古代にもアルコール依存症はあったのか

★はじめに

日本の酒は醸造酒は奈良時代からあったようであるが、蒸留酒はタイから沖縄に14~15世紀頃伝わり(現在の泡盛のこと)、ウィスキーにいたっては幕末のペリー来航の際(1853)献上物として持ち込まれたようである。また、生産となると大正時代に入ってからと言うことである。ところで、江戸時代の川柳に、

神代にもだます工面は酒が入(いり) 『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』のなかの一句(川柳)、とあり、何やら先史時代にも酒があったようである。しかし、『古事記』には「其の足名椎、手名椎の神に、<汝等、八鹽折(やしおおり)の酒を釀(か)み、・・・>」とあるので、この酒は「口噛み酒」であり、おそらく米を噛んでいると思われ、弥生時代に入ってからのものかとも考えられる。

酒は「みき」と言い、漢字で書くと「み=御」、「き=酒」のことで、今はご丁寧にも「おみき=御神酒」などと言って、美称を重ねている。一説によると、『古事記』には酒を「くし」とも言い、これは「奇(くし)」に繋がるもので、酒の効能が奇瑞とされたことによるものである、と言う。酒を飲んだくらいでエクスタシー状態(恍惚、忘我)になってしまうのか。
ところで、我が国では庶民が酒を飲むようになるのは鎌倉時代から(江戸時代からと言う説もある)のようで、奈良時代や平安時代は、祭礼(新嘗祭とか神嘗祭<伊勢神宮>と言われる。天皇が即位の後,初めて行う新嘗(にいなめ)祭を大嘗祭と呼ぶ。)や正月、慶事の際に集団で飲んでいた程度で、朝廷や武家、神人、僧といった一部特権階級の人たちが飲むものだった、と言う。あるいは、『魏志倭人伝』では、「その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。」とも言っている。魏の使節団は自分たちが酒食でもてなされたのを倭人の日常と勘違いしたものか。

しかし、『日本書紀』を読んでいたら、こんなのがあった。

『日本書紀』巻第十二去來穗別天皇 履中天皇 即位前紀
爰仲皇子畏有事 將殺太子 密興兵 圍太子宮 時平群木莵宿禰 物部大前宿禰 漢直祖阿知使主 三人 啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】 故三人扶太子令乘馬而逃之 【一云 大前宿禰抱太子而乘馬】 仲皇子不知太子不在 而焚太子宮 通夜火不滅 太子到河内國埴生坂而醒之 顧望難波 見火光而大驚 則急馳之
ここに、啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】(太子にお声をかけたが返事がなかった。或書では、太子は酔って起きなかった)とあるのだが、古墳時代の当時にあって皇太子といえど酔い潰れるほど(大嘗祭の酒宴があったという)酒が飲めたものか、と言うことだ。日本で醸造酒が量産化したのは奈良時代と言われ、古墳時代に限定した酒造法は不明と言うほかない。おそらく、古墳時代に飲めた酒の量は現在で言うならコップ一杯分くらいではなかったのか。

★日本の古典や遺物に現れた酒にまつわる文物

古典の中の酒であるが、『古事記』中巻応神天皇段になると急に宴会の話や酒の話が出てくる。また、渡来者としてたくさんの工人にまじり「酒釀むを知る人、名は仁番(にほ)またの名は須須許理(すすこり)等、參い渡り來たり。 故、是の須須許理、大御酒釀みて以ちて獻りき。 是に天皇、是の獻りし大御酒に宇(う)羅(ら)宜(げ)て【宇羅宜の三字は音を以ちてす】御歌に曰く、
「須須許理が 釀みし御酒に 我酔ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒に 我酔ひにけり」以上は朝鮮半島の酒造方法であるようだが、日本式の酒造方法もあったらしく、以下のごとくである。
「吉野の國主(くにす)等・・・吉野の白檮(かし)の上<地名。カシの生えているところの意。カシノフと読むか。>に横臼(よくす)を作りて、其の横臼に大御酒(おおみき)を釀(か)みて其の大御酒を獻る時に、口鼓(くちつづみ)を撃ちて伎(わざ)を爲て歌いて曰く、「白檮の上に 横臼を作り 横臼に 釀みし大御酒 美味らに 聞こしもち飲せ まろが父」
此の歌は國主(くにす)等が大贄(おおにえ)獻る時時に、恆(つね)に今に至るまで詠う歌なり。
文書にすると醸造方法としては同じように見えるが、半島方式と日本方式は大いに違ったのではないか。そうでなければ、日本方式は半島方式に駆逐されていたと思う。一般的には、須須許理が導入した酒造法は「須須許里らが神前に捧げた醴酒(一夜酒)は口噛酒ではなく、穀芽酒、多分、牙米酒であったと思 われる。」という見解もある。また、日本でも「大神の御乾飯(かれいい)が濡(ぬ)れてカビが生えた。それで酒を醸した」(『播磨国風土記』宍粟郡庭音村)とあり、前述の穀芽酒(須須許理が招来したものか。半島、大陸系の醸造酒。)とは違い日本プロパーな麹との見解もある。
また、酒にまつわる遺物については、
縄文土器には注口土器、双口土器、壺形、瓶形、徳利形、水差形、土瓶形、片口付鉢形、碗形、コップ形など、現代の酒器に似た土器も混在しているが、中身はと言えばほとんどが軟水や海水だったのではないか。さらに、縄文時代中期以降に出現する「有孔鍔付土器」は樽のような形をして、つばに孔が開いているところから、酒造りの道具とも、口に皮を張って太鼓として使用したともいわれる。口縁部の内外に赤色塗彩がみられる、とある。まだ米もなく食糧事情が良くなかった時代にあって酒ばかりがバンバン作られたとは考えづらい。
とは言え、素戔嗚尊の八岐大蛇退治の話が縄文時代だったとすると、『古事記』では「八鹽折(やしおおり)の酒」とあり、『日本書紀』では「八醞酒(やしおりのさけ)」とある。本居宣長は「八回酒で酒を重醸した」と言う。『古事記』の「八鹽折」の折の字には<折り重なる>というような言い方もあるので、折は重畳の意味か。但し、アルコール度の強い酒とか毒入りの酒と言っても八岐大蛇には効果があったかどうかは不明。私見では八岐大蛇の実態は人間(出雲国あるいは越国の人)で時代も弥生時代初期の頃か。また、八岐大蛇が殺されたのなら俗に言う「寝込みを襲われた」とか言う場合ではないのか。
『日本書紀』(巻第一神代上、一書曰)では「素戔嗚尊乃教之曰「汝、可以衆菓釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。」(汝、衆菓(アマタノコノミ)を以て酒八甕を醸すべし)」と書かれ、素戔嗚尊の頃は果実酒だったようだ。

★履中天皇と允恭天皇

履中天皇に始まると思われるいわゆる「倭の五王」の在位年数はそれまでの長期在位の天皇から極端に在位期間の落ち込んだ天皇と言うことになっているが、これに事績の少なさを加えるとおそらく事実とは違う改ざんがなされたものであろう。

「倭の五王」の在位年数(満暦年、推定)
17履中天皇  5

18反正天皇    4

19允恭天皇 40

20安康天皇  3

21雄略天皇 24

「倭の五王」の中国への遣使
讃 421年(永初2) 425年(元嘉2)<司馬曹達> 430年(元嘉7)
珍 438年(元嘉15)
済 443年(元嘉20)451年(元嘉28)460年(大明4)
興 462年(大明6) 477年(昇明1)
武 478年(昇明2) 479年(建元1)<南斉から鎮東大将軍> 502年(天監1) <梁(りょう)から征東大将軍>
日中の記録で大きく違うのは安康天皇で、日本では在位3年となっているが、中国の記録ではどう見ても15年はありそうだ。履中天皇も日本の在位5年に対し、中国の記録から見て10年ほどはその地位にあったようだ。允恭天皇は水増しか。在位は、履中天皇10年、反正天皇4年、允恭天皇20年、安康天皇15年、雄略天皇24年ほどが妥当な線か。

在位年数の少ない理由はいろいろあるであろうが、私見では住吉仲皇子事件に端を発した大伴氏の失脚が大きいと思われる。大伴氏失脚後は政権中枢の記録は中断し、史書に書くべき事績がなければ、外国の文献を丸写しして書くとか、当該天皇とは関係のない天皇や豪族の事績を移記する、創作文章を載せる、などが考えられるが、在位年数を減らすことも有力な手法だったと思われる。そもそもこれら倭の五王は中国の宋王朝に外交使節団を送っており、在位3年、4年、5年で簡単に遣使ができるものかは疑問だ。もっとも、倭の五王の遣使は宋(南朝)の皇帝から辞令をもらうことにあったようで、朝貢品を持参しても絢爛豪華なものとはほど遠く、従って、御下賜品も少なかったようだ。しかも、倭の五王はその辞令の中に領有地や支配国(特に、百済)を詰め込むだけ詰め込もうとしたが、望み叶わず、雄略天皇のように遣使をやめてしまった天皇もいる。

履中天皇の事績としては「四年秋八月辛卯朔戊戌 始之於諸國置國史(ふみひと) 記言事達四方志 ○冬十月 堀石上溝」くらいなもの。諸国に国史なる役人を設置したと言うことなのだろう。国情を報告させたと言う。石上の溝を掘る、とは、大伴氏の代行者として物部氏を当てたので物部氏に対する優遇策か何かか。事務官系の大伴氏に対して、技官系の物部氏ではあまり期待もできなかったのではないか。これより前、「二年冬十月 都於磐余 當是時 平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連 圓 【圓 此云豆夫羅】 大使主 共執國事」とあるのも嘘っぽい記事で、一体に『日本書紀』は『古事記』に比べ平群氏の記事が多いが、これは日本書紀の執筆者に平群臣子首がいて日本書紀の編纂にあまり熱心ではない舎人親王などの目を盗んでは平群氏や平群氏を取り立ててくれた蘇我氏の説話を加筆していたのではないかと言うことである。履中天皇についてはその陵墓について意見の違いが鮮明になってきた。曰く、「現在の履中天皇陵と称するものは仁徳天皇陵であり、仁徳天皇陵と称するものは雄略天皇陵である」と。このほかに、雄略天皇陵は河内大塚山古墳という説もあるが、築造年代が6世紀中葉かそれ以降と言うことで欽明天皇の前後の天皇陵とするのが有力。それなら、本物の履中天皇の御陵はどれかと言えば、物部氏が主導して造営したのなら古市古墳群の中にある古墳のいずれかであり、葛城氏が主導して造営したのなら御所市の宮山古墳あるいは大和高田市の築山古墳などか。但し、宮山古墳は葛城襲津彦の墳墓、築山古墳は武烈天皇陵とする説がある。

允恭天皇については、『允恭天皇前紀』に、「我之不天 久離篤疾 不能歩行 且我既欲除病 獨非奏言 而密破身治病 猶勿差」とあって、「病、重篤にして、歩行が困難、誰にも相談せず我流の治療法を試みたが依然癒えず」という状態だったらしい。これに対して父親である仁徳天皇及び兄である履中、反正両天皇は「汝雖患病 縱破身 不孝孰甚於玆矣 其長生之 遂不得繼業 亦我兄二天皇 愚我而輕之」(『お前は病を患っているとはいえ、みだりに身を傷つけた。不孝の極みだ。長く生きたとしても、天業を継ぐことは出来ないであろう』とおっしゃられた。また我が兄である二人の天皇は、『私を愚かであると軽んじた。』)父親が息子の病気が原因で叱りつけるなどと言うのは、持って生まれた病気ではなく現今で言う生活習慣病ではないか。歩行困難になる原因としては運動と栄養の不足だそうで、允恭天皇の場合は酒ばかり飲んでいて運動はせず、かつ、十分な栄養(食事)を取らなかったのではないか。天皇の主なる事績としては、

*二年春二月丙申朔己酉 立忍坂大中姫 爲皇后 是日爲皇后定刑部(皇后のための刑部<生活の資を貢納する部曲>の設置)
*四年秋九月辛巳朔戊申 詔曰 群卿百寮及諸國造等皆各言 或帝皇之裔 或異之天降 然三才顯分以來 多歴萬歳 是以 一氏蕃息 更爲萬姓 難知其實 故諸氏姓人等 沐浴齋戒 各爲盟神探湯(身分を偽るものが多くなったので、沐浴斎戒の後、盟神探湯を行った。)
*五年秋七月丙子朔己丑 地震 先是 命葛城襲津彦之孫玉田宿禰 主瑞齒別天皇之殯 則當地震夕 遣尾張連吾襲 察殯宮之消息 時諸人悉聚無闕 唯玉田宿禰無之也 吾襲奏言・・・天皇設兵將殺 玉田宿禰 乃密逃出而匿家 天皇更發卒 圍玉田家 而捕之乃誅(五年七月十四日。地震。これより先に玉田宿禰に先帝瑞齒別天皇の殯宮の大夫<管理者>とした。地震の夕、尾張連吾襲を様子見にやったところ物・人ともに問題がなかったが、ただ玉田宿禰がいなかった。・・・玉田宿禰は密かに逃げ出し家に隠れたが、天皇はこれを捕らえ誅殺した。)
*十一年春三月癸卯朔丙午 天皇詔大伴室屋連曰・・・則科諸國造等 爲衣通郎姫 定藤原部(天皇は室屋に命じ、室屋は諸国の国造に妃の衣通郎姫<そとおりのいらつめ>のために藤原部を設置させた。)大伴室屋が唐突に出てくるが、允恭天皇と室屋は親族関係(又従兄弟くらいか)にあったのではないか。仁徳天皇の時代は緊縮財政下にあり、皇子たちも満足に遊ばせてもらえなかったので室屋の先代(父か兄であろう)がそれじゃあ子供の教育に良くないと言うことで大伴氏の淡路島の別荘に皇子たちを連れていって室屋も一緒に遊んだことだろう。「履中天皇五年秋九月乙酉朔壬寅 天皇狩于淡路嶋」とか「允恭天皇十四年秋九月癸丑朔甲子 天皇獵于淡路嶋」とか言うのは二人の天皇が子供の頃を思い出し今一度淡路島へ出かけたのだろう。允恭天皇が室屋よりは年長だったようで、兄弟がいなくなった天皇は室屋を弟のように扱ったのではないか。当時は外朝(外廷)はなかったという説もあるので、内廷の中の内廷業務を身内の室屋にさせていたのではないか。
以上が主なものである。

★まとめ

1.履中天皇については、「時平群木莵宿禰 物部大前宿禰 漢直祖阿知使主 三人 啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】 故三人扶太子令乘馬而逃之 【一云 大前宿禰抱太子而乘馬】 」はどう見ても「酔って起きられない」とか「馬にも乗れない」などと言うのは現今で言う酒の飲み過ぎで「泥酔状態で前後不覚に陥った」と言うことではないのか。また、允恭天皇が「我之不天 久離篤疾 不能歩行 且我既欲除病 獨非奏言 而密破身治病 猶勿差」と言うのも、毎日酒を飲み歩行が不安定になった状態を言うのではないか。允恭三年八月に新羅より名医が来て、幾ばくも経ずして完治したと言うが、信じがたい話である。本当の医者は藪医室屋で、室屋は天皇から足のふらつきの話を聞き、「それはズバリ言って酒でしょう」と曰って天皇から酒を取り上げたのではないか。断酒のかいあってか天皇の足のふらつきや手の震えなども徐々に好転し、その後は順風満帆で天寿を全うしたと言うことである。
ところで、倭の五王時代は古墳時代のまっただ中で、あの巨大古墳を造るには日本人ばかりか朝鮮半島の人材もそれ相当にやって来たのではないか。力仕事ともなれば仕事が終われば酒を飲みたくなるのが人の常で酒を飲ませろと言う半島系の人と酒はないと言う日本の現場監督が押し問答の末、造り方が解らないなら教えてやろう、などと大見得を切った半島系の人が日本での酒の量産化に成功したのではないか。もっとも、『魏志倭人伝』にも「他人就歌舞飲酒」とか「人性嗜酒」とかあるのでアルコールに強かったと思われる縄文人は果実酒のような酒を量産していたのかも知れない。酒造は地域の王の独占という見解もあるがどうか。酒のような嗜好品はあっという間に古墳築造現場に広がり、日本人の現場監督から古墳造営総監督へ伝わり、総監督から天皇をはじめとする上層階層へ拡散したのではないか。すでに、応神天皇の頃から宴会や飲酒の話が頻繁に出てきており、その頃から国の上層部では飲酒の風習が定着したのではないか。当然のことながらアルコールに弱い人がガバガバ飲むとアルコール依存症になってしまう。
2.宋書の系図で讃と珍(兄弟)と済(父)、興、武(子)のつながりがはっきりしないが、済(允恭)は父親の仁徳天皇に見放され、家族(仁徳天皇や履中天皇など)は河内や摂津に住んだのに済(允恭)だけが大和に住んだので中国人は二つに分けたのではないか。日本の多数説はこの二つのグループを別々のグループとは見なしていないようだ。
3.天皇陵は被葬者が依然として決着しない。履中天皇陵が仁徳天皇陵より築造が古いと言うことで仁徳天皇の御陵の地位も揺らいでいるようだが、全国第二位の規模を誇る応神天皇陵とも比較検討し仁徳陵がそんなに新しいものかを検討してほしいものだ。一応、築造年代は、応神陵 5世紀前半頃の築造(羽曳野市HP)、仁徳陵 5世紀中ごろの築造(堺市HP)、履中陵 5世紀前半頃の築造(堺市HP。形や出土した埴輪、陪塚の出土品などから仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られたことがわかっています、と言う)となっているが、大雑把に言うと応神陵の被葬者と履中陵の被葬者は兄弟、仁徳陵の被葬者は応神陵、履中陵いずれかの被葬者の子と言うことになろうかと思われる。皇室の系図は第15代応神天皇、第16代仁徳天皇、第17代履中天皇とつないでいるので、現応神天皇陵はそのまま応神天皇陵で、現履中天皇陵は仁徳天皇陵、現仁徳天皇陵は履中天皇陵とも考えられる。しかし、履中天皇は在位10年ほどと考えられそんなに長期政権でもない天皇に日本一の御陵はおかしいとお述べになる方もおられるかと思われるので、着工時期と工期を考えるならやはり現行の推定が、一応、正となるのではないか。古墳の形が仁徳陵が履中陵より新しいと言うが完成時の流行で化粧直しをしたものか。

 

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物部氏と蘇我氏は同族か

★はじめに

『記紀』など我が国の古典を見ていると何やら似たり寄ったりな話が出てきて、どうしてこうも同じ原典の使い回しをするものかと不思議に思う。「海幸山幸神話」は民間に移植され「浦島太郎物語」になったとか、神武東征は応神東遷のこととか、神功皇后は推古天皇以降の皇極天皇・持統天皇・元明天皇などの女帝をモデルとした、あるいは、『日本書紀』の編者は『魏志倭人伝』の卑弥呼に比定している、『日本書紀』に出てくる蘇那曷叱知(そなかしち)、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、天日槍(あめのひぼこ)は元は同一の説話で日本書紀の編者が三話に脚色した、武内宿禰は蘇我馬子や中臣鎌足などを原型にして作出した、など、数え上げれば切りがないが、ここでは物部氏と蘇我氏の似たり寄ったりな話を取り上げてみる。
物部氏と蘇我氏が政治の世界に登場したのは物部氏が少しばかり早いようで、神武天皇より先に大和国に来ていたという饒速日命とか垂仁朝の物部十千根とか伝説的な人物を除き、雄略朝の物部目大連が実在した最古参の人物ではなかったか。また、蘇我氏では宣化朝の蘇我稲目大臣が実在を裏付けられる最古の人かという。
何が両氏を結びつけるのかと言えば、物部氏は穂積氏の分家という位置づけになっており、穂積氏の具体的な活動が国史に現れるのは6世紀前半の穂積押山からで、継体天皇に仕えた穂積押山は、蘇我韓子の娘・弟名子媛を妻とした、と言うことである。分家の歴史が本家より古く顕著と言うのもおかしい気がするが、物部氏と穂積氏は同族、蘇我氏の女性が穂積氏に嫁いでいる、と言うことで、元をたどれば物部氏と蘇我氏は無縁ではないように思われる。

★物部氏

物部氏の氏素性は、饒速日命(神武天皇よりも前に大和入りをした天神)が祖先と伝わる神別氏族。本貫は大和国山辺郡あるいは河内国渋川郡あたりかとする。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していた(通説)という。従って、物部氏の「物」とは兵器を意味するか。その後、国々同士の争いが増えて軍事優先の時代になると大伴氏と並ぶ有力軍事氏族になった。天皇家の軍隊は当初は久米氏、ことに大久米命が担っていたようだが、大久米命の死後久米氏は衰退し大伴氏が取って代わったと思われる。『新撰姓氏録』によると中央の久米直氏は二氏あるようだがその出自は、一方は天皇家の久米氏で、他方は大伴氏の久米氏だったのではないか。久米とは組の意味といい、現今における軍隊を意味していたものと思われる。有力氏族は自分の領土(国)を守るため軍隊を組織していたものと思われる。物部氏の場合は古いタイプの氏族を守る軍隊ではなく、比較的新しくなった倭国(国家)の軍隊として発足したのではないか。後ほどになって、大伴氏は宮廷護衛を主務とし、物部氏は国土防衛を担った。しかし、当時の軍隊は常備軍ではなかったようで、紛争がある都度大将軍以下の組織を整え、各氏族より兵員を供出したようである。物部氏の実際に活躍した人物としては、雄略朝の大連、物部目(もののべのめ)からのようで、雄略天皇元年、雄略天皇が娘・春日大娘皇女の嫡出子としての認知を拒否しようとしたところ、その不当性を説いて認知させた。雄略天皇13年、狭穂彦王の玄孫の歯田根命が采女と姦通の罪を犯したので物部目に審尋させた。職務遂行よろしきを得て、餌香(えが・河内国石川左岸。藤井寺市、羽曳野市あたりか)の長野邑(藤井寺市にある辛國神社あたりか)を物部目に賜った。雄略天皇18年、天皇は物部目と物部菟代に伊勢の豪族・朝日郎の討伐を命じた。目は物部大斧手に盾を持たせて自ら進撃し、朝日郎を捕縛して斬った。しかし、菟代は何もしなかった。天皇は菟代が所有していた猪名部を没収し、目に与えた。物部目の勲功は大なるものがあるようで、物部氏躍進のきっかけを作ったようだ。
継体天皇22年(528年)11月、物部麁鹿火が筑紫国造磐井の乱を平定した。
欽明天皇の時代、百済から仏像が贈られた。それを巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子を中心とする排仏派が争った。
両氏ともに代替わりし、蘇我馬子、物部守屋になったが、依然として双方の崇仏と排仏の対立が続いた。
用明天皇の崩御(587年5月21日<用明天皇2年4月9日>)後、守屋は次期天皇として穴穂部皇子を推したが、587年6月馬子は炊屋姫(後の推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子を誅殺した。
587年7月、蘇我馬子並びに諸皇子、群臣は河内国志紀郡から渋河にある物部守屋の家に到着しこれを攻撃した。守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。587年9月、蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位。以降、物部氏は本宗家を石上氏が担ったが、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。
一族の墓所としては、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族か。

★蘇我氏

蘇我氏の系譜としては、武内宿禰を祖としている。即ち、武内宿禰とは、
『日本書紀』景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとする。孝元天皇紀では、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とすることから、武内宿禰は孝元天皇三世孫にあたる。
『古事記』では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてる。
武内宿禰には『古事記』によると、七男二女がおり、その後裔氏族二十七氏があげられており、蘇我氏は蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね、石川宿禰)の後裔と言うことになっている。
蘇我氏の出身地・身分については、
1.河内国の石川(現在の大阪府の石川流域、あるいは、南河内郡河南町一須賀あたり)の土着豪族という説
2.葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説
以上の二説が有力だが、蘇我氏渡来人説、蘇我氏が台頭したのは継体朝以降で継体天皇とともに越国から来た、などの説がある。
実在が確実視されているのは蘇我稲目でそれ以前の満智、韓子、高麗(馬背)については、満智を蘇我倉山田石川麻呂後裔の石川氏の手により創出された人物とみる説もある。一応、満智は『日本書紀』によると履中二年十月条に平群木菟宿禰等と国事を執ったとあるが(平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連 <葛城>圓 【圓 此云豆夫羅】 大使主 共執國事)、信じがたいとするのが多数説である。この文章自体が創作かと思われるが、あるいは大伴氏の名がないので「住吉仲皇子の反乱」に関わって、履中天皇より大伴氏は「出仕に及ばず」となっていたか。住吉仲皇子は住吉と言うくらいなので大伴氏の庇護の元で育ったのではないか。また、「住吉仲皇子の反乱」では淡路島の海人族(阿曇連浜子、倭直吾子籠)が住吉仲皇子側に付いている。淡路島は大伴氏の勢力下にあったと思う。それに、履中朝の四執政官の身分の違いも気になるところだ。平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰はその他大勢の下級官吏と思われ、物部伊莒弗大連 葛城圓大使主は肩書きから高級官吏と考えられる。当時にあっても下級官吏と高級官吏が混在する執行部などというのはあまり聞かないのでは。平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰は後世の追記かと思われる。元々の構成員は大伴大連、物部大連、葛城大臣だったか。なお、このほかに、『古語拾遺』には、雄略天皇の御代、麻智(満智)が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したという(三蔵検校)話が載っているが、忌部氏は持統天皇五年(691)八月の「詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記。」にも取り上げられていない氏であり、そのまま信用はできないと思われる。但し、信用して取り上げている説が多いようだ。墓記とは1.各氏族の祖先たちの朝廷での功業を謳った誄を集成し記録したもの。2.墓記とは基記(もとつふみ)の誤記で、古事記や日本書紀と同様、諸氏族の系譜を中心とした伝承の記録、の二説がある。もっとも、満智ではないかも知れないが蘇我氏の一族(稲目の可能性が大きい)で大伴金村に就職斡旋を依頼し(蘇我氏は元々大和の豪族ではなく、越国から来たばかりで、職がなかったのではないか)、金村は渡来系氏族(秦氏、東文氏、西文氏)に強い蘇我氏にこれらの氏族を使って帳簿を勘録させたのではないか。当時にあっては、これらの職業は下々(しもじも)の職業だったのかも知れないが、蘇我氏の財力を蓄える源泉の一つになったのかも知れない。そもそも、蘇我稲目が天皇の命により諸国に屯倉を設置したとあるが、これはお為ごかしの話で蘇我氏の蓄財のためであって天皇家や朝廷(国家)のためのものではなかったのではないか。
6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においた。
稲目の代になると、かっての大臣系の氏族(葛城氏、平群氏など)は没落し、大連の大伴氏や物部氏と肩を並べる大臣氏族になった。
蘇我氏の躍進の原動力はその婚姻政策にあったようで、稲目の娘は堅塩媛、小姉君が欽明天皇に嫁ぎ、堅塩媛は用明天皇や推古天皇の生母、小姉君は崇峻天皇の生母となっている。石寸名と言う娘が用明天皇妃となっているが、堅塩媛を誤伝したと言う説が有力。また、渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になった、と言う見解もある。
稲目の死後、仏教の受容を巡る問題は蘇我馬子と物部守屋まで引き継がれるが、用明天皇崩御後に後継者をめぐる争いがあり、馬子は守屋に擁立を画策されていた穴穂部皇子を暗殺し、崇峻天皇を擁立した。また、群臣とはかり守屋討伐を敢行した。もっとも、蘇我氏が物部氏を滅ぼしたのは蘇我馬子が物部氏の財産目当てのため、と言うインターネット上の見解もある。それなら、大伴氏の方が良かったのでは。
ここから蘇我氏三代(馬子、蝦夷、入鹿)にわたる専横が続いたが、馬子の死後蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まった。
蘇我氏は、645年の中大兄皇子、中臣鎌足らの「乙巳の変」によって、入鹿が殺害され蝦夷が自殺するとその勢力は大幅に低下した。
蘇我氏の後裔氏族石川氏も平安京遷都後亡くなった正四位上・参議、石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消した。

★まとめ

物部氏、蘇我氏両氏は仲の悪い氏族であったかと思われるが、その先祖を見てみると、物部氏は伊香色雄命の子孫で伊香色雄命は『日本書紀』では大綜麻杵の子といい、『古事記』では欝色雄命の子であるという。(『古事記』中巻第八代孝元天皇段、此天皇 娶穗積臣等之祖 内色許男命【色許二字以音 下效此】妹 内色許賣命 生御子 大毘古命 次少名日子建猪心命 次若倭根子日子大毘毘命 【三柱】 又娶内色許男命之女 伊迦賀色許賣命 生御子 比古布都押之信命)
一応、『古事記』では伊迦賀色許賣命は内色許男命之女と解るのであるが、伊迦賀色許男命と内色許男命との関係は不明である。しかし、古代の命名法として伊迦賀色許男命と伊迦賀色許賣命は兄妹あるいは姉弟の関係と思われ、簡潔に言うなら物部氏のご先祖さまも蘇我氏のご先祖さまも内色許男命から伊迦賀色許男命の系譜につながるものである。おそらく『古事記』の方が正解で内(京都府八幡市内里内)と伊香賀(大阪府枚方市伊加賀)は隣国近隣にあり、淀川水系に勢力を持った一族だったのではないか。
物部氏は内色許男命之男、伊迦賀色許男命を祖先とし、蘇我氏は武内宿禰を祖先としている。いずれの始祖にも「内」の文字が入っているが、当時にあって「内」氏とはあちこちにたくさんいたのかと言えば、国史に現れてくる「内」氏は武内宿禰と味師内宿禰くらいである。物部氏と蘇我氏に共通する氏族としては穂積氏があり、物部・蘇我の両氏は穂積氏から山城国、河内国に盤踞する古代豪族「内」氏の話を聞いていたのではないか。いわゆる、「山代内臣」氏である。その「内」氏の話を物部・蘇我の両氏は我田引水して物部氏の祖や蘇我氏の祖を作り上げたのではないか。物部氏、蘇我氏、穂積氏がなぜ旧知の間柄かと言えば、おそらく三氏はいずれも一族の人々が朝鮮に軍事派遣され、派遣される一族も徐々に固定化されお互い旧知の間柄になったのではないか。筑紫国造磐井は近江毛野臣に「今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前。」とも言っている。
いずれにせよ蘇我氏が越国(こしのくに、後世の越前国)から来たのなら中央豪族との関わりはまったくなかったであろうし、物部氏は氏の名にある「部」というのは比較的新しい氏族と解され天皇家より先に大和に来ていたなどとは考えられないことだ。いずれも古くて誰も知らないような氏族(内氏)を先祖に据えて、同じ穴の狢になったのではないか。

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紀氏はどうして大臣にならなかったのか

★はじめに

紀氏については「葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかかわらず、大化前代に大臣を出していない点は留意されよう。」(Wikipedia)とあり、応神天皇の紀角宿禰から始まり平安時代初期の紀古佐美など連綿と大和朝廷の高位高官が続いたのに、そういうこともあったのかと思いつつも何やらおかしい気がした。

紀氏には大別して二流があり、一流は紀臣氏で皇別の紀氏である。他流は紀直氏で国造の紀氏である。

紀氏の氏の名の起源は、
1.紀国(木国、後の紀伊国<和歌山県>)に基づく説
2.平群坐紀氏神社の神社名あるいは鎮座地(大倭国平群県紀里。現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近。)に基づく説
がある。
一説によると、蘇我馬子が物部氏に対抗して武内宿禰を持ち出し、蘇我派を結成して武内宿禰の子孫と称する二十七氏族を並び立てたのは、祖先に大臣伝承を持った氏族と言うことで「紀氏(紀臣氏)には大臣がいなかった」と言われても何かの間違いではと思うばかりなのだが、蘇我馬子が意図した「紀氏」は、おそらく、鎮座地(大倭国平群県紀里)に由来するものだったのではないか。一体に武内宿禰の子と称する人は、波多八代(大和国高市郡波多郷)、許勢小柄(大和国高市郡巨勢郷<奈良県御所市古瀬>)、蘇賀石河(葛城県蘇我里<奈良県橿原市曽我町>)、平群都久(大和国平群郡平群郷<奈良県生駒郡平群町>)、木角(大和国平群県紀里<奈良県生駒郡平群町上庄>)、久米能摩伊刀比賣、怒能伊呂比賣、葛城長江(大和国葛上郡<御所市名柄>)、若子(『古事記』にのみ記載がある。不明。)とあり、みんな奈良盆地南部の人と思われ、紀角(後世の紀氏)宿禰も現在の奈良県出身と思われる。従って、蘇我馬子の眼中にあったのは平群県紀里の紀氏であって紀国の紀氏(紀直)ではなかったと思われる。

『記紀』で紀氏や武内宿禰が出てくるのは、
『日本書紀』

大日本根子彦國牽天皇  孝元天皇
七年春二月 妃伊香色謎命 生彦太忍信命・・・彦太忍信命 是武内宿禰之祖父也

大足彦忍代別天皇 景行天皇
三年春二月 遣屋主忍男武雄心命・・・則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛 生武内宿禰
第八代孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命が紀国造(菟道彦)の女「影媛」を妃として、その間に「武内宿禰」が産まれたと言う。但し、『古事記』では屋主忍男武雄心命は系譜にない。即ち、

『古事記』中巻 大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)

又娶木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣 生子 建内宿禰 此建内宿禰之子并九【男七 女二】・・・次木角宿禰者【木臣 都奴臣 坂本臣之祖】
『日本書紀』では紀角宿禰が武内宿禰の子かどうかは解らない。『古事記』では「木角宿禰者【木臣 都奴臣 坂本臣之祖】」となっているので、一応、「皇別の紀氏」は武内宿禰の子孫と言うことになる。
「皇別の紀氏」が「紀」姓を名乗ったのは、武内宿禰の母が紀の国造家出身だったからと言う。紀臣氏と紀直氏は通婚関係にあったと思われる。

「国造の紀氏」は土着の豪族と思われ、天道根命(神魂神の五世の孫)を祖とし、神別氏族と思われる。紀直(国造の紀氏)と言う。『記紀』に見える、紀直氏は、
『古事記』中巻

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇段)
木國造之祖宇豆比古

御眞木入日子印惠命(崇神天皇段)
木國造 名・荒河刀辨

『日本書紀』卷第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇
三年二月 紀直遠祖菟道彦

『日本書紀』卷第九 息長足姫尊 神功皇后
摂政元年二月 紀直祖豊耳

『日本書紀』巻第二十 敏達天皇
十二年七月 紀國造押勝與吉備海部直羽嶋
十二年十月、紀國造押勝等還自百濟
欠史八代から朝廷に仕えていたことが解り、押勝を除いては古くから内政に関わっていたのかも知れない。朝鮮半島に帰化(紀臣奈率彌麻沙など)して外政に貢献した紀臣氏ほどではないにしても大和朝廷草創期より国政でも活躍していたようだ。但し、記録がほとんどないので在地豪族扱いである。
翻ってみると、武内宿禰は架空の人物という説が根強く、武内宿禰の子孫は二十七氏と言うが、世代が錯綜した系図が多いようで信用できないと言う説も多い。研究論文も多い。大先生のお説を云々する資格はないので私見を述べることにする。

★「皇別の紀氏」

皇別の紀氏は古くは臣のカバネを名乗っていたらしく、「天武天皇の八色の姓の制」で朝臣となったという。紀臣氏と紀直氏の関係だが、明らかではない。一応、同族説と別氏族説がある。同族説なら始祖は天道根命であり、一族は二分し紀臣氏は大和朝廷傘下に入り、紀直氏は紀国にとどまったと言うことなのだろう。紀臣氏が大和朝廷傘下に入ったのは隣国の大伴連に懐柔されたのではないか。瀬戸内海航路だが当時は山陽道沿岸(瀬戸内海沿岸)は吉備氏が圧倒的力を持って支配していた。大和朝廷といえども易々と筑紫国までは行けなかったので、時の天皇は大伴連に四国沿岸航路の開発を命じたのであろう。大伴氏としては自らが開発するか、はたまた、海に強い有力氏族に依頼するか逡巡したのであろうが、結局、造船の素材である自然林を大和国吉野郡に所有していた言わば隣家の紀臣氏に白羽の矢を立てたのではないか。このことは、『日本書紀』卷第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇 九年五月「・・・汝大伴卿與紀卿等 同國近隣之人 由來尚矣」(同國近隣之人の意味は紀伊の紀臣に対し和泉の大伴連が近隣の人を意味するらしい。紀角宿禰の子孫の坂本臣(和泉国和泉郡坂本郷)とか根使主(和泉国日根郡日根里)の本貫が和泉国にあるようなので和泉国で大伴氏と紀氏が近隣だったか、と思ったが、違うようである。)と符合するものか。ほかの紀臣氏の同族は角臣氏であるが、『日本書紀』には周防国都濃郡が本貫とある。小鹿火宿禰は紀角宿禰の子孫なのか。一説に、紀小弓の子、紀大磐の弟とある。ほかに紀角宿禰に関係する土地として、津野神社(滋賀県高島市今津町北仰・近江国高島郡角野郷)、角刺神社(奈良県葛城市忍海、但し、祭神は飯豊青命)などがある。しかし、紀角宿禰の実在を疑う見解もある。
紀臣氏の『記紀』に見られる功労者としては、応神・仁徳朝の紀角宿禰、雄略朝の紀小弓宿禰、雄略・顕宗朝の紀大磐宿禰、欽明・崇峻朝の紀男麻呂宿禰などが散見する。主に朝鮮半島での軍事・外交において活躍が著しい。特に、『日本書紀』巻第十 誉田天皇 応神天皇 三年「是歳 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无禮状 由是 百濟國殺辰斯王以謝之 紀角宿禰等 便立阿花爲王而歸」とあり、これを『好太王碑文』の「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年(391)來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」の記事のこととする説がある。但し、前述したように紀角宿禰のように実在が疑われる人物もいる。また、顕宗朝の大磐、欽明朝の男麻呂などは蘇我氏の全盛期と重なっている。従って、紀臣氏が大臣に就かなかったと言うことは考えづらいことではある。あまりに大伴氏よりだったためか。しかし、紀臣氏の本業は吉野山から材木を吉野川、紀ノ川を経て紀ノ川河口まで送り、そこで船を造る現今で言う林業、造船業ではなかったか。当時の船は未だ丸木舟や準構造船で兵員の大量輸送には適さなかったが、小型とは言え朝鮮半島へ渡るには船が必要で造船業者であった紀臣氏には一日の長があったのではないか。

★「国造の紀氏」

古記録は当然と言えば当然だが中央豪族の記録はまずまず残っているが、地方豪族となると極端に少なくなる。『風土記』のようなものを天皇の代替わりに提出させるとかすれば少しは地方の記録も残ったのだろうが、諸般の事情によりそういうこともかなわなかったようである。中央官界の仕事をしたのは敏達朝の紀国造押勝で百済にいた日羅を迎えるために朝鮮に派遣された。
国造の紀氏の由緒来歴はよくわからない。『先代旧事本紀』天神本紀によれば、高天原から葦原中国へ降臨することとなった饒速日尊の護衛として付き従った三十二神の一神で、同書国造本紀や紀伊国造家が伝える『国造次第』によれば神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられた、と言うが、失礼ながら信ずる人は少ないと思われる。しかし、紀の国造家が本拠とした紀伊国名草郡(和歌山平野)は紀の国造家により開墾されたと思われ、宮井(灌漑用水)は古く古墳時代にまで遡り、紀の国造家の主導の下に紀ノ川の旧河道を固定化して造成されたと考えられている。従って、紀の国造家は水田稲作を専一にし、その祭祀した日前宮も農耕神ではないかと思われる。

★まとめ

紀臣氏と言っても、本貫は紀国(紀伊国)であったと思われ、蘇我馬子が拾い上げた平群坐紀氏神社の紀氏とは何の関係もなかったのではないか。そもそも平群坐紀氏神社は紀船守が創建し、祭神も平群木菟宿禰と言う。端的に言うと、平群氏の神社であって紀氏の神社ではない。但し、「三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式である。6世紀半ばの古墳とのこと。 」とあり、また、「石棚のある横穴式石室の古墳は紀ノ川下流域に多いが、奈良県下では三里古墳を含めて3例のみであり、他の2基も吉野川(紀ノ川)流域に築造されている。 」とある。これをなんと見るべきかだが、
「石棚をもつ横穴式石室は、和歌山市岩橋千塚古墳群をはじめとする紀伊地域を中心に、近畿の北部と瀬戸内から九州の一部にまで分布する。これらは、文献史料で想定される紀氏一族の分布に重複する地域が多く、石棚のある横穴式石室は紀氏とその同族が造った墓」とするものと、
「岩橋千塚などの石棚は高い位置にあり、石室の構造材としても機能していて、三里古墳の低い石棚はそれらとは同列に扱えないこと、さらに、平群谷に紀氏が居住したのは奈良時代以降」とする説がある。
上記いずれの説も正しいとするならば、石棚に構造材としての機能を持たせているのなら、そちらの方が技術的に高度なものであり、石棚が岩橋千塚古墳群に多いのなら石棚がある古墳は紀の国造氏にまつわる墳墓ではないのか。紀氏と言っても「紀臣氏」「紀直氏」「蘇我馬子が勘違いしたカバネ不明の紀氏」があるようで、おそらく奈良県の石棚つき古墳の被葬者は紀直氏に近い人で、自分の墓を紀直氏の墳墓のごとく見よう見まねで築造したものではないか。石棚つき墳墓が奈良県に三基というのも大和国には紀伊国の石室形式が入ってこなかったと言うべきではないか。
平群坐紀氏神社の紀氏は根拠薄弱ではあるが、紀直氏の関係者かと思われ、もし平群郷にいた紀氏が紀直氏なら臣のカバネでもないのに大臣などとなるはずもなく、仮令「直」として「大直」というカバネがあったとしてもそれは「大臣」とは違うものであろう。従って、平群の紀氏が大臣を賜与されることは皆無だったと思われる。よって、紀氏が大臣となることはなかった。また、紀臣氏であるが、こちらにも大臣がいなかったと言うことかと思われるが、大化の改新前代にあっては紀氏は主に朝鮮半島に在住し、日本本国とは縁が薄かったのではないか。今でもそうだが、出世の要諦は本社→地方→本社→地方というようなルーティンを繰り返すことで、地方(紀臣氏の場合は朝鮮半島)ばかりにいては出世はおぼつかないそうだ。よって、本社(大和国)にいない紀臣氏には大臣の地位が回ってこなかったと言うべきか。
紀臣氏と紀直氏だが、同国の人ではあるが紀臣氏は林業や造船業、海運業はたまた軍事・外交を家業とし、紀直氏は農業、建設業等を家業としていたのではないか。従って、紀臣氏が縄文時代色の強い氏族であったのに対し、紀直氏は弥生時代色の強い氏族であったかと思われる。おそらく両氏は別の氏族であったろうが、古くは通婚関係があったようだ。和歌山市には日前神宮・國懸神宮があるが、本来はいずれかが紀臣氏の神社で他方が紀直氏の神社ではなかったか。紀臣氏が律令時代になると完全に奈良市の方へ引っ越してしまったので、紀の国造家が双方の神社を奉斎するようになったのではないか。

 

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大国のこと

★はじめに

「大国」などと言えば大国主命の名が浮かんでくるが、この場合の大は「多」の意味(古代にあっては大と多の区別はなかったという)で、大国主とは「多くの国の主(あるじ)」を指すものと思われる。即ち、「大きな国の一国の主」の意ではないと思う。そのためか、大国主命にはたくさんの別名がある。大まかに列挙してみると、

大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神・・多くの国の王
大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・・大きな古墳に眠る神
大己貴命(おほなむち)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・・多くの国(名前)の所有者
八千矛神(やちほこ)・・軍神
葦原醜男・葦原色許男神・葦原志許乎(あしはらしこを)・・武神
大物主神(おおものぬし)・・多くの物・心を支配する神
大國魂大神(おほくにたま)・・多くの国の産土神
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)・・地上世界を創造した神
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)・・幽界の主宰神
杵築大神(きづきのおおかみ)・・大社(おおやしろ)のある地名に基づく神名

多くの角度から名付けられており、単純にあっちの地名、こっちの地名という地名に基づく別名ではないようである。しかし、大国主命は父神を天之冬衣神と言い、母神を刺国若比売と言い、両神は縄文時代の人物かと思われるような名である。冬衣とは冬物の衣料を想像し、寒冷地の人かとも思われる。縄文文化は寒冷地の方が優れていた。また、刺国とは焼畑農業の用語と聞いたような。「小手指の「サシ」は焼畑という意味です。原野を開墾した土地につけられた地名です。」とある。東日本に多い地名で水田(弥生文化)以前の焼畑(縄文文化)農業を言ったような感じだ。天之冬衣神と大國主神を祀っているのは重蔵神社(じゅうぞうじんじゃ・石川県輪島市河井町)と言い、刺国若比売の墓は宮木諏訪神社(長野県辰野町宮木。刺国若比売命陵)にあるという。国造りの神、農業神、商業神、医療神などと当時としては先進的な領域の神の親神がこんな前弥生時代的なところに縁があるとは驚きだ。現在の日本文化の基層には縄文文化と弥生文化があるという。その混合文化を創り上げたのが出雲国であり、大和国へやって来た出雲の神々だったか。

ところで、ここで言う「大国」とは大国主命のことではなく、地名の「大国」である。「大国」地名は割と多かったようで、『和名抄』では以下の地名が載っている。

山城国宇治郡大国郷(山科川・宇治川)
河内国石川郡大国郷(石川)
近江国愛知郡大国郷(愛知川)
播磨国印南郡大国郷(加古川)
石見国邇摩郡大国郷(潮川)
筑前国席田郡大国郷(御笠川・那珂川)

以上の大国郷の語源と言えるべきものは、『播磨国風土記』(印南郡大国里)は「百姓の家が多くここにたむろしていた。だから大国という。」と言い、『石見八重葎(いわみやえむぐら)』(石田春律著・文化十四年)では「石見の名始めて此村より発る故」「又は、大國魂命神社が鎮座」と言うが、『播磨国風土記』はともかく、『石見八重葎』は意味不明と言うほかない。一般には、1.広大な国土(領域)、2.住民や人家の多いところ、3.大は美称、国は一定範囲の地域、と解されているようである。大国郷が各々の国や郡の中心地だったとは思われず、「大」も「国」も言葉の原意を表しているとは思われないので、結局、3.の大は美称、国は一定範囲の地域と解釈するのが正解か。

★大国郷の解説

大国郷は近畿地方が主力でそのほかに石見国や筑前国にある。いずれの大国郷も上述してあるように河川に沿ってあり、水田稲作と関係があるのではないか。あるいは、最近はやや慢性化しつつある「梅雨前線に伴う大雨及び台風による豪雨」のような大雨洪水による河川の氾濫が徐々に耕地面積を広げ、大国郷という地名になったか。大国郷は一般的に平地や盆地平坦部にあり、一望して「広大な村」となり大国となったのかも知れない。
「大国」の文献初出は【古事記】(中巻、「伊久米伊理毘古伊佐知命」段)にある、「又娶山代大國之淵之女 苅羽田刀辨」とか【日本書紀 卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇】にある、「卅四年春三月乙丑朔丙寅 天皇幸山背 時左右奏言之 此國有佳人 曰綺戸邊 姿形美麗 山背大國不遲之女也」とかがもっとも古いものではないか。「山代大國之淵」とか「山背大國不遲」とかあるが、これを後世的な郡郷制で表記するならば、「山城国大国郷」となるのではないか。区切り方によっては「山代大国」とか「山代」「大国淵」などもあるようだが、いずれも一理はあるがやはり後世の「山城国宇治郡大国郷」から推測すると「山城国大国郷」がいいのではないか。おそらく、当時は当該地は木津川、宇治川、桂川の三川と巨椋池(港湾として機能したか)からなる水上交通の要衝で、後世の山城、河内、摂津の豪族が三川と巨椋池の支配権をめぐって争っていたのではないか。最大勢力は山城国大国の淵(不遅)さんかと思うが、そこに関係のない大和の伊久米伊理毘古伊佐知命さんが現れ、すったもんだのあげく伊久米伊理毘古伊佐知命さんは淵(不遅)さんから三川及び巨椋池の支配権と淵(不遅)さんの二人の娘を言葉は悪いが強奪し大和へ帰ったのではないか。要するに、大和国は此の地を押さえて丹波の親しい丹波道主命や摂津の大伴氏に気軽に行けることにしようとしたのであろう。
翻って、『記紀』には、鬱、とか、淵(不遅)、とか、内、とか、同一の氏族なのか、はたまた、異なった氏族なのかは解らないが、木津川、宇治川、桂川の合流する地点にはことあるごとに似たり寄ったりの氏族が出現している。そこで、これらの氏族は何者なのか次に検討してみる。

★鬱、淵、内とはどういう氏族か

鬱、淵、内は表記も発音も違うので同一の氏族ではあるはずもない、と主張する方が多いのかも知れない。居住地と言おうか、本拠を構えたのも同じ場所ではないようだ。ところで、平安時代に入ると当該地には宇治郡郡司(宇治郡大領)に宮道氏という一族がいたようだが、時代が下るので割愛する。以下は、主に『記紀』に出てくるものを取り上げる。

鬱氏

(『古事記』中巻 孝元天皇段。『古事記』では、内氏となっている。読みは「うつ」か。)
此天皇 娶穗積臣等之祖 内色許男命妹 内色許賣命 生御子 大毘古命 次少名日子建猪心命 次若倭根子日子大毘毘命 【三柱】
又娶内色許男命之女 伊迦賀色許賣命 生御子 比古布都押之信命【一柱】
又娶河内青玉之女 名波邇夜須毘賣 生御子 建波邇夜須毘古命【一柱】
此天皇之御子等并五柱
故若倭根子日子大毘毘命者 治天下也 其兄大毘古命之子 建沼河別命者【阿倍臣等之祖】 次比古伊那許志別命【膳臣之祖也】
比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毘之妹 葛城之高千那毘賣 生子 味師内宿禰【此者山代内臣之祖也】 又娶木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣 生子 建内宿禰 此建内宿禰之子并九【男七 女二】

(『日本書紀』 卷第四 大日本根子彦國牽天皇  孝元天皇)
七年春二月丙寅朔丁卯 立鬱色謎命爲皇后 后生二男一女 第一曰大彦命 第二曰稚日本根子彦大日日天皇 第三曰倭迹迹姫命 【一云 天皇母弟 少彦男心命也】
妃伊香色謎命 生彦太忍信命
次妃河内靑玉繁女埴安媛生武埴安彦命
兄大彦命 是阿倍臣 膳臣 阿閉臣 狹狹城山君 筑紫國造 越國造 伊賀臣 凡七族之始祖也
彦太忍信命 是武内宿禰之祖父也

『記紀』ともに似たり寄ったりの伝承を載せているが、「内氏」に関する限りでは、『古事記』では味師内宿禰【此者山代内臣之祖也】と建内宿禰の父親は比古布都押之信命で、味師内宿禰と建内宿禰は異母兄弟となる。『日本書紀』では彦太忍信命は武内宿禰の祖父と言う。山代内臣への言及はない。

淵(不遅)氏

(『古事記』中巻 垂仁天皇<伊久米伊理毘古伊佐知命>段)
此天皇 娶沙本毘古命之妹 佐波遲比賣命 生御子 品牟都和氣命【一柱】
又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女 氷羽州比賣命 生御子 印色之入日子命 次大帶日子淤斯呂和氣命 次大中津日子命 次倭比賣命 次若木入日子命【五柱】
又娶其氷羽州比賣命之弟 沼羽田之入毘賣命 生御子 沼帶別命 次伊賀帶日子命【二柱】
又娶其沼羽田之入日賣命之弟 阿耶美能伊理毘賣命 生御子 伊許婆夜和氣命 次阿耶美都比賣命【二柱】
又娶大筒木垂根王之女 迦具夜比賣命 生御子 袁耶辨王【一柱】

《又娶山代大國之淵之女 苅羽田刀辨 生御子 落別王 次五十日帶日子王 次伊登志別王》
《又娶其大國之淵之女 弟苅羽田刀辨 生御子 石衝別王 次石衝毘賣命 亦名布多遲能伊理毘賣命【二柱】》

凡此天皇之御子等十六王【男王十三女王三】 故大帶日子淤斯呂和氣命者 治天下也【御身長一丈二寸 御脛長四尺一寸也】 次印色入日子命者作血沼池 又作狹山池 又作日下之高津池 又坐鳥取之河上宮 令作横刀壹仟口是奉納石上神宮 即坐其宮定河上部也 次大中津日子命者【山邊之別 三枝之別 稻木之別 阿太之別 尾張國之三野別 吉備之石无別 許呂母之別 高巣鹿之別 飛鳥君 牟禮之別等祖也】 次倭比賣命者【拜祭伊勢大神宮也】 次伊許婆夜和氣王者【沙本穴太部之別祖也】 次阿耶美都比賣命者【嫁稻瀬毘古王】

《次落別王者【小月之山君 三川之衣君之祖也】 次五十日帶日子王者【春日山君 高志池君 春日部君之祖】 次伊登志和氣王者【因無子而爲子代定伊登志部】 次石衝別王者【羽咋君 三尾君之祖】 次布多遲能伊理毘賣命者【倭建命之后】》

(『日本書紀』卷第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇)
卅四年春三月乙丑朔丙寅
天皇幸山背 時左右奏言之 此國有佳人 曰綺戸邊(かにはたとべ) 姿形美麗 山背大國不遲之女也 天皇於茲 執矛祈之曰 必遇其佳人 道路見瑞 比至行宮 大龜出河中 天皇擧矛剌龜 忽化爲石 謂左右曰 因此物而推之 必有驗乎 仍喚綺戸邊納于後宮 生磐衝別(いはつくわけ)命 是三尾君之始祖也
先是(これよりさき) 娶山背苅幡戸邊(かりはたとべ) 生三男 第一曰祖別(おほぢわけ)命 第二曰五十日足彦(いかたらしひこ)命 第三曰膽武(いたける)別命 五十日足彦命 是子石田君之始祖也

鬱(内)氏がきらびやかな系譜(内色許賣命は、大毘古命 少名日子建猪心命 若倭根子日子大毘毘命<開化天皇>。伊迦賀色許賣命は、 比古布都押之信命。御真木入日子印恵命<崇神天皇>。)に彩られているのに対し、大国之淵(不遅)の女子の子供たちは近江国や北陸など辺鄙な地域に追いやられているようだ。鬱(内)氏の凋落が始まり、淵(不遅)氏の頃には崇神天皇の全国制覇も始まり宇治地域の重要度も低くなっていたのかも知れない。このあたりから淵氏(内氏か)が天皇家に正妃を出すのも縁遠くなってしまったのかも知れない。

内氏(建内氏、味師内氏)

内氏や宇治氏は、後世、舒明天皇の子孫や阿蘇国造家に多いようだが、ここでは比古布都押之信命(彦太忍信命)の味師内宿禰と建内宿禰について述べることにする。『古事記』には味師内宿禰【此者山代内臣之祖也。母、葛城之高千那毘賣】と建内宿禰【建内宿禰之子并九<男七 女二>。母、山下影日賣】とある。比古布都押之信命(彦太忍信命)は孝元天皇と伊香色謎命(いかがしこめのみこと、『日本書紀』では大綜麻杵(おおへそき)の女子、『古事記』では内色許男命(うつしこおのみこと、鬱色雄命)の女子。)との間に生まれた皇子。建内宿禰の子并九<男七 女二>は以下のごとしという。
羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城襲津彦、若子宿禰。しかし、建内宿禰は後世創作された人物で彼にまつわる話には信がおけないと言う説もある。結局、内氏として残るのは「山代内臣」氏で、その先祖を祀るのは「内神社」(京都府八幡市内里内1。祭神:山代内臣、味師内宿禰 )と言うことになる。『新撰姓氏録』には「大和国 内臣 孝元天皇皇子彦太忍信命之後也」とある。大和国宇智郡の式内社に宇智神社(奈良県五條市今井。祭神:不明。)がある。こちらが建内宿禰の内氏の神社という説もある。

★まとめ

大国とは大きな国ないし多くの国を意味するような大げさなものではなく、どこにでもある(但し、西日本に偏っている)久仁(恭仁)などの地名に「大」の美称をつけたものなのだろう。対応する反意語は「小国」か。「クニ」が西日本に偏っているのも「クニ」の語源が漢字の「郡」で、これを日本語読みにして「クニ」即ち「一定範囲の領域」を言ったものではないか。大陸から来た人たちの定着率は西日本が良かったのではないか。特に、近畿地方に多いのは水田稲作が日本に入ってきてすぐに全国に広まったのではあるが、やはり近畿地方の浸透度が高かったと言うべきか。ことわざに「小さく生んで大きく育てる」と言うのがあるが、集落建設にもこのことが当てはまるのか。中世以降であるが、地名では小国が多く、大国は少ない。即ち、はじめは10戸ほどの村で小国村と言っていたところが、その後100戸ほどの村になり大国村に改めたと言うことか。近畿地方に大国郷が多いのも人口密度が高く小国郷から大国郷へ昇格するのが早かったと言うことか。但し、『和名抄』では、小国郷は備後国御調郡小国郷(広島県府中市小国町)一カ所だけで、ほかの六カ所は大国郷である。小国と大国との均衡を失し、あるいは双方はまったく関連のない語かとも思われる。小国は「山間の小盆地」というのが通説で、大国は「平野地であることが多い」とある。因みに、備後国御調郡小国郷(広島県府中市小国町)は、山間の高地で水利が不便としつつ、古墳があるという。府中というので備後国の国府があったかもしれず、そこにいた高官の人々の墓か。
特に、山城国宇治郡大国郷(比定地は現・京都市山科区の山科盆地とする説と現・京都市伏見区石田、日野、醍醐界隈とする説がある。後説では醍醐は大国→だいこく→醍醐になったとするもののようである。)は重要で、山城国宇治郡や山城国綴喜郡宇智郷などは当時は一体化されていて今日的に言う宇治市や八幡市、場合によっては枚方市あたりまでを宇智(宇治)国と言って大和国に対抗するような勢力があったのではないか。しかし、この宇智国は凋落が激しく、国主とも言うべき鬱氏、淵(不遅)氏、内氏の没落も早かったのではないか。
大国氏と言うのも非常に少ない。『類聚国史』巻187(仏道14、還俗僧)大国忌寸木主とか、『三代実録』貞観10年(868)正月七日条大国忌寸福雄などわずかなものである。この大国氏は河内国石川郡大国郷の出身か。カバネは忌寸のようである。かっての「直(あたえ)姓の国造や、渡来人系の氏族に与えられた。」とある。大国忌寸は渡来系ではなく阿倍朝臣の系統か。

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海幸山幸

★はじめに

過日、インターネットで<海幸彦と山幸彦>の項目を見ていたら、

「山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、『記紀』に記された日本神話。主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」と呼ばれ、神話に多い神婚説話、理想郷に留まる内容であり、民話「浦島太郎」のもととなっている。誕生地、生活などの伝説は宮崎県の宮崎市を中心とした宮崎平野に集中している。(Wikipedia)とか、

「天孫族が、隼人(はやと)族を屈服させたことを神話化したともみられ、仙郷滞留説話・神婚説話・浦島説話の先駆と考えられている。 」(小学館『デジタル大辞泉』)

とあるが、これは本当か。失礼ながら怪しの説ではないのか。「海幸山幸」の類似の話としてはインドネシアやメラネシア、パラオにもあると言い、日本では 喜界島の「竜神と釣縄」という類話があるという。これに対して、「浦島説話」は『丹後国風土記』(逸文)、『日本書紀』、『万葉集』と言う古典にも載っており、日本における分布範囲も広く、類似の話が中国、アイルランド、エジプトほか全世界にあるそうな。ざっと見ても、「海幸山幸」の話は南方(東南アジアか)起源であり、「浦島説話」は中国と言おうかユーラシア大陸起源であろう。また、日本における分布状態も「海幸山幸」がほとんど全国的な広がりを持たないのに、「浦島説話」は全国的に広がっており、かつ、海辺ばかりか山間部<寝覚の床(ねざめのとこ)、長野県木曽郡上松町など>にも伝わっている。これは「浦島説話」が庶民から庶民へ伝わった民話であるのに対し、「海幸山幸」は『記紀』編纂者が隼人征討のため無理に取り入れたものではないか。そういう意味では、「海幸山幸」神話は隼人族征討を記念した日本プロパーなものかも知れないが、それにしては大陸や半島から入ってきた各種神話の寄せ集め(仙郷滞留説話・神婚説話)になっているかと思う。

★「海幸山幸説話」と「浦島説話」はどちらが古いのか。

『日本書紀』には「海幸山幸説話」を神武天皇の父や祖父の項に入っており、「浦島説話」は雄略天皇22年(478年)秋7月の条の記述となっている。これをそのまま信ずる人もいるようだが、隼人服属が7世紀から8世紀初頭のことなので、『記紀』編纂時には「もっとも新しい時点の歴史的事件にもかかわらず、こうした話が神代に繰り込まれているのは、服属の由来の久しいことが強調」されている、と説く見解もある。『記紀』では、仁徳天皇の時代に隼人が天皇や皇族の近習であったと記されている。史実かどうかは疑わしいが、大和朝廷が熊襲(隼人)に接触した話として『日本書紀』で、景行12年熊襲梟帥(くまそたける)をその娘<姉の市乾鹿文(いちふかや)>に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた、とある。そのときの捕虜が仁徳天皇の近習になった人と言うことか。しかし、この景行天皇の親征については『古事記』には記載がないので史実とするにはやや疑問が残る。また、『日本書紀』清寧天皇元年正月に「隼人、昼夜陵の側(ほとり)に哀号(おら)ぶ。食を与えども喫(くら)はず。七日にして死ぬ。(隼人晝夜哀號陵側 與食不喫 七日而死)」ともあり、天皇の周辺には奴婢的に扱われた人がおり、家畜と同じ扱いと言うのでそういう人(南の方の蛮族)を隼人と言ったのかもしれない。私見では「ハヤ」も「カヤ」も同語で大隅国や日向国のカバネであったと思われる。
そこで、「海幸山幸説話」と「浦島説話」はどちらが古いのか、と問われれば、「海幸山幸説話」が隼人族の服属起源譚とすべく、『記紀』の編纂者が大陸や半島の神話類型を参照して日本的に創作した比較的新しい説話であるのに対し、「浦島説話」は全国的に流布しており、中部・東海地方から西日本にかけてが多いようなので、弥生時代の頃に大陸・半島より導入されたと言うべきか。従って、「海幸山幸説話」と「浦島説話」は出自も時代も違い「海幸山幸説話」が「浦島説話」のもととなっているというのは間違いではないか。

★「海幸山幸説話」と「浦島説話」の比較

論者の中には「海幸山幸説話」と「浦島説話」を比較して、非常に似ているという。おそらく、「海幸山幸説話」をお手本に「浦島説話」が作られたというのであろう。

「海幸山幸説話」の内容
山の猟師である山幸彦(弟)と、海の漁師である海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。途方に暮れていたところ、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(海神の宮殿)に赴いた。海神(大綿津見神)に気に入られ、娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で暮らすこと三年がたち、山幸彦は地上に帰ることになり、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦を配下に収めた。この海幸彦は隼人族の祖である。妻の豊玉姫は子供を産み(豊玉毘売命は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と彦火火出見尊に言う。しかし、火遠理命<山幸彦>はその言葉を不思議に思い産屋の中を覗いてしまう。)、それが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、山幸彦は神武天皇の祖父にあたる。

「浦島説話」の内容
漁師の浦島太郎は、子供達が亀をいじめているところに遭遇する。太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を海の中の竜宮城に招く。竜宮城では乙姫が太郎を歓待する。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日(三年説が多いようだ)だったが、地上では随分長い年月(七百年説もある)が経っていた。

多くの説が取り上げる類似点として、
「海へ釣りに行く」、「小船に乗って海原の彼方の宮殿に行く」、「美しい姫と結婚する」、「楽しい結婚生活を送る」、「その期間は3年間であった」、「夫は故郷に帰りたくなり、別れ際に妻や家族から贈り物があった」、「妻の禁止事項があり、夫は守ると約束する」、「夫は故郷に帰る」、「夫は妻との約束事を守れず、二人は永遠に別れてしまう」
双方の説話の類似点は以上のもののようだが、一つの説話を単に使い回ししたともとれる内容だ。

★まとめ

「浦島説話」の類似の話は中国に多いようで、中国では囲碁にまつわる話が多いようだ。囲碁(ゲーム)に熱中して時間がたつのも忘れてしまったと言うことか。中国の説話が我が国へ導入されたとも考えられるが、私見では日本の「浦島説話」は『丹後国風土記』(逸文)では、「筒川嶼(島)子 水江浦嶼(島)子」とか、「與謝郡日置里筒川村」とか、「人夫日下部首等先祖」とか、内容が具体的である。端的に言うと、「浦島説話」は<日下部首>氏の祖先伝承であって、本来はおとぎ話などになるような話ではなかったと思われる。それを文才豊かな伊預部馬養連のお筆先になり当時のベストセラーにでもなったのではないか。当時にあっても知識人階級では写本の貸し借りなどがあったのではないか。
「海幸山幸説話」は隼人族懐柔策として人為的に書かれたものではないか。要するに、天孫族と隼人族は同族と言うことを隼人族に印象づけようとしたもので、景行天皇九州親征があったとしたなら、作者はおそらく大伴武日あたりであり、それがなかったならば『記紀』編纂時に編者の一人が執筆したものと思われる。
以上より、「海幸山幸説話」と「浦島説話」は、その発生事由からして異なるものであり、類似点が多いと言っても時間がたつと「物語」や「行政文書」などはパターン化し、似たり寄ったりなものになったのではないか。

 

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地名における姫とは

★はじめに

「姫」などと言う言葉は、男子に「〇彦」などという名前をつけてもおかしくはないが、女子に「〇姫(媛)」などとつけたら、「あそこの家は少しおかしいのではないか」などと陰口をたたかれるのがオチだ。最近では少なくなったが、「〇姫」の代わりに女子には「〇子」とつけるのが一般的だったような気がする。これも、学者によっては本来は男子につけるもので、「孔子」「孟子」が正当で、日本流の「花子」とか「千代子」などと言うのは間違って導入されたものという。古代では蘇我馬子とか小野妹子とか有力男子にも「子」の字がつく人がいたようだが、この男子の「子」は長続きがしなかったようだ。もっとも、「子」というのは実名などにつける敬称あるいは尊称だったという説もあり、それでは男子でも女子でも敬称をつけて呼ぶことには問題はないのではないかと思うのだが、誤解が原因かどうかは解らないが、日本では「子」という敬称ないし尊称は女子のみにつくようになった。なお、姫型(○姫)の名は、臣籍降下した皇女にのみ与えられた、と言う。今は民間人に嫁いだ皇女は強制的に臣籍降下しなければならず、皇族同士の結婚がほとんどない現在では女性皇族が結婚した暁には、「〇姫」と名乗ってもおかしくないのかも知れない。
彦と姫はすでに『魏志倭人伝』にも出てきているようなので当時の上層階級にあっては「〇彦」とか「彦〇」や「〇姫」とか「姫〇」などという名前は一般的であったのだろう。当時の人は血統も重視しただろうから、いわゆる、現在の苗字に相当する「柄(から)」の名もあったと思われるが、上古での露出度はほとんどない。従って、『記紀』に連綿とつながっている各豪族の家系も天皇家はともかくはなはだ疑問ではある。
姫は意外と思われるかも知れないが人名のほかに地名にもついている。その数は古代にあっては多い方ではないと思われるが、西日本に偏ってはいるがまとまってある。以下、少しばかり地名の「姫」を検討してみる。

★地名における「姫」の意味

「姫」のついた地名はままあるが、新しい地名では本来の意味がわからないので、比較的古いもの(『和名抄』程度か)を検討してみる。具体例として、
1.姫社(ひめこそ)『和名抄』肥前国基肄(きい)郡姫社郷。現・佐賀県鳥栖市姫方町か。山下川沿いの平野にある。姫古曽神社がある。
説1。ヒメはヒビ(罅)の転で、「谷などが分かれたところ」か。
説2。ホトと同じで「女陰」ともつながるか。姫も同源か。但し、甲乙が違うという。
説3。コソはコシ・つまり「峠地または崖地」の転か。

2.姫沼(ひめぬ)『和名抄』筑後国生葉郡姫沼郷。現・福岡県うきは市浮羽町田篭(たごもり)か。田篭は旧姫治村の一角で、姫治は姫沼の誤記かという。隈上川(くまのうえがわ)の谷筋沿いでは、石垣で階段状に築かれた棚田が連なる。平成24年5月18日、新川田篭地区の川沿いの集落が、伝統的建造物群保存地区に答申されました、とある。
説1。ヒメはヒビ(罅)の転で、「分岐した沼地」の称か。ヒメ(姫)とヒビ(罅)の転のヒメとでは甲乙が違う。
説2。「小さいこと」を表すヒメ。

3.ひめのえ(姫江)『和名抄』讃岐国苅田郡姫江郷。現・香川県観音寺市豊浜町姫浜。灌漑用溜池を源とする川沿いの地か。
説1。ヒメはヒビ(罅)の転で、「澪条のある干潟の入江」の意か。
説2。ヒメは美称で「海域のなごやかなこと」を称したものか。
説3。「小規模な入江」の意か。

4.ひめのはら(姫原)『和名抄』伊予国和気郡姫原郷。現・愛媛県松山市姫原。灌漑用溜池に囲まれた平地。
説1。ヒメはヒビ(罅)の転で、「山あいに幾筋も分岐している原」
説2。小さい原
衣通姫伝説の地。近親相姦の罪で伊予国に流された木梨軽皇子が同母妹である衣通姫(そとおりひめ)に再会した。

5.ひめの(姫野)越中国射水郡姫野保。現・富山県高岡市姫野 海岸沿いの平地。水運と陸運の交差する地。

6.ひめだ(姫田)阿波国板野郡姫田邑。現・徳島県鳴門市大麻町姫田(おおあさちょうひめだ)北半は山地、南半は平野部で農業地域である。
新潟県新発田市東姫田・西姫田 姫田川を挟んで東西の平地。水田。

7.ひめしま(姫島)豊後国国東郡姫島。現・大分県東国東郡姫島(ひめしま)村 島には島中央部に標高266mの矢筈山、島西端に標高105mの達磨山、島西北部に標高62mの城山があり、この3つの山の間が中心集落になっている。
灰白色の黒曜石を産す。姫島産黒曜石は中国、四国の縄文時代遺跡から発見されている。

8.ひめじ(姫路)因幡国八東郡姫路邑。鳥取県八頭郡八頭町姫路。私都川(きさいちがわ)に沿った両側が山の山間地。
兵庫県姫路市は奈良時代に「日女道」の表記で記録のある地名。

9.ひめい(姫井)現・熊本県菊池市旭志弁利姫井(クマモトケンキクチシキョクシベンリヒメイ)
姫井の井は川の意であろう。合志川の二条の支流(これを姫井というか)に挟まれた地。

10.ひめみや(姫宮)現・埼玉県南埼玉郡宮代町姫宮。姫宮神社にちなんだ地名か。
姫宮落川沿いの旧笠原沼周辺は、台地に囲まれるように「後背低地」と呼ばれる低い土地が分布しています、とあり、川沿いないし川の中洲の地。

11.ひめこまつ(姫子松)岩代国安達郡二本松姫子松。現・ 福島県二本松市姫子松。
阿武隈川支流杉田川沿岸の地。

12.ひめ(姫)美濃国可児郡姫庄、紀伊国牟婁郡姫邑あり。美濃国は旧・岐阜県可児郡姫治村。現・多治見市姫町・可児市下切など。紀伊国は和歌山県東牟婁郡串本町姫。
多治見市姫町・可児市下切などは姫川の沿岸の地。
和歌山県東牟婁郡串本町姫、姫川は山間地。姫はあるいは海岸沿いが起源地か。

13.ひめこまつ(姫小松)三重県伊勢市二見町江字姫小松(伊勢市市道江21号線)
五十鈴川の川口にあるので江と言う、とある。五十鈴川川口の扇状地上にある。

★まとめ

姫の地名としての語源には、
1.小さい、と言う形容詞。
2.罅・皹(いずれもヒビ)の転。姫(ヒメ)と罅・皹(ヒビ)の転訛したヒメとは上代特殊仮名遣の甲(日、比、氷)、乙(飛、火、樋)が違うという。割れ目のことを言う。
3.日陰の意。
4.「日目」で「日の当たる平坦地」もしくは「緩傾斜地」
5.「秘め」であまり知られていないところ。
一応、1.2.が有力で、ほかはあまり顧みられていない。

1.小さい、と言う形容詞については、全国には「姫島」と称する島が散見するが、多くが無人島(愛知県田原市、山口県阿武郡阿武町、高知県宿毛市など)で愛知県田原市の姫島は古墳が一基あるので、かっては人が住んでいたのであろう、と言われているが、ほとんどの姫島は面積が小さく、飲料水や食糧の自給ができなかったようだ。なお、有人の姫島としては福岡県糸島市志摩姫島と大分県東国東郡姫島村がある。ほかに地名としては内陸のものもある。おそらく「姫」が小さいものを形容する言葉だったことは古くからあったようだ。『万葉集』にもあるという。
2.「罅・皹(ヒビ)の転訛」説は『和名抄』にも「ヒビ」地名があり、
ひびた(日田)相模国大住郡日田郷。現・神奈川県伊勢原市日向。意味としては、1.日当たりの良い地2.谷の割れた箇所、等がある。
ひびる(氷蛭)相模国御浦郡氷蛭郷。現・神奈川県横須賀市野比あたりか。比定地不詳。意味としては、1.ひび割れた谷2.海苔粗朶(そだ)を篊(ひび)と言った、等。
罅・皹(ヒビ)は地面にできた割れ目だけでなく、河岸段丘のような段差も言ったものではないか。また、ヒビには「湿地」説もある。上記の日田、氷蛭は相模国(現・神奈川県)にあり、何か火山の大噴火、大地震、大津波などにより地割れや段差ができたような気もする。東京にも日比谷などという地名もあり、何かひび割れした谷のことかとも思われるが、ヒビには湿地の意味を説く見解があり、ヤ、ヤト、ヤチなどは東日本では低湿地と解する説が多数だ。従って、日比谷と言ったからと言って必ずしも地形的に言う「谷」とは限らない。しかし、東京には渋谷とか四谷とか市ヶ谷とか「谷」のついた地名が多く、いずれも谷底にできた町のように見えるが、四谷と市ヶ谷は外堀の沿岸にあり人為的なものかも知れない。渋谷はそのものズバリ「しぼんだ谷」を意味するのかも知れない。渋谷駅には宮益坂、道玄坂、玉川通り、六本木通り、明治通りなどが集中しており、その谷底が渋谷駅である。渋谷の谷が谷底を意味したのか、その谷底にある猫の額ほどの湿地を意味したのかは解らないが、東日本の谷(ヤ)は谷(タニ)を意味したものか、はたまた、低湿地を意味したものかは今となっては不明と言うほかない。但し、渋谷の語源は多々あり、上記の説は古くからある一般的な説である。

以上より私見をまとめてみると、
「姫」の字がつく土地には、水がまとわりつく場合が多いようだ。無論、姫川という地名や河川もある。山間部にある「姫〇〇」という土地ではほとんどが谷底に集落、田畑があり、水田稲作を行っている場合が多い。また、平地の「姫〇〇」というところは、川の沿岸が多く、かつ、一条の川の両岸に同じ地名がある。無論、後世には両岸の地名が同じでは不便なので地名の頭か尻に何らかの文字をつけて分けているようである。これらから判断すると、「姫」という言葉は水田稲作とともに発生した言葉であり、中国語の水田稲作用語を日本式発音に移し替えたものかも知れない。「姫」地名が山間部の谷底平地から谷川を下り、平野部に至ったものか、はたまた、その逆で、平野部から谷川を遡上して山間部の小盆地にいたったものかは定かではないが、一般的には山間部の小盆地の小区画の田んぼから水田稲作を始め最終的に現在のような平野部の大型水田になった、と考える方が多いようである。おそらく当初は焼畑農業との併用が主だったのではないか。何か「姫」は「田」に相通ずる言葉かとも思うが、中国語にせよ日本語にせよ発音がまったく違う。もっとも、姫という言葉が地名についている割には語源辞典等ではそのような扱いはなく、専ら「貴人の娘」等を意味する「姫」に限定するものが多い。かろうじて地名語源辞典などでは「姫」の地名における意義を述べているだけである。その意味では、「姫」は「罅・皹(いずれもヒビ)」のことなのだろうが、甲・乙が違うとやや持って非難されている。日照り,熱波,旱魃,雨不足などによる湿地のひび割れた地を「姫」と言ったものか。私見では、やはり「姫」とは日本語の「氷・目」で氷は水を意味し、目は場所を意味する、水田稲作適地を言ったものではないか。「ヒメ」とは端的に言うと現今の「水田」になろうかと思われ、その移動の一端が中国・長江河口から筑後川河口へ、次いで肥前国基肄(きい)郡姫社郷。現・佐賀県鳥栖市姫方町へ、筑後国生葉郡姫沼郷。現・福岡県うきは市浮羽町田篭(たごもり)へ、伊予国和気郡姫原郷。現・愛媛県松山市姫原へ、讃岐国苅田郡姫江郷。現・香川県観音寺市豊浜町姫浜へ、(以上は、『和名抄』に出てくる地名)阿波国板野郡姫田邑。現・徳島県鳴門市大麻町姫田(おおあさちょうひめだ)へ、と移動し、その先はおそらく淡路国、和泉国を経て大和国へ入ったものと思われるが、不明となっている。水田稲作のほかの国内伝播ルートとしては現在の佐賀県唐津市菜畑遺跡、あるいは、福岡市板付遺跡(福岡市博多区板付)、福岡県飯塚市立岩遺跡などを経て吉備国(岡山県、広島県一部)から大和国へ入ったルート。菜畑遺跡、あるいは、板付遺跡から福岡県宗像市、出雲国、北陸、東北に伝播したルートがあったのではないか。

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淡路島のこと

★はじめに

過日、Wikipediaで「淡路島」の項を見ていたら、「初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られる。また反正天皇は淡路島で生まれたとされる。」とあったので、何のことかなと思ってほかの資料を見ていたら、どうやら出典は「日本歴史地名大系. 第29巻 1 (兵庫県の地名 1) 平凡社刊 1999.10.」のようで、それによると、
1.淡路の表記は、粟道(藤原宮跡出土木簡)→粟路 淡道→淡路と変遷したのではないか。阿波国は当初より粟国である。よって、淡路とは本州から阿波へ行く通路の意味である。(通説)
2.兵庫県三原郡西淡町(現・南あわじ市阿那賀伊毘)の沖ノ島古墳群では、須恵器(すえき)などの土器のほかに鉄製の釣針・軽石製の浮子(うき)・土錘(どすい)・蛸壺形の土器や棒状石製品といった漁具関係の遺物が副葬されていた。これらの出土遺物から古墳の被葬者は、立地も合わせて考えると、海に関係が深い人物が想定される。
古墳のこのような存在状態は淡路では漁業は発達していたが、有力な豪族は存在しなかったことを推測させる。それは、この島が畿内に成立した政権(いわゆる大和朝廷)ときわめて密接な関係にあったことによるのではなかろうか。
3.『日本書紀』 応神二年条に、天皇の妃乙姫は淡路御原皇女を生んだ。反正即位前記に、反正天皇が「淡路宮」で生まれた。
『古事記』 安寧天皇段に、安寧の孫の和知都美命は「淡道の御井宮に坐しき」とある。
五世紀頃には大和・河内の大王(天皇)家と淡路との関係が深かった。
4.天皇が狩猟のためたびたび淡路に赴(おもむ)いたという『日本書紀』の記事(応神13年9月、同22年9月、履中5年9月、允恭14年9月など)淡路が早くから大王家の支配下に入り、供物のものを貢上する狩猟の地であった。
5.海産物の採取・貢納に関わる淡路のアマ(海部・海人)が大王家と深い関係にあったことを示す『日本書紀』の所伝
応神22年3月 応神が妃の兄媛が吉備に帰るとき、「淡路の御原の海人八十人」に送らせた。
仁徳即位前紀 応神の死後、倭の屯田と屯倉の相続が問題になったとき、韓国にいる倭直吾子籠を迎えるために「淡路の海人八十人」が派遣された。
履中即位前紀 仁徳天皇の死後、住吉仲皇子が皇位継承の争いを起こしたとき、阿曇連浜子は「淡路野島(現・淡路市野島)の海人」を率いて住吉仲皇子に従って戦っている。
仲哀2年2月 淡路屯倉を定めた。『古事記』仲哀天皇の世に「淡路の屯倉」を定めた。
南あわじ市榎列大榎列(えなみおおえなみ)に屯倉神社がある。
6.「日本大國魂神」が大和大國魂神社として三原郡に祀られ、もと伊弉諾尊を祀って淡路に勢力を有していた氏族を中心部から追い払った。

以上のごとく述べておられるが、以下個々の内容を検討してみたいと思う。

★上記内容の検討

1.淡路の表記とその意味するところであるが、「粟」にせよ「淡」にせよ、いわゆる当て字で穀物の粟あるいは濃いの反意語の淡いとは関係がないと思われる。以前は阿波国とは粟(穀物)国の意味、と言うのが有力だったようだが、最近はあまり見かけなくなった。地名の起源となったと思われる阿波国阿波郡や淡路国津名郡平安郷《一般的には安乎(あいが)と読むようだが、平城京跡から出土した木簡の中に、「天平七年(七三五)頃、淡路国津名郡(阿)餅郷」とか「阿并郷」「安平郷」と読めるものがあり、<あへ>と読むか。阿餅(阿拝、『和名抄』伊賀国の郡名)、あるいは、阿倍(『和名抄』駿河国の郡名)は意味としては、「低湿地」説とアバ(暴)の転で「崩崖」説があるようだが、現今有力なのは「崩崖」説で、アハ、アバ、アヘ、アベは同じ意味であり、崩崖地を意味するか。私見では安平は安半の誤記で<あは>と読むかと思ったのだが。》のアハ・アヘは、繰り返すが、現在の説としてアハク、アバク(暴く、崩れる)の意味で崩壊地形を言うと言うのが多数説になりつつあるようだ。淡路島のことを和歌山県では淡島とも言う。淡島信仰で有名な神社もあり、この場合の「淡」はものとものとの間(中間)をいい、アハヒ(間)、アハシ(淡)で同源の言葉という。即ち、淡島ないし淡路島は本州と四国との間にある島と言うことになろうかと思われる。ほかに、アハヂをア・ハヂと分けてアは接頭語、ハヂは端(はし・はち)の意味で崖地を言うとなす説。一応、淡路はアハ(崩崖の意)、チ(接尾語)と考えるのが現今の一般的な説か。従って、阿波国も淡路国も元々は「アハ」と言ったかもしれないが、同じ発音では区別がつかないので「アハ(阿波)」と「アハヂ(淡路)・ヂは接尾語」と発音を分けて区別した。従って、淡道、淡路と書いても阿波国への通路の地の意味ではなく、津名郡平安(安乎か)郷を国名の語源地とするので、阿波国の阿波とは別個の言葉である。「アヘ」が先か「アハ」が先かははっきりしない。おそらく「アハ」が先なのであろう。
2.淡路島の古墳は南淡町(現・南あわじ市阿万上町ほか)付近に比較的集中しているが、いずれも円墳で前方後円墳を欠いている、と言う。形もやや持って小型。築造年代は六世紀以降のものが多い。津名郡にはやや少ない。以上から判断するならば、淡路島の海人は一般の漁師であり、大規模な網元はほとんどいなかったようである。
3.『日本書紀』反正天皇前紀に「天皇初生于淡路宮」とあるので反正天皇は淡路島の生まれ、と解する向きもあるが、「淡路宮」は所在未詳とする説が多い。一応、産宮(うぶみや)神社(南あわじ市松帆擽田103)は反正天皇の誕生の淡路宮跡と言う。しかし、応神、仁徳、履中、反正の諸天皇は河内・摂津の人であり、現在の大阪市にも東淀川区淡路とか中央区淡路町があり、地名の由緒来歴ははっきりしないものの案外古くからあるのかも知れない。東淀川区淡路は菅原道真が淀川の中洲を見て淡路島と勘違いをしたと言う逸話もあり、川の中洲のようなところを淡路とか淡島とか言ったのかもしれない。大阪市北区中之島は江戸時代からの開発と言うが古くは淡路と言ったのかも。また、淡路島は当時の天皇の別荘地だったか。
4.天皇の猟場即ち禁野があったかどうかは解らないが、応神天皇は淡路島に足繁く通ったようである。単に狩のためかほかに目的があったのかは解らない。
5.淡路国の海人は皇室関係者が瀬戸内海航路を渡るときは船頭や舵取り、水手、船などを提供したようである。また、屯倉の設置は『記紀』にある仲哀天皇の時かどうかは別にして屯倉神社(南あわじ市榎列大榎列)がある。
6.大和大國魂神社が淡路伊佐奈伎神社(現・伊弉諾神宮)を現・兵庫県南あわじ市榎列上幡多857の地から現・兵庫県淡路市多賀740の地へ追いやったと言うが、両社は元々今のところにあったのではないか。両社とも移転の記録はない、とある。伊弉諾神宮は伊弉諾尊が多賀の地(霊宮)で余生を過され、御住居の跡が御陵となり、その後神社として祀られる様になった、とある。問題は大和国の産土神とも言うべき倭大国魂神(大和大國魂神社)がどうしてこんなところに祀られているのだ、と言うことだろうと思う。諸説あるが、1.大和神社の最初の祭主であった市磯長尾市(いちしのながおち)の出自が九州の海人族であった関係により、大和神社を海人族の住む淡路島へ特別に勧請したと言う説、2.淡路の海人の槁根津彦(さおねつひこ)が倭直(やまとのあたい)の祖と言われることから三原郡の国魂神を大和大国魂神と称したとする説、などがある。一説によると市磯長尾市は槁根津彦の七世孫とあり、同じ一族が何をしているのかと言うことになるが、要は、淡路国の海人が一族かどうかは別にして二系統あったということなのだろう。一方は伊邪那岐神を祀り、他方は倭大國魂神を祀っていたのだろう。倭大國魂神を祀っていたのは倭直部氏で「特賜名 為椎根津彦此即倭直部始祖也」(日本書紀、神武即位前紀)、「以市磯長尾市為祭倭大国魂神之主。」(日本書紀、崇神7年)など。また、伊邪那岐神を祀っていたのは社家の坂上田村麻呂の子孫と称する田村氏とか石上氏のようであるが、いずれも海人族とは関係がないようだ。海人族としては阿曇氏が有名であるが、阿曇連浜子や倭直吾子籠と言う実名が出てくるところを見ると、阿曇連浜子系の一族が淡路伊佐奈伎神社の神主で倭直吾子籠系の一族が大和大國魂神社の神主だったか。二人は住吉仲皇子の乱でも足並みをそろえている。淡路国の海人が地元派と大和派に分かれていたわけではなく、それぞれのご先祖さまが祀っていた神が違うと言うことだけである。阿曇連は博多湾岸の海人であるが倭直のご先祖さまの椎根津彦(槁根津彦)は豊予海峡、吉備国の児島湾口、明石海峡等諸説がある。両海人族が淡路島で住み分けていたのであろう。

★まとめ

淡路島に一番関係が深いのは応神天皇と思われる。狩猟に出かけたのが『日本書紀』に二回(応神13年9月<時天皇幸淡路嶋 而遊獵之>、同22年9月<天皇狩于淡路嶋>)記録されている。特に、応神22年9月のときは妃兄媛の実家がある吉備国を訪れ妃の兄である御友別と誼み(よしみ)を通じている。応神天皇と言えば、言わずとしれた「三韓征伐」の主導者で『記紀』では神功皇后と言うことになっていたり、はたまた、応神三年「是歳 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无禮状 由是 百濟國殺辰斯王以謝之 紀角宿禰等 便立阿花爲王而歸」となっていて、紀角宿禰以下の派兵が高句麗の好太王碑文の「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」の耒卯年(391)に年次がほぼ合致すると言って紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰の四将軍の派遣とする説もあるが、実際に出撃したのは応神天皇で四将軍はその配下にあったのではないか。例として、紀角宿禰は百済方面司令官、羽田矢代宿禰は加羅方面司令官、石川宿禰は新羅方面司令官、木菟宿禰は高句麗方面司令官。四将軍は武内宿禰の子孫という。ここで応神天皇や仁徳天皇の私見の概略を述べると、応神、仁徳の実父は景行天皇で景行天皇の有力重臣には武内宿禰、大伴武日、吉備武彦があり、応神天皇の生母は武内宿禰系の人物でこちらは武力に優れていた。また、仁徳天皇の生母は大伴氏系でこちらは財力に優れていた。応神天皇は三韓征伐のときは前線には武力に優れた武内宿禰の一族を連れて行き、仁徳天皇は財力に優れた大伴氏一族ともども筑紫国で後方支援を行ったのではないか。
話は少し飛ぶが、長期にわたる韓国遠征から帰国した応神、仁徳は戦果に乏しかったせいか母親の実家の財力で差がついたらしく、応神にしてみれば「何であいつ(仁徳)と、こうも生活レベルが違うのだ」と思ったことだろう。また、帰国したはいいがいつ高句麗の好太王が倭に攻め入るか解らない。前線基地や兵站基地の目星をつけておかねばならず、応神天皇はその準備を着々と行っていたのではないか。好太王が日本に攻め入ると言っても日本海ルートか瀬戸内海ルートかも解らなかったが、一応、有力者の多い瀬戸内海ルートを主戦ルートとし、前線基地を吉備国、兵站基地を淡路島と設定したのではないか。応神は当該地には視察のため何度も出かけただろうが、淡路島は争いのない島なのに鉄鋌とか石鏃が時折出てくるのでおかしいと思い調査したところ、どうやら淡路島は大伴氏の秘密金庫と言うことが解った。当時は、例えば、奴国王が後漢の光武帝から建武中元2年(57年)に冊封のしるしとして賜ったと言う金印が志賀島から発見されたように、宝物は居住地から少し離れた島や岡や川の中洲などに巨石の金庫をつくつてそこに保管したのではないか。淡路島は志賀島より大きいので追い追い大伴氏の宝物が出てくるかもしれない。応神天皇は一所懸命金、銀、銅、鉄などを探したけれどめぼしいものはなかったのではないか。
淡路島は大和朝廷の直轄領で屯倉があったとか、古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いでいたとか言って特殊な国のように言うが、それは当該国の地理的要件等が御食国に該当したからであって何も特殊なものではない。また、いわゆる河内王朝の天皇との結びつきが強いというのも好太王との緊張関係からと思われ、好太王が逝去(412)したら解消された。

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