩荷は齶田の郡領で、渟代、津軽には別の郡領が任命されたものか。一応、恩荷は「齶田浦神」とも言っているので、齶田郡領かとも思われ、また、全くの蝦夷ではなく畿内の事情にも通じた蝦夷であったと思われる。阿倍臣某とも言葉が通じているようなので強烈な方言の使用者ではなかったと思われる。現代的に言えば秋田紳士とでも言うべき人物なのであろう。

★恩荷はどこに住んでいたの

恩荷と言う名前は、男鹿半島の男鹿に由来するものというのが多数説のようだが、発音が違うという説がある。男鹿(をが)と恩荷(おが)の違いである。現在の日本語はいわゆる標準語で統一されているが、飛鳥時代の日本語がどの程度統一されていたかははなはだ疑問だ。「を」と「お」を厳密に区別していたかは不明だし、両音を区別できる耳をみんなが持っていたかどうかも解らない。また、恩荷と男鹿を関連付けるのは付会に過ぎないと言う説もある。そこで、恩荷と言う言葉がどういうところから発祥したかを見てみると、地名としては齶田浦(あぎたうら)、人名としては齶田蝦夷恩荷(あぎたえみし・おが)と言うことで、齶田および齶田浦が重要なポイントとなる。齶田郡とはどの程度のところを言うのか。一説に、「桓武天皇の頃、その管轄範囲の南と東を河辺郡に接し、北端は馬場目川流域付近まで」と言う。現在の市町村で言うと、秋田市、潟上市、五城目町、男鹿市あたりまでなのだろうか。
恩荷に関係する事項としては、五城目町に旧大川村があり、現在は五城目町大川大川というもののようである。古代では大川は「おほかは」ないし「おほがは」で、「おほ」が「お」となることは多くの先人が認めているところであり、「かは」ないし「がは」は「は」の音が略されて、「おほかは」は「おか」ないし「おが」となって「恩荷」の原形となったのではないか。また、この地域は、平安時代後期から鎌倉時代前期の武将に大河兼任(おおかわかねとう)という人がおり、やや大げさな表現をすると恩荷の直系の子孫か。
齶田浦神とは、副川神社(そえがわじんじゃ。秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町。祭神、天照大神、豊受大神、素盞嗚大神)のことか。おそらく当時の祭神は齶田浦大神とかいって地主神だったのだろう。
また、恩荷の元となった地名として大方、大潟などと書かれる八郎潟に関わる地名がある。読みは「おほがた」で、これも「大」は「お」、方、潟は「が」で恩荷の語源の元になり得る。恩荷は大潟(八郎潟)の出身者か。秋田県から新潟県にかけては「潟」のつく地名が多い。広域で漁業を行い交易をしていたのではないか。
いわゆる「秋田村高清水岡」との関係だが、高とか岡とか高所を言いながらどうして高清水岡というのかと思いきや「秋田市寺内大小路(通称「桜小路」)に今もこんこんと湧く霊泉「高清水」にちなんだもの」という文章があり、湧水にちなんだものらしい。秋田の語源は「アギタ」と言い、アギは高所、タは処で、秋田村は現今で言う高清水丘陵(一部は現在高清水公園となっている)のことで標高40mほどの丘陵地とあるので海上からは目立ったところではないかと思われる。秋田のビバリーヒルズだったのだろう。とは言え、当時の秋田県は現今で言う過疎地域で人もまばらな田舎町だったようだ。人間誰しも不便な過疎地よりは人が多く住む都会を好み、当時の秋田県人も海岸沿いの山海の珍味のとれる海沿いの地域に住んだのではないか。
恩荷と考古遺跡だが、今のところ恩荷の時代にまつわる遺跡は発見されていないと言うことだ。近似の遺跡としては、
男鹿市脇本小谷地遺跡(男鹿市脇本富永字大牧、奈良時代、平安時代)
秋田市一ノ坪条里制遺構(秋田市泉一ノ坪、飛鳥・奈良時代、平安時代)
由利本荘市西目町宮崎遺跡(由利本荘市西目町沼田字宮崎、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥・奈良時代、平安時代)
五城目町石崎遺跡(秋田県南秋田郡五城目町大川石崎、平安時代)
など。
一応、ここでは恩荷の活動範囲としては旧秋田郡と解しているが、大河・大川を米代川と解する向きもあり、当時一つの地域社会がそんなに大きなものだったかは疑問である。

★恩荷の活動は

恩荷に関しては地元に記録や伝承がないようで、どのような人物だったかは全く不明である。「持弓矢」とか「奴等性食肉故持」とか言っているので、山の民と思われがちであるが、弓矢は何も獣類ばかりを捕るためではなく魚を捕るためにも使われ、名前の解析からは山野ばかりでなく川や湖沼、海に生活の糧を求めた人ではなかったかと思われる。従って、恩荷が本拠地として活動したのは現在の潟上市で、特に、潟上市役所界隈はやたらと神社が多い。例として、北野神社、住吉神社、二田神社、神明神社、諏訪神社、西宮神社、八竜神社(八郎潟は元は八竜潟だったか)、伊豆神社、東湖八坂神社などが散見する。後世、いろいろな国の来訪者があったかと思うが、恩荷の時代もこのあたりが秋田郡の中心で少ないなりにも人口は多く、齶田浦神を祀った神社は副川神社でそこが秋田郡の神霊の宿る神体山であったかと思われる。但し、この神社は古四王神社(こしおうじんじゃ)(秋田県秋田市寺内児桜一丁目、祭神は大彦命、武甕槌命)というのが有力。「社伝では、崇神天皇の時代、四道将軍大彦命が蝦夷を平定するため北陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀り、次いで斉明天皇の時代、阿倍比羅夫が秋田地方に来た折、自らの祖である大彦命を合祀し、越王神社(古四王神社)として創建した」という。
恩荷の位階を詮索する向きもあり、「この年(斉明天皇4年<658年>)7月には都に蝦夷が来て位を授けられており、渟代郡大領の沙尼具那が小乙下、津軽郡大領馬武が大乙上とある。これに従うなら、齶田は渟代より上、津軽より下という位置づけであり、さらに言えば、都岐沙羅柵や渟足柵の柵造より馬武と恩荷の位は高かった。」と。『日本書紀』原文は、
「秋七月辛巳朔甲申、蝦夷二百餘詣闕朝獻、饗賜贍給有加於常。仍授柵養蝦夷二人位一階、渟代郡大領沙尼具那小乙下或所云授位二階使檢戸口、少領宇婆左建武、勇健者二人位一階、別賜沙尼具那等鮹旗廿頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領。授津輕郡大領馬武大乙上、少領靑蒜小乙下、勇健者二人位一階、別賜馬武等鮹旗廿頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領。授都岐沙羅柵造闕名位二階、判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下。又詔渟代郡大領沙尼具那、檢覈蝦夷戸口與虜戸口。」
この序列は当然と言えば当然で、遺跡などから判断すると津軽は文化程度も高く、人口も多く陸奥や出羽の文化の中心地ではなかったか。それに比べて秋田(齶田)、能代(渟代)は人口も少なく、津軽の後塵を拝していたのではないか。郡領は行政官であり、柵造は守備隊長などであろうから行政官の地位は守備隊長の地位より高かったのではないか。現代的感覚と比べても非常識なものではない。

★まとめ

恩荷は阿倍臣某の北伐で「百八十艘伐蝦夷」に驚ろき「齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降」即ち、齶田、渟代の蝦夷は早々と降伏し、その敗者の代表者のように描かれている。百八十艘などと言ってもはなはだ疑わしく、実数はその半分以下くらいではなかったか。兵員ともなると多く見積もっても百人程度のもので北伐の最後を宴会で締めたというのも(遂於有間濱、召聚渡嶋蝦夷等、大饗而歸。)全くもって現代とは違うものだ。あの手この手を使って敵軍を懐柔することが当時の戦法のようである。恩荷もそのことを承知で大和朝廷の傘下に入ったのだから津輕郡大領馬武大乙上、齶田郡(大領)恩荷小乙上、渟代郡大領沙尼具那小乙下には納得していたのではないか。こう言う序列になったのも何にもまして齶田郡・渟代郡の人口が少なく過疎地だったと言うことではないか。阿倍臣某には対抗する力がなかった。
恩荷自体は当時の齶田郡の中心地だった現在の潟上市に住んでいたのではないかと思われるが、大和朝廷進出後は齶田郡の中心は徐々に秋田村高清水岡へ移り、関係者も引っ越していったのではないかと思われる。恩荷のような旧派の人は旧地に取り残されてしまった。当然のことながら大和朝廷の記録からも取り残されてしまったと言うことかと思う。恩荷は行政官としては過疎地域で何もできなかったようだが、子孫には大河兼任がいたのだろうか。但し、大河兼任は「安倍貞任、安倍宗任の弟、安倍行任、安倍家任の兄弟・安倍正任が兼任の高祖父にあたるという(正任の4代孫)。」という説もある。あるいは、大河兼任は父母ともに不明と言い藤原泰衡の郎党であったというので奥州藤原氏の一族という人もいるようだ。五城目町大川大川の出身とも言うので大河即ち恩荷の子孫と思った次第だ。
以上より恩荷の齶田郡は飛鳥時代とは言え縄文末期のような生活様式を残しており、山の民の生活と共に海の民の生活も兼ね備えていたのではないか。阿倍臣某の北伐では齶田郡・渟代郡連合軍の敗戦受諾署名者になっているが、両軍は実践では何の役にも立たなかった。
恩荷と男鹿半島は少しばかり違い、恩荷の活動範囲は現在の男鹿市中心部にまでは行っていなかったと思われる。また、恩荷が高清水岡に居住しなかったのは標高40mとは言え、高地と平地の上り下りは大変だったと思われる。政情不安定なときにはそんなことはできないと思われる。恩荷と阿倍臣某のその後の関係は良好だったかも知れないが、阿倍臣某に取っては恩荷はすでに過去の人になっていた。やはり恩荷の老後は現代と同じように無聊を託っていたと言うことか。

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加夜奈留美命について

★はじめに

加夜奈留美(カヤナルミ)命とは、『記紀』には記載がないが、『延喜式』「祝詞式」にある『出雲国造神賀詞』に登場する神で、言わんとするところは、

「乃ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して己命の和魂を八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ、己命の御子、阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築宮に静まり坐しき。」、と。

大穴持命(大国主命)を倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に、阿遅須伎高孫根命を葛木の鴨の神奈備に、事代主命を宇奈提に、賀夜奈流美命を飛鳥の神奈備に、それぞれの上の御魂を、皇御孫命の近き守神と貢り置く、と宣う。

それぞれの神が鎮座しているところは、大神大物主神社(現・大神神社)、高鴨阿治須岐託彦根命神社(現・高鴨神社)、高市御県坐鴨事代主神社(現・河俣神社と言う。異説あり。)、加夜奈留美命神社と言うのが多数説のようである。

なお、カヤナルミの漢字表記は、神賀詞では賀夜奈流美、飛鳥坐神社・加夜奈留美命神社では加夜奈留美とされていて女神説が圧倒的多数だが、男神とする説もある。

ところで、加夜奈留美命神社であるが、多数説が信ずるところは以下の通りである。
「江戸時代まではこの神社は、葛神(おそらく神社名は葛社と言っていたかと思う。九頭とも書く。)を祀っていたという。カヤノモリとカヤナルミが類似するため、『大和志』(享保21年・1736刊?。幕撰地誌。)では「延喜式」神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」を当社にあて、それ以来、式内社として治定されて現社名で呼ばれるようになったという。根拠は「栢森」を加夜の杜と理解したものであり、ここからは飛鳥に遠く、飛鳥からは見えない難点がある。この説では、葛社と加夜奈留美命神社は無関係で単に語呂合わせで式外社の葛社が式内社の加夜奈留美命神社とされたと言うようである。
そもそも、皇御孫命の近き守神が鎮座する神社は、大神神社、高鴨神社、河俣神社、加夜奈留美命神社と言うが、大神神社は三輪王朝とかイリ王朝(水野祐博士主唱)とか言われた王朝(王は大神氏か)が斎祀った神社であり、高鴨神社は葛城王朝(鳥越憲三郎博士主唱)と言われた王朝(王は葛城氏か)が斎祀った神社であり、河俣神社は神武王朝と言おうか大和朝廷(<王は天皇氏か>『記紀』が主唱)が斎祀った神社ではないか。また、加夜奈留美命神社は飛鳥にあるという。一般的には飛鳥発祥の王朝はないのであるが、飛鳥で権勢を誇ったのは蘇我氏で、その出身は越(現在の福井県)で、越の国では名家かも知れないが大和国ではその出自は不明である。あまつさえ、蘇我馬子は推古天皇卅二年

「冬十月癸卯朔、大臣遣阿曇連闕名・阿倍臣摩侶二臣、令奏于天皇曰「葛城縣者、元臣之本居也、故因其縣爲姓名。是以、冀之常得其縣以欲爲臣之封縣。」於是、天皇詔曰「今朕則自蘇何出之、大臣亦爲朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣則日不晩、何辭不用。然今朕之世、頓失是縣、後君曰、愚癡婦人臨天下以頓亡其縣。豈獨朕不賢耶、大臣亦不忠。是、後葉之惡名」則不聽。」
言わんとするところは、葛城県は元は臣(蘇我馬子)の本拠地だった。よって、その県により姓名(馬子は葛城臣と名乗ったという)とした。それ故、永遠にその県を賜って臣(馬子)の封県としたいと願う、と。
厚かましいことこの上ない話で、左前になった葛城氏の封土を奪おうと勝手なことを行っている。無論、推古天皇は馬子の姪とはいいながら図々しい叔父の馬子の要求を払いのけている。とは言え、出雲国造氏は、もし、『出雲国造神賀詞』が、蘇我馬子の時代にできたとしたら権勢を誇る蘇我馬子の意向も聞かねばならず賀夜奈流美命を蘇我王朝様々とばかりに飛鳥の神奈備に設定したが、実態は誰も解らず、加夜奈留美命を祀る飛鳥の神社はみんな我が社が加夜奈留美命神社と考えているようだ。加夜奈留美命を祀る大和国の神社としては、
飛鳥坐神社(飛鳥坐神社で宮司さんに、「飛鳥坐神社の祭神は本当は加夜奈留美比売なんですよ」と言われ、「出雲探求(13)」)、飛鳥神社、大行事社(大神神社の末社)、加夜奈留美命神社がある。神社の勢力関係から言って飛鳥坐神社が加夜奈留美命神社だったか。
もっとも、飛鳥の地は湿地帯で開発が遅れ、始まったのは五世紀末に東漢氏が居住してからと言う。従って、「大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に、阿遅須伎高孫根命を葛木の鴨の神奈備に、事代主命を宇奈提に」と「賀夜奈流美命を飛鳥の神奈備に」とは性質を異にし、まず、大物主櫛厳玉命、阿遅須伎高孫根命、事代主命の皇御孫命の近き守神の説話があり、その後蘇我氏の大和国進出とともに加夜奈留美命が加わったのではないか。失礼ながら、出雲国造氏は粗雑で、「須佐神社の社家である須佐氏の系譜では、大国主神の御子神の一柱に賀夜奈流美命の名が見え、子に国忍富命、孫に雲山命と続き、さらにその子孫が須佐氏になる。」と言い、これだけを見ると加夜奈留美命は出雲国のローカルな神で大和国とは何の関係もない。

★カヤナルミの語義

カヤナルミの語義ないし語源であるが、我が国に縄文文化と言うものが芽生えて一万年以上になるのに未だにやれ語源は朝鮮語(新羅語や高麗語などがあるらしい)とかアイヌ語とか、山中 襄太(やまなか じょうた)先生が御生存ならあまり聞いたこともないような言語を持ち出して語源説を展開するのではないかと思われるような話になっているようだ。朝鮮語の典型例では、「カヤは伽耶(加羅)、ナルは朝鮮語の「日」、ミは女神のこととみると、赤留姫のことと思われる。」というのがあり、アイヌ語では「カヤは帆、ナルミは鳴海と書き語義未詳なれど北海道、東北に多いのであるいはアイヌ語語源かもしれない。」と言うが、いずれも不確かで、まともな語源とはとても考えられない。そこでここでは正調語源として日本語を取り上げ、日本語より探求してみる。
カヤナルミの語義や語源を明らかにする場合、多くの人は「カヤ」と「ナルミ」に分解して論じているようだ。いずれも地名にせよ苗字にせよ希有なものではなくほどほどにあるものである。例として、カヤなら「茅、萱、加悦、榧、賀陽、栢、葭など」、ナルミなら「鳴海、鳴見、鳴水など」。また、ナルミは、ナルとミに分ける見解もあり、その場合は、ナルは「鳴、奈留、成、平、那留、均など」、ミは「水、廻」。以上を解説してみると、
カヤは、
①ススキ、チガヤ、などイネ科、カヤツリグサ科の大形草本の草原(茅、萱など)
②イチイ科の常緑高木(栢、榧など)
③カミ(上)・ヤの約
④カラの転か。カヤはカレ、カラと同じく高地の意
⑤動詞のカヤス(覆、反)、カヤルの語幹で「覆す」意から「崩壊地形」また方向を変える曲がる意から(川などの)曲流点
⑥動詞カヤブル(傾、斜)(淡路島の方言)から傾斜地
⑦焼畑を意味するカヤバタ、カリハタから焼畑
⑧朝鮮半島「伽耶(かや)」国からの入植地

ナルは、
①山中などの平坦地(西日本の方言に多い)
②平地(岡山県英田郡、鳥取県気高郡)
③「鳴る」の意で、川音などの音響による。
④「ナル」には、「平ら」の意があり、各地の方言「ナルイ」には、傾斜が緩い、急でない、意が見える。厳密な意味での「平坦地」だけではなく、「緩傾斜地」を言う例も多い。
⑤「ナ」は、奴、那と同じく浦の古義、「ル」は、船の泊まるところ、即ち、港の意である。

ナルミは、
①海潮の響くところ。海ばかりでなく川、滝の水流の音による。
②ナル・ミ(水、廻)という地名。
③「おだやかな海」という意味の固有名詞。(『和名抄』尾張国愛智郡成海郷)

以上より判断するならば、
「カヤ」は、
ススキ、チガヤ、などイネ科、カヤツリグサ科の大形草本の草原(茅、萱など) 具体例 東京都中央区日本橋茅場町(かやばちょう)
イチイ科の常緑高木(栢、榧など)の森 具体例 奈良県高市郡明日香村大字栢森(かやのもり)
朝鮮半島「伽耶(かや)」国からの入植地
が地元では多く採用されているようだ。
地形地名の、高地、崩壊地形、(川などの)曲流点、傾斜地は地元では採用するところはほとんどない。

「ナル」は、
山中などの平坦地で、小高い丘の平地を言ったと思われる。

「ミ」は、
「辺」(~のあたり)という意味の接尾語。

即ち、加夜奈留美とは、現在の加夜奈留美神社のあるあたりを言ったもので、栢の鎮守の森があり「稲渕川源流に沿う栢森集落東北の小丘陵上の森に鎮座する」という表現にぴったりしている。語義から判断すると、加夜奈留美命は出雲国の神ではなく初めから飛鳥の神奈備に鎮座する神なのである。但し、須佐神社(出雲国)の社家の須佐氏は、大国主神の子の賀夜奈流美命を祖とすると伝える。この限りでは、出雲国のローカルな神となる。

★まとめ

加夜奈留美命神社は江戸時代に葛社と言われていたと言うことで、葛社は大和国に多く、九頭神社とも書く。祭神は、建御名方神、高龍命(龍の字は上に雨冠と口の字を三個横に並べて載せる。「おかみ」と読む)が多い。水神を祀る神社なのだろう。奈良盆地は水源や水利に恵まれていないようで、「丹生川上神社は、川上村にある上社、東吉野村にある中社、下市町にある下社の総称。旧官幣大社。祭神は上社に高龗神(たかおかみのかみ)、中社に罔象女神(みずはのめのかみ)、下社に闇龗神(くらおかみのかみ)。」とあって水、水、水の神社である。大雨になったらどうするのだという雰囲気だ。
「加夜奈留美命神社境内横には九頭神社(葛神社)が鎮座され、 摂社となっています。ご祭神は気吹戸主命、天津児屋根命で、延喜式神名帳に於いては大和國高市郡 瀧本神社とされています。」と言うが、この九頭神社(葛神社)が本来の加夜奈留美命神社と言う説もある。「カヤノモリ とカヤナルミが類似するため、「大和志」が「延 喜式」神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」にあて、以後式内社に治定されている。」と言うのが巷の見解と言うことで加夜奈留美命神社自体の真相は当てにならない。
加夜奈留美命自体も出雲国の神なのか、はたまた、大和国の神なのかはっきりとはしない。出雲国造が出雲の神と言っているのに何を言うというかも知れないが、三輪や葛城から天皇氏を守るというのは解るとしても誰もいない飛鳥がどのようにして天皇氏を守るのか。
出雲国造神賀詞では「出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。被任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。」とあるが、716年の国家体制は元正天皇、左大臣石上麻呂(物部氏)、右大臣藤原不比等(中臣・藤原氏)で、おそらくこの頃には出雲国造をわざわざ都の太政官に呼んで任命する必要はなく前例を踏襲しているのだろう。天武朝の成立か、と言う意見もあるが、「6世紀後半から,まず出雲西部に,ついで意宇平野の東にもヤマト朝廷の制圧が及んでくると,服属して出雲国造とされた。」とあり、原形は6世紀後半にできたものではないか。当時は蘇我稲目、馬子が権勢を握った時代で出雲国造にとっては一世一代の就任式とでも言うべき国造任命式で蘇我氏の領地が入っていないのはまずい、と言うことになり、飛鳥の地を加えたのであるが、肝心の守神が不明と言うことで、飛鳥の神を採用したのではないか。従って、『出雲国造神賀詞』の「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて」と言うのは、「出雲国造神賀詞」などは「要らない」などと言われないように出雲国造が馬子におべんちゃらを言った、と言うことか。
飛鳥の語源についても諸説があり、①「川州」がある場所をあらわす「州処(すか)」の前に接頭語の「あ」をつけたものと言う説、②アス(崩地)カ(処)説、③ア(接頭語)スカ(住処)で集落を意味するという説、④朝鮮系渡来者の安住地(安宿)説、⑤鉄が採れるという「スカ」という地名説、⑥賀茂真淵・伴信友らの鳥名(いすか)に由来し、この鳥が多く群生したことによるという説、⑦「あすか」は「すか」に「あ」という接頭語をつけたもので、「すか」とは、「すがすがしい」という意味と言う説等々がある。一応、飛鳥は湿地と言うことで、「州処(すか)」の前に接頭語の「あ」をつけたものと言う説が妥当ではないか。新参者の蘇我氏に与えられたのはこのくらいの土地と思われる。
また、信じがたいような話で吉備津神社の創建者については、祭神大吉備津彦命の五世孫加夜臣奈留美命が社殿を造営したとする説が有力という人がいる。吉備氏系図(賀陽氏)にはさような人物は載っていないようだ。大和国の加夜奈留美命から借用したものか。これを根拠にか加夜奈留美命は男神と言う説もあるようだ。
以上をまとめれば加夜奈留美命は飛鳥の地主神であり、それも限られた地域の神であった。飛鳥の地に蘇我氏が入ってくると蘇我馬子の時代は権勢並ぶ者なき時代になり、出雲国造も今まで三輪、磐余、葛城の三カ所に鎮護の神をはり付けていたと言うのが、蘇我氏の領地も鎮護の地域とせねばならず、『出雲国造神賀詞』とは出雲国造の蘇我馬子に対するごますりの文章ではなかったか。

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