近江国伊香郡のこと

★はじめに

以前、柳田國男先生の全集か何かを読んでいたとき、古典の解釈に付き柳田先生と斯学の権威の先生と解釈が正反対になったとか延べられていた。また、金田一春彦博士は今上天皇ご生誕のみぎり、下宿先の大家の息子に「日嗣の皇子は生れましぬ」と言うのを「どうして生まれたのに死ぬというのか」と聞かれたとか。「生れましぬ」を「あれ、まあ、死ぬ」と解釈したらしい。ことほどさように日本語の解釈は難しいらしく、当時は小生のでたらめ古文解釈もまんざらでもないように思った。以下はこれと類似の話である。
最近、同志社大学の佐野静代という先生の「近江国伊香郡における式内社と氏族」という論文(但し、論文自体は1993年に発表されたもののようで、既に20年以上を経過している)をインターネットで見ていたら、文献の少ない山岳地帯のことを事細かに調べておられる。しかし、この郡名や郷名から判断すると、現代流に言うと危険災害地名とでも言うべき郡名・郷名ばかりである。こういうところに人が大勢住むのかと思いきや、45社46座の式内社があると言うことでまたまた驚かされる。一応、危険災害地名などと大袈裟なことを言っているのでその郡名なり郷名の原意を検討してみると、

1.郡名・郷名である「伊香」
「伊香」はイカ、イカカ、イカグ、イカコ、イカリなどと訓を打っているが、「伊香」は川などの水流のそばにあれば増水、洪水が生ずる可能性が大であり、内陸であれば土砂などの崩落の危険がある急峻な地形を言ったようである。「いかめしい」と同源の言葉か。

2.柏原郷(かしははら)遺称地 高月町柏原
おそらく一般的な読みは「かしはら」で、「かし」は(1)傾ぐ(かしぐ)のカシで傾斜地(2)痩せる(かせる)から「痩せ地」(3)堅し(かたし)の省略形(4)頭(かしら)の語幹のカシなどの諸説があるが、今は傾斜地説が有力。傾斜地は各種災害の元凶である。

3.安曇郷(あづみ)推定比定地は高月町南部の阿閉(あつじ)地区
「あづみ」の語源は、(1)アヅミ族(ワダツミの転という)という海人族の移住による伝播地名(2)アツ、アヅは「崖」を表す古語、という説があるが、今は「崖」説が有力。

4.遂佐郷(とくさ)もしくは遠佐郷(をさ)写本により二種類あり
遂佐なら(1)木賊(とくさ)の生える地(2)トクはトコの転で「高地」の称。サは接尾語(3)トは接頭語、クサは湿地の称、などの説があるが、高地あるいは湿地の意味であろう。
遠佐なら(1)古代の通訳は「ヲサ」と言った。通訳のこと(2)首長即ち長(をさ)の居住地(3)ヲは高地、サは場所を示す接尾語、などの説があるが、高地の意味か。
いずれにせよ、「高地」の意味がからんでいるようだ。

5.楊野郷(やなぎの)遺称地 高月町東楊野、西楊野、楊野中か
(1)ヤギは「狭い谷間」(2)ヤハギと関連する語でイハ(岩)ハギ(剥・崖のこと)(3)焼畑、などの説があるが、比定地にもよるが高月町東楊野、西楊野、楊野中なら焼畑か。

6.余呉郷(よご)遺称地 余呉町下余呉か
(1)余戸の意味(2)横の意味。「琵琶湖の横についた湖」の意。余呉湖のこと。

7.片岡郷(かたをか)遺称地 旧片岡村
(1)片岡は片岡(片側が岡)ないし堅岡(堅牢な岡)で対になる語は両岡(両側が岡)ないし脆岡(脆い岡)であろう。道路の片側が岡になっている、あるいは、岩石などでできている堅牢な岡を言うものか。(2)岡の肩、などの説がある。片側が岡を言ったものか。

8.伊香郷(いかこ、いかぐ)
1.以外に(1)河内国伊香郷の物部氏がこの地に移り、里名もそれにより起こった(2)賤ヶ岳などの険しい山容からイカ(いかめしい)なる地名が起きた。「コ」は処。

9.大社郷(おほやしろ、おおと)
大社(おほやしろ)とは伊香具神社のことか。あるいは、現在、大音(おおと)という地名があるので「大杜(おほと)」の誤写か。この場合、(1)大(おほ)処(と)の意か(2)大(おほ)門(と)で、山の両側に迫った地、か。(2)の場合の地名発祥地は涌出山(ゆるぎやま)と高月町尾山の間か。

以上を総括するなら、伊香郡の郷名で地形とは関係がないのは余呉郡(余呉湖による)と大社郡(伊香具神社による)だけで、ほかは多かれ少なかれ地形が絡み、いつ災害が発生してもおかしくないような地名ばかりだ。それでも、越前国(北陸)や若狭国(山陰)から現在の京都府、奈良県、大阪府、愛知県に出る交通の要衝であったことと、盆地なので平野があったことなどが幸いして人々が住み始めたようである。

★古墳と神社、そして氏族

当該地は古墳と神社がやたらと多く、当然古墳と神社の結びつき、また、神社を祀る人々との関係が議論の俎上に上がってくる。古墳は古墳時代前期から累々と築かれており、縄文、弥生時代に比して古墳時代に人口が急増したようである。古墳築造にはそれなりの人材が必要であり、伊香郡にも石作神社(石棺製作)、玉作神社(勾玉製作)、丹生神社(土器製作)などそれぞれの製作担当の元祖を祀ったと思われる神社が散見する。
古墳と神社の関係は、古墳が山の尾根上にある場合はそれにまつわる神社は山麓にある場合が多く、古墳が平野部にある場合は神社は古墳の墳丘上か古墳の平地の周りにある場合が多い。古墳に神社はつきもので、古墳は造っただけではダメで後々のメインテナンスも必要とし、古墳築造の関係者は後々まで古墳の所在地に残ったようである。現在、神社と言われているものは古墳ができた頃は現代の管理事務所のようなものであったかと思われるが、時代を経て収入を得るために式内社への格上げ要請となったと思われる。そこで、多いと言われる伊香郡の式内社を検討してみると、

1.伊香具神社 イカゴ 名神大 木之本町大音
伊香具神社のあるところは大社郷に当てる説が多い。
伊香郷にないのが不思議だ。
2.乃弥神社 ノミ     小
乃弥とはノビ(延)の転で長く延びた地形。
3.神前神社 カンサキ  小   木之本町石道字高尾山神前谷
カム(噛)カマ(釜)の転で侵食された地形。
4.大沢神社 オホサハ  小   木之本町黒田字大沢
5.天八百列神社 アメヤホツラ 小
やわらかの語根ヤハ(柔)から土地の硬くない場所。湿地。
6.乎弥神社 ヲミ     小   木之本町大見
ヲは接頭語、ミは水の意で川辺や湿地。
7.走落神社 ハシリオチ 小    往古、走落村と言った
ハシルは勢いよく流れる。オチは河床に段差があったか。
8.足前神社 アシサキ  小
山の裾。麓。
9.久留弥多神社 クルミタ 小
小盆地。谷底。
10.比売多神社 ヒメタ  小     姫塚古墳からか
深く入り込んだところ。
11.意波閉神社 オハヘ  小   高月町西阿閉
岸。壊れやすい川岸。
12.阿加穂神社 アカホ  小   木之本町大字赤尾
アカはアガの転で高地。ホは秀(ホ)で垂直に長く延びたところ。
13.桜市神社 サクライチ  小   所在不明
サクラは崩壊地形、浸食地形。狭(さ)刳(くら)
14.等波神社 トハ     小
ツバの転で湿地中の微高地。
15.横山神社 ヨコヤマ   小   高月町横山
16.多太神社 オホタ    小   所在不明
タタと読んで叩く(たたく)の語幹。崩壊地形、浸食地形。
17.兵主神社 ヒヤウス   小
18.赤見神社 アカミ     小
赤土の産地。
19.波弥神社 ハミ      小
動詞ハム(食)の連用形。ものを損なう意から崩壊地形、浸食地形。
20.桜椅神社 サクラ-     小
桜市に同じ。
21.甘櫟前神社 イチヒサキ  小
イチの長音化。市のこと。
22.佐味神社 サミ       小   余呉町今市字佐味
サミズ(淡水)の略。
23.椿神社   ツハキ    小   余呉町椿坂
動詞ツバエルの語幹で崖など崩壊地形を言う。
24.佐波加刀神社サハカト  小
沢門。カドは泉、物洗い場、入口。カ(欠)ト(処)。
25.伊香具坂神社イカゴサカ 小
26.与志漏神社 ヨシロ    小
ヨシ(湿地)ロ(場所を示す接尾語)
27.布勢立石神社フセノ-   小   木之本町北布施
傾斜地。フス(臥)と同源か。
28.乃伎多神社 ノキタ    小
ノキ、ノギはヌキ(抜)の転で崩壊地形、浸食地形。
29.石作神社 イシツクリ    小
30.玉作神社 タマツクリ    小
31.意富布良神社オフフラ  小    木之本町大洞山
ホラは崖、ほら穴、谷間の行き詰まり、三方を山に囲まれた袋小路。
32.伊波太岐神社イハタキ  小
断崖。漢字では岩滝と表示。
33.高野神社 タカノ      小    高月町高野
34.鉛練日古神社エレヒコ  小
エクサコ
エグル(刳)の語幹で刳り取られたような地形。崩壊地形、浸食地形。
35.大椋神社 オホクラ     小    所在不明
峅(くら)、嵓(いわ)、岩などに由来する谷、崖。
36.黒田神社 クロタ      小    木之本町黒田
土の色の黒い田。水の溜まった田。
37.丹生神社 二座ニフ    小    余呉町上丹生
赤土、粘土のあるところ。
38.神高槻神社 タカツキ   小    高月町高月
高槻(けやき)、高坏、高尽など。高塚と同じで古墳のことか。
39.天石門別命神社 アメノイハトワケ 小
アメイハカト-
「古事記」の天孫降臨の段に登場する神。同類の神社はほかにもある。
40.天比比岐命神社アメヒヒキ- 小
ヒビと同じく割れ目の意。凹所、谷筋。古典には不出、ニニギの間違いか。
41.草岡神社 クサヲカ     小
草生地。
42.意太神社 オタ       小     木之本町大音
狭い耕地。ウタ・ウダの転で湿地。ウツ・ウドなら狭長な谷。
43.大浴神社 オホアミ     小     旧片岡村池原「大浴の森」
アビの転で、崩壊地形、浸食地形。
44.太水別神社 オホミツワケ  小
水分(みくまり)の神か。
45.天川命神社 アマツカハ-  小     余呉町文室アマス川
川の神か。

以上、標準的な説により解釈してみたが、山間地にある郡郷らしく、崩壊地形、浸食地形の語が多く見られる。古保利古墳群の解説に琵琶湖、琵琶湖とあるが、おそらく琵琶湖に関連づけられた神社名は皆無。古墳時代より伊香郡の人は陸路で移動していたものと思われる。また、近江国と大和政権は疎遠であったらしく、近江国の初期の古墳である小松古墳(三世紀中頃か)や安土瓢箪山古墳(四世紀中頃か)からは有名な三角縁神獣鏡は発見されず、被葬者が中国から直接輸入したと思われる鏡二面が各々あるのみだ。もっとも、古保利古墳群で発掘された古墳は132基で式内社は45社なのでその乖離は大きく、あるいは別々に検討した方がよいのかも知れない。

伊香郡に関わる氏族は文献では、伊香連刀美(「近江国風土記」逸文。内容は「帝王編年記」と同じ)と胆香瓦臣安倍(「日本書紀」)及び「帝王編年記」養老七年癸亥条に記載の伊香連刀美、「三代実録」貞観七年三月二十八日の「伊香郡人石作部広継女」の都合四件がある。前述の佐野先生のご見解を論文より引用すると、

「式内社からみて伊香郡に居住したことがうかがえる氏族としては、 伊香連、石作部、安曇、玉作、佐味、比売陀君、多米連 (忌部) そして天日槍系渡来人の八系統を挙げることができる」と結論づけておられる。

理由とするところは、

【文献があること、伊香郡八郷のうち、氏族名と一致する郷名には、伊香郷、安曇郷があげられ、各々伊香連 (あるいは胆香瓦臣)、安曇氏の居地に関わるものと考えられる。また片岡郷を中臣片岡連の本貫地とする説もある。
その他として、
氏族に深く関わる神社の基準を次のように設定した、と言い、
1. 神社名が氏族名に一致すること。
2. 氏族の祖神・守護神とされる神名が神社名に含まれること。
3. 以上の他に従来の研究が神社と奉斎氏族の関係を説き、その説が大方の承認を得ている場合も対象となることは当然である。

1. 神社名=氏族名これに該当するものとしては五社あり、
伊香連と伊香具神社、石作部と石作神社、玉作部と玉作神社(当郡大字唐川・横山で弥生中期からの玉作工房跡・子持勾玉が発掘されている)、また佐味神社は『新撰姓氏録』右京皇別上の佐味朝臣に関わるものであろう。比賣多神社は比売陀君の奉斎になるものである。この氏族は『古事記』開化天皇及び履中天皇段にその名が記載されているにもかかわらず、平安初期の『新撰姓氏録』には全く見えない点で注意を要する。

2. 氏族の祖神名=神社名これに当てはまるものは天岩門別命神社である。天岩門別命は,『古事記』天孫降臨の場面に登場するが、『姓氏録』河内国神別にも「多米連神魂命児天石都倭居命之後也」とみえる。天岩門別命神社は忌部氏系の多米連の奉斎になるものといえる。

3. 従来の研究により、定説となっているものは、乃伎多神社を物部氏の奉斎したものとする見解であろう。この説には疑問の余地がある。「河内国茨田郡伊香郷が物部氏の本拠であった」という見解自体が十分立証できないからである。
余呉郷の鉛練日古神社の主祭神は諸本一致して「天日槍」であると考証されているが、谷川健一によれば、天日槍は渡来系の金属精錬集団を象徴するものである。余呉湖には天日槍による蹴裂伝説も伝承されており、伊香郡が『日本書紀』に記載の天日槍周遊コース上に位置していることも注目される。ところで大字横山には兵主神社が存在するが、兵主の神が天日槍と同一であるという見解が出されている。同時に兵主神社は「穴師」地名に結びついていることが指摘されているが、伊香郡でも大字黒田に小字「穴師」「穴師谷」を見いだすことができる。よって兵主神社も元来の鎮座地として大字黒田の穴師を考えることも可能である。大字黒田は余呉郷に隣接する位置にあるが、この穴師から東に2.5kmの古橋遺跡において六世紀後半以前の製鉄炉跡が発掘されていることも興味深い】

引用が長くなったが、伊香連、石作部、玉作はよいとしても、安曇、佐味、比売陀君、多米連 (忌部) そして天日槍系渡来人はいかがなものであろうか。以下、疑問とするところは、

1.安曇 海の安曇にせよ山の安曇にせよ、いったい何をしていたの。安曇と言えば海人族を連想するが、当該地の遺物には漁具とか船とか羅針盤などの海を連想させる物は何もないようである。但し、今後の発掘如何によってはその可能性はある。また、山の安曇と言えば長野県の上高地等の安曇平の開削を連想するが、安曇氏が伊香郡にやって来て余呉湖の水を琵琶湖に落とし肥沃な農地にした何て言う話もまったく聞かない。これは安曇という地名だけであって氏族とは結びつかない話ではないか。安曇氏がその祖先を祀る神社の存在もまったく聞かない。但し、佐野説では「綿津見神・海神は乎彌神社(祭神:巨知人命 梨津臣命 海津見命。本尊は前二者で海津見命には後日談あり)、甘櫟前神社(祭神:未餠眷<もちへき>大使主命 菅原道眞)、乃伎多神社(祭神:誉田別命 天造日女命)の祭神と言う」安曇という地名は海沿いにも山間部にもあって「崖」という意味でしかない。ほとんどの安曇郷には安曇族はあり得ないのである。また、平城宮跡出土木簡に「阿曇郷戸主伊香連(?)人戸白米一俵」とある。佐野説では伊香郡には「安曇、比売陀、伊香、石作・玉作の独立性の強い四氏がいた」ようになっているが、おそらく伊香郡は伊香氏の一極支配だったのではないか。例え安曇と名乗ったとしてもそれは伊香氏に関連づけられていたはずである。

(注)安曇をアドと読む見解あり。アヅミではないという。当然のことながら発音が違うので 信濃国安曇郡や筑前国糟屋郡安曇郷とは関係がないという。即ち、近江国伊香郡安曇郷には海人族はいなかったと言うことになる。但し、多数の人はこの見解に納得していない様子。物部氏の複姓「阿刀物部」即ち「安曇(あど)物部」と関係があるか。

2.佐味 佐味神社は地名より起こった産土神ではなかったか。佐野説は『新撰姓氏録』右京皇別上の佐味朝臣を持ち出しているが、「佐味」地名は各地にあるようで、佐味朝臣発祥の地は上野国緑野郡佐味郷と言い、畿内における本拠は大和国十市郡佐味とあり、佐野説が言う越前国佐味氏も越前ばかりでなく越中、越後、能登などに佐味の地名が散見する。他の国の佐味氏一族は文献にその名がかいま見えるのに、近江国では皆無に等しいのはやはり佐味神社は地名により起こったもので佐味氏はいなかったと結論づけざるを得ない。

3.比売陀君 比売陀君は上記に「この氏族は『古事記』開化天皇及び履中天皇段にその名が記載されているにもかかわらず、平安初期の『新撰姓氏録』には全く見えない」とあるが、履中天皇が何を根拠に「君」というカバネを与えたのかは不明で弱小豪族としか思われない。皇別豪族はほかにもたくさんおり、近江国まで都落ちする前に廃絶していたのではないか。あるいは、稗田(ひえだ)は音が似ているので後継氏族は稗田となったか。いずれにせよ近江国伊香郡には比売陀君何て言う一族はいなかったと思われる。

4.多米連 (忌部) 天岩門別命神社を多米連 (忌部)が奉斎していたと言うが、天岩門と言うのは横穴式古墳の出入口を言うのではないか。従って、天岩門別命神社と言うのは横穴式古墳の通有性を言い、どこから聞き及んできたのかは解らないが、「古事記」天孫降臨段に登場する天石門別神ふうの神社名にしたのであろう。天石門別神も影が薄く古典でもこの段にしか出てこない。子孫がいたかどうかも分からないような神を祀る氏族なんかは考えられない。但し、『姓氏録』河内国神別には「多米連神魂命児天石都倭居(あめのいわとわけ)命之後也」とあって子孫はいたことになっている。とは言え、こんな細々とした豪族が近江国にいたとは思われない。

5.天日槍系渡来人 天日槍命はその総合力に優れ、日本有史の草創期に来日した渡来人では「お役に立った」人物であることは間違いない。しかし、彼が本拠地としたのは但馬国出石郡出石郷であり、日本書紀垂仁天皇三年春三月に「天日槍自菟道河泝之 北入近江國吾名邑而暫住 復更自近江 經若狹國 西到但馬國則定住處也 是以近江國鏡村谷陶人 則天日槍之從人也」とあるので、天日槍が近江国でもなにがしかの活動を行ったことが考えられる。即ち、吾名邑にしばらく住んでいた、鏡村の谷(地名あるいは地形)の陶人は天日槍の同行者だ、とある。吾名邑で何をしていたかは分からないが、何か鉱物資源の採掘でも行っていたのではないかと思われる節がある。また、鏡村の谷では陶工を常駐させて須恵器生産の指導及び量産化を図っていたのではないか。この氏族は前の四氏族に比べ信憑性は高い。即ち、吾名邑を「あなむら」と読むとしたら、前述佐野説では、伊香郡でも大字黒田に小字「穴師」「穴師谷」があるという。鏡村も余呉湖を鏡湖(きょうこ)とも言うとある。しかし、これら渡来人の説話はもう少し後世のことではないか。古代のこと故何を言っても想像の域を出ないが、天日槍命が「日本書紀」が書いているような迂遠な道のりを経て但馬に到達したとは思われない。近江国の古墳の遺物を見ても大和朝廷とは疎遠で、従って、垂仁天皇と天日槍命の話も疑問符がつく。

(注)一般には、吾名邑は苗村(なむら)のことでアナムラが略されてナムラになったという。苗村は鏡山村と合併して竜王町となる。鏡山山麓一帯には県下最大の須恵器窯跡群が分布し、「日本書紀」「鏡村の谷の陶人」とある鏡村は当地に比定される。しかし、遺跡の年代は6世紀から7世紀で天日槍命が活躍したと思われる3世紀とは少しばかりずれていると思われる。

★まとめ

伊香郡はやや大袈裟に言うと湖北の山間僻地にあり琵琶湖の港に直接接するような郡郷ではない。ほとんどの人里が小盆地の中にあり水田稲作より焼畑農業の方が生産性が上がったのではないかと思われる。主食の穀物としては米よりも粟、稗などの方が適していたのではなかったかと思われる。水利には恵まれていたようなので水田稲作には支障がなかったと思われるが余裕のある耕作かは疑問である。人口に比して古墳の数も多く大人数を養えるような郡ではなかったのではないか。従って、そんなところにやってくる外部の人は少なかったと思う。魚を食べたいと言っても琵琶湖には今で言う漁業権もあったことだろうし、そう簡単には手に入らなかった。牧畜業でもしようと思えば平地が少ない。安曇、佐味、比売陀、多米、渡来人などは来たところでいる場所がなかったのではないか。
伊香郡は越前国に接しているため継体天皇は近江の人か越前の人か問題になる。継体天皇の八人の妃のうち四人(異説あり)が近江国出身なので近江の人という見解もあるが、これは逆で継体天皇が越前から大和へ南下する際近江の一部を平定し敗者の子女を妃にしたものであろう。ざっくばらんに言うと、坂田、息長、茨田、和珥(あるいは、阿倍)、根王(彦根の彦が欠落したものか)などと言うのは天皇の都入りを阻んだ組ではないのか。三尾は越前の人と近江の人に見解が分かれるようだ。伊香連などというのは真っ先に一蹴されたらしい。天皇も天皇で後顧の憂いをなくするため人質(豪族の娘は妃に、息子は天皇軍の戦闘員に)を取って進軍したのであろう。継体天皇の台頭によって近江国の中央進出が図られたと言う見解もあるようだが(近江毛野など)何とも言えない。
前述の佐野説では物部氏なんて伊香郡にはいなかったと言うことだが、物部氏のご先祖には伊香色雄命、伊香色謎命の兄妹がおり、また、カバネの「連」も私見で恐縮だが当初は大伴氏と物部氏だけに与えられたものではなかったか。従って、伊香連というのも限りなく物部氏に近い発想である。物部という氏を名乗る人はいなかったかも知れないが伊香氏が物部氏だったのではなかろうか。

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