日本国の成立

★はじめに

インターネットで見たので正確ではないかも知れないが『産経新聞 大阪本社版』で【萌える日本史講座】と言うシリーズ物だと思うが「古代史の”七五三論争”」と言う記事があった。はじめは純粋な新聞記事かと思い読んでいたら、末尾に特定の著者の書名と価格が記載されており、記事広告類似のものかなとも思った。内容的には、「日本国はいつ誕生したか、天皇制につながる卑弥呼の統治」とあり、既存の説として【邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)が統治した「3世紀」か、仁徳天皇ら倭の五王による巨大前方後円墳が築かれた「5世紀」、そして天皇制が確立したとされる飛鳥時代の「7世紀」かで議論が分かれている】とし、著者は【邪馬台国の時代にはすでに女王が国を治め、中国王朝と外交関係を築き、国家といえる形が整っていた】とか【卑弥呼が各地の王の上にたって統治していたとし、「こうした統治体制は、5世紀の倭の五王の時代と変わらない。これが、のちの天皇制へとつながっていった】と述べて、邪馬台国の発祥が曲がりなりにも日本国発祥と解しているようである。『記紀』では初代天皇は神武天皇で日本国と言おうか大和朝廷と言おうか、一応、現在の日本国の成立は神武天皇に始まるとみているようである。『魏志倭人伝』でも、「倭」国の歴史について、

「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼」(『魏志倭人伝』、『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人)とか、
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼」(『後漢書』卷85 東夷列傳第75)

以上の二説をまとめると、倭国は男王が統治すること七、八十年。その後、桓帝・霊帝の治世の間(146年 – 189年)に倭国では大乱が起き、何年も統治者がいなかった。189年頃に各有力者の推挙により卑弥呼女王が共立された、と言うものであろう。即ち、卑弥呼女王の登場前には80年間くらいの男王による安定期と、40年間くらいの混乱期があったようだ。中国人の目から見ると倭国には卑弥呼女王以前にも国王的な人がいて倭国をまとめていたと思われる。日本の『記紀』では左様な全国区的統治者としては、初代天皇神武天皇となる。神武天皇の版図としては、①皇后が出雲国系の人なので日本海側では出雲まで広がっていた。②大阪湾沿岸では大伴氏を、大和国に邸宅を与え直臣のようにしている。③丹波国方面では天火明命の後裔(後世の尾張氏・海部氏・伊福部氏など)が大和国(神武天皇)の傘下に入っていたのではないか。また、宗像氏は大国主命の後裔といい、神武天皇は出雲神族を通じて間接的にでも九州北部を支配していたのではないか。

★瀬戸内海と倭国の統一

瀬戸内海も倭国の統一には大きな役割を果たしたのではないか。淡路島を九州の東端という説も少なくない。また、当然のことながら畿内の領域という説もある。高地性集落も倭国統一の過渡的なものであると思われるが、九州北部と畿内を結ぶ瀬戸内沿岸と四国及び大阪湾岸に集中している。九州方面からの侵攻があったという見解(神武東征)もあるが、比較的高地性集落の遺跡が多い愛媛県について、愛媛県生涯学習センターは以下のごとく説いている。
「第Ⅰ期(弥生前期)・第Ⅱ期(中期前半)の高地性集落の分布からみる限りにおいては、西部瀬戸内海から東に向かった流れを認めることができる。」
「第Ⅲ期(弥生中期中葉)では大別すると山口県東部と備讃瀬戸、それに大阪湾周辺の三地域に集中して分布しているという特色をみせている。これら高地性集落を防御的機能と理解すると、防御するには敵対する集団の存在がなければ防御そのものがなり立たない。このように考えた場合、中部瀬戸内を中心とした地域と、大阪平野ならびにその背後を中心とした地域に地域統合をした強力な連合国家的性格を持った集団が形成され、他の地域と相対立する勢力圏を形成していたと想定することができる。」
「畿内に敵対する勢力は、少なくとも瀬戸内海の西部か九州にあったものではなかろうか。・・・かつまた朝鮮半島よりの侵入をも考慮に入れなければなるまい。・・・弥生時代後期を境として高地性集落はほぼ消滅しているが、これとほぼ時を同じくして銅剣・銅鉾・銅鐸が地下に埋納されている。これらを追求して行けば統一国家、すなわちわが国の国家誕生の時期、時代も明らかになるのではなかろうか。恐らく高地性集落の終焉と、青銅器祭祀の終焉の時期が国家の誕生とみるのが案外自然であるかも知れない。」
以上をまとめてみると、1.備讃瀬戸の国々を糾合した吉備国と後世の畿内の国々を糾合した大和朝廷が覇権争いを展開し、2.九州北部(山口県東部の高地性集落)と吉備国の鉄の活用が青銅器文化を粉砕した。その大和を粉砕した人はその後どうなったのかであるが、いわゆる「イリ王朝」というなら崇神天皇と垂仁天皇の二代で終わったと思う。支石墓も九州北部から愛媛県に入ってきたようだが、長続きはしなかった。一体に、九州から本州に入ってきたものでその後長期にわたり継続したものは少ない。
『記紀』で強い政治勢力が西からやって来たとするのは「神武東征」であり、少し時代が下って「応神天皇の東上」がある。ほかに江上波夫東京大学名誉教授の「騎馬民族征服王朝説」が有名だ。吉備氏は軍事的にも強かったようで、大伴氏を現在の神戸市から大阪市に追いやり、現在の尼崎市あたりまで一時的には進出したかも知れないが、結局、景行天皇以下のワケ王朝に元の領有域まで押し込められてしまった。「高地性集落」については、いろいろ言われているので以下にまとめてみると、
目的
1.戦闘に備えた砦・見張り台・のろし台・逃げ城の機能をもった集落。
2.山城のように軍事的性格の強い集落。
3.畑作農耕を営む目的で形成された集落。
4.潜在的な自然環境の変化(猛暑?)から逃れるための今日的に言う避暑地。
5.稲作前線の拡張に伴い先住民が避難した集落。
などがあるが、「山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。」と。 いわゆる、戦国時代で言う山上にある天守閣と山麓の城下町を言うものか。

時期と分布
高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。そのうち、高地性集落の時代区分としては第一次から第五次までに区分され、第一次、第二次の高地性集落は九州北部に、第三次は九州北部と瀬戸内西部に、第四次と第五次は瀬戸内東部と畿内に分布するもののようである。これだけ見ると高地性集落は九州北部から畿内へ移動したと思われるが、例えば、山口県周南市本陣町の竹島御家老屋敷古墳から出土した「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」が<正始元年は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。>(山口県周南市生涯学習課)と曰う説もあり、もし高地性集落が備讃瀬戸(吉備国、吉備氏)と大阪湾岸(摂津国、大伴氏・大和朝廷)との抗争の産物とするなら、高地性集落が瀬戸内海沿岸西方にあるからといって吉備陣営のものかどうかは不明で、大和朝廷が吉備氏の後方攪乱のために送ったものかも知れない。
「畿内周辺では、〈高地性集落〉は第五次(V期)に入ってもあらためて発達しており、軍事的緊張が何度か繰り返されたことがわかる。」とあり、吉備氏、大伴氏の小競り合いはその後も継続したものかと思う。最終的に断を下したのは雄略天皇で大伴氏を大和朝廷傘下に入れて、吉備前津屋(さきつや)、吉備田狭(たさ)、星川稚宮皇子などの「反乱鎮圧」の名目で吉備氏の勢力を削いだ。

次いで、国家の成立については首長埋葬祭祀の型式を従来の各地でまちまちであったものを全国的に統一した時を以て倭国統一という見解がある。墳墓の統一型式は前方後円墳で、細部は異なるものの前部は方形、後部は円形となって一体化した墳墓である。副葬品もまちまちではあるが基本的には、鏡、玉、剣のセットと装身具(玉類、冠帽、耳飾り、指環など)、武具、馬具、農具、工具、漁具、石製品、金属品、土器類など。被葬者の評価等により少しずつ違うようだ。
前方後円墳の出現期は、一応、三世紀中頃と考えられており、原型として考えられるのは「奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓」と言い、「瀬田遺跡の円形周溝墓から纒向石塚古墳へ、そして箸墓古墳へと、前方後円墳がどのように出現したかを考えることができるようになりました。」と言う。しかし、これらの円形周溝墓(瀬田遺跡のほか香川県や兵庫県、大阪府、滋賀県で見つかっている。)が前方後円墳の原型になったことについては疑問を呈する向きもある。近藤義郎・吉田晶『図説 岡山県の歴史』河出書房新社 P55によれば、
「前方後円墳は弥生墳丘墓から一歩一歩変遷をとげて出現したのではなく、どうやら突如として創出されたもののようである。というのは第一に、弥生墳丘墓から最古型式の前方後円墳に到る”進化”的足取りが見られない点である。次に前方後円墳の最古型式のものは弥生墳丘墓に比べ非常に相違した特色を持っている。
(弥生墳丘墓と最古型式の前方後円墳の違いの例)
*墳丘 80mの大型墳丘(弥生墳丘墓)、200mないしそれを越える巨大墳丘(前方後円墳)
*土木工法 各地バラバラ(弥生墳丘墓)、墳丘を堅固に高く盛り上げ、幾何学的な整然とした形状。技術は優(前方後円墳)
*平面形 円形。時に突出部在り(弥生墳丘墓)、前方後円形として定型化し、ことに前方部は撥形(前方後円墳)
*墳丘斜面 特殊壺、特殊器台(弥生墳丘墓)、葺石、特殊器台形・特殊壺形の埴輪(前方後円墳)
*棺 棺の長さ2m(弥生墳丘墓)、割竹棺。棺の長さ4、5mから7、8m(前方後円墳)
*副葬品 貧弱。組み合わせの原則がない(弥生墳丘墓)、中国鏡(なかんずく三角縁神獣鏡)・各種武器・農工漁の生活用具の組み合わせの原則(前方後円墳)
弥生の墓制はことごとく地域性のうちにあって全土的な普遍性を持つものはない。大和の有力首長の主導のもとに瀬戸内沿岸、山陰、北陸、東海の一部などの首長たちが連合結集し、全体に共通する首長埋葬祭祀の型式を従来の各地弥生墳墓の特色をあるいは飛躍させ、あるいは変化し誇張させつつ取り入れながら、新たに創出したものと言える。弥生墳丘墓と違って、全土的な普遍性をもつものとしてまた全土的な較差をもってあらわれたのである。」と。
前方後円墳は旧来の墳墓とは隔絶しているというのである。当然のことながら造営した人たちも旧来の造営者とは違うだろう。現在で言うならば意匠設計と構造設計の建築士が別々に設計したと言うことなのだろう。1800年ほど前であるが現代建築に近いものがある。

★まとめ

以上見てきたように、日本国の成立には①高地性集落の消滅をもって国家の成立とみるのか、②首長埋葬祭祀の型式を全国的に統一した時を以て倭国統一とするのか、③文献によるのかなどが考えられる。一応、それぞれを検討してみると、
①高地性集落の消滅説
高地性集落はそれぞれの必要性に応じて発生したものであり、その目的はいろいろありすべてが「山城のように軍事的性格の強い集落とする」のはいかがなものか。地域的にも偏りが在り、備讃瀬戸と大阪湾岸に集中しており、この二つの勢力の統合が即倭国(日本国)の成立かと言われれば、日本にはほかの地域にも多種多様なクニがあり、とてもこの二地域間の統合をもって国家の成立とは言いがたいと思われる。そもそも高地性集落のような多様な目的で建造された集落を物事の基準とすることには大いに疑問がある。従って、高地性集落の隆盛や消滅をもって倭国(日本国)の発祥を占うことはできないと思う。基準としては不適当と言うことである。
②首長埋葬祭祀の全国統一説
上記岡山大学名誉教授近藤義郎博士の説は「大和の有力首長の主導のもとに瀬戸内沿岸、山陰、北陸、東海の一部などの首長たちが連合結集し、全体に共通する首長埋葬祭祀の型式を従来の各地弥生墳墓の特色をあるいは飛躍させ、あるいは変化し誇張させつつ取り入れながら、新たに創出したものと言える。」と言っておられるが、要は、崇神天皇が四道将軍を派遣し、首長埋葬祭祀の全国統一を図ったことをもって倭国(日本国)の成立と言うもののようである。高地性集落よりは明確な基準ではある。はっきりした人為的な基準であるからである。
③文献による日本国の成立
『記紀』では以下の天皇の時に日本国の成立があったというもののようである。
1.神武天皇
2.崇神天皇
3.景行天皇
4.応神天皇
外国文献では、
5.倭国王帥升(『後漢書』東夷伝)
6.邪馬台国女王卑弥呼(『魏志倭人伝』)

1.の神武天皇については、奈良盆地一帯の地域の王と言う見解もあるようだが、皇后は媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)と言い大物主神の子とも事代主神の子とも言い、鉄のとれない大和国ではなく鉄のとれる出雲国(大物主、事代主ともに出雲系の神)から迎えたものと思われる。また、後世の摂津国や河内国に勢力のあった大伴氏の祖道臣命とも昵懇の間柄だったようで、あと、現在の京都市(賀茂神社)や和歌山県(熊野三山)の八咫烏とも関係があり、弱いながらもそれらの地域も支配していたのではないか。よって、当時にあっては倭王なのであろう。
2.崇神天皇は言わずとしれた四道将軍の派遣を行った天皇でこれにより従来の倭国の領域を拡張したものと思われる。特に今まで手薄だった東国への国土伸長がめざましい。
3.景行天皇は『日本書紀』を敷衍するならば、<日本国統一を行った天皇>と言うことになるのだろう。北は現在の岩手県から南は熊本県、宮崎県まで版図を広げた。
4.応神天皇は景行天皇の事業を受け継ぎ、国土を日本ばかりでなく朝鮮半島へまで広げた。
5.倭国王帥升は九州北部沿岸の地域国家の王ではないかと言われている。日本国統一とはほど遠いと思われる。帥升とは素戔嗚尊のスサの音を写したものか。
6.卑弥呼女王は連合国家倭国の女王と思われ、中国にも認められた国家の王のようである。連合国家を構成したのは毛野国から筑紫国までか。
以上により日本国の領土が広がるごとに新しい日本国(当時は倭国)が成立し、初代王は神武とか崇神とか応神になったのである。淡海三船が名付けたという天皇の漢風諡号の神は新しく成立した日本国の初代国王の意味であろう。神武の神の字が先頭に来ているのは初代の中の初代で、崇神、応神は神武の子孫で各々の時代の初代王と言うことなのだろう。
結論を言うと、崇神天皇は具体的な領土の拡張とともに宗教的なモニュメントとして前方後円墳を造営し、祭祀を創始した。やはりこれはこの時代にあっては画期であり、時代的には弥生時代と古墳時代の境目であり、新日本の誕生と言うことになるのではないか。

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初期の『記紀』の出典は

★はじめに

いつも思うのだが、天皇家は現在の奈良県(旧大和国)出身と思われるのに何か始原の神と考えられる伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱の神は淡路島に降り立ったとか、あるいは、『記紀』の神話にこれが我が氏(うじ)の祖神と唱える大伴氏の高皇産霊尊(高木神)が皇祖神天照大神と一緒に出てきたりとか天皇家の神話には大伴氏の家伝が取り込まれているのではないかと思われる節がある。特に、高木神は葦原中津国平定・天孫降臨の際の主導者(道臣命がモデルか)で本来の皇祖神だとする説を曰(のたま)う向きもある。高御産巣日神は『古事記』では天之御中主神・神産巣日神共々造化三神とされ、いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされて、天地開闢の段に出てくる。しかし、高御産巣日神は性別がなく、人間界から姿を隠している独神と言われながら、子供(思金神<おもいかね>、栲幡千千姫命<たくはたちぢひめ>など)もおり、天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほほみ)が、高御産巣日神の娘である栲幡千千姫命と結婚して生まれたのが天孫・邇邇芸命(ににぎ)である。このことから高御産巣日神は天孫・邇邇芸命の外祖父に相当する等々、純粋な神なのか、はたまた、人間なのかははっきりしない。大伴氏の祖は高皇産霊尊の子の安牟須比命と言い、忌部氏の祖は高皇産霊尊の子の天太玉命と言う。大伴氏は神代に遡ると天皇家とは姻戚関係になるらしい。
神代の話をまともにとる方がおかしい、と言われてしまえばそれまでだが、そこには何かしらの我々凡人並みの生の営みとか、場合によっては現今で言う権力闘争のような争いがあったのかもしれない。天皇家といえどもそれが人皇になってから具体的で生々しくなってきたようである。

★応神天皇と仁徳天皇はどこの出身か

NTTの電話帳の登録によると、「大鞆」と言う苗字の人は全国に四軒ある。即ち、兵庫県淡路市に二軒、兵庫県神戸市西区に一軒、兵庫県宝塚市に一軒である。あまり見慣れない「鞆」の字だが、現在残されている地形を見てみると海や平地に浸食した「出っ張り」を言うようである。「伴」も同じ意味かと思うが、『古事記・応神天皇段』に「この太子の御名に大鞆和気命(オホトモワケノミコト)と負はせし所以は初め生れましし時、鞆の如き宍御腕(シシミタダムキ)に生りき。かれ、その御名に著けまつりき。」とあるのも「出っ張り」を意味するのではないか。即ち、応神天皇の大鞆和気というのは件数も少ないので現在の兵庫県淡路島で発祥した名前ではないかと思料される。
一方、仁徳天皇の大雀命(大鷦鷯<おおさざき>)については、「ささき」「さざき」「ささぎ」(漢字では、佐々木、笹木、篠木、沙沙貴、佐崎、佐々希、佐左木など)、人名、地名ともに多いが、淡路島には極々少数であまり見当たらない。大型古墳(前方後円墳はない)が少ない地域だったためかも知れない。この場合の、「ささき」の意味だが、「みさき(岬)」などと同源で海や平地に突き出たところと解すると、大鞆と同じような意味になり応神仁徳同一人説に拍車をかけるような話になるが大雀は「さ(小百合などのさ)、「さき」(物の先端の方)のことで、大鞆が父あるいは兄、大雀が息子あるいは弟を意味するか)。また、仁徳天皇も応神天皇同様架空説とか不存在説が有力だ。曰く、

『古事記』『日本書紀』にみられる仁徳の位置や所伝は、あくまでも系譜の上で作り出されたものとみられる。すなわち、6世紀初頭に新たに王権を継承した継体天皇がみずからの正当性を主張するために、5世紀に実在したA、Bふたつの大王家の系譜と自己の保有する系譜とを統合する過程で、B大王家から出た最後の実在の大王である武烈すなわちワカサザキ(ワカタケル大王の子)の名前からヒントを得て、A、B両大王家共通の祖先名として、オオサザキなる王が案出されたのである。『延喜式』によれば、陵は和泉国大鳥郡(堺市、高石市)にあった百舌鳥耳原中陵。堺市にある全長485mの前方後円墳(大山古墳ともいう)は仁徳天皇陵として有名だが、年代的には合致しない。(朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版/朝日日本歴史人物事典について 遠山美都男著)

と、言うのだが、私見を述べるとこれらの二人の大王はその後の事績で、

応神天皇『日本書紀』
二年春三月「妃皇后弟々姬、生阿倍皇女・淡路御原皇女」(妃である皇后の妹弟姫が阿倍皇女・淡路御原皇女を生んだ)
十三年春三月「一云、・・・始至播磨、時天皇幸淡路嶋而遊獵之。」(始めて播磨に行き、天皇、時に、淡路島へ狩りに出かけた)
廿二年春三月「仍喚淡路御原之海人八十人爲水手、送于吉備。」(妃・兄媛を淡路三原<旧三原郡三原町>の海人八十人を水手として吉備へ送らせた)
廿二年秋九月「天皇狩于淡路嶋。」(天皇、淡路島で狩りをした)
廿二年秋九月「乘輿(てんのう)屢(しばしば)遊之。天皇便自淡路轉、以幸吉備」(天皇、しばしば狩りをして遊ぶ。淡路より巡りて吉備にいでまし)
しばしば淡路島へ出かけているのではないか。縁もゆかりもないところへ頻繁に行くものか。

仁徳天皇『古事記』
「天皇、戀其黑日賣、欺大后曰「欲見淡道嶋。」而、幸行之時、坐淡道嶋、遙望歌曰、」(太后磐之媛を騙して、淡路島を見たいと思うと言い淡路島へ出かけた)

淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由
(おしてるや  難波の崎よ     出で立ちて  我が国見れば   淡島    淤能碁呂島  檳榔の     島も見ゆ   放つ島見ゆ)

「此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。故切是樹以作船、甚捷行之船也、時號其船謂枯野。故以是船、旦夕酌淡道嶋之寒泉、獻大御水也。」(高木を切り倒し枯野と言う船を造り、朝夕天皇の飲料水を淡路島から運んだ)
このように見ると、二人の大王は淡路島をまったく知らないと言うことではなかったと思う。特に、仁徳天皇が「我が国見れば 淡島 淤能碁呂島 檳榔の島も見ゆ 放つ島見ゆ」と言っているのは、天皇の元々の出身地は淡島(淡路島) 淤能碁呂島(オノゴロ島) 檳榔の島(ビロウの生えている島)も見ゆ 放つ島(その先の島)、即ち、現在の淡路島か。また、応神天皇の旧名大鞆和気も淡路島のどこかに大鞆という地名があって、そこに古代豪族大伴氏の別邸があり、大鞆和気、大雀命共々幼児期には母堂(大伴氏であろう。)と過ごしたのではないか。「和気」と「命」が混在しているのは、両皇子の実父と思われる景行天皇はカバネマニアでいろいろなカバネを使用したのであろう。大鞆、大雀が本名かと思われる。ただ、名前の意味から判断すると、いずれも「大きな古墳」の意とも考えられ、被葬者の実名を反映したものとは考えられないかも知れない。
とは言っても、二人は成人になって実父と思われる景行天皇のところへ行ったら、都より遠くへ追いやられ、行動を共にしていたため、同じような事績を書かれ、応神仁徳同一人説なる説があるが、文字による記録が希薄なためやむを得ないと思われる。仁徳天皇を応神天皇の子としたのは、五百城入彦皇子の血筋(仁徳の母は五百城入彦皇子の孫、仲津姫命皇后になる)を引き、正統な皇統とするためであろう。実際には、応神、仁徳は兄弟であったと思われる。

★大伴氏の神話がなぜ天皇氏の神話に組み込まれているのか

『記紀』神話では天皇氏の祖神・天照大神と大伴氏の祖神・高皇産霊尊が同格の神として出てくるといい、天孫降臨の神話では高皇産霊尊が主導しているので高皇産霊尊が本来の皇祖神と説く学者先生もおられるようだ。一般に、天照大神は高皇産霊尊かどうかは解らないが何らかの神様をお手本に作出されたと言うことで、『記紀』編纂時までの有力豪族の説話もかなりの割合で加えられていると思われる。特に、大伴氏は『記紀』では神武天皇以来のご友人で後世の海部出身と思われる大伴氏と内陸盆地出身の天皇氏とはお互いを補完する関係にあったのではないか。『古事記』の応神天皇段に「此之御世、定賜海部・山部・山守部・伊勢部也。」とあるのも本来なら「山部・山守部・海部・伊勢部」となるべきところを応神天皇の海辺(淡路島)で育ったという特異性か。また、誉田御廟山古墳内濠出土品には土製品のクジラ、イカ、タコ、サメ(またはイルカ)の出土があるという。これも応神天皇が奈良県より淡路島や摂津国で育ったと言うことか。いずれにせよ上古の大王は海に関心を向けており、大伴氏が海に関する親近者ではなかったか。それ故、天皇氏は大伴氏を通じて奈良盆地という井の中の蛙が大海を知ることができたのではないか。

★まとめ

両天皇が都したところは、
応神天皇 軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町に比定。おそらく五百城入彦皇子の宮都で応神天皇は常駐していなかった。)。並びに、大隅宮(おおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区。『日本書紀』)。
仁徳天皇 高津宮(たかつのみや、大阪市中央区法円坂の難波宮跡)。
大隅宮及び高津宮はいずれも現・大阪市にあり、旧摂津国になり、大伴氏の本邸か別邸のあった現・大阪市住吉区帝塚山(東・西)にやや近く、国家緩急の折には大伴氏に援助を仰いだのではないか。両天皇は大伴氏とは緊密な間柄だったと思われる。

伊弉諾尊・伊弉冉尊の創世神話だが、一説に淡路島の海人族が伝えた説話という。淡路島には津名郡に淡路伊佐奈伎神社(名神大)(『幽宮御記』に祭神は「伊弉諾尊一柱也」とある)と三原郡に大和大国魂神社(貞・名神大)がある。それぞれに有力な海人族がついていたようで、淡路伊佐奈伎神社には阿曇連浜子系の一族が、大和大國魂神社には倭直吾子籠系の一族がバックアップしていたのではないか。もっとも、淡路島には元々は三原郡の淡路伊佐奈伎神社(現・伊弉諾神宮)しかなかったが、後ほど大和国から倭直氏がやって来て淡路伊佐奈伎神社を津名郡の崖っぷちに追いやったという説もある。
しかし、「伊弉諾尊を皇祖神の親とする信仰が宮廷に古くからあったとは思えず、2神が組み込まれたのは7世紀中頃以降で、大嘗祭卯の日の神事に召された淡路出身者や、宮廷に食料を運んだ淡路の海人が伝えたとする。」(松前健博士説)『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日条では、「伊佐奈岐命」の神階が無品勲八等から一品勲八等に昇叙されている。意味不明の昇叙である。
文献では、古くは『日本書紀』履中天皇5年条9月条において島に居る「伊奘諾神」の記載や、允恭天皇14年9月条に「島神」の記載があり、これらは一般に淡路伊佐奈伎神社に比定される。大和大國魂神社も延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大とされた。大和大國魂神社を大和(大和神社)より淡路島へ勧請した人は国魂神を勧請したと思ったかと思うが、伊佐奈伎神が淡路島の国魂神であって天照大神のような太陽神を勧請すべきだったか。いずれにせよイザナギ・イザナミの創世神話は漁民の話ではなく大伴氏自身、あるいは、大伴氏が淡路島ないし河内・摂津で採集した神話ではなかったか。

高地性集落の発祥と原因についてはいろいろあるが、倭国大乱が原因で発祥したとする説が有力である。特に、その分布地は瀬戸内海沿岸と大阪湾沿岸が多く、九州北部では少ないので、大乱の発生地域を大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸とする説や朝鮮半島南部という説がある。大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸地域とする説は吉備氏と大伴氏・大和朝廷連合の争いであり、朝鮮半島南部とする説は韓の南にあった倭国は強大になった韓や濊の侵略を受けて倭国大乱になったと言う。その難民が日本列島に押し寄せ、先住民である日本列島倭人は高地に逃げ城や砦を造って戦ったという。しかし、『魏志倭人伝』の倭国大乱は邪馬台国や卑弥呼女王の倭国であり、朝鮮半島とするのは疑問である。日本神話に出てくる高天原や葦原中国のモデルは高天原は高地性集落として葦原中国は『記紀』では出雲国となっているので大阪湾沿岸の高地性集落から出雲国へ遠征したかはまたまた疑問である。大和朝廷は対吉備国外交にせよ、対出雲国外交にせよ大伴氏の仲立ちによりなり立っていたのではないか。

以上より『記紀』の神代より人皇になって「ワケ王朝」の頃までは、その出典は大伴氏の資料によるところが大きいと思われる。

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一体分身とは

★はじめに

我が国の皇統は「万世一系」なのか、はたまた、途切れ途切れで現在にいたっているのか、諸説あるようだが、戦前に『記紀』に書いてあることに異を唱える輩は津田左右吉博士ではないがあちこちから批判を受け、挙げ句の果てに「不敬罪」だの「出版法違反」(津田左右吉事件)だのと言われ、発表者は思わぬ災難に遭ったようだ。戦後は「嘘八百」でもない限り、思想信条あるいは意見学説に対して文句を言われることはなくなったが、その中で戦後一時期は盛んに論じられた「王朝交替論」も今はどこかへ吹き飛ばされ、好事家でもなければそのようなことは話の種にもしなくなった。そもそもそのようなこと(王朝交替論)はいくら論じてみても正解などは出てこないし、現今のように誰もが論じ合える時代になっては自説に固執するあまりヒステリックになってしまう人がいるようだ。そこが学者先生のような玄人の人と、単に歴史好きな素人の人との違いかとも思われる。
戦後は、王朝交替と言っても終戦直後ではいろいろな説があったようだが、今は「継体天皇をもって皇統に変更があった」とみなす説が多いらしい。換言すれば、現天皇家は継体天皇の直系の子孫であって、神武天皇、崇神天皇、応神天皇などの著名な天皇とは血統的つながりはないと言うことか。この説は戦後ずーっと言われ続けられてきたらしく、天皇家は「万世一系」ではないと言うことで、少なくとも皇室第125代の今上陛下までに一回は男系血筋が途切れていると言うことである。但し、女系ではつながっているらしいので世界的に見るとあまり問題にすることではない。
また、我が国には世界的にはほとんど類のない一人の人物が『記紀』の編纂者の都合によりか二人の人物に分割されて記されているなどと言う説がある。具体的には、神武天皇と崇神天皇、応神天皇と仁徳天皇がその例のようである。一応、諸説があるが、同一人物かどうかについて検討してみる。

★神武天皇と崇神天皇

神武天皇
神武天皇の名称は、
即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言い、以下の名称がある。
狭野尊(さののみこと) – 『日本書紀』での幼名。
彦火火出見(ひこほほでみ) – 『日本書紀』での諱。
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) – 『日本書紀』での美称。
若御毛沼命(わかみけぬのみこと) – 『古事記』。名前の「み」は敬称で、「け」は食物を意味するとされる。
豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) – 『古事記』。
磐余彦尊(いわれひこのみこと) – 『日本書紀』第二の一書。
神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれひこほほでみのみこと) – 『日本書紀』第三の一書。
磐余彦火火出見尊(いわれひこほほでみのみこと) – 『日本書紀』第四の一書。
磐余彦帝(いわれひこのみかど)
以上の名称のうち、実体と言えるものは、磐余彦尊、 狭野尊、彦火火出見、御毛沼命の四つの名称で四人あるいは四神の伝説等をまとめたものか。
磐余彦尊の磐余は地名で現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部の一帯を言う、とするのが通説かと思われる。
狭野尊の狭野は神武天皇生誕地という。宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田117狭野神社がその地という。「当地の地名の狭野が由来すると伝えられており、当社より西に1キロ程に有る末社の皇子原神社がご生誕の地といわれます。」とある。但し、両神社の現在の所在地は蒲牟田であって狭野ではない。宮崎県のウェブサイトでも「「狭野」の名はカムヤマトイワレヒコの幼名「狭野尊(サノノミコト)」に由来しているといわれています。」とある。
彦火火出見の火火は穂穂(穂の複数を表現したと思われる。)のことであって、出穂の状態を言っているのではないか。
御毛沼命の御毛は御饌(みけ、ぎょせん)のことかと思われる。高貴の人、特に天皇の食べ物。みけ。供御(くご)。沼は「~の」の「の」のこと。
以上より連想するなら神武天皇は現在の奈良県(奈良盆地)出身で、稲作に力を入れていた領主と言うことになるのであろうが、狭野の地がどこかについてはっきりしないので検討してみる。
「狭野」ないし「佐野」の地名は九州南部には見当たらないようだ。従って、神武天皇が現在の宮崎県(日向国)から東征して奈良県(大和国)へ来たと言うのはほぼ考えられないことなのだが、畿内の「狭野」ないし「佐野」の地名を見てみると、

1.奈良県の狭野

万葉集 巻第三 265
長忌寸奥麿の歌一首 苦しくも 降り来る雨か 神の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに(苦毛 零來雨可 神之崎 狭野乃渡尓 家裳不有国)
現桜井市金屋に山崎の地名が残り、三輪山の南側にある尾崎突端を称した。『和州旧跡幽考』『大和志料』などは「神の崎」を当地に比定し、「狭野の渡り」は山崎から初瀬川を渡る津とする。現在も初瀬の追分西方に佐野橋があり、古くからこの河畔が佐(狭)野の渡りと伝承される。但し、和歌山県新宮市佐野、三輪崎に「狭野の渡り」「神の崎」を比定する説が多数説か。

2.和歌山県新宮市の狭野(現在の佐野)

『日本書紀巻三』(戊午年六月乙未朔丁巳)
遂越狹野而到熊野神邑(遂に狭野を越え、熊野の神邑<みわのむら>に到る)。
この説が最有力である。

3.大阪府泉佐野市(旧佐野。現在は佐野川の名が残る。)

文献初出は藤原定家『明月記』建仁元年(1201)10月7日条「サ野王子」である。後鳥羽上皇が熊野に御幸。定家が上皇に随行した。地名についてはもっと古いと言う説もあるが不詳。

以上の狭野(佐野)を神武天皇と関係づけるとするならば、和歌山県新宮市佐野と言うことになるのだろう。神武天皇がこの地で生誕したと言うことではなく、当該地の狭野尊という豪族が佐野より奈良盆地へ行ったことがあるという説話が神武天皇のモデルの一人に加えられたのではないか。何やら狭野も熊野も似たような語感の言葉だ。
神武天皇のその他の名は、磐余彦尊は磐余の領主の意味であり、彦火火出見は奈良盆地に始めて水稲稲作を導入した人の意か。御毛沼命は食物の神であり、神武天皇の時代にあっては人々はまだまだ飢餓に苦しんだのではないか。これらの名前から推察される神武天皇は長髄彦をはじめとする賊軍を倒し中州を平定したなどと言っている『記紀』の説話はあまり信用できないのではないか。

崇神天皇
崇神天皇は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいた。天皇や皇族の名称に特色があり、天皇は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)と言い、皇子・皇女には活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと、垂仁天皇)、豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)、大入杵命(おおいりきのみこと)、八坂入彦命(やさかいりびこのみこと)、渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)、十市瓊入媛命(とおちにいりびめのみこと)と名称に入彦(イリヒコ)、入姫(イリヒメ)の文字が加わっていることが多く、「イリ王朝」とも言う。おそらく、入彦や入姫の前にある御間城とか活目などが出身地を表し、五十瓊殖とか五十狭茅は現在で言う名前を表しているのだろう。天皇自体の幼名とか諱などもあまりなく≪御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえのすめらみこと)、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)くらいなもの≫、大和の三輪地方出身なのだろうか。但し、御間城(御牧の意か、水間城の意か。城は地名の接尾語と思われる。)については、 奈良県奈良市にある大字に水間(みま)町と言うのがあり、ここが崇神天皇の出身地か。垂仁天皇の伊久米は大和国とするなら大和国高市郡久米郷が著名である。但し、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見えるので久牟は久美浜の久美とでも読むか。しかし、大和国には久美の地名はないようだ。

以上より判断するならば神武天皇も崇神天皇も大和国の人かも知れないが、神武天皇が大和国で広く活躍していたのに対し、崇神天皇は四道将軍の派遣の記事がなければ何をしていた人かと思うほどだ。内政を充実させたとばかりに、崇神天皇12年9月、戸口を調査し、課役を科す。崇神天皇65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図った、と言うのがその例。
しかし、崇神天皇の時代は『魏志倭人伝』の邪馬台国や卑弥呼女王にも重なり合っており、そこいらがどのようになっているかと言うことである。「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸」とあるのであるが、官の伊支馬(いきま)、彌馬升(みます)、彌馬獲支(みまかき)、日奴佳鞮(なかつ)は何のことやら。伊支馬(いきま、あるいは、いきめ)は伊久米で第十一代垂仁天皇のことか。彌馬升(みます、あるいは、みまつ、みまき<升は支の誤記か>)は観松彦で第五代孝昭天皇あるいは御間城で第十代崇神天皇のことか。彌馬獲支(みまかき)は御間城で第十代崇神天皇のことか。奴佳鞮(なかつ)は足仲彦で第十四代仲哀天皇か。但し、仲哀天皇架空説がある。古墳から検討すると仲哀天皇陵は、宮内庁により大阪府藤井寺市にある惠我長野西陵に治定されている。考古学名は「岡ミサンザイ古墳」(前方後円墳、墳丘長242m)と言う。この古墳は五世紀末葉の造営とされ、五世紀初頭の造営とされる応神天皇陵(宮内庁により大阪府羽曳野市誉田にある惠我藻伏崗陵に治定されている。公式形式は前方後円。遺跡名は「誉田御廟山古墳」<前方後円墳、墳丘長約420メートル>)とは、一般的に言うと、息子の墓が一世紀近く前に父親の墓よりも早く建てられている。まったく以ておかしな話だ。また、古墳群の陵墓にいろいろな王朝(「イリ王朝」とか「ワケ王朝」とか)の混在が認められる。例えば、「イリ王朝」とは崇神、垂仁、景行(景行以下の天皇にはタラシがつく)、成務、仲哀の各天皇とされ、「ワケ王朝」とは応神、仁徳、履中、反正(和風諡号でワケがつくのは仁徳を除きここまで)、允恭ほか。「イリ王朝」については成務、仲哀両天皇は実在を疑問視する向きが多く、崇神、垂仁、景行とするならば景行天皇は「タラシ」と「ワケ」の称号がついており、子女には「イリ」と「ワケ」が混在している。「イリ王朝」と「ワケ王朝」との過渡期の人か。これら三天皇の陵は柳本古墳群に崇神天皇陵(行燈山古墳)と景行天皇陵(渋谷向山古墳)があり、佐紀古墳群に垂仁天皇陵(宝来山古墳)があるという。これは当時の墳墓の造営方法から言っておかしいといい、柳本古墳群に垂仁天皇の陵らしき墳墓を探したが見当たらず、近くの大和古墳群に属する西殿塚古墳を崇神天皇陵とし、行燈山古墳を垂仁天皇陵とする見解もあるようだ。私見では『魏志倭人伝』的に垂仁天皇陵を西殿塚古墳とし、崇神天皇陵(行燈山古墳)と景行天皇陵(渋谷向山古墳)はそのままとしたらどうだろうか。
神武天皇と崇神天皇が同一人物とする説の根拠は、
1.神武天皇の称号は始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)とあり崇神天皇の称号は御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とある。いずれも漢字は違うが読みは同じで初代天皇という意味らしい。「はつくにしらすすめらみこと」は後世の読みで、双方は当時(『記紀』成立時)の読みでは別々ではなかったかという説もある。私見を簡略に述べると、神武天皇は大伴氏にまつわる初代天皇の説話であり(さればこそ、大伴氏の先祖の道臣命は功一級の論功行賞に与ったのである。)、崇神天皇は物部氏(崇神天皇の母堂は伊香色謎命と言い、大綜杵命の子であり、兄の伊香色雄命が物部氏の祖である。)の伝承にある初代天皇の説話ではないか。神武天皇の論功行賞には物部氏は関わっていない。しかし、欠史八代の第八代孝元天皇は皇后:欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)- 穂積臣遠祖の欝色雄命(内色許男命)の妹、妃:伊香色謎命(いかがしこめのみこと、伊賀迦色許売) – のち開化天皇の皇后で崇神天皇の母。第九代開化天皇は皇后:伊香色謎命(いかがしこめのみこと) – 元は孝元天皇の妃、 妃:丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘、妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命) – 姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹などとあって、桂川、宇治川、木津川が合流する地点(京都府八幡市か)を拠点に大和の勢力が現・八幡市や宇治市、枚方市方面に進出してきたのか、はたまた、八幡市の勢力が勃興してきたのかは解らないが、三川合流地点を拠点に四方へ遠征したのかも知れない。しかし、崇神天皇の四道将軍派遣の説話は中国の皇帝が天下を統一するときには四方に軍を派遣し征服統一するという説話があると言い、崇神天皇の四道将軍派遣の説話は中国の故事をまねたものであり事実ではないと否定する見解がある。
2.根拠の二つ目は、一人の初代天皇が即位するまでは神武天皇と言い、即位後が崇神天皇とする説。神武東征の話は詳しいが、その後はバッタリ。日向を発ってから橿原で即位するまでの7年間はいいが、その後の<在位:神武天皇元年1月1日 – 神武天皇76年3月11 日>76年間は何をしていたのだというもののようだ。それなりの仕事をしていたであろうが、欠史八代の天皇ともども記録が欠如していることは事実のようである。大伴氏は天皇氏とはあまり親しくなかったので天皇家の家伝は解らなかった。但し、天皇家は男系血統というものの、神武天皇の頃からすでに女性も首長として活躍していたようだ。具体的には邪馬台国の卑弥呼女王を見ると「年已長大 無夫壻 有男弟佐治國」とあり、このまま解釈すると卑弥呼女王には直系子孫はいないようで記録の継承ができなかったように思われる。あるいは、神武天皇後半から欠史八代の時代は中国史書に言う「倭国大乱」の時代であったかもしれず、記録は散逸してしまったのかも知れない。当時は口承が主体だったので大乱で語部が急減した。
神武天皇は倭人の天皇で崇神天皇は渡来人の天皇という説もあるようだ。従って、いずれも(はつくにしらすすめらみこと)であると。しかし、崇神天皇の陵は前方後円墳であり、倭人ではなかったか。我が国には天地開闢以来外国人が天皇や将軍などになったと言う記録はないのではないか。

★応神天皇と仁徳天皇

応神天皇
『記紀』では応神天皇は一般常識にかけ離れた人物と書かれていることが少なくない。1.父の仲哀天皇架空説。理由は、『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも五十二歳とするが、これから逆算すると、仲哀天皇は父・日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。2.仲哀天皇死後にもかかわらず異常に出産が遅れたこと。実父は住吉三神とか武内宿禰とするものがある。3.父の仲哀天皇はもとより、日本武尊、成務天皇、神功皇后ともども架空説が根強く、実体は景行天皇の皇子か。母は物部氏か。
以上より応神天皇の実在を否定する説もあるが、多数説は実在を肯定しているようだ。以下、『記紀』による天皇の事績を見てみると、
『古事記』に「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」
『日本書紀』にも、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」

『古事記』に、百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、牡馬牝馬各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。この阿知吉師は阿直史等の祖。また、横刀(たち)や大鏡を献上した。また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」。
『書紀』の十五年八月条(百濟王遣阿直伎 貢良馬二匹)と十六年二月条(王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁)に同様の記事が見える。また、応神二十年九月条に「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている、と。
応神天皇の皇后や妃については、以下の通りである。
皇后:仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命) – 品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女
妃:高城入姫命(たかきのいりびめ、高木之入日売命) – 品陀真若王女、仲姫命同母姉
妃:弟姫命(おとひめ、弟日売命) – 品陀真若王女、仲姫命同母妹
妃:宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売) – 和弭日触使主女
妃:小甂媛(おなべひめ) – 和弭日触使主女、宮主宅媛妹
品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女を主要な皇妃として、和弭日触使主女を妃としているようである。
和弭日触使主については、『日本書紀』では「難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)」や「武振熊」、『古事記』では「難波根子建振熊命」や「建振熊命」と表記されて応神、仁徳両帝の河内や摂津への進出とも関係するのかも知れない。表向きは武振熊が神功皇后とのちの応神天皇に対して反乱を起こした忍熊王を討つため、武内宿禰とともに遣わされ忍熊王を討伐した論功行賞か。和弭日触使主は武振熊の息子という。しかし、和弭日触使主が物部氏や大伴氏のような藩屏になれたかは疑問。ここでは品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女に力点があり、もし応神天皇が景行天皇の皇子としたら景行の手元に残した五百城入彦皇子・成務天皇・日本武尊の三人(日本書紀)のうち五百城入彦皇子だけが何の任務のために残されたのか解らない。私見で恐縮ではあるが、五百城入彦皇子は景行天皇の推定皇位継承者であったが、当時は朝鮮半島情勢が風雲急を告げ景行天皇は応神、仁徳に半島情勢の対処をさせるため派遣したが、たいした戦果も挙がられず帰国した。驚いたのは五百城入彦皇子で朝鮮半島の危機が去ったわけではなく、喫緊の対応として応神を天皇として国難を切り抜けようとしたのではないか。応神は応神で五百城入彦皇子の血脈が途絶えたら大変とばかりに品陀真若王女を皇妃に迎え入れたのではないか。
応神天皇と仁徳天皇の類似性については、いずれも現在の京都府、奈良県、大阪府界隈の開発を行っている。渡来人関係については応神天皇の時は学者、文書係、鋳造工や鍛造工、縫製工、土木作業員など多彩な人がやって来たようだ。仁徳天皇関連の渡来人は不明だが、紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した、と言う。

仁徳天皇
仁徳天皇は「聖帝」と言われ、善政を敷いた天皇と言われているが、この天皇も出生につき疑義があるようだ。『日本書紀』の仁徳条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は『古事記』の応神条の冒頭にある記事(五百城入彦皇子→品陀真若王→中日売→大雀命)と矛盾する、と言う。大雀命は五百城入彦皇子の曾孫と言うのである。『日本書紀』の原文は「母曰仲姫命 五百城入彦皇子之孫也」とあり、母の仲姫命が五百城入彦皇子の孫ともとれる書き方だ。古代史にはこの程度の誤謬はままあることであり、問題にすることではないのではないか。私見では仁徳天皇の実父は景行天皇と思われ、母は大伴氏ではなかったかと思っている。仁徳天皇の陵は和泉国にあり、ああいう大型墳墓(大仙陵古墳)を造営するには地元の有力者の協力が必要で、当時にあって摂津国や和泉国の有力氏族は大伴氏ではなかったか。応神天皇も同じことで誉田御廟山古墳も物部氏の協力のもと造営されたものと思われる。従って、応神天皇と仁徳天皇は兄弟と考える。応神天皇の時代は朝鮮半島が動乱期で、
1.『好太王碑文(辛卯年条ー391年)』「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年(391)來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」 2.『同碑文』399年、新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出た 3.『同碑文』400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。 4.『同碑文』404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
これらの紛争の対応を一介の地方豪族や有力中央豪族が取り仕切ったとは思われず、有力皇族が出陣し現地で指揮を執ったのではないか。10年ほどたっても勝負がつかず応神・仁徳両天皇は帰国したもののようだが、遠征による国内経済の疲弊は畿内にまで及んでいたらしい。仁徳天皇は特に、「仁徳四年三月己丑朔己酉(21日) 詔曰 自今以後 至于三年 悉除課役 以息百姓之苦 是日始之・・・」と詔して三年間の免税を断行した。しかし、仁徳天皇は世界最大の墳墓という大仙陵や難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った(『紀』仁徳「十一年冬十月 掘宮北之郊原 引南水以入西海 因以號其水曰堀江 又將防北河之澇 以築茨田堤」)と言うのを失業対策のための公共事業と言うべきか、はたまた、単なる浪費と見なすべきかは難しいところで、しかもこれらの事業は当時の日本人の能力ではできず、新羅人が建造に当たったらしい。(『紀』十一年。是歳 新羅人朝貢 則勞於是役。『記』又伇秦人、作茨田堤及茨田三宅)大仙陵と誉田御廟山陵は朝鮮遠征の成果(精華?)と言われても、現在にあっては納得しがたいものがある。仁徳天皇とは功罪相償う天皇だったか。
また、『日本書紀』では、
『日本書紀』では応神天皇3年条に百済の辰斯王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」の辰斯王が死去したと記述されている年は西暦392年である。
『日本書紀』では応神天皇8年条に「百済紀には、阿花王(あくえおう、あかおう)が王子直支を遣わしたとある。」と記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が太子腆支(直支のこと)を遣わしたと記述されている年(阿莘王6年)は西暦397年である。
『日本書紀』では応神天皇16年条に百済の阿花王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が死去したと記述されている年(阿莘王14年)は西暦405年である。
以上より応神・仁徳両天皇が活躍した時代は四世紀後半の四半世紀から五世紀前半の四半世紀頃だったと思われる。

★まとめ

日本の学者先生のなかには、例えば、神功皇后の実在性が怪しいとなればそれ以後のご子孫はあり得ないという見解を唱える人がいるようだ。この場合、応神天皇以下は全否定と言うことになり、どのように国史を取り繕うのだ、と言うことになろうかとも思われる。無論、このような見解は少数で、多数説は応神天皇実在論に傾いているようだ。しかし、応神天皇はいろいろ難癖をつけられる天皇と見え、『紀』の応神天皇の条には天皇の亡くなった記事はあるが、葬地(陵)についての記載がない。このこともあって、文献学から応神天皇と仁徳天皇が本来同一人物だったとする見方も出ている、と言う。(注1)因みに、『記』では、応神陵「御陵は川内の恵賀の裳伏の岡に在り」とあり、占部家本の『記』では、その箇所に「百舌鳥陵也」との註記がある。まったく以て煩わしい話で、書けば書いたで他の文献との齟齬を指摘され、書いていなければそんな天皇はいなかったなどと存在を否定される。こんなのは占部家本写本に問題があり、写本を作成する際、書いていないことを加筆することはいいことなのか。
大和国(大和古墳群、柳本古墳群、佐紀古墳群)、河内国(古市古墳群)、和泉国(百舌鳥古墳群)の大型古墳はほとんどが天皇陵と考えられ、その造営順序もほぼ固まっているようだ。白石太一郎大阪府立近つ飛鳥博物館館長の見解によると、造営順序は以下のようになるとのことだ。
三世紀中葉過ぎから四世紀中頃まで、奈良盆地東南部、
1.箸墓古墳(奈良県桜井市)→2.西殿塚古墳(天理市。現手白香皇女衾田陵)→3.外山(とび)茶臼山古墳(桜井市)→4.メスリ山古墳(桜井市)→5.行燈山古墳(天理市。現崇神陵)→6.渋谷向山古墳(天理市。現景行陵)の六基が継続的に造営。
四世紀後半、奈良盆地北部、佐紀古墳群
7.宝来山古墳(奈良市。現垂仁陵)→8.五社神(ごさし)古墳(奈良市。神功皇后陵)の二基が造営。
四世紀末葉以降五世紀前半まで、大阪平野、古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に、
9.仲津山古墳(藤井寺市。現仲津媛陵)→10.上石津ミサンザイ古墳(堺市。現履中天皇陵)→11.誉田御廟山古墳(羽曳野市)→12.大仙古墳(堺市)
以上が三世紀中葉から五世紀前半までの大王墓という。古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に古墳が造られるようになったのは人材難、あるいは、大和国の古墳造営グループと河内国(和泉国も含む。)の古墳造営グループが別々のグループだったのかも知れない。
いずれにせよ神武・崇神同一人物説では、神武天皇と崇神天皇の同一人物説を支持しているのは崇神天皇始祖説支持者だけです、と曰う人もいるが、神武天皇始祖説でも問題がないのではないか。要するに、神武崇神天皇と言うべき人を二人に分けたのだから。しかし、神武・崇神同一人物説にはにわかに賛成できできない。天皇家の始祖伝説には高御産巣日神が出てきており、同神は大伴氏の祖神であり、また神武天皇は大伴氏の祖道臣命にいたくご執心で論功行賞として邸宅を与えている。また、橿原遺跡の縄文晩期遺物として「多くの食物残滓(ざんし)のなかにはクジラ、タイ、スズキなどの海産物の骨も遺っていて、海浜地域との連絡があったことも知ることができる。」とあり、これも大伴氏がらみの遺物か。あれやこれや考え合わせると神武天皇は大伴氏の祖先説話に絡(から)まり、崇神天皇は母堂が物部氏の遠い先祖(伊香賀色雄命)の妹と言い、また、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に、大水口宿禰(系図にもよるが伊香色雄命の子で、穂積臣始祖。弟が物部十市根で物部大連氏始祖。)は倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)とともに同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられた旨を天皇に奏上した、とある。物部氏の遠祖の伊香色雄命は現在の枚方市伊加賀(本、東、西、北、南、栄、寿、緑などの諸町がある)あたりが本拠地で物部氏も最後は東大阪市衣摺が本拠地となったようだが、当初は枚方市あたりに本拠地があったのではないか。丁度そこに崇神天皇が進出してきたと言うことか。よって、大伴氏伝承の初代天皇は神武天皇であり、物部氏が最初にお近づきになった天皇は崇神天皇で物部氏伝承では初代天皇は崇神天皇となったのではないか。
応神・仁徳同一人説については以下のような意見を言う人物(前田晴人大阪経済法科大学教養部客員教授)がいる。曰く、

「応神・仁徳同体分化説」と呼ばれる興味深い学説が、戦後に提唱された。応神・仁徳両天皇の事績を詳しく比較検討してみると、類似する事績や行動がくり返し記されていることがわかる。つまり天皇父子の事績が、あるひとりの王者像から分化させられたものだという説である。
しかし、原型となる王者が誰なのかは立証されておらず、今でも応神天皇の実在性を肯定する研究者は多い。だが、神功皇后が神話的な虚像であるとするなら、その御子である応神天皇も虚構の王者と解すべきであろう。
何らかの政治的理由により神功・応神母子にまつわる伝説の造作が必要になったと考えられるのだ。

、と言う。
しかし、私見で恐縮かと思うが、日本武尊、成務天皇、仲哀天皇などの実態のない人々を除くと応神、仁徳は景行天皇八十人の実子のうちの二人の実子となり兄弟ではなかったか。景行天皇は期待もしていなかったのか二人に「九州へ行って熊襲を討伐してこい」と言ったが、二人は少しばかり利口で伊都国で作戦会議を開き、地元首長が論功行賞に金銀ほしさから朝鮮半島への出撃なら協力するという言葉に引かれ、半島出兵となったのであろう。そこで、仮令、応神と仁徳の類似事績が畿内方面での開発行為や農業振興であったとしてもやむを得ないのではないか。日本ではこの種の「同体分化説」とか「一体分身説」は古くからあったようである。例、三輪流神道(大神神社)には「伊勢と三輪が一体分身」という神学があるという。
これも物部氏と大伴氏のからみの話になるのだが、景行天皇は当初より天皇への資金提供者として物部氏と大伴氏に癒着していたようで、戦費はおろか陵墓造営費も両氏に出させたのではないか。それが日本一、二を争う陵墓になった。誉田御廟山古墳は河内国(物部氏の勢力下)に在り、大仙陵古墳は和泉国(大伴氏の勢力下)に在り、両氏にとっては迷惑な話ではあったとは思うが、応神天皇、仁徳天皇は別人の天皇であり、父の景行天皇が日本統一を果たし、応神、仁徳は海外遠征ができたのである。

(注1)上記の引用は『森浩一 筑摩選書 「天皇陵古墳への招待」』からなのだが、森名誉教授は以下のことも述べておられる。

1.誉田山古墳の陪墳の二ツ塚古墳は応神の妻(仲姫皇后)の父品陀真若王(五百城入彦皇子の子。景行天皇の孫。)の墓? P206

2.誉田山古墳の陪墳のアリ山古墳には二段逆刺鉄鏃(腸抉(わたぐり)ともよばれる逆刺(かえし)が二段ある鉄鏃)が多数(341本。鉄鏃の総数1542本。)があった。二段逆刺鉄鏃の分布圏は隼人が集中的に居住した南部九州、もう一つが大阪府、奈良県、滋賀県の比較的大きな古墳から出土。南部九州が本来の流行地域大阪府等が隼人の移住先。誉田山古墳の被葬者が応神天皇とすれば九州からの東進の際隼人系の集団、例えば、応神妃の髪長媛の父日向の諸県君牛諸井がいた。P208

3.誉田山古墳の内濠出土品(出土状況等は不明)には土製品のクジラ、イカ、タコサメ(またはイルカ)の出土がある。誉田山古墳の被葬者に海の生物を贈る習慣があった。河内政権の出自を示唆? P210~211

1.については、品陀真若王の墓が先にあって、応神天皇の入り婿説を匂わせているが、応神天皇は大鞆和気命(おおともわけのみこと)から誉田別命(ほんだわけのみこと)になっているので、大鞆(古代豪族大伴氏と関係があるかどうかは不明)から品陀に入り婿になったのではないか。景行天皇が意図した天皇家の嫡流は景行天皇→五百城入彦皇子→品陀真若王の皇統ではなかったかと思われるが、朝鮮半島の情勢急転から品陀真若王から急遽応神天皇に天皇(大王)の地位が委譲されたものと思われる。私見では応神天皇も品陀真若王も景行天皇関係者であり、応神天皇が品陀真若王の皇女をみんな自分の后妃とすることはなかったのではないか。

2.については、二段逆刺鉄鏃は応神天皇の戦利品で、あるいは応神天皇は熊襲(隼人)討伐へも行ったか。また、京田辺市大住は隼人の竹細工、舞踊、相撲の技術に着目した応神天皇が技術者として大隅国から連れてきたのではないか。また、武力にも優れていると言い、戦闘要員としても連れてきたか。神武東征に代わる応神東征とでも言いたいのだろうが、関係はないと思う。

3.については、魚類の貢納は大和国では交易か貢納かは解らないが、縄文時代末期から行われていたようであり、応神天皇が海洋民族出身と言うことにはならないと思われる。

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古代の祭神

★はじめに

我が国の古代の正式な神社の祭神は「太陽神」と「国魂神」で、両神はセットで祀られていたようである。具体的な神名としては「天照御魂神」とか「天照国照大神」とか「天照玉命(天照御魂の誤記か。あるいは、<てるたま>は照り輝く球体の意味で太陽のことか。)」などがあるようである。崇神天皇の時代には宮中では天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)が祀られていたと言う。 但し、崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、両神を皇居の外に移し、別々に祀った。
一体に我が国には何の脈絡もない太陽神が多く、例として『記紀』に出てくる太陽神を見てみると、

天照大神
太陽を神格化した神であり、皇室の祖神<皇祖神>で一般には女性とされる。起源は日本で原型は神武天皇から天武天皇の間にできたか。

高木神
高御産巣日神とも。高木を神格化した神と言われるが、私見では縄文太陽神で三内丸山遺跡に始まり出雲大社まで続く巨木文化にまつわる太陽の運行を観測する高木即ち暦の神ではなかったか。但し、『魏志倭人伝』の(裴松之)の注では「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」とあり、二至二分を知らず、暦などと言うものはおぼつかなかったようなことを書いている。『日本書紀』では皇祖とも言われている。起源は日本で縄文時代か。

天火明命(天照国照彦火明命)
「天照国照」「火明」からわかるように太陽光や熱の神格化である、と言う。天照御魂神社の祭神はほとんどが天火明命である。照らすとか明かりと言うので現代用語で言う照明の神か。中国由来の拝火教の痕跡か。

天穂日命
「火日」の意味として太陽神とする説と「穂霊」の意味として稲穂の神とする説がある。出雲国造家の祖と言うが出雲国には天穂日命を祀る有名な神社は少ない。息子に建比良鳥命あるいは武日照命(たけひなてるのみこと)とあるので世界中至る所に見られる農業太陽神か。日本の起源は稲とともに東南アジアから入ってきたと言うが、やや持って怪しい説だ。

天日槍命
日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団の始祖神、と言う。満蒙の太陽神か。起源は東北アジアで満州、蒙古か。日本の始祖神は新羅国の王子という。

などがある。高木神以下は国家神である天照大神が創作されると徐々にそれに吸収あるいは置換され現在ではマイナーな神社の祭神になっている。

国魂(くにたま、国霊とも。)とは、村、郷、郡、国(令制国)または国土そのものを神格化したものである、と言い、統轄神は大国魂神(大国主神、倭大国魂神など)と言う。また、日本は海洋国家なので海延いては海神(例として、綿津見神や住吉神などのワタツミの神)を祀っても良さそうなものだが、一部の海人族に限られているようだ。

★天照大神の前の太陽神は

崇神天皇が天照大神と倭大國魂神とを宮中に祀ったというのは、太陽神あるいは天空神と国魂神あるいは地母神を宮中に祀ったと言うことであろう。世界的には天なる父と大地なる母と言うことになるのだろうが、日本では太陽神が強調されて天には女性が、「その国を経営坐(つくりし)し功徳(いさお)ある神を、国玉国御魂」(本居宣長)と言い、国魂神あるいは大地の神とはその土地の開拓者を言うようだ。女性の開拓者はあまり聞かないところで必然的に男性と言うことになるのだろう。
翻って、縄文時代の我が国はざっくばらんに言うと小さな地域集落が点在していて、交流で物々交換をしたりして生計を立てていた社会ではなかったかと思う。その中にあって、巨木文化の地域は巨木一本を運ぶにせよある程度の労力を必要とし複数の集落がまとまって共同作業をするようになり、参加する集落の数もだんだん増えて後世の国(大きさは律令時代の令制国より広域か)のような大きさになった。具体的には、筑紫国(筑前、筑後)、出雲国(因幡、伯耆、出雲、石見)、吉備国(備前、備中、備後)、摂津国(摂津、河内、和泉)、丹波国(丹波、但馬、丹後)、尾張国(三河、尾張、美濃)などがあり、なぜか辺鄙な奈良盆地を統一し、中小豪族をまとめ上げた天皇家が当時の倭国を統一することになった。
当然のことながら、今も昔も大きな組織にはいろいろデータも整っているが、中小組織には記録をつけると言うこともままならず、語部によるちんぷんかんぷんな話しかなかったのではないか。そこで歴代天皇はまず相談したのは隣国の友人で後世の大伴氏かと思うが、大伴氏はそういう家伝の記録が豊富なのは出雲氏だ、と言い、天皇の矛先を出雲氏へ向けたが、出雲氏は出雲氏で「我が家と天皇家は何の関係があるのだ」と言って取り合わず、その後双方は紛争に発展したのではないか。結末は、出雲は意外にも武力に弱く大和に簡単に負けてしまった。大和朝廷が検討した結果、海洋国家で交易を生業としていた出雲と周りを山々に囲まれ奈良盆地のなかにあった大和では参考になるものはほとんどなく『記紀』では出雲神話として取り入れられている。そこで大和朝廷が参考にしたのは大伴氏の家伝で、その祖「高御産巣日神」の有力氏族は大伴氏と忌部氏があるが、大和朝廷としては高御産巣日神を天皇家の祖神としても良かったかも知れないが、他の氏族のことも考慮し統一太陽神として天照大神を創出したのではないか。しかも、当時にあってはほとんどの太陽神が男性であったのに対し、大和朝廷では女性のトップ(卑弥呼や台与)が多く、天照大神も女性とされたのではないか。『記紀』によれば当時の西日本には女性の首長も多かったようだ。
そこで、天照大神が統合の太陽神として創作される前に、我が国には一説によるとモデルとなる太陽神があったということのようである。それは第一の説では、高御産巣日神と言い、第二の説では天火明命というもののようである。高御産巣日神は縄文時代からの太陽神と考えられるが、天火明命は天照御魂神社の祭神の多くが天火明命で、その祭神が天照大神の出現とともに天火明命から天照大神に代わったというもののようである。しかし、天火明命の子孫は多くが古墳造営に従事しており、天火明命自身が太陽神とは考えづらい。即ち、天照御魂神社は太陽神とは何も関係のない神社ではないのか。天照御魂を解釈すると「天」は美称であり、「照」は周りを照らすもの、「御魂」は「み」は接頭語、「魂」は霊の宿る大切な品物即ち現今で言う灯明台のようなものか。但し、籠神社(このじんじゃ)の系図では、始祖彦火明命 亦名天火明命 亦名天照国照彦火明命 亦名天明火明命 亦名天照御魂命とあって「火明命」と「天照御魂命」が同一の神である、と言う。しかし、「火明」にせよ「天照御魂」にせよこれらの言葉から太陽が連想されることはほとんどないのではないか。一方、縄文太陽神と思われる高御産巣日神と弥生太陽神であったと思われる天照大神は性格が異なる神であったのではないか。太陽の運行観測に関わったような神(高御産巣日神)と神御衣を織らせ、神田の稲を作り、大嘗祭を行う神(天照大神)とはかなり違ったはずだ。私見では二神の時代背景としては高御産巣日神は弥生時代から古墳時代に、天照大神は縄文時代晩期から弥生時代にでも時代設定されると良かったのではないかと思われる。従って、天照大神の前任の太陽神は考えられず、『記紀』編纂者が大伴氏の家伝を無批判に取り入れただけの話ではないのか。天照大神のモデルと言っても高御産巣日神は『記紀』では天照大神の夫神のようだ。

★まとめ

古代の神と言おうか人と言おうか現在の神社に祀られている神(人)はステータスがあがるにつれその名前にいろいろと修飾語がついていくようだ。籠神社の宮司家の系図では「始祖彦火明命 亦名天火明命 亦名天照国照彦火明命 亦名天明火明命 亦名天照御魂命」五回も名前が変わっている。この場合は、「火明」が実名で彦、命、天、天照国照、天明、天照御魂等の美称と言おうか修飾語は後世の人がつけたものであろう。極めつけは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(『先代旧事本紀』)で、「火明」と「速日」は同一人物と言いたいのだろうが、時代も系統も違う。火明は天照大神の孫と言われ、速日は神武天皇と同世代と思われる。火明は天孫系で速日は天神系である。速日一族は「天磐船に乗って河上の地(河内国河上の哮ヶ峯<たけるがみね>)に天降り、その後大和国(奈良県)に移った、と言う。大和盆地には旧石器時代からの遺跡があり先住民がいてもおかしくはないが、双方が同化して天皇家になったと言うのは速日系の創作か。それに饒速日の語義であるが、「饒」は美称で、「速」は敏速にことを処すことか、集団の長に適任な人、「日」は「速」もそうだが、私見では縄文語で「日」=一日(24h)、「日」=太陽、「日」=神のことであり、今は「霊」の字を当てるようだが、速日とは<はやのかみ>とでも読んだのではないか。一体に旧家には名前に「日」の字がつく人が多いようで、例えば、大伴氏は初代を「天忍日命」と言っている。これは、物部氏、大伴氏はともに縄文時代からの古くからの家伝を語り継ぎ、『記紀』にもその内容が反映されていると言うことなのだろう。物部目大連が伊達に大伴室屋大連と争って物部氏の家伝を押し込んだようではないらしい。
『延喜式神名帳』では神社の祭神は一神がほとんどで、二神以上は少ないようだ。しかし、『延喜式神名帳』は平安時代のもので縄文、弥生、古墳、飛鳥・奈良時代の神社とは違うだろうから、元々は祭神は一神だったとか、はたまた、二神だったとは決めつけられないと思われる。祭神が複数の神社は夫婦神等の親族神だったとか、あるいは、合祀によったものかとも思われる。崇神天皇のように意識して天神地祇を祀るのはすでにそれなりの見識があったということなのだろう。崇神天皇は一神よりは二神の方が霊的効果が高いと思ったのだろうが、二神はいがみ合ってマイナスの効果しか出なかったようだ。よって、神頼みは「寄らば大樹の陰」ではないが、霊験あらたかな有力神一神だけにしたようだ。但し、崇神天皇の類似の例として『延喜式神名帳』に「山城国 久世郡 水主神社(十座) 並大。月次新嘗。就中同水主坐天照御魂神。水主坐山背大国魂命神二座。預相嘗祭。」とあるが、これは古墳建造関係者の神社と地元の元々の神社が合体したからではないか。古墳建造には意外といろいろな職種の人がいて諸々の神を祀っているものだ。

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縄文時代の暦

★はじめに

縄文時代の暦(こよみ)と言っても当然のことながら現在のカレンダーや日めくりなどとは違うものである。しかし、採取や初歩的農業、漁業、林業などの第一次産業を経済基盤とするには一(太陽)年を的確に把握しなければ農業、漁業、林業の産業は成り立たず、縄文人といえども短命で終わってしまうだろう。とは言え、日本人は旧石器時代から現在にいたるまで日本列島に連綿と存在しているのであり、おそらく暦とまでは行かなくとも季節の概念は当初より持っていたのではないか。そこでそのことを学術的に的確に捉えている本居宣長先生のご見解、即ち、『真暦考(しんれきこう)』(1776)を見てみると、
昔は自然の景色の変化から季節の移り変わりを把握する自然暦であった。中国から暦法が入ってくる前は太陽暦思想があったとして、「かの空なる月による月(朔望月<さくぼうげつ>)と年の来経(きへ)とを、しひて一つに合わすわざ(太陰太陽暦<たいいんたいようれき>のこと)などもなくて、ただ天地のあるがままにてなむありける」と。これによれば、地球が太陽の周りを公転する現象のみによって春夏秋冬を決めるらしい。要するに、古代日本にあっては暦があり、それは現在の太陽暦だけだったというのである。このような発想はどこの国にもあったらしく、一日を基本単位にそれをまとめて年としたが、何分にも原始的な生活を営んでいた当時の人々にあっては一年365日という数は現在の無量大数のようなもので管理ができない、あるいは、数え切れなかった。そこで導入されたのは日と年の間に古代人が数えることができる、あるいは、目に見えると言うことで月の満ち欠けによる(新月から次の新月までの満ち欠けの周期を朔望月と呼び、その周期は約29.53日)月の概念を取り入れ、日、月、年の暦ができた。また、多くの国や地域では月の方が数えるのが容易であったり、月の満ち欠けが目で見て解ると言うことで、月の満ち欠けを主とした暦(太陰暦)と、地球が太陽の周りを公転する暦(太陽暦)とを適宜合わせて太陰太陽暦を作成したようである。本居宣長先生は縄文時代の日本には太陰暦と太陽暦を合一する技術がなく「ただ天地のあるがままにてなむありける」と言い、天(太陽)と地(地球)の関係によってのみ暦は成り立つとする。月などという概念は入り込む余地がなかったようだ。

★縄文時代の暦にまつわる遺跡

縄文時代の遺跡はあまた発掘されているが、暦に関係するものは環状列石と環状木柱列がある。そのいわゆるホライズン・カレンダーによると、世界中どこの場所でも日出、日没の方位は季節によって決まっていると言い、このことは既に古代から知られていて、環状列石などその方位を示す遺跡が世界中にあるという。具体的な遺跡となると、斯学の大家からインターネットの歴史愛好家の見解までいろいろあるが、ここでは國學院大學の「縄文学研究室」の見解を取り上げてみる。同研究室が取り上げた具体的な夏至、冬至、春分、秋分に関わる遺跡は以下の通りである。
【石倉貝塚】
北海道函館市の後期の環状列石。
中央と南東の立石を結ぶ線の延長線上から冬至に日の出。
また、中央と南西の配石群を結ぶ線の延長線上に冬至の日没。
水野正好 1996(石倉貝塚の報道のコメント):
「縄文人が冬至などを意識していたと立証するには材料が乏しい。この遺跡が偶然一致しただけで、全国的なものではない。」とある。
【三内丸山遺跡】
青森県青森市の前期・中期の集落跡。国史跡。
大型木柱遺構の方向と夏至の日の出・冬至の日の入線がほぼ一致。
【小牧野遺跡】
青森県青森市の後期の環状列石。国史跡。
現在馬頭観音となっている配石と中央とを結ぶ線が夏至の日の出線と一致。
【大湯環状列石】
秋田県鹿角市の後期の環状列石。国特別史跡。
万座と野中堂の日時計状特殊組石を結ぶ線が夏至の日没線。
【伊勢堂岱遺跡】
秋田県鷹巣町の後期の環状列石。
環状列石C:外環のまとまりが30度づつ区切られており、その区切りが、中心-直列石のラインを中心に磁北ライン・夏至の日の出ラインなどと重なる。
【樺山遺跡】
岩手県北上市の後期の配石墓群。国史跡
春分・秋分の日、前塚見山に日が沈む。
【天神原遺跡】
群馬県安中市の晩期の環状列石。
中央から3本の立石を結ぶ線の延長線に妙義山(三峰)を望み、春分・秋分には妙義山に日が沈む。
また、冬至には大桁山に日が沈む。
【砂押遺跡】
群馬県安中市の中期の環状集落。
環状集落の中央広場からみると、冬至に大桁山に日が沈む。
【野村遺跡】
群馬県安中市の中期の環状列石。
この場所から見ると冬至に妙義山に日が沈む。
【寺野東遺跡】
栃木県小山市の後期の遺跡。国史跡。
環状盛土の中の円形盛土と中央の石敷台状遺構とを結ぶ線上に冬至の日の入を望む。
【田端遺跡】
東京都町田市の後期~晩期の環状積石遺構。都史跡。
冬至には、丹沢の主峰蛭が岳に日が沈む。
【水口遺跡】
山梨県都留市の中期の環状列石。
春分の日没が地蔵岳に落ちる。
【牛石遺跡】
山梨県都留市の中期の環状列石。
春分の日没が三つ峠山に落ちる。
【大柴遺跡】
山梨県須玉町の中期~後期の環状列石。
夏至には金峰山から日が昇る。
【アチヤ平遺跡】
新潟県朝日村の環状列石を伴う拠点集落。
夏至の日、朝日岳から日が昇る。
【極楽寺遺跡】
富山県上市町の早期~前期の攻玉遺跡。
冬至には大日山(立山連峰の1峰)から日が昇る。
【不動堂遺跡】
富山県朝日町の中期の集落。国史跡。
冬至には朝日岳と前朝日の間(鞍部)から日が昇る。
【チカモリ遺跡】
石川県金沢市の後期の遺跡。国史跡。
ウッドサークルの入口?が、冬至の日の出の方向を向いている。
以上、環状列石や環状木柱列等と二至二分の関連を説いているが、何やら「こじつけ」の感もある。一般に、環状列石は日本でもはたまた外国でも「大規模な共同墓地」と考えられており、環状木柱列は「祭祀場」と考えられている。暦学者はそうはさせじと「大型のストーン・サークルには墓の痕跡がないものも多く、十分に説得力のある学説とは言えないようです。近年ではむしろ、小林達雄氏(國學院大學文学部名誉教授)に代表される考古学者たちのように、環状列石を日の出・日の入りを観測する装置とみなす説が有力になっています。」と曰っている。

★まとめ

まず、環状列石だが、一説に「ストーンサークルの密集域が円筒土器文化圏(東北北部)と重なっていること、円筒土器は遼河文明と関連していること、遼河文明と関連する三内丸山遺跡からもストーンサークルが発見されていることから、日本にストーンサークルをもたらしたのはY染色体ハプログループNに属すウラル系遼河文明人と考えられる。しかし、ウラル系遼河文明人にはストーンサークルを造る文化はなく、東アジアにストーンサークルを伝播させた集団はY染色体ハプログループR1bに属す集団と考えられる。」と言う。日本のストーンサークルの起源も元を正せばヨーロッパあるいは中央アジア北東部からシベリア南部(アファナシェヴォ文化)と言うことになるようだ。
はっきりしないことを蒸し返しても建設的なものにはならないので、環状列石や環状木柱列の日本での建造目的は食糧確保のための建造物と考える。「日本での」と断ったのはこれらの建造物が日本で自然発生的に生じたもので外国から入って来たものかは疑問である。北東北の環状列石が古いと言っても講学上の最古のものは縄文時代前期の阿久遺跡(あきゅういせき。長野県諏訪郡原村)にある環状集石群と考えられている。
この種の遺跡の特徴として1.なにがしかの二至二分の日の出や日の入りと関わっていること。2.墳墓を伴うことが多いこと。3.日本では本体サークルの補完、補正などに利用されたと思われる、日時計状組石や四本柱の環状木柱列(本体は十本。真脇遺跡)などがある。
1.二至二分(夏至、冬至、春分、秋分)の日の出や日の入りが見える場所については、やはり季節の春夏秋冬を知るために、環状列石や環状木柱列が造られたのであろう。これは農業、漁業、林業の基本であり、縄文農業がどれほどであったかは解らないがやはり縄文時代にも農業があったと思われる。こういう意味では環状列石や環状木柱列は春、夏、秋、冬の四季しか解らないものではあったが、やはりカレンダー的要素の強いものではなかったか。古代人が太陽の位置に興味を抱いたのは太陽の位置により気温が異なり、人間はもとより多くの生物がその行動を左右されるからであろう。太陽の位置を観測すると言うことはとりもなおさず現今のカレンダー(暦)を意識したものではないか。これは日本だけでなく世界的なものである。(ナブタ・プラヤの遺跡<エジプト>は、北回帰線近くに位置し、夏至の前後3週間ほどの間、正午の太陽は天頂に昇り、直立物は影を射さなくなる。研究者たちは、ナブタ・プラヤのストーン・サークルは、夏至前後に天頂を通る太陽の運行に対応した物だっただろう、と推測している。特別な石材は、夏至前後の季節を確認するための観測道具だった、とみなされ「カレンダー・サークル」の名で呼ばれている。)上述の石倉貝塚の水野正好(奈良大学名誉教授。物故者)と言う人が述べていることにも一理はあるが「この遺跡が偶然一致しただけ」と言うのも他の一致した遺跡はどうなるのだ、と言うことなのだが。
2.墳墓を伴うこともこれらの墳墓が当初より計画的にストーン・サークルの内や外に配置されていたものかは不明である。意外と後世になって墓地が不足し環状列石の内や外に墳墓を造築したのではないか。副葬品が豪華なものもあるので、最初から墓地という説も根強い。
3.補完、補正装置としての日時計状組石や四本柱の環状木柱列は、本体の環状列石や環状木柱列を毎年のカレンダーとして間に合わせるべく、諸々の誤差(例、地球の公転と一日24時間としたときの誤差)を正すべく使用されたと思われる。
そこで環状列石と環状木柱列であるが、環状列石が先に出現し、環状木柱列が縄文時代後半に出現したのではないかと考える。環状木柱列の主な遺跡としては、

チカモリ遺跡 石川県 柱8~10本、柱列環直径6~8mが8基
真脇遺跡 石川県 柱10本、環直径7.4m、6度立替 トーテムポールのような木柱
井口遺跡 富山県 柱10本、柱列環直径8m
桜町遺跡 富山県 柱10本、柱列環直径6m
米泉遺跡 石川県 柱8本、柱列環直径5.5m、中央に鮭の骨を含む穴
若緑ヒラ野遺跡 石川県 柱10本、柱列環直径約7m
古沢A遺跡 富山県 柱4本を方形配置、2棟並ぶ
正楽寺遺跡 滋賀県 柱6本、環直径6m
寺地遺跡 新潟県 柱4本方形配置
矢瀬遺跡 群馬県 半截材(直径50センチメートル前後の巨木を半切)の方形木柱列は割面が向き合う6本の立柱 四角形に配列されて立てられた部分(方形木柱列)
西鯉遺跡 福井県 環状木柱列遺構 縄文後期前半。クリの半裁材を使用した径約10m の大型円形建物 西日本と東日本の縄文晩期の境界になる

以上より、柱数は10本が最も多く、ほかに4、6、8本がある。形状は環状がほとんどで柱が4本になると方形配置と解されている。柱の用途は「不明」とするものがほとんどだが、方形、円形にせよ建物の構造材と解する向きも多い。地域的には北陸の豪雪地帯が多い。年代的には縄文時代後半に集中している。
柱の本数が偶数なのは何らかのバランス(例、左右対称)をとろうとしたからではないか。柱の用途も建物が方形ならともかく、円形では中央部に支えとなる柱(大黒柱か)がないようなので、建物の構造材というのは考えられない。当時の積雪量がどのくらいかは解らないが、豪雪の荷重に耐えられない。そこで考えられるのは、二至二分に関心が強かったと思われる縄文人にとってはそれを正確に知る装置が必要だったと思われる。その装置はどのようなものだったかとチカモリ遺跡を例にとりながら私見を説明すると、
同遺跡は10本柱の環状木柱列と「4本の柱」の表示のある木柱列がある。私見では10本柱の方は年間カレンダー(暦)で、4本柱の方はその補正装置と考える。当時の日本は三内丸山遺跡の「6」から真脇遺跡の「10」になるまで相当年数がかかったようで、とても365などという数字には到達していなかったと思われる。また、他の民族では年と日の概念の間に月の満ち欠けによる「月」を導入したが、我が国ではそういうこともなく、年を主体としていたようだ。年には二至二分があり、それは4本柱の方形木柱列ではかり、年を十等分し「単位1」を36日(縄文人の好きな6の二乗かも知れない)とし、4年に一度21日(毎年5日が少ないのと4年に一度の正規の閏日を足す。)の閏月を10本の環状木柱列の玄関と称するところに挿入したのではないか。我がご先祖さまは背伸びしたことが嫌いでできる範囲で暦を作成したものと思われる。水野正好奈良大学名誉教授のように「縄文人にはそんな能力はない」と言われればそれまでだが、私見では日本人の特性は堅実に物事を処理するところにあったと思われ、日本プロパーな暦を作出したのではないか。

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天穂日命について

★はじめに

天穂日命は『記紀』によると天照大神と素戔嗚尊の誓約(宇氣比)により生まれた天照大神の五男神の第二子という。
『古事記』上巻(「天照大神と素戔嗚尊」)
速須佐之男命、乞度天照大御神所纒左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而、奴那登母母由良爾、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纒右御美豆良之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天之菩卑能命。自菩下三字以音。亦乞度所纒御𦆅之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天津日子根命。又乞度所纒左御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、活津日子根命。亦乞度所纒右御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、熊野久須毘命。
即ち、第一子 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。 第二子 天之菩卑能命。 第三子 天津日子根命。 第四子 活津日子根命。 第五子 熊野久須毘命、である。
この神の不名誉なところは、「思金神令思而詔「此葦原中國者、我御子之所知國、言依所賜之國也。故、以爲於此國道速振荒振國神等之多在。是使何神而、將言趣。」爾思金神及八百萬神、議白之「天菩比神、是可遣。」故、遣天菩比神者、乃媚附大國主神、至于三年、不復奏。」(『古事記』上巻「葦原中国の平定」)
とあって、「葦原中国の平定」が腰砕けに終わった兄の天忍穂耳命に代わりトップバッターとして指名されながら、「媚附大國主神、至于三年、不復奏。」とあることだ。多数説は職務放棄の不届き千万と解しているが、なかには彼我の能力の差からやむを得ない行動と擁護する向きもある。天忍穂耳命と言い天穂日命と言い、天照大神の五男神は思いのほかできが悪かったようだ。但し、『出雲國造神賀詞』(延喜式 神祇八 祝詞)では、異なった趣旨を説いている。曰く、
「出雲臣等我遠神 天穗比命乎國體見爾遣時爾 天能八重雲乎押別氐 天翔國翔氐 天下乎見廻氐 返事申給久 豊葦原乃水穂國波 晝波如五月蝿水沸支 夜波如火瓫光神在利 石根木立青水沫毛事問天 荒國在利 然毛鎭平天 皇御孫命爾 安國止平久所知坐之米牟止申氐 己命兒天夷鳥命爾 布都怒志命乎副天 天降遣天 荒布留神等乎撥平氣 國作之大神乎毛媚鎭天 大八嶋國現事顯事令事避支」
要するに、天穂日命は大所高所より豊葦原水穂國を見て、我が子天夷鳥命に布都怒志命を副えて天降り遣わして荒ぶる神をはらい平らげ、国作りの大神をも媚い鎭めて、大八嶋國の現事(あきつごと)・顕事(うつしごと。いずれも現実のこと)を事よさしめき(大八嶋國の統治を皇御孫命に奉ったと言うことか)、と言うのであろう。大八嶋國を建国したのは天津神ばかりでなく国津神も参画したというのであろうか。
我が国国家形成の始原の話であろうが、どうもはっきりしない。そもそも天穂日命が国家建設や出雲国に貢献のある人なら出雲大社とは同等とは言わなくともそれなりの天穂日命を祀る神社があっても良さそうなものだが、実際には能義神社(のきじんじゃ)しかないようだ。しかも、能義神社は祭神が天穂日命・大己貴命・事代主命と言い、本来の祭神は『出雲国風土記』意宇郡野城駅条に登場する野城大神と考えられている。野城大神と天穂日命は同一神という見解もあるが、こじつけか。『延喜式神名帳』には出雲国能義郡の「天穂日命神社」とある。また、『延喜式神名帳』出雲国意宇郡の「野城神社」ともある。「野城神社」と言うからには能義郡にあり、出雲国造家の祖神というなら「天穂日命神社」は意宇郡にあってしかるべきではないか。

★天穂日命はどこの人か

天穂日命は出雲国には縁の薄かった神ないし人物と思われる。おそらく現在の出雲国造家が出雲国に登場するまではまったく以て出雲とは関係のない神ではなかったか。出雲国の王と言おうか国造と言おうかその種の人はお家断絶を繰り返していたようだ。例として、『出雲國造神賀詞』では、大穴持命の御子は阿遅須伎高孫根命、事代主命、賀夜奈流美命は皇孫命の近き守神と貢り置きて(大和国在住)、天穂日命は『「汝、天穗比の命は、天皇命の手長大御世を、堅石に常石にいわい奉り、いかしの御世にさきわえ奉れ」と仰せ賜しつぎてのままに、』(出雲国在住)と言うが、はなはだ疑問だ。おそらく一族根こそぎ大和国へ連れて行かれたのではないか。次いで、『日本書紀』崇神天皇六十年秋七月の段に、出雲臣の遠祖出雲振根と弟・飯入根の出雲の神宝を勝手に大倭へ渡したと言う諍いから振根の系統が滅亡、さらに、『古事記』には第十二代景行天皇の条には、小碓命(をうすのみこと、倭建命)が出雲建を殺した話が見える。出雲氏と言っても同一の血統ではないと思われる。
そこで、天穂日命の出身地とか氏素性だが、天穂日命一族が勢力を持ったのは親子のまとまりから見て現在の鳥取県鳥取市一円ではなかったかと思われる。同市には、

天穂日命神社 因幡国高草郡 鳥取県鳥取市福井 祭神 天穂日命
天日名鳥命神社 因幡国高草郡 鳥取市大畑 祭神 天日名鳥命 素盞嗚命
阿太賀都健御熊命神社 因幡國高草郡 鳥取市御熊 祭神 御熊命 「アタカツタケミ クマノミコト」と読む。
大野見宿禰命神社 因幡国高草郡 鳥取市徳尾 祭神 野見宿禰

とあり、天穂日命一族を祀る神社が集中している。天日名鳥命、御熊命は天穂日命の子という。野見宿禰は天穂日命の子孫という。この地域にはもう一社著名な神社があり、宇倍神社という。社家は伊福部氏で千代川を挟んで因幡国法美郡に祭神武内宿禰が鎮座している。但し、宇倍神社の祭神については諸説がある。天穂日命神社と宇倍神社を比較してみると、「格式から見ると9世紀中頃までは、天穂日命神社が宇部神社よりも上位にあった。すなわち、因幡国内における中心的勢力はこの高草郡に本拠を於く因幡国造氏であった。」とある。即ち、天穂日命の子孫である因幡国造氏と大己貴命の神裔を称し、かつ、第八世を饒速日命(物部氏)とする伊福部氏とは対立していたのかも知れない。ただ、伊福部という氏の名は石工、あるいは、古墳造営業者を意味すると思われるので、野見宿禰も古墳造営業者として著名な人物で大野見宿禰命神社は千代川の川縁にあり、宇倍神社は古墳の上(双履石は古墳の一部という)にあるというので、野見宿禰は堤防工事を得意とし、伊福部氏は石の細工を得意として、野見氏は土木工事、伊福部氏は石材工事を行い、現在で言う公共事業に関わったのではないか。
一応、天穂日命が出雲国の人とは考えづらい。出雲国の人とする根拠は『記紀』以外に何もない。出雲国造家が天穂日命の子孫と名乗っているのはご先祖が因幡国高草郡からやって来たからではないか。出雲氏と称する家系は大和朝廷に痛めつけられ何度も断絶しており現国造家が因幡の有力者として出雲にやって来て出雲国の再建を果たしたのではないか。従って、出雲臣氏には古墳造営を得意とした人物が多かったのではないか。

★まとめ

天穂日命が天照大神の第二子とか、大国主命に媚びへつらったとか、大穴持命(大国主命)の祭主になったとか、などというのはみんなイカサマ神話で実際の天穂日命は因幡国高草郡の豪族で、土木作業や古墳造営の頭領だったと思われる。阿太賀都健御熊命神社一帯は玄武岩の産地で当御熊神社にみられる横型柱状のものは珍しいもので、鳥取市内にみられるほとんどが縦型柱状節理のものである。古墳造営には土、粘土、石材、水などの素材が必要かと思われるが、天穂日命の支配地である因幡国高草郡ではほとんどが調達できたのではないか。天穂日命の子孫である野見宿禰が土師氏の祖先と言われ、千代川を越えた対岸には石材加工の伊福部氏が本拠を構えていたと言うことは、『新撰姓氏録』では大和国・神別で、土師宿祢 贄土師連 尾張連 伊福部宿祢 伊福部連と記載されているところを見ても因縁浅からぬものがあるのではないか。但し、土師氏は天穂日命の子孫であり、伊福部氏、尾張氏は天火明命の子孫である。
古墳造営に関わった主なる地域の首長は丹波国の天火明命、但馬国の天日槍命、因幡国の天穂日命は美称の天と名前のしたの尊称の命(御事<みこと>の意という)を除いた、火明(ほあかり)とか、日槍(ひほこ)とか、穂日(ほひ)が本名であろうが、火明には「太陽光や熱の神格化」あるいは「<ホアカリ>は「穂赤熟」で、稲穂が熟して赤らむ意味(『古事記伝』)の意味が、日槍には「出石族(渡来系一族)が奉斎した「日矛/日槍」を人格化した」あるいは「元々は日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団」はたまた「「天日槍」とは、「ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(日の御子の名)」の日本名になるという説もある。穂日とは「<穂霊>の意味として稲穂の神とする説」あるいは「<火日>の意味として太陽神とする説」がある。いずれも火明には「太陽光や熱の神格化」、日槍には「元々は日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰」、穂日には「<火日>の意味として太陽神とする」と解する説があり、火明、日槍、穂日のそれぞれは日神(太陽神)に関わるものである。我が国には皇室の祖先神の多くは稲魂に関わる神が多いが、実際は古墳造営に関わるなど土木建設の地方豪族が皇室系図に取り入れられているようだ。しかも、天火明命、天日槍命、天穂日命はともに山陰地方の人であり、かつ、その遠い祖先は北アジアの満蒙の地から渡来したのではないか。彼らが招来した太陽神とは海洋太陽神だったか。天照大神とか高木神とか言う日本の農業太陽神とは違うようだ。日本の縄文産業としては海幸彦、山幸彦に代表される水産業と農林業、それに三内丸山遺跡の六本柱建物に代表される土木建設業だったらしい。新羅王子と名乗っている天日槍命は別にして、穂日、火明は石川県鳳珠郡能登町字真脇にある真脇遺跡に源流があるのかも知れない。同遺跡は「10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列(穂日の起源か)」とか、イルカ漁が盛んで「獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた(火明の起源か)」とか、「巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、(高木神の起源か)」などがあり、日本古来の神かも知れない。但し、高木神を祀る神社は九州北部に多いので九州北部は弥生文化の玄関口であるとともに縄文文化の最後の終着駅であったか。
一般に、「神話上ニニギの一族とされている天忍穂耳尊や火照命・火闌降命(ほすそりのみこと)・彦火火出見尊とは名前に稲穂の「ホ」がある点で共通している。」とあるが、やや持って怪しの説ではないか。天忍穂耳尊はともかくほかの神はみんな火照命・火闌降命・彦火火出見尊と火の字を用いており、本当に穂の意味なのかどうかは検討の余地がある。天照大神が人為的に創出された神としても稲魂の神ではなかったはずだ。それがどうして子孫が皆々稲穂の神になったのか意味がわからない。
古墳造営に山陰系の神(人物)が起用されたのは畿内系の人物がほとんど役に立たなかったからではないか。例として、当麻蹶速は垂仁天皇に野見宿禰と置き換えられてしまった。当麻蹶速は縄文人という説もあるが、野見宿禰が縄文人で当麻蹶速は弥生人だったのではないか。米、米、米の弥生人当麻蹶速は長弓をキリリと引き、100mを12秒くらいで走る縄文人野見宿禰には体力的にとてもかなわなかったのではないか。
結論とするところは、天穂日命は現代的に言うと鳥取市に本社を置く、天穂日建設工業株式会社(仮称)の会長さんで、『記紀』に書かれているような高天原から葦原中国に天降って大国主命に媚びへつらった神などと言うことは毛頭なかった。『記紀』の原著作者がただ単に因幡国の有力豪族「穂日」さんを天穂日命と名付けて天皇家の系図に追加したのである。穂日さんにとっては迷惑なことだったのかも知れない。

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天火明命のこと

★はじめに

天火明命は尾張氏の始祖と言うことになっているが、おそらく尾張氏を天孫族として天照大神の系譜につなげるために創出された神(人)ではなかったかと思われる。系譜上は『日本書紀』では天忍穂耳尊と高皇産靈尊の娘「栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)命」の間の子とされ(「一書曰、天忍穗根尊、娶高皇産靈尊女子𣑥幡千千姬萬幡姬命・亦云高皇産靈尊兒火之戸幡姬兒千千姬命、而生兒天火明命、次生天津彥根火瓊瓊杵根尊。其天火明命兒天香山、是尾張連等遠祖也。」『日本書紀』卷第二 第九段 一書第六)、天照大神の孫に当たる。一般には瓊瓊杵(ににぎ)尊は弟という。天孫降臨に際しては瓊瓊杵尊は華々しく活躍するが、天火明命はだんまりしたままである。「火明(ほあかり)」の意味だが、「太陽光や熱の神格化」とか、「<穂赤熟>で、稲穂が熟して赤らむ意味」とか言われている。太陽神あるいは農業神と言うのである。天火明命は尾張氏をはじめその子孫が多いが、物部氏でも時代が違うものの伊香色雄命という子孫の多い人物がいる。もっとも、天火明命と物部氏の祖である饒速日命とは同一の神ともいわれて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(『先代旧事本紀』)と言う名前も創出されている。でたらめもここに極まれりというような神名で『先代旧事本紀』の著者は藤原氏全盛時代でストレスが溜まってこんなことを言っているのではないか。『日本書紀』に「長髄彦が神日本磐余彦の元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は、昔、天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。神日本磐余彦と長髄彦は共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかった。」とあるので、天津神は天照大神系や饒速日命系などいろいろあるようなので、『先代旧事本紀』が天照大神の孫の天火明命と饒速日命を同一神とするのは論理上おかしい。
天火明命は『記紀』では事績らしいことが何もないのでどういうことをしていた人かは解らないが、以下、少しばかり検討をしてみる。

★天火明命と古墳造営一族

『新撰姓氏録』によれば火明命の子孫は完全に古墳造営業者に特化している。歴史的に名のある氏族を列挙してみると、
左京 神別 天孫 尾張宿祢、尾張連、伊福部宿祢、石作連など。
右京 神別 天孫 尾張連、伊与部、六人部、子部(宮中で雑事に奉仕していた子供を統率する伴、伴造は児部。践祚大嘗祭において蓋綱をとることに関与していた。)、丹比宿祢(反正天皇の名代丹比部の伴造)など。
山城国 神別 天孫 尾張連、六人部連、伊福部、石作、水主直、三富部など。
大和国 神別 天孫 尾張連、伊福部宿祢、伊福部連など。
摂津国 神別 天孫 津守宿祢、六人部連、石作連など。
河内国 神別 天孫 丹比連、若犬養宿祢、笛吹、身人部連、尾張連 、五百木部連など。
和泉国 神別 天孫 若犬養宿祢、丹比連、石作連、津守連など。
以上より火明命の子孫は『新撰姓氏録』に出てくるすべてが古墳造営に従事していたとは言えないが、有力氏族は古墳築造に関わっている。また、天火明命の本宗家は尾張氏と思われるが、尾張氏については、
1.尾張国造として熱田神宮を奉齊し、勢い頗る盛であった。但し、大宮司家はその後藤原南家の族である季範を女婿とし藤原氏に変わった。
2.系統のことなる一族が多数存在していた。
3.尾張国諸郡の郡司として多く名を残している。
4.無姓の尾張氏は大和・越前・備前・周防などの諸国に分布。
5.尾張部は河内・美濃・備前に分布。
などとあるが、肝心の尾張氏が古墳造営に携わっていたという古記録等は見当たらない。しかし、「前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たした。」とか「前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされた」というのは濃尾の雄だったと思われる尾張氏を抜きにしては考えられないと思う。即ち、尾張氏も統括責任者として古墳造営に関わったことは間違いないと思う。

★天火明命と手焙形土器

手焙形土器は今までに全国でおよそ720個ほど発掘されており、主なる出土地としては、中国・瀬戸内(岡山県)、近畿、東海が多く、一般的な分布としては中部日本が認められるという。用途は不明と言いながら、「覆いの内面に煤が付いているものが出土しており、何かを燃やして使うことがあり、祭祀に使ったものと考えられます。」という。

一応、起源・発祥地等については、

1.縄文土器説
縄文土器にも類似の土器があり、縄文土器が日本列島を東から西へ移動したのではないか、と言う説。手焙形土器類似の縄文土器には釣手土器あるいは香炉形土器がある。釣手土器の釣手の幅が広がって透かし状になったようなものを香炉形土器という。釣手土器の特徴としては、
a.出現は中部・関東地方を中心とした中期の勝坂式土器からという。
b.釣手土器は懸垂して使用されたものと考えられている。
c.内部に煤が付着した状態で検出された例がある。
d.呪術性や実用性を含めて、灯火具説、香炉具説が有力視されている。
ほかに、「縄文時代中期には、いわゆる手焙形土器(完形品)が見つかっている渚遺跡(岐阜県高山市久々野町渚奥垣内)」とある。 この説によると手焙形土器は我が国プロパーなもので東南アジアなどにある類似製品とは関係がないようだ。
2.近畿(河内国)発祥説
手焙形土器が一番多く発掘されているのは近畿地方で、最大発掘地は発祥地である、と言うもののようである。兵庫県立考古博物館のウェブサイトでは28個の兵庫県内発掘の手焙形土器が掲載されている。近江国等発祥説もあるが支持する向きが少ない。

結論としては、(財)岐阜県文化財保護センターが言う渚遺跡の記述が正しければ縄文土器説が正しいのであろうが、何分にも渚遺跡の手焙形土器は戦前(江馬ミサオ、 1937 「 渚出土縄文土器」『ひだびと』第五年第十号、とある)の話であり、失礼ながらそのまま信用していいものかは疑問である。

用途

手焙形土器の用途も発掘される場所によっていろいろ連想が膨らむようだが、あげたら切りがないので、一応、一般的な用途を列記すると、

1.暖房器具
2.照明器具
3.蚊取り線香ホルダー(害虫を焼く)
4.葬送や農耕儀礼に使用された
5.古墳の墳頂での儀式に使う
6.祭祀用具
7.香炉
8.小形で特殊な細工物などの加工道具
などがある。

私見としては、当該土器は古墳時代直前に出現し、古墳時代前期に消滅しているので、おそらく古墳築造の際の照明器具として使われたのではないか、と考える。無論、古墳は薄葬令(『日本書紀』大化二年(646)三月二十二日条)に「詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。古之葬者因高爲墓、不封不樹、棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而已。故、吾營此丘墟・不食之地、欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅鐵、一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。棺漆際會三過、飯含無以珠玉、無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也、欲人之不得見也。」と宣言し、そのあとにくどくどと述べているのでこの頃までは大型古墳が築造されていたのであろうから、その遙か前に消滅している手焙形土器は古墳とは関係がないのではないかと述べられる向きもあろうかと思われる。そもそも、古墳の照明についてはそれらしきことを『記紀』から抜粋してみると、

【古事記 上卷】
故刺左之御美豆良【三字以音下效此】湯津津間櫛之男柱一箇取闕而 燭一火 入見之時
故、左の御美豆良(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の男柱(おばしら)一箇(ひとつ)を取り闕(か)きて、一火(ひとつび)燭(とも)して入りて見る時に、
【日本書紀 卷第一 第五段 一書第九 原文】
于時闇也 伊奘諾尊 乃擧一片之火而視之 時伊奘冉尊 脹滿太高 上有八色雷公

古代の櫛は、縦長で歯の部分がとくに長く、おそらくヘアピンのように束ねた髷(まげ)を止めるための挿し櫛であったと思われる。『古事記』の文章の方が具体的で<みずら>を止めていた櫛の歯(当時は男柱と言ったようだ。)一本を折って火を灯したと言うのである。(話題の舞台は伊弉冉尊の墓の中)どのように着火したのか、また、当時の櫛は木製であったと思うがその素材は何であったのか。現在のマッチの軸木にはポプラ、シナノキ、サワグルミ、エゾマツ、トドマツなどが使われる、と言う。古墳時代になって松ヤニ等を集めて火を灯すと言う技術があったか、なかったか。

【日本書紀 卷第五 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇 原文】
十年秋七月丙戌朔己酉
乃葬於大市 故時人號其墓 謂箸墓也 是墓者日也人作 夜也神作 故運大坂山石而造 則自山至于墓 人民相踵 以手遞傳而運焉

「是墓者日也人作 夜也神作」とあるのは現代的に言うと、夜間作業を行っていた、あるいは、二交代制で作業をしていたと言うことではないか。いくら神とは言え月の明かりしかない夜に正確な仕事はできなかったと思う。そこで照明が必要になるのであるが、当時の屋外での照明方法としては松明(たいまつ)があったのではないか。後世には「野外用を松明(たいまつ)と称し、屋内用を脂燭(ししょく・しそく)と言う。」とある。もっとも、私見ではここに出てくる「人」は大和国の人であり、「神」は大和国以外の他国の人のことではないか。当時、大和国の人には石を加工する技術がなく、他の国から招いたものであろう。『日本書紀』垂仁七年秋7月にある「奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。」というのも當摩蹶速に石工の技量がなかったので出雲国の野見宿禰に与えたと言うことではないのか。おそらくこの土地には二上山も含まれていたと思われる。出雲国の野見宿禰と言うが因幡国一宮の神主家は伊福部氏(本業は古墳築造あるいは石工だったか。)と言い、あるいは因幡国の白兎の伝説と相まって因幡国の人だったか。但し、出雲国にも四隅突出型墳丘墓と言う独自の弥生墳墓がある。

★まとめ

まず、天火明命とは字義通り「火」を根源とする「熱」や「明かり」の神で、稲穂の神様ばかりが並んでいる天皇家とはまったく関係のない神ではないか。稲の前に火があったのであり、日本神話においては天火明命は古層の神であったと思われる。おそらく拝火教的なものが前にあり、日神教的なものは稲作とともにもたらされたのではないか。わずかに神社名で残っているのは「天照御魂神社」で祭神がほとんど天火明命である。丹波国天田郡には天照玉命(アマテルタマノミコト)神社があり、祭神は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊となっているが一般には天火明命と解されているようだ。おそらく但馬国の天日槍命と同じく天火明命も丹波国天田郡が本拠地の神ではなかったか。あるいは、天日槍命が「元々は日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団であったと想定する見方も存在する。」とあり、天日槍命などと言う神(人)はいなかったということである。天火明命も懸垂式照明器具か定置式照明器具かは解らないが祭祀具の照明器具あるいはその発する明かりを擬人化したものか。拝火教が中国に入ってきた時には日本も有史時代に入っており天日槍命と天火明命は直接には結びつかないようだが、天日槍命説話が遼河流域・華北東部・モンゴル・満州など東北アジアに広くみられる日光感精による懐妊説話なので天火明命も東北アジアからやってきた一団の人々かも知れない。しかし、火を神聖視する思想というのは世界中至る所にあると言うので天火明命も日本プロパーな神(人)かも知れない。
手焙形土器はそれまでの懸垂型照明器具(釣手土器)から石棚などを設け定置型照明器具(手焙形土器)に改良されたものではないか。改良の発端は古墳の石室内部の仕上げ工事を効率化しようとしたのではないか。手焙形土器が岡山県や近畿地方、東海地方で主に出土するのも古墳に関係があると思う。石室内部が広くなると工事にかかる時間も多くなり照明器具が必要になったと考えられる。懸垂型から手焙形にして覆いをつけたのは、中の火が消えないようにしたものか。手焙形土器に関してはその用途をいろいろ挙げる向きもあるが、現代的に言うと産業用に使われていたものを民生用に転換したものであろう。そして、一説を引用するなら手焙形土器が発する明かりがその後神格化されて天火明命と言われるようになったものか。

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