天皇・大伴組はどうして葛城・吉備組に勝ったのか

★はじめに

日本の人皇から始まる有史時代は現在の奈良県から始まったようで、『記紀』には初代神武天皇は九州南部(日向)からやって来た(いわゆる、神武東征)とあるが、現在の歴史学・考古学では史実であるとは考えられていない、と言う。当然と言えば当然で、日向がどれほど先進的地域であったかは解らないが、船に乗って東征したとはいうものの、九州南部で古代遺物として船や櫂はあまり見かけないようだし、隼人は漁師だったと言っても何を釣っていたのか。あるいは、遠く北海道などまでにゴホウラ貝とか、オオツタノハとか、イモガイ等が発掘されるがこれらの貝が当時は沖縄県が主産地だったので当然海運があったとか、西都原遺跡からは船の埴輪が出土していると言うことで、それを復元した「ひむか-神武東征の船-」(絵画、服部  武司)とか、古代の船を再現した全長12mの模造船「おきよ丸」とか言う重さは約1.3トンの船が宮崎神宮に展示してある。しかし、こんな大型の船が当時日本にあったとは考えづらい。兵庫県豊岡市出石町出土の船団の線刻画(袴狭遺跡群)は準構造船の船団を描いているもののようであるが、「おきよ丸」ばりの大型の船は一隻のようである。言うなれば、「神武東征」とは何かを下敷きにした創作譚なのかと思われる。それも諸説あっていろいろ言われているが、「神武東征」の研究をするのがこの論考の意図するところではないので割愛する。
そもそも天皇氏をはじめとする我が国草創期の主要な氏族は現今の奈良県を中心に畿内及びその周辺の出身者がほとんどで当時の国土(倭国)の果てとも言うべき九州南部までにはとても及ばなかったと思われる。『記紀』の原典ができた頃に大和朝廷の勢力が九州南部にまで及び隼人族懐柔の一環として「大和・隼人同祖論」が出てきたのではないか。隼人とは『日本書紀』景行天皇条に出てくる、厚鹿文(あつかや)、市乾鹿文(いちふかや)、市鹿文(いちかや)の鹿文(かや)と隼(はや)は同じ語で地名の現・鹿児島県鹿屋市の「鹿屋」に基づくものである。当時は「K」と「H」は交替しやすかったのであろう。従って、熊襲も隼人も同じ種族と思われるが、熊襲に関しては「球磨」+「阿蘇」とか「球磨囎唹」(『筑前国風土記』)を語源とすると言う説がある。どうしてこんな混乱が生じたのかと言えば、大和朝廷軍が熊襲隼人軍を攻撃する際、現在の熊本県側からと宮崎県側の二手に分かれたため、同じ人物を攻撃しているのに別々の人物を攻撃したように報告したり、鹿児島弁にも多少の違いがありその聞き取りの差とか、生活習慣の違いとかが出てカヤとかハヤになったのではないか。よってこれをまとめるなら、地域名は「熊襲」(語源は「球磨囎唹」か。九州南部のこと。)、種族名は隼人(ハヤト)ないし鹿文(人)(カヤないしカヤト)と言うべきか。もっとも、熊襲には頭領が二人おり渠師者(イサオ)と呼んだと言うが、これも実態は一人の人物か、あるいは、まとまりの悪い隼人を大隅隼人、薩摩(阿多)隼人に別てそれぞれの長を言ったものか。
いずれにせよ天皇氏が隼人の長だったとか、熊襲に在住していたとかは考えづらく、歴史学や考古学の通説が言うように史実ではないと思われる。

★畿内における合従連衡

国家が特定の王家などに統一されるまでにはあまたの肉弾戦や外交政策が必要だ。「合従連衡」の語彙にしても元々は中国の外交術で、戦国時代に西方の秦が強大になり東方の国々を併呑しようとしたので、燕、趙、韓、魏、斉、楚の六カ国は大同団結して同盟し秦に対抗しようとした(合従策。蘇秦の説)。この合従策に対して、秦は各国の利害対立を奇貨として、同盟を瓦解させ、秦と個々に同盟して、自国への秦の攻撃を避けようとした(連衡策。張儀の説)。大和朝廷の草創期も同じようなことが行われたのではないか。日本ではこの合従連衡政策より「遠交近攻」政策の方が重要ではなかったかと思われる。
大和盆地では天皇氏をはじめ有力氏族が争っていたようであるが、だんだんと集約され神武天皇の頃には天皇氏と葛城氏が有力となり大和盆地の覇権を巡って争っていたかと思われる。一般には、神武天皇即位から欠史八代の第九代開化天皇までの期間を葛城王朝と言い、第十代崇神天皇から第十四代仲哀天皇までを三輪王朝と言い、その後を河内王朝と言うようだが、葛城王朝というのがあったとしたら葛城王朝とは葛城氏が王であった頃の王朝を言い、その後は神武天皇に始まる現・天皇氏となるのではないか。勝手な推測で申し訳ないが、ここでは葛城氏による葛城王朝と現・天皇氏による大和王朝と言うべきものとに分けることにする。
まず、葛城氏が支配したのは現在の金剛山地の裾野であり、天皇氏が支配したのは笠置山地の裾野ではなかったか。奈良県立橿原考古学研究所は「2011年11月8日、同県御所市條の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)としては国内最大の水田跡(約2万平方メートル)を発見した」と発表した、と言うのも、葛城王朝の所産ではないかと思われる。これほど大きな水田を作るというのも葛城氏が天皇氏より先行しており、少なくとも大和盆地を平定していたのではないか。とは言え、このような水田耕地をすぐさま右から左へ整備することは難しい。「何事にも先達はあらまほしきことなり」で、その先達は誰かと言えば、吉備国ではなかったか。
天皇氏と葛城氏は現代的に言うと隣家(国)同士で大和盆地の覇権を巡り小競り合いなどを繰り返していた。合従連衡の時代は終わり仲間を募るには遠交近攻策が必要だったと思われる。具体的には、遠交の対象としては、天皇氏は山城国の賀茂(八咫烏)氏、摂津国・河内国の大伴氏、内氏、葛城氏は紀国の紀臣氏、摂津国・河内国の大伴氏ではなかったかと思われる。しかし、これら大和国周辺の諸豪族は葛城氏には与しなかったようで葛城氏はそのまた外郭にある吉備氏と同盟を結んだのではないか。吉備氏はここで大いに喜んだのか当時にあっては最先端の技術である水田耕作の方法を伝授したのではないか。しかし、最先端の技術だからと言って葛城氏に役に立ったかは不明。例えば、天皇氏は葛城氏に後れを取るまいと大伴氏をせっつき四国北岸から淡路島を経由し河内国丹比郡依網郷・摂津国住吉郡大羅郷(現在の大阪市住吉区・大阪府松原市の一部か)で水田稲作を行った(崇神六十二年条に「六十二年秋七月乙卯朔丙辰 詔曰 農天下之大本也 民所恃以生也 今河内狹山埴田水少 是以 其國百姓怠於農事 其多開池溝 以寛民業 ○冬十月 造依網池 ○十一月 作苅坂池 反折池 」とある。天皇氏の草創期の水田は摂津国や河内国にあったのか。)が、崇神天皇のご先祖さまの神武天皇は衆人環視のもと米を試食してみたもののあまりおいしくなかったので関心を示さなかったのではないか。

★葛城氏の遠交近攻

葛城氏の遠交近攻政策はどのようなものだったのか。一応、遠交近攻策とは一般論では魏の范雎(はんしょ)が、隣国を越えて遠方の国を攻める秦の対外政策には効果がなく、逆に遠方の国とよしみを結び、隣国を攻めるべきことを説いた政策で秦はこの遠交近攻策で成果を上げ中国を統一したという。葛城氏が天皇氏を攻略しようと遠交の相手国として選んだのが吉備国だったが、吉備国は大和国より遙かに遠く、両国の間には去就のはっきりしない大伴氏がいた。葛城氏が天皇氏と戦って勝てる保証は何もなかった。そうこうするうちに天皇氏は周りの大伴氏、内氏や賀茂氏、紀氏とよしみを結び葛城氏に攻撃をし始めたのではないか。吉備氏は押し気味に大伴氏との戦いを進めたが、かと言って、勝利するわけではなく、結局、葛城氏にとってはほとんど役に立たなかったと思われる。葛城氏は王朝を開くことなく天皇氏の下風に立つことになったのではないか。従って、葛城王朝というのはなかった可能性が強いのではないか。
大和国には出雲国とともに吉備国の遺物が多いようだが、出雲国の痕跡は天皇氏の関連の遺跡としても、吉備国の痕跡は葛城氏の影響があったのではないか。もちろん、吉備氏は、後世、天皇氏(大和朝廷)の傘下に入ったと思われるが、それ以前の大和国における吉備遺跡も多いものと思われる。

★まとめ

崇神天皇以前の天皇家の系図は欠史八代に、綏靖天皇には食人の趣味がある、安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看/玉手見)」という名の古い神であった、懿徳天皇の原像は「すきつみ(耜友/鉏友)」という名の鋤の神であった、孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神であった、孝安天皇の原像は「くにおしひと(国押人)」という名の古い国造りの神であった、孝霊天皇の原像は「ふとに(太瓊/賦斗邇)」という名の古い神であった、孝元天皇の原像は「くにくる(国牽/国玖琉)」という名の国引きの神であった、開化天皇の原像は「おおひひ(大日日/大毘毘)」という名の古い神であった等、と説く見解があって、ケチのつけられっぱなしである。現代流に言えばイカサマ系図と言うことになるのであろうか。要するに、実名が解らなかったばかりに名前をつけるに際してのネーミングが良くなかったと言うことかと思われる。しかし、第九代開化天皇の皇后は伊香色謎命と言い、妃に丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘、同じく妃に鷲比売(わしひめ) – 葛城垂見宿禰の娘あるいは吉備津彦命の娘の包媛(色媛?)とあり、 第八代孝元天皇の皇后は欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命) – 穂積臣遠祖の欝色雄命(内色許男命)の妹であり、第七代孝霊天皇以前の皇后が縣主系の娘であったのに対し、ステータスの上がるごとに有力者とよしみを通じ、その子女を皇后や妃にしていることがうかがわれる。これで見ると、葛城氏と吉備氏が中央政界にデビューしたのは第八代孝元天皇か第九代開化天皇の頃かと思われるが、両氏が神武天皇以来同盟関係を継続していたようだ。それに対し、大伴氏は神武天皇以来その先祖が天皇氏と同盟関係を保っていたことは間違いないがその間の天皇の皇后や妃に大伴氏の子女はまったく出てこない。神武草創期に活躍した大伴氏、久米氏には宅地を、賀茂氏には恩賞(山城国葛野郡の縣主か。)を与えたようだが、いずれも後世にいたっても天皇氏の姻族とはなっていない。久米氏、賀茂氏はその後中小豪族の域を出なかったようで大伴氏も大連になったとは言え同じような扱いだったか。しかし、大伴氏は大阪湾岸のコングロマリットのオーナーとしてその後景行期や仁徳朝、継体朝などに多大な貢献をしており、やはり大阪商人気質の大伴氏と権力主義的な天皇氏とは馬が合わず、大伴氏が天皇氏を敬遠したか。
天皇氏と大伴氏のそもそもの接点は海部系の大伴氏は山の資源を、山部系の天皇氏は海へ出るルートを探していたが、神武天皇と大久米命は道に迷い途方に暮れていたところたまたま日臣(道臣)一行に出会い道臣命が天皇一行を家まで送りとどけた、と言うことではないのか。当然のことながら、天皇の大久米命に対する信頼は低下し、臣下ではなかったものの序列一位は道臣命、二位は大久米命になったのではないか。道臣の名前の由来もここいらにあるのでは。大伴氏と葛城氏は多少の面識はあったかもしれないが、天皇家も皇后としては仁徳天皇皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと、石之日売命。葛城襲津彦の娘)が主なるものでその後仁徳天皇の後継天皇は葛城氏の子女を母や皇后にする人が多かったが、仁徳系天皇が途絶えると葛城氏も衰退した。仁徳天皇が磐之媛命を皇后としたのは対高句麗政策のためで、皇后の父葛城襲津彦が朝鮮外交巧者であったので一旦緩急あれば半島出兵をお願いしようと思ったのであろう。
このように見ると、大伴氏も葛城氏も天皇氏草創期よりその名が知られるが(但し、『記紀』では葛城氏は武内宿禰の子葛城襲津彦を祖とする皇別氏族と言うが疑問。葛城氏は神武天皇と同じ頃に葛城地方にいた豪族と思われる。)、やはり双方とも活躍したのは仁徳朝の頃で、葛城氏が天皇との血縁関係で優位に立っていたが、允恭天皇になると「葛城は酒を飲むことしか能のないやつ」とばかりに、大伴氏を再登用したのではないか。
神武天皇は大伴氏や賀茂氏、大和国の縣主などを自陣営に引き入れグループを結成することに成功したのに対し、葛城氏は吉備氏としか手を結ぶことができなかったのであろう。地域的に見ると神武・大伴組が四国北岸から淡路島、大阪湾岸、具体的に言うと後世の山城国、摂津国、河内国(和泉国を含む)等を支配地にしたのに対し、葛城・吉備組は大和国の一部と吉備国だけだったのではないか。葛城氏が吉備国に行くとしても大伴氏の領有地を通らなければならず大変不便だったと思う。吉備氏は強行突破し吉備国から淀川河口までの回廊を造ろうとしたが失敗したようだ。葛城・吉備組は初めっから勝ち目はなかったようだ。

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カテゴリー: 歴史 | 3件のコメント

縄文祭祀

★はじめに

日本には縄文時代にも祭祀はあったようで、祭祀遺跡もあるにはあるが一般には日本で言う祭祀遺跡は「古墳時代を中心とする時期に、山岳・島・沼沢などの自然を対象に神霊をまつったことが、付近の出土品によって認められる遺跡。」と言うことで「縄文時代以前はその後の文化との継続性に問題が多いため除外する。」とするのが通説である。通説は縄文時代一万年以上はおろか、弥生時代700年(諸説あるが主なるものは600年、700年、800年説のようである)をもないがしろにするごときである。日本には縄文時代や弥生時代の研究者もおりあまり問題にするようなことではないと思うが、縄文文化がその後の文化との継続性に問題が多い、と言うのも、かって、先土器時代・縄文時代の文化を築いた先住民を、大陸から渡来した今の日本人の祖先が駆逐したとする説があったが、現在は分子人類学の進展により完全駆逐説(民族総入れ替え説)は否定されているとあるので、縄文文化の影響は徐々に薄まったとは言え現在に及んでいるのであろう。縄文文化と後続の文化との関係を調べるのが面倒だと言うのなら問題外の発想とは思う。
通説は、また、弥生時代も何か得体の知れない時代とみているようだ。弥生文化と言っても、食料生産に基づく生活を基盤とし、稲作・米食、青銅器・鉄器の製作・使用、紡織などが始まり、専門技術者や政治的指導者が生まれたと言うもののようである。政治的指導者が生じたと言うことは、支配・被支配の関係が生じ、地域社会にクニが発生したと言うことである。とは言え、日本の弥生時代(鉄器時代)は何か変則的らしい。
鉄器時代に入ったと言っても、「大陸新来の要素のなかに伐採斧(太形蛤刃石斧<ふとがたはまぐりばせきふ>)や加工斧(柱状片刃<ちゅうじょうかたば>石斧、扁平(<へんぺい>片刃石斧)、穂摘<ほつ>み貝(石庖丁<いしぼうちょう>)など新式の磨製石斧が含まれている」と言い、「弥生時代の前半は、石器をなお多用する不完全な鉄器時代と考えてよい。後半ないし終わりころには、石器が消滅している事実によって完全な鉄器時代に入っていると理解できる。」と説くが、この場合の弥生日本とは中部・近畿・中国・四国・九州 の西日本であって、残り半分の東日本はどうなっていたかと言うことだ。それに、日本には鉄鉱山はなく、あったとしても一大産業を形成するには難しく、砂鉄にしても後世の『出雲国風土記』(733年頃)には、飯石郡の条に「波多小川。源は郡家の西南二十四里なる志許斐山より出で、北に流れて須佐川に入る。鐵あり。」、「飯石川。源は郡家の正東十二里なる佐久禮山より出で、北に流れて三刀屋川に入る。鐵あり。」とあり、仁多郡の条には、横田郷、三処郷、布施郷、および三澤郷の四つの郷を指して、「以上の諸々の郷より出す所の鐵、堅くして、尤も雑具を造るに堪ふ」とある。奈良時代には民生品を造っていたらしい。神原神社古墳(島根県雲南市加茂町、3世紀後半の築造か)の副葬品には、大刀(たち)、剣、鉄鏃(てつぞく)、鍬(くわ)、鎌(かま)、斧(おの)、なた状鉄器(やりがんな説あり)、鑿(のみ)、錐(きり)、縫い針等の鉄器があり、(砂)鉄の当初の目的は軍需品の生産にあったか。「舟木遺跡」(兵庫県淡路市舟木、弥生時代後期~末期<1世紀~3世紀初頭>)や「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(同市黒谷、弥生時代後期<1世紀半ばから3世紀初め>)、「稲部(いなべ)遺跡」(滋賀県彦根市稲部町、《鉄器生産の最盛期》弥生時代終末から古墳時代初め<3世紀中葉>)などの近畿地方鉄器工房遺跡群は現在で言う軍需工場の色彩が強い。争いがなくなり鉄も武器から民生品(『出雲国風土記』では雑具と言っている)に用途を転換されたようだが、国民の多くがその恩恵に与ったものかどうか。なお、日本の製鉄の歴史では出雲国のほか吉備国が著名ではある。製鉄原料として鉄鉱石と砂鉄を使用していたと言うが、具体的に何を造っていたかは不明である。一般的には武器や農具などが挙げられているが、確証はほとんどない。
日本の弥生農業も問題で、世界の各地(中国、朝鮮半島北部、インド、西アジア、ヨーロッパなど)では、本格的な農耕開始にあたって、穀物の栽培と、食用(肉用あるいは乳用)家畜の飼育とが相並んで行われた。しかし、日本では、稲作を主とする農耕が、食用家畜を抜きにして始まり、食用家畜をもつ社会に共通する風習は日本に根づかなかった。例として、1.渡来人たちは、家畜をいけにえにして「漢神」を祀(まつ)っている。2.食用家畜を飼う社会で広く行われる血(家畜か人間の)を用いての誓いも到来しなかった。3.頻繁には肉を食べない習慣が根づいた。4.内臓や血を口にしない、という世界的には珍しい食習慣も形成された。
1.の生け贄は家畜ばかりでなく人間も生け贄にしていたようで、東北大学大学院特任教授の安田喜憲博士は『古代日本のルーツと長江文明の謎』(青春出版社、2003年)で、中国の遺跡で人間の遺骨が無造作に捨てられているのを見て驚いている様子だった。
2.血(家畜か人間の)を用いての誓い、と言うのも、他人の血を吸うというのであろうが、危険な病気にかかる可能性がある。
3.頻繁には肉を食べない習慣、とは、余計な成人病にはかからないと言うことで長寿にもつながる。
4.内臓や血を口にしない、という食習慣は栄養学的にはマイナス(イヌイットは生肉を食べることでビタミン補給をしてきた)かも知れないが日本人はその分新鮮な魚を生で食べているし、モツ料理も食べている。
以上、いずれも日本人の生理には合わない習慣ではなかったか。

★縄文時代の祭祀

縄文時代の祭祀と言っても竪穴式住居から発見される、土偶、石棒、手形・足形付土版などは一般家庭の今で言う仏壇や神棚で祭祀を行う神具であろう。ここでは私的祭祀は割愛して大衆に受け入れられた縄文時代の祭祀遺跡を筆者の独断と偏見で代表的なものを取り上げてみる。

1.大山(神奈川県伊勢原市大山。大山をご神体としたと思われる大山阿夫利神社が現存する)

*大山は古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂からは祭祀に使われたとされる縄文土器が発掘されている。発掘物としては、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や、古墳時代の土師器片・須恵器片、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されているが、縄文土器等については、後世になってから修験者が持ち込んだ可能性を指摘する説もある。
*大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞い信仰の中心地としても知られていた。
*大山は航行する船の目印となった。
*大山は『万葉集』東歌で、「相模峰の雄峰」と称されているようである。
以上が大山に関する古い記事である。
また、大山阿夫利神社については、
*『延喜式神名帳』に相模国大住郡四座並小と記載された相模国の延喜式内社の一社。「阿夫利神社」と記載されている。
*祭神は、現在は本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。江戸時代以前は本社に石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)、摂社奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。
*創建は、社伝によると崇神天皇の御代。
*天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。
*阿夫利(あふり)の意味は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、「あめふり(雨降り)」の義という。ほかに、アイヌ語説として「アヌプリ」(偉大なる山の意味)から「あふり」「あぶり」とされたとする説、原始宗教における神の所為である「あらぶる」が転じたとする説など。

以上、古いところを抜粋してみたが、大山のところで「縄文土器等については、後世になってから修験者が持ち込んだ可能性を指摘する説」もあるようだが、修験者が考古学に詳しくて縄文土器、土師器、須恵器などの区別ができて持ち込んでいるのならともかく、おそらく各々の土器は別々のところにあっただろうし、地中から掘り出さなければならないだろうし、あれやこれや考えると左様な説は考えすぎなのではないか。ストレートに縄文土器なら縄文人が、土師器・須恵器なら古墳時代人が祭祀のために持ち込んだのではないか。従って、大山信仰は山岳信仰、航海神、磐座信仰、雨乞い信仰など諸説あるが、三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた(大山信仰)とするのが現今の通説のようである。山岳信仰の対象の山は世界的には信仰は山自体に捧げられ、その山に登るのは禁忌とされる場合が多い。しかし、日本では山頂に達することが重要視され、民衆の間でも信仰の顕れとして登山を行う習慣がある。山自体の信仰はもとより早朝に山頂より拝まれるご来光に<あの世>の極楽を念願しているらしい。以上より、日本人は縄文時代より神体山(神奈備、霊峰)に登る風習があったのではないか。

2.諏訪湖 (長野県岡谷市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町。諏訪大社が現存。)

*中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線の断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層陥没湖)。
*『古事記』に州羽海とある。
*諏訪湖を取り囲むように諏訪湖南西側を諏訪湖南岸断層群、諏訪湖北東側には諏訪断層群がある。南西岸および北東岸に断層が通るため山地が迫り,北岸および南岸に平たん地が広がる。
*遺跡としては、旧石器時代(諏訪市上ノ平遺跡、諏訪市茶臼山遺跡等)、縄文時代(諏訪市細久保遺跡、岡谷市樋沢遺跡、原村阿久遺跡等の山間地遺跡)。
*地域の開拓を巡って渡来・海部系の建御名方神(出雲系)と土着・山部系の洩矢神(もりやしん)の対立があったらしい。
*全面氷結(近年は発生頻度が減少している。)、御神渡り(おみわたり)、七ツ釜(湖底源泉の湖上は氷結せず、湖上に7ヵ所の穴が開いて見えた。)、漁業も諸般の事情により振るわなくなった。
*現在は天竜川の水源地(湖)となっている。
以上が諏訪湖に関する特筆すべき事かと思われる。
諏訪大社に関しては、
*『延喜式神名帳』に信濃国諏訪郡二座並大「南方刀美神社二座<ミナカタトミ>(名神大)」とある。
*祭神は、建御名方神 (たけみなかたのかみ)、八坂刀売神 (やさかとめのかみ・建御名方神の妃。)。異説として、ミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神など。
私見では、御名方は諏訪湖を指し、八坂刀売は周辺の八坂(傾斜地)や刀売(崩壊地形)を表し、建御名方、八坂刀売はともに諏訪盆地の開拓者だったのではないか。なお、南方刀美とか建御名方富命神とあるのは夫婦神を一体化して読んだものか(現代なら河野太郎花子夫妻というような表現)あるいは元々一神だったものを二神に分けたものか。いずれにせよ一方が北岸(諏訪大社下社)の開拓者であり他方が南岸(諏訪大社上社)の開拓者で婚姻等により一本にまとまったと言うことかと思われる。なお、ミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などは旧石器時代から縄文時代のプリミティブな神様で諏訪の人には一万年以上にわたって信仰されてきたので諏訪大社の祭礼や神事には建御名方神(弥生神か)は出てこないそうだ。土着神の最高神とも言うべきミシャグチ神だが、漢字で「御赤蛇」とか「御蛇口」と書いて金精信仰の神と主張する向きもあるが、やはり漢字では「御石神」と書いて石の神様を意味するのではないか。当該地は少し遠くになるが霧ヶ峰や八ヶ岳の黒曜石産地があり、石神とのつながりは深いのではないか。また、守屋山は諏訪大社の神体山である、と言うが、語源がソハ(嶮岨な地形)ならそれでもいいが、ス(砂)ハ(端)で、砂地の湖岸と言うほどの意味ならいかがなものか。守屋もモリ(盛)、ヤマ(山)の下略で単なる山を言ったものか、守谷でモリ(盛)、イハ(岩)の転で高い岩山を言ったものか、モレヤ神ともあるのでモレ(漏)、ヤ(谷)で湿地を言ったものか、はなはだ判断が難しいが、神名を建御名方神としながらご神体山を定め「大社には本殿がない」というのもいささかちぐはぐな話だ。以上を総括すれば、諏訪大社の祭神は諏訪湖そのものであり、水神を祀ったものではないのか。
*創建年代は不明。
*御柱祭(社殿の四隅に御柱<おんばしら>と呼ぶ木柱を立てる。)、御頭祭(本宮より前宮へ神輿渡御のあと,古くは鹿の頭75個を供えて流鏑馬<やぶさめ>を行った。)等独自の神事がある。

以上より諏訪大社は縄文信仰が根強く残り、大和朝廷が弥生信仰への改宗を推し進めようとしたが失敗したようだ。弥生化を拒否した地域は現在でも頭脳明晰な人が多いように思われる。但し、長野県が教育県というのは過去のことで今は批判が多いらしい。

3.三輪山 (奈良県桜井市。大神神社が現存する。)

*鳥居が二本の柱とその柱をつなぐ注連縄でできているのは東日本の縄文時代の立柱遺跡と同趣旨か。
*三輪山の祭祀遺跡は、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)と言うが、これは後世宗像祭祀遺跡のそれぞれからとられたと言う。山の神社なのに「津」というのはおかしいと言うことか。
*奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡があり、と言い、縄文時代の関東・東北で多く見受けられる配石遺構(環状列石)と同趣旨か。
*山は松、杉、檜などの大樹に覆われている。
*山麓に初期の大型前方後円墳が多いので、人間が三輪山に関わるようになったのは古墳時代以降か。
三輪山はさほど縄文時代の痕跡をとどめていないようである。
大神神社(奈良県桜井市三輪)に関しては、
*『延喜式神名帳』には、「大和国城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」とある。
* 大神神社は古墳時代以前、纒向一帯に勢力を持った先住族が崇敬し、諸説あるが、代々その族長により磐座祭祀が営まれた、と言う。
*三諸山そのものを御神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。
*主祭神は大物主大神で、大物主神は蛇神であると考えられている。
*大物主神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば大国主の国作りに協力すると言った。その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。
環状列石が出てきたり、蛇神が出てきたりと東日本の縄文文化に似たところがあり、縄文文化は全国的に拡散していたものと想像される。

4.大阪湾(大阪府、兵庫県。大阪湾岸にはたくさんの有力神社があるが、ここでは住吉大社を取り上げたい。)

*大阪湾の定義は、田倉崎(和歌山市)と生石鼻(淡路島)を結ぶ線(紀淡海峡)、松帆崎(淡路島)と朝霧川河口左岸(明石市)を結ぶ線(明石海峡)及び陸地によって囲まれた海域、と言う。陥没湾。
*古称の「茅渟の海」は、五瀬命(神武天皇の兄)が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来と言う。
*黒鯛がよく獲れたことから、チヌ(茅渟)は黒鯛の別名のひとつになっている。
*瀬戸内海航路の起点として、淀川の河口には難波津や住吉津などが置かれ、シルクロードの日本の玄関口であった。
*難波(なにわ)の語源は魚介類が豊富な「魚の庭(なのにわ)」説がある。
*森の宮遺跡(大阪市中央区森ノ宮中央一丁目)では一時期遠く関東・東北地方や九州西北部と交流したことが判明したと言い、また、日本各地から移動する縄文人の集散の地にもなっていたと推定される、と言う。
*篠原遺跡(神戸市灘区篠原本町)では縄文時代晩期の遮光器土偶(部分)や東北系縄文土器片、石棒が出土。
大阪湾沿岸には縄文時代にはさほど人間が住んでいなかったと言われるが、遺跡・遺物もそれなりにあり東日本との交流が偲ばれる。
住吉大社(大阪市住吉区住吉町)については、
*『延喜式神名帳』では、「摂津国住吉郡 住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」とある。
*浦島太郎の物語は全国的に広がっているが、摂津国では『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)がある。一応、『丹後国風土記』(逸文)にある「筒川嶼子」、「水江浦嶼子」]は、浦島太郎の物語の原型と解されている、と言う。しかし、日本の昔物語に鶴だの、亀だの、鰐だのと動物が出てくるおとぎ話は元々は中国人が話していたものを日本人向けに語り直し(書き直し)たものと言う説がある。その点、摂津の浦島太郎は亀姫などとは言わず「海若 神之女」(海神の女)と言っており、『丹後国風土記』(逸文)とは別の、あるいはもっと古層の物語ではないかと言われている。高橋虫麻呂は物部氏系の藤原宇合の副官と言うが夫人が大伴氏でその別荘で浦島伝説の話を聞いたものか。『万葉集』に載っていると言うのも何やら大伴家持との関連を想起させる。従って、丹後の浦島太郎の話は弥生時代のものならば、摂津の浦島太郎の話は縄文時代のものなのだろう。
*住吉三神(大神)が底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと)と言うのも日本では珍しい神である。そもそも日本ではワタツミ神は意外と多く、まず、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。神産みの段で伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)二神の間に生まれた。次いで、山幸彦と海幸彦の段では、火照命又は火須勢理命(海幸彦)の釣針をなくして困っていた火遠理命(山幸彦)が、塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)の元を訪れ、綿津見大神の娘である豊玉姫と結婚と言うもの。最後に、綿津見三神(底津綿津見神・中津綿津見神・表(うわ)津綿津見神)及び住吉三神(底筒男命 、中筒男命 、表 (うわ) 筒男命)である。漁師用語で「つつ」とは<アナゴやウナギを捕獲する筒状の罠。アナゴ籠。>を言ったもののようで、大阪湾では今でもウナギやアナゴがとれ、地名でも鰻谷とか靱(うつぼ)とか言うそれらしき地名もある。あるいは、住吉三神の「筒男」は「地引き網」「船引き網(中層引き網)」「底引き網」などの漁法を言ったかとも思うが今ひとつはっきりしない。海を三階層に分けているので潜水漁法を主とした海人族の神か。一説に、「住吉三神の神々の名にある「ツツ」の二番目の「ツ」は、神威、神霊を意味する「チ」が転じたものといわれています。あるいは、津(港)、さらに航海の指標となるツツ(星)と関連があるとの説もあります。」と。また、神主を津守氏とするのもはなはだ疑問で、津守氏には別に大海神社と言う神社があり、神功皇后が田裳見宿禰を神主としたのも何やら唐突で田裳見宿禰の前に住吉三神を祀る神主がいたと思われ、それは摂津の有力者大伴氏だったのではないか。大伴氏が中央政界にコミットすればするほど摂津との縁が薄くなり、津守氏が神主職を代行したか。但し、垂直志向は北方圏に多く水平志向は南方圏に多いそうだ。

★まとめ

「縄文文化がその後の文化との継続性に問題が多い」と言うのも、日本の神社には上記の四社をはじめ縄文時代から続いている神社が多いと思われる。環状列石にしても東北や北海道ばかりでなく大神神社の磐座にもその痕跡があるという。また、蛇神信仰も関東の中央線沿線界隈や奈良県の大神神社が著名でここいらでも縄文文化の東西交流があったのではないか。縄文前期には日本列島内に九つの文化圏があったようだが、時代が下ると「ナラ林文化」(「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」)、「照葉樹林文化」(「北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」)、石狩低地以東の北海道、トカラ列島以南と四つに収束された。これを持ってしても、日本は全国均一的な国家であり現代日本が縄文時代と継続性がないなどと言うことは考えられない。現代の神社においては縄文神は客神とか言われてあまりいい扱いを受けていないようだが、かと言って完全に否定されているわけではないようである。縄文時代の現代のおける痕跡(例、和弓、土器<土鍋など>、漆器、石器<石臼など>など)は途中で途切れてその後朝鮮半島や中国から入ってきたものではなく、日本古来のものが改良、工夫されて今日にいたっているのではないか。神社の祭祀にあっても、神木とか磐座等というのは弥生稲作には何の関係もなくひとえに縄文祭祀の痕跡である。従って、縄文時代と弥生時代は断絶はしていないと言うことで、縄文時代が弥生時代に進み、弥生時代が古墳時代に進み今日にいたっていると考える。

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柱について

★はじめに

「柱」には1.建築や土木構造物の部材として、 地面・礎石・土台の上に垂直に立て、屋根・梁(はり)・床・冠(かんむり)<坑道の天井部>など上部の荷重を支える部材と、2.荷重を支えず類似の形状を持つ縦に長いもの、の二通りのものがあるようだ。一般的に柱と言えば「1.」を指すが、ここで取り上げたいのは「2.」の方にしたい。「1.」は研究者も多くたくさんの書籍も出回っている。柱と言ってもいろいろな単語があり、鼻っ柱、茶柱、粥柱、貝柱、氷柱、柱絵、霜柱、火柱、太陽柱、柱松、水柱、蚊柱、帆柱、標柱、門柱、電柱など挙げたら切りがないが、ここではこの種の日常生活的な「柱」の語も割愛する。
それでは何を論ずるのかと言えば、我が国には縄文時代から意味不明の巨木文化があり、現在ではかすかに長野県の諏訪大社に代表される御柱祭(「式年造営御柱大祭」)にその痕跡をとどめるが、そのほかにも祭場に大きな柱や柱松(柱の上にたいまつを掲げたもの。柱、柱松とも20m以上のものが多い。)を立てて神事を行う神社は全国に散在しているようだ。日本では縄文時代から竪穴式住居や高床式建物があり荷重を支える柱はあったと考えられ、また、三内丸山遺跡の目的不明の六本柱建物や北陸地方を中心とした環状木柱列(真脇遺跡では柱は10本)なども縄文時代の遺跡から発掘され、荷重を支えない柱も縄文時代からあったと思われる。但し、当時は荷重のかかった柱とかからない柱は別の語で呼ばれていたかも知れないが、文献上そのような例がないので双方とも柱と呼び起源が違うとした。

★古代の柱

柱の語は「古事記」上巻には早々と、
1.是に天つ神の諸の命以ちて、伊邪那岐命・伊邪那美命、二た柱の神に、「是の多陀用幣流(ただよえる)國を修理(つくろ)い固め成せ」と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)いて言依(ことよ)さし賜いき。
2.其の嶋に天降(あまくだ)り坐(ま)して天の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てき。
と述べているが、
1.の「二た柱の神」というのは通説あるいは古典によると二神などとは言わず、二柱と言うそうな。語源は柱(ハシラ)は階(キザハシ)などと語源を同じくし、天と地とを結ぶ橋(ハシ)であり、神は柱を目指して降臨するからか。階(キザハシ)は現在で言う階段であり、はしご段あるいは縄ばしごの類いのものか。具体的には、高床式建物(神殿や倉庫が多い)の階段を上り下りする人とか建物の上層階に住んでいて階段あるいは柱で上り下りする人を死後に神と言ったか。特に、神殿を上り下りする人は集落の長とか神官であった可能性は高いと思う。
2.の「天の御柱」は、柱を立てて八尋殿を建てたと言うのであるから、後世の大黒柱のことではないか。『古事記』ではその後伊弉諾尊と伊弉冉尊が結婚することになっている。『日本書紀』では「便(すなわ)ち淤能碁呂島を以ちて國中(くになか)の柱(みはしら)【『柱』、此を美(み)簸(は)旨(し)邏(ら)と云う】と爲して陽神(おかみ)は左より旋(めぐ)り、陰神(めかみ)は右より旋(めぐ)る。」とあり、『古事記』の 「天の御柱」と『日本書紀』の「國中(くになか)の柱(みはしら)」とは前者が建物の柱を言うのに対して後者は国土の中心を言うもののようである。現代的に見ると前者は常識的であり、後者は何か『世界の中心で、愛をさけぶ』的発想で大げさな話と言うことになろうかと思う。
現在、御柱と称する柱のある神社としては、
1.伊勢神宮 伊勢神宮正殿の床下中央に立てる柱。「心御柱(しんのみはしら)」として神聖視されるが、これは梁(はり)にとどかぬ短い柱で、構造部材としての柱ではなく、神籬(ひもろぎ)を象徴するものかと思われる、と言う説もある。
2.出雲大社 出雲大社本殿は田の字の構造になっており、建物は九本の柱で支えられている。浜床(前面)から見て両側の「側柱」が三本ずつ、中の三本の柱の真ん中が「心御柱」(岩根御柱)で、他の二本の柱が「宇豆柱」という。有名な三本の柱が束になっているのは「心御柱」と「宇豆柱」である。出雲大社における「心御柱」も伊勢神宮の心御柱と同じく梁にも届かぬ柱で構造材ではないとする人もいるが、柱を三本束ねた意味がわからない。絵図で判断しているようなので「正」かどうかは不明。出雲大社は過去に何回か自然倒壊しているが、それは荷重のせいではなく宮大工の勘違いによる施工ミスと言うことか。
3.諏訪大社 諏訪大社の御柱祭は「山の中から、選ばれた16本のモミだけが御柱となり、 里に曳き出され、7年毎の寅と申 の年に諏訪大社の社殿の四隅に建てられます。 宝殿の造り替え、そして御柱を選び、山 から曳き、境内に建てる一連の行事を「御柱祭」と呼び、・・・」とある。伊勢神宮、出雲大社の「御柱」が社殿の中にあるのに対し、諏訪大社の御柱は社殿の外にあり趣を異にしている。諏訪大社は上社本宮(ほんみや)、上社前宮、下社春宮、下社秋宮と四宮があり、それと関係するか。あるいは、本来の祭神はミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々で、敗者の将は神殿の外に追いやられてしまったものか。
4.一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ) 群馬県富岡市一ノ宮にある上野国一宮。社殿は単層二階建てで、真御柱が荷重を支えている、と言う。構造的には出雲大社に似ており、側柱が四本ずつ、中の柱は三本で出雲大社の宇豆柱に相当するものは「立通し」と言い、「真御柱」と同じ寸法、材質らしい。こちらの「真御柱」は出雲大社と違い両端がしっかりと大地と棟引と称する棟木に付いている。
そのほかにも「心(真)御柱」と称する柱を有する神社等があるが、割愛する。

★まとめ

柱に荷重のかからない柱は伊勢神宮の「心御柱(しんのみはしら)」と諏訪大社の「御柱(おんばしら)」であるが、伊勢神宮の心御柱は一説によると神籬の痕跡と言い、神籬とは神道において神社や神棚以外の場所において祭祀を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの、と言う。「ひもろぎ」の語源は、「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、「き」は木の意とされ、神霊が天下る木、神の依り代となる木の意味となる、と言う。要するに、伊勢神宮といえども原初は社殿がなく「神籬」を用いて神事を行ったと言うことかと思われる。但し、神籬については「古書は、神をめぐる空間の構造を磐座、神籬(ひもろぎ)、磐境と区別している。《日本書紀》天孫降臨の条では、天孫の座を磐座と呼び、神体・依代(よりしろ)・神座の意に、神籬は柴垣・神垣の意に、磐境は結界・神境の意に用いている。」と異なった趣旨に解釈している見解もある。この見解では、神のいる世界は真ん中に磐座(神体・依代)があり、その周りを神籬(神垣・柴垣)が囲み、さらにその外には磐境(結界・神境)があるとするもののようだ。従って、屋外神事等を行う場合は会場の中心あたりを磐座として神体・依代を置き、その周りを神籬(垣根)で囲い、さらにその外周部を磐境(現今では糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄や幕のことか)を巡らし神事を行うと言うことではないか。
諏訪大社の社殿屋外の四隅に御柱が建てられるというのは諸説あるが、神殿の柱説、トーテムポール説、結界表示説、天地を支える柱説などがあるようで、おそらく一社殿につき四本というのは何らかの自己主張を表したのではないかと思われる。おそらく端的に言うならばこの四本の柱でできた四角形は自己の建物敷地の占有先占を主張したもので、形は丸でも何でも良かったのであろうが、日本では宅地は一般的に四角形がほとんどだ。定期的に立て替えられるのは柱が腐蝕等により機能しなくなるので再建したものであろう。縄文時代にあっても自己が建てた建物や耕した農地などには現今で言う占有や所有の意識があったのではないか。
北陸の巨木文化であるが、主なものに以下の例がある。
小矢部市の桜町遺跡(中期)では「環状木柱列が2基」とある。ほぼ同一の場所に重複して作られており、建替の結果か。10基の柱穴からなる。直径6.2mの円周上に、約2mの間隔で線対称に並ぶ。
金沢市のチカモリ遺跡(中期)では直径85cmの木材が半截され、半截面を外側にして直径6.5mの円形に10本並べるという構造。A環からD環まで発掘されている。
富山県井口村の井口遺跡(後期)では直径1mの柱穴が10個、直径約8mの円形に並ぶという遺構。
石川県能登町の真脇遺跡(後・晩期)ではA環からF環が発見されており、▽まん丸の円であること▽柱が10本あること▽柱を縦割りすること▽クリ木を使うこと、などが共通点という。
金沢市の米泉遺跡(後・晩期)直径約5.5mに、門柱部2本を含めて8本で構成されている。中央部にサケの骨を含んだ穴が検出され、祭りの場と見なされる、とある。
富山市の古沢A遺跡(晩期)では直径が約1mの柱穴が4個一対で方形に配置された遺構が2基みつかつています、と言う。
これと名古屋大学教授山本直人博士が言う、
「北陸で水稲農耕を受容するのに約400~約500年ついやした理由は、そうした指導者層(筆者注・縄文古老のこと)が水田稲作に基盤をおいた生活システムという新しいものを拒絶し、従来とは異なる価値体系の受容を拒否したためであると筆者は考えている。北陸という地域社会の指導者層が従来の価値観を守旧し、狩猟民、採集民、漁撈民としての自分たちの存在を再確認し、その儀礼を強化しようとして建造したのが環状木柱列であると考えている。新たな生産システムや価値体系に対抗し、地域共同体の紐帯を強めるために建造した装置が環状木柱列であると考えている。」とを考え合わせてみると、
1.「水田稲作に基盤をおいた生活システムという新しいものを拒絶」とあるが、これは米が狩猟(鳥獣の肉)、採集(どんぐり、果物)、漁撈(魚介類)より劣っていたと言うことで、味も劣っただろうし、収穫期もバラバラ、思いのほか手間暇がかかる、水がなければならないなどすぐに米食へ切り替えるとは行かなかったのではないか。この地域の人は心身共にはっきり、すっきりの生活を選んだと言うことだ。
2.「指導者層が従来の価値観を守旧し、狩猟民、採集民、漁撈民としての自分たちの存在を再確認し、その儀礼を強化しようとして建造したのが環状木柱列である」とあたかも環状木柱列が非科学的なものと言わんばかりだが、上述のように環状木柱列は縄文時代中期よりあり、稲作の脅威が縄文中期まで遡るかは疑問である。環状木柱列は円周上に柱が10本で線対称に並ぶと言うのが基本のようで、晩期には「柱穴が4個一対で方形に配置された」とあるのでだんだん改良されたのではないか。円周の内部には建物や土壙墓などはなく儀礼の会場とは考えづらい。
3.「新たな生産システムや価値体系に対抗し、地域共同体の紐帯を強めるために建造した装置が環状木柱列である」とある。縄文人が弥生人の生産システムや価値体系に対抗したのは当然としても、地域共同体の紐帯を強めるために環状木柱列を必要としたとは思われない。縄文人が弥生人の生産システムや価値体系に対抗と言うのは経済力の対抗でありそれはとりもなおさず生産性を上げると言うことである。当時にあって産業技術の向上とは豊かな資源と少ない人口のバランスの上に成り立っており、ただただ資源を採りまくるにつきるのではなかったか。そのための技術革新であったかと思うが、狩猟、採集、漁撈はともに自然相手の仕事であり、その収穫期を知ると言うことは重要なことだったと思われる。例えば、鮭漁の時期に村を挙げて狩猟に出かけ、帰ってきたらおいしいところはみんな上流の人たちに採られていたなどというトンチンカンなことをしていたらそんな村なんて遅かれ速かれ消滅してしまう。私見ではこの縄文環状木柱列は縄文人の狩猟期や採集期、漁撈期を事前に知ろうとした努力の表れではなかったか。環状木柱列の利用法についてははっきりしないが、当時は太陽の移動で一年間を10等分していたのか。富山市の古沢A遺跡(晩期)では直径が約1mの柱穴が4個一対で方形に配置された遺構、とあるので、縄文晩期には10等分が4等分でいいとなったのか。おそらく太陽の観測地点が環状木柱列のあったところが一番いいとなって同じところに建て替えられたのだと思う。環状木柱列は現代で言うカレンダーかと思うが、ストーンサークルと併用してあるいはストーンサークルは日時計的に利用されたのではないか。但し、日本ではストーンサークルは一族の墓であるというのが通説である。

 

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洪水について

★はじめに

『記紀』を見ていると、いわゆる「洪水神話」というものが非常に少ないようである。 世界的には洪水神話というものはいたるところにあり、起源と言おうか元祖と言おうかその種のものは二流あり、文字に残された最古のものは「古代シュメールの洪水神話」で、3000年前とか6000年前とか、日本から見ると気の遠くなるような諸説があるようだ。この神話のたどり着く先は『旧約聖書』の「ノアの箱舟」の神話と言うことになる。しかし、日本にはこの種の西アジア系洪水神話は入ってきていない。神話の内容は、1.ノアという人名、2.不敬な人間を罰するための洪水、3.一対ずつの家畜を箱船に入れる、4.鳩を放って減水を調べる、などが主なものである。もう一方は、東南アジアからオセアニアにかけての洪水神話で、宇宙の二大原理あるいはその代表者が相争う過程において洪水が生じたと言うものである。東京大学名誉教授大林太良博士は「日本神話の山幸彦が潮みつ珠で高潮を生じさせて海幸彦を苦しめた話もこの系列に入る。」と言う。この洪水の後、兄妹二人だけが洪水から生きのび、結婚して人類あるいは特定氏族の先祖となったという。この神話も日本には無縁のものと思われるが、大林太良博士は「日本のイザナギ・イザナミの国生み神話に痕跡がある。」と言う。
当然のことながら、洪水神話は大雨の少ないアフリカ大陸には少なく(中央アフリカのマンジャ族に洪水神話があるという。但し、「ノアの箱舟」の類話か。)、キリスト教やイスラム教が入ってきてその影響下の「ノアの箱舟」の類話があるのみと言う。
洪水神話の定義としては、「洪水によって人類や生物のほとんどが滅亡し、現在の世界はその後新しく作られたとする神話。」とする見解があるが、これは洪水による集落の滅亡とその後の別の地域の住人による地域の再建を言ったものであろう。

洪水神話の構成要素としては、
1.来たるべき洪水の予告。例として、魚が洪水を予告し、船を造って王は助かった。
2.洪水を逃れる方法。例として、船や容器(カボチャに入って生き延びる。太鼓に入って水上を漂う、など)に入る。大魚を食べずに、高い椰子の木に登った。
3.一族は助かる。例として、小山に避難した少数の者だけが助かった。
4.儀礼。例として、洪水の収まった記念に毎年祭りを催していた。
ほかに、洪水が去った後の後片付けやこれから来るであろう洪水の対策などを説く神話もあるようだ。

またその原話はほとんどの地域でキリスト教の『旧約聖書』(西アジア系洪水神話)からで出ているものが多いようだ。

類型による分類もあり大別すると、
(1) 懲罰型 驕慢になった人間を懲罰するために神が大洪水を起すという型で、ノアの箱舟の神話がその典型的な例である。エジプト、バビロニア、ギリシアなどの洪水神話。
(2) 予告型 (1) に似ているが、懲罰要素を欠く型。インド、ペルシアの伝説がこれにあたる。インド伝説では、角のある小魚 (ビシュヌ神の化身) の予告に従って舟を造って難を免れたマヌが人間の祖となる。
(3) 偶発型 偶発的な事件が洪水の原因になるもので、洪水を起すのは物の怪 (ボリビア)やカエル (オーストラリア) であったりで、必ずしも神とはかぎらない。ポリネシア,オーストラリア,南アメリカの洪水神話。ソシエテ諸島の伝説では、一人の漁夫が釣針を海神ルアハクの髪にひっかけてしまったので、ルアハクが怒って海水を氾濫させ、人間を滅ぼす。
(4) 治水型 中国の『淮南子』『山海経』などにみられるもので、洪水そのものよりも治水の面に重点をおく。尭・舜の代に大洪水が起こり、初め鯀(こん)が起用され治水に失敗、子の禹が後を継いで刻苦13年で成功し、禅譲を受けて夏王朝を創始したという。

★日本にはどうして洪水神話が少ないのか

洪水神話は当然のことながら洪水による被害が発生しなければこのような話は成り立たないのであって、その原因の多くはサイクロン(インド洋・ベンガル湾・アラビア海)、台風(北西太平洋・マリアナ諸島・カロリン諸島・南シナ海)、ハリケーン(大西洋西部・カリブ海・メキシコ湾)などの熱帯低気圧かと思われる。そのほかに地震による津波なども一因かと思われる。洪水神話が多いのは大河流域と島嶼で、大河流域では大雨を洪水の原因にし,島嶼では海水の氾濫をその原因にしている。前者は熱帯低気圧が主因かと思われ、後者は地震が主因と思われる。
前述したように『記紀』における洪水神話と呼ぶべきものは大林太良博士によれば、

「日本神話の山幸彦が潮みつ珠で高潮を生じさせて海幸彦を苦しめた話もこの系列に入る。」として、「東南アジアからオセアニアにかけての洪水神話で、宇宙の二大原理あるいはその代表者が相争う過程において洪水が生じたと言うもの。」
「日本のイザナギ・イザナミの国生み神話に痕跡がある。」として、「(東南アジアからオセアニアにかけての洪水神話で)洪水の後、兄妹二人だけが洪水から生きのび、結婚して人類あるいは特定氏族の先祖となったという。」

以上より判断するならば、大林博士は日本の洪水神話は東南アジア系で不完全なものと考えておられるようだ。しかし、「イザナギ・イザナミ」神話についてはうろ覚えで恐縮だが、「ノアの箱舟」の洪水の予告と洪水を逃れる方法がカットされた神話(西アジア系洪水神話の後半部分を取り入れたもの)と曰っていた先生がおられたような。この種の話の起源になると日本ではほとんどが外国に起源を求むべく外国の文献を探すようだが、よくよく見てみると日本が起源だったり、日本で開発されたと言う日本プロパーないし日本オリジナルの方が多いような気がする。
イザナギ・イザナミの神話にしても、舞台は、場所(旧河内湖。湖の中央部に小高い淤能碁呂島がある)、時代(弥生晩期から古墳初期)、場所の状況(陸地化寸前の泥沼、あるいは、湿地)、主演(湖畔の若き恋人同士)というところで、シナリオライターは大伴氏一族の人物か。ここで大伴氏一族としたのは大伴氏は摂津、河内(和泉)、淡路、場合によっては四国北岸に勢力があったと思われ、多くの歴史学の先生も「伊弉諾・伊弉諾神話」は天皇家ではなく大伴氏の所伝と考えられているようだ。奈良盆地と河内湖は河川(大和川のことか。一説によると、大和川は古代には大和から河内へ入ると、幾条にも分岐して河内湖に流入したという)によって直結していたと言うが、天皇家が河内や摂津に定住したのは応神天皇以降のことでそれまでの天皇は大和国に在住していた。また、『記紀』に書かれた舞台は淡路島で大伴氏と無関係ではなかったと思われ、大伴氏が三原平野や洲本平野の開発(水抜き、干拓など)にあたり、かっては湖沼地帯(三原は水原のことか)だったと思われる三原平野が舞台となったものか。但し、淡路島については、
応神十三年秋九月「一云・・・時天皇幸淡路嶋 而遊獵之」
応神廿二年春三月「喚淡路御原之海人八十人爲水手 送于吉備」
応神廿二年秋九月「天皇狩于淡路嶋・・・天皇便自淡路轉 以幸吉備 遊于小豆嶋」
以上の応神天皇の行動は吉備国並びに淡路国に対高句麗戦を想定した陣地設営のための視察か。
反正天皇が『書紀・反正前紀』に「天皇初生于淡路宮」とあり、履中天皇が五年秋九月「天皇狩于淡路嶋」とか、允恭天皇が十四年秋九月「天皇獵于淡路嶋」とかあって、天皇家の発祥の地が淡路島と考える向きもあるが、いずれの天皇も仁徳天皇の皇子であり、生母が葛城氏なので別の要素からと思われる。反正天皇の出生地淡路宮と言うのも所在未詳とするのが多数説かとも考えられる。

山幸彦の潮満珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおふるたま)の神話だが、西都市にある鹿野田神社(かのだじんじゃ)の境内にある「潮の井」は「潮の満ち引きに合わせてその水位が上下するといわれています。」とあり、単純に潮の満ち引きを神話化したものではないのか。あるいは、大地震による津波とも考えられるが、そういう大地震による津波はそうそう簡単に発生するものではなく、結局、呪具で人々を錯覚に陥らせるのはせいぜい規則正しくやってくる潮の満ち引きか小さな津波ではないのか。

『記紀』に述べ立てるほどの洪水がなかったとしたら当時の天気はどうなっていたか、と言うことである。
縄文時代は多くの人々が東日本に住んでおり(一説によると縄文中期の東日本の人口は日本の人口の96%、縄文晩期で86%と言う)、東日本の気候がどのようだったかを厳密に調べなければ解らないが、おそらく降水量、気温、台風の発生回数及び日本への上陸回数、雨期、四季のありよう、日照時間などは今とほとんど変わらなかったのではないか。但し、気候に左右されると思われる植生に関しては一つは西日本のカシ・シイ・クスなどの常緑広葉樹林(照葉樹林帯)があり、もう一つは東日本のブナ・ナラ・クリ・クルミなどを主とした落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)とがあるという。しかし、これも縄文前期から現在にいたるまで変わっていないという説がある。それらを総括すると縄文時代は今と同じで北日本では台風や雨期の水害は少ないと思われ、特に、人口密度が高かったと思われる関東地方に関しても自然排水路あるいは流水路とも言うべき河川が発達し、さしたる洪水災害はなかったのではないか。現今の関東地方の水害は人工的なものという説もある。
弥生時代の人口は縄文時代とは逆で西高東低となったようである。西日本の人口増加の一因には中国大陸の内戦があったと思われる。秦の始皇帝の死に始まり、陳勝呉広の乱など反乱の勃発、項梁(後に甥の項羽)率いる反乱軍による秦の滅亡。劉邦と項羽の垓下の戦いにより劉邦が勝利し前漢(紀元前202年ー8年)を建国。新(紀元8年ー23年)、後漢(紀元後25~220)と王朝が変わるたびにゴタゴタが続き迷惑を被ったのは朝鮮半島と日本ではなかったか。西日本の人口増の一因にはやはり大陸・半島の社会変動があると思う。話はそれるが、現在でも朝鮮半島有事の際は日本へ押し寄せる難民は10万人単位という政治家もおられる。話半分とは言わなくとも10分の1ほど、即ち、1万人ほどが五月雨式に日本列島へやって来たか。当時の我が国の縄文人は水田稲作は知らず、渡来人の唱導するままに灌漑溝を掘削して言わば新しい川を建設して水害を防いだのではないか。
以上より縄文時代は縄文人の居住地域により、弥生時代は水田が導入されて水害時の貯水槽(現今の首都圏外郭放水路)になったのではないか。
以下、『日本史大事典』3 <P.95(こ~し)平凡社>に載っている「洪水」を抜粋する。執筆者は新潟大学名誉教授大熊孝博士。
1.豪雨や融雪などによって流水が急激に増大し、河道いっぱいに流れる現象を、河川工学上、洪水という。
2.日本の河川は、地形的に急峻な山地から流れ、比較的短距離で海に注ぐため、台風や前線による豪雨で発生する洪水の継続時間は、多くの河川でせいぜい数時間であり、利根川や信濃川などの大河川でも二日ないし三日程度である。
3.洪水ピーク流量の平均流量に対する比は、大陸の河川では、砂漠の河川を除けばその比が小さいが、日本では数十倍から100倍と極端に大きく、そこに日本の河川の特徴がある。<中国の河は河道が広く深く河道が普段よりフル活用されているが、日本の河は普段はわずかの水量が流れるだけで洪水時になって河道がフル活用されると言うことかと思う。>
4.日本における洪水現象のもう一つの大きな特徴は、明治以降の河川改修工事によって、かつて上流であふれていた洪水が河道に閉じ込められ速く流下し、また、流域の都市化によって舗装や屋根が降雨の地下浸透を妨げ直接流出を増大させ、下流における洪水のピーク流量が極端に大きくなってきた。
5.洪水現象は単なる自然現象だけでなく、社会現象である。

★まとめ

ここで論ずる洪水とは主として縄文・弥生の先史時代の洪水のことなのであるが、日本にははっきりとした洪水神話(原古に大洪水が発生し、それまでの人類、世界の秩序は滅び、その後に現在の秩序が確立され、現今の住民が繁殖した)とか治水神話(氾濫していた水を制御した)とか原初海洋モティーフ神話(原初には世界は水でおおわれていた)というのはなく、逆に、弥生時代に入ると水田用の水不足が露呈し、崇神天皇の時代に「崇神天皇六十二年秋七月乙卯朔丙辰 詔曰 農天下之大本也 民所恃以生也 今河内狹山埴田水少 是以 其國百姓怠於農事 其多開池溝 以寛民業 ○冬十月 造依網池 ○十一月 作苅坂池 反折池 【一云 天皇居桑間宮造是三池也】」とあり、灌漑用溜池を築造したと言うことか。
洪水の原因は1.台風、前線(前線の存在は降水を生じやすく,この降雨を前線性降水、と言う)、低気圧等による高潮等、2.地震による津波、3.融雪等が考えられるが、台風等による大雨や融雪による洪水被害は痕跡をほとんど残さないため、現在となっては縄文・弥生の台風や融雪による水害は解らないといった方が正解かと思う。これに対して地震による津波の被害は地震考古学という新しい学問分野で古代の地震の研究もなされているが、縄文時代の地震の痕跡は東日本にはやや少なく、人が住んでいない西日本に多かったようだ。但し、調査する人によっては東日本に多かったとする人もいる。弥生時代になると西日本の大地震が多くなり、津波及びそれに基づく洪水被害があったかどうかはほとんど解らない。おそらく、人口はそれほど多くなかったので人的被害はさほどなかったようだが、家屋、水田、灌漑設備等の被害は当時の人々にとっては甚大であったという見解もある。兎角、インターネットなどを見ていると一般の人が地震のことを書くと、書いた人は「アホ呼ばわり」され、「不安をあおるもの」と決めつけられているようだ。ましてや、縄文・弥生の地震・津波などは裏付けのとれない問題外のことらしい。日本で資料的裏付けのとれる地震は 『日本書紀』允恭天皇5年7月14日(416年8月22日)の条に「五年秋七月丙子朔己丑 地震」の記述が最初と言う。
大熊孝博士の見解にある「(明治以降の)洪水現象は単なる自然現象だけでなく、社会現象である。」というのは、現代の我々が遭遇している洪水は古代の自然現象の洪水ばかりか、諸々の社会現象により生じた洪水にも直面していると言うことである。その意味で、我々は古代の人々より遙かに多くの洪水に遭遇しており、それを改善しようとして不完全な技術が投入されますます持って不便な生活を余儀なくされている。かって、昭和61年(1986)8月に台風10号がもたらした小貝川氾濫の洪水につき、全国紙のコラムが江戸時代に伊奈忠治が川の流れに湾曲部を設け洪水の弊害を避けようとしたのに明治以降それを非効率とばかりに直線化したのが原因と曰った。しかし、これには「中・下流は河道の曲流が多く、水害の多発地」(「角川日本地名大辞典 8 茨城県」P408)とあり、少しばかり驚きだ。
地震だって同じことで、過般、東京大と産業技術総合研究所の研究チームが「江戸時代前期の1703年に起きた「元禄関東地震」(マグニチュード=M8.2)と同型の巨大地震は、6300年前から2200年前までにも4回起きており、最も短い発生間隔は500年だった。従来は、元禄型の関東地震は7200年前から3000年前までに3回起き、最も短い発生間隔は2000年とされていた。」と言い、大地震及びそれに伴う津波の発生間隔もだんだん短くなっているようだ。原因は何かと言えば、地震の原因はプレート運動と言うのが一般的で地球の内部が勝手に動いているようにも思われるが、最近の地下核実験とか相次ぐ大規模火山の噴火なども地震の一因ではないのか。2004年スマトラ島沖地震では「M 9.3 の地震の発生から約3ヵ月半後の2005年3月12日にスマトラ島西部のタラン山が噴火、また翌3月13日にはジャワ島西部のタンクバンプラフ山が噴火するなど近隣に存在する火山の活動が活発となった。」とある。但し、学説では地震と地殻変動(火山もその一種か)は関係がないという。

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古代にもアルコール依存症はあったのか

★はじめに

日本の酒は醸造酒は奈良時代からあったようであるが、蒸留酒はタイから沖縄に14~15世紀頃伝わり(現在の泡盛のこと)、ウィスキーにいたっては幕末のペリー来航の際(1853)献上物として持ち込まれたようである。また、生産となると大正時代に入ってからと言うことである。ところで、江戸時代の川柳に、

神代にもだます工面は酒が入(いり) 『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』のなかの一句(川柳)、とあり、何やら先史時代にも酒があったようである。しかし、『古事記』には「其の足名椎、手名椎の神に、<汝等、八鹽折(やしおおり)の酒を釀(か)み、・・・>」とあるので、この酒は「口噛み酒」であり、おそらく米を噛んでいると思われ、弥生時代に入ってからのものかとも考えられる。

酒は「みき」と言い、漢字で書くと「み=御」、「き=酒」のことで、今はご丁寧にも「おみき=御神酒」などと言って、美称を重ねている。一説によると、『古事記』には酒を「くし」とも言い、これは「奇(くし)」に繋がるもので、酒の効能が奇瑞とされたことによるものである、と言う。酒を飲んだくらいでエクスタシー状態(恍惚、忘我)になってしまうのか。
ところで、我が国では庶民が酒を飲むようになるのは鎌倉時代から(江戸時代からと言う説もある)のようで、奈良時代や平安時代は、祭礼(新嘗祭とか神嘗祭<伊勢神宮>と言われる。天皇が即位の後,初めて行う新嘗(にいなめ)祭を大嘗祭と呼ぶ。)や正月、慶事の際に集団で飲んでいた程度で、朝廷や武家、神人、僧といった一部特権階級の人たちが飲むものだった、と言う。あるいは、『魏志倭人伝』では、「その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。」とも言っている。魏の使節団は自分たちが酒食でもてなされたのを倭人の日常と勘違いしたものか。

しかし、『日本書紀』を読んでいたら、こんなのがあった。

『日本書紀』巻第十二去來穗別天皇 履中天皇 即位前紀
爰仲皇子畏有事 將殺太子 密興兵 圍太子宮 時平群木莵宿禰 物部大前宿禰 漢直祖阿知使主 三人 啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】 故三人扶太子令乘馬而逃之 【一云 大前宿禰抱太子而乘馬】 仲皇子不知太子不在 而焚太子宮 通夜火不滅 太子到河内國埴生坂而醒之 顧望難波 見火光而大驚 則急馳之
ここに、啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】(太子にお声をかけたが返事がなかった。或書では、太子は酔って起きなかった)とあるのだが、古墳時代の当時にあって皇太子といえど酔い潰れるほど(大嘗祭の酒宴があったという)酒が飲めたものか、と言うことだ。日本で醸造酒が量産化したのは奈良時代と言われ、古墳時代に限定した酒造法は不明と言うほかない。おそらく、古墳時代に飲めた酒の量は現在で言うならコップ一杯分くらいではなかったのか。

★日本の古典や遺物に現れた酒にまつわる文物

古典の中の酒であるが、『古事記』中巻応神天皇段になると急に宴会の話や酒の話が出てくる。また、渡来者としてたくさんの工人にまじり「酒釀むを知る人、名は仁番(にほ)またの名は須須許理(すすこり)等、參い渡り來たり。 故、是の須須許理、大御酒釀みて以ちて獻りき。 是に天皇、是の獻りし大御酒に宇(う)羅(ら)宜(げ)て【宇羅宜の三字は音を以ちてす】御歌に曰く、
「須須許理が 釀みし御酒に 我酔ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒に 我酔ひにけり」以上は朝鮮半島の酒造方法であるようだが、日本式の酒造方法もあったらしく、以下のごとくである。
「吉野の國主(くにす)等・・・吉野の白檮(かし)の上<地名。カシの生えているところの意。カシノフと読むか。>に横臼(よくす)を作りて、其の横臼に大御酒(おおみき)を釀(か)みて其の大御酒を獻る時に、口鼓(くちつづみ)を撃ちて伎(わざ)を爲て歌いて曰く、「白檮の上に 横臼を作り 横臼に 釀みし大御酒 美味らに 聞こしもち飲せ まろが父」
此の歌は國主(くにす)等が大贄(おおにえ)獻る時時に、恆(つね)に今に至るまで詠う歌なり。
文書にすると醸造方法としては同じように見えるが、半島方式と日本方式は大いに違ったのではないか。そうでなければ、日本方式は半島方式に駆逐されていたと思う。一般的には、須須許理が導入した酒造法は「須須許里らが神前に捧げた醴酒(一夜酒)は口噛酒ではなく、穀芽酒、多分、牙米酒であったと思 われる。」という見解もある。また、日本でも「大神の御乾飯(かれいい)が濡(ぬ)れてカビが生えた。それで酒を醸した」(『播磨国風土記』宍粟郡庭音村)とあり、前述の穀芽酒(須須許理が招来したものか。半島、大陸系の醸造酒。)とは違い日本プロパーな麹との見解もある。
また、酒にまつわる遺物については、
縄文土器には注口土器、双口土器、壺形、瓶形、徳利形、水差形、土瓶形、片口付鉢形、碗形、コップ形など、現代の酒器に似た土器も混在しているが、中身はと言えばほとんどが軟水や海水だったのではないか。さらに、縄文時代中期以降に出現する「有孔鍔付土器」は樽のような形をして、つばに孔が開いているところから、酒造りの道具とも、口に皮を張って太鼓として使用したともいわれる。口縁部の内外に赤色塗彩がみられる、とある。まだ米もなく食糧事情が良くなかった時代にあって酒ばかりがバンバン作られたとは考えづらい。
とは言え、素戔嗚尊の八岐大蛇退治の話が縄文時代だったとすると、『古事記』では「八鹽折(やしおおり)の酒」とあり、『日本書紀』では「八醞酒(やしおりのさけ)」とある。本居宣長は「八回酒で酒を重醸した」と言う。『古事記』の「八鹽折」の折の字には<折り重なる>というような言い方もあるので、折は重畳の意味か。但し、アルコール度の強い酒とか毒入りの酒と言っても八岐大蛇には効果があったかどうかは不明。私見では八岐大蛇の実態は人間(出雲国あるいは越国の人)で時代も弥生時代初期の頃か。また、八岐大蛇が殺されたのなら俗に言う「寝込みを襲われた」とか言う場合ではないのか。
『日本書紀』(巻第一神代上、一書曰)では「素戔嗚尊乃教之曰「汝、可以衆菓釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。」(汝、衆菓(アマタノコノミ)を以て酒八甕を醸すべし)」と書かれ、素戔嗚尊の頃は果実酒だったようだ。

★履中天皇と允恭天皇

履中天皇に始まると思われるいわゆる「倭の五王」の在位年数はそれまでの長期在位の天皇から極端に在位期間の落ち込んだ天皇と言うことになっているが、これに事績の少なさを加えるとおそらく事実とは違う改ざんがなされたものであろう。

「倭の五王」の在位年数(満暦年、推定)
17履中天皇  5

18反正天皇    4

19允恭天皇 40

20安康天皇  3

21雄略天皇 24

「倭の五王」の中国への遣使
讃 421年(永初2) 425年(元嘉2)<司馬曹達> 430年(元嘉7)
珍 438年(元嘉15)
済 443年(元嘉20)451年(元嘉28)460年(大明4)
興 462年(大明6) 477年(昇明1)
武 478年(昇明2) 479年(建元1)<南斉から鎮東大将軍> 502年(天監1) <梁(りょう)から征東大将軍>
日中の記録で大きく違うのは安康天皇で、日本では在位3年となっているが、中国の記録ではどう見ても15年はありそうだ。履中天皇も日本の在位5年に対し、中国の記録から見て10年ほどはその地位にあったようだ。允恭天皇は水増しか。在位は、履中天皇10年、反正天皇4年、允恭天皇20年、安康天皇15年、雄略天皇24年ほどが妥当な線か。

在位年数の少ない理由はいろいろあるであろうが、私見では住吉仲皇子事件に端を発した大伴氏の失脚が大きいと思われる。大伴氏失脚後は政権中枢の記録は中断し、史書に書くべき事績がなければ、外国の文献を丸写しして書くとか、当該天皇とは関係のない天皇や豪族の事績を移記する、創作文章を載せる、などが考えられるが、在位年数を減らすことも有力な手法だったと思われる。そもそもこれら倭の五王は中国の宋王朝に外交使節団を送っており、在位3年、4年、5年で簡単に遣使ができるものかは疑問だ。もっとも、倭の五王の遣使は宋(南朝)の皇帝から辞令をもらうことにあったようで、朝貢品を持参しても絢爛豪華なものとはほど遠く、従って、御下賜品も少なかったようだ。しかも、倭の五王はその辞令の中に領有地や支配国(特に、百済)を詰め込むだけ詰め込もうとしたが、望み叶わず、雄略天皇のように遣使をやめてしまった天皇もいる。

履中天皇の事績としては「四年秋八月辛卯朔戊戌 始之於諸國置國史(ふみひと) 記言事達四方志 ○冬十月 堀石上溝」くらいなもの。諸国に国史なる役人を設置したと言うことなのだろう。国情を報告させたと言う。石上の溝を掘る、とは、大伴氏の代行者として物部氏を当てたので物部氏に対する優遇策か何かか。事務官系の大伴氏に対して、技官系の物部氏ではあまり期待もできなかったのではないか。これより前、「二年冬十月 都於磐余 當是時 平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連 圓 【圓 此云豆夫羅】 大使主 共執國事」とあるのも嘘っぽい記事で、一体に『日本書紀』は『古事記』に比べ平群氏の記事が多いが、これは日本書紀の執筆者に平群臣子首がいて日本書紀の編纂にあまり熱心ではない舎人親王などの目を盗んでは平群氏や平群氏を取り立ててくれた蘇我氏の説話を加筆していたのではないかと言うことである。履中天皇についてはその陵墓について意見の違いが鮮明になってきた。曰く、「現在の履中天皇陵と称するものは仁徳天皇陵であり、仁徳天皇陵と称するものは雄略天皇陵である」と。このほかに、雄略天皇陵は河内大塚山古墳という説もあるが、築造年代が6世紀中葉かそれ以降と言うことで欽明天皇の前後の天皇陵とするのが有力。それなら、本物の履中天皇の御陵はどれかと言えば、物部氏が主導して造営したのなら古市古墳群の中にある古墳のいずれかであり、葛城氏が主導して造営したのなら御所市の宮山古墳あるいは大和高田市の築山古墳などか。但し、宮山古墳は葛城襲津彦の墳墓、築山古墳は武烈天皇陵とする説がある。

允恭天皇については、『允恭天皇前紀』に、「我之不天 久離篤疾 不能歩行 且我既欲除病 獨非奏言 而密破身治病 猶勿差」とあって、「病、重篤にして、歩行が困難、誰にも相談せず我流の治療法を試みたが依然癒えず」という状態だったらしい。これに対して父親である仁徳天皇及び兄である履中、反正両天皇は「汝雖患病 縱破身 不孝孰甚於玆矣 其長生之 遂不得繼業 亦我兄二天皇 愚我而輕之」(『お前は病を患っているとはいえ、みだりに身を傷つけた。不孝の極みだ。長く生きたとしても、天業を継ぐことは出来ないであろう』とおっしゃられた。また我が兄である二人の天皇は、『私を愚かであると軽んじた。』)父親が息子の病気が原因で叱りつけるなどと言うのは、持って生まれた病気ではなく現今で言う生活習慣病ではないか。歩行困難になる原因としては運動と栄養の不足だそうで、允恭天皇の場合は酒ばかり飲んでいて運動はせず、かつ、十分な栄養(食事)を取らなかったのではないか。天皇の主なる事績としては、

*二年春二月丙申朔己酉 立忍坂大中姫 爲皇后 是日爲皇后定刑部(皇后のための刑部<生活の資を貢納する部曲>の設置)
*四年秋九月辛巳朔戊申 詔曰 群卿百寮及諸國造等皆各言 或帝皇之裔 或異之天降 然三才顯分以來 多歴萬歳 是以 一氏蕃息 更爲萬姓 難知其實 故諸氏姓人等 沐浴齋戒 各爲盟神探湯(身分を偽るものが多くなったので、沐浴斎戒の後、盟神探湯を行った。)
*五年秋七月丙子朔己丑 地震 先是 命葛城襲津彦之孫玉田宿禰 主瑞齒別天皇之殯 則當地震夕 遣尾張連吾襲 察殯宮之消息 時諸人悉聚無闕 唯玉田宿禰無之也 吾襲奏言・・・天皇設兵將殺 玉田宿禰 乃密逃出而匿家 天皇更發卒 圍玉田家 而捕之乃誅(五年七月十四日。地震。これより先に玉田宿禰に先帝瑞齒別天皇の殯宮の大夫<管理者>とした。地震の夕、尾張連吾襲を様子見にやったところ物・人ともに問題がなかったが、ただ玉田宿禰がいなかった。・・・玉田宿禰は密かに逃げ出し家に隠れたが、天皇はこれを捕らえ誅殺した。)
*十一年春三月癸卯朔丙午 天皇詔大伴室屋連曰・・・則科諸國造等 爲衣通郎姫 定藤原部(天皇は室屋に命じ、室屋は諸国の国造に妃の衣通郎姫<そとおりのいらつめ>のために藤原部を設置させた。)大伴室屋が唐突に出てくるが、允恭天皇と室屋は親族関係(又従兄弟くらいか)にあったのではないか。仁徳天皇の時代は緊縮財政下にあり、皇子たちも満足に遊ばせてもらえなかったので室屋の先代(父か兄であろう)がそれじゃあ子供の教育に良くないと言うことで大伴氏の淡路島の別荘に皇子たちを連れていって室屋も一緒に遊んだことだろう。「履中天皇五年秋九月乙酉朔壬寅 天皇狩于淡路嶋」とか「允恭天皇十四年秋九月癸丑朔甲子 天皇獵于淡路嶋」とか言うのは二人の天皇が子供の頃を思い出し今一度淡路島へ出かけたのだろう。允恭天皇が室屋よりは年長だったようで、兄弟がいなくなった天皇は室屋を弟のように扱ったのではないか。当時は外朝(外廷)はなかったという説もあるので、内廷の中の内廷業務を身内の室屋にさせていたのではないか。
以上が主なものである。

★まとめ

1.履中天皇については、「時平群木莵宿禰 物部大前宿禰 漢直祖阿知使主 三人 啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】 故三人扶太子令乘馬而逃之 【一云 大前宿禰抱太子而乘馬】 」はどう見ても「酔って起きられない」とか「馬にも乗れない」などと言うのは現今で言う酒の飲み過ぎで「泥酔状態で前後不覚に陥った」と言うことではないのか。また、允恭天皇が「我之不天 久離篤疾 不能歩行 且我既欲除病 獨非奏言 而密破身治病 猶勿差」と言うのも、毎日酒を飲み歩行が不安定になった状態を言うのではないか。允恭三年八月に新羅より名医が来て、幾ばくも経ずして完治したと言うが、信じがたい話である。本当の医者は藪医室屋で、室屋は天皇から足のふらつきの話を聞き、「それはズバリ言って酒でしょう」と曰って天皇から酒を取り上げたのではないか。断酒のかいあってか天皇の足のふらつきや手の震えなども徐々に好転し、その後は順風満帆で天寿を全うしたと言うことである。
ところで、倭の五王時代は古墳時代のまっただ中で、あの巨大古墳を造るには日本人ばかりか朝鮮半島の人材もそれ相当にやって来たのではないか。力仕事ともなれば仕事が終われば酒を飲みたくなるのが人の常で酒を飲ませろと言う半島系の人と酒はないと言う日本の現場監督が押し問答の末、造り方が解らないなら教えてやろう、などと大見得を切った半島系の人が日本での酒の量産化に成功したのではないか。もっとも、『魏志倭人伝』にも「他人就歌舞飲酒」とか「人性嗜酒」とかあるのでアルコールに強かったと思われる縄文人は果実酒のような酒を量産していたのかも知れない。酒造は地域の王の独占という見解もあるがどうか。酒のような嗜好品はあっという間に古墳築造現場に広がり、日本人の現場監督から古墳造営総監督へ伝わり、総監督から天皇をはじめとする上層階層へ拡散したのではないか。すでに、応神天皇の頃から宴会や飲酒の話が頻繁に出てきており、その頃から国の上層部では飲酒の風習が定着したのではないか。当然のことながらアルコールに弱い人がガバガバ飲むとアルコール依存症になってしまう。
2.宋書の系図で讃と珍(兄弟)と済(父)、興、武(子)のつながりがはっきりしないが、済(允恭)は父親の仁徳天皇に見放され、家族(仁徳天皇や履中天皇など)は河内や摂津に住んだのに済(允恭)だけが大和に住んだので中国人は二つに分けたのではないか。日本の多数説はこの二つのグループを別々のグループとは見なしていないようだ。
3.天皇陵は被葬者が依然として決着しない。履中天皇陵が仁徳天皇陵より築造が古いと言うことで仁徳天皇の御陵の地位も揺らいでいるようだが、全国第二位の規模を誇る応神天皇陵とも比較検討し仁徳陵がそんなに新しいものかを検討してほしいものだ。一応、築造年代は、応神陵 5世紀前半頃の築造(羽曳野市HP)、仁徳陵 5世紀中ごろの築造(堺市HP)、履中陵 5世紀前半頃の築造(堺市HP。形や出土した埴輪、陪塚の出土品などから仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られたことがわかっています、と言う)となっているが、大雑把に言うと応神陵の被葬者と履中陵の被葬者は兄弟、仁徳陵の被葬者は応神陵、履中陵いずれかの被葬者の子と言うことになろうかと思われる。皇室の系図は第15代応神天皇、第16代仁徳天皇、第17代履中天皇とつないでいるので、現応神天皇陵はそのまま応神天皇陵で、現履中天皇陵は仁徳天皇陵、現仁徳天皇陵は履中天皇陵とも考えられる。しかし、履中天皇は在位10年ほどと考えられそんなに長期政権でもない天皇に日本一の御陵はおかしいとお述べになる方もおられるかと思われるので、着工時期と工期を考えるならやはり現行の推定が、一応、正となるのではないか。古墳の形が仁徳陵が履中陵より新しいと言うが完成時の流行で化粧直しをしたものか。

 

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物部氏と蘇我氏は同族か

★はじめに

『記紀』など我が国の古典を見ていると何やら似たり寄ったりな話が出てきて、どうしてこうも同じ原典の使い回しをするものかと不思議に思う。「海幸山幸神話」は民間に移植され「浦島太郎物語」になったとか、神武東征は応神東遷のこととか、神功皇后は推古天皇以降の皇極天皇・持統天皇・元明天皇などの女帝をモデルとした、あるいは、『日本書紀』の編者は『魏志倭人伝』の卑弥呼に比定している、『日本書紀』に出てくる蘇那曷叱知(そなかしち)、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、天日槍(あめのひぼこ)は元は同一の説話で日本書紀の編者が三話に脚色した、武内宿禰は蘇我馬子や中臣鎌足などを原型にして作出した、など、数え上げれば切りがないが、ここでは物部氏と蘇我氏の似たり寄ったりな話を取り上げてみる。
物部氏と蘇我氏が政治の世界に登場したのは物部氏が少しばかり早いようで、神武天皇より先に大和国に来ていたという饒速日命とか垂仁朝の物部十千根とか伝説的な人物を除き、雄略朝の物部目大連が実在した最古参の人物ではなかったか。また、蘇我氏では宣化朝の蘇我稲目大臣が実在を裏付けられる最古の人かという。
何が両氏を結びつけるのかと言えば、物部氏は穂積氏の分家という位置づけになっており、穂積氏の具体的な活動が国史に現れるのは6世紀前半の穂積押山からで、継体天皇に仕えた穂積押山は、蘇我韓子の娘・弟名子媛を妻とした、と言うことである。分家の歴史が本家より古く顕著と言うのもおかしい気がするが、物部氏と穂積氏は同族、蘇我氏の女性が穂積氏に嫁いでいる、と言うことで、元をたどれば物部氏と蘇我氏は無縁ではないように思われる。

★物部氏

物部氏の氏素性は、饒速日命(神武天皇よりも前に大和入りをした天神)が祖先と伝わる神別氏族。本貫は大和国山辺郡あるいは河内国渋川郡あたりかとする。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していた(通説)という。従って、物部氏の「物」とは兵器を意味するか。その後、国々同士の争いが増えて軍事優先の時代になると大伴氏と並ぶ有力軍事氏族になった。天皇家の軍隊は当初は久米氏、ことに大久米命が担っていたようだが、大久米命の死後久米氏は衰退し大伴氏が取って代わったと思われる。『新撰姓氏録』によると中央の久米直氏は二氏あるようだがその出自は、一方は天皇家の久米氏で、他方は大伴氏の久米氏だったのではないか。久米とは組の意味といい、現今における軍隊を意味していたものと思われる。有力氏族は自分の領土(国)を守るため軍隊を組織していたものと思われる。物部氏の場合は古いタイプの氏族を守る軍隊ではなく、比較的新しくなった倭国(国家)の軍隊として発足したのではないか。後ほどになって、大伴氏は宮廷護衛を主務とし、物部氏は国土防衛を担った。しかし、当時の軍隊は常備軍ではなかったようで、紛争がある都度大将軍以下の組織を整え、各氏族より兵員を供出したようである。物部氏の実際に活躍した人物としては、雄略朝の大連、物部目(もののべのめ)からのようで、雄略天皇元年、雄略天皇が娘・春日大娘皇女の嫡出子としての認知を拒否しようとしたところ、その不当性を説いて認知させた。雄略天皇13年、狭穂彦王の玄孫の歯田根命が采女と姦通の罪を犯したので物部目に審尋させた。職務遂行よろしきを得て、餌香(えが・河内国石川左岸。藤井寺市、羽曳野市あたりか)の長野邑(藤井寺市にある辛國神社あたりか)を物部目に賜った。雄略天皇18年、天皇は物部目と物部菟代に伊勢の豪族・朝日郎の討伐を命じた。目は物部大斧手に盾を持たせて自ら進撃し、朝日郎を捕縛して斬った。しかし、菟代は何もしなかった。天皇は菟代が所有していた猪名部を没収し、目に与えた。物部目の勲功は大なるものがあるようで、物部氏躍進のきっかけを作ったようだ。
継体天皇22年(528年)11月、物部麁鹿火が筑紫国造磐井の乱を平定した。
欽明天皇の時代、百済から仏像が贈られた。それを巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子を中心とする排仏派が争った。
両氏ともに代替わりし、蘇我馬子、物部守屋になったが、依然として双方の崇仏と排仏の対立が続いた。
用明天皇の崩御(587年5月21日<用明天皇2年4月9日>)後、守屋は次期天皇として穴穂部皇子を推したが、587年6月馬子は炊屋姫(後の推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子を誅殺した。
587年7月、蘇我馬子並びに諸皇子、群臣は河内国志紀郡から渋河にある物部守屋の家に到着しこれを攻撃した。守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。587年9月、蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位。以降、物部氏は本宗家を石上氏が担ったが、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。
一族の墓所としては、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族か。

★蘇我氏

蘇我氏の系譜としては、武内宿禰を祖としている。即ち、武内宿禰とは、
『日本書紀』景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとする。孝元天皇紀では、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とすることから、武内宿禰は孝元天皇三世孫にあたる。
『古事記』では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてる。
武内宿禰には『古事記』によると、七男二女がおり、その後裔氏族二十七氏があげられており、蘇我氏は蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね、石川宿禰)の後裔と言うことになっている。
蘇我氏の出身地・身分については、
1.河内国の石川(現在の大阪府の石川流域、あるいは、南河内郡河南町一須賀あたり)の土着豪族という説
2.葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説
以上の二説が有力だが、蘇我氏渡来人説、蘇我氏が台頭したのは継体朝以降で継体天皇とともに越国から来た、などの説がある。
実在が確実視されているのは蘇我稲目でそれ以前の満智、韓子、高麗(馬背)については、満智を蘇我倉山田石川麻呂後裔の石川氏の手により創出された人物とみる説もある。一応、満智は『日本書紀』によると履中二年十月条に平群木菟宿禰等と国事を執ったとあるが(平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連 <葛城>圓 【圓 此云豆夫羅】 大使主 共執國事)、信じがたいとするのが多数説である。この文章自体が創作かと思われるが、あるいは大伴氏の名がないので「住吉仲皇子の反乱」に関わって、履中天皇より大伴氏は「出仕に及ばず」となっていたか。住吉仲皇子は住吉と言うくらいなので大伴氏の庇護の元で育ったのではないか。また、「住吉仲皇子の反乱」では淡路島の海人族(阿曇連浜子、倭直吾子籠)が住吉仲皇子側に付いている。淡路島は大伴氏の勢力下にあったと思う。それに、履中朝の四執政官の身分の違いも気になるところだ。平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰はその他大勢の下級官吏と思われ、物部伊莒弗大連 葛城圓大使主は肩書きから高級官吏と考えられる。当時にあっても下級官吏と高級官吏が混在する執行部などというのはあまり聞かないのでは。平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰は後世の追記かと思われる。元々の構成員は大伴大連、物部大連、葛城大臣だったか。なお、このほかに、『古語拾遺』には、雄略天皇の御代、麻智(満智)が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したという(三蔵検校)話が載っているが、忌部氏は持統天皇五年(691)八月の「詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記。」にも取り上げられていない氏であり、そのまま信用はできないと思われる。但し、信用して取り上げている説が多いようだ。墓記とは1.各氏族の祖先たちの朝廷での功業を謳った誄を集成し記録したもの。2.墓記とは基記(もとつふみ)の誤記で、古事記や日本書紀と同様、諸氏族の系譜を中心とした伝承の記録、の二説がある。もっとも、満智ではないかも知れないが蘇我氏の一族(稲目の可能性が大きい)で大伴金村に就職斡旋を依頼し(蘇我氏は元々大和の豪族ではなく、越国から来たばかりで、職がなかったのではないか)、金村は渡来系氏族(秦氏、東文氏、西文氏)に強い蘇我氏にこれらの氏族を使って帳簿を勘録させたのではないか。当時にあっては、これらの職業は下々(しもじも)の職業だったのかも知れないが、蘇我氏の財力を蓄える源泉の一つになったのかも知れない。そもそも、蘇我稲目が天皇の命により諸国に屯倉を設置したとあるが、これはお為ごかしの話で蘇我氏の蓄財のためであって天皇家や朝廷(国家)のためのものではなかったのではないか。
6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においた。
稲目の代になると、かっての大臣系の氏族(葛城氏、平群氏など)は没落し、大連の大伴氏や物部氏と肩を並べる大臣氏族になった。
蘇我氏の躍進の原動力はその婚姻政策にあったようで、稲目の娘は堅塩媛、小姉君が欽明天皇に嫁ぎ、堅塩媛は用明天皇や推古天皇の生母、小姉君は崇峻天皇の生母となっている。石寸名と言う娘が用明天皇妃となっているが、堅塩媛を誤伝したと言う説が有力。また、渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になった、と言う見解もある。
稲目の死後、仏教の受容を巡る問題は蘇我馬子と物部守屋まで引き継がれるが、用明天皇崩御後に後継者をめぐる争いがあり、馬子は守屋に擁立を画策されていた穴穂部皇子を暗殺し、崇峻天皇を擁立した。また、群臣とはかり守屋討伐を敢行した。もっとも、蘇我氏が物部氏を滅ぼしたのは蘇我馬子が物部氏の財産目当てのため、と言うインターネット上の見解もある。それなら、大伴氏の方が良かったのでは。
ここから蘇我氏三代(馬子、蝦夷、入鹿)にわたる専横が続いたが、馬子の死後蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まった。
蘇我氏は、645年の中大兄皇子、中臣鎌足らの「乙巳の変」によって、入鹿が殺害され蝦夷が自殺するとその勢力は大幅に低下した。
蘇我氏の後裔氏族石川氏も平安京遷都後亡くなった正四位上・参議、石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消した。

★まとめ

物部氏、蘇我氏両氏は仲の悪い氏族であったかと思われるが、その先祖を見てみると、物部氏は伊香色雄命の子孫で伊香色雄命は『日本書紀』では大綜麻杵の子といい、『古事記』では欝色雄命の子であるという。(『古事記』中巻第八代孝元天皇段、此天皇 娶穗積臣等之祖 内色許男命【色許二字以音 下效此】妹 内色許賣命 生御子 大毘古命 次少名日子建猪心命 次若倭根子日子大毘毘命 【三柱】 又娶内色許男命之女 伊迦賀色許賣命 生御子 比古布都押之信命)
一応、『古事記』では伊迦賀色許賣命は内色許男命之女と解るのであるが、伊迦賀色許男命と内色許男命との関係は不明である。しかし、古代の命名法として伊迦賀色許男命と伊迦賀色許賣命は兄妹あるいは姉弟の関係と思われ、簡潔に言うなら物部氏のご先祖さまも蘇我氏のご先祖さまも内色許男命から伊迦賀色許男命の系譜につながるものである。おそらく『古事記』の方が正解で内(京都府八幡市内里内)と伊香賀(大阪府枚方市伊加賀)は隣国近隣にあり、淀川水系に勢力を持った一族だったのではないか。
物部氏は内色許男命之男、伊迦賀色許男命を祖先とし、蘇我氏は武内宿禰を祖先としている。いずれの始祖にも「内」の文字が入っているが、当時にあって「内」氏とはあちこちにたくさんいたのかと言えば、国史に現れてくる「内」氏は武内宿禰と味師内宿禰くらいである。物部氏と蘇我氏に共通する氏族としては穂積氏があり、物部・蘇我の両氏は穂積氏から山城国、河内国に盤踞する古代豪族「内」氏の話を聞いていたのではないか。いわゆる、「山代内臣」氏である。その「内」氏の話を物部・蘇我の両氏は我田引水して物部氏の祖や蘇我氏の祖を作り上げたのではないか。物部氏、蘇我氏、穂積氏がなぜ旧知の間柄かと言えば、おそらく三氏はいずれも一族の人々が朝鮮に軍事派遣され、派遣される一族も徐々に固定化されお互い旧知の間柄になったのではないか。筑紫国造磐井は近江毛野臣に「今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前。」とも言っている。
いずれにせよ蘇我氏が越国(こしのくに、後世の越前国)から来たのなら中央豪族との関わりはまったくなかったであろうし、物部氏は氏の名にある「部」というのは比較的新しい氏族と解され天皇家より先に大和に来ていたなどとは考えられないことだ。いずれも古くて誰も知らないような氏族(内氏)を先祖に据えて、同じ穴の狢になったのではないか。

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紀氏はどうして大臣にならなかったのか

★はじめに

紀氏については「葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかかわらず、大化前代に大臣を出していない点は留意されよう。」(Wikipedia)とあり、応神天皇の紀角宿禰から始まり平安時代初期の紀古佐美など連綿と大和朝廷の高位高官が続いたのに、そういうこともあったのかと思いつつも何やらおかしい気がした。

紀氏には大別して二流があり、一流は紀臣氏で皇別の紀氏である。他流は紀直氏で国造の紀氏である。

紀氏の氏の名の起源は、
1.紀国(木国、後の紀伊国<和歌山県>)に基づく説
2.平群坐紀氏神社の神社名あるいは鎮座地(大倭国平群県紀里。現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近。)に基づく説
がある。
一説によると、蘇我馬子が物部氏に対抗して武内宿禰を持ち出し、蘇我派を結成して武内宿禰の子孫と称する二十七氏族を並び立てたのは、祖先に大臣伝承を持った氏族と言うことで「紀氏(紀臣氏)には大臣がいなかった」と言われても何かの間違いではと思うばかりなのだが、蘇我馬子が意図した「紀氏」は、おそらく、鎮座地(大倭国平群県紀里)に由来するものだったのではないか。一体に武内宿禰の子と称する人は、波多八代(大和国高市郡波多郷)、許勢小柄(大和国高市郡巨勢郷<奈良県御所市古瀬>)、蘇賀石河(葛城県蘇我里<奈良県橿原市曽我町>)、平群都久(大和国平群郡平群郷<奈良県生駒郡平群町>)、木角(大和国平群県紀里<奈良県生駒郡平群町上庄>)、久米能摩伊刀比賣、怒能伊呂比賣、葛城長江(大和国葛上郡<御所市名柄>)、若子(『古事記』にのみ記載がある。不明。)とあり、みんな奈良盆地南部の人と思われ、紀角(後世の紀氏)宿禰も現在の奈良県出身と思われる。従って、蘇我馬子の眼中にあったのは平群県紀里の紀氏であって紀国の紀氏(紀直)ではなかったと思われる。

『記紀』で紀氏や武内宿禰が出てくるのは、
『日本書紀』

大日本根子彦國牽天皇  孝元天皇
七年春二月 妃伊香色謎命 生彦太忍信命・・・彦太忍信命 是武内宿禰之祖父也

大足彦忍代別天皇 景行天皇
三年春二月 遣屋主忍男武雄心命・・・則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛 生武内宿禰
第八代孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命が紀国造(菟道彦)の女「影媛」を妃として、その間に「武内宿禰」が産まれたと言う。但し、『古事記』では屋主忍男武雄心命は系譜にない。即ち、

『古事記』中巻 大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)

又娶木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣 生子 建内宿禰 此建内宿禰之子并九【男七 女二】・・・次木角宿禰者【木臣 都奴臣 坂本臣之祖】
『日本書紀』では紀角宿禰が武内宿禰の子かどうかは解らない。『古事記』では「木角宿禰者【木臣 都奴臣 坂本臣之祖】」となっているので、一応、「皇別の紀氏」は武内宿禰の子孫と言うことになる。
「皇別の紀氏」が「紀」姓を名乗ったのは、武内宿禰の母が紀の国造家出身だったからと言う。紀臣氏と紀直氏は通婚関係にあったと思われる。

「国造の紀氏」は土着の豪族と思われ、天道根命(神魂神の五世の孫)を祖とし、神別氏族と思われる。紀直(国造の紀氏)と言う。『記紀』に見える、紀直氏は、
『古事記』中巻

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇段)
木國造之祖宇豆比古

御眞木入日子印惠命(崇神天皇段)
木國造 名・荒河刀辨

『日本書紀』卷第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇
三年二月 紀直遠祖菟道彦

『日本書紀』卷第九 息長足姫尊 神功皇后
摂政元年二月 紀直祖豊耳

『日本書紀』巻第二十 敏達天皇
十二年七月 紀國造押勝與吉備海部直羽嶋
十二年十月、紀國造押勝等還自百濟
欠史八代から朝廷に仕えていたことが解り、押勝を除いては古くから内政に関わっていたのかも知れない。朝鮮半島に帰化(紀臣奈率彌麻沙など)して外政に貢献した紀臣氏ほどではないにしても大和朝廷草創期より国政でも活躍していたようだ。但し、記録がほとんどないので在地豪族扱いである。
翻ってみると、武内宿禰は架空の人物という説が根強く、武内宿禰の子孫は二十七氏と言うが、世代が錯綜した系図が多いようで信用できないと言う説も多い。研究論文も多い。大先生のお説を云々する資格はないので私見を述べることにする。

★「皇別の紀氏」

皇別の紀氏は古くは臣のカバネを名乗っていたらしく、「天武天皇の八色の姓の制」で朝臣となったという。紀臣氏と紀直氏の関係だが、明らかではない。一応、同族説と別氏族説がある。同族説なら始祖は天道根命であり、一族は二分し紀臣氏は大和朝廷傘下に入り、紀直氏は紀国にとどまったと言うことなのだろう。紀臣氏が大和朝廷傘下に入ったのは隣国の大伴連に懐柔されたのではないか。瀬戸内海航路だが当時は山陽道沿岸(瀬戸内海沿岸)は吉備氏が圧倒的力を持って支配していた。大和朝廷といえども易々と筑紫国までは行けなかったので、時の天皇は大伴連に四国沿岸航路の開発を命じたのであろう。大伴氏としては自らが開発するか、はたまた、海に強い有力氏族に依頼するか逡巡したのであろうが、結局、造船の素材である自然林を大和国吉野郡に所有していた言わば隣家の紀臣氏に白羽の矢を立てたのではないか。このことは、『日本書紀』卷第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇 九年五月「・・・汝大伴卿與紀卿等 同國近隣之人 由來尚矣」(同國近隣之人の意味は紀伊の紀臣に対し和泉の大伴連が近隣の人を意味するらしい。紀角宿禰の子孫の坂本臣(和泉国和泉郡坂本郷)とか根使主(和泉国日根郡日根里)の本貫が和泉国にあるようなので和泉国で大伴氏と紀氏が近隣だったか、と思ったが、違うようである。)と符合するものか。ほかの紀臣氏の同族は角臣氏であるが、『日本書紀』には周防国都濃郡が本貫とある。小鹿火宿禰は紀角宿禰の子孫なのか。一説に、紀小弓の子、紀大磐の弟とある。ほかに紀角宿禰に関係する土地として、津野神社(滋賀県高島市今津町北仰・近江国高島郡角野郷)、角刺神社(奈良県葛城市忍海、但し、祭神は飯豊青命)などがある。しかし、紀角宿禰の実在を疑う見解もある。
紀臣氏の『記紀』に見られる功労者としては、応神・仁徳朝の紀角宿禰、雄略朝の紀小弓宿禰、雄略・顕宗朝の紀大磐宿禰、欽明・崇峻朝の紀男麻呂宿禰などが散見する。主に朝鮮半島での軍事・外交において活躍が著しい。特に、『日本書紀』巻第十 誉田天皇 応神天皇 三年「是歳 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无禮状 由是 百濟國殺辰斯王以謝之 紀角宿禰等 便立阿花爲王而歸」とあり、これを『好太王碑文』の「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年(391)來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」の記事のこととする説がある。但し、前述したように紀角宿禰のように実在が疑われる人物もいる。また、顕宗朝の大磐、欽明朝の男麻呂などは蘇我氏の全盛期と重なっている。従って、紀臣氏が大臣に就かなかったと言うことは考えづらいことではある。あまりに大伴氏よりだったためか。しかし、紀臣氏の本業は吉野山から材木を吉野川、紀ノ川を経て紀ノ川河口まで送り、そこで船を造る現今で言う林業、造船業ではなかったか。当時の船は未だ丸木舟や準構造船で兵員の大量輸送には適さなかったが、小型とは言え朝鮮半島へ渡るには船が必要で造船業者であった紀臣氏には一日の長があったのではないか。

★「国造の紀氏」

古記録は当然と言えば当然だが中央豪族の記録はまずまず残っているが、地方豪族となると極端に少なくなる。『風土記』のようなものを天皇の代替わりに提出させるとかすれば少しは地方の記録も残ったのだろうが、諸般の事情によりそういうこともかなわなかったようである。中央官界の仕事をしたのは敏達朝の紀国造押勝で百済にいた日羅を迎えるために朝鮮に派遣された。
国造の紀氏の由緒来歴はよくわからない。『先代旧事本紀』天神本紀によれば、高天原から葦原中国へ降臨することとなった饒速日尊の護衛として付き従った三十二神の一神で、同書国造本紀や紀伊国造家が伝える『国造次第』によれば神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられた、と言うが、失礼ながら信ずる人は少ないと思われる。しかし、紀の国造家が本拠とした紀伊国名草郡(和歌山平野)は紀の国造家により開墾されたと思われ、宮井(灌漑用水)は古く古墳時代にまで遡り、紀の国造家の主導の下に紀ノ川の旧河道を固定化して造成されたと考えられている。従って、紀の国造家は水田稲作を専一にし、その祭祀した日前宮も農耕神ではないかと思われる。

★まとめ

紀臣氏と言っても、本貫は紀国(紀伊国)であったと思われ、蘇我馬子が拾い上げた平群坐紀氏神社の紀氏とは何の関係もなかったのではないか。そもそも平群坐紀氏神社は紀船守が創建し、祭神も平群木菟宿禰と言う。端的に言うと、平群氏の神社であって紀氏の神社ではない。但し、「三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式である。6世紀半ばの古墳とのこと。 」とあり、また、「石棚のある横穴式石室の古墳は紀ノ川下流域に多いが、奈良県下では三里古墳を含めて3例のみであり、他の2基も吉野川(紀ノ川)流域に築造されている。 」とある。これをなんと見るべきかだが、
「石棚をもつ横穴式石室は、和歌山市岩橋千塚古墳群をはじめとする紀伊地域を中心に、近畿の北部と瀬戸内から九州の一部にまで分布する。これらは、文献史料で想定される紀氏一族の分布に重複する地域が多く、石棚のある横穴式石室は紀氏とその同族が造った墓」とするものと、
「岩橋千塚などの石棚は高い位置にあり、石室の構造材としても機能していて、三里古墳の低い石棚はそれらとは同列に扱えないこと、さらに、平群谷に紀氏が居住したのは奈良時代以降」とする説がある。
上記いずれの説も正しいとするならば、石棚に構造材としての機能を持たせているのなら、そちらの方が技術的に高度なものであり、石棚が岩橋千塚古墳群に多いのなら石棚がある古墳は紀の国造氏にまつわる墳墓ではないのか。紀氏と言っても「紀臣氏」「紀直氏」「蘇我馬子が勘違いしたカバネ不明の紀氏」があるようで、おそらく奈良県の石棚つき古墳の被葬者は紀直氏に近い人で、自分の墓を紀直氏の墳墓のごとく見よう見まねで築造したものではないか。石棚つき墳墓が奈良県に三基というのも大和国には紀伊国の石室形式が入ってこなかったと言うべきではないか。
平群坐紀氏神社の紀氏は根拠薄弱ではあるが、紀直氏の関係者かと思われ、もし平群郷にいた紀氏が紀直氏なら臣のカバネでもないのに大臣などとなるはずもなく、仮令「直」として「大直」というカバネがあったとしてもそれは「大臣」とは違うものであろう。従って、平群の紀氏が大臣を賜与されることは皆無だったと思われる。よって、紀氏が大臣となることはなかった。また、紀臣氏であるが、こちらにも大臣がいなかったと言うことかと思われるが、大化の改新前代にあっては紀氏は主に朝鮮半島に在住し、日本本国とは縁が薄かったのではないか。今でもそうだが、出世の要諦は本社→地方→本社→地方というようなルーティンを繰り返すことで、地方(紀臣氏の場合は朝鮮半島)ばかりにいては出世はおぼつかないそうだ。よって、本社(大和国)にいない紀臣氏には大臣の地位が回ってこなかったと言うべきか。
紀臣氏と紀直氏だが、同国の人ではあるが紀臣氏は林業や造船業、海運業はたまた軍事・外交を家業とし、紀直氏は農業、建設業等を家業としていたのではないか。従って、紀臣氏が縄文時代色の強い氏族であったのに対し、紀直氏は弥生時代色の強い氏族であったかと思われる。おそらく両氏は別の氏族であったろうが、古くは通婚関係があったようだ。和歌山市には日前神宮・國懸神宮があるが、本来はいずれかが紀臣氏の神社で他方が紀直氏の神社ではなかったか。紀臣氏が律令時代になると完全に奈良市の方へ引っ越してしまったので、紀の国造家が双方の神社を奉斎するようになったのではないか。

 

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