大国のこと

★はじめに

「大国」などと言えば大国主命の名が浮かんでくるが、この場合の大は「多」の意味(古代にあっては大と多の区別はなかったという)で、大国主とは「多くの国の主(あるじ)」を指すものと思われる。即ち、「大きな国の一国の主」の意ではないと思う。そのためか、大国主命にはたくさんの別名がある。大まかに列挙してみると、

大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神・・多くの国の王
大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・・大きな古墳に眠る神
大己貴命(おほなむち)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・・多くの国(名前)の所有者
八千矛神(やちほこ)・・軍神
葦原醜男・葦原色許男神・葦原志許乎(あしはらしこを)・・武神
大物主神(おおものぬし)・・多くの物・心を支配する神
大國魂大神(おほくにたま)・・多くの国の産土神
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)・・地上世界を創造した神
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)・・幽界の主宰神
杵築大神(きづきのおおかみ)・・大社(おおやしろ)のある地名に基づく神名

多くの角度から名付けられており、単純にあっちの地名、こっちの地名という地名に基づく別名ではないようである。しかし、大国主命は父神を天之冬衣神と言い、母神を刺国若比売と言い、両神は縄文時代の人物かと思われるような名である。冬衣とは冬物の衣料を想像し、寒冷地の人かとも思われる。縄文文化は寒冷地の方が優れていた。また、刺国とは焼畑農業の用語と聞いたような。「小手指の「サシ」は焼畑という意味です。原野を開墾した土地につけられた地名です。」とある。東日本に多い地名で水田(弥生文化)以前の焼畑(縄文文化)農業を言ったような感じだ。天之冬衣神と大國主神を祀っているのは重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ・石川県輪島市河井町)と言い、刺国若比売の墓は宮木諏訪神社(長野県辰野町宮木。刺国若比売命陵)にあるという。国造りの神、農業神、商業神、医療神などと当時としては先進的な領域の神の親神がこんな前弥生時代的なところに縁があるとは驚きだ。現在の日本文化の基層には縄文文化と弥生文化があるという。その混合文化を創り上げたのが出雲国であり、大和国へやって来た出雲の神々だったか。

ところで、ここで言う「大国」とは大国主命のことではなく、地名の「大国」である。「大国」地名は割と多かったようで、『和名抄』では以下の地名が載っている。

山城国宇治郡大国郷(山科川・宇治川)
河内国石川郡大国郷(石川)
近江国愛知郡大国郷(愛知川)
播磨国印南郡大国郷(加古川)
石見国邇摩郡大国郷(潮川)
筑前国席田郡大国郷(御笠川・那珂川)

以上の大国郷の語源と言えるべきものは、『播磨国風土記』(印南郡大国里)は「百姓の家が多くここにたむろしていた。だから大国という。」と言い、『石見八重葎(いわみやえむぐら)』(石田春律著・文化十四年)では「石見の名始めて此村より発る故」「又は、大國魂命神社が鎮座」と言うが、『播磨国風土記』はともかく、『石見八重葎』は意味不明と言うほかない。一般には、1.広大な国土(領域)、2.住民や人家の多いところ、3.大は美称、国は一定範囲の地域、と解されているようである。大国郷が各々の国や郡の中心地だったとは思われず、「大」も「国」も言葉の原意を表しているとは思われないので、結局、3.の大は美称、国は一定範囲の地域と解釈するのが正解か。

★大国郷の解説

大国郷は近畿地方が主力でそのほかに石見国や筑前国にある。いずれの大国郷も上述してあるように河川に沿ってあり、水田稲作と関係があるのではないか。あるいは、最近はやや慢性化しつつある「梅雨前線に伴う大雨及び台風による豪雨」のような大雨洪水による河川の氾濫が徐々に耕地面積を広げ、大国郷という地名になったか。大国郷は一般的に平地や盆地平坦部にあり、一望して「広大な村」となり大国となったのかも知れない。
「大国」の文献初出は【古事記】(中巻、「伊久米伊理毘古伊佐知命」段)にある、「又娶山代大國之淵之女 苅羽田刀辨」とか【日本書紀 卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇】にある、「卅四年春三月乙丑朔丙寅 天皇幸山背 時左右奏言之 此國有佳人 曰綺戸邊 姿形美麗 山背大國不遲之女也」とかがもっとも古いものではないか。「山代大國之淵」とか「山背大國不遲」とかあるが、これを後世的な郡郷制で表記するならば、「山城国大国郷」となるのではないか。区切り方によっては「山代大国」とか「山代」「大国淵」などもあるようだが、いずれも一理はあるがやはり後世の「山城国宇治郡大国郷」から推測すると「山城国大国郷」がいいのではないか。おそらく、当時は当該地は木津川、宇治川、桂川の三川と巨椋池(港湾として機能したか)からなる水上交通の要衝で、後世の山城、河内、摂津の豪族が三川と巨椋池の支配権をめぐって争っていたのではないか。最大勢力は山城国大国の淵(不遅)さんかと思うが、そこに関係のない大和の伊久米伊理毘古伊佐知命さんが現れ、すったもんだのあげく伊久米伊理毘古伊佐知命さんは淵(不遅)さんから三川及び巨椋池の支配権と淵(不遅)さんの二人の娘を言葉は悪いが強奪し大和へ帰ったのではないか。要するに、大和国は此の地を押さえて丹波の親しい丹波道主命や摂津の大伴氏に気軽に行けることにしようとしたのであろう。
翻って、『記紀』には、鬱、とか、淵(不遅)、とか、内、とか、同一の氏族なのか、はたまた、異なった氏族なのかは解らないが、木津川、宇治川、桂川の合流する地点にはことあるごとに似たり寄ったりの氏族が出現している。そこで、これらの氏族は何者なのか次に検討してみる。

★鬱、淵、内とはどういう氏族か

鬱、淵、内は表記も発音も違うので同一の氏族ではあるはずもない、と主張する方が多いのかも知れない。居住地と言おうか、本拠を構えたのも同じ場所ではないようだ。ところで、平安時代に入ると当該地には宇治郡郡司(宇治郡大領)に宮道氏という一族がいたようだが、時代が下るので割愛する。以下は、主に『記紀』に出てくるものを取り上げる。

鬱氏

(『古事記』中巻 孝元天皇段。『古事記』では、内氏となっている。読みは「うつ」か。)
此天皇 娶穗積臣等之祖 内色許男命妹 内色許賣命 生御子 大毘古命 次少名日子建猪心命 次若倭根子日子大毘毘命 【三柱】
又娶内色許男命之女 伊迦賀色許賣命 生御子 比古布都押之信命【一柱】
又娶河内青玉之女 名波邇夜須毘賣 生御子 建波邇夜須毘古命【一柱】
此天皇之御子等并五柱
故若倭根子日子大毘毘命者 治天下也 其兄大毘古命之子 建沼河別命者【阿倍臣等之祖】 次比古伊那許志別命【膳臣之祖也】
比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毘之妹 葛城之高千那毘賣 生子 味師内宿禰【此者山代内臣之祖也】 又娶木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣 生子 建内宿禰 此建内宿禰之子并九【男七 女二】

(『日本書紀』 卷第四 大日本根子彦國牽天皇  孝元天皇)
七年春二月丙寅朔丁卯 立鬱色謎命爲皇后 后生二男一女 第一曰大彦命 第二曰稚日本根子彦大日日天皇 第三曰倭迹迹姫命 【一云 天皇母弟 少彦男心命也】
妃伊香色謎命 生彦太忍信命
次妃河内靑玉繁女埴安媛生武埴安彦命
兄大彦命 是阿倍臣 膳臣 阿閉臣 狹狹城山君 筑紫國造 越國造 伊賀臣 凡七族之始祖也
彦太忍信命 是武内宿禰之祖父也

『記紀』ともに似たり寄ったりの伝承を載せているが、「内氏」に関する限りでは、『古事記』では味師内宿禰【此者山代内臣之祖也】と建内宿禰の父親は比古布都押之信命で、味師内宿禰と建内宿禰は異母兄弟となる。『日本書紀』では彦太忍信命は武内宿禰の祖父と言う。山代内臣への言及はない。

淵(不遅)氏

(『古事記』中巻 垂仁天皇<伊久米伊理毘古伊佐知命>段)
此天皇 娶沙本毘古命之妹 佐波遲比賣命 生御子 品牟都和氣命【一柱】
又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女 氷羽州比賣命 生御子 印色之入日子命 次大帶日子淤斯呂和氣命 次大中津日子命 次倭比賣命 次若木入日子命【五柱】
又娶其氷羽州比賣命之弟 沼羽田之入毘賣命 生御子 沼帶別命 次伊賀帶日子命【二柱】
又娶其沼羽田之入日賣命之弟 阿耶美能伊理毘賣命 生御子 伊許婆夜和氣命 次阿耶美都比賣命【二柱】
又娶大筒木垂根王之女 迦具夜比賣命 生御子 袁耶辨王【一柱】

《又娶山代大國之淵之女 苅羽田刀辨 生御子 落別王 次五十日帶日子王 次伊登志別王》
《又娶其大國之淵之女 弟苅羽田刀辨 生御子 石衝別王 次石衝毘賣命 亦名布多遲能伊理毘賣命【二柱】》

凡此天皇之御子等十六王【男王十三女王三】 故大帶日子淤斯呂和氣命者 治天下也【御身長一丈二寸 御脛長四尺一寸也】 次印色入日子命者作血沼池 又作狹山池 又作日下之高津池 又坐鳥取之河上宮 令作横刀壹仟口是奉納石上神宮 即坐其宮定河上部也 次大中津日子命者【山邊之別 三枝之別 稻木之別 阿太之別 尾張國之三野別 吉備之石无別 許呂母之別 高巣鹿之別 飛鳥君 牟禮之別等祖也】 次倭比賣命者【拜祭伊勢大神宮也】 次伊許婆夜和氣王者【沙本穴太部之別祖也】 次阿耶美都比賣命者【嫁稻瀬毘古王】

《次落別王者【小月之山君 三川之衣君之祖也】 次五十日帶日子王者【春日山君 高志池君 春日部君之祖】 次伊登志和氣王者【因無子而爲子代定伊登志部】 次石衝別王者【羽咋君 三尾君之祖】 次布多遲能伊理毘賣命者【倭建命之后】》

(『日本書紀』卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇)
卅四年春三月乙丑朔丙寅
天皇幸山背 時左右奏言之 此國有佳人 曰綺戸邊(かにはたとべ) 姿形美麗 山背大國不遲之女也 天皇於茲 執矛祈之曰 必遇其佳人 道路見瑞 比至行宮 大龜出河中 天皇擧矛剌龜 忽化爲石 謂左右曰 因此物而推之 必有驗乎 仍喚綺戸邊納于後宮 生磐衝別(いはつくわけ)命 是三尾君之始祖也
先是(これよりさき) 娶山背苅幡戸邊(かりはたとべ) 生三男 第一曰祖別(おほぢわけ)命 第二曰五十日足彦(いかたらしひこ)命 第三曰膽武(いたける)別命 五十日足彦命 是子石田君之始祖也

鬱(内)氏がきらびやかな系譜(内色許賣命は、大毘古命 少名日子建猪心命 若倭根子日子大毘毘命<開化天皇>。伊迦賀色許賣命は、 比古布都押之信命。御真木入日子印恵命<崇神天皇>。)に彩られているのに対し、大国之淵(不遅)の女子の子供たちは近江国や北陸など辺鄙な地域に追いやられているようだ。鬱(内)氏の凋落が始まり、淵(不遅)氏の頃には崇神天皇の全国制覇も始まり宇治地域の重要度も低くなっていたのかも知れない。このあたりから淵氏(内氏か)が天皇家に正妃を出すのも縁遠くなってしまったのかも知れない。

内氏(建内氏、味師内氏)

内氏や宇治氏は、後世、舒明天皇の子孫や阿蘇国造家に多いようだが、ここでは比古布都押之信命(彦太忍信命)の味師内宿禰と建内宿禰について述べることにする。『古事記』には味師内宿禰【此者山代内臣之祖也。母、葛城之高千那毘賣】と建内宿禰【建内宿禰之子并九<男七 女二>。母、山下影日賣】とある。比古布都押之信命(彦太忍信命)は孝元天皇と伊香色謎命(いかがしこめのみこと、『日本書紀』では大綜麻杵(おおへそき)の女子、『古事記』では内色許男命(うつしこおのみこと、鬱色雄命)の女子。)との間に生まれた皇子。建内宿禰の子并九<男七 女二>は以下のごとしという。
羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城襲津彦、若子宿禰。しかし、建内宿禰は後世創作された人物で彼にまつわる話には信がおけないと言う説もある。結局、内氏として残るのは「山代内臣」氏で、その先祖を祀るのは「内神社」(京都府八幡市内里内1。祭神:山代内臣、味師内宿禰 )と言うことになる。『新撰姓氏録』には「大和国 内臣 孝元天皇皇子彦太忍信命之後也」とある。大和国宇智郡の式内社に宇智神社(奈良県五條市今井。祭神:不明。)がある。こちらが建内宿禰の内氏の神社という説もある。

★まとめ

大国とは大きな国ないし多くの国を意味するような大げさなものではなく、どこにでもある(但し、西日本に偏っている)久仁(恭仁)などの地名に「大」の美称をつけたものなのだろう。対応する反意語は「小国」か。「クニ」が西日本に偏っているのも「クニ」の語源が漢字の「郡」で、これを日本語読みにして「クニ」即ち「一定範囲の領域」を言ったものではないか。大陸から来た人たちの定着率は西日本が良かったのではないか。特に、近畿地方に多いのは水田稲作が日本に入ってきてすぐに全国に広まったのではあるが、やはり近畿地方の浸透度が高かったと言うべきか。ことわざに「小さく生んで大きく育てる」と言うのがあるが、集落建設にもこのことが当てはまるのか。中世以降であるが、地名では小国が多く、大国は少ない。即ち、はじめは10戸ほどの村で小国村と言っていたところが、その後100戸ほどの村になり大国村に改めたと言うことか。近畿地方に大国郷が多いのも人口密度が高く小国郷から大国郷へ昇格するのが早かったと言うことか。但し、『和名抄』では、小国郷は備後国御調郡小国郷(広島県府中市小国町)一カ所だけで、ほかの六カ所は大国郷である。小国と大国との均衡を失し、あるいは双方はまったく関連のない語かとも思われる。小国は「山間の小盆地」というのが通説で、大国は「平野地であることが多い」とある。因みに、備後国御調郡小国郷(広島県府中市小国町)は、山間の高地で水利が不便としつつ、古墳があるという。府中というので備後国の国府があったかもしれず、そこにいた高官の人々の墓か。
特に、山城国宇治郡大国郷(比定地は現・京都市山科区の山科盆地とする説と現・京都市伏見区石田、日野、醍醐界隈とする説がある。後説では醍醐は大国→だいこく→醍醐になったとするもののようである。)は重要で、山城国宇治郡や山城国綴喜郡宇智郷などは当時は一体化されていて今日的に言う宇治市や八幡市、場合によっては枚方市あたりまでを宇智(宇治)国と言って大和国に対抗するような勢力があったのではないか。しかし、この宇智国は凋落が激しく、国主とも言うべき鬱氏、淵(不遅)氏、内氏の没落も早かったのではないか。
大国氏と言うのも非常に少ない。『類聚国史』巻187(仏道14、還俗僧)大国忌寸木主とか、『三代実録』貞観10年(868)正月七日条大国忌寸福雄などわずかなものである。この大国氏は河内国石川郡大国郷の出身か。カバネは忌寸のようである。かっての「直(あたえ)姓の国造や、渡来人系の氏族に与えられた。」とある。大国忌寸は渡来系ではなく阿倍朝臣の系統か。

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海幸山幸

★はじめに

過日、インターネットで<海幸彦と山幸彦>の項目を見ていたら、

「山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、『記紀』に記された日本神話。主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」と呼ばれ、神話に多い神婚説話、理想郷に留まる内容であり、民話「浦島太郎」のもととなっている。誕生地、生活などの伝説は宮崎県の宮崎市を中心とした宮崎平野に集中している。(Wikipedia)とか、

「天孫族が、隼人(はやと)族を屈服させたことを神話化したともみられ、仙郷滞留説話・神婚説話・浦島説話の先駆と考えられている。 」(小学館『デジタル大辞泉』)

とあるが、これは本当か。失礼ながら怪しの説ではないのか。「海幸山幸」の類似の話としてはインドネシアやメラネシア、パラオにもあると言い、日本では 喜界島の「竜神と釣縄」という類話があるという。これに対して、「浦島説話」は『丹後国風土記』(逸文)、『日本書紀』、『万葉集』と言う古典にも載っており、日本における分布範囲も広く、類似の話が中国、アイルランド、エジプトほか全世界にあるそうな。ざっと見ても、「海幸山幸」の話は南方(東南アジアか)起源であり、「浦島説話」は中国と言おうかユーラシア大陸起源であろう。また、日本における分布状態も「海幸山幸」がほとんど全国的な広がりを持たないのに、「浦島説話」は全国的に広がっており、かつ、海辺ばかりか山間部<寝覚の床(ねざめのとこ)、長野県木曽郡上松町など>にも伝わっている。これは「浦島説話」が庶民から庶民へ伝わった民話であるのに対し、「海幸山幸」は『記紀』編纂者が隼人征討のため無理に取り入れたものではないか。そういう意味では、「海幸山幸」神話は隼人族征討を記念した日本プロパーなものかも知れないが、それにしては大陸や半島から入ってきた各種神話の寄せ集め(仙郷滞留説話・神婚説話)になっているかと思う。

★「海幸山幸説話」と「浦島説話」はどちらが古いのか。

『日本書紀』には「海幸山幸説話」を神武天皇の父や祖父の項に入っており、「浦島説話」は雄略天皇22年(478年)秋7月の条の記述となっている。これをそのまま信ずる人もいるようだが、隼人服属が7世紀から8世紀初頭のことなので、『記紀』編纂時には「もっとも新しい時点の歴史的事件にもかかわらず、こうした話が神代に繰り込まれているのは、服属の由来の久しいことが強調」されている、と説く見解もある。『記紀』では、仁徳天皇の時代に隼人が天皇や皇族の近習であったと記されている。史実かどうかは疑わしいが、大和朝廷が熊襲(隼人)に接触した話として『日本書紀』で、景行12年熊襲梟帥(くまそたける)をその娘<姉の市乾鹿文(いちふかや)>に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた、とある。そのときの捕虜が仁徳天皇の近習になった人と言うことか。しかし、この景行天皇の親征については『古事記』には記載がないので史実とするにはやや疑問が残る。また、『日本書紀』清寧天皇元年正月に「隼人、昼夜陵の側(ほとり)に哀号(おら)ぶ。食を与えども喫(くら)はず。七日にして死ぬ。(隼人晝夜哀號陵側 與食不喫 七日而死)」ともあり、天皇の周辺には奴婢的に扱われた人がおり、家畜と同じ扱いと言うのでそういう人(南の方の蛮族)を隼人と言ったのかもしれない。私見では「ハヤ」も「カヤ」も同語で大隅国や日向国のカバネであったと思われる。
そこで、「海幸山幸説話」と「浦島説話」はどちらが古いのか、と問われれば、「海幸山幸説話」が隼人族の服属起源譚とすべく、『記紀』の編纂者が大陸や半島の神話類型を参照して日本的に創作した比較的新しい説話であるのに対し、「浦島説話」は全国的に流布しており、中部・東海地方から西日本にかけてが多いようなので、弥生時代の頃に大陸・半島より導入されたと言うべきか。従って、「海幸山幸説話」と「浦島説話」は出自も時代も違い「海幸山幸説話」が「浦島説話」のもととなっているというのは間違いではないか。

★「海幸山幸説話」と「浦島説話」の比較

論者の中には「海幸山幸説話」と「浦島説話」を比較して、非常に似ているという。おそらく、「海幸山幸説話」をお手本に「浦島説話」が作られたというのであろう。

「海幸山幸説話」の内容
山の猟師である山幸彦(弟)と、海の漁師である海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。途方に暮れていたところ、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(海神の宮殿)に赴いた。海神(大綿津見神)に気に入られ、娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で暮らすこと三年がたち、山幸彦は地上に帰ることになり、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦を配下に収めた。この海幸彦は隼人族の祖である。妻の豊玉姫は子供を産み(豊玉毘売命は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と彦火火出見尊に言う。しかし、火遠理命<山幸彦>はその言葉を不思議に思い産屋の中を覗いてしまう。)、それが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、山幸彦は神武天皇の祖父にあたる。

「浦島説話」の内容
漁師の浦島太郎は、子供達が亀をいじめているところに遭遇する。太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を海の中の竜宮城に招く。竜宮城では乙姫が太郎を歓待する。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日(三年説が多いようだ)だったが、地上では随分長い年月(七百年説もある)が経っていた。

多くの説が取り上げる類似点として、
「海へ釣りに行く」、「小船に乗って海原の彼方の宮殿に行く」、「美しい姫と結婚する」、「楽しい結婚生活を送る」、「その期間は3年間であった」、「夫は故郷に帰りたくなり、別れ際に妻や家族から贈り物があった」、「妻の禁止事項があり、夫は守ると約束する」、「夫は故郷に帰る」、「夫は妻との約束事を守れず、二人は永遠に別れてしまう」
双方の説話の類似点は以上のもののようだが、一つの説話を単に使い回ししたともとれる内容だ。

★まとめ

「浦島説話」の類似の話は中国に多いようで、中国では囲碁にまつわる話が多いようだ。囲碁(ゲーム)に熱中して時間がたつのも忘れてしまったと言うことか。中国の説話が我が国へ導入されたとも考えられるが、私見では日本の「浦島説話」は『丹後国風土記』(逸文)では、「筒川嶼(島)子 水江浦嶼(島)子」とか、「與謝郡日置里筒川村」とか、「人夫日下部首等先祖」とか、内容が具体的である。端的に言うと、「浦島説話」は<日下部首>氏の祖先伝承であって、本来はおとぎ話などになるような話ではなかったと思われる。それを文才豊かな伊預部馬養連のお筆先になり当時のベストセラーにでもなったのではないか。当時にあっても知識人階級では写本の貸し借りなどがあったのではないか。
「海幸山幸説話」は隼人族懐柔策として人為的に書かれたものではないか。要するに、天孫族と隼人族は同族と言うことを隼人族に印象づけようとしたもので、景行天皇九州親征があったとしたなら、作者はおそらく大伴武日あたりであり、それがなかったならば『記紀』編纂時に編者の一人が執筆したものと思われる。
以上より、「海幸山幸説話」と「浦島説話」は、その発生事由からして異なるものであり、類似点が多いと言っても時間がたつと「物語」や「行政文書」などはパターン化し、似たり寄ったりなものになったのではないか。

 

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地名における姫とは

★はじめに

「姫」などと言う言葉は、男子に「〇彦」などという名前をつけてもおかしくはないが、女子に「〇姫(媛)」などとつけたら、「あそこの家は少しおかしいのではないか」などと陰口をたたかれるのがオチだ。最近では少なくなったが、「〇姫」の代わりに女子には「〇子」とつけるのが一般的だったような気がする。これも、学者によっては本来は男子につけるもので、「孔子」「孟子」が正当で、日本流の「花子」とか「千代子」などと言うのは間違って導入されたものという。古代では蘇我馬子とか小野妹子とか有力男子にも「子」の字がつく人がいたようだが、この男子の「子」は長続きがしなかったようだ。もっとも、「子」というのは実名などにつける敬称あるいは尊称だったという説もあり、それでは男子でも女子でも敬称をつけて呼ぶことには問題はないのではないかと思うのだが、誤解が原因かどうかは解らないが、日本では「子」という敬称ないし尊称は女子のみにつくようになった。なお、姫型(○姫)の名は、臣籍降下した皇女にのみ与えられた、と言う。今は民間人に嫁いだ皇女は強制的に臣籍降下しなければならず、皇族同士の結婚がほとんどない現在では女性皇族が結婚した暁には、「〇姫」と名乗ってもおかしくないのかも知れない。
彦と姫はすでに『魏志倭人伝』にも出てきているようなので当時の上層階級にあっては「〇彦」とか「彦〇」や「〇姫」とか「姫〇」などという名前は一般的であったのだろう。当時の人は血統も重視しただろうから、いわゆる、現在の苗字に相当する「柄(から)」の名もあったと思われるが、上古での露出度はほとんどない。従って、『記紀』に連綿とつながっている各豪族の家系も天皇家はともかくはなはだ疑問ではある。
姫は意外と思われるかも知れないが人名のほかに地名にもついている。その数は古代にあっては多い方ではないと思われるが、西日本に偏ってはいるがまとまってある。以下、少しばかり地名の「姫」を検討してみる。

★地名における「姫」の意味

「姫」のついた地名はままあるが、新しい地名では本来の意味がわからないので、比較的古いもの(『和名抄』程度か)を検討してみる。具体例として、
1.姫社(ひめこそ)『和名抄』肥前国基肄(きい)郡姫社郷。現・佐賀県鳥栖市姫方町か。山下川沿いの平野にある。姫古曽神社がある。
説1。ヒメはヒビ(罅)の転で、「谷などが分かれたところ」か。
説2。ホトと同じで「女陰」ともつながるか。姫も同源か。但し、甲乙が違うという。
説3。コソはコシ・つまり「峠地または崖地」の転か。

2.姫沼(ひめぬ)『和名抄』筑後国生葉郡姫沼郷。現・福岡県うきは市浮羽町田篭(たごもり)か。田篭は旧姫治村の一角で、姫治は姫沼の誤記かという。隈上川(くまのうえがわ)の谷筋沿いでは、石垣で階段状に築かれた棚田が連なる。平成24年5月18日、新川田篭地区の川沿いの集落が、伝統的建造物群保存地区に答申されました、とある。
説1。ヒメはヒビ(罅)の転で、「分岐した沼地」の称か。ヒメ(姫)とヒビ(罅)の転のヒメとでは甲乙が違う。
説2。「小さいこと」を表すヒメ。

3.ひめのえ(姫江)『和名抄』讃岐国苅田郡姫江郷。現・香川県観音寺市豊浜町姫浜。灌漑用溜池を源とする川沿いの地か。
説1。ヒメはヒビ(罅)の転で、「澪条のある干潟の入江」の意か。
説2。ヒメは美称で「海域のなごやかなこと」を称したものか。
説3。「小規模な入江」の意か。

4.ひめのはら(姫原)『和名抄』伊予国和気郡姫原郷。現・愛媛県松山市姫原。灌漑用溜池に囲まれた平地。
説1。ヒメはヒビ(罅)の転で、「山あいに幾筋も分岐している原」
説2。小さい原
衣通姫伝説の地。近親相姦の罪で伊予国に流された木梨軽皇子が同母妹である衣通姫(そとおりひめ)に再会した。

5.ひめの(姫野)越中国射水郡姫野保。現・富山県高岡市姫野 海岸沿いの平地。水運と陸運の交差する地。

6.ひめだ(姫田)阿波国板野郡姫田邑。現・徳島県鳴門市大麻町姫田(おおあさちょうひめだ)北半は山地、南半は平野部で農業地域である。
新潟県新発田市東姫田・西姫田 姫田川を挟んで東西の平地。水田。

7.ひめしま(姫島)豊後国国東郡姫島。現・大分県東国東郡姫島(ひめしま)村 島には島中央部に標高266mの矢筈山、島西端に標高105mの達磨山、島西北部に標高62mの城山があり、この3つの山の間が中心集落になっている。
灰白色の黒曜石を産す。姫島産黒曜石は中国、四国の縄文時代遺跡から発見されている。

8.ひめじ(姫路)因幡国八東郡姫路邑。鳥取県八頭郡八頭町姫路。私都川(きさいちがわ)に沿った両側が山の山間地。
兵庫県姫路市は奈良時代に「日女道」の表記で記録のある地名。

9.ひめい(姫井)現・熊本県菊池市旭志弁利姫井(クマモトケンキクチシキョクシベンリヒメイ)
姫井の井は川の意であろう。合志川の二条の支流(これを姫井というか)に挟まれた地。

10.ひめみや(姫宮)現・埼玉県南埼玉郡宮代町姫宮。姫宮神社にちなんだ地名か。
姫宮落川沿いの旧笠原沼周辺は、台地に囲まれるように「後背低地」と呼ばれる低い土地が分布しています、とあり、川沿いないし川の中洲の地。

11.ひめこまつ(姫子松)岩代国安達郡二本松姫子松。現・ 福島県二本松市姫子松。
阿武隈川支流杉田川沿岸の地。

12.ひめ(姫)美濃国可児郡姫庄、紀伊国牟婁郡姫邑あり。美濃国は旧・岐阜県可児郡姫治村。現・多治見市姫町・可児市下切など。紀伊国は和歌山県東牟婁郡串本町姫。
多治見市姫町・可児市下切などは姫川の沿岸の地。
和歌山県東牟婁郡串本町姫、姫川は山間地。姫はあるいは海岸沿いが起源地か。

13.ひめこまつ(姫小松)三重県伊勢市二見町江字姫小松(伊勢市市道江21号線)
五十鈴川の川口にあるので江と言う、とある。五十鈴川川口の扇状地上にある。

★まとめ

姫の地名としての語源には、
1.小さい、と言う形容詞。
2.罅・皹(いずれもヒビ)の転。姫(ヒメ)と罅・皹(ヒビ)の転訛したヒメとは上代特殊仮名遣の甲(日、比、氷)、乙(飛、火、樋)が違うという。割れ目のことを言う。
3.日陰の意。
4.「日目」で「日の当たる平坦地」もしくは「緩傾斜地」
5.「秘め」であまり知られていないところ。
一応、1.2.が有力で、ほかはあまり顧みられていない。

1.小さい、と言う形容詞については、全国には「姫島」と称する島が散見するが、多くが無人島(愛知県田原市、山口県阿武郡阿武町、高知県宿毛市など)で愛知県田原市の姫島は古墳が一基あるので、かっては人が住んでいたのであろう、と言われているが、ほとんどの姫島は面積が小さく、飲料水や食糧の自給ができなかったようだ。なお、有人の姫島としては福岡県糸島市志摩姫島と大分県東国東郡姫島村がある。ほかに地名としては内陸のものもある。おそらく「姫」が小さいものを形容する言葉だったことは古くからあったようだ。『万葉集』にもあるという。
2.「罅・皹(ヒビ)の転訛」説は『和名抄』にも「ヒビ」地名があり、
ひびた(日田)相模国大住郡日田郷。現・神奈川県伊勢原市日向。意味としては、1.日当たりの良い地2.谷の割れた箇所、等がある。
ひびる(氷蛭)相模国御浦郡氷蛭郷。現・神奈川県横須賀市野比あたりか。比定地不詳。意味としては、1.ひび割れた谷2.海苔粗朶(そだ)を篊(ひび)と言った、等。
罅・皹(ヒビ)は地面にできた割れ目だけでなく、河岸段丘のような段差も言ったものではないか。また、ヒビには「湿地」説もある。上記の日田、氷蛭は相模国(現・神奈川県)にあり、何か火山の大噴火、大地震、大津波などにより地割れや段差ができたような気もする。東京にも日比谷などという地名もあり、何かひび割れした谷のことかとも思われるが、ヒビには湿地の意味を説く見解があり、ヤ、ヤト、ヤチなどは東日本では低湿地と解する説が多数だ。従って、日比谷と言ったからと言って必ずしも地形的に言う「谷」とは限らない。しかし、東京には渋谷とか四谷とか市ヶ谷とか「谷」のついた地名が多く、いずれも谷底にできた町のように見えるが、四谷と市ヶ谷は外堀の沿岸にあり人為的なものかも知れない。渋谷はそのものズバリ「しぼんだ谷」を意味するのかも知れない。渋谷駅には宮益坂、道玄坂、玉川通り、六本木通り、明治通りなどが集中しており、その谷底が渋谷駅である。渋谷の谷が谷底を意味したのか、その谷底にある猫の額ほどの湿地を意味したのかは解らないが、東日本の谷(ヤ)は谷(タニ)を意味したものか、はたまた、低湿地を意味したものかは今となっては不明と言うほかない。但し、渋谷の語源は多々あり、上記の説は古くからある一般的な説である。

以上より私見をまとめてみると、
「姫」の字がつく土地には、水がまとわりつく場合が多いようだ。無論、姫川という地名や河川もある。山間部にある「姫〇〇」という土地ではほとんどが谷底に集落、田畑があり、水田稲作を行っている場合が多い。また、平地の「姫〇〇」というところは、川の沿岸が多く、かつ、一条の川の両岸に同じ地名がある。無論、後世には両岸の地名が同じでは不便なので地名の頭か尻に何らかの文字をつけて分けているようである。これらから判断すると、「姫」という言葉は水田稲作とともに発生した言葉であり、中国語の水田稲作用語を日本式発音に移し替えたものかも知れない。「姫」地名が山間部の谷底平地から谷川を下り、平野部に至ったものか、はたまた、その逆で、平野部から谷川を遡上して山間部の小盆地にいたったものかは定かではないが、一般的には山間部の小盆地の小区画の田んぼから水田稲作を始め最終的に現在のような平野部の大型水田になった、と考える方が多いようである。おそらく当初は焼畑農業との併用が主だったのではないか。何か「姫」は「田」に相通ずる言葉かとも思うが、中国語にせよ日本語にせよ発音がまったく違う。もっとも、姫という言葉が地名についている割には語源辞典等ではそのような扱いはなく、専ら「貴人の娘」等を意味する「姫」に限定するものが多い。かろうじて地名語源辞典などでは「姫」の地名における意義を述べているだけである。その意味では、「姫」は「罅・皹(いずれもヒビ)」のことなのだろうが、甲・乙が違うとやや持って非難されている。日照り,熱波,旱魃,雨不足などによる湿地のひび割れた地を「姫」と言ったものか。私見では、やはり「姫」とは日本語の「氷・目」で氷は水を意味し、目は場所を意味する、水田稲作適地を言ったものではないか。「ヒメ」とは端的に言うと現今の「水田」になろうかと思われ、その移動の一端が中国・長江河口から筑後川河口へ、次いで肥前国基肄(きい)郡姫社郷。現・佐賀県鳥栖市姫方町へ、筑後国生葉郡姫沼郷。現・福岡県うきは市浮羽町田篭(たごもり)へ、伊予国和気郡姫原郷。現・愛媛県松山市姫原へ、讃岐国苅田郡姫江郷。現・香川県観音寺市豊浜町姫浜へ、(以上は、『和名抄』に出てくる地名)阿波国板野郡姫田邑。現・徳島県鳴門市大麻町姫田(おおあさちょうひめだ)へ、と移動し、その先はおそらく淡路国、和泉国を経て大和国へ入ったものと思われるが、不明となっている。水田稲作のほかの国内伝播ルートとしては現在の佐賀県唐津市菜畑遺跡、あるいは、福岡市板付遺跡(福岡市博多区板付)、福岡県飯塚市立岩遺跡などを経て吉備国(岡山県、広島県一部)から大和国へ入ったルート。菜畑遺跡、あるいは、板付遺跡から福岡県宗像市、出雲国、北陸、東北に伝播したルートがあったのではないか。

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淡路島のこと

★はじめに

過日、Wikipediaで「淡路島」の項を見ていたら、「初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られる。また反正天皇は淡路島で生まれたとされる。」とあったので、何のことかなと思ってほかの資料を見ていたら、どうやら出典は「日本歴史地名大系. 第29巻 1 (兵庫県の地名 1) 平凡社刊 1999.10.」のようで、それによると、
1.淡路の表記は、粟道(藤原宮跡出土木簡)→粟路 淡道→淡路と変遷したのではないか。阿波国は当初より粟国である。よって、淡路とは本州から阿波へ行く通路の意味である。(通説)
2.兵庫県三原郡西淡町(現・南あわじ市阿那賀伊毘)の沖ノ島古墳群では、須恵器(すえき)などの土器のほかに鉄製の釣針・軽石製の浮子(うき)・土錘(どすい)・蛸壺形の土器や棒状石製品といった漁具関係の遺物が副葬されていた。これらの出土遺物から古墳の被葬者は、立地も合わせて考えると、海に関係が深い人物が想定される。
古墳のこのような存在状態は淡路では漁業は発達していたが、有力な豪族は存在しなかったことを推測させる。それは、この島が畿内に成立した政権(いわゆる大和朝廷)ときわめて密接な関係にあったことによるのではなかろうか。
3.『日本書紀』 応神二年条に、天皇の妃乙姫は淡路御原皇女を生んだ。反正即位前記に、反正天皇が「淡路宮」で生まれた。
『古事記』 安寧天皇段に、安寧の孫の和知都美命は「淡道の御井宮に坐しき」とある。
五世紀頃には大和・河内の大王(天皇)家と淡路との関係が深かった。
4.天皇が狩猟のためたびたび淡路に赴(おもむ)いたという『日本書紀』の記事(応神13年9月、同22年9月、履中5年9月、允恭14年9月など)淡路が早くから大王家の支配下に入り、供物のものを貢上する狩猟の地であった。
5.海産物の採取・貢納に関わる淡路のアマ(海部・海人)が大王家と深い関係にあったことを示す『日本書紀』の所伝
応神22年3月 応神が妃の兄媛が吉備に帰るとき、「淡路の御原の海人八十人」に送らせた。
仁徳即位前紀 応神の死後、倭の屯田と屯倉の相続が問題になったとき、韓国にいる倭直吾子籠を迎えるために「淡路の海人八十人」が派遣された。
履中即位前紀 仁徳天皇の死後、住吉仲皇子が皇位継承の争いを起こしたとき、阿曇連浜子は「淡路野島(現・淡路市野島)の海人」を率いて住吉仲皇子に従って戦っている。
仲哀2年2月 淡路屯倉を定めた。『古事記』仲哀天皇の世に「淡路の屯倉」を定めた。
南あわじ市榎列大榎列(えなみおおえなみ)に屯倉神社がある。
6.「日本大國魂神」が大和大國魂神社として三原郡に祀られ、もと伊弉諾尊を祀って淡路に勢力を有していた氏族を中心部から追い払った。

以上のごとく述べておられるが、以下個々の内容を検討してみたいと思う。

★上記内容の検討

1.淡路の表記とその意味するところであるが、「粟」にせよ「淡」にせよ、いわゆる当て字で穀物の粟あるいは濃いの反意語の淡いとは関係がないと思われる。以前は阿波国とは粟(穀物)国の意味、と言うのが有力だったようだが、最近はあまり見かけなくなった。地名の起源となったと思われる阿波国阿波郡や淡路国津名郡平安郷《一般的には安乎(あいが)と読むようだが、平城京跡から出土した木簡の中に、「天平七年(七三五)頃、淡路国津名郡(阿)餅郷」とか「阿并郷」「安平郷」と読めるものがあり、<あへ>と読むか。阿餅(阿拝、『和名抄』伊賀国の郡名)、あるいは、阿倍(『和名抄』駿河国の郡名)は意味としては、「低湿地」説とアバ(暴)の転で「崩崖」説があるようだが、現今有力なのは「崩崖」説で、アハ、アバ、アヘ、アベは同じ意味であり、崩崖地を意味するか。私見では安平は安半の誤記で<あは>と読むかと思ったのだが。》のアハ・アヘは、繰り返すが、現在の説としてアハク、アバク(暴く、崩れる)の意味で崩壊地形を言うと言うのが多数説になりつつあるようだ。淡路島のことを和歌山県では淡島とも言う。淡島信仰で有名な神社もあり、この場合の「淡」はものとものとの間(中間)をいい、アハヒ(間)、アハシ(淡)で同源の言葉という。即ち、淡島ないし淡路島は本州と四国との間にある島と言うことになろうかと思われる。ほかに、アハヂをア・ハヂと分けてアは接頭語、ハヂは端(はし・はち)の意味で崖地を言うとなす説。一応、淡路はアハ(崩崖の意)、チ(接尾語)と考えるのが現今の一般的な説か。従って、阿波国も淡路国も元々は「アハ」と言ったかもしれないが、同じ発音では区別がつかないので「アハ(阿波)」と「アハヂ(淡路)・ヂは接尾語」と発音を分けて区別した。従って、淡道、淡路と書いても阿波国への通路の地の意味ではなく、津名郡平安(安乎か)郷を国名の語源地とするので、阿波国の阿波とは別個の言葉である。「アヘ」が先か「アハ」が先かははっきりしない。おそらく「アハ」が先なのであろう。
2.淡路島の古墳は南淡町(現・南あわじ市阿万上町ほか)付近に比較的集中しているが、いずれも円墳で前方後円墳を欠いている、と言う。形もやや持って小型。築造年代は六世紀以降のものが多い。津名郡にはやや少ない。以上から判断するならば、淡路島の海人は一般の漁師であり、大規模な網元はほとんどいなかったようである。
3.『日本書紀』反正天皇前紀に「天皇初生于淡路宮」とあるので反正天皇は淡路島の生まれ、と解する向きもあるが、「淡路宮」は所在未詳とする説が多い。一応、産宮(うぶみや)神社(南あわじ市松帆擽田103)は反正天皇の誕生の淡路宮跡と言う。しかし、応神、仁徳、履中、反正の諸天皇は河内・摂津の人であり、現在の大阪市にも東淀川区淡路とか中央区淡路町があり、地名の由緒来歴ははっきりしないものの案外古くからあるのかも知れない。東淀川区淡路は菅原道真が淀川の中洲を見て淡路島と勘違いをしたと言う逸話もあり、川の中洲のようなところを淡路とか淡島とか言ったのかもしれない。大阪市北区中之島は江戸時代からの開発と言うが古くは淡路と言ったのかも。また、淡路島は当時の天皇の別荘地だったか。
4.天皇の猟場即ち禁野があったかどうかは解らないが、応神天皇は淡路島に足繁く通ったようである。単に狩のためかほかに目的があったのかは解らない。
5.淡路国の海人は皇室関係者が瀬戸内海航路を渡るときは船頭や舵取り、水手、船などを提供したようである。また、屯倉の設置は『記紀』にある仲哀天皇の時かどうかは別にして屯倉神社(南あわじ市榎列大榎列)がある。
6.大和大國魂神社が淡路伊佐奈伎神社(現・伊弉諾神宮)を現・兵庫県南あわじ市榎列上幡多857の地から現・兵庫県淡路市多賀740の地へ追いやったと言うが、両社は元々今のところにあったのではないか。両社とも移転の記録はない、とある。伊弉諾神宮は伊弉諾尊が多賀の地(霊宮)で余生を過され、御住居の跡が御陵となり、その後神社として祀られる様になった、とある。問題は大和国の産土神とも言うべき倭大国魂神(大和大國魂神社)がどうしてこんなところに祀られているのだ、と言うことだろうと思う。諸説あるが、1.大和神社の最初の祭主であった市磯長尾市(いちしのながおち)の出自が九州の海人族であった関係により、大和神社を海人族の住む淡路島へ特別に勧請したと言う説、2.淡路の海人の槁根津彦(さおねつひこ)が倭直(やまとのあたい)の祖と言われることから三原郡の国魂神を大和大国魂神と称したとする説、などがある。一説によると市磯長尾市は槁根津彦の七世孫とあり、同じ一族が何をしているのかと言うことになるが、要は、淡路国の海人が一族かどうかは別にして二系統あったということなのだろう。一方は伊邪那岐神を祀り、他方は倭大國魂神を祀っていたのだろう。倭大國魂神を祀っていたのは倭直部氏で「特賜名 為椎根津彦此即倭直部始祖也」(日本書紀、神武即位前紀)、「以市磯長尾市為祭倭大国魂神之主。」(日本書紀、崇神7年)など。また、伊邪那岐神を祀っていたのは社家の坂上田村麻呂の子孫と称する田村氏とか石上氏のようであるが、いずれも海人族とは関係がないようだ。海人族としては阿曇氏が有名であるが、阿曇連浜子や倭直吾子籠と言う実名が出てくるところを見ると、阿曇連浜子系の一族が淡路伊佐奈伎神社の神主で倭直吾子籠系の一族が大和大國魂神社の神主だったか。二人は住吉仲皇子の乱でも足並みをそろえている。淡路国の海人が地元派と大和派に分かれていたわけではなく、それぞれのご先祖さまが祀っていた神が違うと言うことだけである。阿曇連は博多湾岸の海人であるが倭直のご先祖さまの椎根津彦(槁根津彦)は豊予海峡、吉備国の児島湾口、明石海峡等諸説がある。両海人族が淡路島で住み分けていたのであろう。

★まとめ

淡路島に一番関係が深いのは応神天皇と思われる。狩猟に出かけたのが『日本書紀』に二回(応神13年9月<時天皇幸淡路嶋 而遊獵之>、同22年9月<天皇狩于淡路嶋>)記録されている。特に、応神22年9月のときは妃兄媛の実家がある吉備国を訪れ妃の兄である御友別と誼み(よしみ)を通じている。応神天皇と言えば、言わずとしれた「三韓征伐」の主導者で『記紀』では神功皇后と言うことになっていたり、はたまた、応神三年「是歳 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无禮状 由是 百濟國殺辰斯王以謝之 紀角宿禰等 便立阿花爲王而歸」となっていて、紀角宿禰以下の派兵が高句麗の好太王碑文の「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」の耒卯年(391)に年次がほぼ合致すると言って紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰の四将軍の派遣とする説もあるが、実際に出撃したのは応神天皇で四将軍はその配下にあったのではないか。例として、紀角宿禰は百済方面司令官、羽田矢代宿禰は加羅方面司令官、石川宿禰は新羅方面司令官、木菟宿禰は高句麗方面司令官。四将軍は武内宿禰の子孫という。ここで応神天皇や仁徳天皇の私見の概略を述べると、応神、仁徳の実父は景行天皇で景行天皇の有力重臣には武内宿禰、大伴武日、吉備武彦があり、応神天皇の生母は武内宿禰系の人物でこちらは武力に優れていた。また、仁徳天皇の生母は大伴氏系でこちらは財力に優れていた。応神天皇は三韓征伐のときは前線には武力に優れた武内宿禰の一族を連れて行き、仁徳天皇は財力に優れた大伴氏一族ともども筑紫国で後方支援を行ったのではないか。
話は少し飛ぶが、長期にわたる韓国遠征から帰国した応神、仁徳は戦果に乏しかったせいか母親の実家の財力で差がついたらしく、応神にしてみれば「何であいつ(仁徳)と、こうも生活レベルが違うのだ」と思ったことだろう。また、帰国したはいいがいつ高句麗の好太王が倭に攻め入るか解らない。前線基地や兵站基地の目星をつけておかねばならず、応神天皇はその準備を着々と行っていたのではないか。好太王が日本に攻め入ると言っても日本海ルートか瀬戸内海ルートかも解らなかったが、一応、有力者の多い瀬戸内海ルートを主戦ルートとし、前線基地を吉備国、兵站基地を淡路島と設定したのではないか。応神は当該地には視察のため何度も出かけただろうが、淡路島は争いのない島なのに鉄鋌とか石鏃が時折出てくるのでおかしいと思い調査したところ、どうやら淡路島は大伴氏の秘密金庫と言うことが解った。当時は、例えば、奴国王が後漢の光武帝から建武中元2年(57年)に冊封のしるしとして賜ったと言う金印が志賀島から発見されたように、宝物は居住地から少し離れた島や岡や川の中洲などに巨石の金庫をつくつてそこに保管したのではないか。淡路島は志賀島より大きいので追い追い大伴氏の宝物が出てくるかもしれない。応神天皇は一所懸命金、銀、銅、鉄などを探したけれどめぼしいものはなかったのではないか。
淡路島は大和朝廷の直轄領で屯倉があったとか、古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いでいたとか言って特殊な国のように言うが、それは当該国の地理的要件等が御食国に該当したからであって何も特殊なものではない。また、いわゆる河内王朝の天皇との結びつきが強いというのも好太王との緊張関係からと思われ、好太王が逝去(412)したら解消された。

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赤染氏と置始氏

★はじめに

古代豪族に赤染氏や置始氏と言う氏族がおり、ほとんどの歴史関連の大家の先生は赤染や置始(「始」は染の当て字で置始とは置染が正という。)は現今で言う染色業者とされる。しかし、「そめ」は漢字で書くと「染め」と「初め」があり、必ずしも置始が置染とは限らないと思う。また、赤染は赤は銅の意味で「赤染氏はもと豊前国田河郡香春郷の銅鉱山採集民であった渡来系工人たちを束ね、香春三の岳にあった古宮(こみや)鉱山から採れる金、銀、銅、水銀、水晶、石灰などによって一家を成した」という説もある。赤染氏の居住地としては、奈良平城京・河内国大県郡(大阪府八尾市神宮寺、恩地周辺)・遠江国榛原郡(静岡県島田市周辺)・因幡国八上郡(鳥取県八頭郡周辺)などがあるようである。これらの地には精銅のための原石があったということか、はたまた、染色技術者がいたと言うことか。赤染氏の本貫としては河内国大県郡をあげる説が多く、赤染とは茜染めのことで、赤染氏が伴造として品部を管理していたと言う。『吾妻鑑』では鎌倉時代にも当地の人々が「河内国藍御作手(あいみつくて)奉行」に任じられて染色技術を諸国で指導したと言う。従って、豊前国田河郡香春郷の赤染氏であるが、その仕事内容が河内国大県郡の赤染氏とまったく違い両赤染氏はまったく関係がなく別個の家系と思われる。そこで、赤染氏と置始氏について個々に検討してみる。

★赤染氏

赤染氏は後ほど常世氏と名を変え『新撰姓氏録』には、以下の三氏が登載されている。
左京 諸蕃 漢 常世連 連    出自燕国王公孫淵也
右京 諸蕃 漢 常世連 連    出自燕国王公孫淵也
河内国 諸蕃 漢 常世連 連  出自燕国王公孫淵也
いずれも同じ出自で同族と思われる。豊前国の赤染氏は調査未了のため登載されていない。しかし、<赤染>と言う氏はほかに名乗っている氏族はなく、おそらく、豊前国の赤染氏も河内国大県郡の赤染氏と何らかの関係(赤染氏の末流か、あるいは、赤染部か)があったかと思われる。一応、赤染氏末流にせよ、赤染部にせよ、豊前国香春郡へ来たのは染色技術の指導であり、銅などの採掘のためではないと思われる。初めっから銅の採掘あるいはほかの目的でやって来たのならそれは燕国王公孫淵の末裔を称する赤染氏とは関係がなく、それは別に検討をしなければならない。
九州には装飾古墳が多く、特に、福岡県南部と熊本県に多い。日本の古墳は装飾古墳でなくとも諸々の理由から墳墓の石棺などにベンガラが施されており「そもそも埋葬施設でベンガラを用いることは弥生時代中期末〜後期初頭の北部九州が初源と考えられており、前方後円墳の登場以降その風習が西日本に広まる。」と言う見解もある。「赤染」の<染>の字であるが、重箱の隅をつつくような話で恐縮ではあるが、辞書によっては、「染める  布などを染料に浸すなどして色や模様をつける。染色する。また、塗って色をつける。(三省堂大辞林 第三版)」とあって、必ずしも浸染だけが<染め>と言うのではなく、捺染や今で言うペンキ屋さんの仕事ごときも染めると言ったようだ。よって、豊前国香春郡の赤染氏は来朝当初はベンガラ等による塗装を主力業務としていたか。また、来朝ルートは畿内の常世氏が燕国の公孫淵を始祖としているようなので現在の遼東地域かと思われ、豊前国香春郡の赤染氏は新羅国とか秦氏とか言っている(「新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき、すなわち名づけて香春の神と曰う。」<『豊前国風土記』>)ので、あるいは、常世連と豊前の赤染氏は違う氏族かとも思われる。また、両氏の関係も希薄だったようで畿内の赤染氏が常世と名乗っているのに豊前の赤染氏はそのまま赤染である。また、装飾古墳が福岡県南部と熊本県に偏っているというのも装飾古墳の導入窓口が筑後川河口流域かとも思われ、あるいは、豊前の赤染氏も長江流域からやって来た人かも知れない。両赤染氏は地域が離れているのに赤染と言うのは当時にあっては赤染とは古墳の塗装業者を言ったのかもしれない。
豊前国の赤染氏が畿内の赤染氏と関係があるのなら、当然のことながら豊前赤染氏は染色業者であり、豊前には染色技術の指導のためやって来たものと思われる。染料や顔料よりも当時にあっては非鉄金属の方が儲かったのかも知れない。職業替えして鉱山採掘業に転職したのであろう。元々、織や染の技術は応神・仁徳朝の頃に秦氏が招来したものとされているが、それには疑問が呈されており、また、秦氏が日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とした、と言う説もある。これなんかは、秦氏系元祖赤染氏は豊前国の赤染氏で、河内国大県郡の燕国王公孫淵系赤染氏とは関係がないことになろう。

★置始氏

置始氏は『新撰姓氏録』によると、

左京 神別 天神 県犬養宿祢 宿祢   神魂命八世孫阿居太都命之後也
左京 神別 天神 大椋置始連 連    県犬甘同祖
右京 神別 天神 長谷置始連 連    同神(神饒速日命)七世孫大新河命之後也

県犬養氏系の大椋置始氏と物部氏系の長谷置始氏があるようだ。文字の「置始」の「始」の字だが、「染」の当て字とする説もあるが、「始」は「初め」の意味で「始」の字が正当ではないか。それに、複姓と思われる「大椋」や「長谷」であるが、大椋はそのまま大蔵であろうか。大椋置始氏は大蔵で染色関係の職に従事していた伴造氏族という説もある。しかし、大蔵氏(渡来系、大蔵官僚)と巨椋連(山城国久世郡巨椋神社<宇治市小倉町>)及び大椋置始連(山城国紀伊郡大椋神社<京都市伏見区住吉町>)は直接関係はなく大蔵に出仕した氏族であるかどうかは疑問、とする見解もある。長谷は支倉(はせくら・慶長遣欧使節団正使支倉常長が著名)と言う地名もあり、長谷は地形的には川や道などが二手に分かれるところ、あるいは、二手の川や道に挟まれた土地を言う、とする見解もある。但し、支倉については「長谷倉といったのを走倉と書き誤り、走が支に転じた」という説がある。但し、地名の「くら」は<「クラ」のつく地名は崖、谷などに多い地名。「くら」は「刳(く)」ラが語源と言う。>という説がある。また、「磐座・磐倉・岩倉(いわくら)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。」ともある。以上より、「クラ」にはいろいろな意味があるようで、1.山の鞍部(峠)を言う。2.谷、岩、崖、洞を言う。3.倉庫、蔵。4.座るところ。物を置くところ、など。即ち、ここで言う、大椋や長谷(倉)の「クラ」は重量のある岩を置くことを言い、置始とは蔵や磐座のような重い建造物等を設置する場合、まず最初に地盤が不等沈下を起こさないように地盤の状況を調査し、礎石(現今の基礎)を据えることを言うのではないか。従って、置始氏は染物屋ではなく現今の基礎工事業者ではないのか。物部氏や県犬養氏の一族が染物屋をやっていたなんてあまり聞かないところだ。染色などと言う特殊技術の持ち主は古代にあっては渡来人(帰化人)の専売特許ではなかったか。平安時代になると色別の専門家が現れ、紅には紅師、紫には紫師、紺染師、黒染師、茶染師などがが生まれた。

★まとめ

赤染氏と置始氏だが、「染」と「始」は読みが同じでも意味が違うようだ。漢字が違えば当然だろうと言われればそれまでだが、以前は高名な先生方でも置始の「始」は「染」の当て字とする説がほとんどだった。伊勢国安濃郡には式内社の置染神社があり、祭神も神饒速日命と言っているので、長谷置始氏がその祖先、神饒速日命を祭り産土神としたのが創祀と伝えられる、などと曰っている。長谷置始連氏が伊勢国安濃郡の出身かどうかは解らない。長谷は大和国城上郡長谷郷(桜井市初瀬町)とするのが多数説である。畿内の赤染氏はその後名を「常世連」と変えている。豊前の赤染氏はそのままだ。
常世連は、我々は燕国王公孫淵の子孫、あちら(豊前赤染氏)は秦氏の子孫で格が違うとか、我々は染物屋、あちらはペンキ屋あるいは山師(採鉱業者)でスマートな職業ではない、などと言っていたのではないか。やはり、ご先祖さまが違えば別の氏族であり、同じ赤染と言ったからと言っても常世連は染色業者であり、豊前赤染氏は採鉱業者であったのではないか。
置始氏にしても県犬養宿禰系の大椋置始連と石上朝臣(物部氏)系の長谷置始連は同じことをしていたのかどうか。両氏にはほとんどつながりがないようで、あくまで本拠地の一つと言うことではあるが、大椋置始連は山城国紀伊郡を本貫としていたようであり、長谷置始連が伊勢国安濃郡を本貫とするなら、両置始氏は先祖も違えば本貫も違うと言うことで、おそらく「置始」と称する業務に従事していたのであろうか。大椋置始連の大椋は大きな岩あるいは大きな建物のことで、長谷置始連の長谷は今ひとつ解らないが礎石と柱を接続する部分のことを言うか。あるいは、長谷倉として大椋に対する概念で大椋よりは中小型の岩(礎石)を言ったものか。いずれにせよ、置始とは「置」が重量礎石を地上あるいは地中に置くことをいい、「始」は大型建造物の着工の始めに行うと言うことかと思う。従って、置始氏とは現今で言う建造物の基礎工事業者を言うと思われる。なお、大椋置始連が県犬養宿禰と同祖とされるのは大椋置始連が大蔵で染色業をしていた、と同時に、県犬養宿禰が大蔵の守衛を行っていたので通婚関係から同祖とされたという見解もあるが、いかがなものか。

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安閑朝の屯倉の設置

★はじめに

継体王朝(継体、安閑、宣化、欽明各天皇)に関しては、『日本書紀』内部でも矛盾があり、他の資料と『日本書紀』の矛盾はさらなるものがある。諸説紛々として通説的見解(最近は「継体欽明朝内乱」<辛亥の変>説が有力か)は打ち出せないようであるが、ここではそういう御高邁なことは横にして『記紀』で読んだことで<はてな?>と思ったことを述べてみようと思う。
まず、「(継体天皇)廿五年春二月辛丑朔丁未 男大迹天皇 立大兄爲天皇 即日 男大迹天皇崩」(日本書紀 卷第十八 廣國押武金日天皇/安閑天皇 前紀)の件である。大意は「継体天皇は大兄を立てて天皇となし、即日(その日のうちに)、(継体)天皇は崩御された。」と言うことであろう。これが我が国<譲位>の最初の例と言う。今までの慣例を破ってまでそんなことをする必要があるのか、と言われればそうとも思うが、継体天皇にはそうしなければならなかった理由があったのかもしれない。
一言で言うと、継体天皇はお年を召されて(『日本書紀』によると58歳か)から皇位を継承されたようなので家族関係が複雑だったようである。特に、継体天皇の御代は頻繁な遷都(507年2月、樟葉宮(くすばのみや)で即位、511年10月、筒城宮(つつきのみや)、518年3月、弟国宮(おとくにのみや)、526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)と言う。)を行い、即位後の継体期は外政(朝鮮半島問題)と内政(地方豪族の台頭<例、磐井の乱>)問題に悩まされた。前者は新羅、百済に侵攻される伽耶諸国への対応で、527年6月、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑を奪還すべく近江毛野臣に六万の大軍をつけて討伐に向かわせたが、この無能将軍は何の成果も得ることなく帰還途中に病死した。後者は近江毛野の遠征の途中で起きた磐井の乱(527)である。近江毛野と筑紫国造磐井はかって知り合いだったと見え磐井にしてみると「あんな無能なやつに六万の大軍を任(まか)せるなんて大和朝廷恐るるに足らず」とばかりに毛野に反旗を翻したのであろうが、物部麁鹿火がやって来て一刀両断の元に殺されてしまった。近江毛野は継体天皇の推挙だったと思うが、やはり天皇は地方から来た人であって中央の人材とは縁が薄かったようである。
そこにやって来たのが、天皇の死で天皇としては後顧の憂いなきよういろいろ思考をめぐらしたであろうが、一番の問題は後継者問題であった。天皇の有力後継者としては後の安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇があったようだが、天皇は当然のことながら当時の政界を主導していた大伴金村に相談したことだろう。天皇と金村が一番心配したのは蘇我氏の存在だろう。蘇我氏は多数説では畿内の出身のようになっているが、勝手な私見で申し訳ないが、越の国(現在の福井県)出身で継体天皇の在地の重臣として都に上ったものであろう。天皇としてはなにがしかの地位とか権益を約束して連れてきたものとは思うが、何分にも天皇はあちこちに遷都を行い、奈良盆地に入ったのは、継体天皇廿年秋九月丁酉朔己酉 遷都磐余玉穗【一本云 七年也】で、崩御は廿五年春二月 天皇病甚 ○丁未 天皇崩于磐余玉穗宮 時年八十二(『日本書紀』による)とあるので天皇が奈良で本格的に政務を執ったのは五年弱かと思われる。しかし、これには上記『日本書紀』引用にもあるように異説が多いようで当てにはならないが、継体天皇は言わば現代的に言うと福井県の副知事(蘇我稲目のこと)が奈良の都にやって来て日本国の内閣総理大臣や諸大臣の職務を行うのは困難とみてもう少し見習いをさせようと思ったのであろうが、蘇我稲目はそうは思わず「俺はもう二十年も見習いをやっている。」と考え、継体天皇後を模索したのであろう。ここで蘇我氏のことを少し見てみると、稲目以後となるが、

穴穂部皇子暗殺:用明天皇二年六月甲辰朔庚戌、蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姫尊、詔佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞嚙曰「汝等、嚴兵速往、誅殺穴穗部皇子與宅部皇子。」(『日本書紀』)
物部守屋の殺害:用明天皇二年七月蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。
崇峻天皇の暗殺:崇峻天皇五年十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東國之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。
境部摩理勢の絞殺:推古天皇三十六年、蘇我蝦夷の派遣した来目物部伊区比なる者に絞殺された。
山背大兄王の殺害:皇極天皇二年十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。・・・終與子弟妃妾一時自經倶死也。

以上の五件はいくら詔や他の賛同があるからといっても当時も現在も犯罪であろう。
ほかに、馬子の推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷による天皇をないがしろにする行為、などが挙げられている。また、「用明天皇二年夏四月舍人迹見赤檮、伺勝海連自彥人皇子所退、拔刀而殺。」とあり、『聖徳太子伝暦』では、馬子の命と言う。
以上の事実より有り体に言えば、蘇我氏は殺し屋なのである。

★継体天皇と大伴金村の皇位継承対策とは

おそらく継体天皇は蘇我氏のこういう好ましくない性癖についてはすでに越の国にいた時から知っていたであろう。稲目は馬脚を現していないようだがこのような性癖は一般的に遺伝的なもののようでおそらく稲目は未だ仕事に自信がなかったので同僚や他氏族に襲いかかるようなことはしなかったのだろう。当然のことながら継体天皇は蘇我稲目や馬子に皇位を簒奪されたくはなかったろうし確実に自分の子や孫に皇位を引き継がせたかかっただろう。しかし、稲目は着実に皇位を狙っていた。稲目の見立てによると継体天皇の有力皇位継承者である後の安閑天皇<勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)>や宣化天皇<檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)>には国政遂行能力が乏しい。これら二人を欺罔して稲目やあるいはその子を天皇の地位に就けようと図っていたのではないか。そうはさせじと策を練ったのが継体天皇と大伴金村で、まず、安閑天皇への継承を確実なものにするために生前譲位を敢行し、政権中枢にはベテランの大伴氏や物部氏を据えて安閑天皇の老齢、知力の衰えなどを補おうとしたのではないか。
首尾よく安閑天皇に譲位しても次に起きてきたのは(安閑)天皇の後継者問題である。

安閑天皇元年冬十月庚戌朔甲子、天皇勅大伴大連金村曰「朕、納四妻、至今無嗣、萬歲之後朕名絶矣。大伴伯父、今作何計。毎念於茲、憂慮何已。」大伴大連金村奏曰「亦臣所憂也。夫我國家之王天下者、不論有嗣無嗣、要須因物爲名。請爲皇后次妃建立屯倉之地、使留後代令顯前迹。」とあり、天皇には四人の妻がいたが子供に恵まれなかったようだ。ここは「大伴大連金村奏曰」以下の部分は後の挿入で、後継者のいない天皇が大伴金村に後継者対策を依頼したものではないか。その対策が明らかにされなかったので『日本書紀』は「大伴大連金村奏曰」以下の関係のないいい加減なことを書いている。現在のように情報共有などというのは当時にあっては大伴大連家のノウハウを公開するようなもので一子相伝で行われていた職業(伴)の継承は大連家の存亡にも関わるようなことだったのではないか。
大伴金村としては「またか」という思いだっただろう。継体天皇を越の国から招聘したはいいが、天皇の老害(現今で言う認知症か)や子息たちのできの悪さは金村を大いに悩ませたのではないか。特に、宣化天皇は稲目に騙されっぱなしのような気がする。例を挙げると、宣化前紀にある天皇の人物評「是天皇爲人器宇清通 神襟朗邁 不以才地 矜人爲王 君子所服」は中国の歴史書の引用とする説あり。従って、天皇の人となりの実態は不明と言うほかない。宣化紀元年二月「以大伴金村大連爲大連 物部麁鹿火大連爲大連 並如故 又以蘇我稻目宿禰爲大臣 阿倍大麻呂臣爲大夫」とあり、大臣は継体期に巨勢男人がいたが継体天皇23年(529年)9月薨去、とあり空位ではあった。何の経験もない蘇我稲目が突如大臣になることは考えられないことだ。また、阿倍大麻呂と言う人物もほかには見えないという。物部麁鹿火が宣化天皇元年(536年)7月に薨去とあるので物部尾輿が直ちに大連に補任されたのかも知れないが、「物部木蓮子 【木蓮子 此云伊施寐】 大蓮女宅媛」(大蓮は大連の写本もあるようだ)というのもあって物部一族の人には何でも大連の肩書きをつけていたのかも知れない。但し、欽明前紀四年冬十二月に「大伴金村大連・物部尾輿大連爲大連、及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣、並如故。」とある。物部尾輿も物部麁鹿火とは父子あるいは兄弟関係にはなく、宣化期は大伴金村を除いては未経験者の寄り集まりという雰囲気だ。稲目は宣化天皇に強引に自分を大臣に就けさせ、邪魔な金村を天皇を強要して「二年冬十月壬辰朔 天皇 以新羅冦於任那 詔大伴金村大連 遣其子磐與狭手彦 以助任那 是時 磐留筑紫 執其國政 以備三韓 狭手彦往鎭任那 加救百濟」としたが、大伴兄弟は危険分散を図り磐は筑紫にとどまり、狭手彦は朝鮮半島に渡り任那を鎮圧し、百済を救済したようである。おそらく稲目は金村を亡き者にしようとしたが大伴兄弟が父の金村に何かがあったらすぐにも帰国態勢に移行するようだったので稲目は金村暗殺を断念した。当時は蘇我氏の力もさほどではなく大伴兄弟の返り討ちにでもあったら元も子もなくなるので自重したのであろう。当時は中央豪族の物部麁鹿火や大伴磐・狭手彦と地方豪族の近江毛野との力量差は歴然としていたようだ。特に、大伴磐・狭手彦兄弟は現今で言う大企業社長の御曹司で換言すれば「バカ息子」という感じだったのではないか。そんな人たちの足元にも及ばない地方豪族とは何だったのだろう。

★安閑天皇が膨大な屯倉を設置した理由は何か

安閑天皇二年五月の条にたくさんの屯倉が設置されたことが記されているが、これには諸説あり、1.事実である(すべてが正)、2.嘘八百である(事実ではなく後付けの空想。通説的見解か。)、3.過去の著名な屯倉をならべた、4.反乱(例、筑紫国造磐井の乱)鎮圧の際に敗者から提供されたもの等が言われているが、以下、該当箇所を『日本書紀』から抜粋して、検討を加えてみる。

二年春正月戊申朔壬子 詔曰 間者連年 登穀接境無虞 元々蒼生 樂於稼穡 業々黔首 免於飢饉 仁風鬯乎宇宙 美聲塞乎乾巛 内外清通 國家殷富 朕甚欣焉 可大酺五日 爲天下之歡○夏四月丁丑朔 置勾舍人部・勾靭部
○五月丙午朔甲寅
置筑紫穗波屯倉・鎌屯倉
豐國碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉 【取音讀】  大拔屯倉・我鹿屯倉 【我鹿 此云阿柯】
火國春日部屯倉
播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉
備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉
婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉
阿波國春日部屯倉
紀國經湍屯倉 【經此云湍 俯世】 河邊屯倉
丹波國蘇斯岐屯倉 【皆取音】
近江國葦浦屯倉
尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉
上毛野國綠野屯倉
駿河國稚贄屯倉
◯秋八月乙亥朔 詔置國々犬養部
◯九月甲辰朔丙午 詔櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等 主掌屯倉之税
◯丙辰 別勅大連云 宜放牛於難破大隅嶋與媛嶋松原 冀垂名於後

二年春正月の前口上はどこかの書物を引用したような自画自賛で、夏四月は自分の身の周りの安全を図り勾舍人部・勾靭部を置き、五月には諸国に二十六の屯倉を設置、秋八月には諸国(屯倉を設置した国々であろう)犬養部を設置、九月には櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等に屯倉の税業務を主掌させ、別に金村に牛の放牧を難波の大隅嶋と媛嶋で行うよう勅している。よって自分の名が後に残る、と言うのであろう。但し、牧は後世廃止されているようである。

屯倉の設置地域は、
九州北部(筑紫国、豊国、火国)屯倉数8箇所
中国・四国(播磨国、備後国、婀娜國、阿波國)屯倉数10箇所
近畿地方(紀国、丹波国、近江国)屯倉数4箇所
東海地方(尾張国、駿河国)屯倉数3箇所
関東地方(上野国)屯倉数1箇所
以上、26箇所の屯倉の内半数以上の18箇所が九州北部と中国・四国地方に偏っており、この地域を重視した設置と思われる。
地理的には比定地にもよるが内陸部が多い。地名の配列に規則性がないので錯乱しているという説もある。
安閑天皇の「在位中、全国各地に30余りの屯倉(みやけ)が設置されたと伝えるのは、安閑朝が動乱期であったことを示すものであろう。」[黛 弘道博士]

置國々犬養部
犬養部は屯倉の守衛のために犬を飼養し番犬などとして飼っていたようである。主なる上級伴造は県犬養連(祖神:神魂命、本貫:河内国茅渟県(後世の和泉国)か河内国古市郡)、若犬養連(祖神:火明命、本貫:和泉国日根郡犬飼村か、門号十二氏の一つ(若犬養門<後に皇嘉門>)、『新撰姓氏録』和泉神別、河内神別<若江郡の古族か>)、海犬養連(祖神:海神綿積命、本貫:筑前国那珂郡海部郷、門号十二氏の一つ(海犬養門<後に安嘉門>)、阿曇犬養連(祖神:海神綿積命、本貫:海犬養連と同じと言うが、摂津国西成郡安曇江の辺りという説あり。阿曇犬養連は『新撰姓氏録』摂津神別にしか現れない)
屯倉や大蔵、内蔵、宮城門などの守衛は大和朝廷が始まって以来存在したことだろうが、このたびの犬養部設置は短期間で大量に屯倉を設置したので海部を割いて犬養部を設置したものであろう。旧来の倉庫係と思われる椋(くら)連氏や巨椋(おおくら・おぐら)連氏、大椋(おおくら)置始(おきそめ)連(県犬甘同祖)氏などと同族と主張している犬養氏もいるようだ。犬養の地名と三宅の地名が近接地にあるのも犬養氏が屯倉の守衛という根拠とされる。

櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等 主掌屯倉之税
税務行政も予定しているのでかなりの収入を見込んでいるのであろう。収入を天皇と元々蒼生(おほみたから・百姓)と分かち合うというのである。

別勅大連云 宜放牛於難破大隅嶋與媛嶋松原 冀垂名於後
当時すでに牛の畜産業なんてあったのか。この牛は食用牛や乳牛ではなく使役牛(牛車、農耕牛など)であったと思われるが、天皇も現今で言う高級外車がほしかったと言うことか。おそらく、水田稲作の人手不足を解消するためスイギュウの増殖を行ったことと思う。当時の馬は現在のポニーのような大きさで1牛力=1.5馬力くらいに換算され安閑天皇、大伴金村大連は牛に目をつけたのだろう。その牛をどこから輸入したかも問題だ。水田稲作にスイギュウを使うのは東南アジアに多いという。文面から判断するなら、当時の庶民はまだ牛を飼うことはできず、大連即ち大伴氏が牛の繁殖・育成を行い、成牛になったら雌牛は大伴氏が次の繁殖に回し、雄牛は田部等に払い下げられたのではないか。当時の牛は、2011/06/17の産経新聞の報道によると、「1300年前の馬も過労だった!?」<天武天皇(在位673~686年)の時代に造営が始まったとされる奈良県橿原市の藤原宮跡(特別史跡)で、造営期に建築資材を運んだ運河跡から見つかった馬の後ろ足の骨に、過度な運動による関節炎のような症状があることが17日、奈良文化財研究所の分析でわかった。奈文研によると、馬の骨の病変が見つかる例は珍しく、労役で酷使されたことが原因ではないか、としている。>当然のことながら、農耕牛も同じような状況にあったのではないか。

以上を検討してみると、

日本は応神天皇この方朝鮮半島政策は基本的に百済に肩入れして、応神朝では弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝。百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、雄雌各一頭の馬を阿知吉師(あちきし)に付けて献上した。和邇吉師(わにきし)が論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻を持って来朝。手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき、などとあって、新羅からの来朝者もあったが百済からの来朝者が圧倒的に多かった。話は大きく飛んで、雄略天皇の時代にも「雄略天皇廿年冬 高麗王大發軍兵 伐盡百濟」「同廿一年春三月 天皇聞百濟爲高麗所破 以久麻那利賜汶洲王 救興其國」(雄略20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略天皇は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させた)とあり、大伴金村が「改使而宣勅 付賜物并制旨 依表賜任那四縣・・・或有流言曰 大伴大連與哆唎國守穗積臣押山受百濟之賂矣」(使いを改めて宣勅す。賜物並びに制旨を授けて、表(百済の上表文)によりて任那四縣を賜う。ある人つてごとして曰く、大伴大連と哆唎國守穗積臣押山と百済の賂を受けたり)<任那四県割譲事件>とあり、四県割譲がそんなに大きな意味を持たないと思うのだが、とにかく、継体天皇治世の朝鮮半島任那への出兵(継体21年、近江毛野を大将とし、六万人の兵が向かったという)は我が国の経済を疲弊させたようである。この出兵の状況を有り体に言うと、継体天皇が六万人の兵員を用意し近江毛野につけてやったわけではなく、毛野が途中で兵員を集め朝鮮半島へ渡ると言うことで、六万というのはその予定数だったと思われる。当然、各地域の割当数は朝鮮半島に近くなるほど多くなり、六万の数を割り当てるなら、私見で恐縮だが、九州北部が三万、中国四国が二万、畿内ほかが一万となったのではないか。当時の人口がどれほどかは解らないが、地域の経済活動に大きな影響を及ぼすこんな数値なんて受け入れられるはずもなく、近江毛野は徴兵の段階で筑紫国造磐井と争うことになった。十分な兵員のいなかった毛野は当初は筑紫国造磐井に押され気味だったが、物部麁鹿火大連の援軍により朝鮮半島に渡った。しかし、彼は兵法が解らなかったのか、朝鮮半島に渡った著名将軍たち(例、応神天皇と仁徳天皇、大伴磐と大伴狭手彦)とは違い前線の将軍と後方のロジスティクス(兵站)の意味がわからなかったようだ。毛野の場合は軍事費ばかりがかかり成果はゼロに等しかったのではないか。働き手の男子は徴兵されるや物資は徴用されるで九州北部や中国四国の人は大変だったと思う。毛野は何の成果もないまま帰国したのであるが、安閑天皇の治世に入って真っ先に行ったのはその後始末であろう。不況の立て直しには古今東西を問わず公共事業が有効かと思うが、安閑天皇、大伴金村大連のコンビは屯倉の設置を行った。この屯倉というのは倉庫ばかりでなく国営田畑まで備わった百姓は労働と耕作技術を提供し、収穫を公(おおやけ)と私(わたくし)で分け合ったようである。屯倉の設置数も疲弊度の高い九州北部や中国四国を多くし、東日本へ行くに従って少なくしたようである。徴税吏員も櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士は大伴氏の勢力があった地域の人が多いのではないか。また、犬養氏は伴造の県犬養連、若犬養連は後世の和泉国を本貫としていたといい、これまた大伴氏の勢力下にあった人ではなかったか。海犬養連、阿曇犬養連は筑紫国を本貫にしていたという。九州北部の屯倉を重視していたからであろうか。但し、阿曇犬養連は摂津国西成郡安曇江の人という見解もあり、海犬養連氏ともども摂津国あたりあるいは和泉国、紀伊国海部郡の人だったのかも知れない。
一説によると、継体天皇の崩御後「継体・欽明朝の内乱(「辛亥の変」)」が起こり、継体天皇の次の天皇は欽明天皇であり、安閑、宣化の入る余地はない、とか、欽明朝と継体朝(安閑朝・宣化朝)の二朝が並立していた、とか、言う説があるが、安閑、宣化の両朝が天皇家の系図に入る余地がないのなら両朝の『記紀』における説話は全部事実ではなくなり、二朝並立の場合は主流が欽明朝で傍流が継体朝となるようだ。安閑、宣化両天皇が実在しなかったならば、安閑紀にある屯倉の設置の話などはせいぜい大伴金村大連の計画倒れと言うことになるのだろう。しかし、実際には屯倉のその後の話は宣化朝、欽明朝と続いており、
宣化紀には
「宣化元年夏五月 脩造官家 那津之口 又其筑紫肥豐 三國屯倉 散在縣隔 運輸遥阻 儻如須要 難以備率 亦宜課諸郡分移 聚建那津之口 以備非常」とあり、
欽明紀には
「欽明16年秋七月己卯朔壬午、遣蘇我大臣稻目宿禰・穗積磐弓臣等、使于吉備五郡、置白猪屯倉。」
「欽明17年秋七月甲戌朔己卯、遣蘇我大臣稻目宿禰等於備前兒嶋郡、置屯倉。以葛城山田直瑞子、爲田令。田令、此云陀豆歌毗。」
「欽明17年冬十月、遣蘇我大臣稻目宿禰等於倭国高市郡、置韓人大身狹屯倉言韓人者百濟也・高麗人小身狹屯倉。紀国置海部屯倉。一本云「以處々韓人爲大身狹屯倉田部、高麗人爲小身狹屯倉田部。是卽以韓人・高麗人爲田部、故因爲屯倉之號也。」
宣化、欽明両朝の屯倉の話を合わせると九州北部と中国四国の屯倉の話になるようだ。特に、欽明朝の屯倉設置に関しては蘇我大臣稲目宿禰の名が出てくるが、稲目は金村の意図するところは解らなかったが、屯倉は良く設置したようだ。

★まとめ

大伴金村や物部麁鹿火、はたまた、巨勢男人が、
一云 (1)凡牟都和希王娶杭俣那加都比古女子 名弟比彌[賣]麻和加 生兒(2)若野毛二俣王 娶母母思已麻和加中比彌[賣] 生兒(3)大郎子 一名(3)意富富等王 妹踐坂大中比彌王 弟田宮中比彌 弟布遲波良已等布斯郎女四人也
此意富富等王 娶中斯和命 生兒(4)乎非王 娶牟義都國造 名伊自牟良君女子 名久留比彌[賣]命 生兒(5)汗斯王 娶伊久牟尼利比古大王 生兒伊波都久和希 兒伊波智和希 兒伊波己里和氣 兒麻和加介 兒阿加波智君 兒乎波智君 娶余奴臣祖 名阿那爾比彌 生兒都奴牟斯君 妹布利比彌命也
(5)汗斯王坐彌乎國高嶋宮時 聞此布利比彌[賣]命甚美女 遣人召上自三國坂井縣 而娶所生 (6)伊波礼宮治天下乎富等大公王也

(上宮記に曰く、) 一(ある)に云う。 凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ)杭俣那加都比古(くいまたなかつひこ)が女子(むすめ)、名は弟比彌麻和加(おとひめまわか)を娶りて生める兒は若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)。 母母恩已麻和加中比彌(ももしきまわかなかひめ)を娶りて生める兒は大郎子(おおいらつこ)、一の名は意富富等王(おほほとのみこ)・妹(いも)踐坂大中比彌王(おしさかのおおなかのひめみこ)・弟(おと)田宮中比彌(たみやのなかひめ)・弟(おと)布遲波良己等布斯郎女(ふじはらのことふしのいらつめ)四人(よたり)。
この意富富等王、中斯和命(なかつしわのみこと)を娶りて生める兒は乎非王(おひのみこ)。 牟義都國造(むげつのくにのみやつこ)、名は伊自牟良君(いじむらのきみ)が女子(むすめ)、名は久留比彌命(くるひめのみこと)を娶りて生みし兒は汗斯王(うしのみこ)。 伊久牟尼利比古大王(いくむねりひこのおおきみ)が兒の伊波都久和希(いはつくわけ)‐兒の伊波智和希(いはちわけ)‐兒の伊波己里和氣(いはころわけ)‐兒の麻和加介(まわかけ)‐兒の阿加波智君(あかはちのきみ)‐兒の乎波智君(おはちのきみ)、余奴臣(よぬのおみ)の祖(みおや)名は阿那爾比彌(あなにひめ)を娶りて生みし兒の都奴牟斯君(つぬむしのきみ)が妹(いも)布利比彌命(ふりひめのみこと)を娶りき。
汗斯王(うしのみこ)彌乎國(みおのくに)高嶋宮(たかしまのみや)に坐しし時に、この布利比彌命(ふりひめのみこと)甚(いと)美(うるわし)き女(みめ)と聞き人を遣わして三國坂井縣(みくにのさかないのあがた)より召し上げ、娶りて生める所は、伊波礼宮(いはれのみや)に天の下治しめしし乎富等大公王(おほとのおおきみ)なり。

上記のような系図を継体天皇に見せられても「またか」と思ったのではないか。おそらく当時の地方の中小豪族はほとんどがその種の系図を持っていたものと思われる。おそらく古墳時代にあっても<偽系図作り>の職業がすでにあったのではないか。大伴金村らが天皇の選定を急いだのは新天皇のご先祖さまの貴賤ではなく一刻も早く世の中を安定させ、紛争や対立を起こさないようにしようとしたためであろう。それに、凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ)などというのは垂仁天皇の第一皇子<本牟都和気命>のことではないかと難癖をつける人物も現在では少なからずいるのではないか。
新しく事業を興そうとするなら人、物、金が必要であるが、大伴氏はそのほとんどを提供しているのではないか。当時は貨幣経済の時代ではなかったので金の代わりに土地と言うことになろうかと思う。不況対策としての屯倉の設置が成功したかどうかは解らないが、おそらく疲弊度の高かった九州北部は「宣化紀」に「宣化元年夏五月 脩造官家 那津之口 又其筑紫肥豐 三國屯倉 散在縣隔 運輸遥阻 儻如須要 難以備率 亦宜課諸郡分移 聚建那津之口 以備非常」とあり、順調には行っていなかったようで筑紫肥豐三國の屯倉の貨物を那津之口に新設の官家に集積し修正を加えている。あるいは、「海表之國 候海水以來賓 望天雲而奉貢」とあるので、屯倉の設置は外国からの侵略に備えるためと言う向きもあるが考えすぎであろう。また、中国地方では欽明朝に『日本書紀』では欽明16年秋七月と欽明17年秋七月の二回だが蘇我大臣稲目宿禰を派遣し、屯倉を追加して設置している。欽明朝では、また、倭国高市郡や紀国海部郡という大伴氏の勢力下に屯倉を設置しているので大伴氏の勢力を削ぎ、天皇や蘇我氏の懐を暖めようとしたのではないか。この種の事業は短期集中で行うのが成功の正鵠かと思うが、安閑・金村コンビは要点をつかんでいたと思う。安閑天皇は在位が最長でも四年間と言うことで成果を見る(懐を肥やす)暇はなかったと思われる。
屯倉の設置が、継体・欽明の二朝並立の継体側の戦費調達手段と考えても安閑・宣化がなぜ九州北部や中国四国地方と結びつくのか解らない。
豪族の大伴と蘇我の覇権争いとも考えられるが、『日本書紀』欽明23年8月には大伴狭手彦が高句麗を討伐し、多数の珍宝を獲て天皇、稲目に献上したとある。天皇には七織帳だけだが、稲目には甲二領・金飾刀二口・銅鏤鍾三口・五色幡二竿・美女媛(媛、名也)幷其從女吾田子、送於蘇我稻目宿禰大臣。於是、大臣遂納二女、以爲妻居輕曲殿、とあり、女性まで贈っている。大伴が蘇我に潰されないための贈り物攻勢の一環か。
以上より判断すると、安閑朝の多数の屯倉設置は不況対策、経済活性化のためではなかったか。

 

 

 

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大彦と大伴

★はじめに

大彦も大伴も、はたまた、大王(おほきみ)や大久米も命名の発想は同じで、おそらく、彦も伴も王(きみ)も久米も何らかの地域や職域や同位者の長であり、その長を束ねる者あるいはそのヒエラルキーの頂点に立つ者が大彦なり大伴なり大王、大久米と呼ばれていた者なのだろう。彦は『魏志倭人伝』によると対馬国や壱岐国の長官で言わば畿内から遠く離れたところの遠隔地の中小豪族なのだろう。伴ははっきりしないが国語で「共」とか「等」とか書いて「とも」というのは「複数をあらわす意味である」という見解があり、複数の最小単位である二(二人)を「つま(tuma)」と言いそれ以上は「とも(tomo)」と言う、とする説がある。従って、「とも」とは同業あるいは同種の職の人のグループを言うか。王(きみ。君、公)は天皇の血筋につながる畿内の中小豪族を言うか。久米は、また久味(くみ)とも言い、「くみ」は漢字で書くと「組」となり、組織的な人の集まりを言うか。『記紀』の久米氏は軍事的性格が強いようなので、現今で言う師団とか旅団とか連隊を言ったものか。我が国でも戦後一時期までは企業の社名にも○○組とか××組とつけていた会社があった。しかし、組が組織の意味を持つ最盛期は江戸時代であり、上古にそんな意味があったのか、と言われれば少し問題が生じるが、組(くみ)の語源は「紐などを組み合わせる」意のクムの連用形という。即ち、AとBとをつなぐとか結ぶとか言うのに似ているというのだろう。その意味で、組(く)む、含(くく)むは「含めて仲間にする」意と言い、くみする(与する、組する)「クミ(組・仲間)」+「する」仲間になる、などは早くからあったという見解もある。
日本の上古における組織の成り立ちは中小豪族の寄り集まりという見解もあり、彦、伴、王、久米なども元々は中小豪族であり、言葉は悪いが、その力の弱い烏合の衆を大きな組織としてまとめ上げたのが大彦や大伴、大王、大久米ではなかったか。

★大彦などはたくさんいたのか

上古にあっては彦とか伴(伴造)とか君とか久米とかはあちこちにいたようなので、大彦などと称する人はあちこちにいたのか、と言うことである。例として、
大彦なら『記紀』には「第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。」とある大彦命と埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」とがある。現在は両者は同一人物と考えるのが多数かと思うが、別人と考える向きもあるだろう。
大伴に関しても『記紀』には大連(おおむらじ)で著名な大伴氏のほか、
『古事記』景行天皇「此之御世、定田部、又定東之淡水門、又定膳之大伴部、又定倭屯家。又作坂手池、卽竹植其堤也。」
『日本書紀巻第七』景行天皇五十三年冬十月、「於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而賜膳大伴部。」
とあり、ややニューアンスは違うものの東日本の大伴部は大伴大連氏とは関係がなく膳大伴部のことというとの説がある。但し、景行天皇の時代に「部」制度があったかは大いに疑問であり、また、「部」字の始用については、6世紀以降とする説や、天智朝の「庚午年籍(こうごねんじゃく)」からとする見解もある。そもそも、「大伴」の概念も景行天皇の頃にできたと思われ、「大伴部」は後世の作文かと思われる。
大王(おおきみ)は、キミ(君・公)のカバネは古くは在地の首長に対する尊称であったが、後にカバネに転用され『日本書紀』によると「公」は皇族の後裔と称する氏族に、「君」は地方の有力豪族(皇族系を含む)が称したようである。有り体に言えば天皇家の一強と中小豪族の多弱の世界であり、天皇家以外の使用は考えられないようである。
大久米については、久米は「組(くみ)」の意で「国を組むと言うことに起因する」という見解もある。即ち、久米氏は日本の国を組織化して国の態をあらしめた氏族と言うことになるのだろう。しかし、その後の久米氏は神武天皇の直属の軍隊として活躍している。このように直属の軍隊(久米)を持っていた氏族として天皇家のほか吉備氏、伊豫氏(伊予津彦命の子孫。四国は別名伊予之二名嶋と言い伊予国に最大勢力があったようである。)があろうかと思う。大伴氏については吉備氏への対抗上そのような組織はあったかと思うが、はっきりはしない。なお、『新撰姓氏録』には久米氏として二流が登載されているが、一方は天皇家の久米で、他方は大伴氏の久米か。天孫降臨の際、『古事記』の伝承では天忍日命・天津久米命が同格と言い、『日本書紀』・『古語拾遺』の伝承では同格ではなく天忍日命が大来目を従えるという異同があるが、おそらく天忍日命が従えたのは大伴氏の大久米であり、天皇家の大久米ではないと思う。但し、『新撰姓氏録』の両久米氏はいずれも上級伴造の大伴氏の系図を冒したものとする説もある。おそらく、大久米は大和国ばかりでなく、吉備国や伊予国、摂津国にも存在していたのではないか。いずれも今で言う各国の防衛大臣である。

★「大」の意味

一般に大彦、大伴、大王、大久米の「大」は同位者の中の第一位の者と考えられている。自力でその地位に就いたものか、はたまた、他の同位の者に推されてその地位に就いたものかは解らないが、世襲的地位を獲得したのは大王即ち天皇家であとはその臣下となり臣とか連とかのカバネを授与され国政に参画したようである。従って、ここで言うカバネに「大」の字がつく人はそのカバネの中の最有力者と言うよりはそのカバネの長として指揮、監督した人ではないのか。具体的には、大彦なら「彦」カバネの人は地域の首長が多いようなので一定地域を支配した人で現代的には市区町村長のカバネが彦なら市区町村をまとめた都道府県の知事のような人を言ったのではないか。また、大伴については「伴」は、殿守(とのもり)・水取(もいとり)・掃守(かにもり)・門守(かどもり)・史(ふひと)など天皇の内廷の業務やあるいは鍛冶(かぬち)・鞍部(くらつくり)・錦織(にしこり)・陶部(すえつくり)・呉服(くれはとり)など技能職を連想する向きも多いかと思うが、現実には現在の国家の統治権である三権に相当する業務を行わなければならず、大和朝廷の特定の職務(主として現在の行政に関する業務)を世襲的に分掌する官人集団即ち「伴」が発生した。その後、伴にも身分差が生じ伴造(トモノミヤツコ)―伴(トモ)―品部(シナベ、シナジナノトモ)の階層が生じ、さらに「臣、連、伴造、国造、百八十部」と分化し、その百八十部(モモアマリヤソノトモ)が伴に該当し、伴造のもとで多くの職務に分掌し、それぞれに品部を率い、朝廷に奉仕した。大伴とはこれら伴造を統轄するものであり、伴造は現在の各省庁大臣に相当し、大伴とは、畢竟、現今の内閣総理大臣に相当すると思われる。従って、大伴の氏の名が最後まで残ったのはその必要性からではないのか。大王は風にそよぐ葦のごとく、あるいは、小が大を飲むごとく、時代を読み、大豪族を取り込み自己の支配を完成したようだ。大久米は言わば各氏族の護衛隊のような軍隊で親衛隊とか近衛兵などと言われた類いの人ではなかったか。日本では古代にあっては武門の名家などと言ってもこの種の氏族がほとんどで、現在の自衛隊に相当する軍隊は事変が起きたつど各豪族に呼びかけて兵員を供出してもらい軍隊を編成したのではないか。何分にも当時は常備軍を持つと言うことは相当の経済力を持っていなければならなかったかと思う。失礼ながら天皇家は御身ご大切とばかりに、自分を守るのにキュウキュウとしていた。例えば、『魏志倭人伝』では「宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛(宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。)」とか「『令集解』職員令左衛士府条に引用される弘仁2(811)年11月28日付太政官符に大伴氏が靭負3000人を領して左右分衛した」とか、天皇も枕を高くして寝るにはこのくらいのことをしなければならなかったと言うことか。久米氏の没落が早かったというのも皇宮警察的業務から自衛隊的業務への転換が円滑にいかなかったからではないか。後任は大伴氏で天皇家の大久米も大伴氏の大久米も大伴氏の配下に入ったと言うことだろう。

★まとめ

大彦、大伴、大王、大久米はみんな一角の人物であり、中小豪族を束ねただけの大王がどうして国のトップに躍り出たかは不明であるが、神武天皇の懐柔策が功を奏したのか。神武天皇の自己保身も強烈で北の丹波氏対策としては現・京都市の賀茂氏を当て、西の吉備氏対策としては現・神戸市の大伴氏を当て大和の守りを鉄壁にしたのであろう。大和朝廷草創期では、神武天皇の時代は道臣命、大久米命、八咫烏が活躍し、崇神天皇の時は四道将軍、即ち、『日本書紀』に言う、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の四人の将軍が全国制覇に乗り出した。垂仁天皇の時代には、垂仁五大夫(すいにんごたいふ)として、『日本書紀』には「阿倍臣遠祖武渟川別、和珥臣遠祖彦国葺、中臣連遠祖大鹿嶋、物部連遠祖十千根、大伴連遠祖武日、とある。大彦系と大伴系の氏族が息長く活躍していることが解る。しかし、物事に難癖をつければ切りがないところで『記紀』では大彦命を崇神天皇の伯父で岳父と位置づけているが、一説では垂仁天皇の時代の人と曰っている。大彦命は三輪王朝の創設者の一人であり、道臣命(大伴氏)は磐余王朝の創設メンバーの一人か。大伴氏は磐余王朝の創設期にも、はたまた、垂仁五大夫にも名を連ねているので磐余王朝とか三輪王朝とか言っても両者はまったく無関係の王朝ではないと思う。阿倍氏や和珥氏は実務能力もさることながら天皇に娘を嫁がせ繁栄したようだ。大伴氏は長期にわたって大和朝廷を支えた実務派だったようだ。

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