羽山戸神

★はじめに

『古事記』だけに出てくるマイナーな神に羽山戸神という神がいる。系譜は大年神(オオトシ。『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた)と天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)の間に生まれた神と言う。大気都比売神(オオゲツヒメ)を娶った。多数説は「山の麓を司る神」とする。しかし、二神の間の子は、若山咋神(わかやまくい) – 山の神。若年神(わかとし)。若狭那売神(わかさなめ) – 田植えをする早乙女の意。弥豆麻岐神(みづまき) – 水撒き・灌漑の神。夏高津日神(なつたかのひ) – 別名 夏之売神(なつのめ)。夏の高く照る日の神の意。秋毘売神(あきびめ) – 秋の女神。久久年神(くくとし) – 稲の茎が伸びることの意。久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなね) – 別名 若室葛根(わかむろつなね)。新しい室を建てて葛の綱で結ぶの意。新嘗祭のための屋舎を建てることと考えられる。(以上、Wikipediaの解釈による)などと言い何か農業しかも水稲稲作に特化した神が多い。「山の麓を司る」が具体的に何をするかはわからないが、同じ意味を持つもう一神の神がいる。麓山祇・羽山津見神(ハヤマツミ)という神で、『古事記』、『日本書紀』双方に出てくる。
『古事記』では、羽山津見神(『古事記』上・伊耶那美命の死) 伊耶那岐神に殺された迦具土神の屍体の各部位から生まれた八神の山津見神の第六で、右手に成った神。その言うところは、火神の屍体から山の神々が化成した意義について、火山の爆発を意味するという説、山焼きに関連するという説、カグツチのツチからの連想で山の神が化成したかという説等がある。
『日本書紀』では、「麓山祇」(巻第一神代上五段一書八)とあり、五山祇のうち第三に手に成った神で、訓注に「麓、山足を麓と曰ふ。此に簸耶磨(はやま)と云ふ」とある。これによって、「羽山津見」のハヤマは端山の意で、山の麓に解され、奥山津見に対応すると考えられる。ヤマツミは山の神である。」しかし、羽山戸神には妻子がいたが、麓山祇には妻子がいなかったようである。羽山戸神の子供たちは農業に傾斜した神だったが、麓山祇は火山の噴火で終わったと言うことか。とは言え、「山の麓(ふもと)の神」がどうして農業に結びつくのか。「羽山戸神が、山裾の肥沃な土地の神であると想像できる。」とか、「日本では山に穀物神が住んでいて、その神が里の畑に下りて、畑に宿って穀物を育てると考えていました。だから山は異世界の入り口であり、良い穀物神を宿す山は特別視したわけです。」とか、諸説があるが、不審な点もある。
羽山戸と羽山津見(麓山祇)は「羽山」の部分を同じくし、『日本書紀』訓注に「麓、山足を麓と曰ふ。此に簸耶磨(はやま)と云ふ」とある。よって、「羽山津見」のハヤマは端山の意で、山の麓に解され、奥山津見に対応する、と言う。地名には、羽山、葉山、早馬等があり、「は(端)、やま(山)で、平地に接する山のこと」とか、「山の端」の意味とし、「山裾の肥沃な土地」どころか「あぶない地名(災害地名)」に分類している人がいる。言わば、こういうところには家を建てて住まないこと、と言うことかと思う。羽山津見の津見は、<山津見はもともと山の神の意を持つ普通名詞であり、そうした多くの山の神を総括したものがオオヤマツミであろう。>と言われるように「神」を意味する言葉だったのだろう。次いで、羽山戸について検討してみる。

★羽山戸とは

羽山戸に関しては、一般に、「羽山」「戸」と理解しているようで、「羽山」=山の端、麓、「戸」=処で、山は山でも「山麓緩斜面」の地上接地点ようなところを言ったものであろうか。多神教国の日本だからこういうところにも神が宿っているのかもしれない。しかし、肝心なのは何の御利益があるのかだが、昔は神が宿る神聖な場所と思ったり、 山と平野の接点なので山の幸と栽培穀物の幸が豊かだったと言うべきか。現代ではあまり御利益なんて感じないところかと思われる。おそらく昔あった祠もどこかへ吹っ飛んで行ってしまったのだろう。ところで、羽山戸を検索していると早股・早俣の地名が出てくる。具体的には、正式な住所となっているのは、
宮城県岩沼市早股 (はやまた)
埼玉県東松山市早俣 (はやまた)
いずれも東日本で若干驚いたが、西日本でも地名の小字に似た地名があった。小字は現在ではほとんど使われていないので調査不足なのであるが、具体的には、
山口県山口市早間田(はやまた)(現・山口市中央一丁目)但し、語源は駅田(はゆまた)「古の世駅馬の料に充し田畝の名の遺れるにや。駅の訓はゆまにて早馬(はやま)の義なり」と。
愛知県豊川市市田町早馬田(はやまでん) (現・愛知県豊川市市田町東新屋)
宮崎県北諸県郡三股町長田字早馬田(現住所は不明。読みも不明)
いずれの地名も文献に現れてくるのは江戸時代の頃と思われ、国家開闢の頃の神名にはそぐわないかもしれないが、宮城県岩沼市早股を例に取るならば、
*川村孫兵衛重吉(まごべえしげよし)は「田の代わりに荒れ地をいただきたい」と希望し、手に入れた湿地帯を開墾して1千石の美田に変えてみせました。それが早股の地です。(伊達政宗の頃)
*湿地が多く荒れていた名取平野に木曳堀(阿武隈川と名取川間)が通水することによって、溜まり水が排水され新田が開発されたということになります。
*貞山堀(阿武隈川河口から松島湾の塩竈までの運河)の開削を担ったのは、政宗に登用された川村孫兵衛(重吉。まごべえしげよし)だと言われています。孫兵衛は玉浦(現・岩沼市)の早股に最初の領地を与えられ、多くの土木事業を成し遂げた人です。政宗の諡(おくりな・「貞山公」)をとって「貞山堀」と名付けられました。
宮城県岩沼市早股は阿武隈川が形成した低湿地帯である。
一方、埼玉県東松山市早俣は、
「高坂台地の東に続く都幾川右岸の沖積低地にある」と言うが、具体的には都幾川が形成した低湿地帯であろう。現在もほとんどの地所が水田である。また、鎮守は小剣神社で、「この神社は、水災よけ、養蚕業の発展、河岸場の繁栄を祈願して創建されたものと伝えられています。」などと言い、祭神は日本武尊、剣根尊と言うが、失礼ながらこれらは全部後付けの話で、小はほかに剣神社があったのでそれと区別するためにつけた接頭語で、剣は水流(つる)、岐(き)で、水流(つる)は湿地の意味、岐(き)は場所を表す接尾語で小剣神社とは湿地あるいは水田の神様を祀った神社ではないか。具体的な神名は何というかであるが、「倉稲魂」(うかのみたま)、「豊受媛神」(とようけびめのかみ)、穀霊神の大歳神(おおとしのかみ)、かかし・「久延毘古」(クエビコ)・田の神などがあげられる。特に、古代では産土神と言い土地そのものが神であり、神名などはなかったのかもしれない。まず地名がついて次いで神名がついたのだろう。
以上は勝手な私見で、「はやまた」(早馬田、早俣、早股など)を羽山戸の転訛と考え述べたものである。

★まとめ

羽山戸の語義であるが、通説は「羽山・戸」と区切って解釈している。しかし、「羽・山戸」もありうると思う。この場合は羽(は)は一般的には、端、縁、先端、岬の鼻、涯(きわ、山の端)などと解されるようである。そもそも「は」という音は崩壊地名につくことが多く、はか(墓谷)、はき(杷木、萩)、はく(白地、白山)、はけ(羽下、波介)、はこ(箱根、筥崎)等が例である。
山戸であるが、昔から山戸、山門(戸、門は甲類)と古典に出てくる「夜摩苔」(『日本書紀』)や「邪馬臺」(『魏志倭人伝』)(苔は乙類)は意味が違うという。即ち、大和と山門、山戸は似て非なるもので違う言葉なのである。一応、一般的な解釈としては、

山門・山戸
「と=門、戸」は「門」の意で、「両側に山の迫った地」、「川口(川の合流点を含む。川の門)」のことである。あるいは、「と」は「つ」の転で「港」か、と。また、吉田東伍博士は筑後国山門郡(現・大和福岡県みやま市瀬高町山門)の大部分は湿地であるという。
『和名抄』備後国奴可(ぬか)郡斗意(とお、とい)郷、日向国児湯郡覩唹(とお、と。都於)郷、石見国那賀郡都於(つのへ、つの。つもん)郷(読みは奈良文化財研究所古代地名検索による)
『古代地名語源辞典』(楠原佑介、櫻井澄夫、柴田利雄、溝手理太郎共著、東京堂出版、1981年)は上記すべてを「と」と訓じている。

大和
大和国城下郡大和郷が発祥地。大和の語源については、
*山外(貝原益軒説)大和国が大阪湾から見て生駒山地、金剛山地の外側という意味らしい。
*山処(契沖説)山のあるところ。現今の通説という。
*山本(池田末則説)山の麓。
*山に囲まれた地(本居宣長説)
山内で読みは「やまち」と「やまつ」がある。薩摩国出水郡山内郷。山内(やまつ)が転訛して大和となったか。
*山人(やまと)奈良盆地が湿地だったので山に住んでいた。天皇氏や久米氏の山部的性格が説明できるのでは。

羽山戸神の原意を解釈するならば「端谷間門」の意味で、いわゆる、谷地、谷津、谷戸、谷田などの「ヤ・ヤチ」型の地名でこの中に谷間も入るはずではなかったか。従って、この場合の谷間(やま)は山の意ではなく、水の流れる谷間(たにま・たにあい)を意味し、湿地帯を言うのではないか。とは言え、谷地、谷津、谷戸、谷田等は装飾語などはつかず単独で用いられるのに、羽山戸(端谷間門)は羽山(端谷間)か山戸(谷間門)に分けられてもおかしくはない。おそらく後世になり、山と谷間(やま)が混同するようになり、ヤマは「山」に一本化され、谷間(たにま)は苗字が多少残っているようだ。
以上より「羽山戸神」は山戸に主意があり、「川の合流点」およびその界隈の「湿地帯」を意味し、水田(農業)の神と推測される。地主神とか国魂神、産土神と言う類いの神であろう。

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大宜津比売神と家都御子神

★はじめに

大宜津比売神と家都御子神がどうしたのだ、と言われれば、何やら大宜津比売の「宜津」と家都御子の「家都」が同じ発音ではないかと思い、現代的に言うと同族(神)の人ないし神ではないかと思うのだが、あまたの解説を見るとそうではないらしい。大宜津比売神は『古事記』に出てくる神で、『日本書紀』には保食神(うけもちのかみ)と名が変わって出てくる。おそらく『古事記』の著者の見た原典と『日本書紀』の編者が見た原典とは違うものだったのだろう。あるいは「この説話は食物起源神話であり、東南アジアを中心に世界各地に見られるハイヌウェレ神話型の説話である。」と言い、日本には穀物神話が多いところから見て、朝鮮半島経由の神話や揚子江中・下流域経由の神話が多かったのだろう。半島経由の神話と江南経由の神話も少しずつ内容が違ったのではないか。「宜津」や「家都」など同じような言葉が出てくるのはその後日本人に咀嚼されて日本語(大和言葉)に改められたからではないか。昔も今も日本文化は外国からの移入品、と思われるような話で申し訳ないが、食物起源神話に関しては日本ばかりでなく世界的に東南アジアを起源としてそこから世界各地に拡散している、と言うので文化の輸入は何も日本の専売特許ではないようである。アフリカと東南アジアは人類の二大集積地というので、アフリカは人間そのものを送り、東南アジアは思想ないし文化を送ったと言うべきか。特に、我が国は天神地祇(元は中国語かと思われる)と言う言葉があるように人間は天上から地上に来たという北方型垂直思考であり、ハイヌウェレ型神話のような「ハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。」と言うような芋文化的発想はなかったようだ。穀物文化と言っても日本の水田稲作は2300年ほど前に始まったものであり、諸外国に比べてかなり遅いものである。従って、食物起源神話も『記紀』編纂間際になって、渡来人の助言によって『記紀』に挿入されたものではないか。『記紀』の主人公の神名が異なるのも助言者が違ったからか。

★大宜津比売神について

大宜津比売神は『古事記』のあちこちに出てくるようで、

1.国産みにおいて一身四面の神である伊予之二名島(四国)の中の阿波国の名前として初めて表れる。
2.その後の神産みにおいて伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた。
3.更に高天原を追放された須佐之男命に料理を振る舞う神としても登場する。
大宜津比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大宜津比売神を斬り殺してしまった。
4.後に大年神の系譜において羽山戸神の妻として八神を生んだとの記述がある。
これらが同一神か別神かは不明。

1.「阿波国の名前として初めて表れる」とあるが、阿波(アハ)を穀物の粟(アハ)と勘違いしたもので、阿波(アハ)は語源的には暴(あば)れる、発(あば)くなどで、被害が出るほど乱暴に動く(増水で川が暴れる)、土を掘って取り出す・表土を削る(発く)などの意味があり、徳島県の場合は吉野川(日本三大暴れ川の1つ)の洪水や氾濫から「阿波国」となったのではないか。従って、阿波国と大宜津比売神は何の関係もなく、『古事記』の原著者の勝手な当て推量だったのではないか。阿波国の人も阿波国には大宜津比売神の別名があると聞いて驚いたのかもしれない。
3.ハイヌウェレ型神話の「大宜津比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し」、須佐之男命に「汚い物を食べさせたと、大宜津比売神は斬り殺された」の後に、
大宜津比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。 これを神産巣日御祖神が回収した、とある。
これは全部が外国の神話の借り物かと思う。
4.羽山戸神の妻として八神を生んだ。 八神は、若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神の八神である。現今で言う農作業カレンダーのような名前で、若の美称が多いのは農作業は当時の最先端産業でみずみずしい若い人のする仕事だったのである。若山咋神は新緑の山を、若年神はあたらしい年、つまり春を、若沙那売神は小さな新芽が吹き出したことを、弥豆麻岐神は新芽に定期的に水をやり、夏高津日神は夏の高温で栽培植物の成長を促し、秋毘売神は秋の収穫を表し、久久年神は一年の締めくくり即ち12月を、久久紀若室葛根神は、久久紀は大晦日を、室葛根は種芋などを室の中に保存することを言ったのではないか。羽山戸神は農業神であり、大宜津比売神は食物神だったか。
大宜津比売という名称は「大いなる食物の女神」の意味である、と言うのも羽山戸神の妻としては有意義なものであったか。

★家都御子の神について

家都御子神については家都美御子神(けつみみこ)の表記もある。一般的な解釈としては、
「家都御子神(けつみこのかみ)熊野本宮大社の祭神。樹木を支配する神とされ,素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名ともいわれる。もともとこの神は,三山のうちでは,本宮とも呼ばれる熊野坐神社の祭神であったとされ,出雲の熊野神社の祭神である熊野大神櫛御気野命が移し祭られて,それが当地で家都御子神になったと伝えられている。ケツミコは「木津御子」で,樹木の神の意。櫛御気野命の子に五十猛命という神がいて,この神が紀伊国に木種を撒いたという伝承から命名されたらしい。『朝日日本歴史人物事典』 (1994年11月に朝日新聞社が発行。執筆・西條勉)」と言う。
「家都御子神」の意味については、
1.家=食(け)、即ち、食べ物。都=格助詞の「の」。
食物の神とする。大宜津比売神と同じ意味となる。出雲国の熊野大社祭神「櫛御気野命」に通じるか。
2.家都=木津、家都美=木積。
樹木の神とする。紀伊国は古くは「木国(きのくに)」と言われた。素戔男尊(家都御子神の別名という)の子に五十猛命と言う木の神がおりそれの伝承か。
木津は、
苗字では、きづ,きつ,きず,もくつ,こづ,こず等と言い、
地名では、
きづ
京都府木津川市などにある地名。三重県熊野市紀和町木津呂(きづろ)
木津町、木津村 – 日本の町村名。
木津川 – 日本の河川名および地名、駅名。
きつ
京都府京丹後市にある地名(網野町木津)。
木津 (新潟市) – 新潟県新潟市江南区にある地名。
こっつ
愛知県犬山市にある地名。
木津用水駅 – 愛知県丹羽郡扶桑町にある名鉄犬山線の駅。駅名に限り「こつ」と読む。
こうつ
滋賀県高島市にある地名(新旭町饗庭の一部)。かつての近江国高島郡木津荘。
木積は、
苗字では、読みは「こづみ」で穂積(ほづみ)の転訛。東大阪市東石切町の石切劔箭神社の神主は穂積姓から功積姓となり木積姓となったと伝える。
地名では、
きずみ
千葉県匝瑳市木積
こつみ
大阪府貝塚市木積
こつも
高知県安芸郡北川村木積
こづみ、きづみ、こつみ
丹後国与謝郡には式内社・木積神社(京都府与謝郡与謝野町弓木字石田宮ヶ谷408など)の論社がたくさんあって読みは上記のようになっている。

「家」の意味を食物の「ケ」とするのか樹木の「キ」とするのかによって食物の神あるいは樹木の神となるのであろう。都美は山祇(やまつみ)とか海神(わたつみ)とかの「ツミ」で、神名につく原始的な姓か。

最後に、私見で恐縮なのであるが、
熊野本宮大社では「かつては湯立が行われており、「熊野権現垂迹縁起」では大斎原が「大湯原」と表記されていることや、熊野をユヤと読む際に湯屋や湯谷の字をあてられたことなどから、熊野信仰の中核に湯の観念があったことが指摘されている。」という。即ち、家都御子神の「家」は「湯気」の「気」のことで、家都御子とは温泉の神ではなかったか。当該地には「湯の峰温泉」とか「川湯温泉」「渡瀬温泉」があるという。インターネットで「湯垢離」を検索するとやたら熊野国界隈の温泉や地名が出てくる。また、一説によると古代の入浴法は現代のサウナのようなもので湯につかる現代のような入浴方法は後世のものと言った見解もある。熊野で行われた「湯立」というのも、現今の概念に直すとスチームサウナと言うところか。とどのつまりは、熊野本宮大社の信者が健康の妙薬として親しんだのは温泉だったのではないか。

★終わりに

大宜津比売神と家都御子神は神名は同じではあっても親近な神ではなかったようで、おそらく神族の発祥は別々の神なのだろう。大宜津比売神については、おおむね「食物の神」と言うことでまとめられているが、家都御子神については、太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。 家都御子神については、素戔男尊、五十猛神、伊邪那美神とする説がある。しかし、その発祥の順序から言うと、まず、ゴトビキ岩(天磐盾)があって、次いで那智の滝、本宮大社は太陽か、水か、木か、と言うところであろう。ゴトビキ岩や那智の滝は壮大な姿で描かれているが、熊野本宮大社は出雲国の熊野大社祭神「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(素戔嗚尊の別名)の分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元である、と言う。この理論で行くと、熊野速玉大社と熊野那智大社は熊野本来の神であり、熊野本宮大社の家都御子神は出雲国から分祠された「食物神」と言うことになる。奇しくも、大宜津比売神と同類の神となるようだ。
宜津とか家都とか気野とかは「ケ」と発音する宜、家、気の音から「食物」を連想するようだが、祭神を御饌都(みけつ)神として「万民の食物をつかさどる神徳ありとし,ひいては農耕以下生産の守護神なることを強調して,信徒を広く集める」ためにこの種の神が多く祀られたのではないか。無論、祭神にはなにがしかの御利益が必要で、「長寿と富貴は願わぬものなし」との例え通り長寿(温泉)、富貴(米)の御神徳を信者に賜ったのではないか。

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宇井のこと

★はじめに

昔、宇井という高名な学者先生(今考えると宇井純沖縄大学名誉教授だったか)が、「我が家はインドネシア系でインドネシアからやって来た。インドネシアには<ウイ>と言う苗字(場合によっては、地名か)はたくさんある」とのことだった。当時は日本の神話は、失われた釣り針神話・海幸彦と山幸彦の物語(インドネシアのセレベス島北部のミナハッサ族)、穀類起源神話・素戔男尊と大宜都比売神(インドネシアのマルク州のセラム島)など日本の神話はインドネシアの民話の影響を受けていると喧伝されていた頃で、民話に足がついて日本へやって来たのではないだろうから、インドネシア人の子孫と言われてもそんなものかと言うほどのことだった。また、遺伝子解析が発展したその後の考古学や人類学の世界においても日本にはインドネシア人の遺伝子が珍しくないと言うことで、宇井という人もその一人かと思っていた。
ところが、日本では宇井というのは人名(苗字)にも地名にもあると言うことで、人名では千葉県、愛知県、東京都、和歌山県南部・三重県南部(別名:熊野)地域に多く、地名では和歌山県、徳島県がやや多く、栃木県、奈良県、島根県、三重県、高知県、福島県などに散見する。各地に共通する点は、基本的に山間僻地の小集落で、「別に離れて区域をなすものを言う。山中、往々その名あり」とか、「山がちの地形で水田に乏しく、畑作や出稼ぎを中心とした」とか、なかには「広大な山林を利用した伐畑農業(焼畑農業など)で、そこそこ潤っていた」ところもあったようだ。
失礼ながらそのように顕微鏡ででも見なくてはわからないような地名なので『和名抄』にはもとより、古代文献には現れず、文献初出は中世から近世にかけてのようである。また現代でも、「宇井苗字数が上位の都道府県にこの苗字の地名はみあたらない」とか、「地名以外の由来」とか、「千葉県に多い苗字なので千葉県がこの苗字発祥の地か」とか、多々宣う人がいる。しかし、これは全部当たらないと思う。例えば、鈴木姓にしても全国二位の数であるが、鈴木地名があったとしてもそれは人間由来のものであり、地名に語義があってついたような地名ではないと思う。地名以外の由来、とは人間の移動であり、千葉県がこの苗字の発祥地か、とは「熊野三山協議会」(都道府県別熊野神社分布図)の調査では千葉県の熊野神社の数は福島県437社に次ぐ346社で全国第二位であり熊野三党の関係者もそれなりにやって来たのではないか。熊野三党とは鈴木(穂積)、榎本、宇井の三氏をいい、千葉県にそれなりの宇井さんがいてもおかしくはないのではないか。ともかく、首都圏の熊野神社は、埼玉 222、千葉 346、東京 158、神奈川 121と他の地域より相対的に多くなっている。

★宇井の意味

宇井の語義についてであるが、地名に関するものはそれなりに述べられている。諸説を紹介すると、

1.上(ウヘ)の転訛で宇井(ウヰ)となった。一番多い説で宇井の地名が文献上は中世以降に出てくるので上(ウエ)が宇井(ウイ)に転訛したとするもの。

言わんとするところは、「エ」と「イ」の区別のできない人、あるいは、地域が日本国中どこにもあったと言うことである。「エ」と「イ」の区別のできない人は日本人ばかりではなく外国人にもいる。現在の日本では「エ」と「イ」は厳然と区別されているのでこう言う間違いはケアレスミスでは済まされないのかもしれない。
さらに徳島県(徳島県方言学会)では「ウエ→ウイ→イイ→の音変化」をあげ、「本県では、山の上部、川の上流をウエまたはソラと呼んでおり、地名に用いる場合が多い。」という。和歌山県や徳島県は木材産業が古くから盛んなようで樹木の植栽地をこのように名付けたのかもしれない。例、植える(うゑる→うゐる)。

2.ウ・ヰ(ヰ<井>は井戸ばかりを言うのではなく水路や川を言う)と言う地名で、水路や川にまつわる地名。

3.ウヒ(初、初めての)という意味。

4.ウヒヂの下略。ういじ(泥、泥土のこと)

なお、宇井の宇(宇のほか、羽、卯、鵜、有、烏、上などをも用いる)に関しては、

①接頭語で、オホ(大)、ヲ(小)、ウヘ(上)などの転約か。

②ウン(温)で、温泉に関わる語か。

③鳥類の鵜にちなむ語か。

④動物の兎による語か。

等々を述べる説がある。

私見の勝手な推測では、これは縄文語由来の言葉ではないかと思う。縄文地名は一音である場合が多いと思うが、これは二音で構成されており、時代も縄文末期頃にできた言葉で、宇は上(ウヘ)の下音を略したもので、井は「住まゐ」の「ゐ」で、居るところ即ち集落を表したものではないか。結論を言うと、多数説と同じ「山の上部、川の上流などの小集落」を言ったものかと思う。

★宇井氏は何をしていたの

宇井氏と言っても全国に散らばっているのでどの宇井氏かとなるかと思うが、一応、熊野発祥の宇井氏のこととしたい。この宇井氏は本姓を丸子連というもののようで、全国的に「宇井」と名乗る人と「丸子」と名乗る人がいるようだ。熊野三党(榎本氏、宇井氏、穂積氏)の発祥については、

①熊野三党の祖は高倉下命とするもの。
『熊野権現縁起』によると「第五代孝昭天皇のとき、千穂ヶ峰(新宮市)に神人が龍に乗って降臨。人々があがめ奉るなかに、一人の男が進み出て、十二本の榎のもとに神を勧請した。神は男の殊勝な心がけを嘉し、榎にちなんで、男に榎本の姓を賜った。その弟は丸い小餅を捧げた、そのゆかりで丸子(のちに宇井・鵜居)の姓を与えられ、第三子の弟は稲の穂を奉納したので神は穂積の姓を授けた」と言う。

②熊野三党の三氏はすべて穂積氏が発祥とされる説

③穂積氏と榎本氏、宇井氏は血統が違う。
穂積氏は、穂積押山→穂積磐弓→穂積祖足→穂積古閉→穂積男麻呂→穂積濃美麻呂→穂積忍麻呂(熊野速玉大社禰宜)と続く当代一流の豪族であり、宇井氏、榎本氏は古いことは古いが、文字による記録がなかったと見え、大伴氏から婿養子を迎え大伴氏に連なる一族としたのではないか。おそらく宇井氏、榎本氏は高倉下命を遠祖とする一族だったのではないか。あるいは神武天皇に勝るとも劣らない一族だったと思う。もっとも、大伴氏の一族で榎本とか丸子を名乗った人は穂積押山と同世代の人と思われ、穂積忍麻呂が禰宜となったので宇井・榎本両氏が対抗上大伴氏を養子にしたかは不明。

ところで、書籍などを見ていると、熊野三党の職業としては、1.熊野速玉大社の神官、2.同大社の御師、3.侍などが出てくる。
熊野速玉大社の神官だが、今の宮司さんは熊野三党と女系ではつながっているのかもしれないが、榎本とか宇井とか鈴木とか言う熊野三党の苗字を名乗っているわけではないようだ。熊野三党熊野速玉大社神官世襲説は崩壊したと言うべきか。柳田国男先生の一文に「熊野路では、鈴木、榎本、宇井の三軒の名家があり、この三軒の者でなければ人間でないとまでいわれたほどである。宇井は早く衰え、榎本は後に神と別れて、鈴木の一族のみが結合力が強く、各地で著しい繁栄をしたのである。」と。今でもそうだが、古い大社に行くとやたら神官が多いのに気づく。神官の住居のある地域を「社家町」「御師町」と言い(例、兵庫県西宮市社家町など)たくさんの世襲神官が住んでいるようだ。
神官と御師であるが、大雑把に言って神官は祭祀を執り行うものであり、御師は熊野三山参詣人の世話をする人を言うのであろう。先達は地方において熊野巡礼者を募集し、当該地から熊野までの案内等をした人を言ったものであろう。「蟻の熊野詣」と言われ先達・御師の仕事を世話とか案内とかの簡単な言葉で言っているが、失礼ながらこの種のことは時代がたつとともに<もったい>をつけるようになり、言葉一つにしても妄言など道理に背く言葉は厳禁で、忌詞を用いる等、先達や御師はもとより参詣人もいろいろな礼儀作法等を学ばなければならず、教える方も教わる方も難儀したことと思われる。そういうなかにあって、神官、先達、御師等は過剰受注に悩まされつつ渾然一体となって対応したのではないか。従って、熊野三党の一族は神官、先達、御師のいずれもを行っていた。
侍と言うのは、いわゆる、弓馬の道で、神官には弓馬の道に励み領主化する人物もいた。江戸時代の大名家にも先祖が神官(神社の神主)という例がある。『平家物語』巻四に「侍には うい・すすき」と言うものの、熊野水軍の主導者は熊野別当で、特に、湛増は著名だが「熊野水軍を率いて源平合戦 (→治承の内乱 ) に活躍。最初,平清盛に味方したが,源氏の形勢が有利になると,源義経の軍に加勢し,屋島,志度,壇ノ浦に転戦して軍功を立てた。しかし頼朝には好まれなかった。 」とあるように、僧侶の割には疑問符のつく人物で、その下の侍の宇井氏や鈴木氏はあまり顧みられなかったのではないか。

★まとめ

宇井という地名は古い自然発生的地名で、山間部の平地よりは少し高くなったところにできた小集落を言うようである。日本に水田稲作が入ってきてそれとの住み分けで少し高いところで焼畑農業を行っていたのではないかと推測される。伐畑農業でそこそこ潤っていたと言うのも新農法を取り入れるよりも旧農法の焼畑農業で堅実に収入を上げようとしたからではないか。「宇井」地名は紀伊半島と四国に偏っており、特に、「宇井」地名の多い徳島県は稲作民に多いY-DNA「O」系と縄文系に多い「D」が拮抗しているようなので、縄文系の民(ハプログループD・山の民)と弥生系の民(ハプログループO・平野の民)に分けてよいのかもしれない。ほかに、徳島県はC1a1(日本固有)が特段に高いようである。学者先生の調査によると、Hammer2006の徳島県7/70=10%、Sato2014の徳島市大学生22/388=5.67%と言い、日本人平均値・日本人・・・160/3676=4.35%より高くなっている。
宇井氏というのは宇井の地名から起こったもので生活様式から言うと守旧の人ではなかったかと思われる。地名が紀伊半島と四国(徳島県、高知県)に偏っているので、たとい熊野大社の神官の出といえども全国的な大物は出なかったようである。同業の榎本氏が『和名抄』にも散見する地名より起こったのに対し、そこは力負けの感がある。特に、熊野三党の場合、途中から熊野別当なる余計な役職が現れ、熊野三党を後退させた。とは言っても、熊野御師の一角を担っていたので宇井姓は全国にまんべんなく行き渡っているようだ。
熊野の宇井氏の発祥の地だが、現在の新宮市千穂ヶ峯の一角にあったと思われるが、遺称地はない。熊野三党では最古参と思われ、高倉下命の直系の子孫と思われるがそれも確証はない。宇井、榎本、穂積はみんな別系統の人だがそれも確証はない。当て推量を延々と述べても意味がないのでここで終了とする。

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熊野国について

★はじめに

紀伊国牟婁郡は律令国成立前は熊野国と言われていたらしいが、文献には熊野国の表記はなく、単に熊野と書かれているだけのようだ。多数説になるのかもしれないが、一説によると『記紀』や『日本霊異記』では「熊野村」とか「熊野××(例、神邑)」とか「紀伊国熊野(例、紀伊國熊野之有馬村)とか「人名(例、熊野久須毘命、熊野之高倉下)とばかりあり、熊野国の存在を示す確証はなく紀伊国牟婁郡内の一地名であった可能性も大きい、と言う。
それかあらぬか辞典によっては「熊野」を一語としてその語源のうんちくを傾けているものもある。それによると、

①クマはコモリ(隠り)の義 ②カミノ(神野)の転 ③クマ族が占拠した野 ④大熊出現の神話、等が語源と言うが何やらすっきりとしたものではない。一般の固有名詞としては、丹後国熊野郡とか、但馬国二方郡熊野郷とかが見える。広い意味での丹波国の海岸線(日本海)沿いに偏っているが、特別に熊野灘沿岸の熊野を持って特異な語とするのはいかがなものか。

一般的な意味の熊野については、「クマ」に字義があり、「ノ」は格助詞のノ、あるいは、野原などのノと理解されている。地名用語ではよく使われる文字で、
くま(隈、曲、阿、暈)
一般的な意味では、①道や川などの曲がったところ ②奥まり隠れたところ ③色や影の濃い部分、または色の重なった部分 ④曲がり角の意で、朝鮮語KOP(曲)と同源。
地名用語では、①水の入り江は陸(クガ)が曲がっているところから、クはクガ(陸)、マはマガリ(曲)の義。②入り込んだところの義。クは物の中へ入り込む義で、マは間。③オクマ(奥間)の上略。
くま(熊)
一般的には動物の熊を言う。①朝鮮語KOM(熊)と同源。②神の意の古語クマに、熊の意の百済方言クマの字「熊」を借りた。③隈、隅、隠の義。④カミ(神)の転声。

以上より地名についたクマ(熊、隈、曲、阿、暈など)は、道や川などの曲がったところ、水の入り江、入り込んだところ、などが考えられる。

★熊野の地名の発祥地は、

熊野の地名の発祥地は熊野三山界隈の地と思われ、二カ所ほど候補地と考えらる。一カ所目は現在の和歌山県新宮市新宮、神倉あたり。もう一カ所は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下和田あたりが該当するかと思われる。新宮市にはほかに熊野川河口に熊野地(くまのじ)と言う地名があり、廻船(かいせん)が寄港し、廻船の乗子が多く居住したという。熊野川上流の木材が流送される貯木場もあった。これは「熊之路」で「クマに到る経由地」の意かとも思われるが、クマが熊野本宮大社なのか、はたまた、熊野速玉大社なのかはわからない。とは言え、熊野の地名発祥の地ではないと思う。
那智勝浦町の下和田は明治時代になる前は和田村と言われていたところで、「ワダ」とは漢字で書くと「曲」となり、クマと同じである。よって、クマもワダも道路や川、海岸、地形などの湾曲したところをいい、新宮市新宮(旧名は熊野神邑あるいは天磐盾か。はっきりはわからない。)も那智勝浦町の下和田も起源は同じで川の湾曲部に当たる。
しかし、旧熊野国には漫然と熊野という地名はあっても具体例は乏しい。唯一ヒントとなるものは「日本書紀 巻第三 神武天皇紀」に「遂越狹野而到熊野神邑」とあるのみで、狭野(現在の新宮市佐野)を越えたら熊野という地名だったようだ。即ち、現在の新宮市中心部、ことにゴトビキ岩のあたりが熊野ではなかったか。この地域の神話に神倉とか高倉とかの語が出てくるが、いずれも同じ意味で「ゴトビキ岩」のことかと思う。同じ『日本書紀』に「號曰熊野高倉下、・・・時武甕雷神、登謂高倉下曰「予劒號曰韴靈。韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。」高倉下曰「唯々」而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之、果有落劒倒立於庫底板、卽取以進之。」という話も高倉の倉の漢字にひかれたもので、そんな「庫」はあったのか、なかったのか。おそらく高倉下はゴトビキ岩を祀る現今で言うところの神主で武器庫などは持っていなかったと思われる。
以上より那智勝浦町下和田と新宮市新宮のいずれの地が熊野の語源になったかであるが、いずれの市や町もはっきりとした地名の文献初出は平安・鎌倉以降で、それ以前のことは『記紀』にも載ってはいるが、半信半疑のような話で不明と言うほかない。
新宮市の古代遺跡としては「阿須賀遺跡」があり、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡で、住居跡が円形3、隅丸方形1、方形6の合計10基、掘立柱建物跡4基が確認されているほか、弥生式土器・土師器が多く、その他に臼玉・管玉などの石製品が見られる。沼沢地化した熊野川河口において、蓬莱山麓一帯のわずかな微高地に成立した農耕漁労集落と見られ、阿須賀神社境内だけでなく周辺一帯の相当に広い範囲から出土品が見られることから、大規模な集落が存在していた、と言う。また、神倉神社からは弥生時代中期の銅鐸片や滑石製模造品が出土している、と言う。
一方、那智勝浦町は下里古墳以外に遺跡の類いは何もないらしく、「下里古墳は古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。墳丘からは築造当時のものと見られる二重口縁壺のほか、縄文土器、弥生土器、平安時代の製塩土器が出土している。特に二重口縁壺は東海地方の影響を受けた遺物になる。」等言われているが、どうしてこんなところに集落遺跡がないのか疑問だ。私見ではこの古墳の被葬者は熊野国造で、大伴氏の徴兵政策で他の紀ノ川流域の豪族たちとともに熊野国からは唯一参加した人物と思われ、紀臣氏に引率されて朝鮮半島へ渡ったのではないかと思われる。地名にも「八尺鏡野」「和田」「粉白(このしろ、『太平記大全』に、小代兵庫は紀州の者也。小代<古くは(をしろ)>は粉白か)」「庄」などの古いものがあり、もう少し調査すべきであろう。何にもまして古墳を築造すると言うことは人的組織や物的資源がしっかりしていなければならない。但し、近隣の太地町の「太地熱帯植物園遺跡」(太地町太地)ではサヌカイト製の細身の有舌尖頭器が単独で採取された。詳細は不明。石器は先端部が欠失しているものの基部には舌状突起が認められ、有舌尖頭器と思われる。但し、身部の両側縁がほぼ並行する点、長幅比が極めて大きい点など、近畿地方ではあまり類例を見ない特異な形状を示している。先土器時代終末期から縄文時代草創期の遺物と推定される。そのほかにこの地方に特異なものとしては、磐境がある。小型の石で周囲を囲ったり石を積み上げたりして造った臨時の祭場で,形は円形・方形など。臨時的な施設のため、磐座(いわくら)に比べて現存するものは少ない。磐境は我が国ではストーンサークルが多いかと思うが、熊野地方ではストーンスクエアとでも言うのか四角形が多い。
今のところは熊野の地名発祥の地は「新宮市新宮、神倉」のあたりか。言語的には「クラノムラ(倉之村)」の訛りで「ゴトビキ岩」(神倉、高倉の倉は「岩の露出した崖や断崖」を言う)のことを言ったか。

★熊野国の主導者は誰だったのか

熊野国の統治者は熊野国造と思われるが、現在で言うと神主というのか高倉下の子孫かはわからないが余計な人物がいた。後世、御師と称する熊野詣の際の祈祷や宿泊の世話、山内の案内をした人物で、熊野御師と言われた。平安時代末期に発生したと言われるが、平安初期という説もある。御師の前身は神主であったのであろうが、熊野速玉大社では神主は神主とし「穂積 忍麻呂(ほづみ の おしまろ)が就任して、父・濃美麻呂の代に紀伊国熊野に下向して熊野速玉大社の神職となり、忍麻呂が初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられた。以降、忍麻呂本宮禰宜の子孫である紀州熊野系の穂積氏が熊野速玉大社の禰宜を世襲した。」という。しかし、熊野三党と言われ藤白鈴木氏は穂積臣、榎本氏は榎本連、宇井氏は丸子連を本姓とし、三氏ともに御師を勤めていたようだ。本来的に言うと高倉下の子孫の神主は榎本氏、宇井氏で、穂積氏は後発の神主ではなかったか。穂積忍麻呂が熊野速玉大社の神主になったのは奈良時代のことでそれ以前の神主は榎本氏、宇井氏だったのだろう。榎本氏や宇井氏は国造であったという話は聞かないので国造は別にいて現在の新宮市に在住していたのか、はたまた、別のところに在住していたのかは不明である。しかし、熊野国が紀伊国に編入されてからは牟婁郡大領、また熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎したという。おそらく熊野国造家が台頭したのは熊野直広浜が女官として出世してからで、それに伴って一族の官位も進められたのではないか。『先代旧事本紀』の言う「饒速日命の後裔といい、大阿刀足尼が熊野国造となり、その子稲比は熊野直の姓を賜った。」などと言うのは何の根拠もない創作話で、伍百足(系図の一本に熊野直広浜の父という)が牟婁郡郡司(大領か少領という)、熊野本宮禰宜の職に就いたのが熊野国造氏と言おうか熊野氏の始まりではないのか。伍百足の孫の蝶が延暦十四年(795)三月桓武天皇から熊野連を賜った、と言う。そもそも熊野国造氏のはっきりした記録は牟婁郡から貢上された采女(牟婁采女)熊野直広浜の昇進記録ばかりだ。「大化改新後に紀伊国牟婁郡の郡司に任じられて大領か少領、熊野三山(本宮、新宮、那智)を管領」などと言うのも眉唾の話か。紀伊国牟婁郡の郡司は牟婁郡牟婁郷に官衙があってそこに在住していただろうし、本宮禰宜は熊野本宮大社に居住していただろうから牟婁郡郡司と本宮禰宜の兼職は難しかったのではないか。私見では牟婁郡郡司は紀伊国の出身者がなり、本宮禰宜に熊野国造氏が就任したのではないか。創建:不明(伝崇神天皇代、B.C.33年?)などと書いてある文献もあるが、おそらく実際の創建は西暦600年代で、有り体に言うと失職した熊野国造家のために建てたものではないか。従って、実際の熊野国を古代に主導したのは下里古墳の被葬者の子孫とか、熊野速玉大社の神官ではなかったか。

★牟婁郡のその後

熊野国が紀伊国牟婁郡に編入された後の牟婁郡は、
*岡田郷 1説 現・西牟婁郡上富田町岡、西牟婁郡上富田町市ノ瀬字中ノ岡、西牟婁郡上富田町市ノ瀬字下ノ岡を中心としたあたり。
2説 現・東牟婁郡那智勝浦町を中心としたあたり。
*牟婁郷 現・田辺市を中心とする地域。
*栗栖郷 現・田辺市(旧西牟婁郡)中辺路町栗栖川を中心とする地域。
*三前郷 1説 新宮市三輪崎
2説 現・東牟婁郡串本町を中心とした地域。三前は潮岬のこと。
*神戸郷 現・新宮市、三重県紀宝町を中心としたあたり。
旧熊野国は比定地が新宮市に偏っている。おそらく熊野国の発祥地が現在の新宮市なのでそのようになるのかもしれない。ところで、熊野三山の創建は熊野速玉大社、熊野那智大社、熊野本宮大社の順で熊野速玉大社は前身の神倉神社を含め熊野地方の祭りごとの中心地ではなかったか。これに対して熊野那智大社は下里古墳に見られるように政(まつりごと)の中心地で、祭政一致ならぬ祭政分離の国家体制を早くから採用していたのではないか。熊野三党(穂積、榎本、宇井の諸氏)が祭りごとの主導者であるが、熊野国の政(まつりごと)の主導者は何の記録もない。

★まとめ

熊野国の特異な点としては磐境の遺跡が比較的多いことである。特に、方形の磐境は東日本にはほとんど見られず、西日本の専売特許のようなものだ。そのうち、熊野国では三重県熊野市の産田神社の方形磐境、那智勝浦町下和田の諏訪神社の方形磐境、白浜町の阪田山遺跡の円形磐境、紀の川市岸宮・中宮遺跡の円形磐境(平安時代という)などがある。神籬や磐境は臨時の祭祀場なので遺跡が出てくるのは少ないとのこと。しかし、熊野灘に沿った産田神社、諏訪神社はいずれも方形であり、「石囲い施設には円形と方形とがみられるが、用法上の区別は明らかでない。」と言う。日本の住居形式は竪穴式住居と高床式住居に分けられ、特に、庶民の住居形式である竪穴式住居は円形(主流)から隅丸方形(隅が丸い四角形、弥生時代の後期<2世紀から3世紀頃>)、長方形へと移行したようである。また、古墳にも前方後円墳と前方後方墳があり、ご先祖様(祖神)が永遠の眠りについているところは円形か方形かのいずれかである。また、前方後方墳の発達した地域は中部・東海地方と言われ、あまつさえ熊野本宮大社の宮司さんや熊野那智大社の宮司さんはその祖神に天火明命(尾張氏の祖神)を当てている。下里古墳の出土品のうち「特に二重口縁壺は東海地方の影響を受けた遺物になる。」とあることなどを踏まえて考えると、磐境の形に円形と方形の違いがあると言ってもいずれも原形は家屋であり、用途は天界から天下った神が宿るところであり、外部の具体的な影響としては尾張国の尾張氏の進出があるのではないか。
次いで気になるところは、大伴氏の影響である。中央豪族の大伴氏かどうかはわからないが、熊野三党のうち饒速日命系の穂積氏はともかく、榎本氏、宇井氏が本姓はおのおの榎本連、丸子連と宣っておられることだ。ものの系図によると、大伴金村の息子大伴狭手彦は榎本氏の祖とあり、金村の息子糠手子の子頬垂(読みは、つらたり、か)は丸子連の祖となっている。これらの榎本連、丸子連が大伴氏由来の姓ならば、一般的には熊野の豪族に中央の豪族が婿入りしたと考えられる。理由としては大伴金村失脚後中央での就職口が乏しくなった狭手彦や頬垂が地方へ落ち延びたとか、あるいは、榎本氏や宇井氏が近隣諸国(例として、尾張氏)に圧迫され始めたので中央豪族の後ろ盾によって追い返そうとしたのか。しかし、両氏の改姓は喫緊の課題ではなかったらしく、その後も榎本、宇井を名乗っているようだ。おそらく、大伴狭手彦や頬垂は日頃は現在の大阪市住吉にいて年に数回視察のため現在の和歌山市や新宮市に出向いたのではないか。
熊野速玉大社と熊野那智大社の祭神は熊野夫須美大神(熊野結大神)・熊野速玉大神(速玉大社)、熊野夫須美大神(那智大社)と言い、大伴氏の祖神には高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)とあり、夫須美の部分と産霊の部分が一致する。また、「天神御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以・・・」(『古事記』中巻神武記)とあって、現在の新宮市に高木神(高皇産霊尊)が天照大神とともに出現している。
三重県熊野市の花の窟(花の窟神社)や産田神社の由緒来歴も日本神話の一部を切り取ったようで、やや大げさに言うと国家生成の始原の地と言うことになろうかと思う。要するに、大伴神話がここまで運ばれたと言うことなのだろう。
結論を言えば、紀伊半島は日本の縮図のようなもので大和朝廷・大伴氏系影響下にあった旧紀伊国と(円形磐境を用いるようだ)尾張氏の影響下にあった熊野地方(方形磐境を用いる)の習俗の違う二つの地域の人が住み分けていたようだ。しかし、いずれも広い意味での日本国の習俗であり、根源(磐座など)とするものは同じである。

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熊野国造はどこに住んでいたの

★はじめに

日本の古代には、令制国が成立(大宝元年<701年>か)する前に、国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)があったようであるが、その国や県の領域ははっきりしない。ましてや、その国造や県主が居住していた地(現代に即して言うと県庁所在地か)となるとますます不明である。ここで論ずる熊野国(文献には熊野国という表現はなし。筆者の便宜上の表記)も国造が居たであろうとおぼしき地域が三カ所があり、言わずと知れた、熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)、熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮)、熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)である。上記の三大社のうちウェブサイトで宮司家の祖神等を明確に語っているのは熊野本宮大社で、それによると、

『熊野本宮大社』(「当社について」縁起・神話)
「天火明命は、古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神です。天火明命の息子である高倉下は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に天剣「布都御魂」 を献じてお迎えしました。
時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟の巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。
この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。

熊野本宮参詣曼荼羅第十三代成務天皇の御代には、国々の境が決められました。
熊野国は、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)と定められ、初代の熊野国造(長官職)には高倉下の子孫である、大阿斗宿裲が就任しました。
このように、熊野国造家は天神地祇の子孫である「神別諸氏」の氏族であり、物部氏の先祖でもあります。熊野本宮大社の神々は大阿斗宿裲以降、千数百年もの間、熊野国造家の子孫によって代々お祀りされてきました。」、と。

何やら『記紀』や『先代旧事本紀』などを寄せ集めたような内容だが、現宮司さんのご見解かどうかはわからないが、
1.熊野国造家の祖神は天火明命である。
一般に言われるような祖神は饒速日命ではない。『先代旧事本紀』に言う「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(平たく言うと天火明命と饒速日命は同一神)」の神名はは否定されるべきである、と言うことなのだろう。天火明命は尾張氏(尾張連)・津守氏 ・ 海部氏などが祖神としている。
2.時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わした。
紀伊半島に勢力のあった大伴氏の祖神に配慮したものか。もっとも、江戸時代まで熊野本宮大社と三重県熊野市の産田神社の神事は共通したものがあったという。影響は海の産田神社から内陸の熊野本宮大社へ伝播したという説がある。「永正十八年の棟札は、祭主として、「紀伊牟婁郡有馬荘司榎本朝臣和泉守忠親・神主藤原森純」の名がみえるが、『紀伊続風土記』によれば、「上古は榎本氏が代々神官として社領の地を治めていたが、中世以来別に神官をおいて神事をさせた。藤原森純はその神官である。天正(一五七三-九二)のころ榎本氏(大伴氏一族という)が断絶し、そのとき宮社は兵火にかかって古記録も焼失した。」と言う。
3.第十代崇神天皇の御代、熊野連により熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建された。
熊野連は『新撰姓氏録』では饒速日命の子孫といい、また、当時にあって社殿(神籬のことか)はあったのか。
4.初代の熊野国造(長官職)には高倉下の子孫である、大阿斗宿裲が就任し、熊野国造家は「神別諸氏」で、物部氏の先祖でもあります。
一般には、「饒速日命(物部氏の祖)の後裔、大阿刀足尼が熊野国造に任じられ、子の稲比が熊野直を賜姓される。子孫の伍百足が熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎する。」と解されている。伊香色雄命系の穂積氏や物部氏と宇摩志麻遅命を祖とすることは同じだが、高倉下という人物は『記紀』にも出てくるが、『先代旧事本紀』や『海部氏勘注系図』が主な出典かと思われ信頼に足るものかどうか。
以上より大阿刀足尼が熊野国造に任じられ、その子孫が熊野本宮大社の禰宜となる、と解釈されているようで、熊野国の国造は熊野本宮大社の宮司であり、先祖代々現在の和歌山県田辺市本宮町本宮に在住していたと思われる。

★その他の熊野国にある大社の宮司家は

熊野速玉大社については、
1.熊野国造は現在の熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮)にいたと言うのが学者先生の多数説かとも思われる。熊野国造「その治所は、おそらく新宮の地にありしにて、熊野の神は此の国の氏神たりしならん。」(『姓氏家系大辞典. 第2巻』太田亮 著、p.2143)など。但し、国造本人については『先代旧事本紀』の見解を踏襲し、熊野本宮大社の言う人物と同一とするもののようである。
2.神武天皇一行は熊野へと到着し、「天磐盾」(『日本書紀』の記載)へと登られた。この「天磐盾」は、現在の新宮市にある神倉山・ゴトビキ岩であると言う。また、一行は、熊野で悪神の毒気により倒れた。しかし、高倉下が剣(布都御魂、石上神宮にある)をもたらすと覚醒したという。高倉下という有力者がいたが、国造につながる人物であるかどうか。ここから大和への案内役(後世の先達の前身か)として遣わされたのが八咫烏である。要するに、山岳ガイドが新たに加わったと言うことで、また、大和の宇陀からは実戦部隊(後世の御師のことか)として道臣命と大久米命が加わった。八咫烏は『古事記』では高木大神(タカギノオオカミ)が、『日本書紀』では天照大神(アマテラスオオミカミ)が遣わしたと言う。熊野三山ではこの八咫烏が、熊野の守り神になった言う。一体に『古事記』では「熊野」と聞いて「神倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽失。」即ち、動物の熊を連想し、「八咫烏」と聞いて鳥類の「カラス」を連想しているが、正しいかどうかはわからないが、一時期、絵を見せられて動物を連想するのは知能レベルが低いとか言うような説があった。当時の知識層がこう言う連想をするようではいかがなものか。
3.熊野速玉大社には残された史料や祭事(御船祭など)などが他の大社に比べ多い。但し、熊野本宮大社は明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち中四社・下四社が倒壊し、現在地に上四杜のみお祀りすることとなりました、とあり、本宮大社の史料はそのとき失われたものが多いかとも思われる。。
4.初代国造大阿刀足尼は当然ながら高倉下の子孫と言うことである。
5.穂積忍麻呂が初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられて(奈良時代、760年頃か)からは、熊野三党のひとつ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。
6.神紋の八咫烏の三本足は熊野三党の威を表したもの。熊野三党とは榎木、宇井、鈴木の各氏を言う。
7.『記紀』では、神武天皇一行が熊野で上陸したのは現・新宮市で間違いない。

熊野那智大社については、
1.熊野那智大社については『記紀』を初めほとんどの古文献には出てこないが、社伝では、
「当社は神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)の御東征を起源としています。
西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に上陸されました。
一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴命(おおなむちのみこと)の現れたる御神体としてお祀りされました。
神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、大和の橿原の地へお入りになられ、西暦紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位されました。
先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は石に姿を変えて休んでいるといわれています。(烏石)
その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本にお祀りしておりましたが、仁徳天皇5年(317年)、山の中腹にあらためて社殿を設け、熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げました。
これが熊野那智大社の始まりとされております。」、と宣っている。
熊野本宮大社や熊野速玉大社とは異なり、『延喜式神名帳』にも登載のない神社なので自己申告となる社伝についての真偽はなんとも言えない。
2.熊野那智大社については、物証に大なるものがある。紀伊半島最南端にある古墳の下里古墳である。概略は、

所在地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下里(旧下里町)
形状     前方後円墳
規模     墳丘長40m
埋葬施設 竪穴式石室(内部に木棺か)
出土品 鏡(散逸)・玉類(散逸)・鉄製品・土器片
築造時期 4世紀末-5世紀初頭

地図で計測すると熊野大滝と下里古墳の直線距離は10kmあまりで、また、那智大滝と熊野速玉大社の同距離も10kmあまりで、何やら熊野速玉大社と熊野那智大社の関係は今で言う熊野那智大社は熊野速玉大社の別宮とか摂社とか末社とか言われる類いの神社ではなかったか。熊野那智大社は完全に独立した神社ではなかった。さればこそ、熊野速玉大社は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする、と言い、熊野那智大社もご祭神「熊野夫須美大神」となっているのではないか。
下里古墳については、築造時期が4世紀末-5世紀初頭と言い、おそらく此の地域から応神天皇の朝鮮半島出兵に徴用された人物の論功行賞のために築造されたものではないか。被葬者はおそらく当時の熊野国造かと思われる。応神天皇の朝鮮半島出兵は『記紀』等の正史では「神功皇后の新羅征伐」と言う。海外の史料では女性が主導した征伐というものはないので応神および仁徳天皇の事績とする。
3.地名に古代からのものが多い。『紀伊続風土記』(天保10年(1839年)刊)によると、
*八尺鏡野(やたかの)村 現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町八尺鏡野(やたがの)。古くはヤタ・カカミと称えたのを後世下略してヤタカと称えるようになったか。村に八咫烏を祭る「八咫宮」があり祭神とご神体を混同したか。
*和田村 現・那智勝浦町下和田(しもわだ)。後世の国造は和田氏を称えていた。紀伊国には「和田」の地名が多いが、ここが熊野国造(和田氏)の発祥の地か。
和田村には「諏訪神社」があり、「当社は神殿を造らないという伝承があって神殿の建物がない。高さ1m、面積3.3㎡程の石垣を積み、その中心に桧(古びた槍先、という文献もある)を祀っているだけである。岩境崇拝の古い祭祀の名残りであろう。」とある。熊野那智大社の神殿もこのような神籬であったか。とにかく、熊野灘沿岸にはこの種の神社が多いようである。(例、三重県熊野市・産田神社など)
*大田川 現・大田川 「源は色川。大田荘中を流れる川の全長は3里ばかり。下里村に至って海に入る。海口より全4里半ばかり船便を通すという。両岸に巌石がなく流れは平穏で船の通いに都合がよい。」とあり、用途の広い地域として早くから開けたのではないか。

★まとめ

『記紀』等に出てくる熊野国の地名は、

『古事記』(中巻・神武天皇段)
「神倭伊波禮毘古命、・・・、到熊野村之時、・・・。此時、熊野之高倉下・・・、其熊野山之荒神、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。」
熊野村は和歌山県新宮市新宮か。熊野山は和歌山県田辺市本宮町か。

『日本書紀』
日本書紀巻第一神代上
「一書曰、伊弉冉尊、生火神時、被灼而神退去矣。故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。」
有馬村は三重県熊野市有馬町か。

日本書紀巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月乙未朔丁巳
「遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾」
狭野は新宮市佐野か。熊野神邑は新宮市新宮か。天磐盾は新宮市の神倉山・ゴトビキ岩か。

『記紀』に出てくる熊野国の地名は現在の和歌山県新宮市と三重県熊野市の地名で熊野浦に沿ったものである。熊野浦は七里御浜とも言い、白砂青松の景勝地で「日本の白砂青松100選」(1987年)に選定されていると言う。何か神武東征の上陸地は意図的に熊野浦に設定されたとも考えられ眉唾な話とも思われるが、熊野速玉大社は創建年代が不詳と言われながら、伝景行天皇58年の神社がどうして神武天皇の時代にあるのか。もっとも、『日本書紀』を子細に読むと、神武天皇の時代にあったのは「天磐盾」即ち「神倉山・ゴトビキ岩」だけか。これで神邑とは大げさか。
神武天皇が熊野村から大和国を目指したことは間違いないが、熊野三山と何の関係もなかったことは間違いない。せいぜい「高倉下」という人物が出てくるだけだ。
熊野三山と熊野国造も関係がないと思う。せいぜい、多数説では高倉下が熊野国造の祖かとも言うが、『先代旧事本紀』では「饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔、大阿刀足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の代に熊野国造となり、その子・稲比が熊野直(くまののあたえ)の姓(かばね)を賜った」という。高倉下と大阿刀足尼は何の関係もないか。そもそも、高倉下は『先代旧事本紀』以外は饒速日命とは関係がない。『海部氏勘注系図』は先代旧事本紀を移入したものであろう。
翻って、現在の熊野三山の宮司家は熊野本宮大社の宮司家は「天火明命は、古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神です。」と言い、熊野速玉大社の宮司家は「穂積忍麻呂が初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられて(奈良時代、760年頃か)からは、熊野三党のひとつ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。 」と言い、熊野那智大社の社家には潮崎氏・米良氏・橋爪氏・西氏があり、那智山の第一の位の高い家は尾張姓を称する潮崎氏と言う。饒速日命系はまがい物で天火明命系が正統か。
私見では国造家と宮司家は本来関係のないもので、熊野国が律令国の紀伊国牟婁郡に編入され牟婁郡の郡司になったものの国造の時のような勢力には至らず、宮司のような仕事にも手を出すようになったのではないか。
熊野国造の本来の出身地は現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下和田(旧和田村)ではなかったか。熊野国の領域は元・紀伊国牟婁郡に編入されて、元国造家はその後牟婁郡の郡司や熊野本宮大社の宮司などをしていたようである。そこで関心が集まるのは近隣の下里古墳と熊野那智大社である。
下里古墳の被葬者は熊野国では熊野国造しか考えられず、付近に同種の古墳がなく孤立古墳の感を呈するが、おそらく、開発首長(熊野国造)の墳墓と思われ、珍しい例ではない。この古墳は特殊な事情下で築造されたと思われ後には続かなかったのであろう。即ち、被葬者は応神天皇の朝鮮出兵に遭遇し、戦闘要員の少なくなった日本軍は頻繁に兵員徴用を行い、応神天皇の参謀役だったと思われる大伴某の甘言にのり半島にまで出かけたのではないか。帰国しても何の論功行賞もない。そのうち被葬者はお亡くなりになって息子が大伴某に抗議したのだろう。応神天皇は「和田は何の役にも立たなかった」と不満たらたらだったが、一応、前方後円墳を築造するのには同意した。古墳が河川沿いにあるのも建設資材の運搬の便のためであろう。従って、国造家は大伴氏とは血族とは言わないまでも何らかの縁故関係者だったのではないか。そうでなければ、単に大量の田地を提供したからと言って後進地の熊野で中央豪族の後ろ盾がなくてあの種の古墳はできなかったと思う。無論、後ろ盾としては尾張氏も考えられるが、大伴氏の方がインパクトが強いであろう。
和田氏には後世熊野水軍の和田氏(太地浦・現太地町)もいるが、国造家とは関係がないのでは。
熊野那智大社の宮司は誰が行っていたかだが、『延喜式神名帳』<延長5年(927年)>にも登載がない熊野那智大社の宮司類似の行為を国造が行っていたとは考えられない。あるいは、和田村から那智の大滝に向かって「二礼二柏手一礼」をしたところで意味がなかったと思う。
以上より神武天皇が現在の新宮市へ来たときは熊野国造は現在の那智勝浦町におり、新宮市には高倉下(高倉司のことか)と言う倉庫係のような人がいただけで神武天皇は楽勝と言うことになったのではないか。それに引き換え、白肩津はおそらく現在の枚方市の一部で、伊香色雄命を始祖とする多くの氏族(物部とか穂積とか采女とか)がいて歯が立たなかった。おそらく神武東征の話は神武天皇が沿岸部進出を狙い沿岸部の主要地域に駒を進めようとしたが、何分にも古墳時代は格差社会の時代で古墳の大小は言うに及ばず、人間の体格、ことに身長にも米を食べるかどうかによって格差が生じたようだ。次いで進出を図った紀伊国男之水門では紀臣氏と戦ったが、海などを知らない人々が海戦に及んでもイチコロで終わりだ。初めの神武天皇は戦には弱かったと言うことである。

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神武東征

★はじめに

「神武東征(東遷)」と言っても最近の歴史学者はこれを史実とする人は少なく、何らかの意図に基づく創作神話と考えておられる人が多いようだ。しかし、「無から有は生じない」とか「火の無い所に煙は立たぬ」とか言う《ことわざ》のとおり全く根拠がなくそんな神話ができるはずもなく、多少でもその事実があったのではないかと考える向きもあるようだ。一応、『古事記』から「神武東征」を箇条書きに抜粋してみると、

「神武東征」
1.神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ。以下、長たらしいので神武天皇という)は、兄の五瀬命と舟軍を率いて、日向の高千穂宮を出発し筑紫へ向かう。
2.豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古・宇沙都比売の二人が仮宮を作って彼らを供応した。
3.筑紫国の岡田宮(福岡県北九州市八幡西区)で1年を過ごした。
4.阿岐国の多祁理宮(たけりのみや・広島県安芸郡府中町)で7年を過ごした。
5.吉備国の高島宮(岡山県岡山市南区宮浦)で8年を過ごした。
6.浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時の河内潟沿岸。)で、長髄彦(ナガスネヒコ)の軍勢と一戦に及び五瀬命は長髄彦が放った矢に当たり、紀国の男之水門(和歌山市小野町、水門吹上神社)に着いた所で亡くなった。五瀬命は矢に当たった時に、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで紀伊半島を南の方へ回り込んだ。
7.神武天皇が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると神武天皇を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神武天皇はすぐに目が覚めた。高倉下から神武天皇がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。
8.神武天皇は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大神と高木神(タカミムスビ)が現れた。二神は建御雷神(タケミカヅチノカミ)を呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。その大刀は甕布都神(みかふつのかみ)、または布都御魂(ふつのみたま)と言い、現在は石上神宮に鎮座している。
9.高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野(現在の新宮市であろう)から熊野川・吉野川を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。
宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、神武天皇に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神武天皇を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神武天皇に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神武天皇にこのことを報告した。そこで神武天皇は、大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。
10.忍坂の地では、土雲(土蜘蛛)の八十建が待ち構えていた。そこで神武天皇は八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った八十膳夫(調理人)をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。
11.その後、目的地である磐余の弟師木(オトシキ)を帰順させて兄師木(エシキ)と戦った。最後に、登美毘古(長髄彦)と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
12.神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮で神武天皇として即位した。

以上、引用が長くなって申し訳ないが、九州高千穂宮(峡)(行程の途中で豊国(宇沙<現 宇佐市>)によっているので高千穂峰ではあるまい)から大和国畝火(畝傍)で即位する一連の行為であるが、食事をしたのが豊国の宇沙(現 宇佐市)で、宇沙都比古・宇沙都比売の二人が仮宮を作って彼らを供応した、の一件だけ。筑紫国の岡田宮(福岡県北九州市八幡西区)で1年、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや・広島県安芸郡府中町)で7年、吉備国の高島宮(岡山県岡山市南区宮浦)で8年を過ごした。高千穂峡を出発してから都合16年ほどになるのだが、その間何をしていたのだろうか。一番肝心なことは兵糧はどうなっていたかと言うことである。舟にでも積んで移動していたのか。しかし、当時(私見の勝手な推量では西暦元年頃か。皇紀元年の頃は稲はなかったと思う。但し、『古事記』には神武と登美毘古のの戦闘歌謡に粟畑が出てくる。)にあっては米の量産はほとんどできなかったであろうし、粟や稗の大量栽培が可能であったかどうかは疑問である。それに、稗は冷涼な地域の穀物で、北海道、東北、中部高地などが主産地ではなかったか。
とにもかくにも、今もそうだが当時にあっても主要都市群であった、筑紫国に1年、安芸国に7年、吉備国に8年も滞在しながら何の所見もない。しかし、畿内に入ってきたら急に行動が活発になる。そこで、情報量が多くなる「浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時の河内潟沿岸。)」からの東征行を検討してみる。

★畿内に到達した神武東征軍

筑紫国に1年、阿岐国に7年、吉備国に8年、それぞれ滞在したとされるが、現代的に言うとだんだん期間も長くなりどうしたことかとも思う。ざっくばらんに言うと兵糧もままならず神武軍はカロリー不足、栄養不足で体力が消耗し反抗勢力討伐にも時間がかかったものか。筑紫国や吉備国は当時にあっても先進国であったであろうが、阿岐国は神武天皇が滞在したという多祁理宮(現・多家神社)は祭神が神武天皇、安芸津彦命(安芸国の開祖神とされる)とされるが安芸津彦命なんて失礼ながら聞いたこともない。そんなところで7年間も費やすとは考えがたい。
吉備国を出発し浪速国の白肩津に到達する前にワンクッションがあり、吉備国の高島宮と浪速国の白肩津の間に速吸門(はやすいのと。本来は豊予海峡を言う。『日本書紀』は速吸門を宇佐の前に置いている。ここでは私見の勝手な解釈で明石海峡に比定する。)と言う海峡があり、棹根津日子(倭国造等の祖)と言うものを臣下とした。棹根津日子は船路の先導者(水先案内人)、『日本書紀』では参謀として「女軍を忍坂に派遣して兄磯城軍の精兵をおびき出し、男軍を墨坂から出して挟み撃ちにして、兄磯城を斬り殺した、と言う。」

その後の行程は、
浪速国の白肩津(大阪府東大阪市)から紀国の男之水門(和歌山市小野町)、熊野(和歌山県新宮市)に至った。
神武天皇が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると神武天皇を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。
熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀(佐士布都神といい、甕布都神とも布都御魂ともいい、石上神宮に祀られている。)を持って来ると、神武天皇はすぐに目が覚めた。高倉下から神武天皇がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。
なんだか意味のわからない話だが、神武軍は栄養失調による疲労困憊とか一時的な熱中症などに罹ったと言うことか。また、大刀を受け取る経緯(いきさつ)の中で、高倉下の夢に天照大神と高木神(タカミムスビ)が現れた、と言う。高木神の命令で神武一行に遣わされた八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀に到達した。
宇陀(奈良県宇陀市)では兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟を討伐し、忍坂(奈良県桜井市忍阪)の地では、土雲(土蜘蛛)の八十建を打ち殺した。
磐余(奈良県橿原市)の弟師木(オトシキ)を帰順させて兄師木(エシキ)を討った。但し、『古事記』では兄師木、を弟師木ともに撃たれる。最後に、登美毘古(長髄彦)撃破した。神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原(かしはら)宮で神武天皇として即位した。登美毘古の登美は奈良県桜井市外山か。
出てくる地名は、白肩津(大阪府東大阪市。枚岡か。白肩は枚方と同意か。)、男之水門(和歌山市小野町)、熊野(和歌山県新宮市)、宇陀(奈良県宇陀市)、忍坂(奈良県桜井市忍阪)、磐余(奈良県橿原市)、登美(奈良県桜井市)など大阪府、和歌山県、奈良県の地名のみだ。目的地が奈良県だったので奈良県の地名が多いが、ほかに和歌山県、大阪府の地名がある。戦後、王朝交替説等もあって、大阪府、和歌山県、奈良県等が天皇氏発祥の地と言う説もある。失礼ながら「日向の高千穂宮」から吉備国の高島宮までは移動に16年も要したのに特記すべき記事もない。例えば、浪速国の白肩津では、長髄彦の軍勢と一戦に及んだ、紀国の男之水門では五瀬命が逝去し埋葬した、熊野では、大熊が現われてすぐに消えたが、神武一行は皆毒気に当てられ気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下が、一振りの大刀を持って来ると、神武天皇はすぐに目が覚めた。高倉下から神武天皇がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した、と具体的内容が記されている。従って、「日向の高千穂宮」から吉備国の高島宮の話は後世の創作と思われ検討の余地もない。『記紀』の神武東征の話は端的に言うと神武天皇の奈良盆地の統一譚あるいはそれをもう少し隣接地帯(特に、紀伊国、河内国)に推し進めた説話であって九州から倭の地を征服にやって来たなどというのはここに書くのは論外と言うべきなのだろう。こう言うことになったのは、この説話が作られた頃は大和朝廷と隼人族が一進一退の攻防を繰り返していたのでその融和策として作成されたとか、はたまた、天皇氏の先祖が大伴氏の時の当主から我が家の先祖は北の国(今の青森県あたりか)から舟に乗ってやって来た、と言われ、その対抗策として南の国から舟に乗ってやって来たとしたものか。

★紀伊国の有力者

紀伊国は『和名抄』によれば伊都郡・那賀郡・名草郡・海部郡<現在は海草郡に統合(海部郡+名草郡)>・在田郡(有田郡)・日高郡・牟婁郡からなり、そのうち牟婁郡は令制国成立の際に紀伊国が熊野国を編入し、新たに紀伊国となった。その際熊野国の領域は元・紀伊国牟婁郡に編入された。牟婁郡の郷は『和名抄』に神戸郷、岡田郷、牟婁郷、栗栖郷、三前郷が記載されているが、この内熊野国造でなく紀伊国造の領域であったのは牟婁郷のみである。現在は概ね和歌山県に西牟婁郡、東牟婁郡が所属し、三重県に北牟婁郡、南牟婁郡が所属している。
紀伊国は神武天皇以来の地名であり、有力者としては、古代氏族として、7世紀以前には大伴連・来目直(紀崗前来目連と言う連カバネの人もいたようだが、久米氏の連カバネの人は少ない。石見国の久米連)・紀直・名草直など。8世紀以降忌部氏や渡来人系氏族が現れる。9世紀以降には紀臣氏も現れる。紀直氏は、名草郡に本拠を置き、紀伊国内諸郡から和泉・河内などにも勢力を拡大。岩橋(いわせ)千塚古墳群(現・和歌山市)は紀直氏の古墳とされる。
紀直氏、紀臣氏、両者統合の象徴としての武内宿禰(『古事記』では27氏族の祖と言う)、大伴氏、忌部氏などが目につき、旧熊野国関係では和田氏(熊野国造家)、鈴木氏、宇井氏、榎本氏の熊野三党(熊野権現の御師)がある。
紀直氏は紀伊国造(天道根命を始祖とする)として紀伊国に土着した豪族であり、紀臣氏は孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とすると言い、大和国平群郡紀里を本貫としたようである。武内宿禰、紀角の父子はともに母方が紀伊国造家の出自であったと言う。紀直は地方豪族として、紀臣は中央豪族としてそれぞれ活躍した。しかし、紀臣氏も経済基盤は紀伊国にあったか。紀伊国造家の墓所が紀の川左岸の「岩橋(いわせ)千塚古墳群」であるとしたら、右岸の晒山古墳群(著名な大谷古墳がある)が紀臣氏の墳墓だったか。

大伴氏と紀伊国に関しては、公の記録として、
名草郡 忌部郷 天平勝宝2年(750)3月21日 〔大伴若宮連大淵勘籍〕<大伴若宮連大淵〈年廿八/紀伊国名草郡忌部郷戸主大伴若宮連部良戸口>
名草郡 片岡里 神護景雲3年(769)11月25日〔続日本紀30〕<(神護景雲三年一一月二五日)己丑、陸奥国牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言、伝聞、押人等、本是紀伊国名草郡片岡里人也、昔者、先祖大伴部直、征夷之時、到於小田郡嶋田村而居焉、>
那賀郡 那賀郷 天平20年(748)4月25日  〔写書所解〕 申願出家人事/合廿八人大伴連蓑万呂〈年廿九 労三年/紀伊国那賀郷戸主大伴連伯万呂戸口〉

『日本霊異記』には、
上 第五「信敬三寶得現報緣」 大花位・大部・屋栖野古連公者,紀伊國名草郡宇治大伴連等先祖也 「大部は大伴に同じ。部は伴の漢訳という。」
下 第十七「未作畢捻埴像生呻音示奇表緣」 沙彌・信行者,紀伊國那賀郡彌氣里人.俗姓大伴連祖是也

『粉河寺縁起絵巻』には、
所在地 和歌山県紀の川市粉河
創建年 (伝)宝亀元年(770年)
開 基   (伝)大伴連孔子古(くじこ) 職業は猟師だったという。なお、孔子古(くじこ)は大伴連氏と言うことで系図では金村の子孫として登録されている。

大伴氏と熊野国に関しては、
熊野三党は、藤白鈴木氏は穂積臣、榎本氏は榎本連、宇井氏は丸子連を本姓とする、とある。そのうち、本姓が榎本連の榎本氏、丸子連の宇井氏は通説かどうかはわからないが榎本連の始祖は大伴金村の次男(?)狭手彦で、丸子連の始祖は大伴金村の三男(?)糠手子の子・大伴頬垂と言う。ほかに、大伴頬垂の弟、大伴加爾古を始祖とする仲丸子連というのもある。しかし、熊野三党に関しては、三氏すべてが穂積氏の出とする説、熊野三党の祖は高倉下命とする説などがある。大伴氏は全くもって検討の対象にも入っていないが、しかし、近隣には三重県熊野市有馬町があり、<「産田(うぶた)」は産所の意であり、『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊奘冉尊(いざなみのみこと)が火の神である軻遇突智(かぐつち)を産んだ時に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に埋葬されたと記されており、産田の名称は、伊奘冉尊の出産した場所によるといわれる。また、付近に位置する花窟(はなのいわや)神社が、亡くなった伊奘冉尊の墓所であるとされる。>(Wikipedia「産田神社」)、と。これって伊弉諾尊伊弉冉尊・国生み神話の一部であり、大阪湾方面の出身者(大伴氏)が伝えたものではないか。それに、熊野山中で急に天皇家の祖神である天照大神と大伴氏の祖神である高木神(高御産巣日神)が出てくるのも大伴氏が紀伊半島へ引っ越したので、伝説も一緒に引っ越したと言うことか。因みに、産田神社の神官は古代より戦国時代にお家断絶するまで榎本氏が務めていた由。また、淡路国にも榎本氏があったようで、天平十年(738)『淡路国正税帳』に同国史生、榎本直虫麻呂とある。紀伊国にはほかに大伴部直と言う人物もいた。連カバネでは『新撰姓氏録』では「道臣命十世孫佐弖彦之後也」とあり、紀伊国名草郡、安芸国佐伯郡、「豊後国戸籍」に榎本連がいる。

紀伊国の忌部氏
「事績が中臣氏に押されて少なくなっていった中央氏族の齋部とは異なり、品部である各地の忌部には、玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐などがあった。それらの品部の部民も後に忌部氏を名乗ったことが文献に見られている。こうした地方氏族は随所に跡を残している。」、と。
一応、紀伊忌部氏は、
紀伊忌部
地域:紀伊国名草郡御木郷・麁香郷
『古語拾遺』では「御木」は木を採る忌部、「麁香(あらか)」は殿を造る忌部がいたことによるとする。『和名類聚抄』では、紀伊国名草郡に忌部郷と神戸郷(忌部神戸か)が見え、和歌山県和歌山市鳴神の鳴神社付近に比定される。但し、『和名抄』では上記の通り名草郡御木郷・麁香郷はなく、名草郡忌部郷・神戸郷とあり、斎部広成の勘違いか。
祖神:彦狭知命 – 忌部五部神。( 『古語拾遺』による。『日本書紀』では、手置帆負命<笠づくりの忌部>)
職掌:材木の貢納、宮殿・社殿造営
関係地
鳴神社(和歌山県和歌山市) – 式内社(名神大)。
『和名抄』にある名草郡忌部郷は現在の和歌山市井辺(いんべ)に比定され、考古学的遺跡は多いものの忌部氏にまつわる説話は少ない。

紀伊国の来目氏
文献的には、
紀崗前来目連、城丘前来目の二名の名が見えるのみである。
『日本書紀』 雄略天皇九年「紀小弓宿禰が新羅討伐の大将軍として渡海。新羅軍を打ち破った。この戦で、大伴談連と紀崗前来目連が戦死、紀小弓宿禰は病没。」
『日本書紀』 雄略天皇二十三年「城丘前来目は天皇没後の皇位をめぐる星川皇子の乱にくわわり大蔵の役所を占拠するが、大伴室屋の兵に包囲され、皇子らとともに焼き殺された。」

★まとめ

神武東征の説話の中には大伴氏や大伴金村失脚後の内容が盛り込まれているようだ。金村失脚後は大伴氏一族は中央政界における役職には就けなかったらしく、長男の磐は任那救援のために派遣されたのち、甲斐国山梨郡山前邑に移住し、子孫は大伴山前氏(大伴山前連)となった、次男(または三男)の狭手彦は宣化天皇2年兄の磐とともに任那救援のため渡海し、また、欽明天皇23年大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐の後は消息不明、三男(または四男)の糠手子は蘇我氏嫌いの敏達天皇の引きのためか敏達天皇12年任那再興のために百済から日羅を招聘。糠手子は日羅一行に対する特使のようになったようだ。息子に大伴頬垂 – 丸子氏祖、大伴加爾古 – 仲丸子氏祖がいる、四男(または五男)の阿被比古はこれと言った記録はないが、子(一説に大伴金村の子)の咋子は用明天皇2年丁未の乱において、物部守屋討伐軍に参加。崇峻天皇4年紀男麻呂・巨勢比良夫・巨勢猿・葛城烏那羅と共に任那再建のための遠征軍の大将軍に任ぜられたが、翌崇峻天皇5年崇峻天皇が暗殺され遠征軍の渡航は中止。推古天皇9年新羅に侵略された任那の救援を命じるために高句麗へ派遣された。推古天皇16年小野妹子に従って来日した隋使・裴世清が朝廷で国書を提出した際に、咋は国書上奏の任にあたった。推古天皇18年新羅・任那の使人が来朝した際、蘇我豊浦蝦夷・坂本糠手・阿倍鳥と共に四大夫の一人として対応。ここいらから柄の悪い蘇我氏を嫌悪する推古天皇から蘇我氏が敬遠され育ちのいい大伴氏が再浮上したか、大伴金村の末子かと言う宇遅古と言う人物(架空の人物という説あり)は紀伊国粉河寺の創建者大伴連孔子古の先祖という。
いずれにせよ、神武東征とは奈良盆地の大和朝廷が「井の中の蛙大海を知らず」であったはまずいので、海の方へ道を開こうとした。浪速国の白肩津(大阪府東大阪市)、紀国の男之水門(和歌山市小野町)、熊野(和歌山県新宮市)はいずれも港町であったと思われ、海人族の取り込みを図ったのではないか。ただ、行く先々では先住民もいた。日臣(ほのおみ)とか道臣(みちのおみ)とか言う人物を統領とする集団や淀川水系を支配する宇摩志麻遅命の一族があったが、宇摩志麻遅命一族は農業氏族で強力な戦闘能力があり、これを敬遠した大和朝廷は海人族の大伴氏と結びついた。淀川水系の支配者を大和朝廷傘下に入れたのは第八代孝元天皇か第九代開化天皇ではないか。大伴金村の子や孫が紀伊半島や甲斐国に落ち延びたのも金村の時代になっても大伴氏の勢力とか影響力がこれらの畿内方面や東国に残っていたからではないか。いずれにせよ「神武東征」はなかった。

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古代の武士団

★はじめに

「古代の武士団」と言っても古代には武士ないし武士団なるものはなく、一説によると「古代では戦闘目的の為に組織された集団を「軍(いくさ)」と言い」、律令体制下では軍団(国家の軍隊)と武士団(平安時代に「兵(つわもの)」と呼ばれた者達が私的に従える集団、またはその集団の結合体、即ち、後世的に言うと傭兵ないし私兵とでも言うべきもの)とがあった。日本の国ではそもそもさような戦闘集団を必要とするようになったのは弥生時代からで、縄文時代では武器を持って戦うと言うことはまれな出来事であったようである。縄文時代の二大発明(土器と弓矢)の一角を占める弓矢も人間どうしが戦う武器ではなく、狩猟のためというのが一般的解釈だ。獲物を捕る道具と言うことで動物ばかりでなく魚なども弓矢で取っていたようだ。そこで、古人骨を検証した先生がいて、縄文時代の遺骨では大きなけがなどで損傷したものは少なく、弥生時代に入ると、俄然、首のない遺骨とか鏃(やじり)が何本も突き刺さった遺骨とかが多くなるそうな。これは忌憚のない意見を言うと縄文人と弥生人は別人種と思われ、縄文人は温厚な人種であり、弥生人は好戦的な人種なのだろう。これは何も一般的に言われている水稲稲作の収量の問題だけではなく、双方の人間性に由来するものなのだろう。例えば、弥生人は水稲を携え長江流域からやってきたと考える人は多く、この流域を調査に行かれた先生によると古代の長江流域の人は神事に人間を生け贄として献げ、遺骨を十把一絡げのようにして祭壇の周りに捨ててあるとか。これなんかも、我が日本人には受け入れられなかったらしく、さような遺跡はほとんどない。そもそも稲作にしても中国から導入されたのはバラバラの品種で、種まきは一緒であっても稲刈りはまちまちで穂積氏のような穂積(穂摘み)の専門職までが現れる始末だ。そこに北方からやって来たのが縄文農家の人々で稲の刈り入れ時を揃え現在の水田稲作に近いものにしたのではないか。おかげで穂積氏は失職し、上級豪族から中級豪速に格下げになったのではないか。
とにもかくにも、こう言う争いごとを趣味にしているような人に対し旧来の日本人も何らかの対抗策を打たなければならない。はじめは家と家の争いだったものが、一族と一族の争いになり、地域と地域の紛争状態になって、その場限りのいわゆる喧嘩のようなものから恒常的な護衛団とか職業軍人のような人が必要になったのではないか。
その職業軍人の集団として最初に出てきたのは「久米(くめ)」と言う集団ではなかったか。神武天皇の一の護衛団(現代的に言うと子分というのか)も久米という集団で、大久米命は著名である。『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。ほかに伊予国久米郡の久味国造(伊予来目部小楯は一族か。のちに彼は山部大楯連の跡を継いで山部氏となった。)もいた。後世の久米部(くめべ・来目部ともある)の伴造氏族である。

★久米(くめ)のこと

久米というのは発足当初は傭兵と言おうか私設軍団と言おうかその種の組織であったらしい。有史以来即ち文献に出てくる具体的な久米集団としては、①天皇氏の久米<神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔>、②大伴氏の久米<高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔>、
③伊予国の久米について少し詳しく宣べると、
1.伊予国の領主は、おそらく伊豫氏で伊予之二名島(伊予二名洲)とか伊予津彦命、伊予部、伊豫国造などがある。
2.根拠地は、伊豫國伊豫郡 伊豫神社、現・愛媛県伊予市上野あるいは愛媛県伊予郡松前町神崎あたりにいたようである。論社の両伊豫神社は接近している。
3.四国全体をも伊予之二名島(いよのふたなのしま・伊予二名洲)と言ったようで、胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は、愛比売(えひめ):伊予国、飯依比古(いひよりひこ):讃岐国、大宜都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)、建依別(たけよりわけ):土佐国と言い、意味するところは不明なるも、生産した食料は生産者や領主が独占したら不適当なのであって、丁度、「田」の字が「区画された狩猟地・耕地」の象形と言うので四区画のそれぞれに愛比売、飯依比古、大宜都比売、建依別と名付け、愛比売は領主、神官、巫女などの非生産的人々の食料を生産するところ、飯依比古は食料生産者のための耕地、大宜都比売は土器などの生活用品生産者のための田畑、建依別は外敵と戦い、集落を警護する人々の圃場ではなかったか。おそらく四区画の食料生産は飯依比古が行い、各人への分配は後世の伴造に相当する人が行ったのであろう。但し、地名に人名を当てるのは日本ではないことはないが一般的とは言えず、半島や大陸からの導入か。
4.伊予久米氏は伊予国久米郡(現・愛媛県松山市の一部と東温市の一部)にいたと思われる。
5.伊与来目部小楯は、伊予国の久米氏の子孫と考えられる。
④吉備国の久米
吉備国の久米氏については文献的には何の根拠もない。ただ、久米郡はあり和銅6年(713年)に備前国から美作国が分割された時には美作国久米郡となっている。『先代旧事本紀』(国造本紀)に吉備中縣国造は「崇神天皇の時代、神祝命(かみむすびのみこと、神魂命)の十世孫である明石彦(あかしひこ、阿加志毘古命)を国造に定めた」とあり、吉備中縣国造は神祝命即ち神魂命の子孫で天皇氏の久米氏と同祖なので吉備中縣国造とは久米氏であると言う説もある。『先代旧事本紀』は偽書説もある曰く付きの書であり、「近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証されたことから、本文は研究資料として用いられている。」とあるが、大いに疑問である。
私見で恐縮ではあるが、『魏志倭人伝』 に出てくる邪馬台国の官「官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮」、伊支馬(いくめ)、彌馬升(みまつ)、彌馬獲支(みまかき→みまき)、奴佳鞮(なかて→なかつ)となり、伊支馬は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)即ち、垂仁天皇のことか。彌馬升は観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)即ち、孝昭天皇のことか。彌馬獲支は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)即ち、崇神天皇か。奴佳鞮は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)即ち、仲哀天皇か。
1.伊支馬(イクメ) 美作国久米郡久米郷(現・岡山県津山市宮尾。宮尾遺跡)。ほかに大和国高市郡久米郷(奈良県橿原市久米町)。
2.彌馬升(ミマツ) 『播磨国風土記』に「飾磨郡」に大三間津彦命とか「讃容郡」の邑宝(おほ)里に弥麻都比古命、同里・久都野の段に弥麻都比古命とあり、播磨国佐用郡と美作国吉野郡は隣接して双方行き来があったようだ。播磨国佐用郡佐用郷(現・兵庫県佐用郡佐用町)。
3.彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ) 美作国は国名の発祥地が未詳であって、彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ)の具体的な比定地も不詳。現・岡山県美作市か。
4.奴佳堤(ナカテ、ナカツ)は「吉備の中山」で、①備前一宮の吉備津彦神社、あるいは、②美作国一宮中山神社のいずれかを言うとある。中山も今は「なかやま」と言うが、古くは「なかつやま」と言ったか。ここでは「中山神社。現・岡山県津山市一宮」のことと思う。
いずれも『魏志倭人伝』 に出てくる邪馬台国の官人は吉備国(後世の美作国)の人ではないか。その中でも吉備国で軍を動かす久米の長は垂仁天皇ではなかったか。とにかくこの御四方は調略工作に当たった邪馬台国の大伴某に拐(かどわ)かされ吉備氏一族を捨てて大和国に寝返った。大和国としては鉄の原料は手に入るし、兵員増強にもなり一挙両得というところではなかったか。

★古代武士団の出現

「久米」集団が一領主一集団なのに対し、「武士団」は一領主多集団になるのかとも思う。例えば、吉備国を見てみると、

吉備氏の系譜には3種類がある。

1.別(わけ)号の人名表記が主で、王家との関係も姻戚関係のみで王族出身ではない。一族内部も対等の関係で、5世紀までの部族同盟的な関係を伝える。一説によると、4世紀後半から5世紀後半のこの地域の古墳群を分析すると、10の地方集団が存在したと推定される、と言う。
『日本書紀』巻第十(応神天皇22年3月14日条)には、応神天皇の妃(吉備御友別の妹・兄媛)の実家(当主は御友別)で一家の歓待を受け、その答礼として彼の息子らに吉備国を以下のように分割した、 と言う。
*川嶋県(かわしまのあがた、備中国浅口郡)を長子稲速別(いなはやわけ)に委任した(現在の岡山県総社市西半、倉敷市(元吉備郡真備町))。これが下道臣の始祖である。
*上道県を(かみつみちのあがた)を中子仲彦にゆだねた(現在の西大寺市、岡山市東半)。これが上道臣、香屋臣の始祖である。
*三野県(みののあがた)を弟彦にまかせた(現在の岡山市北半、旭川以西)。これが三野臣の始まりである。
*波区芸県(はくぎのあがた)を御友別の同母弟(いろど)の鴨別(かもわけ)に任せた(岡山県笠岡市あたり?)。これが笠臣の始祖である。
*苑県(そののあがた)を同母兄(いろね)の浦凝別(うらごりわけ)に任せた(元吉備郡真備町北部)。これが苑臣の始祖である。
これら下道臣や上道臣等々を御友別の一族とすることには異論もあり、あるいは血縁関係はないが武士団として団結した集団の集まりだったか。○×県と言っているように単なる県主の域を出ないものか。
2.吉備津彦が四道将軍の一人として王家系譜に記載された事を前提とし、共通の始祖をその異母弟(吉備氏の祖・稚武彦命は吉備津彦命の異母弟)としたもので 6世紀中頃以降に作成された、と言う。
一説によると、吉備津彦命・稚武彦命兄弟は吉備武彦の氏名を吉備津彦命(吉備の部分を借用)、稚武彦命(武彦の部分を借用)と分割して創作された人物たちでその後の吉備氏の系図は疑問詞がつくとなりそうだ。
3.7世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として立身した事に対し、上道臣らが対抗して始祖の尊貴性を主張するために作成された。
上道臣氏から見ると吉備真備(下道氏<下道朝臣>。のち吉備朝臣)とか笠臣とか言っても氏素性のわからぬ者が自己の正当性を主張するものとして作成したとして、本流のものが作成した系図ということなのであろう。
翻って、出雲氏を見てみると天穂日命の後裔と称するも天穂日命は出雲国とは縁が薄いようでおそらく因幡国が本拠なのであろう。出雲国は大和朝廷に何度か攻め込まれているのでなんとも言えないが、おそらく出雲臣氏は因幡国気多郡から出雲国にやって来たのではないか。具体的に出雲国と因幡国の地名、人名を比較してみると、

因幡国 出雲国の類似点
気多郡
大原郷 出雲国大原郡があった。
坂本郷 楯縫郡佐香(さか)郷。風土記では佐香は酒か。
口沼郷(かぬ — )「カヌ」は鹿奴、すなわち鹿野である。
勝見郷(かちみ — )
大坂郷
日置郷 神門郡日置郷
勝部郷 神門郡古志郷は勝部氏が引っ越し(古志)てきたところか。
古志郷の地名の由来は、古志の国の人たちが来て、堤を造ったが、
その後そのまま住み着いたので古志と呼ぶようになったという。
私見で恐縮だが、勝見も勝部も同じ意味で別の漢字で書くといずれも「勝辺」とも書くことができる。「勝」の漢字を見ると朝鮮語のスグリとか村主とか言う先生が多いが、カツとかカチ、カテなどという地名は日本にはたくさんあり、(例として『和名抄』では、越前国丹生郡可知郷、備前国上道郡可知郷、越後国沼垂郡賀地郷など)勝見、勝部は地名から来た氏の名とみてよいのではないか。

出雲国の勝部氏と因幡国の勝部氏

勝部氏は摂津、因幡、伯耆、出雲、隠岐に存在し、ここでは因幡国気多郡勝部郷によったと思われる勝部氏と出雲国大原郡の大領の勝部氏(出雲国神門郡古志郷<出雲市知井宮町、古志町>の神門臣氏の分家か。本貫は出雲国大原郡斐伊郷(現在の雲南市木次町)か。)が著名であるが、「神門郡に関しては、『出雲国風土記』によれば、伊加曾然(いかそね)という者がこの地に神門を奉ったことにより神門臣の姓を賜り、その神門臣が定住したのでその地を「神門」と呼ぶようになったとされる。郡家は古志郷にあった。」と言う。
いずれにせよ出雲国の勝部氏はどこからかやって来た人のようで、確証はないものの勝部は土木工事にたずさわった部民という。土木工事と言ってもいろいろあるので具体的に何をしていたかはわからないが、出雲氏は古墳造営にたずさわっていたとも言うので古墳造営関係の仕事をしていたのではないか。

★まとめ

古代にあって同族とか一族と言われる人の多くは、何らかの利害関係で結びついた連合体とも言うべき集団で、特に、弥生時代には殺伐とした時代に入った。そこで後世の武士団のような団体が結成され、その大なるものが小を飲み込み地域統一、国家統一へと進んだのではないか。特に、吉備地方はその鉄資源とともに統一の傾向が強かったと思われる。その陰には美作地方のようにあちらに転んだりこちらに転んだりと裏切り者を量産したような地域もあったのではないか。美作は後世になっても美作菅家党などという著名な武士団が現れた。美作国勝田郡というのも何か勝部と関係がないのか。

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