三角縁神獣鏡はどこで鋳造されたのか

★はじめに

日本では青銅鏡が弥⽣時代中期後半の遺跡から古墳時代の墳墓に⾄るまでおよそ4000⾯以上が発掘され、このうち三角縁神獣鏡に分類される青銅鏡は500⾯を越えて⽇本で出⼟した鏡の中では最も数が多い、と言う。時代的には日本は弥生時代中期末から古墳時代、中国のその時代は後漢および魏となるようである。もっとも、中国の青銅鏡は「世界最古となる夏(か)時代(紀元前2千年ごろ)の青銅鏡」などと言うものもあり、全く日本とは比較にならないのでここでは三角縁神獣鏡にスポットを当てる。
三角縁神獣鏡が我が国にもたらされたのは「魏」(時の魏の皇帝は第二代・曹叡。239年)からとする説もあるが、これは後漢鏡などと言って否定する見解もある。とにもかくにも、当時にあっては中国は王朝の交替、日本は倭国大乱などと言って混乱の時代であったことは間違いないと思われる。特に、魏は人事政策の失政から一族の育成を怠り、おかしな文官政治を行い、武官(特に、司馬氏)から圧迫を受けついには魏(曹)王朝は司馬氏に簒奪されて45年という短命王朝に終わった。また、日本では卑彌呼女王の時代になっても邪馬台国と狗奴国の紛争は続き、卑彌呼女王がなくなるとまたまた倭国の乱が発生し、臺與女王の時代になり紛争も鎮静化したようである。こう言う双方ゴタゴタ続きの時の贈り物だが、小野山節京都大学教授は「正式に朝貢の礼を執ってきた女王卑弥呼に対して魏の王朝があり合わせの「銅鏡百枚」を下賜した可能性は殆どないものと考えるが、もし呉の工人が日本に来て三角縁神獣鏡をつくったとするならば、『魏志』 倭人伝に呉人渡来のことを記すのが自然であろう。」(<論説>三角縁神獣鏡の鋳造法と同笵鏡)と言う。即ち、銅鏡百枚は一枚、一枚絹布で包み日本へ送ったと言うことか。
それならば、答礼品として特鋳品を鋳造したとも考えられるが、当時の制書(皇帝の命令を書いた書。日本の詔書。)から判断して特鋳説は成り立たないという説もある。とは言え、冊封国の使節団がやって来て銅鏡百枚・絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹等をすぐに用意できるものかは疑問ではある。おそらくある程度ご下賜品の在庫を持っており、冊封国の使節団に現物等を見せてご下賜品の品物等を定めたのではないか。失礼ながら、倭国使節団は必要以上のものをもらい持ち帰るのに難儀をしたのではないか。
三角縁神獣鏡の問題点としては、①三角縁神獣鏡の生産地はどこか、②魏の皇帝が卑彌呼女王へ下賜した鏡は三角縁神獣鏡か、③三角縁神獣鏡には銘⽂があるものが数点あるが皇帝のご下賜品に個人的なメッセージが入っていいものか等がある。一応、ここでは一番の問題点とされる「三角縁神獣鏡の生産地はどこか」に焦点を絞ってみる。

★三角縁神獣鏡の生産地に関する諸説

仿製鏡(国産)説
三角縁神獣鏡の生産地は、従来、⽂様の違いから舶載鏡(中国製)・仿製鏡(国産)に分類していたが、中国では三角縁神獣鏡の完成品はもとより試作品や失敗品、破損品、鋳型も何⼀つ発⾒されていない。1982年には中国の有力な考古学者王仲殊氏が、中国呉の渡来工人による日本産説を唱えた。国内の有力主張者としては、森浩一同志社大学名誉教授、網干 善教(あぼし よしのり)関西大学名誉教授、奥野正男元宮崎公立大学教授などで、発見面数が日本では五百面以上で中国では発見されていないこと、既存の中国鏡に較べると異常に大形化していて鏡面が凸型となり実用の鏡としての意味をもたなくなっていること、紐孔に中子砂が詰まったままのもの、あるいはバリの手直しのないものがあること、それから中国にはほとんどない同型鏡が極めて多いことなどを理由とする。具体的な鋳造地としては、奈良盆地で鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡田原本町)か。日本の古墳は早くから副葬品もおそらく土師氏により定型化されており、三種の神器などはその典型例である。都から遠く離れた地方にまで中国製鏡となるといろいろな面で大変なので土師氏お抱えの鋳物師がいて模造三種の神器も作られていたのではないか。従って、仿製鏡がないというのは少し言い過ぎで三角縁神獣鏡の贋作もあったかと思われる。

舶載鏡(中国製)説
福永伸哉大阪大学教授の説くところで、「わずかな例外を除いて三角縁神獣鏡は扁平な長方形の紐孔をもっており、そのような長方形紐孔をもつ鏡は中国の東北部すなわち渤海湾岸地域でのみ発見されていることから、<公孫氏の勢力下で銅鏡製作を行っていた工人集団が、公孫氏滅亡後、魏によって再編成され、卑弥呼下賜用の鏡製作にあたった」>と推定している。」ちなみに公孫氏が滅亡したのは卑弥呼が魏に難升米を派遣する前年の景初2年(238年)である。公孫氏は魏と対立していて呉とは親しかったので呉鏡の影響を大きく受けたか。
車崎正彦早稲田大学講師が、舶載三角縁神獣鏡と仿製三角縁神獣鏡の様式変化が連続的であり、明確に区分できないことなどを主な理由として、仿製三角縁神獣鏡も中国で製作されたものだ、という説。
精密3次元形状計測やSPring-8を使った蛍光X線分析の科学的計測では、おおむね舶載鏡(中国製)説が多い。
例としては、泉屋博古館が久津川⾞塚古墳(京都府城陽市)出⼟の三角縁神獣鏡に、SPring-8を使った蛍光X線分析を⾏い中国製との結果を得ていたが、2018年、⿊塚古墳(奈良県天理市)出⼟の33⾯の三角縁神獣鏡にも同様の調査を⾏い、鏡の材質が前漢の後期から三国時代に制作された古代中国鏡と組成がほぼ⼀致するとの結論を得ている。但し、「そもそも材質が中国産であったからといって、中国で製作されたものとは限らないし、中国製作地説への何の証拠にもならない。」という人もいるが、言わんとするところは大量の製作依頼を中国だけではさばききれず、素材を送るのでそちらでも作ってくれと言う類いの話かも知れないが、三角縁神獣鏡には同笵鏡が多いというのも中国で開発された量産技術で日本にもその技術は伝わったが稚拙で中国製のいいとこ取りは卑彌呼女王とわずかな人ではなかったか。古墳で発見されるのは卑彌呼女王時代より一世紀ほど遅れているというのも流行が一巡してからの話で、舶載鏡(中国製)・仿製鏡(国産)が混在していたのではないか。結論が出るのは畿内の未発掘古墳の銅鏡を調査してからと言うことになる。
但し、精密3次元形状計測では、奈良県立橿原考古学研究所の清水康二主任研究員が、全部仿製鏡(国産)説に傾いているようで、宮内庁の研究員は「個⼈的には三角縁神獣鏡は全て中国製」との⾒解を⽰した。
具体的な鋳造地としては、魏の都のあった洛陽界隈と思われる。但し、魏は短命王朝だったので滅亡後は鋳造地が黄河沿岸(河北省、山東省)や朝鮮半島の当時の帯方郡に移ったのかも知れない。福永伸哉大阪大学教授(渤海湾岸説)や西川寿勝氏(楽浪郡説)の説は文明が西から東へ移動しシルクロードの終着点日本を思い起こさせる。

楽浪鏡(朝鮮)説
西川寿勝(大阪府教育委員会文化財保護課)氏の楽浪郡説である。氏は10年以上にもわたって中国出土の銅鏡の拓本や写真をデータ化し、それらと日本出土の舶載鏡を比較して舶載鏡の製作地推定を進めていた。その結果は、日本における舶載鏡の大部分が中国本土出土鏡とあまり共通する要素がなく、むしろ朝鮮半島の楽浪郡出土のものに共通性が高いとするもので、三角縁神獣鏡も楽浪郡製の可能性が高いと位置づけている。ただし、氏は三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではなく、卑弥呼には宝飾鏡クラスの高級な鏡が下賜されたはずだと推論している。
近時の説で製作地ははっきりしないが、いわゆる楽浪郡ではなく帯方郡ではないか。『魏志倭人伝』 には「王、使を遣して京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及び郡の倭国に使するや」とある。楽浪郡が現在の平壌あたりで、帯方郡は京城(現ソウル)あたりでなかったか。

★三角縁神獣鏡が突如日本に現れたことについて

三角縁神獣鏡については、中国にも朝鮮にもその痕跡はなく日本にだけ大量に古墳などから出土する理由については、
1.三角縁神獣鏡は日本で作られた偽物の中国銅鏡である。
三角縁神獣鏡の源流となっている神獣鏡や画像鏡は江南の呉の領域で発達したものであり,華北の魏には類似鏡が見あたらない(王仲殊氏)という。
三角縁神獣鏡には、「銅出徐州師出洛陽」の銘があるが、邪馬台国=九州説を主張する研究者は、三角縁神獣鏡全体が後世の偽作物であるとする。
但し、富岡謙蔵(京都帝国大学文科大学講師。富岡鉄斎の長子)氏は上記銘の徐州と洛陽の地名と師という文字の使用は魏代に限定できると考証した。
三角縁神獣鏡は「同型鏡」ばかりで、しかも日本でのみ大流行した。流行品に「偽物」が生れるのは現代の常識で青銅鏡には、複製する方法がたくさんある。
2.⽇本で三角縁神獣鏡があらわれる前の3世紀前葉には、神獣鏡類の画⽂帯神獣鏡と呼ばれる中国鏡が畿内を中⼼に出⼟している。これらの図画意匠を
鏡裏に施した銅鏡を「画像鏡」というが、⽇本へもたらされた画⽂帯神獣鏡などの画像鏡の意匠を巧妙に変更して国内で量産したもの、という説がある。
森博達京都産業大学教授は、三角縁神獣鏡にある銘文を韻律から見ると全く平仄が合わず、しかも口語語彙を用いているところもあり、魏の下賜鏡とはとても考えられない。
銘文については、日本の工人は文字が理解できず漢字の部分を模様にしているとか、中国の年号を間違えている等いろいろ批判がある。

★まとめ

三角縁神獣鏡は発見されているものだけで500面(現在では560面余と言う)あると言うが、そのうち舶載鏡が300面余、仿製鏡が200面余と言う説が有力だ。従って、三角縁神獣鏡の全部が中国製とか、あるいは、日本製と言う説は成り立たないと思われる。上記の鏡数の動向を判断すると日本人の鏡の需要は舶載鏡にあり、生前に交易商人に発注して舶載鏡を入手するとか、自国の役人で中国に渡ったものに購入してもらうとか、言わばあの手この手で入手したのではないか。あるいは卑彌呼女王が皇帝から下賜されたのは100面なので300面と言っても正規の外交団が三回行って持ち帰られる量である。ひょっとすると日本にある舶載鏡は全部が中国皇帝からの正規品かも知れない。但し、私見では私的な文章と思われる銘文もあるので300面全部が皇帝ご下賜の鏡とは思われない。仿製鏡は主に畿内から遠く離れた人の古墳に副葬されたものか。畿内の人はほとんどが舶載鏡ではなかったか。日本は量産技術(平たく言えばコピーのこと)に優れていると言うが、品質が少しばかり劣ると見えて各地の豪族からは敬遠されたのではないか。
中国の鋳造所も皇帝のご下賜品を作るのだからやはり首都洛陽の一角にあったのではないか。鋳型や鏡の片鱗等が発見されないのは、魏王朝はわずか45年間で幕を下ろした王朝で毎年のように戦乱・反乱が起こり首都の洛陽も安定せず、工人は北へ、北へと逃げて最終的には日本へたどり着いたのではないか。主なる魏(220~265)の戦乱・反乱は、
228年 孟達が蜀の諸葛亮と内応して魏に反乱を起こしたが、司馬懿に鎮圧された。
諸葛亮・趙雲が攻めてきたが、曹叡が派遣した張郃・曹真が撃退した。
曹休が呉を攻めるが、石亭において陸遜に大敗した。
234年 蜀と呉は連携して同時期に魏に攻めてきたが、東では満寵らが孫権を撃退し、西では諸葛亮が病死したため蜀軍も撤退した。
諸葛亮が死去した後は、曹叡が宮殿造営や酒にのめり込んで国政が疎かになったため、魏は疲弊していった。
238年 司馬懿を派遣し、遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼしている。
244年 毌丘倹を派遣して、高句麗の首都を陥落させたが、内部では曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。
曹爽、司馬懿はいずれも皇帝後見人。
等々であるが、魏王朝末期には毎日が権力闘争の観を呈していた。これじゃあ皇帝も王朝も潰れるのは当たり前だ。
結論を言うと、三角縁神獣鏡の銘文には「魏」の年号があり、こう言うことは漢字も理解できないとされる倭人の工人が書けるわけもなく、三角縁神獣鏡のオリジナルは魏にあったのではないか。魏の三角縁神獣鏡をお手本にないし鋳型の原形として使用して日本で同笵鏡とか同型鏡を作ったのではないか。
三角縁神獣鏡の発祥地は「呉」とか、「渤海湾岸」とか、「楽浪郡」とか、「紹興」とか言われるが、いずれも根付かず、鏡の現物の発見にはいたらないが、発祥地では廃れ別の土地で盛んになっているものはいくらでもある。例として、仏教であるが発祥地のインドでは衰退したが、ブータンやスリランカなどでは仏教徒は高い比率を示している、と言う。また、日本の漆の発祥地は奈良県宇陀郡曽爾村(古く漆部郷<ぬるべのさと>)と言われた。)と言うが、最近、観光産業として復活はしたものの記録によれば平安時代にはいったん途絶えたようである。今は東北地方とか沖縄県などが盛んのようである。従って、三角縁神獣鏡が中国にないと言っても、そもそも三角縁神獣鏡は表面が凸面になっており一般的な化粧用の鏡としては役に立たないと言い、中国鏡は平らで現代の鏡と変わらない。それ故、日本人が銅鏡に求めたのは威信財と言おうか、はじめの用途からして古墳の副葬品として入手したものであろう。大げさに言うと日本人と中国人の鏡に対する理解の差かと思う。日本にある舶載三角縁神獣鏡300面が世界の三角縁神獣鏡のすべてであるが、それがほかの中国鏡と比べて大量だったのか、少量なものだったのかは今となっては不明だ。おそらく、中国の工人もみんな日本に逃げてきてしまい、三角縁神獣鏡の完成品はもとより試作品や失敗品、破損品、鋳型など何一つ残らなかったのではないか。

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古代の国家体制の変遷

★はじめに

日本の古代における国家体制(平易に言うと王朝)の変遷については、外国の文献にも日本の古典歴史書にもそれらしき記載がある。まず、外国文献であるが具体的な王の名前とか王朝名は記載されていないが、「倭国大乱」とか「倭国乱」と言うことで、やや大げさに言うと<天下分け目の大合戦>とばかりに記載されている。例としては、
『魏志倭人伝』
「「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼」
『後漢書・東夷伝』
「桓霊間 倭国大乱、相攻伐歴年主無」(桓霊間は西暦146~189)
『梁書・諸夷伝・東夷条』
「漢霊帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼爲王」(光和は西暦178~184)
等がある。
いずれも倭国(日本)が二世紀後半に内戦状態になっており、卑彌呼女王が共立されて乱は鎮定された。
卑彌呼女王と以前の男王の系統との関係がはっきりしない。男王の系統の治世が七八十年続いたと言うことは当時にあっては一つの画期であったことは間違いないことと思われる。政体がそれまでの群雄割拠(弥生時代。有り体に言うと戦乱の時代)から男王に統一されて(統一国家の出現)、その後は内戦(倭国大乱あるいは邪馬台国と狗奴国の戦い等)はあったものの卑彌呼女王の統治(古墳時代)に入っていったと言うことか。但し、この「倭国大乱」は日本文献に言うどの戦いかは不明。『記紀』には皇位継承等をめぐる内乱などが何度もあった(例、崇神天皇:武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱を鎮定した。垂仁天皇:狭穂彦(さほびこ)王の反乱の鎮定。景行天皇:熊襲征討、蝦夷平定等。)ので、有力者間の主導権争いかとも思われるが、弥生時代も末期に近づき社会・経済構造が大きく変革したのかも知れない。また、「倭国大乱」が展開された地域であるが、卑彌呼女王の時代になっても「邪馬台国と狗奴国」の抗争が記されているところを見ると狗奴国を吉備国とすると、中国(山陽・山陰)・四国・近畿およびそれに付帯した九州北部が考えられるのではないか。
一方、日本にあっては古代国家の政変に関しては、「王朝交替論」ないし「王朝交替説」という学説がある。
「王朝交替論」と「王朝交替説」の違いだが、「王朝交替論」が<万世一系の天皇観に対し、4~6世紀の間においてはいくつかの王朝の創始、交替があったとする見解。先駆となったものに東京大学名誉教授の江上波夫(えがみなみお)先生の「騎馬民族征服王朝説」がある。>という。「王朝交替説」は<日本の古墳時代に皇統の断続があり、複数の王朝の交替があったとする学説。 >という。何かどちらも同じことを言っているのではないかと思われ、一応、ここでは「王朝交替説」に用語を統一する。
「王朝交替説」と言っても一人の学者先生が説いているわけではなく、多くの人が述べており、戦後最初に唱えたのが早稲田大学名誉教授の水野祐博士で「三王朝交替説」というのが著名である。その説くところは、「第10 代の崇神天皇、第16 代の仁徳天皇、第26 代の継体天皇を初代とする3 王朝の興廃があった」とされる。
ほかに岡田英弘東京外国語大学名誉教授は「1. 河内王朝、2. 播磨王朝、3. 越前王朝、4. 舒明天皇以降の、日本建国の王朝」を挙げておられる。また、大阪教育大学名誉教授鳥越憲三郎博士は、神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇で、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした葛城王朝であるという。その後、葛城王朝は崇神王朝に滅ぼされたが、河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。河内王朝系の天皇の后は葛城氏の子女が多いようだ。

★倭国大乱

倭国大乱の前の統一王朝については、『後漢書』東夷伝に、永初元年(107年)、倭国王帥升が後漢へ使者を出したとあり、帥升を初代とする王朝とする向きがある。しかし、桓帝・霊帝(146年 – 189年)の倭国⼤乱(『後漢書・東夷伝』)から逆算すると66年頃には倭国王が居たこととなり、永初元年(107年)の使者の派遣とは年数に開きがある。よって、帥升が初の倭国王だったことには疑問を呈する向きが多い。この差は『記紀』が掲げる畿内の統一王か、中国との外交交渉の窓口になっていた九州の地域王の違いかと思われる。

大乱の原因については、①倭国王位の承継をめぐる争い ②2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた⼟地収奪争いにあった(『新羅本記』に「⼗年(193年) 六⽉倭⼈⼤饑。来求⾷者千余⼈」とある由。また、ニュージーランド北島のタウポ湖というカルデラ湖の中にあるハテペ火山の噴火によるとの説) ③弥⽣系渡来集団が九州から畿内への拡⼤過程で各地に先住していた縄⽂系在来集団(熊襲などもその一団に入るか)との間で摩擦が生じた、などがあげられているが、社会の変革を説く見解もある。即ち、
1.青銅器祭祀から墳墓儀礼へ
2.共同体墓域から区画墓即ち古墳へ
3.地域経済から広域経済へ
と言う、社会組織形態、イデオロギー、経済という様々な要素での変化が密接に関連し合ったものであった。この新しい社会体制の中心として、大陸からの玄関口である九州北部よりも列島内の生産と流通の結節点になりやすい近畿の方が適合的であった、との説もある。言うなれば、経済活動の進展とともにそれについて行ける人と行けない人との軋轢が生じ倭国大乱となったというのである。即ち、倭国大乱は起こるべくして起きたというのが実態なのだろう。
問題となるのは、青銅器祭祀であるが当初は武器形青銅祭器(銅剣・銅矛・銅戈・銅鏃等。朝鮮半島より九州へ波及した)と銅鐸(畿内で発祥したか)、銅鏡(中国の威信財)があったようであるが、「武器形青銅器は武器としての実効性の高さ、実用性に裏打ちされた武威の観念により青銅祭器となり、銅鐸は縄文以来の公開性の高い祭祀での使用に適しており、金属音響の使用そのものが祭祀的行為として成立するとともに、大型の立体的器物として新素材である金属光沢を発する外形は祭器としての地位を得るのに十分であった。そういう祭器が消滅したのは、青銅という素材が祭器のほか、小型青銅器の原料にもなり、銅鏃など消費性の高い器物素材に転換して行った。弥生時代の銅鏃は実用品であったが、古墳時代に鉄鏃が普及するとともに廃れたか、儀仗的なものになった。青銅祭器(広形銅矛と突線鈕式銅鐸)は、少なくとも古墳時代にくだることが特定できた埋納が存在しないこと、古墳に弥生青銅祭器が存在しないことから、古墳成立という時代転換を前にあるいは中で最後の埋納を終え、新たな祭器を作り出すことも、再び取り出すこともなくなり終焉を迎えていった。鏡面と鏡背の二面をもつ銅鏡は、鏡面に武器形青銅器に共通する金属光沢を,鏡背は銅鐸に求められていた鋳造文様の造形性を継承できた。」と。もっとも、「青銅器祭祀から墳墓儀礼へ」と言っても、弥生時代の青銅器祭祀と古墳時代の墳墓儀礼が同質の葬送儀礼かは疑問である。弥生時代の青銅器祭祀は元々埋納儀礼で、埋納祭器は頻繁に取り出して使うものではなく春夏秋冬の決まったときに掘り出して祭器として使用されたものではないか。従って、埋納地には後世の鳥居のような目印になるものが立てられていたのではないか。それが、倭国大乱の渦中に忘れ去られてしまったものか。
「倭国大乱」の時期は『後漢書』では、桓帝・霊帝の間(146年 – 189年)に⼤乱が起こったとなっている。およそ二世紀後半でこの頃の日本は中国の混乱(例、<党錮の禁・166>、<黄巾の乱・184>)により不安定な状態になり、大陸や半島から流れてきた人々により日本でも反乱が起きたか。しかし、日本での「倭国大乱」の主因は弥生水田稲作による社会組織形態、イデオロギー、経済等による変革が大きかったのではないか(松木武彦国立歴史民俗博物館教授)と思う。「黄巾の乱」の首謀者・張角(ちょうかく)は、初期道教の一派である太平道(たいへいどう)を創始したとあるので、卑彌呼女王もその影響を受けたものか。
「倭国大乱」の及んだ範囲であるが、前述のように狗奴国を吉備国とするなら、中国(山陽・山陰)・四国・近畿およびそれに付帯した九州北部が考えられる。この範囲には日本の草創期の豪族の根拠地があったと思われる。具体的には、山陽(吉備氏)、山陰(出雲氏、丹波氏、但馬氏)、四国(伊豫氏、佐伯氏<佐伯は讃岐の転訛か>)、近畿(天皇氏、久米氏、賀茂氏<賀茂建角身命>、紀臣氏、紀直氏、大伴氏、物部氏、穂積氏等)、九州北部(阿曇氏・筑紫君氏等)などがあげられる。

★王朝交替説

「近時、王朝交替説には疑問も提起されている。すなわち、世襲王権未確立のもとでの複数王家(王統)による大王位の交替、すなわち畿内連合政権論からこの王朝交替説を克服しようとする見解も出されている。総じて王朝交替説は、万世一系的天皇観を克服するうえで大きな役割を果たしたが、「王朝」概念の不明確さもあって、王権―国家形成史としては追究が弱かった。」とあるが、近時はこの学説(王朝交替説)はあまり顧みられないようである。何分にも我が国には神武天皇が即位した頃はもとより継体天皇が即位されたという西暦507年頃にも国語を表記する文字はなかったようで口承だけでは正確な歴史は伝わらなかったと思われる。ここで王朝交替説を列挙してみても始まらないので著名な水野祐博士の見解を紹介してみる。

水野祐博士の「三王朝交替説」
古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33 代の天皇のうち、15 代である。その他の18 代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘した。そして、15 代の天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成した。仮説では、『記紀』の天皇の代数の表記で、第10 代の崇神天皇、第16 代の仁徳天皇、第26 代の継体天皇を初代とする3 王朝の興廃があったと言う。前提として、神武天皇と欠史八代は史実ではない、と。

1.崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)
大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいた。この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多い。古墳の編年などから、古墳時代の前期( 3 世紀 の中葉から 4 世紀 の初期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和・柳本古墳群が展開し、渋谷向山古墳(景行陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓か)、行燈山古墳(崇神陵に比定)、メスリ塚、西殿塚古墳(手白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300 から200 メートルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があった。三輪政権(初期大和政権)の政権の成立年代は3 世紀中葉か末ないし4 世紀前半と推測されている。それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造された。政権の性格は、卑弥呼を女王とする邪馬台国の呪術的政権ではない。

但し、私見ではこの王朝と言おうか政権は実効力を伴った政権ではない。おそらく『魏志倭人伝』 に言う「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸」と言う後世で言う四等官のような人たちの集まりで、①これらの人たちは大和国の人ではない。いつまでたってもだらだらと決着がつかない邪馬台国(大和)と狗奴国(吉備)の争いに中間地(現在の神戸市)にいた大伴氏が調停を行い、大幅に大和国に肩入れをするとともに、吉備国にもおいしい講和条件を提案したのだろう。もっとも、大伴氏が直接交渉したのは吉備国王ではなく現今で言う吉備国の防衛大臣とか、外務大臣とか、言わば吉備国の主要閣僚ではなかったかと思われる。挙げ句の果てに、大伴氏はこれらの主要閣僚を引き抜いて大和盆地に連れてきた。これらの人に三輪山麓に豪邸をあてがい、死後の巨大な墳墓の約束までしたのではないか。箸墓などと言うのは上記一等官の伊久米入彦(垂仁)の夫人が亡くなり吉備の豪族に見せるための試作墳墓ではなかったか。邪馬台国中枢の人々は大和三山にいたか。
因みに、伊支馬はイキマと読むらしいが伊久米で垂仁天皇、彌馬升はミマスと読むらしいが観松で孝昭天皇、彌馬獲支はミマカキと読むらしいが御間城で崇神天皇、奴佳鞮はナカテイと読むらしいが「仲」(ナカツ)で仲哀天皇か。但し、「タラシナカツヒコ(足仲彦)」という和風諡号のうち「タラシヒコ」・「タラシヒメ」は後世の7世紀頃から用いられるようになった天皇の呼称である。「タラシナカツヒコ」から後世の創作による「タラシヒコ」を除くと、「ナカツ」という普通名詞のみになる。よって、これは仲哀天皇が架空の人物の証左である、との見解がある。また、天皇の実名に「仲」というのは中位の人とか次位の人とか言う意味で、おかしいという見解もあるようだ。『日本書紀』(応神二十二年九月)に「上道縣,封中子仲彥。是上道臣、香屋臣之始祖也。」とあるので、仲彦は吉備国の人か。吉備国の命名法として仲彦と言うのは一般的な名前だったのかも知れない。いずれの天皇も実在性は定かならずとある。
この王朝を利用したのは物部氏で、崇神天皇の母堂は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と言い、兄に伊香色雄命(いかがしこおのみこと)がいて穂積氏・物部氏の祖と言う。また、崇神天皇の先代の開化天皇は母堂を欝色謎命と言い欝色雄命の妹と言う。この二代の天皇には宇摩志麻遅命(穂積・物部等の祖)の血筋が色濃く入っている。

2.応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)
応神王朝は天皇の宮と御陵が河内(河内国、摂津国、和泉国、即ち、大阪湾岸)に多いことから河内王朝ともよばれている。この王朝に属する天皇や皇族に「ワケ」のつく名称をもつ者が多いことから「ワケ王朝」とよばれることもある。なお、応神天皇を架空の天皇とする見解もある。この場合王朝は仁徳王朝とよばれる。河内王朝(応神王朝)は、宋書に倭の五王が10 回にわたり遣使したとの記述がある。大阪平野には、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、応神天皇は難波の大隅宮に、仁徳天皇は難波の高津宮に、反正天皇は丹比(大阪府松原市)柴垣に都を設置していることから、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったと思われる。河内湾に港湾施設を築き、海軍を設置し、瀬戸内海の制海権を掌握していた。また、たびたび宋へ遣使を行い、朝鮮半島への外征も行うなど半島にも橋頭堡を築き、アジアへとつながる国際国家の先駆けとなった。但し、河内王朝発祥については諸説があり、①河内王朝は新王朝の樹立などではなく初期大和政権の河内地方への進出であったとする説、②瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説、③三輪王朝(崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説、④九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説、など。

3.継体王朝(近江王朝)

継体天皇は自称応神天皇 5世の孫と言うが、これが事実かどうかは判断がわかれている。水野祐博士は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したと言う。また、継体天皇が事実応神天皇の5世の孫であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い、とも。その後、継体天皇の崩御後「継体・欽明朝の内乱」があったという説もある。そもそも、新興の継体天皇に、それにくっついてきた新興の豪族蘇我氏は畿内に経済基盤があるわけでなく皇位を簒奪したと言ってもそれを裏付ける財力がなかった。継体天皇の方は畿内の旧勢力がなんとかしてくれたかも知れないが、蘇我氏にいたっては誰にも見向きもされなかったのではないか。屯倉の増設と言っても全部自分(蘇我氏)のため。田舎の人々などを騙して開墾したものであろう。こんな状態だから国民のための統治を行おうとした安閑・宣化帝と蘇我氏傀儡の欽明帝が紛争を起こすのも当然だ。
但し、『記紀』が天皇は万世一系と言っているならそれを覆す資料はないのだから「王朝交替説」などは論外の説というような見解もあるようだ。

★結論

我が国の人皇初代神武天皇は九州から来たなどと言うのは眉唾な話で、天皇の論功行賞に与った道臣命(神戸市)、大久米命(橿原市)、椎根津彦命(明石市)、弟猾(奈良県)、弟磯城(奈良県)、剣根(奈良県)、八咫烏(和歌山県)のほとんどは畿内の人で神武天皇の出身地が九州などと言うのは全く考えられない。一般的な観念から言うと九州から一緒に来た人がいればその人を優先して行賞を与えるのであって、九州から来た人が出てこないのはおかしい。『記紀』の編纂者は九州にこだわっているが今ある遺跡も後世のものではないのか。一応、神武天皇を含め欠史八代は史実ではないと言う見解も多いが、卑彌呼女王の前は男王が七八十年統治していたというのだからそこいらのつじつまを合わせるためにも神武天皇と欠史八代の天皇は必要なのではないか。
一般には、神武天皇および欠史八代の天皇→イリ王朝(10代・崇神、11代・垂仁)→タラシ王朝(12代・景行(大足彦忍代別)、13代・成務(稚足彦)、14代・仲哀(足仲彦))→ワケ王朝(15代・応神、16代・仁徳、17代・履中、18代・反正、19代・允恭、20代・安康、21代・雄略、22代・清寧、23代・顕宗、24代・仁賢、25代・武烈)→継体王朝(26代・継体以降)という。このうちイリ王朝は臨時政権、暫定政権で王朝のなかには入らないのではないか。また、タラシ王朝も大足彦とか、稚足彦とか、足仲彦とか実名を伴わず、実在は疑わしい。但し、景行・大足彦忍代別は忍代別がワケ王朝の開祖と思われ、景行天皇→応神天皇→仁徳天皇(景行は応神、仁徳の実父)とつながり古代倭国の最大の王朝となったか。
神武天皇および欠史八代の王朝は大和盆地にあったとしたなら、ワケ王朝はどこで発祥したのだろうか。一応、ワケ王朝は別名を河内王朝といい河内平野で発生したのではないかと思われている。特に、応神天皇が都した大隅宮とか仁徳天皇が都した高津宮は古代にあっては上町台地の先端部分にあり、「大隅宮は東淀川区大隅などにはあらず」と吉田東伍博士の説。おそらく大隅宮、髙津宮(中央区髙津)は隣どうしにあったものか。そのあたりがワケ王朝発祥の地なのであろう。現在でも大阪市の中枢の地である。「神武天皇の時代、現在の「大阪城」の場所に「生島神」「足島神」の両神が祀られたのが「生國魂神社」の始まりとされている。両神は大地・国土の守護神であり、「上町台地」の対岸にあたる「淡路島」の「国生み神話」とも重ねることもできる。」、と。「ワケ王朝」の日本国創世神話は大阪湾岸から始まったことがわかる。残念ながら我が国の創世神話は神武天皇由来のものではなく応神天皇由来のもののようである。大阪湾岸と言えば有力豪族として大伴氏が著名で、天皇氏との関係は、

初代神武天皇と道臣命(大伴氏遠祖という) 神武東征に際して奈良盆地への道案内をした。論功行賞として天皇家の宮殿隣地を宅地として賜る。
第十一代垂仁天皇と武日命(道臣命の七世孫) 垂仁天皇25年、阿倍臣の遠祖武渟川別(たけぬなかわわけ)・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根とともに五大夫(まえつきみ)となる。
第十二代景行天皇と武日命 景行天皇40年、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で靫負部を賜わる。
第十四代仲哀天皇と大伴武持大連 仲哀朝の四大夫の一人。神功皇后は四大夫(中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連)に命じ、百寮を率いて宮中を守らせる。伴氏系図に「初賜大伴宿禰姓」とある。公卿補任には、仲哀天皇の即位の年大連(おおむらじ)を賜り、若年の天皇の輔佐を命じられたとある。

第十代崇神、第十三代成務、第十五代応神には露出がないが、第十代崇神天皇の時に「崇神六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。」とあるが、卑彌呼女王の魏との国交の方が遠大で本格的なものだ。おそらく崇神天皇の記録を残した人は単に魏の外交団の行列を見たか少なくとも政権の中枢にいなかったもしくは後世の人の作文であろう。崇神天皇は臨時的と言おうか暫定的と言おうかその種の大王ではなかったか。第十三代成務天皇は先代の景行天皇の分身のような人物で、実在を疑問視する見解も多いようだ。第十五代応神天皇は朝鮮半島に出征しており、大伴氏も同道したのではないか。半島の軍事行動の記録は日本には及ばなかった。応神天皇の業績も日本へ帰国してからのものがほとんどだ。

こうして見ると、日本の『記紀』の記録も満更でもなく、『魏志倭人伝』 の「其國本亦以男子為王 住七八十年」は神武天皇と欠史八代の天皇の時代に当たり、「倭國亂相攻伐歴年」は暫定ないし臨時政権の「イリ王朝・タラシ王朝」の時代で、特に、第九代開化天皇は都を春日率川宮(かすがのいざかわのみや。現・奈良県奈良市本子守町周辺)として従来の畝傍界隈(例、孝元天皇、軽境原宮<かるのさかいはらのみや。現・奈良県橿原市大軽町・見瀬町周辺>)から大きく変更している。また、崇神天皇の時代は四道将軍の派遣とか武埴安彦命の反乱とか軍事的ゴタゴタが続きそれらのことを言ったものか。『記紀』で言う崇神天皇、垂仁天皇の時代は『魏志倭人伝』 で言う卑彌呼・臺與の長期政権を言うものか。

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魚と貝

★はじめに

過般の報道によると、「山形県南陽市赤湯の北町遺跡で、縄文時代草創期(約1万1千~1万2千年前)の竪穴住居跡から土器や石器に加え、約2センチの魚骨が1点出土した。鑑定の結果、50センチ前後の成長段階のマグロの背骨の一部と判明し、ほかに哺乳動物の骨などを見つけた。」と言う。
マグロはサケ・マスとは違い、「暖海性で外洋性、回遊性の大型肉食魚で、鮮度を保つ方法が無く、腐敗しやすかった。また乾魚として乾燥させる方法(発掘調査団の愛知学院大・長井謙治准教授はこの説か)もあるが、マグロの場合は食べるに困るほど身が固くなった。唯一の方法は塩蔵にすることだが、マグロの場合は食味がかなり落ちたため、下魚とされ、江戸時代では最下層の庶民の食べ物だった。」と言う。ほかに鹿児島県上野原遺跡等(約9500年前)にある燻製施設から見てマグロの燻製もあったかも知れない。インターネットを見ているとマグロの燻製はおいしいとのこと。いずれにせよ海岸部から持ち込まれたマグロは内陸部の人に変質しないうちに即日食されたのではないか。縄文時代のマグロの骨は貝塚など海岸部で出土例が多い。内陸では、滋賀県の琵琶湖沿岸の入江内湖遺跡(約6000~5000年前。西日本の内陸部ではきわめて稀なマグロ属椎骨<背骨>)などで見つかった例がある。東北地方では縄文時代草創期から内陸部と海岸部で人的、物的交流があったと推測される。また、魚の塩蔵と言っても塩をどのようにして入手したかも問題だ。海岸部にはすでに製塩の技術があったのだろうか。日本には岩塩の鉱脈はないようである。勝手な推量だが、後世(江戸時代)、アイヌ人と倭人の交易でコンブとサケはアイヌ民族から和人への重要交易品目だったと言うが、コンブを干して表面に塩が粉を吹きマグロをコンブ巻きにして持ち歩いたのかも知れない。現在でもサケのコンブ巻きとかニシンのコンブ巻きとかがあり、その原形があるいは12000年前に遡ることができるとしたら驚きである。
日本列島に人が住み始めたとされる後期旧石器時代(3万年前ほど)は日本や西ヨーロッパでも同じだが、発見された魚骨はほとんどが沿岸性のものばかりで、あるいは、当時は舟がなかったのではないかとか、河川を遡上して先方(魚)の方からひょいひょいやってくるサケ・マスは重要な食糧資源ではなかったか、と言うような有力説もある。日本では東京都あきる野市にある「前田耕地遺跡」(縄文時代草創期)では「竪穴住居跡の床面を覆う土の中から、大量の哺乳動物と魚類の骨片が検出され、特に魚類の骨片を詳細に分析した結果、住居内に60から70個のサケの頭部が存在していた。」と言う。従って、前田耕地遺跡は通年居住遺跡ではなくサケ・マスを捕獲する時期だけの居住地ではなかったかと言われている。前田耕地遺跡は縄文時代草創期の遺跡と言っても「遊動する旧石器人」ばりに季節とともに移動していたのではないか。
ユーラシア大陸では洋の東西を問わず人間が最初に口にした水中生物は魚ではなかったか。日本(沖縄県南城市サキタリ洞遺跡。世界最古となる旧石器時代の釣り針(2万3千年前)。魚類の骨、甲殻類の殻。)。ジブラルタル(デビルズ・タワー洞窟(Devil’s Tower Cave)遺跡。旧石器時代後期。魚類、甲殻類。ネアンデルタール人頭蓋骨。)

★貝あるいは貝塚

日本には貝塚がたくさんあり、特に、太平洋岸の内湾には顕著だ。具体的には、東北・三陸海岸、仙台湾、磐城地方、関東地方(7都県全部に貝塚がある)、中部瀬戸内沿岸(岡山県瀬戸内市黄島貝塚)、西北九州(熊本市南区御領貝塚)など。日本海側は潮の干満の差が少なく、干潟も限られ、貝塚は少ない。おそらく貝塚の多い地方では貝を常食していたと思われ、その効率はどうかというと、「1個の貝の栄養価はごくわずかだが、多量に採取する労をいとわなければ人の生存に必要な栄養量を確保することができる。しかし、採集に必要労働力と栄養価からすると決して効率のよい生業とは言えない」という見解もある。おそらく当時の人にあっても貝を常食していたと言っても貝だけを食べていたとは思われない。貝塚の出土遺物には食物関係でも動物遺存体(ヤマトシジミ、エイ・サメ・コイ・クロダイ・スズキ、イルカ、ニホンジカ・イノシシ・タヌキ・カワウソ・キツネ、カモ・カイツブリ、カエル・ヘビなど)、植物遺存体(コナラ<ドングリ>、オニグルミ、オニバス、クリ、エゴマ、ササゲなど)、製塩土器等があり、「縄文人は食べられる物は何でも食べた」と言う説もあり、「貝食は採集に必要労働力と栄養価からすると決して効率のよい生業とは言えない」とあるので、おそらく当時の人も体力をつけるには獣肉とか、魚類が食され、エネルギー源としてはサトイモやアワ・ヒエなどの穀物で摂取していたのではないか。
貝塚は日本では縄文時代に始まり縄文時代に終わった遺構で、発生原因は地球温暖化(その主要な要因は、 極域の陸上に存在する巨大な氷の塊である氷床の融解や拡大によって、海水の体積が増減することに由来します、と言う。)による縄文海進により「内陸まで入江がのび、さらに河川による土砂の流出が進み、浅かった内湾の沖積化が進行するなかで広い干潟が出現し、湾内に淡水と海水が混合する汽水域が発達した。この環境は沿岸性の魚類や砂泥性の貝類の繁殖に最適である。」と言い、東京湾がその代表例である。もっとも、貝塚自体は世界的なものであり、「ヨーロッパ地域、北米大陸(カナダのブリティシュコロンビア州、アメリカ合衆国メイン州)、東アジア沿海地域(日本列島を含む)などの、ほぼ同緯度の地域で、ヴュルム氷期(最終氷期)終焉期以降(後氷期の到来以降)に貝塚が出現している。 極東ロシアの沿海地方から東アジアの沿海地域(日本列島・朝鮮半島・中国大陸の沿海地域)にかけての一帯は、世界的に見ても貝塚が濃密に分布する地域である。」と言う。ヨーロッパには日本の縄文文化に似た【エルテベレ文化】と言うのがあり「バルト海西部,デンマークを中心とする石器時代文化。炭素14法による測定年代は前3800‐前3200年。当時,中部ヨーロッパは,すでに穀物栽培・家畜飼養・土器使用の新石器時代に入っていたが,デンマークでは漁労(タラなど),狩猟(アザラシ,アカシカ,イノシシ,カモ),採集(貝,木の実)に依存しており,中石器時代文化と理解されている。」との説であるが、やや周回遅れの文化で、日本では細石刃、貝塚の出現の頃を言うと言う説もある。

★「貝あるいは貝塚」の担い手は誰か

貝を採取した人、貝塚を築いた人は誰なのかと言うことなのだが、貝には淡水産と海産のものがあるが、いずれにせよ採集にあまり危険を伴わないもので、日本や韓国には古くから「海女=海に潜り貝類や海藻を採る女性漁師」あるいは「韓国済州島の海女」なる職業の人がいる。
男あま(海士)・女あま(海女)の歴史は古いようで、最古の文献は『魏志倭人伝』で、遺物では神奈川県三浦市毘沙門洞穴遺跡より、1世紀前後と見られる鹿の角でできたアワビオコシがあるという。アワビオコシ自体は縄文・弥生の時代からあり、かなり古くから漁業が行われていたことがわかる。貝塚があると言うことは縄文時代草創期より貝を採集する人がいたのであり、男あま(海士)・女あま(海女) はいたと思われる。以前は漁業(沿岸漁業、沖合漁業、遠洋漁業、養殖業)は沿岸、沖合、遠洋と漁場を変えるに従い、男性は沿岸漁業から遠洋漁業に出かける機会が多くなり、女性が沿岸漁業を担うようになったという説がある。この説では貝類もはじめは男海士が取っていたとなるのだが、男性は何分にも漁撈(沖合・遠洋漁業のこと)、狩猟、採集に忙しく、住居の近間でできる採集が早く(縄文草創期)から女性の仕事となったのではないか。従って、貝の採集はすでに縄文時代草創期から女性が行っていたと思われる。
貝塚だが、これも調理して食べられない不要物を捨てる行為だから、当然女性が一定の場所に捨てて貝塚を構築したものと思われる。貝塚もはじめは各家庭単位に作られたかも知れないが、時代を経るに従って集落単位、埋立地へと変遷したのではないか。埋立地というのは各集落が採集地で貝を加工し貝殻を捨て加工品は商取引のため山村集落の得意先に持ち込んだと思われる。そもそも我が民族は巻頭の山形県南陽市赤湯の北町遺跡のマグロ遺骨に見られるように早く(縄文草創期)から他の地域の人々と商取引を行っていたのではないか。バイカル湖から日本列島へ到達するまでも狩猟や採集ばかりではなく他の人々と物々交換等を行いその有無を調整していたのではないか。
洋の東西を問わず、文化発祥の頃は男性が漁撈、狩猟を担い、女性は採集、農業を担ったようである。

★まとめ

日本の海人族文化と言おうか漁撈文化は我が国開国以来始まっており、現在に到っている。一説に「後期旧石器時代の終わりごろと中石器時代を含む時期になってはじめて、人類は水に対する生理的・心理的な恐怖を克服し、河川や海の資源を利用し始める」とあるが、言っていることは我が国そのものだ。おそらく我がご先祖様はまず海岸沿いに住み、サケやマスが遡上する川沿いに進み内陸に住み始め採集生活と狩猟生活を始めたのではないか。我が国には男女の分業が当初よりあったようで、女性は採集、男性は狩猟と区分けされ、それぞれが持ち寄る食材により栄養豊富な食事になっていたのではないか。あるいは縄文時代には「脚気」とか「壊血病」とか「くる病」などという有り体に言えば栄養失調症などと言う病気はなかったのではないか。日本人は今でも「魚食の民」であり、浜辺の人は今も昔も魚を食べていたと思うが、なかには明治時代以前は冷凍・冷蔵技術や運送網の発達が乏しかったので海浜に住んでいる人以外は魚をそんなに食べてはいないという人もいる。しかし、日本には縄文時代草創期から魚の加工技術があり、前述の山形県南陽市赤湯の北町遺跡でマグロの背骨を発掘した先生は北町遺跡のマグロは加工(乾燥)されたものと言っておられる。魚食とは生食を言う、と言うのなら格別、我が国では縄文の昔からいろいろに加工されて持ち運びされた。運搬具の「馬」もあまり役に立たないポニー程度のものであったかも知れないが、それはそれとして人間に代わって物品を運んでいたのではないか。やはり内陸の盆地で魚骨が出てくると言うことは我が国では魚に対するそれなりの需要があり、加工技術も高かったのではないか。今でも干物の産地ならシーズンになるといたる所に魚を干している。加工された干物は自家消費ばかりでなく、外部販売(物々交換)に使われたのではないか。
貝塚のあるところは「ヨーロッパ地域、北米大陸(カナダのブリティシュコロンビア州、アメリカ合衆国メイン州)、東アジア沿海地域(日本列島・朝鮮半島・中国大陸の沿海地域)などの、ほぼ同緯度の地域で、ヴュルム氷期(最終氷期)終焉期以降(後氷期の到来以降)に貝塚が出現している。<但し、貝塚はほかに南米、アフリカ、東南アジア、オーストラリア等にもある>」とあるが、これらの地域はまたサケ・マスが遡上する川が豊富である。サケ・マスは定期的に河川を遡上する魚で、毎年、秋から初冬にかけて産卵のため母川回帰する。前田耕地遺跡(東京都あきる野市)のように、「サケが溯上する秋を中心とする時期に、その捕獲と合わせて石槍を集中的に製作したと推定される。サケの保存を考えれば、前田耕地遺跡もまた、一年の特定の時期に居住地とされることはあっても、通年的な定住集落を形成するまでに至っていない。」と言うが、前田耕地遺跡は格別、おおむね貝塚とサケ・マスの遡上がセットになっているところは定住性の高い(貝塚がある)比較的安定した生活(サケとその加工技術)を送っていたか。真偽のほどは定かではないが、サケは頭をよくする食べ物という説がある。縄文人の頭脳明晰さはこういうところにあるのではないか。
極東ロシアの沿海地方から東アジアの沿海地域(日本列島・朝鮮半島・中国大陸の沿海地域)にかけての一帯は、世界的に見ても貝塚が濃密に分布する地域である。」とあるが、「朝鮮半島の南端、韓国慶尚南道の三千村の沖合にある勒島遺跡群から、朝鮮の土器とは明らかに文化圏を異にする縄文土器や、縄文の道具類が見つかっている。釜山広域市影島(ヨンド)区にある東三(トンサム)洞貝塚からも、7千(B.C.5000)~3千(B.C.1,000)年前(縄文並行期)頃の、縄文人が日本列島から持ってきた縄文土器や、交易品であった九州産の黒曜石などが数多く見つかっている。」などとあるように、朝鮮半島の貝塚は日本人と密接に関係があり、かつ、半島南部は古くから日本人のコロニーがあったのではないか。

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3万年前の航海

★はじめに

過般(2019/07/09)、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」(代表・海部 陽介(かいふ ようすけ)国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長)は、手作り丸木舟によって台湾東岸から約200キロもの航海を成功させ、沖縄・与那国島へと辿り着いた。想定される日本列島への3つの渡来ルート(対馬・沖縄・北海道)の中で、とりわけ注目すべきは、沖縄島を含む琉球列島(南西諸島)への渡来ルートで、九州~台湾間に1200kmにわたって連なるこの列島の全域に、3万年前頃、突然、人類が現れました。ウェブサイトで図示されている例として、種子島(立切遺跡35000年前、横峰C遺跡35000年前)、奄美大島(土浜ヤーヤー遺跡30000年前、喜子川<きしごう>遺跡30000年前)、徳之島(ガラ竿遺跡30000年前)、沖縄本島(山下町第一洞穴遺跡36500年前、サキタリ洞遺跡35000年前、港川フィッシャー遺跡20000年前)、宮古島(ピンサーブ遺跡30000年前)、石垣島(白保竿根田原洞穴遺跡27500年前)、台湾(八仙洞遺跡30000年前)など。「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」チームはこれが日本列島へのまとまった人類群の渡来と捉え、実証実験に向かったようだ。一般的には北方ルートからの渡来は寒さとの戦いのため南方ルートに比べ遅れると言うことで、あるいは日本列島到達には10000年くらいの時間差があったのかもしれない。
プロジェクトの説くところによると、
1.当時の舟は遺跡から未発見で不明であるため、候補と考えられる草・竹・木の舟をそれぞれ試作して海上実験を行ない、当時の航海技術を検討する。
2.日本列島へは「漂流してきた」という説もありますが、今までに蓄積された膨大な遺跡データから、最初の日本列島人は「海を渡って来た」ことがわかってきたのです。つまり我々の祖先たちは、大海原を航海して来た「偉大なる航海者」だった。
3.琉球列島への進出は、当時の人類が成し遂げた最も難しい航海だったと考えられます。ここでは島々が小さいため、それだけ到達が困難であるだけでなく、島間距離が数十から200 km以上に及び、場所によっては隣の島が見えません。さらにそこには世界最大の海流である黒潮が流れており、それが当時も今のように行く手を阻んでいた可能性が高いのです。
4.琉球列島の主な旧石器時代遺跡。当時これらの島は台湾と地続きだったという説があるが、様々な証拠から否定されている。
5.太古の舟は遺跡に残っていません。しかしその素材は、「草・竹・木」のどれかに絞られます。私たちはこれらの舟を全て試作し、実際に海上でテストすることによって、どの舟が使われたのかを探ります。
6.舟の製作は、それぞれ3万年前の道具で素材の調達・加工が可能かどうかを実際に確認しながら進めている。
7.帆は縄文・弥生時代ですら使われていないことがはっきりしてきましたが、それゆえ、旧石器時代の舟は漕ぎ舟だったと考えるべきです。
8.4万~3万年前の間に、対馬海峡・伊豆諸島・琉球列島の各所で、祖先たちが海を越えた証拠が見つかっています。これらは偶然の漂流ではなかったはずです。 当時から意図的な往復航海が行なわれていた。
9.草束舟と竹筏舟の意外な特徴がわかってきました。どちらも海上で高い安定性を見せ、漕ぎ手たちに「転覆しないという安心感」を与えたのです。その一方、スピードと耐久性には難点が見つかりました。思い通りにならない天候と海況、普段より強まっていた海流などに悩まされ、結局目的地に到達することは叶いませんでした。
10.現地の人によれば、台湾から与那国島は見えないというのです。各方面に情報提供を呼びかけたところ、「見えないと言われた島が見える」との情報が出たのです。山の上から島をみつけた祖先たちは、舟で沖へ出たときに、現在の私たちが「黒潮」と呼ぶ海流によって、必ず北へ流されることを知ったでしょう。
11.小さな与那国島は、半径50km圏内に入らないと海上から見えません。従って、航路の大半は、星などを頼りに、水平線の下に隠れる与那国島の方向を目指すことになるのです。この航海が、予想以上に困難であることが実感できるようになりました。

★上記プロジェクトの見解の検討

1.候補と考えられる草・竹・木の舟をそれぞれ試作して海上実験を行ない、当時の航海技術を検討する。
草の家や竹の家は現在でも東南アジアにはあるようだが、日本では先史、有史時代を通じて存在しなかったのではないか。但し、草葺きの屋根は縄文時代からあったと推定され、かつ、英国・ドイツ等西ヨーロッパにも存在し世界的な様式のようだ。草・竹の舟の実証実験は必要ではなかったが、実験の不備を非難されては困ると言うことで実験を行ったのであろうか。
2.日本列島へは「漂流してきた」という説もありますが、我々の祖先たちは、大海原を航海して来た「偉大なる航海者」だった。
港川人・港川遺跡は「人工遺物を伴わないことから、なんらかの偶発的事故により形成された遺跡と考えられている。」と言い、「漂流してきた」人々と考える説もある。また、薩南諸島、南西諸島の点々と連なるおよそ30000年前の遺跡群が同じ目的を持った人の遺跡群かは疑問だ。「また、人骨の特徴が中国の柳江(りゅうこう)人と類似するため大陸との関係が注目され、日本人起源の問題に新しい一石を投じた。」と言うが、これらの人々が中国大陸から継続的にやって来たかも疑問。
3.琉球列島への進出は、当時の人類が成し遂げた最も難しい航海だったと考えられます。
私見もそう思いたいが、それは日本人の主観的考えで世界的にはもっと航海術に長けた人々がいたのではないか。
4.琉球列島の主な旧石器時代遺跡。当時これらの島は台湾と地続きだったという説があるが、様々な証拠から否定されている。
ブラキストン線(Blakiston Line)の説明につき、津軽海峡を挟んだ動物相の違いは、最終氷期に北海道は樺太、千島列島を通じてユーラシア大陸と陸地で繋がっていたことに対して、本州は朝鮮半島を通じて大陸と繋がっていたことに起因すると考えられている、とある。また、渡瀬線:トカラ構造海峡とも呼ばれる、トカラ列島南部の悪石島と小宝島の間に引かれた動物の分布の境界線。北は旧北亜区(中国・日本地方区)、南は東洋亜区に属することになる。多くの動物がこの線を境として分布を異にしている、と。人間も野生の動物を追って東奔西走したのであろうから、これらの動物相も参考になると思う。
5.太古の舟は遺跡に残っていません。しかしその素材は、「草・竹・木」のどれかに絞られます。
台湾から出発するので草や竹が舟の素材として考えられるが、もし日本で造るのだったら「木」しか考えられない。
6.舟の製作は、それぞれ3万年前の道具で素材の調達・加工が可能かどうかを実際に確認しながら進めている。
3万年前の我が国の舟はほとんどが丸木舟だったと思われる。準構造船は古墳時代に、構造船は室町時代に出現したという。
7.帆は縄文・弥生時代ですら使われていないことがはっきりしてきましたが、それゆえ、旧石器時代の舟は漕ぎ舟だったと考えるべきです。
海国日本と言っても、我が国は意外と漁業、造船、航海などの技術が遅れている。
8.4万~3万年前の間に、対馬海峡・伊豆諸島・琉球列島の各所で、祖先たちが海を越えた証拠が見つかっています。これらは偶然の漂流ではない。当時から意図的な往復航海が行なわれていた。
旧石器時代の海洋交易は事実ではあろうが、担った人、交易品、交易範囲、交易期間等は一部を除いて不明である。
9.草束舟と竹筏舟の意外な特徴は、どちらも海上で高い安定性があったが、その一方、スピードと耐久性には難点があった。天候と海況、海流などに悩まされ、結局、目的地に到達できなかった。
一般に、草束舟と竹筏舟は沿海用の舟で、外洋船として用いるのはいかがなものか。葦舟や竹筏は籐で固縛するのであるが、紐がほどけた場合一瞬にして舟がなくなるので危険と思われる。
10.台湾では「台湾から与那国島は見えない」という。しかし、山の上から島をみつけた祖先たちは、舟で沖へ出たときに、現在の私たちが「黒潮」と呼ぶ海流によって、必ず北へ流されることを知ったでしょう。
黒潮によって北へ流された舟はどのような流路を取ったのであろうか。
11.小さな与那国島は、半径50km圏内に入らないと海上から見えません。従って、航路の大半は、星などを頼りに、水平線の下に隠れる与那国島の方向を目指すことになるのです。
航路の大半は天体観測により与那国島に向かったと言うが、当時、そんな技術があったのか。

★まとめ

旧石器時代に南の海より日本列島に渡ってきた人がいたことは事実であろうが、大勢の人が大型の舟で渡ってきたと言うことには大きな疑問だある。舟の遺物が発見されないのでみんな推測に過ぎないのであるが、ほとんどの書物では舟の大きさは現在のカヌーやカヤックくらいと推測している。おそらく少人数が乗る丸木舟ではなかったかと思われる。兵庫県豊岡市出石町袴狭の袴狭遺跡から出土した弥生時代後期から古墳時代前期(4世紀と言う)の準構造船団が描かれた木製品には大小様々な舟が描かれているが、二人乗りが最小単位の舟のようである。柳田国男先生のご見解かと思うが、先史時代の日本人の移動方法は言わば尺取り虫型引っ越し方法とも言うべきもので、移動は家族単位が基本になっていて、まずお父さんが見える島にカヌーで渡航し島の視察をする。居住が可能と考えたら帰宅し家族に話し、新居など引っ越しの準備をする。晴れの日を見計らって、お母さん、子供、おじいさん、おばあさん、犬などをピストン輸送する。南の国からはこう言う方法で人々がやって来たが、九州南部にまで勢力を伸ばすのが精一杯だったか。
一方、大陸と陸続きだった樺太・北海道(2万年ほど前の氷河期には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。 )ラインは徒歩が原則で、3万年前に日本上陸を果たした南西諸島ルートより遅れること10000年後にして北海道に上陸したのではないか。北海道から本州に渡るには諸説があるが、有力なところでは、冬になると津軽半島と北海道の間や下北半島と北海道の間が氷結し氷結路を歩いて渡った。あるいは、そこまで言わなくとも、津軽海峡は更新世には形成されておらず、本州と北海道は陸続きであったが、その後南北あるいは東西方向の断層などによって 2万年前頃海峡が形成されたと考えられると言い(但し、異説もあるようだ)、北海道と本州は自由往来の時期があったようである。北海道のマンモスの化石は「約4万年前より古い化石と約3万年前より新しい年代を示す化石に分けられ、約3万5000年前あたりを示す化石はなかった。」と言うので、3万年前以降の一団のマンモスハンターが波状的に北海道へやって来たのかも知れない。あるいは、丸木舟で渡って来たと言う。なお、マンモスハンターはいなかったとか、津軽海峡は消滅したことはなく旧石器時代後期の日本は大陸、樺太、北海道が一体化しており、津軽海峡を挟んで、古本州島(本州、四国、九州)があったという。古本州島に来たのが北海道、対馬、沖縄(南西諸島)のいずれのルートかはわからないが、いずれのルートにせよ渡海、航海の技術があったという。
以上より北海道ルートの移住はやや大規模なもの(マンモス狩りも少人数ではできないようだ)で、かつ、単発的なものではなく継続してやって来たのではないか。沖縄ルートに比べ日本進出は遅かったものの途中難渋することもなく本州まで進出した。東日本の人口が多いのは移動手段を徒歩に頼ったためで日本アルプスに行く手を遮られたため東日本にとどまったと言うことである。従って、日本人のルーツは縄文人であり、日本海を舟で移動した人は沖縄までたどり着いたのではないか。沖縄ルートの人はせっかく日本列島に先に到達していたのに北海道ルートのマンモスハンターの行動力とか、食生活が鮭などの有益な食物だったこともあって全国制覇はならなかったと言うことかと思う。考古学の遺跡も沖縄(南西諸島)と九州南部は似ているという。
最後に、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の航海実証実験については、余計なことを言うわけではないが、舟も我々が博物館などで見るものより大型で頑丈にできており、本物はもっと華奢な舟ではなかったか。航路の取り方も出発点を台湾の八仙洞遺跡に寄せたのかも知れないが、人間がそこにしかいなかったと言われればそれまでだが、難易度の高い海流が流れているところを選んだのもわからない。とは言え、成功に到ったことは喜ばしい限りだ。

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羽山戸神

★はじめに

『古事記』だけに出てくるマイナーな神に羽山戸神という神がいる。系譜は大年神(オオトシ。『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた)と天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)の間に生まれた神と言う。大気都比売神(オオゲツヒメ)を娶った。多数説は「山の麓を司る神」とする。しかし、二神の間の子は、若山咋神(わかやまくい) – 山の神。若年神(わかとし)。若狭那売神(わかさなめ) – 田植えをする早乙女の意。弥豆麻岐神(みづまき) – 水撒き・灌漑の神。夏高津日神(なつたかのひ) – 別名 夏之売神(なつのめ)。夏の高く照る日の神の意。秋毘売神(あきびめ) – 秋の女神。久久年神(くくとし) – 稲の茎が伸びることの意。久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなね) – 別名 若室葛根(わかむろつなね)。新しい室を建てて葛の綱で結ぶの意。新嘗祭のための屋舎を建てることと考えられる。(以上、Wikipediaの解釈による)などと言い何か農業しかも水稲稲作に特化した神が多い。「山の麓を司る」が具体的に何をするかはわからないが、同じ意味を持つもう一神の神がいる。麓山祇・羽山津見神(ハヤマツミ)という神で、『古事記』、『日本書紀』双方に出てくる。
『古事記』では、羽山津見神(『古事記』上・伊耶那美命の死) 伊耶那岐神に殺された迦具土神の屍体の各部位から生まれた八神の山津見神の第六で、右手に成った神。その言うところは、火神の屍体から山の神々が化成した意義について、火山の爆発を意味するという説、山焼きに関連するという説、カグツチのツチからの連想で山の神が化成したかという説等がある。
『日本書紀』では、「麓山祇」(巻第一神代上五段一書八)とあり、五山祇のうち第三に手に成った神で、訓注に「麓、山足を麓と曰ふ。此に簸耶磨(はやま)と云ふ」とある。これによって、「羽山津見」のハヤマは端山の意で、山の麓に解され、奥山津見に対応すると考えられる。ヤマツミは山の神である。」しかし、羽山戸神には妻子がいたが、麓山祇には妻子がいなかったようである。羽山戸神の子供たちは農業に傾斜した神だったが、麓山祇は火山の噴火で終わったと言うことか。とは言え、「山の麓(ふもと)の神」がどうして農業に結びつくのか。「羽山戸神が、山裾の肥沃な土地の神であると想像できる。」とか、「日本では山に穀物神が住んでいて、その神が里の畑に下りて、畑に宿って穀物を育てると考えていました。だから山は異世界の入り口であり、良い穀物神を宿す山は特別視したわけです。」とか、諸説があるが、不審な点もある。
羽山戸と羽山津見(麓山祇)は「羽山」の部分を同じくし、『日本書紀』訓注に「麓、山足を麓と曰ふ。此に簸耶磨(はやま)と云ふ」とある。よって、「羽山津見」のハヤマは端山の意で、山の麓に解され、奥山津見に対応する、と言う。地名には、羽山、葉山、早馬等があり、「は(端)、やま(山)で、平地に接する山のこと」とか、「山の端」の意味とし、「山裾の肥沃な土地」どころか「あぶない地名(災害地名)」に分類している人がいる。言わば、こういうところには家を建てて住まないこと、と言うことかと思う。羽山津見の津見は、<山津見はもともと山の神の意を持つ普通名詞であり、そうした多くの山の神を総括したものがオオヤマツミであろう。>と言われるように「神」を意味する言葉だったのだろう。次いで、羽山戸について検討してみる。

★羽山戸とは

羽山戸に関しては、一般に、「羽山」「戸」と理解しているようで、「羽山」=山の端、麓、「戸」=処で、山は山でも「山麓緩斜面」の地上接地点ようなところを言ったものであろうか。多神教国の日本だからこういうところにも神が宿っているのかもしれない。しかし、肝心なのは何の御利益があるのかだが、昔は神が宿る神聖な場所と思ったり、 山と平野の接点なので山の幸と栽培穀物の幸が豊かだったと言うべきか。現代ではあまり御利益なんて感じないところかと思われる。おそらく昔あった祠もどこかへ吹っ飛んで行ってしまったのだろう。ところで、羽山戸を検索していると早股・早俣の地名が出てくる。具体的には、正式な住所となっているのは、
宮城県岩沼市早股 (はやまた)
埼玉県東松山市早俣 (はやまた)
いずれも東日本で若干驚いたが、西日本でも地名の小字に似た地名があった。小字は現在ではほとんど使われていないので調査不足なのであるが、具体的には、
山口県山口市早間田(はやまた)(現・山口市中央一丁目)但し、語源は駅田(はゆまた)「古の世駅馬の料に充し田畝の名の遺れるにや。駅の訓はゆまにて早馬(はやま)の義なり」と。
愛知県豊川市市田町早馬田(はやまでん) (現・愛知県豊川市市田町東新屋)
宮崎県北諸県郡三股町長田字早馬田(現住所は不明。読みも不明)
いずれの地名も文献に現れてくるのは江戸時代の頃と思われ、国家開闢の頃の神名にはそぐわないかもしれないが、宮城県岩沼市早股を例に取るならば、
*川村孫兵衛重吉(まごべえしげよし)は「田の代わりに荒れ地をいただきたい」と希望し、手に入れた湿地帯を開墾して1千石の美田に変えてみせました。それが早股の地です。(伊達政宗の頃)
*湿地が多く荒れていた名取平野に木曳堀(阿武隈川と名取川間)が通水することによって、溜まり水が排水され新田が開発されたということになります。
*貞山堀(阿武隈川河口から松島湾の塩竈までの運河)の開削を担ったのは、政宗に登用された川村孫兵衛(重吉。まごべえしげよし)だと言われています。孫兵衛は玉浦(現・岩沼市)の早股に最初の領地を与えられ、多くの土木事業を成し遂げた人です。政宗の諡(おくりな・「貞山公」)をとって「貞山堀」と名付けられました。
宮城県岩沼市早股は阿武隈川が形成した低湿地帯である。
一方、埼玉県東松山市早俣は、
「高坂台地の東に続く都幾川右岸の沖積低地にある」と言うが、具体的には都幾川が形成した低湿地帯であろう。現在もほとんどの地所が水田である。また、鎮守は小剣神社で、「この神社は、水災よけ、養蚕業の発展、河岸場の繁栄を祈願して創建されたものと伝えられています。」などと言い、祭神は日本武尊、剣根尊と言うが、失礼ながらこれらは全部後付けの話で、小はほかに剣神社があったのでそれと区別するためにつけた接頭語で、剣は水流(つる)、岐(き)で、水流(つる)は湿地の意味、岐(き)は場所を表す接尾語で小剣神社とは湿地あるいは水田の神様を祀った神社ではないか。具体的な神名は何というかであるが、「倉稲魂」(うかのみたま)、「豊受媛神」(とようけびめのかみ)、穀霊神の大歳神(おおとしのかみ)、かかし・「久延毘古」(クエビコ)・田の神などがあげられる。特に、古代では産土神と言い土地そのものが神であり、神名などはなかったのかもしれない。まず地名がついて次いで神名がついたのだろう。
以上は勝手な私見で、「はやまた」(早馬田、早俣、早股など)を羽山戸の転訛と考え述べたものである。

★まとめ

羽山戸の語義であるが、通説は「羽山・戸」と区切って解釈している。しかし、「羽・山戸」もありうると思う。この場合は羽(は)は一般的には、端、縁、先端、岬の鼻、涯(きわ、山の端)などと解されるようである。そもそも「は」という音は崩壊地名につくことが多く、はか(墓谷)、はき(杷木、萩)、はく(白地、白山)、はけ(羽下、波介)、はこ(箱根、筥崎)等が例である。
山戸であるが、昔から山戸、山門(戸、門は甲類)と古典に出てくる「夜摩苔」(『日本書紀』)や「邪馬臺」(『魏志倭人伝』)(苔は乙類)は意味が違うという。即ち、大和と山門、山戸は似て非なるもので違う言葉なのである。一応、一般的な解釈としては、

山門・山戸
「と=門、戸」は「門」の意で、「両側に山の迫った地」、「川口(川の合流点を含む。川の門)」のことである。あるいは、「と」は「つ」の転で「港」か、と。また、吉田東伍博士は筑後国山門郡(現・大和福岡県みやま市瀬高町山門)の大部分は湿地であるという。
『和名抄』備後国奴可(ぬか)郡斗意(とお、とい)郷、日向国児湯郡覩唹(とお、と。都於)郷、石見国那賀郡都於(つのへ、つの。つもん)郷(読みは奈良文化財研究所古代地名検索による)
『古代地名語源辞典』(楠原佑介、櫻井澄夫、柴田利雄、溝手理太郎共著、東京堂出版、1981年)は上記すべてを「と」と訓じている。

大和
大和国城下郡大和郷が発祥地。大和の語源については、
*山外(貝原益軒説)大和国が大阪湾から見て生駒山地、金剛山地の外側という意味らしい。
*山処(契沖説)山のあるところ。現今の通説という。
*山本(池田末則説)山の麓。
*山に囲まれた地(本居宣長説)
山内で読みは「やまち」と「やまつ」がある。薩摩国出水郡山内郷。山内(やまつ)が転訛して大和となったか。
*山人(やまと)奈良盆地が湿地だったので山に住んでいた。天皇氏や久米氏の山部的性格が説明できるのでは。

羽山戸神の原意を解釈するならば「端谷間門」の意味で、いわゆる、谷地、谷津、谷戸、谷田などの「ヤ・ヤチ」型の地名でこの中に谷間も入るはずではなかったか。従って、この場合の谷間(やま)は山の意ではなく、水の流れる谷間(たにま・たにあい)を意味し、湿地帯を言うのではないか。とは言え、谷地、谷津、谷戸、谷田等は装飾語などはつかず単独で用いられるのに、羽山戸(端谷間門)は羽山(端谷間)か山戸(谷間門)に分けられてもおかしくはない。おそらく後世になり、山と谷間(やま)が混同するようになり、ヤマは「山」に一本化され、谷間(たにま)は苗字が多少残っているようだ。
以上より「羽山戸神」は山戸に主意があり、「川の合流点」およびその界隈の「湿地帯」を意味し、水田(農業)の神と推測される。地主神とか国魂神、産土神と言う類いの神であろう。

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大宜津比売神と家都御子神

★はじめに

大宜津比売神と家都御子神がどうしたのだ、と言われれば、何やら大宜津比売の「宜津」と家都御子の「家都」が同じ発音ではないかと思い、現代的に言うと同族(神)の人ないし神ではないかと思うのだが、あまたの解説を見るとそうではないらしい。大宜津比売神は『古事記』に出てくる神で、『日本書紀』には保食神(うけもちのかみ)と名が変わって出てくる。おそらく『古事記』の著者の見た原典と『日本書紀』の編者が見た原典とは違うものだったのだろう。あるいは「この説話は食物起源神話であり、東南アジアを中心に世界各地に見られるハイヌウェレ神話型の説話である。」と言い、日本には穀物神話が多いところから見て、朝鮮半島経由の神話や揚子江中・下流域経由の神話が多かったのだろう。半島経由の神話と江南経由の神話も少しずつ内容が違ったのではないか。「宜津」や「家都」など同じような言葉が出てくるのはその後日本人に咀嚼されて日本語(大和言葉)に改められたからではないか。昔も今も日本文化は外国からの移入品、と思われるような話で申し訳ないが、食物起源神話に関しては日本ばかりでなく世界的に東南アジアを起源としてそこから世界各地に拡散している、と言うので文化の輸入は何も日本の専売特許ではないようである。アフリカと東南アジアは人類の二大集積地というので、アフリカは人間そのものを送り、東南アジアは思想ないし文化を送ったと言うべきか。特に、我が国は天神地祇(元は中国語かと思われる)と言う言葉があるように人間は天上から地上に来たという北方型垂直思考であり、ハイヌウェレ型神話のような「ハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。」と言うような芋文化的発想はなかったようだ。穀物文化と言っても日本の水田稲作は2300年ほど前に始まったものであり、諸外国に比べてかなり遅いものである。従って、食物起源神話も『記紀』編纂間際になって、渡来人の助言によって『記紀』に挿入されたものではないか。『記紀』の主人公の神名が異なるのも助言者が違ったからか。

★大宜津比売神について

大宜津比売神は『古事記』のあちこちに出てくるようで、

1.国産みにおいて一身四面の神である伊予之二名島(四国)の中の阿波国の名前として初めて表れる。
2.その後の神産みにおいて伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた。
3.更に高天原を追放された須佐之男命に料理を振る舞う神としても登場する。
大宜津比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大宜津比売神を斬り殺してしまった。
4.後に大年神の系譜において羽山戸神の妻として八神を生んだとの記述がある。
これらが同一神か別神かは不明。

1.「阿波国の名前として初めて表れる」とあるが、阿波(アハ)を穀物の粟(アハ)と勘違いしたもので、阿波(アハ)は語源的には暴(あば)れる、発(あば)くなどで、被害が出るほど乱暴に動く(増水で川が暴れる)、土を掘って取り出す・表土を削る(発く)などの意味があり、徳島県の場合は吉野川(日本三大暴れ川の1つ)の洪水や氾濫から「阿波国」となったのではないか。従って、阿波国と大宜津比売神は何の関係もなく、『古事記』の原著者の勝手な当て推量だったのではないか。阿波国の人も阿波国には大宜津比売神の別名があると聞いて驚いたのかもしれない。
3.ハイヌウェレ型神話の「大宜津比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し」、須佐之男命に「汚い物を食べさせたと、大宜津比売神は斬り殺された」の後に、
大宜津比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。 これを神産巣日御祖神が回収した、とある。
これは全部が外国の神話の借り物かと思う。
4.羽山戸神の妻として八神を生んだ。 八神は、若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神の八神である。現今で言う農作業カレンダーのような名前で、若の美称が多いのは農作業は当時の最先端産業でみずみずしい若い人のする仕事だったのである。若山咋神は新緑の山を、若年神はあたらしい年、つまり春を、若沙那売神は小さな新芽が吹き出したことを、弥豆麻岐神は新芽に定期的に水をやり、夏高津日神は夏の高温で栽培植物の成長を促し、秋毘売神は秋の収穫を表し、久久年神は一年の締めくくり即ち12月を、久久紀若室葛根神は、久久紀は大晦日を、室葛根は種芋などを室の中に保存することを言ったのではないか。羽山戸神は農業神であり、大宜津比売神は食物神だったか。
大宜津比売という名称は「大いなる食物の女神」の意味である、と言うのも羽山戸神の妻としては有意義なものであったか。

★家都御子の神について

家都御子神については家都美御子神(けつみみこ)の表記もある。一般的な解釈としては、
「家都御子神(けつみこのかみ)熊野本宮大社の祭神。樹木を支配する神とされ,素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名ともいわれる。もともとこの神は,三山のうちでは,本宮とも呼ばれる熊野坐神社の祭神であったとされ,出雲の熊野神社の祭神である熊野大神櫛御気野命が移し祭られて,それが当地で家都御子神になったと伝えられている。ケツミコは「木津御子」で,樹木の神の意。櫛御気野命の子に五十猛命という神がいて,この神が紀伊国に木種を撒いたという伝承から命名されたらしい。『朝日日本歴史人物事典』 (1994年11月に朝日新聞社が発行。執筆・西條勉)」と言う。
「家都御子神」の意味については、
1.家=食(け)、即ち、食べ物。都=格助詞の「の」。
食物の神とする。大宜津比売神と同じ意味となる。出雲国の熊野大社祭神「櫛御気野命」に通じるか。
2.家都=木津、家都美=木積。
樹木の神とする。紀伊国は古くは「木国(きのくに)」と言われた。素戔男尊(家都御子神の別名という)の子に五十猛命と言う木の神がおりそれの伝承か。
木津は、
苗字では、きづ,きつ,きず,もくつ,こづ,こず等と言い、
地名では、
きづ
京都府木津川市などにある地名。三重県熊野市紀和町木津呂(きづろ)
木津町、木津村 – 日本の町村名。
木津川 – 日本の河川名および地名、駅名。
きつ
京都府京丹後市にある地名(網野町木津)。
木津 (新潟市) – 新潟県新潟市江南区にある地名。
こっつ
愛知県犬山市にある地名。
木津用水駅 – 愛知県丹羽郡扶桑町にある名鉄犬山線の駅。駅名に限り「こつ」と読む。
こうつ
滋賀県高島市にある地名(新旭町饗庭の一部)。かつての近江国高島郡木津荘。
木積は、
苗字では、読みは「こづみ」で穂積(ほづみ)の転訛。東大阪市東石切町の石切劔箭神社の神主は穂積姓から功積姓となり木積姓となったと伝える。
地名では、
きずみ
千葉県匝瑳市木積
こつみ
大阪府貝塚市木積
こつも
高知県安芸郡北川村木積
こづみ、きづみ、こつみ
丹後国与謝郡には式内社・木積神社(京都府与謝郡与謝野町弓木字石田宮ヶ谷408など)の論社がたくさんあって読みは上記のようになっている。

「家」の意味を食物の「ケ」とするのか樹木の「キ」とするのかによって食物の神あるいは樹木の神となるのであろう。都美は山祇(やまつみ)とか海神(わたつみ)とかの「ツミ」で、神名につく原始的な姓か。

最後に、私見で恐縮なのであるが、
熊野本宮大社では「かつては湯立が行われており、「熊野権現垂迹縁起」では大斎原が「大湯原」と表記されていることや、熊野をユヤと読む際に湯屋や湯谷の字をあてられたことなどから、熊野信仰の中核に湯の観念があったことが指摘されている。」という。即ち、家都御子神の「家」は「湯気」の「気」のことで、家都御子とは温泉の神ではなかったか。当該地には「湯の峰温泉」とか「川湯温泉」「渡瀬温泉」があるという。インターネットで「湯垢離」を検索するとやたら熊野国界隈の温泉や地名が出てくる。また、一説によると古代の入浴法は現代のサウナのようなもので湯につかる現代のような入浴方法は後世のものと言った見解もある。熊野で行われた「湯立」というのも、現今の概念に直すとスチームサウナと言うところか。とどのつまりは、熊野本宮大社の信者が健康の妙薬として親しんだのは温泉だったのではないか。

★終わりに

大宜津比売神と家都御子神は神名は同じではあっても親近な神ではなかったようで、おそらく神族の発祥は別々の神なのだろう。大宜津比売神については、おおむね「食物の神」と言うことでまとめられているが、家都御子神については、太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。 家都御子神については、素戔男尊、五十猛神、伊邪那美神とする説がある。しかし、その発祥の順序から言うと、まず、ゴトビキ岩(天磐盾)があって、次いで那智の滝、本宮大社は太陽か、水か、木か、と言うところであろう。ゴトビキ岩や那智の滝は壮大な姿で描かれているが、熊野本宮大社は出雲国の熊野大社祭神「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(素戔嗚尊の別名)の分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元である、と言う。この理論で行くと、熊野速玉大社と熊野那智大社は熊野本来の神であり、熊野本宮大社の家都御子神は出雲国から分祠された「食物神」と言うことになる。奇しくも、大宜津比売神と同類の神となるようだ。
宜津とか家都とか気野とかは「ケ」と発音する宜、家、気の音から「食物」を連想するようだが、祭神を御饌都(みけつ)神として「万民の食物をつかさどる神徳ありとし,ひいては農耕以下生産の守護神なることを強調して,信徒を広く集める」ためにこの種の神が多く祀られたのではないか。無論、祭神にはなにがしかの御利益が必要で、「長寿と富貴は願わぬものなし」との例え通り長寿(温泉)、富貴(米)の御神徳を信者に賜ったのではないか。

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宇井のこと

★はじめに

昔、宇井という高名な学者先生(今考えると宇井純沖縄大学名誉教授だったか)が、「我が家はインドネシア系でインドネシアからやって来た。インドネシアには<ウイ>と言う苗字(場合によっては、地名か)はたくさんある」とのことだった。当時は日本の神話は、失われた釣り針神話・海幸彦と山幸彦の物語(インドネシアのセレベス島北部のミナハッサ族)、穀類起源神話・素戔男尊と大宜都比売神(インドネシアのマルク州のセラム島)など日本の神話はインドネシアの民話の影響を受けていると喧伝されていた頃で、民話に足がついて日本へやって来たのではないだろうから、インドネシア人の子孫と言われてもそんなものかと言うほどのことだった。また、遺伝子解析が発展したその後の考古学や人類学の世界においても日本にはインドネシア人の遺伝子が珍しくないと言うことで、宇井という人もその一人かと思っていた。
ところが、日本では宇井というのは人名(苗字)にも地名にもあると言うことで、人名では千葉県、愛知県、東京都、和歌山県南部・三重県南部(別名:熊野)地域に多く、地名では和歌山県、徳島県がやや多く、栃木県、奈良県、島根県、三重県、高知県、福島県などに散見する。各地に共通する点は、基本的に山間僻地の小集落で、「別に離れて区域をなすものを言う。山中、往々その名あり」とか、「山がちの地形で水田に乏しく、畑作や出稼ぎを中心とした」とか、なかには「広大な山林を利用した伐畑農業(焼畑農業など)で、そこそこ潤っていた」ところもあったようだ。
失礼ながらそのように顕微鏡ででも見なくてはわからないような地名なので『和名抄』にはもとより、古代文献には現れず、文献初出は中世から近世にかけてのようである。また現代でも、「宇井苗字数が上位の都道府県にこの苗字の地名はみあたらない」とか、「地名以外の由来」とか、「千葉県に多い苗字なので千葉県がこの苗字発祥の地か」とか、多々宣う人がいる。しかし、これは全部当たらないと思う。例えば、鈴木姓にしても全国二位の数であるが、鈴木地名があったとしてもそれは人間由来のものであり、地名に語義があってついたような地名ではないと思う。地名以外の由来、とは人間の移動であり、千葉県がこの苗字の発祥地か、とは「熊野三山協議会」(都道府県別熊野神社分布図)の調査では千葉県の熊野神社の数は福島県437社に次ぐ346社で全国第二位であり熊野三党の関係者もそれなりにやって来たのではないか。熊野三党とは鈴木(穂積)、榎本、宇井の三氏をいい、千葉県にそれなりの宇井さんがいてもおかしくはないのではないか。ともかく、首都圏の熊野神社は、埼玉 222、千葉 346、東京 158、神奈川 121と他の地域より相対的に多くなっている。

★宇井の意味

宇井の語義についてであるが、地名に関するものはそれなりに述べられている。諸説を紹介すると、

1.上(ウヘ)の転訛で宇井(ウヰ)となった。一番多い説で宇井の地名が文献上は中世以降に出てくるので上(ウエ)が宇井(ウイ)に転訛したとするもの。

言わんとするところは、「エ」と「イ」の区別のできない人、あるいは、地域が日本国中どこにもあったと言うことである。「エ」と「イ」の区別のできない人は日本人ばかりではなく外国人にもいる。現在の日本では「エ」と「イ」は厳然と区別されているのでこう言う間違いはケアレスミスでは済まされないのかもしれない。
さらに徳島県(徳島県方言学会)では「ウエ→ウイ→イイ→の音変化」をあげ、「本県では、山の上部、川の上流をウエまたはソラと呼んでおり、地名に用いる場合が多い。」という。和歌山県や徳島県は木材産業が古くから盛んなようで樹木の植栽地をこのように名付けたのかもしれない。例、植える(うゑる→うゐる)。

2.ウ・ヰ(ヰ<井>は井戸ばかりを言うのではなく水路や川を言う)と言う地名で、水路や川にまつわる地名。

3.ウヒ(初、初めての)という意味。

4.ウヒヂの下略。ういじ(泥、泥土のこと)

なお、宇井の宇(宇のほか、羽、卯、鵜、有、烏、上などをも用いる)に関しては、

①接頭語で、オホ(大)、ヲ(小)、ウヘ(上)などの転約か。

②ウン(温)で、温泉に関わる語か。

③鳥類の鵜にちなむ語か。

④動物の兎による語か。

等々を述べる説がある。

私見の勝手な推測では、これは縄文語由来の言葉ではないかと思う。縄文地名は一音である場合が多いと思うが、これは二音で構成されており、時代も縄文末期頃にできた言葉で、宇は上(ウヘ)の下音を略したもので、井は「住まゐ」の「ゐ」で、居るところ即ち集落を表したものではないか。結論を言うと、多数説と同じ「山の上部、川の上流などの小集落」を言ったものかと思う。

★宇井氏は何をしていたの

宇井氏と言っても全国に散らばっているのでどの宇井氏かとなるかと思うが、一応、熊野発祥の宇井氏のこととしたい。この宇井氏は本姓を丸子連というもののようで、全国的に「宇井」と名乗る人と「丸子」と名乗る人がいるようだ。熊野三党(榎本氏、宇井氏、穂積氏)の発祥については、

①熊野三党の祖は高倉下命とするもの。
『熊野権現縁起』によると「第五代孝昭天皇のとき、千穂ヶ峰(新宮市)に神人が龍に乗って降臨。人々があがめ奉るなかに、一人の男が進み出て、十二本の榎のもとに神を勧請した。神は男の殊勝な心がけを嘉し、榎にちなんで、男に榎本の姓を賜った。その弟は丸い小餅を捧げた、そのゆかりで丸子(のちに宇井・鵜居)の姓を与えられ、第三子の弟は稲の穂を奉納したので神は穂積の姓を授けた」と言う。

②熊野三党の三氏はすべて穂積氏が発祥とされる説

③穂積氏と榎本氏、宇井氏は血統が違う。
穂積氏は、穂積押山→穂積磐弓→穂積祖足→穂積古閉→穂積男麻呂→穂積濃美麻呂→穂積忍麻呂(熊野速玉大社禰宜)と続く当代一流の豪族であり、宇井氏、榎本氏は古いことは古いが、文字による記録がなかったと見え、大伴氏から婿養子を迎え大伴氏に連なる一族としたのではないか。おそらく宇井氏、榎本氏は高倉下命を遠祖とする一族だったのではないか。あるいは神武天皇に勝るとも劣らない一族だったと思う。もっとも、大伴氏の一族で榎本とか丸子を名乗った人は穂積押山と同世代の人と思われ、穂積忍麻呂が禰宜となったので宇井・榎本両氏が対抗上大伴氏を養子にしたかは不明。

ところで、書籍などを見ていると、熊野三党の職業としては、1.熊野速玉大社の神官、2.同大社の御師、3.侍などが出てくる。
熊野速玉大社の神官だが、今の宮司さんは熊野三党と女系ではつながっているのかもしれないが、榎本とか宇井とか鈴木とか言う熊野三党の苗字を名乗っているわけではないようだ。熊野三党熊野速玉大社神官世襲説は崩壊したと言うべきか。柳田国男先生の一文に「熊野路では、鈴木、榎本、宇井の三軒の名家があり、この三軒の者でなければ人間でないとまでいわれたほどである。宇井は早く衰え、榎本は後に神と別れて、鈴木の一族のみが結合力が強く、各地で著しい繁栄をしたのである。」と。今でもそうだが、古い大社に行くとやたら神官が多いのに気づく。神官の住居のある地域を「社家町」「御師町」と言い(例、兵庫県西宮市社家町など)たくさんの世襲神官が住んでいるようだ。
神官と御師であるが、大雑把に言って神官は祭祀を執り行うものであり、御師は熊野三山参詣人の世話をする人を言うのであろう。先達は地方において熊野巡礼者を募集し、当該地から熊野までの案内等をした人を言ったものであろう。「蟻の熊野詣」と言われ先達・御師の仕事を世話とか案内とかの簡単な言葉で言っているが、失礼ながらこの種のことは時代がたつとともに<もったい>をつけるようになり、言葉一つにしても妄言など道理に背く言葉は厳禁で、忌詞を用いる等、先達や御師はもとより参詣人もいろいろな礼儀作法等を学ばなければならず、教える方も教わる方も難儀したことと思われる。そういうなかにあって、神官、先達、御師等は過剰受注に悩まされつつ渾然一体となって対応したのではないか。従って、熊野三党の一族は神官、先達、御師のいずれもを行っていた。
侍と言うのは、いわゆる、弓馬の道で、神官には弓馬の道に励み領主化する人物もいた。江戸時代の大名家にも先祖が神官(神社の神主)という例がある。『平家物語』巻四に「侍には うい・すすき」と言うものの、熊野水軍の主導者は熊野別当で、特に、湛増は著名だが「熊野水軍を率いて源平合戦 (→治承の内乱 ) に活躍。最初,平清盛に味方したが,源氏の形勢が有利になると,源義経の軍に加勢し,屋島,志度,壇ノ浦に転戦して軍功を立てた。しかし頼朝には好まれなかった。 」とあるように、僧侶の割には疑問符のつく人物で、その下の侍の宇井氏や鈴木氏はあまり顧みられなかったのではないか。

★まとめ

宇井という地名は古い自然発生的地名で、山間部の平地よりは少し高くなったところにできた小集落を言うようである。日本に水田稲作が入ってきてそれとの住み分けで少し高いところで焼畑農業を行っていたのではないかと推測される。伐畑農業でそこそこ潤っていたと言うのも新農法を取り入れるよりも旧農法の焼畑農業で堅実に収入を上げようとしたからではないか。「宇井」地名は紀伊半島と四国に偏っており、特に、「宇井」地名の多い徳島県は稲作民に多いY-DNA「O」系と縄文系に多い「D」が拮抗しているようなので、縄文系の民(ハプログループD・山の民)と弥生系の民(ハプログループO・平野の民)に分けてよいのかもしれない。ほかに、徳島県はC1a1(日本固有)が特段に高いようである。学者先生の調査によると、Hammer2006の徳島県7/70=10%、Sato2014の徳島市大学生22/388=5.67%と言い、日本人平均値・日本人・・・160/3676=4.35%より高くなっている。
宇井氏というのは宇井の地名から起こったもので生活様式から言うと守旧の人ではなかったかと思われる。地名が紀伊半島と四国(徳島県、高知県)に偏っているので、たとい熊野大社の神官の出といえども全国的な大物は出なかったようである。同業の榎本氏が『和名抄』にも散見する地名より起こったのに対し、そこは力負けの感がある。特に、熊野三党の場合、途中から熊野別当なる余計な役職が現れ、熊野三党を後退させた。とは言っても、熊野御師の一角を担っていたので宇井姓は全国にまんべんなく行き渡っているようだ。
熊野の宇井氏の発祥の地だが、現在の新宮市千穂ヶ峯の一角にあったと思われるが、遺称地はない。熊野三党では最古参と思われ、高倉下命の直系の子孫と思われるがそれも確証はない。宇井、榎本、穂積はみんな別系統の人だがそれも確証はない。当て推量を延々と述べても意味がないのでここで終了とする。

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