古代の祭神

★はじめに

我が国の古代の正式な神社の祭神は「太陽神」と「国魂神」で、両神はセットで祀られていたようである。具体的な神名としては「天照御魂神」とか「天照国照大神」とか「天照玉命(天照御魂の誤記か。あるいは、<てるたま>は照り輝く球体の意味で太陽のことか。)」などがあるようである。崇神天皇の時代には宮中では天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)が祀られていたと言う。 但し、崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、両神を皇居の外に移し、別々に祀った。
一体に我が国には何の脈絡もない太陽神が多く、例として『記紀』に出てくる太陽神を見てみると、

天照大神
太陽を神格化した神であり、皇室の祖神<皇祖神>で一般には女性とされる。起源は日本で原型は神武天皇から天武天皇の間にできたか。

高木神
高御産巣日神とも。高木を神格化した神と言われるが、私見では縄文太陽神で三内丸山遺跡に始まり出雲大社まで続く巨木文化にまつわる太陽の運行を観測する高木即ち暦の神ではなかったか。但し、『魏志倭人伝』の(裴松之)の注では「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」とあり、二至二分を知らず、暦などと言うものはおぼつかなかったようなことを書いている。『日本書紀』では皇祖とも言われている。起源は日本で縄文時代か。

天火明命(天照国照彦火明命)
「天照国照」「火明」からわかるように太陽光や熱の神格化である、と言う。天照御魂神社の祭神はほとんどが天火明命である。照らすとか明かりと言うので現代用語で言う照明の神か。中国由来の拝火教の痕跡か。

天穂日命
「火日」の意味として太陽神とする説と「穂霊」の意味として稲穂の神とする説がある。出雲国造家の祖と言うが出雲国には天穂日命を祀る有名な神社は少ない。息子に建比良鳥命あるいは武日照命(たけひなてるのみこと)とあるので世界中至る所に見られる農業太陽神か。日本の起源は稲とともに東南アジアから入ってきたと言うが、やや持って怪しい説だ。

天日槍命
日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団の始祖神、と言う。満蒙の太陽神か。起源は東北アジアで満州、蒙古か。日本の始祖神は新羅国の王子という。

などがある。高木神以下は国家神である天照大神が創作されると徐々にそれに吸収あるいは置換され現在ではマイナーな神社の祭神になっている。

国魂(くにたま、国霊とも。)とは、村、郷、郡、国(令制国)または国土そのものを神格化したものである、と言い、統轄神は大国魂神(大国主神、倭大国魂神など)と言う。また、日本は海洋国家なので海延いては海神(例として、綿津見神や住吉神などのワタツミの神)を祀っても良さそうなものだが、一部の海人族に限られているようだ。

★天照大神の前の太陽神は

崇神天皇が天照大神と倭大國魂神とを宮中に祀ったというのは、太陽神あるいは天空神と国魂神あるいは地母神を宮中に祀ったと言うことであろう。世界的には天なる父と大地なる母と言うことになるのだろうが、日本では太陽神が強調されて天には女性が、「その国を経営坐(つくりし)し功徳(いさお)ある神を、国玉国御魂」(本居宣長)と言い、国魂神あるいは大地の神とはその土地の開拓者を言うようだ。女性の開拓者はあまり聞かないところで必然的に男性と言うことになるのだろう。
翻って、縄文時代の我が国はざっくばらんに言うと小さな地域集落が点在していて、交流で物々交換をしたりして生計を立てていた社会ではなかったかと思う。その中にあって、巨木文化の地域は巨木一本を運ぶにせよある程度の労力を必要とし複数の集落がまとまって共同作業をするようになり、参加する集落の数もだんだん増えて後世の国(大きさは律令時代の令制国より広域か)のような大きさになった。具体的には、筑紫国(筑前、筑後)、出雲国(因幡、伯耆、出雲、石見)、吉備国(備前、備中、備後)、摂津国(摂津、河内、和泉)、丹波国(丹波、但馬、丹後)、尾張国(三河、尾張、美濃)などがあり、なぜか辺鄙な奈良盆地を統一し、中小豪族をまとめ上げた天皇家が当時の倭国を統一することになった。
当然のことながら、今も昔も大きな組織にはいろいろデータも整っているが、中小組織には記録をつけると言うこともままならず、語部によるちんぷんかんぷんな話しかなかったのではないか。そこで歴代天皇はまず相談したのは隣国の友人で後世の大伴氏かと思うが、大伴氏はそういう家伝の記録が豊富なのは出雲氏だ、と言い、天皇の矛先を出雲氏へ向けたが、出雲氏は出雲氏で「我が家と天皇家は何の関係があるのだ」と言って取り合わず、その後双方は紛争に発展したのではないか。結末は、出雲は意外にも武力に弱く大和に簡単に負けてしまった。大和朝廷が検討した結果、海洋国家で交易を生業としていた出雲と周りを山々に囲まれ奈良盆地のなかにあった大和では参考になるものはほとんどなく『記紀』では出雲神話として取り入れられている。そこで大和朝廷が参考にしたのは大伴氏の家伝で、その祖「高御産巣日神」の有力氏族は大伴氏と忌部氏があるが、大和朝廷としては高御産巣日神を天皇家の祖神としても良かったかも知れないが、他の氏族のことも考慮し統一太陽神として天照大神を創出したのではないか。しかも、当時にあってはほとんどの太陽神が男性であったのに対し、大和朝廷では女性のトップ(卑弥呼や台与)が多く、天照大神も女性とされたのではないか。『記紀』によれば当時の西日本には女性の首長も多かったようだ。
そこで、天照大神が統合の太陽神として創作される前に、我が国には一説によるとモデルとなる太陽神があったということのようである。それは第一の説では、高御産巣日神と言い、第二の説では天火明命というもののようである。高御産巣日神は縄文時代からの太陽神と考えられるが、天火明命は天照御魂神社の祭神の多くが天火明命で、その祭神が天照大神の出現とともに天火明命から天照大神に代わったというもののようである。しかし、天火明命の子孫は多くが古墳造営に従事しており、天火明命自身が太陽神とは考えづらい。即ち、天照御魂神社は太陽神とは何も関係のない神社ではないのか。天照御魂を解釈すると「天」は美称であり、「照」は周りを照らすもの、「御魂」は「み」は接頭語、「魂」は霊の宿る大切な品物即ち現今で言う灯明台のようなものか。但し、籠神社(このじんじゃ)の系図では、始祖彦火明命 亦名天火明命 亦名天照国照彦火明命 亦名天明火明命 亦名天照御魂命とあって「火明命」と「天照御魂命」が同一の神である、と言う。しかし、「火明」にせよ「天照御魂」にせよこれらの言葉から太陽が連想されることはほとんどないのではないか。一方、縄文太陽神と思われる高御産巣日神と弥生太陽神であったと思われる天照大神は性格が異なる神であったのではないか。太陽の運行観測に関わったような神(高御産巣日神)と神御衣を織らせ、神田の稲を作り、大嘗祭を行う神(天照大神)とはかなり違ったはずだ。私見では二神の時代背景としては高御産巣日神は弥生時代から古墳時代に、天照大神は縄文時代晩期から弥生時代にでも時代設定されると良かったのではないかと思われる。従って、天照大神の前任の太陽神は考えられず、『記紀』編纂者が大伴氏の家伝を無批判に取り入れただけの話ではないのか。天照大神のモデルと言っても高御産巣日神は『記紀』では天照大神の夫神のようだ。

★まとめ

古代の神と言おうか人と言おうか現在の神社に祀られている神(人)はステータスがあがるにつれその名前にいろいろと修飾語がついていくようだ。籠神社の宮司家の系図では「始祖彦火明命 亦名天火明命 亦名天照国照彦火明命 亦名天明火明命 亦名天照御魂命」五回も名前が変わっている。この場合は、「火明」が実名で彦、命、天、天照国照、天明、天照御魂等の美称と言おうか修飾語は後世の人がつけたものであろう。極めつけは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(『先代旧事本紀』)で、「火明」と「速日」は同一人物と言いたいのだろうが、時代も系統も違う。火明は天照大神の孫と言われ、速日は神武天皇と同世代と思われる。火明は天孫系で速日は天神系である。速日一族は「天磐船に乗って河上の地(河内国河上の哮ヶ峯<たけるがみね>)に天降り、その後大和国(奈良県)に移った、と言う。大和盆地には旧石器時代からの遺跡があり先住民がいてもおかしくはないが、双方が同化して天皇家になったと言うのは速日系の創作か。それに饒速日の語義であるが、「饒」は美称で、「速」は敏速にことを処すことか、集団の長に適任な人、「日」は「速」もそうだが、私見では縄文語で「日」=一日(24h)、「日」=太陽、「日」=神のことであり、今は「霊」の字を当てるようだが、速日とは<はやのかみ>とでも読んだのではないか。一体に旧家には名前に「日」の字がつく人が多いようで、例えば、大伴氏は初代を「天忍日命」と言っている。これは、物部氏、大伴氏はともに縄文時代からの古くからの家伝を語り継ぎ、『記紀』にもその内容が反映されていると言うことなのだろう。物部目大連が伊達に大伴室屋大連と争って物部氏の家伝を押し込んだようではないらしい。
『延喜式神名帳』では神社の祭神は一神がほとんどで、二神以上は少ないようだ。しかし、『延喜式神名帳』は平安時代のもので縄文、弥生、古墳、飛鳥・奈良時代の神社とは違うだろうから、元々は祭神は一神だったとか、はたまた、二神だったとは決めつけられないと思われる。祭神が複数の神社は夫婦神等の親族神だったとか、あるいは、合祀によったものかとも思われる。崇神天皇のように意識して天神地祇を祀るのはすでにそれなりの見識があったということなのだろう。崇神天皇は一神よりは二神の方が霊的効果が高いと思ったのだろうが、二神はいがみ合ってマイナスの効果しか出なかったようだ。よって、神頼みは「寄らば大樹の陰」ではないが、霊験あらたかな有力神一神だけにしたようだ。但し、崇神天皇の類似の例として『延喜式神名帳』に「山城国 久世郡 水主神社(十座) 並大。月次新嘗。就中同水主坐天照御魂神。水主坐山背大国魂命神二座。預相嘗祭。」とあるが、これは古墳建造関係者の神社と地元の元々の神社が合体したからではないか。古墳建造には意外といろいろな職種の人がいて諸々の神を祀っているものだ。

広告
カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

縄文時代の暦

★はじめに

縄文時代の暦(こよみ)と言っても当然のことながら現在のカレンダーや日めくりなどとは違うものである。しかし、採取や初歩的農業、漁業、林業などの第一次産業を経済基盤とするには一(太陽)年を的確に把握しなければ農業、漁業、林業の産業は成り立たず、縄文人といえども短命で終わってしまうだろう。とは言え、日本人は旧石器時代から現在にいたるまで日本列島に連綿と存在しているのであり、おそらく暦とまでは行かなくとも季節の概念は当初より持っていたのではないか。そこでそのことを学術的に的確に捉えている本居宣長先生のご見解、即ち、『真暦考(しんれきこう)』(1776)を見てみると、
昔は自然の景色の変化から季節の移り変わりを把握する自然暦であった。中国から暦法が入ってくる前は太陽暦思想があったとして、「かの空なる月による月(朔望月<さくぼうげつ>)と年の来経(きへ)とを、しひて一つに合わすわざ(太陰太陽暦<たいいんたいようれき>のこと)などもなくて、ただ天地のあるがままにてなむありける」と。これによれば、地球が太陽の周りを公転する現象のみによって春夏秋冬を決めるらしい。要するに、古代日本にあっては暦があり、それは現在の太陽暦だけだったというのである。このような発想はどこの国にもあったらしく、一日を基本単位にそれをまとめて年としたが、何分にも原始的な生活を営んでいた当時の人々にあっては一年365日という数は現在の無量大数のようなもので管理ができない、あるいは、数え切れなかった。そこで導入されたのは日と年の間に古代人が数えることができる、あるいは、目に見えると言うことで月の満ち欠けによる(新月から次の新月までの満ち欠けの周期を朔望月と呼び、その周期は約29.53日)月の概念を取り入れ、日、月、年の暦ができた。また、多くの国や地域では月の方が数えるのが容易であったり、月の満ち欠けが目で見て解ると言うことで、月の満ち欠けを主とした暦(太陰暦)と、地球が太陽の周りを公転する暦(太陽暦)とを適宜合わせて太陰太陽暦を作成したようである。本居宣長先生は縄文時代の日本には太陰暦と太陽暦を合一する技術がなく「ただ天地のあるがままにてなむありける」と言い、天(太陽)と地(地球)の関係によってのみ暦は成り立つとする。月などという概念は入り込む余地がなかったようだ。

★縄文時代の暦にまつわる遺跡

縄文時代の遺跡はあまた発掘されているが、暦に関係するものは環状列石と環状木柱列がある。そのいわゆるホライズン・カレンダーによると、世界中どこの場所でも日出、日没の方位は季節によって決まっていると言い、このことは既に古代から知られていて、環状列石などその方位を示す遺跡が世界中にあるという。具体的な遺跡となると、斯学の大家からインターネットの歴史愛好家の見解までいろいろあるが、ここでは國學院大學の「縄文学研究室」の見解を取り上げてみる。同研究室が取り上げた具体的な夏至、冬至、春分、秋分に関わる遺跡は以下の通りである。
【石倉貝塚】
北海道函館市の後期の環状列石。
中央と南東の立石を結ぶ線の延長線上から冬至に日の出。
また、中央と南西の配石群を結ぶ線の延長線上に冬至の日没。
水野正好 1996(石倉貝塚の報道のコメント):
「縄文人が冬至などを意識していたと立証するには材料が乏しい。この遺跡が偶然一致しただけで、全国的なものではない。」とある。
【三内丸山遺跡】
青森県青森市の前期・中期の集落跡。国史跡。
大型木柱遺構の方向と夏至の日の出・冬至の日の入線がほぼ一致。
【小牧野遺跡】
青森県青森市の後期の環状列石。国史跡。
現在馬頭観音となっている配石と中央とを結ぶ線が夏至の日の出線と一致。
【大湯環状列石】
秋田県鹿角市の後期の環状列石。国特別史跡。
万座と野中堂の日時計状特殊組石を結ぶ線が夏至の日没線。
【伊勢堂岱遺跡】
秋田県鷹巣町の後期の環状列石。
環状列石C:外環のまとまりが30度づつ区切られており、その区切りが、中心-直列石のラインを中心に磁北ライン・夏至の日の出ラインなどと重なる。
【樺山遺跡】
岩手県北上市の後期の配石墓群。国史跡
春分・秋分の日、前塚見山に日が沈む。
【天神原遺跡】
群馬県安中市の晩期の環状列石。
中央から3本の立石を結ぶ線の延長線に妙義山(三峰)を望み、春分・秋分には妙義山に日が沈む。
また、冬至には大桁山に日が沈む。
【砂押遺跡】
群馬県安中市の中期の環状集落。
環状集落の中央広場からみると、冬至に大桁山に日が沈む。
【野村遺跡】
群馬県安中市の中期の環状列石。
この場所から見ると冬至に妙義山に日が沈む。
【寺野東遺跡】
栃木県小山市の後期の遺跡。国史跡。
環状盛土の中の円形盛土と中央の石敷台状遺構とを結ぶ線上に冬至の日の入を望む。
【田端遺跡】
東京都町田市の後期~晩期の環状積石遺構。都史跡。
冬至には、丹沢の主峰蛭が岳に日が沈む。
【水口遺跡】
山梨県都留市の中期の環状列石。
春分の日没が地蔵岳に落ちる。
【牛石遺跡】
山梨県都留市の中期の環状列石。
春分の日没が三つ峠山に落ちる。
【大柴遺跡】
山梨県須玉町の中期~後期の環状列石。
夏至には金峰山から日が昇る。
【アチヤ平遺跡】
新潟県朝日村の環状列石を伴う拠点集落。
夏至の日、朝日岳から日が昇る。
【極楽寺遺跡】
富山県上市町の早期~前期の攻玉遺跡。
冬至には大日山(立山連峰の1峰)から日が昇る。
【不動堂遺跡】
富山県朝日町の中期の集落。国史跡。
冬至には朝日岳と前朝日の間(鞍部)から日が昇る。
【チカモリ遺跡】
石川県金沢市の後期の遺跡。国史跡。
ウッドサークルの入口?が、冬至の日の出の方向を向いている。
以上、環状列石や環状木柱列等と二至二分の関連を説いているが、何やら「こじつけ」の感もある。一般に、環状列石は日本でもはたまた外国でも「大規模な共同墓地」と考えられており、環状木柱列は「祭祀場」と考えられている。暦学者はそうはさせじと「大型のストーン・サークルには墓の痕跡がないものも多く、十分に説得力のある学説とは言えないようです。近年ではむしろ、小林達雄氏(國學院大學文学部名誉教授)に代表される考古学者たちのように、環状列石を日の出・日の入りを観測する装置とみなす説が有力になっています。」と曰っている。

★まとめ

まず、環状列石だが、一説に「ストーンサークルの密集域が円筒土器文化圏(東北北部)と重なっていること、円筒土器は遼河文明と関連していること、遼河文明と関連する三内丸山遺跡からもストーンサークルが発見されていることから、日本にストーンサークルをもたらしたのはY染色体ハプログループNに属すウラル系遼河文明人と考えられる。しかし、ウラル系遼河文明人にはストーンサークルを造る文化はなく、東アジアにストーンサークルを伝播させた集団はY染色体ハプログループR1bに属す集団と考えられる。」と言う。日本のストーンサークルの起源も元を正せばヨーロッパあるいは中央アジア北東部からシベリア南部(アファナシェヴォ文化)と言うことになるようだ。
はっきりしないことを蒸し返しても建設的なものにはならないので、環状列石や環状木柱列の日本での建造目的は食糧確保のための建造物と考える。「日本での」と断ったのはこれらの建造物が日本で自然発生的に生じたもので外国から入って来たものかは疑問である。北東北の環状列石が古いと言っても講学上の最古のものは縄文時代前期の阿久遺跡(あきゅういせき。長野県諏訪郡原村)にある環状集石群と考えられている。
この種の遺跡の特徴として1.なにがしかの二至二分の日の出や日の入りと関わっていること。2.墳墓を伴うことが多いこと。3.日本では本体サークルの補完、補正などに利用されたと思われる、日時計状組石や四本柱の環状木柱列(本体は十本。真脇遺跡)などがある。
1.二至二分(夏至、冬至、春分、秋分)の日の出や日の入りが見える場所については、やはり季節の春夏秋冬を知るために、環状列石や環状木柱列が造られたのであろう。これは農業、漁業、林業の基本であり、縄文農業がどれほどであったかは解らないがやはり縄文時代にも農業があったと思われる。こういう意味では環状列石や環状木柱列は春、夏、秋、冬の四季しか解らないものではあったが、やはりカレンダー的要素の強いものではなかったか。古代人が太陽の位置に興味を抱いたのは太陽の位置により気温が異なり、人間はもとより多くの生物がその行動を左右されるからであろう。太陽の位置を観測すると言うことはとりもなおさず現今のカレンダー(暦)を意識したものではないか。これは日本だけでなく世界的なものである。(ナブタ・プラヤの遺跡<エジプト>は、北回帰線近くに位置し、夏至の前後3週間ほどの間、正午の太陽は天頂に昇り、直立物は影を射さなくなる。研究者たちは、ナブタ・プラヤのストーン・サークルは、夏至前後に天頂を通る太陽の運行に対応した物だっただろう、と推測している。特別な石材は、夏至前後の季節を確認するための観測道具だった、とみなされ「カレンダー・サークル」の名で呼ばれている。)上述の石倉貝塚の水野正好(奈良大学名誉教授。物故者)と言う人が述べていることにも一理はあるが「この遺跡が偶然一致しただけ」と言うのも他の一致した遺跡はどうなるのだ、と言うことなのだが。
2.墳墓を伴うこともこれらの墳墓が当初より計画的にストーン・サークルの内や外に配置されていたものかは不明である。意外と後世になって墓地が不足し環状列石の内や外に墳墓を造築したのではないか。副葬品が豪華なものもあるので、最初から墓地という説も根強い。
3.補完、補正装置としての日時計状組石や四本柱の環状木柱列は、本体の環状列石や環状木柱列を毎年のカレンダーとして間に合わせるべく、諸々の誤差(例、地球の公転と一日24時間としたときの誤差)を正すべく使用されたと思われる。
そこで環状列石と環状木柱列であるが、環状列石が先に出現し、環状木柱列が縄文時代後半に出現したのではないかと考える。環状木柱列の主な遺跡としては、

チカモリ遺跡 石川県 柱8~10本、柱列環直径6~8mが8基
真脇遺跡 石川県 柱10本、環直径7.4m、6度立替 トーテムポールのような木柱
井口遺跡 富山県 柱10本、柱列環直径8m
桜町遺跡 富山県 柱10本、柱列環直径6m
米泉遺跡 石川県 柱8本、柱列環直径5.5m、中央に鮭の骨を含む穴
若緑ヒラ野遺跡 石川県 柱10本、柱列環直径約7m
古沢A遺跡 富山県 柱4本を方形配置、2棟並ぶ
正楽寺遺跡 滋賀県 柱6本、環直径6m
寺地遺跡 新潟県 柱4本方形配置
矢瀬遺跡 群馬県 半截材(直径50センチメートル前後の巨木を半切)の方形木柱列は割面が向き合う6本の立柱 四角形に配列されて立てられた部分(方形木柱列)
西鯉遺跡 福井県 環状木柱列遺構 縄文後期前半。クリの半裁材を使用した径約10m の大型円形建物 西日本と東日本の縄文晩期の境界になる

以上より、柱数は10本が最も多く、ほかに4、6、8本がある。形状は環状がほとんどで柱が4本になると方形配置と解されている。柱の用途は「不明」とするものがほとんどだが、方形、円形にせよ建物の構造材と解する向きも多い。地域的には北陸の豪雪地帯が多い。年代的には縄文時代後半に集中している。
柱の本数が偶数なのは何らかのバランス(例、左右対称)をとろうとしたからではないか。柱の用途も建物が方形ならともかく、円形では中央部に支えとなる柱(大黒柱か)がないようなので、建物の構造材というのは考えられない。当時の積雪量がどのくらいかは解らないが、豪雪の荷重に耐えられない。そこで考えられるのは、二至二分に関心が強かったと思われる縄文人にとってはそれを正確に知る装置が必要だったと思われる。その装置はどのようなものだったかとチカモリ遺跡を例にとりながら私見を説明すると、
同遺跡は10本柱の環状木柱列と「4本の柱」の表示のある木柱列がある。私見では10本柱の方は年間カレンダー(暦)で、4本柱の方はその補正装置と考える。当時の日本は三内丸山遺跡の「6」から真脇遺跡の「10」になるまで相当年数がかかったようで、とても365などという数字には到達していなかったと思われる。また、他の民族では年と日の概念の間に月の満ち欠けによる「月」を導入したが、我が国ではそういうこともなく、年を主体としていたようだ。年には二至二分があり、それは4本柱の方形木柱列ではかり、年を十等分し「単位1」を36日(縄文人の好きな6の二乗かも知れない)とし、4年に一度21日(毎年5日が少ないのと4年に一度の正規の閏日を足す。)の閏月を10本の環状木柱列の玄関と称するところに挿入したのではないか。我がご先祖さまは背伸びしたことが嫌いでできる範囲で暦を作成したものと思われる。水野正好奈良大学名誉教授のように「縄文人にはそんな能力はない」と言われればそれまでだが、私見では日本人の特性は堅実に物事を処理するところにあったと思われ、日本プロパーな暦を作出したのではないか。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

天穂日命について

★はじめに

天穂日命は『記紀』によると天照大神と素戔嗚尊の誓約(宇氣比)により生まれた天照大神の五男神の第二子という。
『古事記』上巻(「天照大神と素戔嗚尊」)
速須佐之男命、乞度天照大御神所纒左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而、奴那登母母由良爾、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纒右御美豆良之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天之菩卑能命。自菩下三字以音。亦乞度所纒御𦆅之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天津日子根命。又乞度所纒左御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、活津日子根命。亦乞度所纒右御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、熊野久須毘命。
即ち、第一子 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。 第二子 天之菩卑能命。 第三子 天津日子根命。 第四子 活津日子根命。 第五子 熊野久須毘命、である。
この神の不名誉なところは、「思金神令思而詔「此葦原中國者、我御子之所知國、言依所賜之國也。故、以爲於此國道速振荒振國神等之多在。是使何神而、將言趣。」爾思金神及八百萬神、議白之「天菩比神、是可遣。」故、遣天菩比神者、乃媚附大國主神、至于三年、不復奏。」(『古事記』上巻「葦原中国の平定」)
とあって、「葦原中国の平定」が腰砕けに終わった兄の天忍穂耳命に代わりトップバッターとして指名されながら、「媚附大國主神、至于三年、不復奏。」とあることだ。多数説は職務放棄の不届き千万と解しているが、なかには彼我の能力の差からやむを得ない行動と擁護する向きもある。天忍穂耳命と言い天穂日命と言い、天照大神の五男神は思いのほかできが悪かったようだ。但し、『出雲國造神賀詞』(延喜式 神祇八 祝詞)では、異なった趣旨を説いている。曰く、
「出雲臣等我遠神 天穗比命乎國體見爾遣時爾 天能八重雲乎押別氐 天翔國翔氐 天下乎見廻氐 返事申給久 豊葦原乃水穂國波 晝波如五月蝿水沸支 夜波如火瓫光神在利 石根木立青水沫毛事問天 荒國在利 然毛鎭平天 皇御孫命爾 安國止平久所知坐之米牟止申氐 己命兒天夷鳥命爾 布都怒志命乎副天 天降遣天 荒布留神等乎撥平氣 國作之大神乎毛媚鎭天 大八嶋國現事顯事令事避支」
要するに、天穂日命は大所高所より豊葦原水穂國を見て、我が子天夷鳥命に布都怒志命を副えて天降り遣わして荒ぶる神をはらい平らげ、国作りの大神をも媚い鎭めて、大八嶋國の現事(あきつごと)・顕事(うつしごと。いずれも現実のこと)を事よさしめき(大八嶋國の統治を皇御孫命に奉ったと言うことか)、と言うのであろう。大八嶋國を建国したのは天津神ばかりでなく国津神も参画したというのであろうか。
我が国国家形成の始原の話であろうが、どうもはっきりしない。そもそも天穂日命が国家建設や出雲国に貢献のある人なら出雲大社とは同等とは言わなくともそれなりの天穂日命を祀る神社があっても良さそうなものだが、実際には能義神社(のきじんじゃ)しかないようだ。しかも、能義神社は祭神が天穂日命・大己貴命・事代主命と言い、本来の祭神は『出雲国風土記』意宇郡野城駅条に登場する野城大神と考えられている。野城大神と天穂日命は同一神という見解もあるが、こじつけか。『延喜式神名帳』には出雲国能義郡の「天穂日命神社」とある。また、『延喜式神名帳』出雲国意宇郡の「野城神社」ともある。「野城神社」と言うからには能義郡にあり、出雲国造家の祖神というなら「天穂日命神社」は意宇郡にあってしかるべきではないか。

★天穂日命はどこの人か

天穂日命は出雲国には縁の薄かった神ないし人物と思われる。おそらく現在の出雲国造家が出雲国に登場するまではまったく以て出雲とは関係のない神ではなかったか。出雲国の王と言おうか国造と言おうかその種の人はお家断絶を繰り返していたようだ。例として、『出雲國造神賀詞』では、大穴持命の御子は阿遅須伎高孫根命、事代主命、賀夜奈流美命は皇孫命の近き守神と貢り置きて(大和国在住)、天穂日命は『「汝、天穗比の命は、天皇命の手長大御世を、堅石に常石にいわい奉り、いかしの御世にさきわえ奉れ」と仰せ賜しつぎてのままに、』(出雲国在住)と言うが、はなはだ疑問だ。おそらく一族根こそぎ大和国へ連れて行かれたのではないか。次いで、『日本書紀』崇神天皇六十年秋七月の段に、出雲臣の遠祖出雲振根と弟・飯入根の出雲の神宝を勝手に大倭へ渡したと言う諍いから振根の系統が滅亡、さらに、『古事記』には第十二代景行天皇の条には、小碓命(をうすのみこと、倭建命)が出雲建を殺した話が見える。出雲氏と言っても同一の血統ではないと思われる。
そこで、天穂日命の出身地とか氏素性だが、天穂日命一族が勢力を持ったのは親子のまとまりから見て現在の鳥取県鳥取市一円ではなかったかと思われる。同市には、

天穂日命神社 因幡国高草郡 鳥取県鳥取市福井 祭神 天穂日命
天日名鳥命神社 因幡国高草郡 鳥取市大畑 祭神 天日名鳥命 素盞嗚命
阿太賀都健御熊命神社 因幡國高草郡 鳥取市御熊 祭神 御熊命 「アタカツタケミ クマノミコト」と読む。
大野見宿禰命神社 因幡国高草郡 鳥取市徳尾 祭神 野見宿禰

とあり、天穂日命一族を祀る神社が集中している。天日名鳥命、御熊命は天穂日命の子という。野見宿禰は天穂日命の子孫という。この地域にはもう一社著名な神社があり、宇倍神社という。社家は伊福部氏で千代川を挟んで因幡国法美郡に祭神武内宿禰が鎮座している。但し、宇倍神社の祭神については諸説がある。天穂日命神社と宇倍神社を比較してみると、「格式から見ると9世紀中頃までは、天穂日命神社が宇部神社よりも上位にあった。すなわち、因幡国内における中心的勢力はこの高草郡に本拠を於く因幡国造氏であった。」とある。即ち、天穂日命の子孫である因幡国造氏と大己貴命の神裔を称し、かつ、第八世を饒速日命(物部氏)とする伊福部氏とは対立していたのかも知れない。ただ、伊福部という氏の名は石工、あるいは、古墳造営業者を意味すると思われるので、野見宿禰も古墳造営業者として著名な人物で大野見宿禰命神社は千代川の川縁にあり、宇倍神社は古墳の上(双履石は古墳の一部という)にあるというので、野見宿禰は堤防工事を得意とし、伊福部氏は石の細工を得意として、野見氏は土木工事、伊福部氏は石材工事を行い、現在で言う公共事業に関わったのではないか。
一応、天穂日命が出雲国の人とは考えづらい。出雲国の人とする根拠は『記紀』以外に何もない。出雲国造家が天穂日命の子孫と名乗っているのはご先祖が因幡国高草郡からやって来たからではないか。出雲氏と称する家系は大和朝廷に痛めつけられ何度も断絶しており現国造家が因幡の有力者として出雲にやって来て出雲国の再建を果たしたのではないか。従って、出雲臣氏には古墳造営を得意とした人物が多かったのではないか。

★まとめ

天穂日命が天照大神の第二子とか、大国主命に媚びへつらったとか、大穴持命(大国主命)の祭主になったとか、などというのはみんなイカサマ神話で実際の天穂日命は因幡国高草郡の豪族で、土木作業や古墳造営の頭領だったと思われる。阿太賀都健御熊命神社一帯は玄武岩の産地で当御熊神社にみられる横型柱状のものは珍しいもので、鳥取市内にみられるほとんどが縦型柱状節理のものである。古墳造営には土、粘土、石材、水などの素材が必要かと思われるが、天穂日命の支配地である因幡国高草郡ではほとんどが調達できたのではないか。天穂日命の子孫である野見宿禰が土師氏の祖先と言われ、千代川を越えた対岸には石材加工の伊福部氏が本拠を構えていたと言うことは、『新撰姓氏録』では大和国・神別で、土師宿祢 贄土師連 尾張連 伊福部宿祢 伊福部連と記載されているところを見ても因縁浅からぬものがあるのではないか。但し、土師氏は天穂日命の子孫であり、伊福部氏、尾張氏は天火明命の子孫である。
古墳造営に関わった主なる地域の首長は丹波国の天火明命、但馬国の天日槍命、因幡国の天穂日命は美称の天と名前のしたの尊称の命(御事<みこと>の意という)を除いた、火明(ほあかり)とか、日槍(ひほこ)とか、穂日(ほひ)が本名であろうが、火明には「太陽光や熱の神格化」あるいは「<ホアカリ>は「穂赤熟」で、稲穂が熟して赤らむ意味(『古事記伝』)の意味が、日槍には「出石族(渡来系一族)が奉斎した「日矛/日槍」を人格化した」あるいは「元々は日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団」はたまた「「天日槍」とは、「ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(日の御子の名)」の日本名になるという説もある。穂日とは「<穂霊>の意味として稲穂の神とする説」あるいは「<火日>の意味として太陽神とする説」がある。いずれも火明には「太陽光や熱の神格化」、日槍には「元々は日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰」、穂日には「<火日>の意味として太陽神とする」と解する説があり、火明、日槍、穂日のそれぞれは日神(太陽神)に関わるものである。我が国には皇室の祖先神の多くは稲魂に関わる神が多いが、実際は古墳造営に関わるなど土木建設の地方豪族が皇室系図に取り入れられているようだ。しかも、天火明命、天日槍命、天穂日命はともに山陰地方の人であり、かつ、その遠い祖先は北アジアの満蒙の地から渡来したのではないか。彼らが招来した太陽神とは海洋太陽神だったか。天照大神とか高木神とか言う日本の農業太陽神とは違うようだ。日本の縄文産業としては海幸彦、山幸彦に代表される水産業と農林業、それに三内丸山遺跡の六本柱建物に代表される土木建設業だったらしい。新羅王子と名乗っている天日槍命は別にして、穂日、火明は石川県鳳珠郡能登町字真脇にある真脇遺跡に源流があるのかも知れない。同遺跡は「10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列(穂日の起源か)」とか、イルカ漁が盛んで「獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた(火明の起源か)」とか、「巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、(高木神の起源か)」などがあり、日本古来の神かも知れない。但し、高木神を祀る神社は九州北部に多いので九州北部は弥生文化の玄関口であるとともに縄文文化の最後の終着駅であったか。
一般に、「神話上ニニギの一族とされている天忍穂耳尊や火照命・火闌降命(ほすそりのみこと)・彦火火出見尊とは名前に稲穂の「ホ」がある点で共通している。」とあるが、やや持って怪しの説ではないか。天忍穂耳尊はともかくほかの神はみんな火照命・火闌降命・彦火火出見尊と火の字を用いており、本当に穂の意味なのかどうかは検討の余地がある。天照大神が人為的に創出された神としても稲魂の神ではなかったはずだ。それがどうして子孫が皆々稲穂の神になったのか意味がわからない。
古墳造営に山陰系の神(人物)が起用されたのは畿内系の人物がほとんど役に立たなかったからではないか。例として、当麻蹶速は垂仁天皇に野見宿禰と置き換えられてしまった。当麻蹶速は縄文人という説もあるが、野見宿禰が縄文人で当麻蹶速は弥生人だったのではないか。米、米、米の弥生人当麻蹶速は長弓をキリリと引き、100mを12秒くらいで走る縄文人野見宿禰には体力的にとてもかなわなかったのではないか。
結論とするところは、天穂日命は現代的に言うと鳥取市に本社を置く、天穂日建設工業株式会社(仮称)の会長さんで、『記紀』に書かれているような高天原から葦原中国に天降って大国主命に媚びへつらった神などと言うことは毛頭なかった。『記紀』の原著作者がただ単に因幡国の有力豪族「穂日」さんを天穂日命と名付けて天皇家の系図に追加したのである。穂日さんにとっては迷惑なことだったのかも知れない。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

天火明命のこと

★はじめに

天火明命は尾張氏の始祖と言うことになっているが、おそらく尾張氏を天孫族として天照大神の系譜につなげるために創出された神(人)ではなかったかと思われる。系譜上は『日本書紀』では天忍穂耳尊と高皇産靈尊の娘「栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)命」の間の子とされ(「一書曰、天忍穗根尊、娶高皇産靈尊女子𣑥幡千千姬萬幡姬命・亦云高皇産靈尊兒火之戸幡姬兒千千姬命、而生兒天火明命、次生天津彥根火瓊瓊杵根尊。其天火明命兒天香山、是尾張連等遠祖也。」『日本書紀』卷第二 第九段 一書第六)、天照大神の孫に当たる。一般には瓊瓊杵(ににぎ)尊は弟という。天孫降臨に際しては瓊瓊杵尊は華々しく活躍するが、天火明命はだんまりしたままである。「火明(ほあかり)」の意味だが、「太陽光や熱の神格化」とか、「<穂赤熟>で、稲穂が熟して赤らむ意味」とか言われている。太陽神あるいは農業神と言うのである。天火明命は尾張氏をはじめその子孫が多いが、物部氏でも時代が違うものの伊香色雄命という子孫の多い人物がいる。もっとも、天火明命と物部氏の祖である饒速日命とは同一の神ともいわれて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(『先代旧事本紀』)と言う名前も創出されている。でたらめもここに極まれりというような神名で『先代旧事本紀』の著者は藤原氏全盛時代でストレスが溜まってこんなことを言っているのではないか。『日本書紀』に「長髄彦が神日本磐余彦の元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は、昔、天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。神日本磐余彦と長髄彦は共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかった。」とあるので、天津神は天照大神系や饒速日命系などいろいろあるようなので、『先代旧事本紀』が天照大神の孫の天火明命と饒速日命を同一神とするのは論理上おかしい。
天火明命は『記紀』では事績らしいことが何もないのでどういうことをしていた人かは解らないが、以下、少しばかり検討をしてみる。

★天火明命と古墳造営一族

『新撰姓氏録』によれば火明命の子孫は完全に古墳造営業者に特化している。歴史的に名のある氏族を列挙してみると、
左京 神別 天孫 尾張宿祢、尾張連、伊福部宿祢、石作連など。
右京 神別 天孫 尾張連、伊与部、六人部、子部(宮中で雑事に奉仕していた子供を統率する伴、伴造は児部。践祚大嘗祭において蓋綱をとることに関与していた。)、丹比宿祢(反正天皇の名代丹比部の伴造)など。
山城国 神別 天孫 尾張連、六人部連、伊福部、石作、水主直、三富部など。
大和国 神別 天孫 尾張連、伊福部宿祢、伊福部連など。
摂津国 神別 天孫 津守宿祢、六人部連、石作連など。
河内国 神別 天孫 丹比連、若犬養宿祢、笛吹、身人部連、尾張連 、五百木部連など。
和泉国 神別 天孫 若犬養宿祢、丹比連、石作連、津守連など。
以上より火明命の子孫は『新撰姓氏録』に出てくるすべてが古墳造営に従事していたとは言えないが、有力氏族は古墳築造に関わっている。また、天火明命の本宗家は尾張氏と思われるが、尾張氏については、
1.尾張国造として熱田神宮を奉齊し、勢い頗る盛であった。但し、大宮司家はその後藤原南家の族である季範を女婿とし藤原氏に変わった。
2.系統のことなる一族が多数存在していた。
3.尾張国諸郡の郡司として多く名を残している。
4.無姓の尾張氏は大和・越前・備前・周防などの諸国に分布。
5.尾張部は河内・美濃・備前に分布。
などとあるが、肝心の尾張氏が古墳造営に携わっていたという古記録等は見当たらない。しかし、「前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たした。」とか「前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされた」というのは濃尾の雄だったと思われる尾張氏を抜きにしては考えられないと思う。即ち、尾張氏も統括責任者として古墳造営に関わったことは間違いないと思う。

★天火明命と手焙形土器

手焙形土器は今までに全国でおよそ720個ほど発掘されており、主なる出土地としては、中国・瀬戸内(岡山県)、近畿、東海が多く、一般的な分布としては中部日本が認められるという。用途は不明と言いながら、「覆いの内面に煤が付いているものが出土しており、何かを燃やして使うことがあり、祭祀に使ったものと考えられます。」という。

一応、起源・発祥地等については、

1.縄文土器説
縄文土器にも類似の土器があり、縄文土器が日本列島を東から西へ移動したのではないか、と言う説。手焙形土器類似の縄文土器には釣手土器あるいは香炉形土器がある。釣手土器の釣手の幅が広がって透かし状になったようなものを香炉形土器という。釣手土器の特徴としては、
a.出現は中部・関東地方を中心とした中期の勝坂式土器からという。
b.釣手土器は懸垂して使用されたものと考えられている。
c.内部に煤が付着した状態で検出された例がある。
d.呪術性や実用性を含めて、灯火具説、香炉具説が有力視されている。
ほかに、「縄文時代中期には、いわゆる手焙形土器(完形品)が見つかっている渚遺跡(岐阜県高山市久々野町渚奥垣内)」とある。 この説によると手焙形土器は我が国プロパーなもので東南アジアなどにある類似製品とは関係がないようだ。
2.近畿(河内国)発祥説
手焙形土器が一番多く発掘されているのは近畿地方で、最大発掘地は発祥地である、と言うもののようである。兵庫県立考古博物館のウェブサイトでは28個の兵庫県内発掘の手焙形土器が掲載されている。近江国等発祥説もあるが支持する向きが少ない。

結論としては、(財)岐阜県文化財保護センターが言う渚遺跡の記述が正しければ縄文土器説が正しいのであろうが、何分にも渚遺跡の手焙形土器は戦前(江馬ミサオ、 1937 「 渚出土縄文土器」『ひだびと』第五年第十号、とある)の話であり、失礼ながらそのまま信用していいものかは疑問である。

用途

手焙形土器の用途も発掘される場所によっていろいろ連想が膨らむようだが、あげたら切りがないので、一応、一般的な用途を列記すると、

1.暖房器具
2.照明器具
3.蚊取り線香ホルダー(害虫を焼く)
4.葬送や農耕儀礼に使用された
5.古墳の墳頂での儀式に使う
6.祭祀用具
7.香炉
8.小形で特殊な細工物などの加工道具
などがある。

私見としては、当該土器は古墳時代直前に出現し、古墳時代前期に消滅しているので、おそらく古墳築造の際の照明器具として使われたのではないか、と考える。無論、古墳は薄葬令(『日本書紀』大化二年(646)三月二十二日条)に「詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。古之葬者因高爲墓、不封不樹、棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而已。故、吾營此丘墟・不食之地、欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅鐵、一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。棺漆際會三過、飯含無以珠玉、無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也、欲人之不得見也。」と宣言し、そのあとにくどくどと述べているのでこの頃までは大型古墳が築造されていたのであろうから、その遙か前に消滅している手焙形土器は古墳とは関係がないのではないかと述べられる向きもあろうかと思われる。そもそも、古墳の照明についてはそれらしきことを『記紀』から抜粋してみると、

【古事記 上卷】
故刺左之御美豆良【三字以音下效此】湯津津間櫛之男柱一箇取闕而 燭一火 入見之時
故、左の御美豆良(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の男柱(おばしら)一箇(ひとつ)を取り闕(か)きて、一火(ひとつび)燭(とも)して入りて見る時に、
【日本書紀 卷第一 第五段 一書第九 原文】
于時闇也 伊奘諾尊 乃擧一片之火而視之 時伊奘冉尊 脹滿太高 上有八色雷公

古代の櫛は、縦長で歯の部分がとくに長く、おそらくヘアピンのように束ねた髷(まげ)を止めるための挿し櫛であったと思われる。『古事記』の文章の方が具体的で<みずら>を止めていた櫛の歯(当時は男柱と言ったようだ。)一本を折って火を灯したと言うのである。(話題の舞台は伊弉冉尊の墓の中)どのように着火したのか、また、当時の櫛は木製であったと思うがその素材は何であったのか。現在のマッチの軸木にはポプラ、シナノキ、サワグルミ、エゾマツ、トドマツなどが使われる、と言う。古墳時代になって松ヤニ等を集めて火を灯すと言う技術があったか、なかったか。

【日本書紀 卷第五 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇 原文】
十年秋七月丙戌朔己酉
乃葬於大市 故時人號其墓 謂箸墓也 是墓者日也人作 夜也神作 故運大坂山石而造 則自山至于墓 人民相踵 以手遞傳而運焉

「是墓者日也人作 夜也神作」とあるのは現代的に言うと、夜間作業を行っていた、あるいは、二交代制で作業をしていたと言うことではないか。いくら神とは言え月の明かりしかない夜に正確な仕事はできなかったと思う。そこで照明が必要になるのであるが、当時の屋外での照明方法としては松明(たいまつ)があったのではないか。後世には「野外用を松明(たいまつ)と称し、屋内用を脂燭(ししょく・しそく)と言う。」とある。もっとも、私見ではここに出てくる「人」は大和国の人であり、「神」は大和国以外の他国の人のことではないか。当時、大和国の人には石を加工する技術がなく、他の国から招いたものであろう。『日本書紀』垂仁七年秋7月にある「奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。」というのも當摩蹶速に石工の技量がなかったので出雲国の野見宿禰に与えたと言うことではないのか。おそらくこの土地には二上山も含まれていたと思われる。出雲国の野見宿禰と言うが因幡国一宮の神主家は伊福部氏(本業は古墳築造あるいは石工だったか。)と言い、あるいは因幡国の白兎の伝説と相まって因幡国の人だったか。但し、出雲国にも四隅突出型墳丘墓と言う独自の弥生墳墓がある。

★まとめ

まず、天火明命とは字義通り「火」を根源とする「熱」や「明かり」の神で、稲穂の神様ばかりが並んでいる天皇家とはまったく関係のない神ではないか。稲の前に火があったのであり、日本神話においては天火明命は古層の神であったと思われる。おそらく拝火教的なものが前にあり、日神教的なものは稲作とともにもたらされたのではないか。わずかに神社名で残っているのは「天照御魂神社」で祭神がほとんど天火明命である。丹波国天田郡には天照玉命(アマテルタマノミコト)神社があり、祭神は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊となっているが一般には天火明命と解されているようだ。おそらく但馬国の天日槍命と同じく天火明命も丹波国天田郡が本拠地の神ではなかったか。あるいは、天日槍命が「元々は日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団であったと想定する見方も存在する。」とあり、天日槍命などと言う神(人)はいなかったということである。天火明命も懸垂式照明器具か定置式照明器具かは解らないが祭祀具の照明器具あるいはその発する明かりを擬人化したものか。拝火教が中国に入ってきた時には日本も有史時代に入っており天日槍命と天火明命は直接には結びつかないようだが、天日槍命説話が遼河流域・華北東部・モンゴル・満州など東北アジアに広くみられる日光感精による懐妊説話なので天火明命も東北アジアからやってきた一団の人々かも知れない。しかし、火を神聖視する思想というのは世界中至る所にあると言うので天火明命も日本プロパーな神(人)かも知れない。
手焙形土器はそれまでの懸垂型照明器具(釣手土器)から石棚などを設け定置型照明器具(手焙形土器)に改良されたものではないか。改良の発端は古墳の石室内部の仕上げ工事を効率化しようとしたのではないか。手焙形土器が岡山県や近畿地方、東海地方で主に出土するのも古墳に関係があると思う。石室内部が広くなると工事にかかる時間も多くなり照明器具が必要になったと考えられる。懸垂型から手焙形にして覆いをつけたのは、中の火が消えないようにしたものか。手焙形土器に関してはその用途をいろいろ挙げる向きもあるが、現代的に言うと産業用に使われていたものを民生用に転換したものであろう。そして、一説を引用するなら手焙形土器が発する明かりがその後神格化されて天火明命と言われるようになったものか。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

丹波国天田郡には誰が住んでいたの

★はじめに

丹波国天田郡(現・福知山市)の『和名抄』に記される郷名は六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷、和久郷、拝師郷、庵我郷、川口郷、夜久郷、神戸郷と十郷があり、特に、前の四郷は古墳造営と関係するような気がして、どうしてこんなところに古墳造営業者が集中しているのかなと思っている。
六部は現代流に言うと土木工学における数学的管理を行い、
土師は墳丘の築造あるいは埋納土器の制作を行い、
但し、ここの土師は『日本書紀』雄略天皇十七年春三月丁丑朔戊寅、詔土師連等「使進應盛朝夕御膳淸器者。」於是、土師連祖吾笥、仍進攝津国來狹々村・山背国內村俯見村・伊勢国藤形村・及丹波・但馬・因幡私民部、名曰贄土師部。」にある丹波の贄土師を言う、と言う説がある。また、中央の土師氏は古墳造営の統括管理者で土石工事を担った。
宗部はサカあるいはスガあるいはソギ(削)の訛でサカなら語源的には〈サカシキ(嶮)〉〈サカヒ(堺、境)〉〈サカフ(逆)〉〈サキ(割)〉の原語のサとカ(処)とから成る等の説がある。しかし、坂といわれる場所が地域区分上の境界をなしたり、交通路の峠をなしたりしている事例が少なくない、とある。スガと解するなら、「州処(すか)」の意という。川岸・海岸の砂地や砂丘を言う。ソギなら土砂を削って墳丘築造に用いると言うことか。古墳造営的に言うと宗部とは古墳の墳丘用に土砂を手当てしたり、あるいは、用地選定などを行ったか。こちらは宗宜部首と言い中央の蘇我臣とは関係がないようである。
雀部は読みは『和名抄』のルビーとしては散々倍とか佐々伊倍とかがあるが、松尾大社文書に「さゝいへ」とあるので「ささいべ」を正としているようである。雀はミササギの当て字で「陵」即ち古墳のことか。ササギには小高い丘の意味があるという。読みはほかの文章ではササギとかササイの二通りが有力であったらしいが、また、ほかにもいろいろな読みがある。雀部で著名なのは仁徳天皇の名代氏族で雀部があり、膳部を担当した。雀部は古墳の造営完了後のメインテナンスを主に担当したものか。参考になる氏の名として近江国蒲生郡に佐々貴山(ささきやま・<みささぎやま>で古墳のことであろう)氏がある。あるいは、膳部で工事従事者の食事を調理していたのかも知れない。
以上の四氏は全国的に分布している。
六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷の地名が「部」とか「師」などの人間の集団にまつわる地名なのに対し、和久郷以下は地形地名のようである。石材工事業者と思われる石作とか伊福部(五百木部)などの文字がないのが残念ではある。但し、『先代旧事本紀』巻第五の天火明命の九世の孫「弟彥命」の弟に「若都保命.五百木邊連祖」とある。なお、尾張氏は古墳造営(前方後方墳)も得意だったらしく一族には、津守連、六人部連、石作連、身人部連などの名が出てくる。

★『先代旧事本紀』の諸氏の系図は信用できるのか

丹波国天田郡の六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷の四郷(四氏族)については『先代旧事本紀』巻第五の尾張氏の系図に天火明命につながる玉勝山代根古命と言う人物を祖とする天田郡四郷に似たような氏族が出てくる。無論、土師氏は表向きは天穂日命の子孫と言う野見宿禰を遠祖としているので六人部、宗宜部、雀部のグループには入っていないようだ。ところで、『先代旧事本紀』だが、「序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。」とある。現今でも「〇×詐欺」とか言って詐欺に引っかかりやすいのが人間の性(さが)だが、歴史の書物を見ているとその道の大家までが『先代旧事本紀』を引用している。浅学菲才の身なのでその顰み(ひそみ)にならうこととする。
早速であるが、『先代旧事本紀』の当該部分(巻第五)を引用すると、
九世孫-弟彥命.
妹,日女命.
次,玉勝山代根古命.山代水主雀部連‧輕部造‧蘇宜部首等祖.《山代水主<直>・雀部連・輕部造・蘇宜部首等祖が正で、直の文字が欠落したか》
神名帳云,山城國久世郡水主神社十座就中天照御魂神‧山背大國魂命神二座御相並祭.
今按天照御魂者,天照國照彥天火明尊‧山背大國魂者,御勝山代根古命乎.
又按姓氏錄,火明命之後‧榎室連祖-古麻呂,家在山城國久世郡水主村.
次,若都保命.五百木邊連祖.
次,置部與曾命.
次,彥與曾命.以上六柱,倭得玉彥命子也.
問題となるのは「玉勝山代根古命、山代の水主直・雀部連・輕部造・蘇宜部首等祖」なのだが、丹波国天田郡の十郷のうち六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷が類似しているので双方の関連性を説き、なかには、玉勝山代根古命は山代から丹波に渡り丹波国を開発後また山代に戻ったなどという見解もある。前述のように「『先代旧事本紀』は偽書」と江戸時代の国学者から指摘されたにもかかわらず、今になって「正」とするがごとき意見を述べる人物もいるようだ。曰く、『京都府の地名』(日本歴史地名体系第二六巻、平凡社刊。P326。雀部郷の項)『「日本地理志料」は「天孫本紀、玉勝山代根古命雀部連、蘇宜部首等ノ祖也、蘇宜部ハ即宗部也、与六人部氏為同系、其族居此、因名」と記す。天田郡内に宗部・六部・雀部の三郷が接近してあるのは、古代各郷の先住者がその祖を一にしたことと関係があるように思われる。』と。「同一の祖」とは玉勝山代根古命を言わんとするようであるが、ほかに丹波氏もその候補にあがるようだ。『続日本紀』延暦四年(785)正月二七日条に天田郡大領丹波直広麻呂の名が見え、丹波氏は丹後国丹波郡丹波郷を本貫としたと考えられているが、あるいは、丹波国天田郡でも支配的地位にあったと思われる。神社は式内社、天照玉命神社、生野神社、奄我神社、荒木神社のうち天照玉命神社が天火明命を祀り、奄我神社が天穂日命を祀るという。天照玉命神社は六人部氏、宗宜部氏、雀部氏が祀り、奄我神社は土師氏が祀ったと言うことか。

★まとめ

丹波国天田郡は数は少ないが縄文時代より遺跡が残り、
武者ヶ谷遺跡 福知山市堀 縄文時代 京都最古の縄文土器(刺突文小型丸底土器)
奥野部遺跡  福知山市奥野部 縄文時代 北部の旧期洪積層の谷(小字エンジョ)から早期縄文時代の有舌尖頭器が発見されている。
半田遺跡 福知山市半田 縄文後期 桑飼下式を中心とする縄文土器のほか、打製石錬、打製石斧、磨製石斧、敲石、石錘などの石器類が出土している。
上野平遺跡 福知山市石原上野平 石器、土器(縄文、弥生、土師器、須恵器の土器及び土器片。)
などがあり、弥生時代の遺跡としては今安(いまやす)、新庄、厚(あつ)、前田、土、中、興(おき)などで発掘されている。古墳時代になると至る所に古墳が築造され、代表的なものとして、
前田宝蔵山古墳 四世紀の甕棺
猪崎因幡山古墳 五世紀の前方後円墳。人物、鳥、馬、琴、靭(うつぼ、ゆぎ)などの形象埴輪の破片。
報恩寺奉安塚(ほうあんづか)古墳 後期古墳。鏡、勾玉、鉄刀、鉄工具類、馬具類、須恵器等の遺物が出土。馬具類は、鐙(あぶみ)を除く金属部が残欠を含めてほぼ完存している、として朝鮮文化との近縁性を説く見解もある。そのためか、由良川沿岸には、阿良須、有路(ありじ)、荒河(あらが)、荒倉など、ARで始まる発音の地名が多いことから朝鮮語の影響と見る向きもある。但し、阿良須は本字は蟻道(安里知)で、蟻巣と変わり、転訛して阿良須となったと言うので阿良須と有路は元は同一語であったのではないか。従って、有路を割愛する。難癖をつけるわけではないが、この「あら」は漢字で書くと「新(あら)」となり、当該地は洪水被害が多く、洪水があるたびに新しい地形が現れ、「あら××」と名付けられたのではないか。
福知山盆地の洪水被害だが、盆地内を流れる由良川は盆地出口から河口まで狭く勾配のない峡谷が続き、大量の降水をさばけず盆地内に滞留するため氾濫原の広さと相まって洪水被害が甚大であった。それは近代になって始まったことではなく、縄文・弥生の古代から続いてきたものと思われる。古代にあってはその復旧作業はほとんど人力に頼り、莫大な労力と時間を要したことと思われる。当然その回数を重ねるうちに技術も向上し現代的に言うと早くに土木工学の泰斗も現れてきたのではないかと思われる。その代表が、六人部、土師、宗宜部、雀部だったのではないか。これらの人々は大和国で大型古墳(箸墓古墳か)を造営する際、中央に召集され、現在の城陽市に住まわされたのではないか。そこには、玉勝山代根古命がいたと思われるが、「玉勝山代根古命、山代の水主直・雀部連・輕部造・蘇宜部首等祖」とあり丹波国天田郡からやって来た六人部、土師、宗宜部、雀部とやや構成が違う。丹波国天田郡の人々は古墳造営に関わった人々と思われるが、玉勝山代根古命の子孫は必ずしも古墳造営とは関係がないかも知れない。玉勝山代根古命の直系は水主直と思われるが、水主には1.水の神2.井戸掘り係3.用水路管理4.飲料水管理5.厨房係など諸説がある。水主氏は栗隈大溝(『日本書紀』には仁徳朝と推古朝に大溝が開削されたとある。)の開削に尽力した、とする説が有力で、用水路の管理者だったと思われる。しかし、私見では古墳造営にも水が必要で(例、土砂、石材などの材料の運搬に水路を設け筏等に貨物を載せて運ぶ、あるいは濠に注水する、飲料水を確保するなど。但し、濠は造営当初は空堀と言う見解もある。)この水主氏も古墳造営に関わったのではないか。あと、軽部氏だが、軽部(かるべ)=允恭天皇太子木梨軽(きなしかる)皇子の御名代部とする説。しかし、玉勝山代根古命は允恭天皇より遙か前の時代にいた人物で軽部と名乗る前の軽部氏が何をしていたかは不明。これは後世のこととは思うが、縄を編んで畚 (もっこ) のようにつくった軽籠 (かるこ) と呼ばれる運搬具を用い、これに荷物を載せ、棒を通してかついで運んだ軽子即ち軽部のことか。
以上をまとめてみると、丹波国天田郡の氏族と山城国久世郡の氏族との氏の名の類似性だが、おそらく丹波国天田郡の氏族が古墳造営のため招集されて山城国久世郡に定住し、旧来の氏族と一体化して『先代旧事本紀』は玉勝山代根古命の子孫としたのではないか。従って、野見宿禰が現れる前の古墳造営の担い手は丹波国天田郡の人々であり、古墳が頗る頑丈にできているのは度重なる水害にもめげず技術向上を図った丹波衆の努力のたまものではなかったか。日本では技術的なことになると何でも朝鮮人や中国人を引き合いに出すが、それはなかったのではないか。古墳時代草創期の古墳築造は部分的には半島からの土工や石工が加わったと思うが、多くは日本人だけで行われたものと思われる。箸墓などは墓作り工人がどこからともなく現れ、パッと築造し、パッといなくなった、と言う感想を持たれる大家もいるようだ。よって、『日本書紀』が言う「「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。」というのは信じがたい。古墳作りを主導した丹波の人はやや持って縄文系の人であり、大陸や半島からやって来た弥生系の人とは違うのではないか。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

葛城襲津彦と大伴狭手彦

★はじめに

葛城襲津彦と大伴狭手彦の共通点と言えば、双方とも朝鮮半島に出陣し成果を上げた武将である。とは言え、『日本書紀』によれば葛城襲津彦は「新羅王の人質を護送中に対馬にて新羅王の使者に騙されて人質に逃げられた。」とか、『百済記』逸文によると「新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣されたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪(襲津彦のこと)を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせた。」とか、「天皇は帰化を希望している弓月君の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、三年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。」とか、これが応神天皇の朝鮮半島における後継者かと思うと、現代の口の悪い人に言わせると、とんまでアホと違うか、と言われそうな人物である。そこで『日本書紀』の編者は汚名挽回とばかりに正統・葛城襲津彦として時代は下るが大伴狭手彦を描いたのではないか。無論、葛城襲津彦は4世紀末から5世紀前半頃の人と推定されており、大伴狭手彦は6世紀中頃の人物と推定されている。おそらく二人の年代差は100年以上あり、また、一般には二人は実在の人物であると考えられている。二人の事績を見ても葛城襲津彦はへまばかりしており、それが延々と葛城襲津彦の事績として書かれているが、大伴狭手彦の方は名家出身の優等生らしく失敗はないが「高句麗討伐」などは伝承の誇張として非難されている。ここで両名の事績を簡単にまとめておくと、

葛城襲津彦

神功皇后5年3月7日条
新羅王の人質の微叱旱岐(みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。

神功皇后62年条
新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』を引用する。

『百済記』逸文
壬午年(382年)に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという。
また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという。

応神天皇14年是歳条
百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。

応神天皇16年8月条
天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。

仁徳天皇41年3月条
天皇は百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。

以上を見るとずいぶんと長寿の人だったようで、その記録は神功皇后5年(在位神功元年から神功69年)から(応神天皇:在位応神天皇元年1月1日 – 同41年2月15日)、仁徳天皇41年までにわたり、ざっと見積もっても146歳と言うことになり、話半分としてもおそらく武内宿禰のモデルは葛城襲津彦ではなかったか。パッとした話はないが、これは『日本書紀』の編者が『百済記』に惑わされたもので事実とは考えづらい。何分にも葛城襲津彦の子孫は男性なら大臣、女性なら皇后、皇妃などとなっており、トンチンカンな人の子孫がそんな高い地位につけられないと思われる。それに葛城襲津彦は朝鮮半島専門の重臣のように書かれているが、内政の重臣としても活躍したのではないか。
『百済記』は沙至比跪は新羅討伐に派遣され新羅の美女二人に惑わされたと言うが、これは後述の大伴狭手彦と松浦佐用姫の話を誤解したものではないか。「一云」とあって、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないので石穴に入って自殺した、などと言っているが、これは襲津彦が亡くなって古墳に埋葬されたということを言っているのであって『百済記』の曲解である。もし『百済記』が言っていることが正なら襲津彦はそんなに長寿ではなく、神功皇后の時代に政治の表舞台から遠ざかってしまったはずである。『日本書紀』が言っている応神、仁徳両朝の事績とはマッチしないだろう。とにもかくにも『日本書紀』が言っている葛城襲津彦は応神、仁徳両朝にあって朝鮮半島で武人として活躍した一団の人があって、その主将ではなかったかと思われる。『古事記』で武内宿禰の子とされる、羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、若子宿禰などは葛城襲津彦の配下の将軍だったのではないかと思われる。

大伴狭手彦

宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った。

欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)。

『日本三代実録』貞観3年(861年)8月19日条の記事にも見えており、狭手彦の献じた高句麗の囚が山城国の狛人の祖となったという。

『肥前国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻5には、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられている。

宣化2年の「新羅の任那への侵攻に際し、大伴狭手彦を派遣、撃退したという。」 説話であるが、一説に「欽明天皇の即位は辛亥年となって先の継体没年(25年辛亥<531>・日本書紀)とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。」というつれない説もあり、そうなれば狭手彦の派遣もあり得ないと言うことになる。しかし、『日本書紀』原文は「二年冬十月壬辰朔 天皇 以新羅冦於任那 詔大伴金村大連 遣其子磐與狭手彦 以助任那 是時 磐留筑紫 執其國政 以備三韓 狭手彦往鎭任那 加救百濟」とあり、これもどこからか持ってきた文章かと言うことになるのだが、思い当たるのは『好太王碑文』の「倭の辛卯年(391年)における三韓征伐」が考えられる。三韓征伐の日本側記録の主役は神功皇后であるが何せ実在性にも疑問が呈されており、ここでは神功皇后は横に置き応神、仁徳両帝が新羅出兵を行ったとする。応神、仁徳両帝は『記紀』では親子とされるが、実は兄弟ではっきりした古代の兄弟相続の形で現れるのはこの兄弟で、次の世代は末弟の子供が継ぎ(仁徳の次は、履中、反正、允恭)、(允恭の次は、安康、雄略)、(雄略の次は、清寧<清寧天皇には後継者がいなかった>)、後継者がいるときは問題ないが弟や子のない天皇は問題を起こす。一応、三韓征伐の時は応神天皇が半島へ渡り戦闘部隊を指揮し、仁徳天皇が後方支援(兵站)を行ったようだ。大伴狭手彦の新羅撃退の時は磐と狭手彦は、磐が兵站業務を担い、狭手彦が前線業務を担ったものであろう。こういう高度な軍事手法は軍事氏族と言われる大伴氏が継承していたのかも知れないが、大伴氏が天皇家に従属するようになったのは大伴室屋の時代からと言う説(丹羽基二説)もあり、応神・仁徳の時代に大伴氏が国政に関与していたかは不明。この頃は史上に出てくるのは武内宿禰とか葛城襲津彦を含んだ武内宿禰の子供たちが活躍しているようになっている。

★まとめ

長々とくだらないことを書いたので、某歴史作家の言うように「長々と書くと読者に嫌がられる」という説を採用し、まとめてみることにする。
1.まず、『百済記』に出てくる、沙至比跪(さちひこ)と『記紀』に出てくる狭手彦(さてひこ)だが妙に似た名前である。『日本書紀』にある大伴狭手彦の説話がいい加減な話とするなら、あるいは原話は三韓討伐の話だったか。
2.『百済記』に言う、迎えの新羅の美女2人の話だが、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との話を脚色したものか。
3.狭手彦の「高句麗討伐」は伝承の誇張と非難されているが、実態は日本的に言うと国造や縣主の屋敷を攻撃したのに彼我の文化の差で王宮と勘違いしたのかも知れないが、三韓討伐の話と類して高句麗が出てくる。
4.狭手彦の説話は安閑・宣化朝なんてなかったというなら虚構と言うことになるのだろうが、狭手彦の事績は葛城襲津彦と比べ非常に少なく(新羅撃退、高句麗討伐、弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話)若くして亡くなったとは思う。しかし、『新撰姓氏録』によればその子孫に「神別 左京 榎本連 – 道臣命十世孫の佐弖彦の後。」とあり、「刺田比古神社」の祭神の一神という。榎本姓は和歌山県や淡路島に多いとされ、関西近県では和歌山県南部・三重県南部、奈良県御所市(旧:榎本・金剛山の麓にあったようだが不明。)あたりが発祥の地か。和歌山県と淡路島は大伴氏と結びつく地域か。「刺田比古神社」の祭神は古文書喪失のため本来の祭神は不明と言うが、刺国大神、大国主命などが有力である。神社側は「古屋家家譜」では道臣命の父を刺田比古命とし、道臣命については「生紀伊国名草郡片岡之地」と伝える。この記載から刺田比古神社側では、本来は祖先神としてこの刺田比古命を祀ったものと推測している、として刺田比古命を祭神としている。岡の里古墳があり出土した土器の形状から6世紀頃と推測されており、刺田比古神社や大伴氏との関係が指摘される、と言う。要するに、これらの説は大伴氏は現在の和歌山県出身と言いたいようだ。
5.葛城襲津彦に関しては『記紀』にはその実態が正確に表されていない。おそらく『百済記』に引かれていい加減な作文になったのだろう。
6.以上より葛城襲津彦と大伴狭手彦を比較してみると『日本書紀』の編者はでたらめな葛城襲津彦像を作り上げながら、大伴狭手彦のところで少しばかり修正を加え本来の襲津彦像に仕立て上げたのであろう。けしからん話とは思う。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

葛木氏について

★はじめに

葛城氏については葛城襲津彦以降の葛城氏の興亡について論じる書物は多いが、それ以前のことについてはあまり興味を示さないのが現今の学説の主流かとも思われる。襲津彦(そつひこ)、葦田宿禰(あしたのすくね)、玉田宿禰(たまたのすくね)、円大臣(つぶらのおおおみ)の四代で滅亡したようである。葛城氏自身は『古事記』に葛城襲津彦の子孫として「葛城長江曾都毘古(そつびこ)は<玉手臣、的(いくは)臣、生江(いくえ)臣、阿藝那(あぎな)臣等の祖なり>」とあり、円大臣が雄略天皇に滅ぼされてお家断絶となったようだ。これには後日譚があり、蘇我馬子は何を血迷ったのか図々しくも「「葛城縣者、元臣之本居也、故因其縣爲姓名。是以、冀之常得其縣以欲爲臣之封縣。」と言いだし、推古天皇に拒否されている。馬子が蘇我馬子ではなく葛城馬子とでも名乗っていたらその言い分にも一理はあったかもしれないが、遠い先祖は同じ(それも蘇我馬子がとりまとめた系図と思われる)でも、お門違いの申し立てと言うべきものだろう。また、存在していないはずの葛城氏について『新撰姓氏録』は、

左京 皇別 葛城朝臣 朝臣 葛城襲津彦命之後也 日本紀。続日本紀。官符改姓並合。

太政官符により改姓したというのであろうが、一説に、「<葛城朝臣>は忍海原連から朝野宿禰を経たのちの改氏姓であり,渡来系氏族であったと考えられる(天武紀10年4月庚戌条・続紀延暦10年正月己巳条)」とある。どうして渡来人の子孫が「皇別」とか、「葛城襲津彦命之後」とか名乗り、太政官がそんなことを認めているのか。一説は間違いで朝廷は、一旦、滅亡としながら、また、復活というのであろうか。一般常識では考えられぬ。
葛城襲津彦に関してはほかに襲津彦の時代は未だ氏の名はなく、葛城襲津彦の葛城は地名であるとするもの。また、欠史八代の天皇には葛城の地に宮を置く天皇があるが、
綏靖天皇の宮は「葛城の高岡宮」(古事記綏靖段)・「葛城の高丘宮」(綏靖紀元年正月己卯条)
安寧天皇の宮は『日本書紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、『古事記』では片塩浮穴宮(未詳。奈良県北葛城郡、現・大和高田市片塩町か)
孝昭天皇の宮は『古事記』では葛城掖上宮、『日本書紀』では掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)
孝安天皇の宮は『日本書紀』では室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)、『古事記』では葛城室之秋津島宮
とある。
これらの初期の宮や天皇陵が葛城地方に措定された経緯については、当地にも勢力を拡大した蘇我氏(推古紀32年10月癸卯条・皇極紀元年是歳条)による最初の国史編纂事業(天皇記・国記)にかかわってのこととする説がある。この説によれば欠史八代の時代は葛城王朝の時代などというのは成り立たないと言うことだろう。欠史八代の時代は資料や文献が少ないのであったのかなかったのかや蘇我氏あるいは飛鳥官僚の作文だったのかは判断ができないというのが現実かと思う。
私見がここで問題にする葛城氏は襲津彦の前の時代の葛城地方にいて畝傍とか磐余とか橿原とか言われる地域の大王だった神武天皇に対抗した葛城氏を言う。

★葛城の地名

「葛城」の文献初出は『日本書紀』神武天皇
「戊午年九月天皇、祇承夢訓、依以將行、時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、」
「己未年春二月因改號其邑(高尾張邑)曰葛城。(又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。)
「二年春二月復以劒根者、爲葛城國造。」などと神武天皇の時代より見える。
以上より判断するならば、神武天皇の頃は高尾張邑と葛城邑が混同されていたようで、あるいは、高天原の比定地の一つとされる「奈良県御所市高天(葛城・金剛山高天台)」を高尾張と言い、その台地の下を葛城と言ったものか。「皇軍結葛網而掩襲殺之」というのは葛城の地名より類推されたものであろう。
剣根が葛城国造になったというのであるが、一説によるとこの国造氏は小国造と言い、奈良県葛城市葛木の地が発祥か。但し、葛木の名は、明治維新後に桑海村と正道寺村が合併してできた葛木村が基盤となっ ています、とある。とは言え、葛木御県神社が鎮座しているので、この周辺が葛城県の中心であったとする説もある。
葛城の語源であるが、「カ」(高いところ)、「ツラ(ヅラ)」(連なる)、「キ」(場所を表す接尾辞)で、二上山、葛城山、金剛山が連なる金剛山地を意味したものか、はたまた、「カ」(カハ<川>の下略)、「ツラ」(~のほとり)、「キ」(場所を表す接尾辞)で、川の畔を意味したか。「カ」(高いところ)、「ツラ(ヅラ)」(蔓)、「キ」(場所を表す接尾辞)で、蔓が多く生えていた高地の意味か。『日本書紀』は蔓説のようである。葛木御県神社のあたりが「葛城」地名の発祥地なら「川(高田川)のほとり」ほどの意味ではないか。京都の桂も桂川のほとりにある。

★葛城にはどんな人がいたの

『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀戊午年九月に、磯城邑には磯城八十梟帥がおり、高尾張邑(葛城邑)には赤銅八十梟帥がいた。これらの人々はみんな天皇と戦おうと思っている。
『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀己末年二月に、高尾張邑には土蜘蛛がいて、その人となりは短身で手足が長い。侏儒と相似ている。皇軍は葛の網を結(す)いて襲い殺した。邑の名前を葛城邑と改めた。
これを見れば当時の大和盆地には東の大関(磯城邑・倭国)には磯城八十梟帥、西の大関(高尾張邑・葛城国)には赤銅八十梟帥がいた。盆地中央南部大和三山々麓には一人横綱の神武天皇がいた。このほかに高尾張邑には土蜘蛛がいて短身、手足長く、侏儒に似ると言う。
何か『魏志倭人伝』の読み過ぎか、とも思われる話だが、同じく神武天皇の論功行賞に、珍彦(椎根津彦)には倭国造、剣根には葛城国造に任じられた。神武天皇の時代に国造などという制度はないと説く向きが多い。虚説と言うことになるのだろうが、ここで読み取るべきは、大和盆地は当時にあって倭国と葛城国と言う上部組織があって、その下に県という組織があったようである。ここでも異論を唱える人がいて国も県も同列であるという見解もある。神武天皇条には猛田県(縣主は弟猾)と磯城県(縣主は弟磯城)が出てくる。県は天皇家直轄領(水田)という見解もある。
以上を総括すると、磯城八十梟帥(倭国)、赤銅八十梟帥(葛城国)はともに一般的な弥生人であって、高尾張邑の土蜘蛛は旧石器時代からの縄文人で、天皇氏は縄文人・弥生人の中間あたりの人と言うべきか。水稲稲作の点から見ると葛城国は倭国よりその導入を先んじて行い、報道では「奈良県御所市の中西遺跡を調査中の県立橿原考古学研究所は8日、弥生時代前期(2400年前)の水田跡約9000平方メートルを新たに見つけたと発表した。これまでの調査で発見された水田跡は計2万平方メートルを超え、弥生前期では最大。」(2011/11/8付日本経済新聞)とある。また、高尾張邑(葛城邑)には赤銅八十梟帥がいた、と言うのも赤銅とは青銅のことと思われ、青銅器も葛城国が先んじていたと言うことなのだろう。倭国と葛城国ではその差は厳然としてあったようである。しかし、天皇氏はその後倭国と同盟し、木津川水系や淀川水系の豪族と同盟や協商を結んで畿内一円に勢力を拡大したようである。大和朝廷の勢力が拡大する過程で葛城国は消滅してしまったのだろう。但し、地名は残った。

★まとめ

磯城八十梟帥や赤銅八十梟帥の末裔はその後どうなったのかと言うことだが、天皇氏直臣の珍彦(倭国造)や剣根(葛城国造)がその地位に取って代わり、支配者としての地位はなくなったのだろう。珍彦、剣根の子孫は「大和宿禰」とか「葛木」とか言う氏の名で『新撰姓氏録』に見える。葛城氏と葛木氏の関係だが、葛城襲津彦に関して『紀氏家牒』逸文では荒田彦(葛城国造)の女の葛比売が襲津彦の母という。しかし、『記紀』には記載がない。特に、『日本書紀』では襲津彦の系譜の記載はない。『新撰姓氏録』で、「左京皇別 葛城朝臣 – 葛城襲津彦命の後。」というのは眉唾物であろう。おそらく、公式には葛城氏はお家断絶となっている。葛城氏は武内宿禰の子孫というのは少しばかり苦しいが、応神天皇の頃に葛城国で勃興し、雄略天皇の御代に滅亡した一族なのであろう。
遺跡については、縄文晩期から弥生早期の奈良盆地の代表的な遺跡として、倭国の領域では橿原遺跡(橿原市畝傍町)、葛城国の領域では竹内遺跡(葛城市竹内。旧・當麻町竹内)、両国の中間的領域では東安堵遺跡(安堵町東安堵)がある。
橿原遺跡については、畝傍山東麓に広がり、縄文晩期中葉から後葉の土器が多量に出土し、特に、西日本では珍しい土偶が多量に出土した。ほかに特筆すべきものとしては、タイ、ボラ、スズキ、フグ、エイなどの魚類の骨、クジラの骨なども出土し、大阪湾岸地域との交易が想像されるという。遺物包含層中には大型の土器と獣骨類のほか木炭がしばしば混在して出土し、更に磨製石斧、敲石、打製石斧、砥石などが集中して出土する箇所がある。果実では多量のイチイガシの果実が出土している。出土する土器の交流範囲は北は関東や東北地方から南は九州地方中部まで広範な分布を有している。
竹内遺跡については、縄文前期から弥生、古墳にいたるまで、地点を変えながらも継続して営まれた拠点集落である。出土遺物は縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、石製品(紡錘車、双孔円盤、石庖丁)、木器(建築部材)、動物遺存体(ウマ(歯))など。縄文晩期には土壙墓群や配石遺構が検出され、祭祀センターとなったか。
東安堵遺跡については、縄文中期末から晩期の低地部に立地する遺跡。土器や多量の植物遺体が出土。どんぐり(クリ、コナラ、アカガシ)、他の堅果(トチノキ、オニグルミ)。晩期の土器は終末の凸帯文土器である。
橿原遺跡は出土する石器や土器、その他の遺物も種類が多く、土器の交流範囲も当時としては全国的なものである。検出された魚類の骨は大阪湾岸地域との交易のたまものとも思われるが、あるいは、道臣命(大伴氏)が神武天皇(天皇氏)にプレゼントしたことの痕跡か。政治的には磯城国の方が優位にあったのではないか。竹内遺跡は長期間にわたって葛城国の拠点集落であったようだが、こちらも豊富な出土物があるが、御所市の葛城臣氏の台頭とともに衰退に向かい、葛木国造は祭祀のみを行うようになったようである。
宮都については、確実な遺跡は藤原京からで、それまでの『日本書紀』に書かれた宮都の推定地は、桜井市13、高市群明日香村9、橿原市7、御所市3、天理市2、大和高田市、磯城郡田原本町、奈良市、北葛城郡広陵町が各々1となっている。
以上よりまとめてみると、奈良盆地は旧石器時代よりそれなりに栄えており東部の倭国、西部の葛城国、南部の磯城国(敷島の大和国から勝手に推測)が鼎立していたのではないか。推定宮都で俄然多いのが南部でほかの地域はまばらだ。特に、北部は有力な豪族が輩出しなかったらしくほとんど宮都が設置されていない。ここでも奈良盆地南部の磯城国が大和国の本宗の地位にあったと思われる。
大和国の倭国造や葛城国造のその後であるが、天皇氏に主導権を握られると「祭政」の「政」の方は天皇氏に取り上げられ、「祭」の主催者だったと思われる。
『新撰姓氏録』によると、
倭国造氏は、
大和国 神別 地祇 大和宿祢 宿祢 出自神知津彦命也 神日本磐余彦天皇。従日向地向大倭洲。到速吸門時。有漁人乗艇而至。天皇問曰。汝誰也。対曰。臣是国神。名宇豆彦。聞天神子来。故以奉迎。即牽納皇船。以為海導。仍号神知津彦。[一名椎根津彦。]能宣軍機之策。天皇嘉之。任大倭国造。是大倭直始祖也
珍彦:うずひこ、推根津彦:しいねつひこ、神知津彦命:かむしりつひこ、は同一人物で、倭(やまと)は、大倭、大和、大養徳とも書き、姓ははじめは「直」その後、連、忌寸、宿祢となったようである。大和(おおやまと)神社の神主は長尾市を始祖とするが姓は大和直で大和の国造を兼ねる。『続日本紀』和銅七年(714)条に大倭忌寸五百足を氏上として神祭を司らしめた、とある。この一族からは有力な氏人が出ている。
葛城国造氏は、
大和国 神別 天神 葛木忌寸 忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也
河内国 神別 天神 葛木直   直  高魂命五世孫剣根命之後也 (こちらが本宗家という説もある。)
葛木国造氏と葛城臣氏の関係だが、おそらく無関係の関係で両氏の出身地は葛木国造氏は現在の葛城市竹内あるいは葛城市葛木あたりで、葛城臣氏は御所市名柄あたりかと思われる。葛木国造氏は小国造で、姓は、一応、直、連、忌寸と順当に進んだようだが、大和朝廷からは一顧だにされなかったか。もし、河内国の葛木直が葛木氏の本宗家と言うことなら、蘇我馬子が葛木県(葛城襲津彦の支配していた現在の御所市界隈を言うのであろう。葛城氏直系の子孫はいない。)の押領に成功したなら葛木氏の領地をも押領しようと河内国へ追いやったものであろう。しかし、この計画は推古天皇に払いのけられたもののようである。押領魔の蘇我馬子に比べ葛木氏の子孫には有為な人がいたようで、葛城連戸主(へぬし、と読むか。後に宿祢)は、妻和気広虫( 和気清麻呂の姉)の献言によって恩勅が降り、京中の孤児に葛木連の姓を与え、戸主(へぬし)の戸に編入したと言い、また、恵美押勝の乱で飢疾した棄子八十三児を収養し、彼らに葛木首の姓を賜ったという。
天下国家も大事だが、葛木連戸主・和気広虫夫妻のように本人の意志とは関係なく奈落の底に突き落とされた孤児たちをすくい上げた行為は称賛に値すると思う。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ