縄文人は東南アジアから来たのか

★はじめに

過般の朝日新聞で、「縄文人は東南アジアから来たのか 初の全ゲノム解読、配列が類似 金沢大など(2018年7月12日/東京本社版/朝刊紙面37面社会)」とあったが、これって以前どこかで読んだことがあるニュースに似ているなと思い、インターネットの検索で探していたら、宝来聰著「DNA人類進化学」(岩波科学ライブラリー52)に似たような文章があった。それによると、

「一九八八年に埼玉県浦和市で人の頭骨が発掘された。この頭骨の一部分をくり抜いてタンパク質のコラーゲンを抽出して年代測定した結果、約五九〇〇年前(縄文時代前期)という結果が得られた。PCR法を利用してこのくり抜いた部分からミトコンドリアDNAを取り出し、塩基配列を解読することを試みることにした。PCR法による増幅を試みた。DNAがまったく増幅されない場合もあったが、浦和一号から抽出したDNAを増幅することには成功し、DNAの塩基配列を決定することができた。
DNAの増幅に成功したミトコンドリアDNAの二三三塩基の断片は、現代人の比較分析に用いた四八二塩基の領域に完全に含まれている。このうち塩基配列を決定できた浦和一号の一九〇塩基の領域について、一二一人の現代人の配列と比較してみた。その結果、浦和一号の配列は、日本人以外のアジア人二九人中、東南アジア人二人(マレーシア人とインドネシア人)とまったく同じということが明らかとなったが、六二人の現代日本人の中には完全に一致するものは観察されなかった。日本人のなかで浦和一号との違いが少なかった例を上げると、一ヵ所のみ変異が観察されたものが一五人、二ヵ所に観察されたものが八人であった。
この短い領域において浦和一号と三ヵ所から最高八ヵ所の違いが観察された日本人が三九人もいるということである。これらの結果から、約六〇〇〇年前に日本列島の中心部(現在の埼玉県)に住んでいた縄文人は、現代の東南アジア人と共通の起源を持つという可能性が示唆される。さらに六二人の現代日本人との比較では、一九〇塩基対の領域でわずか一ヵ所あるいは二ヵ所のみ変異の観察されたものが三分の一は存在したものの、同じ配列を示したものはまったく存在しないという、注目に値すべき結果が得られたのであった。
DNA情報の別の研究から日本人の中に少なくとも二つのグループ(グループI、グループII)が存在するということが明らかになっている。今回、塩基配列の解読に成功した日本人の遠い祖先と考えられる縄文人骨・浦和一号は、系統樹上の位置づけから、現代日本人に存在するグループのひとつであるグループIIに含まれることがわかっている。」と。

一方、金沢大学の「ニュース リリース」では、
「日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26 個体のゲノム解析を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡から出土した約2 千500 年前の縄文晩期の女性人骨で,縄文人の全ゲノム配列を解読した例としては世界で初めての公表となります。
この縄文人骨1 個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8〜2 千年前の東南アジア人など80 を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8 千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2 千500 年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。
このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。
特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト』の成果の一つとなります。現在,覺張隆史特任助教らはこの縄文女性を主役としたより詳細な解析結果について,別の論文を発表準備中です。
これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。
・・・
得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団のゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグループに分類できることが分かりました。 グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年前)の古人骨がそのグループに分類されました。また,このグループ1 に分類された古人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。さらに,伊川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。」と。

★疑問な点

1.浦和及び伊川津の人の概要は、
浦和一号人 性別:不明 mtDNA:不明(但し、M7cと言う説がある。縄文女性は南方系のmtDNA M系統と北方系のmtDNA N、A、G系統に大別されるようだ。)
伊川津人   性別:女性 mtDNA:未発表 伊川津人の研究の目玉は「全ゲノム配列を解読した」ことである。

これは朝日新聞が「縄文人は東南アジアから来たのか 初の全ゲノム解読、配列が類似 金沢大など」と言うセンセーショナルな見出しをつけているが、縄文時代のmtDNAにはM系統のほかN9bなどがあり、これは「現代の沿海州先住民や北海道の縄文人に多い。」とあり、縄文人には大別して南方系(M)と北方系(N)があったようだ。縄文時代は北海道、東北、関東までは北方系が優位で、かつ、多様性もあったのではないか。因みに、富山県小竹貝塚遺跡のmtDNAハプログループの構成比は、

「検出されたハプログループは、N9b:5個体(38.5パーセント)、M9a:3個体(23.1パーセント)、A:2個体(15.4パーセント)、M7:2個体(15.4パーセント)、G:1個体(7.7パーセント)であった。」と言い、
「現代日本人で最も大きな比率を占め、渡来系弥生人の主体と推測されているハプログループD4が、小竹貝塚から検出されなかったことは、ハプログループD4が渡来系弥生人の系統であるという仮説(篠田2007)を支持している。」
「中期以降関東縄文人に検出されるハプログループが、縄文時代前期に検出されたことは、縄文時代前期から中後期にかけての縄文人の遺伝的な連続性が証明されたこととなる。
また、すでに縄文時代前期において、北方(N9b、A、G)と南方(M9a、M7)という異なる起源地を持つ可能性のあるDNAの系統が混在していることが分かった。」
(以上、科博・人類研究部長 篠田謙一氏の解析による)

私見を言わせてもらえば、mtDNA M9aは「Haplogroup M9 – found in East Asia and Central Asia, especially in Tibet」とあり、M9aは南方系ではなくY-DNA D1bのご先祖さまがまだDであった頃一緒に北方経由で日本列島へやって来た女性陣ではないか。(但し、移動ルートについては諸説があり、M9はチベット高原から長江流域との説あり。)従って、南方系mtDNAはM7だけとなり、これは縄文男性が沖縄まで遠征し、多産を願って沖縄の女性を北日本にまで連れてきたのではないか。但し、沖縄のM7aと北日本のM7aはその後の突然変異等から少し違うという説がある。

2.「東南アジアの先史時代の人々は,6 つのグループに分類でき、グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年前)の古人骨がそのグループに分類されました。また,このグループ1 に分類された古人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。・・・本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。」と。

何やら昔懐かしい、アンダマン諸島とか、オンゲ族とか、ジャラワ族とかが出てくるが、これらの人々と日本人(縄文人)が無関係とは言わないが、国際機関の近時の見解では日本人とアンダマン諸島人とは共通の祖先から出たという。本当なのかという面持ちだ。あれやこれや思料すると、日本人は男女ともに南方からやって来たと言うことを言いたいようだ。縄文人とアンダマン諸島人の共通な点と言えば、子供のいない夫婦が多く、乳幼児の死亡率が高い、場合によっては女性の高齢出産も同じかもしれない。
「ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年前)の古人骨が・・・ゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。・・・本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。」と言うが、たった一例(浦和一号人を入れても二例)をもって「日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがある」と言えるのか。それに伊川津人には「縄文人同士の抗争や食人風習の可能性」があるといわれ、当時の一般的な縄文人とは違う人種かとも思われる。大陸南部地域からやって来たmtDNA M7a、b、c(浦和一号か)等は現在の日本人にもあるがその比率は低く「遺伝的に深いつながり」とまで言えるかは疑問だ。男性のY-DNA D1bがアンダマン諸島からやって来たとも言うかもしれないがルートは確立されているのか疑問。

★終わりに

雑誌名:Science
論文名:The prehistoric peopling of Southeast Asia
上記論文の研究の主体はケンブリッジ大学だそうで、論文には日本人の著者もたくさんいるようだが、何か無理をして先史東南アジア人と我が縄文人を結びつけたようでがっかりした。朝日新聞の報道では覺張先生の単独研究かと思いきや日本にも共同研究者がいたようで、東アジアの人類の発祥地は東南アジアにあり、と言うような見解に凝り固まっているようだ。東南アジアは古モンゴロイドの宝庫で日本や北東アジアでは古モンゴロイドはアイヌ人だけであり、日本と東南アジアは疎遠なのではないか。無論、日本にもmtDNA M7aのような南方系と思われる人もおり、現代も先史時代も10%程度の割で全ゲノム配列情報が似たような人がいるのではないか。

広告
カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

高天原神話は天皇氏の神話か

★はじめに

各国の神話はブリコラージュ(Bricolage。寄せ集めて自分で作る)で成り立っているそうで、理由は、先行する民族や隣接する民族の神話を引用したり、各地方の神話をひとまとめにしたりしながら神話が形成されてきたために、神話体系が寄せ集めの状態(ブリコラージュされた状態)となっているから、と言う。我が国の神話には代表的なものとして「高天原神話」、「出雲神話」、「琉球神話」、「アイヌ神話」などがある。そのうち「出雲神話」は『記紀』に書かれているものと『出雲国風土記』に書かれているものと二通りあるが、双方は主演者も出演舞台も神話の内容もほとんど違う。
「高天原神話」で主役を務めるのは大国主命であり、「出雲神話」では八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)となっている。
『記紀』では、当初、大国主と少名毘古那が協力して葦原中国の国造りを行い、少名毘古那が常世へ去ったあとは大国主命が独力で国造りを行った。葦原中国とは曖昧ではあるが今の日本国を言うのであろう。但し、『古事記』では少名毘古那が常世へ去ったあと大国主命の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である大物主神と国造りを行ったというもののようである。
一方、『出雲国風土記』では、いわゆる、「国引き神話」で、内容としては「八束水臣津野命が、遠く「志羅紀」「北門(きたど、きたと)佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという。志羅紀は新羅で、高志は越であろうが、北門佐岐、北門農波の北門(きたど)は不明。佐岐は岬を言い、農波は野原を言うのであろうか。但し、農波は良波(よなみ)とする写本もある。また、北門佐岐の佐岐を現・出雲市大社町鷺浦としたり、北門農波の農波を現・松江市島根町野波とする説もある。しかし、これは国引きの出発点も到着点も島根半島となりおかしくはないか。一般的には、北門佐岐(隠岐道前)、北門農波( 隠岐道後)とするもののようである。一層のこと、八束水臣津野命の大いなる勘違いとして、今の竹島や鬱陵島にしたらいいのではないか。
それに、八束水臣津野命の神名にしても臣というカバネは後世のものらしく、かつ、八束水は現・鳥取市気高町八束水に関係あるのではないか。また、『和名抄』因幡国気多郡勝部郷の勝部氏は土木工事(古墳造営か)に携わっていたという説もある。出雲国にも神門郡に杵築大社出雲臣氏に対抗した勝部氏もいるが、八束水臣津野命とともに出雲国にやって来た一族ではないかと思料する。国引き神話も一種の土木工事とみていいのではないか。『出雲国風土記』の「国引き神話」は出雲国の本旨とは少しずれたところにあったのではないか。因みに、八束水は八塚見で八は数の多いこと、塚は古墳のこと、見は廻(めぐる、~の辺り)の意で、八束水古墳群という遺跡名もあり、古墳の多い土地を言うのではないか。また、勝部氏(因幡国気多郡勝部郷、伯耆国久米郡勝部郷、越前国今立郡勝戸郷)は因伯地名より発祥した氏の名ではないか。
『古事記』(712)、『日本書紀』(720)、『出雲国風土記』(733?)は同じ頃に編纂されているのに、『記紀』と『出雲国風土記』がまったく違う内容であるのにも関わらず『出雲国風土記』の編纂者である出雲国造の出雲臣広島や筆者の神宅臣金太理及び各郡の郡司は特段の異を唱えていないところを見ると、当時にあって大国主命神話は忘却の彼方へと追いやられ、現国造(出雲臣広島)家の祖先伝承である八束水臣津野命の国引き神話が残っていたのであろう。一説に、現地で伝えられていたのは『出雲国風土記』の神話であって、『記紀』の神話は話が大規模で入り組んでいて大和朝廷による脚色ともとれる見解もあるが、出雲郡には巨大な建物(出雲大社)や四隅突出型墳丘墓と言う独自の墳墓、大量の銅剣、銅鐸の埋納など、あるいは、現在の全国の神社が祭神を出雲系の神々を主体とするなどを考え合わせると『記紀』に書かれた出雲神話もいい加減な話ではないと思われる。特に、出雲大社などは出雲国の力では当時は建設できなかったであろうし、因幡国や丹波国など、後世、古墳造営に活躍した国の人々はおろか大和国の人々が参加して建設されたものではないか。
換言すれば、ことほど左様に真実はどこにあるのか探索するのは難しく、『記紀』の高天原神話も本当かと言うことになる。

★高天原神話の発祥地

高天原神話(日本神話)を『記紀』により時系列にならべてみると、
①天地開闢 世界の最初に高天原で、別天津神・神世七代という神々が誕生。これらの神々の最後に生まれてきたのが伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊(伊邪那美・いざなみ)である。
別天津神・神世七代という神々は、言わば、露払いというところで、天皇家あるいは日本国民ないし国土の祖神は伊弉諾尊(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみ)であると言うことかと思われる。

②「国産み」と「神産み」 イザナギ・イザナミは自らが造ったオノゴロ島に降り、結婚して最初に淡路島が作られた。次に大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していった。さらに、さまざまな神々を生み出していった。一部内容ではイザナギは黄泉の国へ向かい、その後、黄泉のケガレを祓う為禊をし、この時もさまざまな神々が生まれた。
国家とは、一定の領土と国民と排他的な統治組織とをもつ政治共同体を言う、とあり、領土としてオノゴロ島、淡路島、大八洲等を造り、次いで様々な神々と称する国民を造ったのである。

③「アマテラスとスサノオの誓約」および「天岩戸」 素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)は根の国へ行途中高天原へと向かう。天照大神(天照大御神・あまてらす)はスサノヲが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えてスサノヲを迎えた。スサノヲはアマテラスの疑いを解くために誓約で身の潔白を証明した。しかし、スサノヲが高天原で乱暴を働いたためアマテラスは天岩戸に隠れた。そこで、神々は計略でアマテラスを天岩戸から出した。スサノヲは下界に追放された。
統治機構として天照大神を頂点とする高天原統治共同体ができたが、代表代行の素戔嗚尊の乱暴狼藉(実際は経済政策の失敗か何かであろう)で根の国(美祢の国か)へ追放。

④葦原中津国平定(国譲り) 高天原にいた神々は、葦原中国を統治するべきなのはアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に遣わした。最終的に大国主が自らの宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束する。
国家の運営がうまくいかない高天原は、その一隅で善政を布いている葦原中国に目をつけその乗っ取りを謀る。老齢の身になった大国主命は葦原中国の譲渡を決意。その対価は豪壮な宮殿(出雲大社)で、大国主命の別荘になったか。本邸は大和国にあったか。有り体に言うと、「国譲り神話」とは高天原(大和国)のある程度の他国平定即ち国家統一の説話ではないのか。

⑤天孫降臨 アマテラスの孫である瓊々杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が葦原中国平定を受けて日向に降臨した。ニニギは木花開耶姫(木花之佐久夜毘売・このはなさくやひめ)と結婚し、木花開耶姫は(主に)火中で御子を出産した。
ここはよく言われるように葦原中国(中心地は現在の島根県か)を平定しながら、どうして九州の日向国に降臨したか。但し、この日向は、福岡市西区と糸島市の境界あたりに、日向峠、日向山、槵触(くしふる)山の地名がある、(イザナギは筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原というところで禊ぎをした)と言い、福岡県のことという説あり。『記紀』の原著作者がいろいろな説話の継ぎ接ぎに失敗したか。今までの高天原神話の一貫性から逸脱し、まゆつばの話が多くなるか。火中の出産の話はこのほかに、垂仁天皇と狭穂姫との間の本牟智和気(ほむちわけ)命の火中の出産の話がある。

⑥「山幸彦と海幸彦」 ニニギの子である海幸彦・山幸彦は山幸彦が海幸彦の釣り針をなくした為、海神の宮殿に赴き釣り針を返してもらい、兄に釣り針を返し従えた。山幸彦は海神の娘と結婚し彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(鵜草葺不合命)という子をなした。ウガヤフキアエズの子が神日本磐余彦尊(神倭伊波礼毘古命・かんやまといわれひこ)、後の神武天皇である。
兄弟の遺恨ないし葛藤の話は世界の神話のあちこちに見られるようで、例として、カインとアベル、エサウとヤコブが取り上げられている。これも有史時代に入ってからの天孫族による隼人族懐柔の話を神代の時代に遡らせたものか。

⑦「神武東征」 カムヤマトイワレヒコは兄たちと謀って大和を支配しようともくろむ。ヤマトの先住者たちは果敢に抵抗し、カムヤマトイワレヒコも苦戦するが、結局は成敗される。彼は畝傍橿原宮の山麓で即位する。これが初代天皇である神武天皇である。
神武東征の話は、「神武東征とトゥアサ・デー・ダナン(ダーナ神族:ケルト神話では神の一族)のアイルランド征服神話<吉田敦彦学習院大学名誉教授説>」、「神武東征とアレキサンダー大王の説話」などが類似性を指摘されている。

★まとめ

天孫族の天降り先の話として、淡路島とか日向国が出てくるが、大和盆地の出身と思われる天皇氏がどうして海人族に祖神を求めなければならないのか。天皇氏の第一の家臣は大伴氏の前は久米氏で、久米氏のいわゆる久米歌はみんな山の民の歌で天皇氏の祖神が海の近くの淡路島や日向国に天降ったとは到底考えられない。これは、畢竟、高天原神話が他の氏から天皇氏に取り入れられたもので、双方は親しい間柄であったと思われる。伊弉諾尊・伊弉冉尊が天降った淡路島の有力豪族は後世の大伴氏だったのではないか。おそらく、現在の伊弉諾神宮のあるあたりは古く(応神天皇以前)は大鞆(おおとも)と言われていたと思われ、これが大伴氏の氏の名や応神天皇の諱(いみな)の大鞆和気の起源となったのではないか。応神天皇と仁徳天皇は母堂が大伴氏出身と思われ淡路島で育ったのではないか。それかあらぬか、このお二方はめっぽう淡路島に縁があるが、天皇家と淡路島の関係は、
『古事記』
第三代安寧天皇 子・磯城津彦命 孫・和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。
第十四代仲哀天皇 此之御世、定淡道之屯家也。
第十六代仁徳天皇 欺大后曰「欲見淡道嶋。」而、幸行之時、坐淡道嶋、遙望歌曰、
淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由(おしてるや、難波の埼よ 出で立ちて わが国見れば、粟島 淤能碁呂島(おのごろしま)、檳榔(あじまさ)の島も見ゆ。佐気都(さけつ)島見ゆ。)
これは仁徳天皇が吉備国の黒比賣に会いに行ったのではなく、淡路島へ天皇の息子たちに会いに行ったら現代流に言えば「パパ、何しに来たの」と言われ、天皇はふて腐って大伴某と淡路島を回り昔を懐かしんだものではないか。ほかに、以下の文もある。
此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。故切是樹以作船、甚捷行之船也、時號其船謂枯野。故以是船、旦夕酌淡道嶋之寒泉、獻大御水也。茲船破壞、以燒鹽、取其燒遺木作琴、其音響七里。爾歌曰、
『日本書紀』
神功皇后十年春二月「香坂王・忍熊王・・・・・乃詳爲天皇作陵、詣播磨、興山陵於赤石、仍編船、絚于淡路嶋、運其嶋石而造之。」
第十五代応神天皇二年春三月「又妃皇后弟々姬、生阿倍皇女・淡路御原皇女・紀之菟野皇女」
同十三年春三月「一云、・・・・・、時天皇幸淡路嶋而遊獵之。」
同二十二年春三月「仍喚淡路御原之海人八十人爲水手、送于吉備。夏四月、兄媛自大津發船而往之。」
同二十二年秋九月「天皇狩于淡路嶋。」
以下略。
これらの文章を見ると天皇氏は早くから淡路島に別荘を持っていたようだ。そのためか天皇氏の発祥の地は淡路島という説もある。天地開闢の地が淡路島であっても何らおかしくはないと言うことなのだろう。一説に淡路島の天皇氏の勢力として天日槍一族や物部氏一族を挙げる向きもあるが根拠は薄いのでは。淡路島には出石神社(式外社)があるのでその可能性もなくはないが、これは大伴氏が邪馬台国(大和国)と狗奴国(吉備国)の戦いで天日槍命を淡路島に駐在させていた痕跡ではないのか。物部氏の本拠地も淀川中流域で、同族の鬱(内)氏とか、穂積氏とか、伊迦賀氏とか、いわゆる川部氏と思われ、何やら高句麗の「始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降出生」の河伯女郎即ち川部氏に似ている。ほかに丹波氏(丹波道主命)を京都府向日市、紀臣氏を大阪府堺市など。遠くにいては肝心の時にお役に立てなかったら元も子もない。
一応、大伴氏と淡路島を結びつける資料は何もない。しかし、天皇氏と淡路島が緊密になるのは第十五代応神天皇からで、「第十四代仲哀天皇 此之御世、定淡道之屯家也。」というのは、第十五代応神天皇の間違いではないか。失礼ながら、仲哀天皇の皇后である神功皇后はその存在に疑問詞のつく人物でその夫や如何にと思われる。仲哀天皇が存在していたとしても時代が違う。
以上をまとめると、天皇氏の高天原神話は元々は大伴氏の伝承で天皇氏が大伴氏から譲り受けて潤色したものではないか。天皇氏は山の民と思われ、大伴氏の海の民を天皇氏のものとしてなぞったものではないか。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

邪馬台国の官人

★はじめに

『魏志倭人伝』には邪馬台國について、投馬國より水行十日陸行一月かけて到着するとなっており、そのあとに「官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳堤」とある。当時の魏の役人も官僚機構に関心が高かった見えて真っ先に「官」と出てくる。これらの官名から推測すると内閣総理大臣とか外務大臣とか国税庁長官などの官名ではなく、個人の名前の一部を聞き取ったようだ。その官名の意味するところは、
1.伊支馬(イクメ、活目入彦五十狭茅尊、垂仁天皇)
2.彌馬升(ミマツ、観松彦香殖稲天皇、孝昭天皇)
3.彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ、御間城入彦五十瓊殖天皇、崇神天皇)
4.奴佳堤(ナカツ、足仲彦天皇、仲哀天皇)
と勝手に仮定する。もちろん、諸説あるが検討を割愛させていただく。

古代の我が国では那(ナ、土地)と名(ナ、名前)は同義で、名から那を推測してみると、
1.伊支馬(イキマ、イクメ) 美作国久米郡久米郷(現・岡山県津山市宮尾。宮尾遺跡)
2.彌馬升(ミマス、ミマツ) 播磨国佐用郡佐用郷(現・兵庫県佐用郡佐用町)
3.彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ) 美作国(比定地不詳。現・岡山県美作市か)
4.奴佳堤(ナカテ、ナカツ) 吉備の中山(中山神社。現・岡山県津山市一宮)

以上は意図的に選んだものではなく、邪馬台国と狗奴国の紛争が大和と吉備の戦い(古墳時代に入っても大和と吉備の序列は変わらない。即ち、邪馬台国は大和であり、狗奴国は吉備なのである)なら、大和と吉備の地名に目が行くのが当たり前で『和名抄』の郡郷名あたりを基準にしたら上記のようになった。

★上記の地域名を選定した理由

1.伊支馬(イキマ、イクメ) 当時の「久米」の地名で有力どころは、大和国高市郡久米郷(奈良県橿原市久米町)、美作国久米郡久米郷(岡山県津山市宮尾)、伊予国久米郡(愛媛県松山市久米駅界隈) があり、大和(邪馬台国)にも吉備国(狗奴国)にもあった。久米は久美・久味(=組)と同義で何らかの組織を言ったものか。即ち、当時にあっては軍隊を言い、久米郡ないし久米郷は軍隊の駐屯地を言ったものか。伊支馬はその長で軍隊が司令官を失うと言うことは大変なことだったと思う。大和の大久米命のような人だったか。狗奴国はあるいは久米国の音を写したものか。
2.彌馬升(ミマス、ミマツ) 『播磨国風土記』に「飾磨郡」に大三間津彦命とか「讃容郡」の邑宝里に弥麻都比古命、同里・久都野の段に弥麻都比古命とあり、播磨国佐用郡と美作国吉野郡は隣接して双方行き来があったようで、かなり後世になるが「明治29年(1896年)4月1日 岡山県吉野郡石井村の所属郡が兵庫県佐用郡に変更。兵庫県佐用郡江川村が岡山県吉野郡讃甘村の一部(中山)を編入。」という記事がある。彌馬升(ミマス、ミマツ)も現在の兵庫県佐用郡佐用町もしくは姫路市あたりの出身か。

<美作国の吉野郡ないし吉野郷について>
『和名抄』には、吉野郡はなく吉野郷が英田郡と勝田郡にある。
*吉野郡の文献初出は、応仁二年(1468)十二月二十九日 後花園上皇院宣「美作国吉野郡粟井庄」(現・美作市粟井中など)
文化年間(1804~18)成立。地誌「東作誌」「文明三年(1471)英田郡の七郷を割いて成立」
以上より美作国吉野郡の成立は15世紀後半か。
郡域は、美作市の一部、英田郡西粟倉村の全域、兵庫県佐用郡佐用町の一部(明治11年<1878>)
*英田郡吉野郷 『和名抄』東急本に記載あり。高山寺本には記載なし。
推定郷域 美作市山手から五名
*勝田郡吉野郷
推定郷域 勝田郡勝央町上香山、曽井、田井、豊久田、美野等。
古墳時代に入ってから美作最大の首長勢力の存在した地域という。美野高塚古墳、美野中塚古墳、田井高塚古墳、植月寺山古墳など。
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳堤が邪馬台国へ行ったあと英田郡吉野郷から勝田郡吉野郷へ移住してきて、覇権を確立か。双方の吉野郷はそんなに離れてはいない。

3.彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ) 美作国は発祥地未詳であって、従って地名の語源も定かではない。彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ)即ち御間城入彦に相当する部分は弥麻都比古と類似性が見られるのではないか。地域的には現在の岡山県美作市あたりか。
4.奴佳堤(ナカテ、ナカツ) 吉備国には中山という地名がやや多いそうで、その中でも「吉備の中山」と言われるところは、①備前一宮の吉備津彦神社と備中一宮の吉備津神社が鎮座している中山、②美作国一宮中山神社のこと、と言う二箇所の地名が著名である。一般的には岡山市の中山が通説のようだが、津山市の中山神社説も折口信夫・池田弥三郎・山本健吉等の著名人の賛同を得て有力説にのし上がってきているようだ。ここでは自己の主張に有利な美作国一宮中山神社説を正とする。

以上を総括すれば、四人の官人は現在のJR西日本姫新線佐用駅から美作千代駅にかけての豪族だったか。中国山地南麓に位置し、当該地は一般に砂鉄の産地と言われているが、吉備の製鉄については「岡山県内では遅くとも五世紀の中頃<月の輪古墳(つきのわこふん)の墳頂から出土した一点の鉄滓を根拠とする。岡山県久米郡美咲町飯岡(ゆうか)の大平山(標高320メートル)山頂に5世紀前半に築かれた古墳>に始まった製鉄は、六世紀後半以降、箱形炉による操業が盛んになり、「まがねふく吉備」と呼ばれるに至る(光永真一「岡山県の歴史」P.68) 」という。邪馬台国時代には吉備では製鉄は行われていなかったという見解だが、一般論として「小林(行雄)博士は弥生時代における農耕開始後の階級発生は必然ではなく,唯物史観からみた単なる公式的見解にすぎないことを自認しつつも,鉄器使用の普遍化を鉄製の鍬鋤刃先の採用と捉え,それが農地の開墾を容易にし,生産力の急激な増大に至らしめ,巨大な古墳の築造をも可能にしたとする。さらには日本列島における階級社会の出現を急速に推し進める原因ともなったと推断したのである。」と言い、弥生時代後期即ち邪馬台国時代には製鉄があったと言う見解は考古学者には多いようである。

★吉備国の分断工作は何のためか

当時の播磨国から西は吉備国の勢力下にあったと思われ、こんな分断工作を行ったのは播磨国の隣国摂津国(当時は津ノ国)の豪族で邪馬台国の雇われ軍師であった大伴氏であったと思われる。大伴氏が分断工作を行った理由は、
1.播磨国の主力豪族である伊和大神<播磨国宍禾(しさわ)郡伊和村を本拠とする伊和君(いわのきみ)に祭られて,揖保(いいぼ),宍禾,讃容(さよ)などの諸郡に事績を残している。>の逃げ道の確保。
大伴氏は吉備国へ侵攻する際、まず播磨国の伊和大神との前哨戦を行ったが(実際には大伴軍は天日槍命が主導した)、大伴某はその勝利を事前に確信し、殺戮等は行わず、現在のJR姫新線に沿って追いやった。伊和君は播磨国の古墳造営の総監督とも言うべき氏族であったが、古墳造営がなくなると伊和君も消滅したという。
2.大伴氏は邪馬台国のために鉄の確保に奔走したが、美作国久米郡久米郷、播磨国佐用郡佐用郷、美作国英田郡吉野郷は砂鉄の産地と思われ、中山神社も祭神が金属にまつわる神がほとんどだ。その砂鉄を鉄鋌にして邪馬台国に今で言う鉄工所を建てて鉄器(主に鋤鍬の類いか。豊鍬入姫命<とよすきいりひめのみこと>という皇女がいた。卑弥呼女王の宗女台与のことか)の製造をしようと思ったが、卑弥呼女王一族の人の反対で断念したか。
しかし、邪馬台国時代にも鉄器製造群落遺跡があり、兵庫県淡路市黒谷にある弥生時代後期の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)は、国内最大規模の鉄器製造群落遺跡である、と言い、滋賀県彦根市稲部、彦富両町にある弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の稲部遺跡は同時代では他にない規模という鉄器工房群の遺構と言う。
大伴氏は邪馬台国(大和国)での鉄工所建設を諦め対狗奴国(吉備国)前線基地のために淡路島に、後方支援基地のために近江国に鉄工所を建てたのではないか。しかし、鉄器工房はいいのだが、我が国には弥生時代の製鉄遺跡がないと言うのが金属の専門家の意見で、大規模な鉄器工房をまかなうのに全部が全部輸入品でまかなうとは考えづらく、何らかの形で鉄素材が増えたので二大工房ができたと思われるので今後の遺跡の発見を待ちたい。製鉄遺構の調査例で最古のものは6世紀後半と言い、遺構は製鉄炉、作業場、廃滓(はいさい)場、燃料置場がセットになっているという。製鉄原料には赤目(あこめ)とよばれる砂鉄(さてつ)が、燃料にはアベマキが用いられた。注目したいのは「このころの和鉄製錬は、地面を掘って築いた野炉(のろ)で砂鉄と木炭をあわせて溶融したものといわれる」との一文で、野炉は後世の竪形炉の前身の炉ではないか。即ち、竪形炉は、地面を直径約 60 ㎝の円筒形に深く掘った部分を炉とし、地上部に粘土で煙突を設けた構造です。炉の後ろには踏ふいごと呼ばれる送風装置が設置され、炉の中に風を送り込むための羽口が1本取り付きます。この羽口は内径約10㎝、長さ約60㎝で、箱形炉の羽口に比べて大型です。未だ美作国北辺からは鉄滓などを伴う炉穴などは出てきていないようだ。

★まとめ

邪馬台国の官人は『魏志倭人伝』からは何をしていたかは解らないが、狗奴国との紛争状況から見て紛争解決要員として期待されていたのではないかと思われる。しかるに、もし四人の官人が吉備国出身(地位はヨーロッパの辺境伯のようなものか)としたならば、その動きは非常に鈍いものになっていたと思われえる。あまり期待できないものをスカウトしてきた大伴氏は卑弥呼女王一族(神武天皇の子孫か)から総スカンを食ったのではないか。しかし、大伴氏は吉備国の勢力下にあった播磨国の隣国摂津国の領主で、邪馬台国としては大伴氏に頼るほかはなかったのではないか。大伴氏は戦略家だったらしく、吉備国(狗奴国)攻略の前哨戦として播磨国の伊和大神を破り、吉備(後世の備前、備中)へ進攻しようとしたとき卑弥呼女王が逝去したようである。休戦協定としては豊鍬入姫命(『魏志倭人伝』に言う台与)の邪馬台国への輿入れ、鋤、鍬などの膨大な鉄器を嫁入り道具(邪馬台国から見ると戦利品)として持参等が取り決められたのではないか。
伊和大神は架空の神とする向きもあるが、その信仰圏は播磨国揖保郡、讃容郡、宍禾郡に及び、播磨国宍禾郡伊和村を本拠としていた。その事績としては土地の開拓、境界の設定、酒の管理、外敵追放などがあるようだ。「石作の里(もとの名は伊和)  石作と名づけるわけは、石作首らがこの村に住んでいる。庚午の年(670)に名を改めて石作の里とした」とあるように、伊和大神の本性は古墳造営ないし製鉄業で、伊和は石(イハ)の意味か。付近には波賀(はが)の地名もある。波賀はハカ(墓)のことか。兵庫県宍粟市の波賀町は奈良時代に「波加」、平安時代に「伯可」の表記で記録のある地名、とある。
邪馬台国の拡張策は現今で言う手に職のある中小豪族を取り込み、経済発展で富国強兵を実現しようとしたもので、『魏志倭人伝』の言う倭国大乱はどの程度のものだったか。また、雄略天皇(倭国王武)の中国の宋(南朝)の順帝に送った上表文では戦争、戦争また戦争で領土を拡張したようなことを言っているが本当か。
吉備国(狗奴国)は、鉄、米(吉備国の語源は黍という説もある)、塩などで邪馬台国より優位に立ち、最終的に邪馬台国の後裔国家である大和朝廷に従属するようになったのは応神天皇の時代ではないかと思っている。後世の美作国の四人の豪族が邪馬台国(大和朝廷)に寝返ったからと言って吉備国が滅びると言うことはなかったのである。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

弥生時代

★はじめに

過日(2018年5月15日)の全国各紙に「卑弥呼の時代の?桃の種 年代測定、邪馬台国論争に一石」とか「測定した教授「集大成」 モモの種年代測定」とか「邪馬台国 畿内説後押し – 西暦135年~230年と判明/纏向遺跡のモモの種、年代測定」というような見出しが一斉に書かれていた。<邪馬台国 畿内説後押し>などとあったので有力な傍証でもあったのかと思いきや某紙には「(加速器質量分析法は)近年の研究では日本の試料は国際的な補正データとズレがあることが指摘され、日本独自の補正グラフの作成が求められている。」とのおまけまでつき、2003年5月19日の国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表した、「水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは、定説より約500年早い紀元前1000年ころ」と言うのと変わらないじゃあないか、と言う思いだ。
国立歴史民俗博物館の研究チームが水田稲作開始期の調理用の土器についているススなどの炭化物を炭素14年代測定して発見したという。その主導的役割を担った国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎博士が、過般(2015年8月20日)、『弥生時代の歴史』(講談社刊、講談社現代新書2330)を上梓され、弥生時代あるいは弥生遺跡が従来考えられていたのとはかなり異なったものであることを述べられているので的外れかもしれないが検討をしてみることとする。

★前提としていること

藤尾博士はその著『弥生時代の歴史』の「はじめに」の項で、
1.弥生時代とは、本格的な水田稲作が九州北部で始まった紀元前10世紀から、定型化した前方後円墳が近畿に造られて古墳時代が始まる後3世紀までの約1200年間を弥生時代とする。
2.文字や暦のない時代の遺跡や遺物の年代は、考古学的な方法と自然科学的な方法を用いて調べる。
3.自然科学的な方法では炭素14年代測定法(AMS=加速器資料分析法)を使用する。具体的には、まず、試料の炭素14年代の測定はAMS(Accelerator Mass Spectrometry = 加速器質量分析計・装置の小型化に伴い多くの施設で入手可能)で行い、校正曲線で較正年代(暦年代・Calendar year)に換算する。
校正曲線とは、暦年代が解っている年輪ごとに炭素14年代測定して作られたデータベース。その結果を修正して統計処理したものが較正年代であり、較正年代を結んで線状に表現したものが較正曲線である。一般的には、Y軸には炭素14年代、X軸には較正年代が当てられ、座標平面に較正曲線が描かれる。
年代の読み方には次の二通りがある。
*炭素14年代(炭素14の動植物の内部における存在比率は死ぬまで変わらない。死後は新しい炭素の補給が止まり、存在比率が下がり始める。この性質と炭素14の半減期が5730年であることから年代測定が可能となる。)
*較正年代(暦年代・Calendar year)(年縞堆積物および年輪年代により年代の較正が行われる。年輪年代では、およそ12600年程度までの放射性炭素年代値 (BP) と実際の年代の対応表が作られている。計算式でもできるという。)
科学技術の技術は日進月歩なので前の測定と後の測定に大きな差があることがある。
4.弥生開始年代 暦博の当初の測定では弥生開始較正年代は紀元前9世紀であったが、その後の試料の増加で紀元前10世紀後半となった。これに対する批判として、
①従来の弥生開始年代をまったく変える必要はない。暦博の試料に問題がある。
②従来の年代観よりは遡るが暦博の言う前10世紀までは遡らない。近隣地域の朝鮮半島や中国の遼寧地域の考古学的知見により判断している。
③暦博説を肯定する。土器型式ごとの較正年代に準拠している。
5.弥生時代とは、水田稲作を生活全般の中心においた文化。弥生時代には、弥生文化(本州、四国、九州)、続縄文文化(北海道)、貝塚文化(奄美、沖縄、先島)、縄文文化の四つの文化が存在していた。九州北部以外は水田稲作が始まるまでは縄文文化が続いていた。
6.弥生時代を、早期、前期、中期、後期に分ける。一度始めた水田稲作を継続し、古墳を作るのは鹿児島から宮城までの地域に限られている。北海道や沖縄では水田稲作は行われていなかった。東北北部では水田稲作をわずか300年しか行わず(水田稲作をやめた)、古墳を作らなかった。
7.弥生時代の登場人物 縄文人(弥生時代に日本列島にいて水田稲作を行っていない人) 弥生人(弥生時代に日本列島にいて水田稲作を行っている人) 外来人(外国から我が国へやって来た人。渡来人とも) 在来人(元々日本列島に住んでいた人) 倭人(縄文人と弥生人を統合した名称であろうが、鉄を求めて朝鮮半島南部に渡るようになってからあとの人)

★弥生時代の問題点

本当はここで藤尾博士の分類した弥生時代の早期、前期、中期、後期の各期における問題点を一点ぐらい取り上げて論じようと思ったのだが、冗長になり、何を言いたいのだなどとケチをつけられてはと思い、暦博の発表で物議を醸したと言ったら語弊があるかもしれないが、弥生時代の開始年代につき、Wikiー「放射性炭素年代測定」では、

「弥生時代の開始期は通説では紀元前5 – 紀元前4世紀ごろであったが、2003年3月の国立歴史民俗博物館の発表では約500年古い(早い)約3000年前(紀元前10世紀終頃、つまり、九州北部の弥生時代早期が前949年 – 915年から、前期が前810年頃から、中期が前350年頃から、それぞれ始まった。)に遡る結果が出た。2003年5月の日本考古学協会総会での報告は、衝撃、当惑、賛成、反発などとともに拒否、嘲笑などに覆われた。

その後、土器に付着した炭化物が海産物に由来する塩を使って調理や貯蔵されていた場合、前述した海洋リザーバー効果により年代が100年から500年古く推定されることが明らかとなった。このため、国立歴史民俗博物館は2014年に計測をやりなおした結果を発表し、過去の推定に間違いがあったことを認めている。」と。
但し、私見で恐縮であるが、国立歴史民俗博物館の2014年プレスリリースには訂正のことは載っておらず、逆に「企画展示ー弥生ってなに?!【2014年6月5日】」の「企画主旨」には「紀元前10世紀に九州北部で水田稲作が始まってから云々」と曰っている。これに対しWikiー「国立歴史民俗博物館」(<弥生時代開始時期繰り上げ説>の項)では、「北海道埋蔵文化財センターグループや九州大学グループからの指摘により次第に論調が弱くなってきた。
そして、2014年の論文で博物館の研究チームは、日本縦断的に土器を調査することにより炭素14年度測定法では土器に付着した海産物の海洋リザーバー効果などにより100-500年古くでることを認めるに至り[弥生移行期における土器 使用状況からみた生業 – 国立歴史民俗博物館 国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014年2月 p283-347]、弥生時代開始時期繰上げ論は破綻した状態になっている。

以上を総括するならば、「弥生時代開始時期繰り上げ説」は専門家の間ではまだ安定した通説にはなっていないのではないか。

★まとめ

我が国は縄文時代はもとより、弥生時代でも未だ統一国家はなく、従って、藤尾博士の言う弥生時代の早期、前期、中期、後期というのも弥生文化即ち水稲稲作が浸透している本州、四国、九州の稲作地帯における時代区分であって、これらの地域(本州・四国・九州)であっても稲作を行っていないところは縄文文化だった。続縄文文化(北海道)、貝塚文化(奄美、沖縄、先島)の地域は米(こめ)では弥生人とは結びついてはいなかったが、人種では弥生人と結びついていたか。また、我が国には水田稲作を300年間行い、その後忽然とやめた地域がある、と言う。現在の青森県で、垂柳遺跡は洪水が原因で廃絶されたという。洪水に遭っていない地域に移転したわけではなく、青森県全体で水田稲作をやめた。
ところで、縄文時代とか弥生時代というのは土器の違いにより命名されたもののはずだが、後年、弥生土器と古墳時代の土師器の区別が難しくなり「その時代を特徴付ける指標で区別する」という考えが提示され、「水田稲作の開始をもって弥生時代が始まる」と定義している。なんだかご都合主義とも思われるような見解だが、専門家の多数が良とするものなのでそれでいいのだろう。
また、上述したように、暦博の研究チームが「日本縦断的に土器を調査することにより炭素14年度測定法では土器に付着した海産物の海洋リザーバー効果などにより100-500年古くでることを認めるに至り・・・」(Wikiー国立歴史民俗博物館)と言っているのに、失礼ながら頑迷固陋と言おうか、古色蒼然と言おうか、「水田稲作が紀元前10世紀に始まった」を固守している。しかし、藤尾博士の所見では日本に水田稲作の到来した紀元前10世紀から100年ほどで、弥生的遺物や遺跡が出現している。例として、
最古の環濠集落 福岡市那珂遺跡 前9世紀 直径が約150mの壕を二重にめぐらした環濠集落。
最古の有力者の副葬品 福岡市雑餉隈遺跡 前9世紀 木棺墓に小壺、磨製石鏃、磨製石剣が副葬されていた。
最古の戦死者 糸島市新町遺跡 前9世紀 長さ16cmもある柳の葉のような形をした石の矢じり(朝鮮式磨製石鏃)が左大腿骨に突き刺さった男性の遺体が支石墓に葬られていた。
と言うことで、水田稲作が日本で始まり100年ほどで農耕社会が成立した。それには論理の矛盾はないだろうが、何が問題かと言えば弥生時代の開始をAMS炭素14年代測定法で行い、その後の社会の進捗を考古学的手法で行っている。厳密を旨とするなら全部AMS炭素14年代測定法で測定した方が良かったと思う。
水稲稲作は250年間九州北部にとどまり、その拡散は緩慢だった、とあるが、これは現代的に言うならば商品化に時間がかかったと言うことであろう。一説によると、「日本の温帯ジャポニカ種は 他の地域に比べ多様性を喪失している これは渡来したイネが極少数であったことを表し 一握りの籾を携え丸木舟でやって来た人たちを想像することが出来る」とあり、朝鮮半島から五月雨式に東アジア型の支石墓の風俗などを携え大勢の稲作農民が九州北部へ来たとは思われない。東アジア北東部の水稲農耕の民(Y-DNA O1b2)は日本人及び朝鮮民族に高頻度であり、満州族でも中頻度で見られる、とあるが、朝鮮半島ではともかく日本では水稲農耕とは関係がないのではないか。従って、藤尾博士の水稲農耕朝鮮半島由来説はいかがなものか。もし、我が国の水稲稲作が朝鮮半島由来のものならもう少し支石墓が多くてもいいはずだが、実際には九州(福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島県)のほかは愛媛県(1基という説あり)くらいである。
九州の水田稲作民の行動方式もおかしく、板付遺跡ではコメのみしか作っていなかったのに対し、本州・四国の遺跡ではキビ・アワの畑作と水田稲作を併用している。遺跡によっては水田と畑の組み合わせが異なると言う。これも九州の水田稲作民は危険分散の意味を正しく理解していなかったのではないか。また、佐藤洋一郎博士によると、「静岡大学近くの曲金北(まがりがねきた)遺跡では、100の小区画のうち、水田はたった22区画だけだったんです。さらにDNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲でした。」と言うことで、九州の水田稲作農民はコメの収量の多いところ(中国・江南)から来たか年がら年中コメがとれたところとなるのだろう。
水田稲作の拡散状況を計る指標として遠賀川式土器があるようで、藤尾博士も大阪平野、鳥取市本高弓ノ木遺跡、徳島市庄・蔵本遺跡(文中では触れられていないが庄・蔵本遺跡は遠賀川式の集落という)を紹介しているが、水田稲作の拡散が一般的に言われるような「一気に」とか「瞬く間に」とはならず、「九州北部から近畿に広がるまで約350年、関東南部にいたっては約650年かかった」と言う。当たり前のことで、高度な水田稲作技術が簡単に技術移転できるものではなく、外来系弥生人が多くなったからと言ってみんながみんな農業に詳しいわけではなく、地図を見ても東日本の遠賀川系土器(まがい物のことか)の分布は散発的なものだ。遠賀川式土器と水田稲作は同時進行的に西から東へ移動したが、土器は品質が良くて、コメは副食として最適だったので受け入れられたのではないか。九州のコメに特化した農業って何だったのだろう。それに、福岡県遠賀郡水巻町のウェブサイトでも、
「立屋敷遺跡は、昭和6年(1931年)に発見された弥生時代の集落遺跡です。特に、文様のある弥生式土器は、九州ではこの立屋敷遺跡ではじめて発見されたもので、稲作文化の伝播ルートを考える上で、当時の学界の注目を集め、遠賀川式土器と呼ばれ、弥生時代前期に位置づけられました。これまでに3回にわたる調査が行われましたが、掘立柱建物の柱跡や井戸跡、ドングリを貯蔵した穴、多量の弥生式土器や石包丁、木製農具などがみつかりました。いずれも弥生時代後期のものでこの時期が集落の最も栄えた時であったと考えられます。」
とあり、やや冷めた目で見ているようだ。
我が国の史書『記紀』によれば、我が国が国家として統一されたのは景行天皇の時代と言い、弥生時代とは国家の統制のない自由経済の所産と思う。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

銅鐸について

★はじめに

銅鐸の起源にはおおむね二説がある。
①我が国の畿内が発祥地であるとする説。素材の銅につき1.日本列島産出説。2.朝鮮半島由来説があり、半島からはインゴッド輸入説と銅剣・銅矛改鋳説がある。
②外来説。外来地には二説があり、1.朝鮮半島経由説、2.中国上海説がある。

①の畿内発祥説の根拠はこの種の祭器ないし楽器等は東アジアにない、と言うもののようである。これに対し、外来説は家畜の首につけられたベル(鈴)が朝鮮半島経由で日本に伝わり、大型化して様々な文様が施されるようになった(多数説)、とするようである。中国上海伝来説は近時の説で「中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770-同221年)の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土した。南京博物院考古研究所の張敏所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。」(四国新聞2006/02/09 16:41)と言うが、日本ではあまり支持されていないようである。しかし、稲作技術は中国南部の長江沿岸で発達したものであり、日本に上海から直接入ってきたとしても何ら不思議はない。稲作の適不適を考えるならば朝鮮半島の寒帯、亜寒帯よりは上海の温帯地域から導入したと考える方が尋常であり、また、鐸も鈴がデフォルメされたと考えるより、はじめから鐸として入ってきたのではないか。遺物の鈴や小型銅鐸だが、それらが現在我々が銅鐸と言っているものと繋がるかは検討を要する。あまりに発掘例が少なく弥生人が鈴から一挙に銅鐸へデフォルメしたと考えるのは不自然ではないか。弥生時代にせよ古墳時代にせよ前の時代とのつながりが薄い発生時より完成度の高い文化なり時代であったと思う。
銅鐸の発生と終焉それに使用目的についても諸説がある。
発生では発生地が日本の畿内でその鋳造地も大阪府茨木市東奈良遺跡、奈良県磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡が銅鐸の鋳造センターになっていたと考えるもののようである。九州でも佐賀県鳥栖市安永田遺跡で銅鐸の鋳型と佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にある吉野ヶ里遺跡から同鋳型から鋳造されたと思われる銅鐸一個が出土したが、出雲にも同鋳型から鋳造したものと思われる銅鐸(福田型)があり、安永田遺跡では山陽・山陰から銅鐸の受託生産を行っていたのではないか、と言う説もある。吉野ヶ里遺跡から出てきた一個は参考作品として安永田に置いていたものが吉野ヶ里に渡ったと言うことか。出土品が一個、二個では九州北部で銅鐸が使用されていたとは言いきれないと思われる。また、小銅鐸(朝鮮半島製、日本製)や鈴が銅鐸の祖型と言えるかどうかも不明。「朝鮮半島や中国の小銅鐸という素型になるものと、日本の一番古い銅鐸との間にもものすごく違いがあります。」と言いながら、「いずれにしても銅鐸の起源の一つはもちろん朝鮮半島の小銅鐸でしょう。」と矛盾したようなことを言っている人がいる。九州の小銅鐸が本州に来たら一挙に大型になったと考えるのはいかがなものか。また、銅鐸は弥生時代の所産なので何でも朝鮮半島あるいは長江流域から九州北部に一旦上陸し日本に入ってきたと考える向きがある。しかし、「型式および伴出土器から最古の時期を導き出せたのは,愛知県朝日遺跡出土鋳型<2004年12月、紀元前3〜同2世紀(弥生時代中期前半)の石製の銅鐸鋳型が出土した。銅鐸の中でも最古級の「菱環鈕(りょうかんちゅう)式」>である。」(国立歴史民俗博物館研究報告 第185集2014年2月「弥生青銅器祭祀の展開と特質」吉田 広)という見解もある。

★銅鐸の来た道

一説によると、「中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これらには小文字のaからhまでの字があてられる。」要するに、水稲には8種類(8遺伝子)あり、aからhまで名付けられている。中国には8種類全ての変形が存在し、朝鮮にはbを除く7つが存在するのに、日本の品種の多くはaまたはbに限られている。
8遺伝子のうちb遺伝子が朝鮮半島の在来品種の中に見つからない。にもかかわらず、中国と日本には高い割合で分布している。おそらく過去には、中国大陸から直接日本へ到達するモノの流れがあり、b遺伝子を持つ水稲もそのルートを経てきたものと思われる。また、a遺伝子は中国ではそんなに高頻度では分布しないが、朝鮮半島と日本列島には高い頻度で分布する。この遺伝子は朝鮮半島を経てきたと推測できる。
以上を結論づけるなら、日本の水稲は中国から直接渡ってきたものと、朝鮮半島を経由して渡ってきたものがあるということになる。何か折衷案のような感じもするが科学的見解なのであろう。但し、上記説はaもbも中国から渡ってきたかもしれないという推測には言及していないので少しばかり疑問ではある。
「SSRの多型を調べてみたら、意外にも日本列島に渡ってきた水稲が小さな集団でしかなかったことがわかる。(科学者の見解)弥生時代に、多量の水稲が水田耕作の技術とともに渡来したという従来の史観(考古学者、歴史学者の見解)には大きな疑問が生じる。」、と言う対立した意見がある。
また、「日本における稲の遺伝子分布ではa遺伝子は関東東北で多く、b遺伝子は西日本で多い」、と言う見解もある。
こういうところから見ても、日本には二派の稲作民の到来があったと思われるが、現在の中国、朝鮮半島、日本の稲の遺伝子を考察し、渡来ルートを決めるのか、はたまた、中国、朝鮮半島の稲の遺伝子の分布地域を調査し、渡来ルートを推測するのかは解らないが、たんにa、b、c、を調べるだけでなくDNAの内容をも調べなければならないのではないか。
それに古代の稲作は今ほど合理化が進んでいなかったらしく、収穫量も少なく、米は現在の惣菜程度の用途という説もある。
ところで、「銅鐸の来た道」だが稲とは一緒ではなかったらしく、銅鐸の出現は一般的に弥生時代中期前半とされている。銅鐸の用途と相まって何が原因で出現したかははっきりしない。また、日本発祥説には根強いものがあり、しかも、発見場所が山陽、山陰、近畿、東海などいわゆる『魏志倭人伝』の邪馬台国の版図とするならば、倭国の統一とも絡んで出現したものか。稲の遺伝子をそろえるのに200年かかり、田植えの時期や収穫の時期が統一されたのは弥生中期でその頃から本格的な豊作祈願祭や収穫感謝祭が行われるようになったのか。その祭典で銅鐸が使用されたとも考えられるが、水田稲作が盛んだったと思われる九州が銅鐸圏に入っていないと言うことはどういうことなのだろうか。日本の稲作技術には二流があり九州流と本州・四国流とも言うべきもので後者が宗家穂積氏の元で隆盛を誇ったが、水田稲作技術が全国的に行き渡ると穂積流は各亜流に押されて衰退に転じたのではないか。銅鐸の音もうるさくて真っ先に処分の対象になったのではないか。

★銅鐸の用途

銅鐸の用途には諸説がある。以下、有力な説を取り上げてみると、
1.豊作や集落の安全を祈る祭祀(さいし)に使われたとみられるが、時代とともに利用法が、音を鳴らした「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変化していったとされる。
2.弱肉強食の狩猟生活から、脱穀と高床倉庫に象徴される農耕生活へと移ったことを回想(香川県出土と伝えられる銅鐸の両面に描かれた12カットの絵画から)したもので、銅鐸は秋の収穫祭のときに祖先をたたえるために鳴らしたもの。
3.銅鐸は豊作を祈願する祭りに祖先の霊を招くために鳴らしたもの。(銅鐸の画題はシカ、ヒト、サギがトップスリーで、これらの画題がいずれも、水田稲作に深く結びついていることによるという)
4.銅鐸の大型化は豊作祈願の祭器から政治権力のシンボル的な神器へと変化した。
以上を要約してみると、銅鐸は祭器で王権の象徴としての神器(レガリア)ではなかったようだ。論者によっては豊作祈願祭とか収穫祭いずれか一方に限定する見解もあるが、庶民の祭礼の祭器と解するならば水田稲作に関わるすべての行事に使用されたのではないか。

★まとめ

銅鐸の鋳造センターとしては大阪府茨木市東奈良遺跡と奈良県磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡が著名である。いずれの地域にも関係氏族として穂積氏がいる。茨木市には現在でも上穂積、下穂積、穂積台、西穂積町の地名がある。奈良県田原本町には「穂積氏の遺称地・奈良県磯城郡田原本町保津は弥生時代の唐古・鍵遺跡の南西近隣に位置し、鈴木眞年の『史略名称訓義』では、饒速日命の子・宇摩志麻遅命は大和国十市郡に居て天皇に天瑞宝を献じ、この正統は同郡穂積里に居て穂積の姓を負いそれより物部氏などが分かれたとし、物部氏族の正統は穂積氏としている。」(Wiki「穂積氏」)とある。また、穂積氏は水田稲作の人材育成にも貢献大なりと見えて、全国にも穂積郷がある。即ち、「摂津国島下郡穂積郷」「播磨国賀茂郡穂積郷」(近畿式銅鐸の発祥地か)「尾張国丹羽郡穂積郷」「美濃国本巣郡穂積郷」(ややずれるが三遠式銅鐸の発祥地か)である。九州にはない。 銅鐸と穂積氏を無理に結びつけるものではないが、銅鐸の末路が突発的であったようで、諸説があるようだ。
安本美典教授の解釈
*銅鐸祭祀を、早急に廃止し、銅鐸をいっしょに埋めなければならないような事情が生じた。

そのような事情とは、外部勢力による征服であろうと考える。
*銅鐸は、銅剣や銅鉾に匹敵するほど、はっきりとした、そして、宗教的な意味をもつ製作物である。それが、古伝承に、痕跡をとどめていない。

これは、古伝承が、銅鐸中心の文化圏、すなわち、畿内において発生したものではないことを物語る。

それとともに、銅鐸をもつ大和の先住民が、三世紀の後半に、九州からきた神武天皇によって減ぼされたのであろうとする推測を、支持するものと思われる。
*一度に、合計の重量が、260キログラムもある銅鐸がみいだされた例がある。それは、青銅の素材としても、魅力あるはずのものである。・・・廃棄するよりも、鋳直して利用することを考えるのではなかろうか。
*邪馬台国が銅鐸文化圏の大和にあったとするならば、「倭人伝」に記されている北九州の糸島付近からも、とうぜん銅鐸が発見されてよいはずである。しかし事実はそうではない。

#「銅鐸祭祀を、早急に廃止し、銅鐸をいっしょに埋めなければならないような事情」即ち、大和の先住民が神武東征により滅ぼされたというのであろうが、神武東征があったと仮定しても大和の先住民で神武天皇に滅ぼされたのは長髄彦であって、饒速日命→宇摩志麻遅命→穂積氏の本流には関係はない。長髄彦が山陽、山陰から三遠地方までを支配した痕跡はない。穂積(物部)氏はその後も存続しており、神武東征があったかどうかも怪しい。
#「銅鐸は、銅剣や銅鉾に匹敵するほど、はっきりとした、そして、宗教的な意味をもつ製作物である。それが、古伝承に、痕跡をとどめていない。」お説はごもっともかもしれないが、祭器や神器にはランクがあるようで、「八咫の鏡と草薙の剣の二種の神宝を以て皇称に授け給う、永く天璽(アマツシルシ)と為す。所謂神璽の剣鏡是也。矛・玉自ら従う」(古語拾遺)とか「今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤」(『魏志倭人伝』)とか言って、『古語拾遺』では「八咫の鏡と草薙の剣」即ち、「鏡」と「剣(刀)」が神宝であり、『魏志倭人伝』では「金八兩」「五尺刀二口」「銅鏡百枚」即ち、「金塊」「刀」「鏡」が神宝になりうると思われる。九州に多い銅矛や銅戈、中国地方以東の銅鐸はこの神宝の中には入っていないのである。卑弥呼女王の答礼品は生口・倭錦・絳靑縑(こうせいけん)・緜衣・帛布・丹・木付・短弓矢とあり金属製品はない。銅矛、銅戈、銅鐸等は日本では庶民階層の祭具ないし武具ではなかったか。
#「一度に、合計の重量が、260キログラムもある銅鐸云々」とあるが、これは廃棄ではなく埋納のことだろう。日本では古くから金属を地中に直接埋めることが多かったようで、素戔嗚尊が出雲国で八岐大蛇を退治した時に、大蛇の尾から見つかった天叢雲剣や志賀島の金印は土中に埋められていたものとする説がある。
#「邪馬台国が銅鐸文化圏の大和にあったとするならば、「倭人伝」に記されている北九州の糸島付近からも、とうぜん銅鐸が発見されてよいはずである。」と。伊都国王は九州の人であって畿内の人ではない。卑弥呼女王も伊都国王も銅鐸は知らなかったと思われる。伊都国王は銅鐸をもらったら早速鋳つぶして銅矛にでもしたのではないか。畿内上層部で銅鐸を知っているのは銅鐸を主導した穂積氏だけか。

ほかに滋賀県野洲市のウェブサイトに、
「また、近畿式銅鐸に限って破片で見つかるものがあります。また、野洲市大岩山1962年4号鐸は故意に双頭渦紋が裁断されています。近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです。」とある。

我が国では物が用途を終えて捨てられる場合、再利用を防ぐためか理由は不明ではあるが壊して捨てることがある。現在でも公有物品を捨てる際、壊したり、無効等の印を押したりして捨てるのではないか。有名な土偶につき、富山市埋蔵文化財センターのウェブサイトでは「土偶のまつりはムラの広場や聖なる場所で行われたと考えられます。“まつり”で土偶を壊した後、まつりの参加者は壊された土偶の一部をそれぞれ持ちかえり、廃屋になった住居の窪みやムラの各所に納めたりしました。あるいは自分の住居の中に埋めたり、そのまま置いたりもしていたようです。・・・土偶は“捨てる”のではなく、聖なる場所に土偶を“送る”といった縄文人の意識を反映しているとされています。」260キログラムには遠く及ばないものの土器や石器が壊されて捨てられると言うことは多かったようである。

以上を総括すると、青銅器の土中保管とか土中埋納というのは青銅器が多かったところにはどこにでもあり、銅鐸の専売特許ではない。場合によっては、使わなくなった青銅器を土壙的発想で埋葬したのかもしれない。それを政治的二大勢力の対立とか神武東征とか勝者敗者に分けて敗者の所産ないし遺物という見解もあるが、考えすぎで銅鐸だけに注視しているからだろう。銅鐸は集落の農業祭で使われたものだったようで「国家権力の保護のもとに、祭器として、銅鐸の伝統と記憶とを、温存させてよい」というのも大げさではないか。畢竟、銅鐸は穂積氏が導入、かつ、主導して使用したものであり、穂積氏の衰退とともに大多数の人には忘れ去られたと言うことかと思う。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

天皇陵について

★はじめに

天皇陵と言ってもどこにでもあるものではなく、ほとんどがその天皇が営んだ宮都のそばに造営されている。現在の都道府県名で言うと京都府、大阪府、奈良県が多いようである。特に、講学上「古墳時代」と称される時代には前方後円墳と言われる巨大墳墓が「大王」の墳墓を頂点にほぼ全国的に造営されている。ところが、この隔絶した巨大古墳に関して問題になるのは、ほとんどが誰の墓か解らないことである。一応、我が国最古の古典『記紀』にはおおむね各天皇の墳墓の所在が記載されているが、その後の考古学等の進展による知見と相まって<怪しい>とされる記述が多いようだ。
例えば、白石太一郎ほか編『天皇陵古墳を考える』(学生社、2012.1.20刊)によると(同書、P148~149)、

「『延喜式』にみられる具体的、相対的な位置関係を示すような陵名は、このとき定められたものと思われ、必ずしも確かな根拠をもつものとは考えられません。」
具体的には、『延喜式』の諸陵寮式の陵墓暦名が仁徳陵を百舌鳥耳原南陵中陵、履中陵を百舌鳥耳原南陵、反正陵を百舌鳥耳原北陵としているのは間違いと言うことなのだろう。『記紀』の原本とも言うべき『帝紀』ではたんに百舌鳥野、ないし百舌鳥耳原とよばれた地域に存在することしか伝えられていなかった、と言うのである。

「大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に営まれた大王墓は、古市の仲津山古墳→百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳→古市の誉田御廟山古墳→百舌鳥の大仙陵古墳というように、この時期、古市古墳群と百舌鳥古墳群との間で交互に営まれます。したがって、仁徳、履中、反正の三代続いた大王がすべて百舌鳥につづけて大王墓を営んだとする記・紀の伝承は、こうした最近の考古学的な古墳の編年研究の成果とは明らかに矛盾します。」
ここまで来ると、『記紀』の従来の万世一系の皇統譜にもヒビが入ると言うことか。

そして、白石太一郎先生はこう締めくくっている。

「これは、古墳の編年など考古学的な研究や判断に問題があるのか、あるいは記・紀にみられる陵墓の記載、さらには記・紀の王統譜の伝承それ自体に問題があるのかのいずれかでしょう。むしろそのすべてに問題があるのかもしれません。」
「一般に史料的確実性がきわめて高くなると考えられている応神以降の帝紀の記載にも、大きな問題が残ると考えざるをえないことになります。」
白石先生は考古学者なので『記紀』の伝承に問題あり、とお考えのようだが、現代の科学の進歩によればそれも宜なるかなではある。とは言え、ここで『記紀』の皇統譜をひっくり返すとなると正鵠を射ることはできなくなるのではないかと思われる。そもそも大王は当時の首長連合、政治連合の盟主であり、連合諸国の一国である倭国の王と考えられていたようだ。倭国王が世襲制であったかどうかは解らず、あたかも血縁でつながっているように書いてある『記紀』には疑問を呈する向きも多い。

★記・紀は根本的に間違っている

『旧辞』、『帝紀』は誰が編纂したのかだが、日本の大王(後世の天皇)や首長連合の首長(各豪族の長)は中国の例に倣い家伝等を整備するのに文字のない時代から「語部(かたりべ)」等を育成し祖神から続く我が氏(うじ)の歴史を記録していたようである。はじめは各氏の記録であり自分のご先祖の武勇伝的なものが多かったであろうが、地域が統一され、日本列島が統一されてくると、各氏の歴史ばかりでなく、国家の歴史(国史)の編纂も必要となってきた。『記紀』において日本列島の統一の歴史を飾る天皇としては、神武、崇神、景行、応神の諸天皇がいるが、やはりこれらの天皇がステップ・バイ・ステップで国土の統一を図り、その記録を残してきたので後世にその名を挙げているのである。たんに『旧辞』、『帝紀』の編者がそこいらに語り継がれていた首長の名を拾い集めていたものではないと思う。当然のことながら、当初は国史編纂者としては大王があたりその直属機関として語部や文字による記録者がいたと思われる。文字による記録に一本化したのは雄略天皇の大連だった大伴室屋からではなかったか。
雄略天皇は、「倭の五王」中の倭王武に比定され、その倭王武の上表文では勢力拡張を述べ、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「獲加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王」と解する説が有力で、中国の宋(南朝)の順帝に送った上記上表文や上述の鉄剣銘や鉄刀銘を考え合わせると雄略天皇の時代に中国の漢字文化が本格的に移植されたのではないか。
翻って、『続日本紀』巻第四に以下のごとき一文がある。

「《和銅元年(七〇八)正月乙巳(乙未朔十一)》和銅元年春正月乙巳。武蔵国秩父郡献和銅。・・・・・自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪無軽重。已発覚・未発覚。繋囚・見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。 謀殺人已殺。賊盗。常赦所不免者。不在赦限。亡命山沢。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。・・・・・」

和銅元年一月十一日未明以前の死刑以下の罪、罪は軽重なく、出頭・自首、拘留中のもの・現行犯(あるいは流刑中?)のもの、ことごとく大赦とする。八虐、故意の殺人・謀殺人の既遂、強盗で「律」で通常の恩赦を認められないものは今回の大赦の限りではない。山沢に逃亡し、禁書を所持し、百日経っても自首しないものは元のごとく罰する。

「其犯八虐。・・・」以下はその前の文章の但し書きのようだ。
何か禁書を所蔵して逃亡し百日で自首しないものは大赦の恩恵には与(あずか)らず、当初の罪に復すと言うことらしく、禁書を持ち歩くものの方が死刑囚より罪が重いと言うことのようだ。禁書とは政権に都合の悪い図書のことで、思想統制の最たるものだ。似たような文章は慶雲四(707)年七月十七日(亡命山沢。挟蔵軍器。百日不首。復罪如初。)、養老元(717)年十一月十七日(亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初。)にもある。民衆から軍器を取り上げ、禁書を取り上げ、兵器を取り上げるの意味らしい。「民衆の一斉蜂起は言語道断」と言うことらしく、為政者の成果は徐々に上がっていったようである。
このほかにも、持統天皇の御代には「持統五年(691)八月己亥朔辛亥、詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記。」とあり、実際には墓記は提出されなかったという説もあるが、提出されたが返還されなかったと言う説もある。天皇家の資料でははなはだ心許なく、これらの氏族の墓記をつまみ取りし天皇家の家記に補充したと言うことか。
以上よりとても正確な国史編纂とは言えなかったと思われる。しかも、実際に『日本書紀』の編纂業務を担ったものは、以下のごとく大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首(前半)、従六位上紀朝臣清人・正八位下三宅臣藤麻呂(後半)と位階の低い下級官吏ではなかったか。有り体に言えば当時は無責任体制がはびこっていたのではないか。天武天皇の詔にある中臣大嶋と平群子首以外の川島皇子等は仰々しく見せるための付け足しではなかったか。
『日本書紀』による
天武天皇十年(681)三月庚午朔癸酉、・・・・・丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。
『続日本紀』による
《和銅七年(714)二月戊戌(10)》○戊戌。詔従六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰国史。

★古市古墳群と百舌鳥古墳群

古市古墳群と百舌鳥古墳群の大王級の古墳は交互に言わばたすき掛けで造営されていたというのが現今の多数説であるようだ。従って、実際には応神天皇系の大王家と仁徳天皇系の大王家の二系統があって交互に大王の地位に就いていたのかもしれないが、造営年代につき円筒埴輪や須恵器で判定されているのは少し疑問だ。例えば、仁徳天皇の後継の天皇は、
第17代履中天皇(在位:履中天皇元年2月1日 – 同6年3月15日。5年間。)。名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)。
第18代反正天皇(在位:反正天皇元年1月2日 – 同5年1月23日。4年間。)。名は多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)・水歯別命(古事記)。
第19代允恭天皇(在位:允恭天皇元年12月 – 同42年1月14日。41年間。)。名は雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。
第20代安康天皇(在位:允恭天皇42年12月14日 – 安康天皇3年8月9日。2年間。)。名は穴穂(あなほ)。
第21代雄略天皇(在位:安康天皇3年11月13日 – 雄略天皇23年8月7日。21年間。)。名は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)。
とあるが、あくまでも『記紀』の記述が正しいとすればの話であるが、仁徳天皇陵は寿陵(天子が、生前に作っておく自分の墓。)と言うが、「於是天皇登高山見四方之國 詔之 於國中烟不發 國皆貧窮 故自今至三年 悉除人民之課役 是以大殿破壞 悉雖雨漏都勿修理 以棫受其漏雨 遷避于不漏處 後見國中於國滿烟 故爲人民富 今科課役 是以百姓之榮 不苦役使 故稱其御世謂聖帝世也」(『古事記』下巻)とある、「自今至三年 悉除人民之課役(三年間の免税)」とか「聖帝」という言葉とどのように整合性をとるのか。株式会社大林組の試算によると仁徳天皇陵(大仙陵古墳)を造営するには15年8ヶ月を要するという。仁徳天皇の在位は仁徳天皇元年1月3日 – 同87年1月16日と言うので86年の長きにわたるが、何説を採っても先代は応神天皇で、その多くは応神天皇とともに朝鮮出兵に関わっていたであろうし、とって返して大陵墓の造営は考えがたい。あるいは在位86年間も今では考えられないような数字だ。また、仁徳天皇の諱の大雀(おおさざき)も一族が景行天皇(忍代別)、応神天皇(誉田別)、履中天皇(去来穂別)、反正天皇(瑞歯別)と言って「ワケ王朝」を表すかのようなカバネ(?)を使っているのに、仁徳天皇だけが「大雀」である。この意味するところは仁徳陵は天皇の逝去後に造営されたもので完成までに短命政権が何代か続いていたと思われる。年数から言うと允恭天皇の御代に完成したと思われるが、あるいは雄略天皇の御代までずれ込み雄略天皇が築造をやめさせたのかもしれない。その間造営関係者たちも誰の墓を造っているのか解らなくなり、被葬者を大雀(大きな墓の意)命としたのではないか。関係者も年を取り過ぎて今で言う痴呆症にでもなったか。
以上より古墳の築造年代を円筒埴輪だけで判断するのは問題であり、今のところはそれしか判断材料がないと言うのかもしれないが、指紋一つ、髪の毛一本からでも犯人を割り出す時代なのだから、もう少し最新科学を導入・駆使して発掘成果を鑑定してはどうか。古市古墳群と百舌鳥古墳群も先行する古墳(古市の津堂城山古墳<被葬候補者:允恭天皇>・仲津山古墳<現・応神天皇皇后・仲津姫命陵>と百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳<現・履中天皇陵>)があり、墓地としての開発は早かったようだ。

★まとめ

我が国の古墳時代以前の大和朝廷の王家については、はっきりしているだけでも初代神武天皇系の王朝、「イリ王朝」「ワケ王朝」の三王朝があったようで、それぞれの王朝の開祖はその版図を拡大して王朝の開祖となったようである。各王朝は前王朝を滅ぼして王位を簒奪したわけではなく、「神武王朝」「イリ王朝」「ワケ王朝」は言わば鼎立していたような状態になっていた。

まず、神武王朝であるが、神武天皇は元々大和(現・奈良県)の人で神武東征の話はまゆつばの話ではないかと思う。『魏志倭人伝』によると不安定な政権だったようでおそらく神武天皇の子孫の卑弥呼女王(倭姫命か)の代になって安定しだし、外国とも正式な国交をもつようになったと思われる。神武王朝時代は日本の時代区分では弥生時代であり、天皇陵と言っても弥生墳丘墓と言うことになろうかと思われる。『記紀』に書かれている神武天皇や欠史八代の天皇の「陵」が墳墓と言えるかについてはいろいろと意見があるようだ。また、欠史八代の天皇は「現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力」という有様で、御陵について言うと、
第二代綏靖天皇陵 奈良県橿原市四条町にある桃花鳥田丘上陵 直径約30メートル、高さ約3・5メートルの円墳 2018年2月23日考古・歴史学会代表者の立ち入り調査
第三代安寧天皇陵 奈良県橿原市吉田町にある畝傍山西南御陰井上陵 公式形式は山形 未調査
第四代懿徳天皇陵 奈良県橿原市西池尻町にある畝傍山南纖沙溪上陵 公式形式は山形 未調査
第五代孝昭天皇陵 奈良県御所市大字三室にある掖上博多山上陵 公式形式は山形 未調査
第六代孝安天皇陵 奈良県御所市大字玉手にある玉手丘上陵 公式形式は円丘 未調査
以下省略するが、墓の形式で山形とあるのは単に山のことであって古墳ではないと主張する学者もいる。総じて、弥生墳丘墓とは認めがたいと言うことか。

次いで、イリ王朝であるが、イリ王朝のほか崇神王朝、三輪王朝とも言われる。大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され、この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とよばれる。『記紀』では崇神天皇が始祖と言う。
古墳時代の前期(3世紀の中葉から4世紀の初期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和・柳本古墳群が展開し、渋谷向山古墳(景行陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓か)、行燈山古墳(崇神陵に比定)、メスリ塚、西殿塚古墳(手白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300から200メートルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったと推測される、と言う。さらに、これらの王たちの宮(都)は『記紀』によれば、先に挙げた大古墳のある地域と重なっていることなどから、崇神天皇に始まる政権はこの地域を中心に成立したと考えられる、と。
三輪政権は、初期大和政権と捉えることができる。この政権の成立年代は3世紀中葉か末ないし4世紀前半と推測されている。それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造された。
ところで、イリ王朝が始まったとされる3世紀の中葉から4世紀の初期は『魏志倭人伝』に言う邪馬台国の時代であり、女王一族共々「官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳堤」とある。官名と言うが当時の日本には官名があったかどうかは不明でせいぜいカバネのことかと思う。従って、これらの官名とされるものは現在の名前の一部で、伊支馬(いきま、活目入彦五十狭茅尊、垂仁天皇か)、彌馬升(みます、観松彦香殖稲尊、孝昭天皇か)、彌馬獲支(みまかき、御間城入彦五十瓊殖、崇神天皇か)、奴佳堤(なかて、足仲彦、仲哀天皇か)と勝手にこじつけて、活目入彦は伊久米伊理毘古(古事記)と解し後世の美作国(旧吉備国)久米郡か。観松彦は三松彦か。「三松」姓は全国的にも奈良県に多く、また、奈良県北葛城郡王寺町畠田に集住しているという。但し、『播磨国風土記』飾磨郡の条に大三間津彦命、『同』讃容郡邑宝里、久都野に弥麻都比古命の伝承がある。また、阿波国名方郡に御間都比古神社があり、板野郡中臣、名西郡に孝昭天皇の裔孫居住の伝承があった。播磨から阿波にかけて勢力があった古代豪族か。大和朝廷ならさしずめ大伴氏というところか。『新撰姓氏録』には、(右京 未定雑姓 中臣臣 臣 観松彦香殖稲天皇[謚孝昭。]皇子天足彦国押人命七世孫着大使主之後也<米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)は、孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫>)とある。彌馬獲支は御間城(みまき)で美(みま)作(さか)国の「みま」に関係した語か。奴佳堤は「なかつ」で仲彦(なかつひこ)と思われる。『日本書紀巻第十』応神天皇廿二年秋九月辛巳朔丙戌にも「次以上道縣封中子仲彥」とあり吉備国にも中子とか仲彦と言う言葉があったようである。我田引水で申し訳ないが、邪馬台国の官は吉備国延いて言えば後世の播磨国・美作国の出身者からなっていたのではないか。端的に言うと吉備国の外周の人であり、極論すれば吉備の裏切り者と言うことになるのではないか。因みに、美作(みまさか)は読みようによっては美作(みまさく)ともなり、作は柵(さく)ともなり城(き、百済語という。疑問である。岸、築<つき>などの「き」と同じではないか。)と同義ではないか。即ち、美作(みまさく)は御間城(みまき)とは同義になるのではないか。この王朝から本格的な古墳時代に突入したようである。

最後に、ワケ王朝であるが、ワケ王朝の始祖は景行天皇と思われるが(諱は忍代別か)、皇子、皇女に五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)、五百城入姫皇女(いおきいりびめのひめみこ)、五十狭城入彦皇子(いさきいりびこのみこ、気入彦命?)、高城入姫皇女(たかぎいりびめのひめみこ)(以上、イリ系)、忍之別皇子(おしのわけのみこ)、大酢別皇子(おおすわけのみこ)、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)、国乳別皇子(くにちわけのみこ)(以上、ワケ系)とあり、イリとワケが混在しているようだ。過渡期の天皇の表れか。景行天皇もそれまでの天皇が国勢強力なる大和や吉備の出身と思われるのに対し、おそらく山陰地方の因幡国巨濃郡恩志呂神社<鳥取県岩美町恩志(おんじ)>あたりかと思われる。このあたりは良質な石材がとれるようであり、天皇の皇子皇女の御名が五百城入彦皇子とか五百城入姫皇女とあり、五百城とは石材に関する語かと思われる。宇倍神社の宮司家も伊福部氏と言う。景行天皇は言わば墳墓造営技術者の中心地から来たような人で上述の邪馬台国の官人、伊支馬(垂仁天皇)、彌馬升(孝昭天皇)、彌馬獲支(崇神天皇)、奴佳堤(仲哀天皇)のなかでは一番大きな御陵に葬られているのではないか。
順位 古墳名             単位m  所在地
08   渋谷向山古墳(景行陵)       300   奈良県天理市渋谷町
16   岡ミサンザイ古墳(仲哀陵)     242   大阪府藤井寺市藤井寺
16   行燈山古墳(崇神陵)        242   奈良県天理市柳本
20   宝来山古墳(垂仁陵)        227   奈良県奈良市尼ヶ辻町
ワケ王朝は軍事に特化した一族だったようで、墳墓は古市古墳群と百舌鳥古墳群に分かれているが内容的には同一の氏族という。誉田御廟山古墳(応神陵)と大仙陵古墳(仁徳陵)を頂点に古墳群が形成されている。ところで、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳がそれぞれの古墳群の最初に造営されたのなら問題がないが、近時の研究の結果ではそうではないらしい。
古市古墳群の築造順:津堂城山古墳→仲津山古墳→誉田御廟山古墳(築造時期は5世紀初頭)
百舌鳥古墳群の築造順:上石津ミサンザイ古墳(履中陵)→大仙陵古墳(仁徳陵)→土師ニサンザイ古墳(被葬候補者:第18代反正天皇の空墓)
と言う具合で、このほかに御廟山古墳(被葬候補者:第15代応神天皇。築造時期は5世紀前半)もある。
そこで古市古墳群と百舌鳥古墳群の盟主とも言うべき誉田御廟山古墳と大仙陵古墳以前の古墳は誰の陵墓かと言うことである。古市古墳群の津堂城山古墳と仲津山古墳であるが、いずれも『魏志倭人伝』に言う四人の官人のうち津堂城山古墳は彌馬升(孝昭天皇)の陵で仲津山古墳は奴佳堤(仲哀天皇)の陵墓ではないかと思われる。四人の官人は大和朝廷の調略係大伴某の口車に乗せられて「卑弥呼女王は末永くはない大王にしてやる」と言われたはいいが、実際に大和へ来たら卑弥呼女王にそんなことは言っていないなどと言われ、すったもんだの末に陵墓を大王墓ばりにしようとなったのではないか。先に亡くなった伊支馬(垂仁天皇)と彌馬獲支(崇神天皇)は大和盆地に葬られたものの、彌馬升(孝昭天皇)と奴佳堤(仲哀天皇)は「あんな裏切り者と同じところに寝ていてはいつ寝首をかかれるか解らない。大和から追い出せ。」と卑弥呼女王一族のものが言い出し、結局、津堂城山古墳には彌馬升(孝昭天皇)が仲津山古墳には奴佳堤(仲哀天皇)が葬られたのではないか。
百舌鳥古墳群に関しては、上石津ミサンザイ古墳(履中陵)→大仙陵古墳(仁徳陵)→土師ニサンザイ古墳の順と言うが、これは完成基準であって着工基準は大仙陵古墳(仁徳陵)→上石津ミサンザイ古墳(履中陵)→土師ニサンザイ古墳ではなかったかと思う。大林組試算の大仙陵工期が15年8ヶ月というのも、現在の基準であり、当時は栄養・カロリーともに現在より低く、体格・体力ともに現代人より劣ると仮定すると、着工期の順序では大仙陵古墳(仁徳陵)→上石津ミサンザイ古墳(履中陵)→土師ニサンザイ古墳が十分考えられる。学者先生の見解と庶民感覚がかみ合わないようであるが、ワケ王朝の大王は軍人と言っても気働きのある人が多く、自分たちの序列を壊してまでどうのこうのという人はいなかったと思われる。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ

大倭とは

★はじめに

本稿で言うところの大倭とは日本の史書で大和国や日本国を言う大倭<やまと>とか大倭<おおやまと>の意味ではなく、中国のいわゆる『魏志倭人伝』に出てくる「収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之」(租賦を収むるに邸閣あり。國國市ありて有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。)の「大倭」のことである。この場合の「大倭」の意味については諸説あるが、主なものを列挙すると、

1.大倭とは市の交易の監督者を言うとする説。大倭とは大人・下戸という身分関係の大人に相当するという。(『魏志倭人伝』には大人・下戸という言葉がしばしば出てくる。)
各国が各々の大人に命じて市を監督させた。大倭は各国の官吏か、あるいは、邪馬台国が派遣した官吏か。とは言え、現今の多数説と思われる。
2.大倭とは大和朝廷とする説。邪馬台国と大和朝廷は双頭政治を行っていたのか。
3.「大倭をしてこれを監せしむ。」の使役者は「魏」で、魏が大倭(大和)に命じて市を管理させた説。大倭とは倭国のこととする。
4.大倭とは「倭国を治政する規則(規律)、制度」説。
5.大倭とは「徴税官」とする説。大倭を派遣しているのは邪馬台国か大和朝廷。
6.『魏志倭人伝』に「大夫難升米次使都市牛利」とある「都市」は中国で市場を管理する人の意という。大倭は日本固有の市場管理者か。

と、いろいろな説があるのであるが、以下、各説を検討してみる。

★各説の検討

1.大倭は官名で、市の交易の監督を職掌とする説
中国では「大」のつく役職は国の役職で、かつ、長官であることが多いようである。「倭」は「道が曲がりくねって遠いさま」を言うとある。よって、大倭は中央にあって遠い地方の現今で言う市場長を監督した人物を言うか。従って、大倭は中央の高位高官で一大率と同じく、一人しかいなかったのではないか。一大率は一大率が一つの官名か、一・大率と分けて一人の大率の意として大率が役職名かは意見が分かれている。
<「大倭」は「カラモノツカイ(加羅物使)」というヤマト国が使わした役人であり、(辰韓)カヤ国からの輸入品の選定・購入を担当していた。>という人もいるが、公平な市場の運営を司ると『魏志倭人伝』にはあるのに、大倭自らが商品取引を行っているなんて考えられない。また、「収租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國(諸國)畏憚之常治伊都國」とあるのは、大倭は全国的な役職者だが、一大率は女王国以北に特に置いたもので伊都国ともあるので九州北部に駐在していたと考えてもいいが、大倭は九州にはいなかったと思われる。とにもかくにも、監督するものと監督されるものが同一人物では話にならない。各国の市はその国の大人によって運営され、その当否の判断は邪馬台国の大倭が行ったと思われる。但し、単に倭人の大人説は意味をなさない。

2.大倭とは大和朝廷とする説。
これは日本の大倭(やまと)ないし大倭(おおやまと)からの類推か。しかし、『魏志倭人伝』にも、卑弥呼女王やその弟、台与など現在で言う皇族とも言うべき支配者と、「官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮」とある『記紀』で言う天皇の和風諡号に似ている官人がいる。これを、双頭政治と言おうか政教分離と言おうかはっきりはしないが、一応、『魏志倭人伝』にも現代の社長とも言うべき卑弥呼女王と部局長とも言うべき伊支馬以下が上下の身分関係で記述されているので微妙ではあるが邪馬台国と大和朝廷は彼我の記述の違いで倭国はある程度統一されていたと解すべきか。『記紀』の豊鍬入姫命と倭姫命及びいわゆる「イリ王朝」の関係並びに『魏志倭人伝』の卑弥呼女王と官人との関係をどのように解すべきかは検討しなければならないとは思うが、大倭は大和朝廷とする説は成り立たないと思われる。

3.魏が大倭(大和)に命じて市を管理させた説。
魏が日本の政治に直接干渉したという話はどこにもない。大倭を倭と解したと思われるが、大倭の文字は当時の日本では一般的だったかも知れないが中国ではほとんど使われなかった。従って、大倭を国名と解するのも間違いかと思われる。

4.大倭とは「倭国を治政する規則(規律)、制度」とする説。
『魏志倭人伝』に出てくる大倭は人名ないし官名と解するのが常識的な解釈ではないか。法(現在で言う憲法か)に基づく規則、制度とは市場における商行為を制度的保障しているとも考えられるが果たしてどうか。但し、市は全国にあった(國國有市交易有無)というのでこのような考えにも一考は要する。

5.大倭とは「徴税官」とする説。
人間社会に直接生産に携わらない人間が現れると、生産者の生産物を横取りしなくてはならない。翻って邪馬台国の時代を見てみると「以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛」とあって、婢千人、男秘書一人、守衛数十人か、がいたようである。これだけの非生産人間がたむろしていると雇用主(卑弥呼女王)も大変で、勢い徴税強化となる。私見で恐縮だが、『魏志倭人伝』に出てくる邪馬台国女王卑弥呼と狗奴国男王卑彌弓呼の争いは税金の分配の問題ではなかったかと思っている。卑彌弓呼は卑弥呼の放漫経営に怒り心頭だったのだろう。しかし、市場監督官を徴税官とするのはいかがなものか。『魏志倭人伝』では「國國有市交易有無使大倭監之」と言って市場ないし交易の監督あるいは監視役として位置づけている。

6.「都市」は中国で市場を管理する人と言う説
この説を紹介した書物を読んだ気がするが、例が少なかったように思われた。現在インターネットで検索しても全然出てこない。中国での市場管理者は「都市」と言い、日本では「大倭」というのだろうか。『魏志倭人伝』では日本の市場管理者のことを言っているので都市牛利の「都市」が中国で市場管理者の意味としてもここでは関係ないと思う。

★まとめ

どの説にも一長一短はあるが、ここでは「1.大倭は官名で、市の交易の監督を職掌とする説」が一番妥当なものと考える。しかし、大倭が各国に一人ずついたものか、はたまた、中央に一人がいたものかは判然としない。『魏志倭人伝』には類似の語として、一大率と言う単語がある。一大率の意味については一大率とは最高位の大率と解すべきか、あるいは、一人しかいない大率と解すべきかは意見の分かれるところで、大も率もリーダーの意味と思われるので一大率も大率も一人ではなかったかと思われる。現代にあっても、大統領や首相が複数の国は皆無だ。首相は我が国の戦前の制度では同位者の代表という位置づけだったようだが、一人であったことには変わりはない。一大率も大倭も一人であって、邪馬台国(大和朝廷)の機関であったと思われる。任命権者は当然天皇家で、邪馬台国の場合は卑弥呼女王が任命したものと思われる。初期の天皇家の忠臣と目される人々は神武天皇から論功行賞を受けた人々で、以下のごとくである。
・道臣命(大伴氏の祖)      築坂邑の土地、宅地
・大来目(久米氏の祖)      来目邑の土地
・椎根津彦(珍彦)        倭国造に任命
・弟猾(菟田主水部の祖)     猛田県主に任命
・弟磯城(黒速)         磯城県主に任命
・剣根              葛城国造に任命
・八咫烏(葛野主殿県主部の祖)  不明(葛野県主か)
卑弥呼女王も一大率や大倭を選定するのにこれらの人々の子孫から任命したものと思われる。具体的には、「自女王國以北特置一大率檢察諸國(諸國)畏憚之常治伊都國」とあるのは、はっきりはしないが何やら軍事的懲罰権をもつようで天皇家の軍事氏族である久米氏を当て、経済活動の側面が強い大倭は経済領主(官僚)の大伴氏を当てたのではないか。従って、大倭とは大伴氏の一族のものを言い、大伴氏はほかにも卑弥呼女王の宮殿の守衛とか卑彌弓呼(吉備津彦と思われる)との折衝、戦闘、各国に派遣した長官の指導などで忙しかったと思われる。もっとも、大伴氏が大和朝廷に従属するようになったのは大伴室屋の頃と言い、卑弥呼女王の頃は独立性の強い領主や官人が多かったようである。その中でも大伴氏は大和朝廷寄りの氏族だったのだろう。

カテゴリー: 歴史 | コメントをどうぞ