日本神話の継承者

★はじめに

『記紀』で取り上げている神話の主なる発祥地域としては、1.九州北部(元祖の英雄神は須佐之男命と天照大神)、2.出雲を中心とする日本海沿岸(元祖の開拓神は大国主命)、3.大阪湾沿岸域(元祖の創造神は伊弉諾尊と伊弉冉尊)、4.熊野(上古の熊野国。主祭神は高木神。)が主なもので、ほかに人皇間際になって九州南部の東南アジア系神話も取り入れられているが、当時の政治情勢の結果と思われ割愛する。また、人皇になってからの英雄譚を神話と取り上げる向きもあるが問題外として日本神話には取り入れない。神話と言うからには人間の物語に似せてはいても神は全知全能であり、従って、人間ができないようなことでもできてしまい、人間にとっては非常識なことでも神にとっては正常なことなのである。
ところで、男性のY染色体DNA型で日本人にあるハプログループは、D1b系統、O1b2系統、O2系統、C1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統があり、特に前3系統で日本人全体の約8割以上を占めているという。その先祖を訪ねるため、各ハプログループの発生と移動を見てみると、

1.ハプログループD1b
約6万年前頃にアルタイ-チベット近辺でハプログループDEからハプログループDが誕生したと推定
ハプログループDのうち、東進して日本列島に至り誕生したのがハプログループD1b
アルタイ-チベット付近にとどまったグループから誕生した系統がチベット人に高頻度のハプログループD1a
縄文人の祖先は約5万年前には中央アジアにいた。約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1bが誕生。(アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー説)
ハプログループDが華北を経由し九州北部に到達し、日本列島でD1bが誕生。(崎谷満説)
移動ルートは中央アジア、シベリア、北海道(マイケル・F・ハマー説)とアルタイ山脈麓、華北、朝鮮半島、九州北部(崎谷満説)
2.ハプログループO1b2
ハプログループO1b2は日本人及び朝鮮民族に高頻度である。頻度は26% -36%
日本人(和人)に高頻度でアイヌ民族には見られない。弥生時代以降の水稲農耕民
O1b2に属す集団は2800年前に中国江南から山東半島、日本列島から朝鮮半島へ水稲栽培をもたらしたとしている説がある(崎谷満説)
移動ルートは中国江南地方、山東半島、九州北部、朝鮮半島か。
3.ハプログループO2
日本人の頻度は約20%。漢民族(最大65.7%)、ビルマ系民族(最大86.7%)、朝鮮人(最大50.9%)に高頻度
日本国内の分布は九州北部~本州中部に多い
一部は弥生人として縄文時代に日本にミレット農耕(生産性が低い環境に育つ小規模に作付けされた雑穀栽培)をもたらしたが、その大部分は弥生時代以降の中国大陸及び朝鮮半島からの流入であろう(崎谷満説)
移動ルートは中国大陸、朝鮮半島から九州北部か。

以上をまとめてみると、日本の男性の半数が中国人、朝鮮人末裔のY-DNA O系統に属し、渡来時期もせいぜい3000年ほど前だ。おそらく、中国大陸や朝鮮半島の沿岸部からやって来たものと思われる。その頃の中国大陸と言えば秦や前漢の時代で秦や前漢の滅亡のたびに難民が日本に押し寄せてきたのだろう。難民なので高度の技術を持っている人もいれば、何もできない人もいたのだろう。日本で歓迎されたのは水稲栽培の技術で長江流域や江南の人は歓迎され、黄河流域や朝鮮半島の人はあまり歓迎されなかったようだ。朝鮮半島の水稲栽培は日本人(倭人)が伝えたとの説もある。従って、日本神話の故郷も長江流域や江南方面にあると考えるのが常識かも知れないが、一方では日本神話の内容は北方系という説もある。あれやこれや考えると日本の文明の起源は長江文明、黄河文明、遼河文明と言うことになるのだろう。序列をつけるのは何だが、一番日本への影響が大きかったのは長江文明、次いで遼河文明、あまり大きな影響を与えなかったのは黄河文明と言うことかと思う。従って、中国、朝鮮、日本は同じ人種と言ってもその文明や文化の成り立ちは異なるようだ。

★『記紀』が採用した神話とは

日本神話の類型を古さから言うと1.伊弉諾尊、伊弉冉尊 2.素戔嗚尊、天照大神 3.高木神 4.大国主命と言うことになろうかと思われる。1.伊弉諾尊、伊弉冉尊の神話は中国の「伏羲・女媧」神話を始め中国、東南アジア、インドに類似の神話が多いという。また、始祖となった男女二柱の神の最初の子が生み損ないになるヒルコ(蛭子、蛭児)説話も世界的に多いらしい。これは近親婚を戒めたものという。2.素戔嗚尊、天照大神の神話は伊弉諾・伊弉冉のバリエーションの一つかと思われる。3.高木神は後ほど高皇産霊尊となるが、私見で恐縮かと思うが天皇家の出身母体を山部と解釈するなら高木(こうぼく)信仰があってもおかしくはないのではないか。一応、その本性としては、朝鮮古代の起源神話(檀君神話など)と同一系統神、太陽神、神社の神木の起源ともなった農耕神など。4.大国主命の神話は限りなく日本海側沿岸の開拓神と言おうか開拓者にまつわる説話が多い。大国主命には多くの別名があり、あちこちに出向いて開拓や土賊掃討などを行ったのではないか。但し、それぞれの神名による神話を大國主神に統一したという説もある。
『記紀』の編纂者はおそらく「伊弉諾尊・伊弉冉尊」神話のみを採用しようとしたのであろうが、あちこちから横やりが入り、結局、「伊弉諾尊・伊弉冉尊」神話を主軸にほかの神話をその傘下に置いて一つの神話にまとめようとしたようである。
以上より考察すると『記紀』にある日本の神話は主として中国大陸から水稲稲作とともに導入されたものなのであろう。その導入時期は弥生人とともになのか、はたまた、国史編纂の間際になって導入されたものかははっきりしない。『古事記』で出雲神話の取り上げ方が少しばかり多いのは当時にあって大和神話は未だ未完成であったか。

★日本の神話を継承してきた人々

日本の畿内の神話、九州北部の神話、熊野の神話、出雲の神話にはそれぞれ代々継承する人がいて少なくとも飛鳥・奈良時代までは存在していたと思われる。無論、平安時代の『延喜式』にも語り部は出てくるが、これは変質した語り部であろう。継承方法としては語り部による継承が主なもので文字による継承は補助的なものではなかったか。上記神話発祥四地域の共通点としては、1.海部(海人族)が勢力を持っていた地域であること 2.語り部がいたことである。特に、資料が割とはっきりしている畿内と出雲を見ると、
1.海部に関しては、当時は半農半漁の時代で、現今で言う漁師ばかりでは生業とはなり得ず水稲稲作は無論のこと船による交易も行っていたのではないか。その商圏としては出雲の場合は現在の出雲市を拠点に出雲神族により現在の新潟県糸魚川市から福岡県宗像市の日本海沿岸地域を交易の場としていたのではないか。一方、畿内の場合は後世の大伴氏が摂津国雄伴郡(現・神戸市兵庫区南部か)あるいは摂津国西成郡雄惟郷(大阪市中央区あるいは南区の三津寺町・畳屋町・笠屋町など)を拠点に現在の兵庫県加古川市から和歌山市までの大阪湾岸、淡路島、徳島市から愛媛県松山市までの四国沿岸を商勢圏として交易を行っていたのではないか。
海部に関しては『魏志倭人伝』にも「無良田食海物自活乗船南北市糴(良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。)」(對海【馬】國)とか「差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴(やや田地ありて、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。)」(一大國)とかあって、当時の人にあっても足らざるところは交易により必要物資を入手していたようである。産業としての漁業は「好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之(よく魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。)」とあり、今とは違いほとんどが潜水漁法だったようである。即ち、海部の本業は交易と漁業であったようである。水稲稲作は『魏志倭人伝』では対馬、壱岐は田地が悪いようなことを言っているが、技術的に未だしの感があったのではないか。
2.語り部
語り部とは古伝承を宮廷の儀式で奏上した品部で、早い時期(天武天皇の頃が最盛期か)に宮廷の儀礼に入れられたと考えられている、と言う。現在残っている具体的な内容は平安時代のもので、『延喜式』によると、践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に、伴宿禰、佐伯宿禰は、美濃8人、丹波2人、丹後2人、但馬7人、因幡3人、出雲4人、淡路2人の語部を率いて参加し、語部の古詞(ふるごと)を奏した。「其(そ)の音、祝詞(のりと)に似たり」という古詞の内容は現在伝えられていない。しかし、語り部と言っても一様ではないようだが、ここで言う語り部とは「上古之世,未有文字,貴賤老少,口口相傳,前言往行,存而不忘。」と言う齋部廣成の『古語拾遺』が言った<口口相傳,前言往行,存而不忘>の部分で、文字と紙と筆記具が導入される前は口承で記録を残し、口承の内容が石碑に刻まれたもののように永くから変わらず伝わっている(口碑)という役割を担った人々を言う。『出雲国風土記』に出てくる意宇郡安来郷の語臣猪麻呂(息子に語臣与がいたという)が具体的にどういうことをしていたかは解らないが、語部の伝承方法は一族による相伝であったと言う。おそらく一般に語り部と言えば宮廷儀式における古伝承の奏上者なのであろう。『延喜式』には、左、右衛門がこれらの語部を集めて古詞を唱える練習をしたとあるので、宮廷における語り部を統轄していたのは伴氏、佐伯氏だったか。かっての武門の家柄も平安時代に入ると合唱隊の指揮者と言うことか。語り部にはほかに天語連とか海語連と言うのも出てくるが、現今で言う宴会における太鼓持ちのことか。そんなことを言ったら身も蓋もないので、一応、漁民集団の贄(にえ)の貢進にまつわる服属の古詞を奏するものが海語部で、その伴造が海(天)語連だったという。天語連のみが『新撰姓氏録』に登載されている。『日本書紀巻第二十九天武天皇紀下』「天武天皇十二年九月乙酉朔丙戌、大風。丁未、倭直・栗隈首・・・語造、凡卅八氏賜姓曰連。」この語造から語連になった氏が『新撰姓氏録』に言う天語連なのか。

海部は交易をも生業にしていたと思われるが、舟の移動はスピーディーであり、大量の輸送をも可能にしたのではないか。しかし、山部の交易が内々のものであったのに対し、海部の交易は最初から遠隔地の外部との取引であったのではないか。例えば、狩猟での取り分が前回と今回が違うなどと言っても村人同士なら村長さんの一存で、家族の間なら家長が鶴の一声で解決しただろうが、仲裁者のいない第三者との取引ならば争いになりかねない。そこで、何らかの記録をする者が必要になったかと思う。当時は記録媒体や記録用具はなかっただろうから何らかの方法でそれを補わなければならなかったと思われる。そこで考案されたのが語部による記録ではなかったか。出雲国の交易船団には必ず記録係と言うべき語部と意思疎通を図る訳語・通事(いずれも<おさ>と読む。現今の通訳。)が必ず同道したのではないか。船団が大がかりなものになっていることについては、兵庫県豊岡市の袴狭遺跡から出土した船団を描いたと思われる線刻画木製品(4世紀頃か)に顕著である。また、この語部の記録というものはかなりの秘匿事項ではなかったか。例えば、当時は物々交換がほとんどだったと思われるが、交換比率は諸般の事情により取引相手ごとに別々だったのではないかと思われるが、それが漏れては出雲なら出雲と遠隔地の取引先との商売が混乱してしまい取引不能になってしまう。出雲の語部の分布は濃密などと言われていて、他の国の語部は無姓(備中国に直の姓を持つ氏がある。)なのに対し、出雲国は『出雲国大税賑給暦名帳』などに臣、君、首などの姓を持つ語部氏がいた。なお、語部君族猪手なる人物がいて君族なる姓を解く向きもあるがこれは君と解すべきではないか。出雲国だけに有姓の地方伴造がいたのは出雲は早くに語部の管理者である出雲神族の人々が倭国に移ってしまい残された語部諸氏の旧来の語部業務は雲散霧消してしまったのではないか。そこで新しく入ってきたのは古伝承を宮廷の儀式で奏上すると言う大和朝廷の仕事ではなかったか。多くなりすぎていた旧来の語部に姓を与えて序列を設けたのであろう。一方、畿内の語部については文献に表れてくるものは皆無で、おそらく大伴氏が単独で管理していてその管理方法が厳しかったのであろう。大伴氏には大伴室屋の息子で大伴談という人物がいたが、談と言う名前は語部に多いという。おそらく語部の管理を行っていたと思われる。大伴氏と語部は関連性が乏しいように思われるが、大伴氏にあっては枢要な位置を占めていたのではないか。

★まとめ

日本神話を継承してきたのは、おそらく、出雲神話にあっては出雲神族、畿内神話にあっては大伴氏かとも思う。出雲神族については具体的には太安万侶で有名な多氏で、多氏は神武天皇の子の神八井耳命の後裔と称しているが失礼ながら眉唾物ではないか。太安万侶は天武天皇が、10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した、と聞き、これはもっけの幸いと「こういうことができるのは当家(多氏)と大伴氏だけだ」と考え、早速、大伴氏に協同で国史編纂の申し入れをしたが、当時は体制派だった大伴氏はやんわりと断ったのではないか。そしてできたのが太安万侶一人により編纂された『古事記』だったのではないか。『古事記』は出雲神話の部分はいいが、人皇の代になると時代が下れば下るほど粗雑なものになった。おそらく、大伴氏の協力が得られなかったからであろう。大伴氏と多氏では国政参画の度合いが違い、国史編纂のような国家的事業には大臣や大連を経験した家柄の人を当てるべきではなかったか。但し、天武天皇が『帝紀』などというので皇族を多数任用しているがいかがなものか。何せ天皇家にはその種の資料はなく、かつ、天皇家直属の語り部がいたかどうかははなはだ疑問だ。大伴氏はと言えば肝心なところは教えてくれず、後世の大阪商人ばりに「俗姓・筋目にもかまわず、ただ金銀の氏系図になるぞかし」(井原西鶴『日本永代蔵』)というもののようだ。大伴室屋(倉庫の意味か。歴代天皇は大伴氏の倉庫の中身を狙っていたのだろう)とか大伴金村(金銀鉄を産出するところの意味か)など大伴氏に反感を持ったようなネーミングをしているところがある。蘇我蝦夷や蘇我入鹿の蝦夷や入鹿は彼らの本名ではないと言う説もある。大伴氏には彼らが集めたデータは口外しないと言う掟のようなものがあったのだろう。天皇に嫁いだ人がほとんどいないのも機密が漏れるのを警戒したためか。それ故か、大伴氏には豊富なデータがあったようで、顕著なのは『万葉集』かと思われる。『万葉集』の四千五百余首のうち相当部分は大伴氏伝来の門外不出の歌だったのではないか。『万葉集』の巻頭を飾るのが雄略天皇の御製歌と言うのもいかにも大伴氏らしい。

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門部氏

★はじめに

門部と言えば門号十二氏のことと思いきや、門号十二氏の前に「門部氏」という氏族がいたようである。門号十二氏は、

丹比 山部 健部 的 壬生 大伴 若犬養 玉手 佐伯 伊福部 海犬養 猪養の十二氏で、ほとんどが前代の門守(大伴、佐伯)や屯倉の守衛(若犬養、海犬養、猪養は犬養の誤字か)、軍事氏族(丹比、山部、健部、的、玉手)で、あまり守衛と関係ないのは壬生と伊福部か。この二氏は現今で言う縁故採用された氏族か。犬養が多いのは『日本書紀』(巻第十八安閑天皇)「二年夏五月丙午朔甲寅 置筑紫穗波屯倉・鎌屯倉 豐國尖碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大拔屯倉・我鹿屯倉 火國春日部屯倉 播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉 備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉 婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉 阿波國春日部屯倉 紀國經湍屯倉・河邊屯倉 丹波國蘇斯岐屯倉 近江國葦浦屯倉 尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉 上毛野國綠野屯倉 駿河國稚贄屯倉 ◯秋八月乙亥朔 詔置國々犬養部」とあり、「現在では、犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていたという説が有力になっている。」とする。この場合の犬は猟犬や食肉犬などではなく、言わば軍用犬で現在でも自衛隊には海上自衛隊の警備犬(けいびけん)、航空自衛隊の歩哨犬(ほしょうけん)がいるそうな。屯倉守衛犬が放し飼いで使役されていたものか、はたまた、リードにつながれて使役されていたものかは定かではないが、犬養氏・犬養部は長続きしなかったらしく、その後、軍事氏族へ転向したようである。但し、犬養部を統率した伴造(とものみやつこ)に、県犬養連、海犬養連、若犬養連、阿曇犬養連の4氏が存在したと言うが、県犬養連を除いては海人系氏族のようだ。この犬養は漁業とは関係なかったのだろうか。一応、門号十二氏は律令制以降の制度とすれば、それ以前にもその種の職掌の人はいたようで、早くも『魏志倭人伝』には「宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛」とあって、<守衛>の文字が見える。日本の文献では「『令集解』職員令左衛士府条に引用される弘仁2(811)年11月28日付太政官符に大伴氏が靭負3000人を領して左右分衛したとあり」が極めつきであり、後世でも左右衛門府の衛士の定員が各々600<厳密には、衛門府(定員400人)・左右衛士府(定員各600人)。その後時代が下るとともに衰えて行ったようである。>とあるので、雄略天皇の時代に比べ律令の時代になると人数は半減したか。雄略天皇は吉備氏を警戒していたようで、内応者にでも寝首をかかれては元も子もなくなるとばかりに大伴室屋に厳重に警備させたのであろう。
ところで、門部氏だが、『新撰姓氏録』に以下の二氏が載っている。

大和国 神別 天神 門部連 連 牟須比命児安牟須比命之後也

右京 神別 天神 波多門部造 造 神魂命十三世孫意富支閇連公之後也

いずれも、大久米命の子孫で、特に、前者は七拳脛命(ななつかはぎのみこと。日本武尊の東征の際の膳夫。)の孫(まご)で猪石心足尼(いいしごりのすくね)の子孫といい、久米氏・門部氏の嫡流という説もある。宮城十二門の各門に置かれた氏族を「門部(かどべ)」と総称し、門号十二氏の部民がその任に当たった、と言う見解もあるが、上述の門部氏はカバネもあり部民ではなく、律令前にあっては独立した後世で言う左右衛門督(かみ)ではなかったかと思われる。
後者は、途中で波多門部氏(波多を省略し単に門部と称した、と言う。)と波多氏に分かれ、波多氏には武内宿禰の長男である波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする波多氏が著名であるが、波多の地名は『和名抄』に、大和国高市郡波多郷、出雲国飯石郡波多郷、肥後国天草郡波多郷があり、中央豪族の波多氏はおおむね大和国高市郡波多郷出身であろうが、異流も多いようだ。
肝心の門部氏のご本家とも言うべき<久米氏>については、『新撰姓氏録』では、

左京 神別 天神 久米直 直 高御魂命八世孫味耳命之後也

右京 神別 天神 久米直 直 神魂命八世孫味日命之後也

の二流が記されている。いずれ双方とも「我が家が大久米命直系の子孫」と主張して譲らなかったのであろうが、久米氏は上記のように異流が多いようで、ほかに『新撰姓氏録』では<右京 皇別 久米朝臣 朝臣 武内宿祢五世孫稲目宿祢之後也>と<大和国 皇別 久米臣 臣 柿本同祖 天足彦国押人命五世孫大難波命之後也>が登載されている。

★門部とは、海部、山部などと同じ頃に発祥した職業集団か

「部」の設置であるが、『日本書紀』に「応神天皇五年秋八月庚寅朔壬寅 令諸國 定海人及山守部」とあり、『古事記』応神天皇段に「此之御世定賜海部 山部 山守部 伊勢部也」とある。日本には血縁集団を表す用語に「カラ(柄)」と「ウヂ(氏)」、職業集団を表す用語に「トモ(伴)」と「ベ(部)」、後世の位階に相当するカバネを表す用語に「ムラヂ(連)」と「ヲミ(臣)」などがあり、いずれも前者が古く後者が出てくると徐々に一般的には使用されなくなった、と言う。前者の「カラ(柄)」、「トモ(伴)」、「ムラヂ(連)」などは『記紀』にのみ出てくる用語(特に、「トモ(伴)」、「ムラヂ(連)」)で、金石文、日本に関する外国文献にはなく、疑問視する向きがあるようだ。
まず、「トモ(伴)」は外国文献にないと言うが、『魏志倭人伝』に「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千余家」とあり、<多模>を内藤湖南博士はタマ(玉、魂)と解しておられるが、山田孝雄博士はトモ(伴造)と解しておられる。次いで、「ムラヂ(連)」であるが、『記紀』と同じ頃に出版された『風土記』にも山部連小楯とか石作連大来(『播磨国風土記』)や信太連(『続日本紀』)などがあり、ことさらに『記紀』ばかりを強調することはないのではないか。なお、臣の金石文は「埼玉県行田市稲荷山古墳から出土の鉄剣銘にみえる〈乎獲居臣*〉の〈臣*〉が〈臣〉の字ならば,臣の称号の用例は5世紀後半にまでさかのぼれる。」とある。「臣*」は金石文のため「臣」とは少し字形が違い、諸先生は神経質になっているようだ。また、「連(むらぢ)」は金石文に出てこないと言うのであろうが、一般に、臣が地域の有力者へのカバネであるのに対し、連は職域の有力者に対するカバネである、とされている。従って、「臣」は『魏志倭人伝』に言う地方首長クラスの人(「卑狗(彦か)」「爾支(稲置か)」「兕馬觚(島子か)」「多模(玉あるいは伴か)」「彌彌(耳か)」など)に与えられたか。「連」は職域と言うことで現今で言う有能な職人は畿内と九州北部に偏りがあったのではないか。従って、「連」のカバネは「臣」と異なり全国的に広がったものではないと思う。少なくとも『魏志倭人伝』の時代には「伴」はあったかもしれないが、「臣」「連」などのカバネはなかったようだ。また、記紀ともに最初に設置された部は海人部と山守部なので海人部(大阪湾岸一帯か)は伴とか連を使い、山守部(奈良盆地一帯か)は部とか臣を使ったか。私見では伴と部は伴から部へ移行し、連と臣は連(連枝が語源か)は天皇の姻族の臣下であり、臣は姻戚関係のない(その後はあったかもしれない) 臣下を言ったと思う。『魏志倭人伝』にも倭の山や海の風物や風俗が描かれている。
「部」はいつ頃日本に導入されたのかというと、標準的な見解として<五世紀後半には成立していた百済の「部司」制度により渡来人の「部」がまず成立し、それが在来のトモ(伴造)制度に波及するとともに、やはり五世紀後半に確立した百済の「氏」も導入された。>(平野邦雄東京女子大学名誉教授)というので、「部」や「氏」は五世紀後半に百済の制度が取り入れられたと言うことになる。因みに、渡来人の「部」としては、錦織部(にしこり・にしごりべ)(絹織物の生産に従う)、衣縫部(きぬぬい・きぬぬいべ)(衣服の縫製に従う)、鍛冶部(かぬち・かぬちべ)(鉄と兵器の生産に従う)、陶作部(すえつくり・すえつくりべ)(陶器の製作に従う)、鞍作部(くらつくり・くらつくりべ)(馬具の製作に従う)、馬飼部(うまかい・うまかいべ)(馬の飼育に従う)などがあった、と言う。日本古来の伴が部になったものとして、殿部(とのもり)(天皇の乗輿,宮殿の調度,灯火をつかさどる)、水部(もいとり)(供御の清水や氷をつかさどる)、掃部(かにもり)(殿内の掃除をつかさどる)、門部(かどもり・かどべ)(宮殿の諸門の守衛をつかさどる)、蔵部(くらひと)(内蔵,大蔵の出納をつかさどる)、物部(もののべ)・佐伯部(さえきべ)(軍事・警察、刑罰をつかさどる)などがあった、と言う。
以上より門部という語は五世紀の後半に百済の部司制度が導入された時に、門守から門部と変更されたようであるが、その職務内容は『魏志倭人伝』にも「守衛」の言葉があるように、古くから天皇家が家臣にさせる主要な任務であったことが解る。

★久米氏と門部

平安時代の門部氏は門部連氏、波多門部造氏ともに大久米命の子孫と名乗っているので大和朝廷初期の執政権が久米氏から大伴氏へ移動したとしたら、我が国の黎明期から景行天皇の全国統一までの間は門守の任務は久米氏が担っていたのではないか。その後は大伴氏が単独で門守(後世の衛門府長官)の職を担っていたようだが、重責に堪えられず、門守から門部に編成され、令制では衛門府となるに従い管理者の数が増加され、最終的には「門号十二氏」となったようだ。これらが「門号十二氏」が古来門部として宮城門守衛の任を負ってきた氏族であると推測される、と言う説もある。
久米氏が大和朝廷発足期から宰相として国政に参画したことは事実とは思うが、国家も徐々にステータスが上がっていくと、従来型の天皇の身の回りを世話するタイプから現今で言う行政能力のある人が重用されるようになったのではないか。その意味で久米氏は秘書官としては適していたかも知れないが、司法・行政・立法の三権の長には適任ではなかったと思われる。久米氏の衰退は神武天皇の頃から始まっていたと思われるが、その後任の大伴氏にまとわりついて平安時代まで家名をつないだと言うことは名家の手本とでも言うべきものだ。

★まとめ

門部(従って、門部氏も)という語は百済から部司制度が入ってきてからの語のようで早くて五世紀後半、説によっては七世紀になってから生まれた言葉という。『記紀』には、応神天皇の時代に「此之御世定賜海部 山部 山守部 伊勢部也」とか「令諸國 定海人及山守部」などとあるのはまったく以て眉唾物で当時にあっては海部(あまのとも)とか山部(やまのとも)とか言っていたのであろうか。日本古代史の先生によっては『記紀』の推古天皇より前の文言はでたらめという人もいる。
門部氏は門部連は大和国から出なかったようでこちらが本流と思うが、都が大和国を離れてから門部連一族は何をしていたのであろうか。遷都後、当分の間は平城京の管理などがあったであろうが、その後はどうなったのであろうか。波多門部造は京都へ引っ越したとは言え何か家業でもあったのであろうか。『新撰姓氏録』に名を連ねるのでそれなりの生活をしていたであろうが、栄枯盛衰は世の習いとはいうもののどこかの守衛業務でもあったのであろうか。
門号十二氏と門部氏の関係だが、 伴の時代には門守といい、部司制度の導入に伴い門部となり、令制では衛門府と言い、門守、門部、衛門府と名を変えようが大伴氏以下の門号十二氏が負名氏(なおいのうじ)として宮城門守衛の任を負ってきたとするのが一般的見解である。そこに門部氏と称する類似の職種の氏族がある。門号十二氏のような丹比 山部 健部 的 壬生 大伴 若犬養 玉手 佐伯 伊福部 海犬養 猪養と言う有力氏族名ではないようで十二氏では山部 健部 伊福部が部のつく氏である。部のつく氏族は部民を管理した氏族なのか、はたまた、部民から管理職になった氏族なのかは解らないが、門部氏も厳密にその職務を検討してみなくては何ともいえないものの、十二氏の長官とも言うべき大伴氏が前任者の久米氏の子孫と言うことで門部あるいは衛門府の職員に取り立てたものではないか。後世、役職には督(かみ)、佐(すけ)、大尉(だいじょう)、少尉(しょうじょう)、大志(だいさかん)、少志(しょうさかん)の四等官のほか、府生、府掌、使部、直丁(以上、事務官系)、「門部(かどべ)。左右衛門府の職員で、伴部。定員は各六十六人。宮城門の警備官。」とあるので、この職掌名から門部の氏の名がついた比較的新しいものか。
雄略天皇の時代は、1.部司制度の導入 2.暦法の変更 3.渡来人の部の設置による技術革新 4.中国南朝との積極外交。『宋書倭国伝』、『南斉書倭国伝』、『梁書倭伝』に倭王武が出てくる。特に、順帝の昇明2年(478年)の倭王武の宋に対する上表文は格調高く著名だ。しかし、これには異を唱える人がいて倭王武の中国に対する遣使は宋に対する一回のみと言う。とは言え、外国の正史に日本の天皇の一文が載せられているのは雄略天皇だけだ。 5.養蚕振興(雄略紀六年三月天皇欲使后妃親桑 以勸蠶事)など多くの事績が上げられるが、門部連の氏の名が発生したのは五世紀末から七世紀末までの間なのだろう。本家の久米氏が二流に分かれているように門部氏も二流に分かれているようだ。

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大伴談

★はじめに

大伴談(かたり・語とも書く)は通説的見解では大伴室屋の子、金村の父とされている。系図によっては談は室屋の弟で金村は室屋の子とするものもあるようだが、採用する学者先生はほとんどない。『日本書紀』に出てくる談の事績は少ない。抜粋をしてみると、

雄略天皇九年三月「天皇欲親伐新羅 神戒天皇曰 無往也 天皇由是 不果行 乃勅紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連【談 此云箇陀利】・小鹿火宿禰等曰 新羅自居西土 累葉稱臣 朝聘無違 貢職允濟 逮乎朕之王天下 投身對馬之外 竄跡匝羅之表 阻高麗之貢 呑百濟之城 況復朝聘既闕 貢職莫脩 狼子野心 飽飛 飢附 以汝四卿 拜爲大將 宜以王師薄伐 天罰襲行 」(意訳:雄略天皇は新羅に天皇親征(親伐)を行おうとしたが、神が戒めて「それはだめだ」と曰ったので断念した。よって、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰の四人を大将として討伐を命じた)
「小弓宿禰 追斬敵將陣中 喙地悉定 遣衆不下 紀小弓宿禰亦收兵 與大伴談連等會 兵復大振 與遣衆戰 是夕 大伴談連及紀岡前來目連皆力鬪而死」(意訳:紀小弓宿禰は追撃し敵将を陣中で斬る。喙(とく・慶尚北道慶山)の地をことごとく平定したが、喙の遺されたものたちは(倭に)従わなかった。紀小弓宿禰はいったん兵を收め、大伴談連等と會った。兵はまた大いに奮い立ち、喙の遺衆と戦ったが、その夕方、大伴談連及紀岡前來目連は、皆、力闘して亡くなった。)
有り体に言うと、出征して戦死した、と言うことなのだろう。
ほかに大伴談に関することとしては『新撰姓氏録』に、
「左京・神別・天神・大伴宿祢・宿祢・高皇産霊尊五世孫天押日命之後也・初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。天押日命。大来目部立於御前。降乎日向高千穂峯。然後以大来目部。為天靱部。靱負之号起於此也。雄略天皇御世。以入部靱負賜大連公。奏曰。衛門開闔之務。於職已重。若有一身難堪。望与愚児語。相伴奉衛左右。勅依奏。是大伴佐伯二氏。掌左右開闔之縁也」
「望与愚児語。相伴奉衛左右。」とあって、父の大伴室屋大連が衛門を子息「語」と分衛したいと願い出て認められた。しかし、これは『令集解』職員令左衛士府条所引の弘仁二年(811)11月の太政官符に、室屋が靫負3000人を領して左右を分衛した、と言う大規模なもののようだ。この組織はその後の大伴氏の衰退のためか律令制には継承されなかった。
ほかに「右京・神別・天神・佐伯日奉造・造・天押日命十一世孫談連之後也」とある。
大伴談は若くして亡くなったため子息は金村(大伴氏嫡流)と歌(佐伯日奉造の祖先)だけだったようである。佐伯氏にはほかに衛門の開閉を行った佐伯氏があるが、これは大伴室屋の子の「御物」の子孫であり、こちらの佐伯氏の方が歴史上著名である。
なお、『古事記』雄略天皇段は、東は埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘(獲加多支鹵大王)や西は熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘(獲□□□鹵大王)、あるいは、『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武にも比定される雄略天皇伝としてはあまりにもお粗末で、現代的に言うと著者の太安万侶は「お前は読者をバカにしているのか。本代を返せ。」と叱られるのがオチのような内容だ。言うなれば一個人の力(稗田阿礼なども編纂者の一人という説もある。)で国史を編纂するなどと言うことは非常に難しく、おそらく太安万侶はその種のことに有力だった大伴氏に資料提出を願ったのかも知れないが、大伴氏は安万侶に「お前のじいさんかひいじいさんかは知らないが、大部と書いて「意富部(おおべ)」と読み、太氏の部民なのに大伴氏が「おおとも」と読んで大伴氏の部民にした、とお上に訴えた。天孫降臨以来の大伴氏にケチをつける輩には大切な資料を見せられない。」とかなんとか言ったものの、大人げないと思い、手持ち資料が豊富な景行天皇賛美の歌を書いた資料を渡したのではないか。大伴氏もいい加減なら安万侶も安万侶でよく検討もせず景行天皇賛美の歌を雄略天皇段に載せている。

★大伴談の名前の由来

古代にあって「談(かたり。語とも)」の名の人はおおむね<語り部>であったという説がある。語り部はその発祥は全国的で、各地の首長の下に隷属していた部民(べみん)であったと思われる。文献学的に確認できるのは、
702年(大宝2年)御野国味蜂郡春部里の戸籍に「語部」
720年(養老4年)「日本書紀」天武天皇12年9月条に「語造(かたりのみやつこ)」が連のカバネを賜る。
733年(天平5年)「出雲国風土記」意宇郡安来郷に「語臣猪麻呂」
739年(天平11年)「出雲国大税賑給歴名帳」に「語部君」「語君」「語部首」
797年(延暦16年)「続日本紀」養老3年(719)11月の条に「小初位上朝妻の手人竜麻呂」に海語連(あまかたりのむらじ、天語連「新撰姓氏録」とも)の名とカバネを賜った。
『古事記』<712年(和銅5年)>に出てくる稗田阿礼は語部かどうかは同書の内容からははっきりしない。現今では『古事記』の編纂者の一人と理解されている。語り部の分布地が東は遠江(とおとうみ)、美濃、西は出雲、備中(びっちゅう)と言うので、いずれ全国的なものとは思うが、大和朝廷が全国制覇の早い時期に朝廷の制度として取り入れた、と考える向きが多いようである。それでは、大和朝廷の初期には語り部などというのはいなかったのか、と言うことになるが、おそらく当初は軽い職種に見られていたが朝廷による倭国統一が進むとその初期の段階で重要性が認識されたのであろう。
語り部の意味内容も文字の普及とともに変わったようである。国民の90%以上が文盲の時代は、語り部は記録係であり、生ける書類でもあったであろう。その後、大陸や半島からの識字者や日本人でも識字に意欲を示す人が出て一部上層階級では語り部は必要がなくなったが、多くの下級官吏や庶民には語り部の言葉による伝達等が必要ではなかったか。次いで、官吏等にはおおむね文字が普及し、文字の読み書きができない者は当然ながら事務官には採用されなかったのではないか。ここいらから語り部の行く末は枝分かれし、『貞観儀式』や『延喜式』の平安朝の記録によれば、天皇の即位儀礼である大嘗祭のおり、諸国から集められた語り部が〈古詞〉を奏していたと言い、それは祝詞(のりと)に似たかたりごとで、一部は歌曲風でもあったという(『北山抄』)。同時に吉野国栖(くず)が〈古風〉を、悠紀(ゆき)の国(大嘗祭の時、神事に用いる酒料、新穀などを献ずる国)の歌人が〈国風〉を奏した、とある。何か今で言う神主や流行歌手、民謡歌手、演歌歌手のような感じだ。祝詞を除いては言わば余興の一種になっていたのではないか。
語り部と言えば、文字のなかった時代に語り伝えられて来た神話・歴史・伝承等を口誦で語り伝えることを職掌としていた人々、と解する向きが多いが、神話・歴史・伝承等を口誦で伝えるのは語り部の職務の一部であり、それらが物語り化して最後まで残ったと言うことではないのか。
さて、大伴談の名前の由来だが、考えられることとしては、
1.母親が語り部出身で、母方が「談」と名付けた。
2.父・室屋が国史編纂の遠大な計画を持ち、「談」にそれを託そうとした。
3.兄・談は文官に、弟・御物は武官にし、お家の安泰を図った。御物の物は武器のことか。
大伴氏は天皇家と並び称されるほどの古い家柄であり、日臣(道臣)の時代から語り部が隷属していたと思われるが、あるいは、家伝の継承を語り部が行っていたのかも知れない。室屋の時代になり紙もそんなに珍しいものではなくなり、息子の談にそれまでの口承の家伝を文書にするように命じたのかも知れない。とにもかくにも、室屋・談親子は公私にわたって忙しかったようだ。

★室屋の国史編纂

雄略天皇の時代は、言わば古代の画期であり、『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることなどから、雄略朝を大和朝廷の勢力が拡大強化された時代ととらえることができる。その先導役を務めたのは大伴室屋で、おそらく雄略天皇が室屋を抜擢したのは吉備氏対策のためかと思われるが、瓢箪から駒で室屋は多方面に活躍したようだ。その国史編纂だが、天皇は版図拡大を図るとともに「置史戸・・・唯所愛寵 史部身狹村主靑・桧隈民使博德等(雄略紀二年是月<冬十月か>)」ともあるので、文人を好み、軍事的なことばかりか、文化的なことにも理解を示したのではないか。大悪天皇などと評判はよくなかったようだがそれは若かりし頃のようで歳とともに円熟してきたのではないか。室屋の国史編纂の発端も、天皇御愛寵の身狹村主靑や桧隈民使博德が頻繁に室屋のところへ行くので天皇が「お前たち、室屋のところへ何をしに行っているのだ」と問いただしたところ、「漢字の読み書きを教えている」と言い、「何人くらいの学生がいるのか」との質問には、「五十人くらい」と答え、天皇も「それじゃあ、視察しよう」と言うことで行ってみたら五十台の机と学生が整然と座って勉強をしていて当時にあっては壮観だったのではないか。おそらく語り部と史部から選抜された人が主力だったのではないか。天皇は感激した。私見では上述の「置史戸・・・(雄略紀二年是月<冬十月か>)」の「史戸」が大伴室屋が設置した国史編纂の部ではないかと思っている。雄略天皇の遺詔に「大連等、民部廣大、充盈於国。」というのもこの学生の光景を絶賛したものではなかったか。大連等の等は複数の意味ではなく、大伴室屋を言ったものではないか。参考として『万葉集・巻三337』の「憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽」の<憶良等>の等と同じ使用例ではないか。

★まとめ

最後に、大伴室屋が目指した『日本国史』とも言うべき史書はどうなったのかと言うことである。室屋が編纂を託そうとした息子の<談>は若くして戦死し、雄略天皇崩御後は直後に起こった星川稚宮皇子の叛乱を東漢掬と共に鎮圧。清寧天皇には后妃、皇子女がなく、諸国に天皇の御名代として白髪部舎人・膳夫(かしわで)・靱負(ゆげい)を設置したりと短い在位年数で終わる各天皇の大喪の礼や即位の礼の儀式等に奔走し何もできなかったのではないか。従って、国史編纂の<史戸>も室屋の死とともに自然消滅し、わずかばかりの残された資料は大伴氏が保管することになったのではないか。室屋にすれば<談>が生きていてくれさえすればの思いばかりが募ったであろうが現実は彼の思い通りには行かなかった。

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大部氏とは

★はじめに

過般、某私立大学の名誉教授(物故)の書籍を読んでいたら「私は大伴は元来、大部であった可能性が強いと考えている。」と曰っていた。古記録でも大伴を大部と書いてあるものが少なくないので、あながち失当とは言えないのかも知れないが、あまり一般的ではないのではないか。そこで、大部(おおとも)について検討してみると、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』に要領よくまとめられているので抜粋してみる。

『姓氏家系大辞典』(第一巻アーカ 太田亮 角川書店版)

大部 オホトモ オホベ 部は伴に同じ。よりて大伴は又大部ともあり。但し、オホベと読むものは其の條を見よ。

1.大部連 三代実録、日本霊異記等大伴連を大部連に作るもの多し。

(私見 おそらく伴を百済の例に倣い部と翻訳したものをそのまま無批判に採用したものであろう。)

2.大部直(武蔵) 大伴部直、大伴直に同じ。武蔵国造族なり。
3.大部首 和泉の氏なり。此も大伴部の首長なりし氏なるべし。
4.大部造 播磨風土記、賀古郡鴨波里條に「大部造等の始祖古理売此の野を耕して、多く粟を種う。」と見ゆ。播磨大伴部の首長の氏なるべし。

(私見 直、首、造の大部は大伴部の中略で大伴部を大部<二字化政策の影響か>と書いて読みを「おおとも」としたものかと思う。大部と名乗ってもいろいろな氏が混在しているようで、例えば、大部造は『新撰姓氏録』の「大和国・諸蕃・任那・大伴造・造・出自任那国主龍主王孫佐利王也」のことといい、任那の滅亡とともに大伴氏に従ってきた帰化人か、と言う見解もある。)

5.大部宿禰 東大寺要録に見ゆ。
大部 オホベ オホブ オホトモ 和名抄越中国新川郡に大部郷あり。高山寺本丈部に作り、今亡と見ゆ。東大寺要録に新川郡に大部庄あれば大部の方よかるべしと。
大部のオホトモと読むものは大伴なれど、オホベと読むものは多(意富)氏の部曲なり、注意を要す。

従って、大部と書いても読みは「オホトモ」と「オホベ」の二種類があるようで、オホトモなら<大伴>、オホベなら<多部>のことのようである。現在、地名で大部と書くものは何カ所かあるが読みは「おおべ」と「だいぶ」だけである。よって、大部をオホトモと読むのは平安貴族のこじつけか。
某私立大学名誉教授は大部と書いてある文献を拾い上げているが、
『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)平安時代初期 <弘仁13年 (822年)か> 著者は奈良右京の薬師寺の僧景戒
『伊勢風土記逸文』
『三代実録』(『日本三代実録』)延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。
『扶桑略記』 寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂。
『太子伝暦』(『聖徳太子伝曆』)延喜 17 (917) 年成立。編者は平安時代前期の歌人藤原兼輔 (877~933) 。
『播磨風土記』(『播磨国風土記』)編纂が行われた期間は和銅6年(713年)から霊亀元年(715年)頃まで。編者は当時の国司であった巨瀬邑治・大石王・石川君子、大目であった楽浪河内など。
『姓氏録』(『新撰姓氏録』)平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された。
大部と書かれてある文献は上記のようであるが、風土記を除いてほかは全部平安時代のものであり、名誉教授が期待するような大部は大伴の古形というのも成り立つのかどうか。即ち、大部が出てくる文献は時代的に新しいと言うことである。なお、上記、大部首は『新撰姓氏録』に<和泉国・未定雑姓・大部首・首・ 胆杵磯丹杵穂命之後也>とあり、胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)は饒速日命の別名という見解もある。この大部首は物部氏か。

★伴(とも)と部(べ)

一般的な伴と部に関する解釈については以下のごとくである。
日本では部は伴とも言われる。古くは宮廷に伴・伴緒とよばれる官人の集団が出仕したが、五、六世紀に多くの帰化氏族を迎え、部という広汎な職務の分掌組織が成立し、朝廷が形成された。伴として内廷の職務に従うトノモリ、モヒトリ、カニモリ、カドモリ、クラヒトなどは、殿部、水部、掃部、門部、蔵部などの伴部に編成され、新たな部として、帰化氏族を中心に錦部(にしこり)、衣縫部(きぬぬい)、鍛治部(かぬち)、陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)、馬飼部(うまかい)、などの生産的技術的な品部(しなべ)や伴部(ともべ)が新設された。これらの伴部は百八十部(ももあまりやそのとも)と言われるほど多様化し、上部にこれを統率する伴造(とものみやつこ)を配し、さらにこれら全体を管理する臣・連を最上位に位置づけた。
以上を要約すると、日本にはまず内廷の被用人たる伴ないし伴緒がいて、その後五、六世紀に半島や大陸から生産技術を持った帰化人がやって来て個々の技術集団を故国に倣い「部」と言った。従って、「伴」をはじめから中国音の「バン」とはせずに、日本語に翻訳して「トモ」(仲間、グループの意味。友に同じ)と読んだのは「伴・トモ」の方が古い言葉だったのではないか。『古事記(上巻)』が五伴緒と表記し、『日本書紀巻第二神代下一書の第一』が五部神と表記するのも後者が中国に見せることを前提にして(筆者に中国人もいたという)書かれたことを考えれば八世紀に入っても「伴」が優勢だったのではないか。『日本書紀』では本文で部を使っても、氏の名に大部というのは見当たらない。当時にあっても、伴を部と漢訳したからと言って大伴氏の氏の名を大部とするのは非常識の範疇に入ったのではないか。『日本書紀巻第二一書第四』では「于時 大伴連遠祖天忍日命 帥來目部遠祖天槵津大來目」とあって天磐戸の前で待機していたのは天忍日命(大伴氏)と大來目(久米氏)の一団だったようだ。五伴緒はいなかったと言うことで、神武東征の時にも出てくる大伴氏や久米氏の遠祖が朝廷草創期には貢献したと言うことなのだろう。それに五伴緒の「五」と言う数字は当時の我が国にあっては一般的ではなくツングース系の百済や高句麗の軍隊が使用したものという。五伴緒の説話は『日本書紀』編纂時に不満を持った氏族(中臣氏か)がねじ込んだものなのだろう。

★名誉教授のその他の異説

1.この物部・大部は異なる集団なのか、否そうした相違はなく、元来、共通した集団・人々ではなかったのだろうか。
2.「大」とか「物」とは抽象的で、その用語じたいには、本来の意味を含むものではない。とすれば、大部・物部の原語は「部」じしんである。
3.大伴氏・物部氏の歴史とされた、事績などは「部」に帰属するものであり、後世の大伴氏・物部氏と言う二つの集団のものではない。
4.大伴氏・物部氏は五、六世紀の大和王権にとって、トモ、トモノヲ、ラと呼称される大王の直属の集団たちであり、特定の豪族集団ではなかった。
5.トモ、トモノヲ、ラ体制の解体は物部氏・大伴氏の衰退をも招致するものであった。天武以降にこの二つの豪族は氏族として新しい出発点についた。

以上を要約すると、物部・大伴両氏は天武朝以前は大王直属の隷属民であり、大部とか物部と言っているのは「部」(民)のなにがしかの違いを言ったものか。但し、名誉教授は「大」とか「物」には意味がないと言っている。言ってみれば両氏は一介のトモ、トモノヲ、ラと言うことなのだろうが、「ラ」の意味がわからない。漢字で書くと「等」とか「裸伴(あかはだがとも)」となるのか。その後こういう説を採用している学者はいないのではないか。ただ、少し気になるのは両氏は「連(むらじ)」のカバネを称しているが、連は臣と違い、主として『記紀』の世界だけの話で、金石文等には臣のみが記されているという。従って、学者の中には連を眉唾視する見解もある。連を名乗った氏族は大伴氏・物部氏のほか中臣氏・土師氏・弓削氏・尾張氏などがあり、連の多くは渡来系の有力氏族であったという。言わんとするところは、地域の有力者は臣、職域の有力者は連と言うことか。大伴氏、物部氏は渡来系の人なのか。

★まとめ

『記紀』特に『日本書紀』には「部」と書いて「トモ」と訓じている例が散見するが、氏族の氏の名である「大伴」を「大部」と書いた例はないようである。従って、『播磨国風土記』、賀古郡鴨波(あはは)里條に「大部造等の始祖古理売此の野を耕して、多く粟を種う。」と見ゆ。播磨大伴部の首長の氏なるべし、とあるが、これだけで大部を「オホトモ」と読むのか、あるいは、「オホベ」と読むのかははっきりしない。単に、『新撰姓氏録』「大和国・諸蕃・任那・大伴造・造」を根拠にそのような判断を下しているのかも知れない。名誉教授の言う「私は大伴は元来、大部であった可能性が強いと考えている。」と言うのは文献的な根拠が乏しいと思われる。又、飛鳥・藤原・平城宮跡から出土した木簡に「大部」を称する人名が出始めている、と言っておられるが、減筆(字画を省いて文字を書くこと)や省略(三文字なら二文字にする)などはよくあることなので「オホトモ」か「オホベ」かなどを含め厳密に検討する必要があろうかと思われる。
大伴と物部は元同一の「トモ」もしくは「ベ」で、天武朝以降に二つの氏にわかれた、と言うことであるが、文献的にはそうはなっていないし、大まかに言うと大伴氏は内廷(現今の事務官)の管掌者であり、物部氏は生産的技術的(現今の技官)な部の管掌者ではなかったか。従って、事務官たる大伴氏にとっては後世の「読み、書き、そろばん」は必須のものだっただろうし、技官の物部氏にとっては「読み、書き、そろばん」より技術の習得が肝要で、おそらく「読み、書き、そろばん」は得意ではなかったのではないか。名誉教授も言っておられるように、大伴氏の歴史は文献等で解るが、物部氏の歴史は大伴氏の年譜に物部氏の人名や事件などを当てはめて割り出すとなっている。
具体的には、大伴氏が天孫降臨や神武東征などで活躍しているのに、物部氏は天孫降臨では不出場、神武東征では神武天皇というメイン・ラインから外れ饒速日命と言う飛行機あるいは船で奈良盆地にやって来た人物の子孫と言っている。要するに、物部氏は倭国創設の枠外にあった一族のようだ。通説的見解が言うように物部のように部のつく氏は百済からの帰化氏族が故地に倣い部という分掌単位についた氏族の氏の名ではなかったか。従って、物部の本来の意味は物品管理者とでも言うべきか。
出身地も大伴氏が摂津国八部郡(元は雄伴郡。雄伴郡は、淳和天皇の時代(在位823年 – 833年)、天皇の諱である「大伴」(おおとも)に発音が近いことから、八部郡(やたべぐん)と改名された。現在の神戸市兵庫区南部一帯か。)と思われ、吉備氏に圧迫されたのか(『古事記中巻(孝霊天皇段)』に、大吉備津日子(おおきびつひこ)の命と若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の命は、二柱相副(そ)いて針間(はりま)の氷河(ひかわ)の前(さき)に忌瓮(いわいえ)を居(す)えて、針間を道の口と爲して、以ちて吉備の國を言(こと)向(む)け和(やわ)しき、とある。)、その後同じ摂津国の西成郡雄惟郷(雄惟は雄伴の誤写という。現在の大阪市中央区一帯か。)に本拠地を移したようである。その後、大伴氏が奈良盆地に本拠を移したのは景行天皇の頃か。なお、大伴の語だが、『万葉集巻一』にある「大伴の御津の浜」の大伴は雄伴のことといい、当時の摂津国では「を」を「おほ」ないし「おお」と発音し、現在とほとんど変わらなかったと言うことか。従って、大伴の語源は一般的に解されている「伴(現今で言う公務員)」の統轄管理者(現今で言う内閣総理大臣)ではなく地名と言うことか。その場合の「伴」は「妻」と同じで半島のように突き出たところを言うのであろう。
一方、物部氏はその出身地がはっきりしない。穂積氏と同族説を採れば淀川右岸となり、内氏あるいは鬱氏とすれば淀川左岸か。いずれにせよ物部とはいいながら川部のような気がする。物部となったのは雄略朝で時の大伴大連室屋が『日本書紀・巻十四雄略天皇段七年是歳条』に「天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所。【或本云 吉備臣弟君 還自百濟 獻漢手人部・衣縫部・宍人部】」とあって、雄略天皇及び大伴室屋は中国や朝鮮(特に、百済)からの広汎な技術導入を図っていたのではないか。大伴室屋は非常に忙しかった人らしく、『新撰姓氏録』にも「雄略天皇御世。以入部靱負賜大連公。奏曰。衛門開闔之務。於職已重。若有一身難堪。望与愚児語。相伴奉衛左右。勅依奏。」とある。そこで、室屋は一計を案じ、あんな「とんてんかん」などを相手にしていられないとばかりに物部大連目を雄略天皇に推挙したのではないか。大伴氏と物部氏の接点は大伴氏は大阪湾岸に勢力のあった海部であり、物部氏は淀川流域に勢力があった川部とするならば淀川河口あたりで接点があり知り合いではなかったか。
名誉教授はまた大伴氏、物部氏は中級の豪族とも言っているが、天武朝に部の廃止で大伴と物部になったというので天武朝以降のことかと思われるが、臣が地域別豪族なら連は元々は「連枝」の湯桶読みで天皇家の姻族を言ったものではないか。内廷の管理者が多く江戸時代の譜代大名が禄高は少ないが重職に就いていたのと似てはいるが、天武朝以降は藤原氏が台頭し、古参の大伴氏や物部氏が中級貴族に成り下がったかどうかは解らない。
以上を総括するなら、大伴は大部であったとか、大伴氏物部氏が天武朝までは部と言われ、氏族と言われるようになったのは天武朝以降という某私立大学の名誉教授のお説は文献的な根拠のない「トンデモ説」の類いになってしまうのではないか。

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鬱あるいは内氏について

★はじめに

日本の歴史で「内」氏で有名なのは、1.武内宿禰 2.山代内臣 3.内色許男命がよく知られているが、いずれも孝元天皇にまつわる人で、『古事記』で関係部分を抜粋してみると、

1.武内宿禰
「此天皇 娶穗積臣等之祖 内色許男命妹 内色許賣命 生御子 大毘古命 次少名日子建猪心命 次若倭根子日子大毘毘命 【三柱】 又娶内色許男命之女 伊迦賀色許賣命 生御子 比古布都押之信命」 とあって、
「又(比古布都押之信命)娶木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣 生子 建内宿禰」

2.山代内臣
「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毘之妹 葛城之高千那毘賣 生子 味師内宿禰【此者山代内臣之祖也】

3.内色許男命
「穗積臣等之祖 内色許男命」

以上をまとめると、孝元天皇の皇后は内色許男命の妹(内色許賣命)とあって、天皇と皇后の間の皇子の名には「内」の文字はない。少名日子建猪心命を除いては天皇家直系の子孫と言うべきである。また、孝元天皇には内色許男命の女<伊迦賀色許賣命>(伊迦賀色許男命という兄がいる。但し、『先代旧事本紀』天孫本紀では弟)と言う妃があって、二人の間には比古布都押之信命と言う皇子がいた。
比古布都押之信命は、まず、尾張連等之祖意富那毘之妹 葛城之高千那毘賣をめとり味師(うまし)内宿禰【此者山代内臣之祖也】を生んだ。
次いで、木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣をめとり建(たけし)内宿禰を生んだ。

現代の観念で言うと、内色許男命に後継者となるべき男子がいなくなったので、外孫である比古布都押之信命との話し合いの結果、味師内宿禰と建内宿禰を養子としてもらい受けたものであろう。

但し、『日本書紀巻第四孝元天皇・開化天皇』では若干様相が違い、以下のごとくである。
(孝元)「立鬱色謎命爲皇后 后生二男一女 第一曰大彦命 第二曰稚日本根子彦大日日天皇 第三曰倭迹迹姫命 【一云 天皇母弟 少彦男心命也】 妃伊香色謎命 生彦太忍信命 彦太忍信命 是武内宿禰之祖父也」
(開化)「母曰鬱色謎命 穗積臣遠祖鬱色雄命妹也 立伊香色謎命爲皇后 【是庶母也】 后生御間城入彦五十瓊殖天皇」
(崇神即位前記)「御間城入彦五十瓊殖天皇 稚日本根子彦大日日天皇第二子也 母曰伊香色謎命 物部氏遠祖大綜麻杵之女也」
両書の目立った違いは 1.『孝元記』では天皇と内色許賣命皇后との間には、大毘古命、少名日子建猪心命、若倭根子日子大毘毘命の三男なのに対し『孝元紀』では、大彦命、稚日本根子彦大日日天皇、倭迹迹姫命の二男一女となっている。孝元天皇の同母弟に少彦男心命(少名日子建猪心命と同一人物か)がいる。 2.伊香色謎命皇后の父が『古事記』では穗積臣等之祖内色許男命、『日本書紀』では物部氏遠祖大綜麻杵となっている。孝元、開化の御代は物部氏などというのは存在せず、崇神天皇の時代に台頭したと言うことか。文献上で物部氏が現れるのは伊迦賀色許男命の子とされる物部大新川、物部十千根以降である。 3.『孝元記』 では、比古布都押之信命の御子は味師内宿禰と建内宿禰であるが、『孝元紀』では彦太忍信命の孫に武内宿禰がいる。
一般に、内氏の本貫地は大和国宇智郡で、ほかの宇智郡・郷(例、山城国綴喜郡宇智郷、山城国宇治郡宇治郷、摂津国八部郡宇治郷など)は内氏の経由地と言う。さすれば、孝元天皇や内氏は大和国宇智郡(現・奈良県五條市)に関係のある人なのか。
ところで、『記紀』の孝元、開化の条を見ていると兄と妹との組み合わせが多い。内色許男命(兄)と内色許賣命(妹)、伊迦賀色許男命(兄)と伊迦賀色許賣命(妹)、(尾張連等祖)意富那毘(兄)と葛城之高千那毘賣(妹)、(木國造祖)宇豆比古(兄)と山下影日賣(妹)が拾えるが、男女共同統治の時代にあっても女性は適齢期になると他家へ嫁いだようだ。内色許賣命、伊迦賀色許賣命、葛城之高千那毘賣、山下影日賣はいずれも皇子の母となっている。邪馬台国の卑弥呼女王も物故した夫がいて女王の跡を継いだ男王は女王の息子か、と言う見解もある。

★鬱(うつ)と内(うち)

ウツシコオやウツシコメのウツは『古事記』では<内>と表記し、『日本書紀』では<鬱>と表記されている。<内>の読みも(うち)ばかりでなく(うつ)とルビを振ってあるものも結構多い。鬱も内も同じとする説が有力ではあるが、一応、ウツとウチは発音ばかりか意味も違うと言う見解があるので代表的な意味を少し検討してみる。

鬱は、万葉かな風に書くと宇津とか宇都となり、意味としては「ウツとは、いわゆる、ウトウ型の谷のことで、両側に山の迫った狭く長い谷」のことを言い、場合によっては「地溝状の狭い谷」「小さい谷」「袋状の谷」を言う。畿内では丹波国(山陰道に属する)桑田郡有頭郷(京都市右京区京北下宇津町)、京都市右京区太秦(うづまさ)、寝屋川市太秦(うづまさ)など。「ウヅマサ」は古く「ウツマサ」と言ったようである。そのほかに、
【うつ】ウチ(内)の転。ウツ(空)で、空洞の意。鹿などの獣が常に通う道(方言:東京小河内ほか)。オツ(越)の転。ウツ(打つ)、または、ウツ(棄)で、崖などの崩壊地形。山と畑とのとの境の入口(方言:伊豆大島)
【うず】ウズ(渦)で、「川の乱流する様子」。淀み(よどみ)(方言:大分)。峡谷の淵(方言:高知県土佐郡)。動詞ウヅム(埋ム)の語幹で、土砂で埋もれたところ。ウヅ(珍)で、高貴、珍貴の意。

内は、意味としては「外に対する内で、内側の地形」が主意のようである。例えば、河内なら河流に沿った河内の平地のあるところをいう。また、山中で河流に沿った小平地。畿内では山城国綴喜郡宇智郷(京都府八幡市内里内、木津川の川内の小平地。垣内の地名もある)、山城国宇治郡宇治郷(京都府宇治市宇治乙方)、山城国久世郡宇治郷(織豊期以降。宇治市宇治)など。
そのほかに、
【うち】内(ウチ)で、「内側」の意。特に、「入り込んだ地形」「山谷の小平地」。入江、入海の湾内(方言:大分県北海部郡日代)。縁(ふち)の転。打(うち)で、崖などの「切り取られたような地形」。落(おち)の転。鹿、猪などの通る道(方言:奈良県吉野郡など)。ウナ・チ(接尾語)の略か。
一応、『和名抄』刊本郡部は「宇治郡」を「宇知」と訓じているので、往古(欠史八代の時代)は山城国宇治郡から河内国茨田郡あたりをウチ(内)と言っていたのではないか。もちろん、意味としては淀川、宇治川の内(うち)と言うことかと思われる。従って、『記紀』に多少の違いがある続柄については『古事記』の出典の方が堅いもので内容も正しいと思われる。但し、『古事記』も「内」を「うつ」と訓じているようだ。しかし、周りの地名が山城国綴喜郡宇智郷とか山城国宇治郡宇治(宇知か)郷と言っているのに、内をウツと言うのはおかしい。特に、「鬱」と言う漢字は今も昔も気分が鬱(ふさ)ぐ、の意味ではないのか。あるいは、八幡市内里は周辺を濠の跡らしき小川が取り囲む、いわゆる環濠集落となっている、と言う見解もあるので、環濠の「内」という意味か。

★伊迦賀色許男命のこと

『新撰姓氏録』には畿内に五十氏近くの伊迦賀色許男命の末裔と称する氏族が列挙されている。一般に、伊迦賀色許男命は穂積氏の祖であるとともに物部氏の祖でもあるといわれ、『新撰姓氏録』作成とは直接関係はないが、蘇我氏台頭のみぎり、その祖を創設する際に「建内宿禰之子并九【男七 女二】」とし、その後裔二十七氏が『古事記』に列挙されている。無論、これに対して物部氏は対抗措置としてその祖と称する伊迦賀色許男命の後裔として畿内の中小豪族を説得し物部氏陣営に引き入れたのではないか。大豪族でさえ由緒来歴が不確かなのに中小豪族に至っては二、三代くらい遡るのがせいぜいだったのではないか。蘇我馬子はそれを苦々しく思ったであろうが、自分も自分で人のことは言えないので黙認したのであろう。そのことが反映されたのが後世の『新撰姓氏録』ではなかったか。なかには、『新撰姓氏録』の大和国皇別「布留宿祢」の記事中に「斉明天皇御世。宗我蝦夷大臣。号武蔵臣物部首并神主首。因欠失臣姓為物部首」などと訳のわからぬ文言が見えるが、布留宿祢は蘇我氏からも物部氏からもお声がかかりご先祖の記憶がこんがらがってしまったのであろう。
内色許男命と伊迦賀色許男命の関係だが、『古事記』では前者は後者の父親である。内色許男命とか伊迦賀色許男命と言うのは当時はまだ名前だけであって現在で言う苗字の方はなかったのであろう。内色許男命は淀川水系最大の川部で現在の京都府八幡市内里内を本拠に淀川を頻繁に上ったり下ったりしていたのであろう。淀川の要所要所には集落があり、内色許男命の邸宅があったのであろう。各邸宅には内色許男命が来訪したら身の回りの世話をする女性がいたと思われる。現在の大阪府枚方市伊加賀で生まれたのが伊迦賀色許男命ではなかったか。
伊迦賀色許男命は、一応、崇神天皇の伯父となっており、『日本書紀』(『古事記』も同様な内容)には、

崇神七年秋八月 「乃卜使物部連祖伊香色雄 爲神班物者 吉之 又卜便祭他神 不吉」(乃ち、物部連の祖(おや)伊香色雄をして、神班物者(かみのものあかつひと)とせむと卜ふに、吉し。又、便に他神を祭らむと卜ふに、吉からず。)
崇神七年十一月 「命伊香色雄 而以物部八十平瓮 作祭神之物」(伊香色雄に命(みことおほ)せて、物部の八十平瓮を以て、祭神之物と作(な)さしむ。)
と二箇所に出てくる。

これだけを見ると伊香色雄は何か祭事の舞台設定をする人のように見え、後世の忌部氏にも似た職掌ではなかったか。伊迦賀色許男命は実父の内色許男命とは違い父が旺盛な行動力(支配地が広かったと思われる)のためか後継者難で悩まされたのに対し、神事に携わっていただけに安定した後継者に恵まれたと言うことかと思われる。なお、『先代旧事本紀』天孫本紀には『日本書紀』崇神七年条と『新撰姓氏録』(布留宿祢・記事)を合わせたようなことを書いてある。後出しじゃんけんのようなもので資料としてはいかがなものか。また、伊迦賀色許男命の実父についても『日本書紀』『先代旧事本紀』は物部氏の遠祖、大綜杵としているが、『古事記』では穗積臣等の祖、内色許男命とある。当時はまだ物部氏は台頭していなかったと思われ後者が正ではないか。物部氏は何でもわめき立てれば自分の思い通りにコトが進むと考えたのであろうが、大伴室屋には通じたかも知れないが蘇我馬子には通じなかった。無学・無教養の者が国政に参画するのはだめ、と馬子は断を下したのではないか。

★まとめ

まず、「内氏(うちうじ)」だが、武内宿禰、山代内臣(味師内宿禰)は兄弟なのだろう。武内宿禰の子孫は『新撰姓氏録』によれば畿内にあまたいることになっているが、味師内宿禰の子孫は、
大和国 皇別 内臣 臣 孝元天皇皇子彦太忍信命之後也
大和国 皇別 山公 公 内臣同祖 味内宿祢之後也
とあって、味師内宿禰の後裔は山城国にではなく大和国にいたようだ。これは味師内宿禰の母堂が葛城之高千那毘賣と言い武内宿禰の母堂が木國造之祖宇豆比古之妹と言い、いずれも現在の奈良県御所市や和歌山県和歌山市を基盤にした氏族と思われ、どう見ても現在の京都府八幡市とは接点がないと思われる。これに対し、内色許男命はおそらく現在の京都府八幡市内里内を本拠地として活躍した川部ではなかったか。それに、内・宇治という地名の領域も山城国宇治郡宇治郷、山城国久世郡宇治郷、山城国綴喜郡宇智郷などかなり広く設定されていることなどを考え合わせると山城国南部から河内国北部にかけて内国(うちのくに・うちつくに)とでも言う国があったのではないか。
内国の王・内色許男命には『記紀』に記載されている外孫の味師内宿禰と武内宿禰以外に嫡流の男子後継者がいたのではないか。『先代旧事本紀』的に言うと「宇摩志麻治命の五世孫-鬱色雄命、六世孫-武建大尼命、鬱色雄大臣之子」の直系の子孫と言うことで、その嫡流の内氏はその後没落し一介の地方豪族となったが『記紀』の原作者は山代内臣として味師内宿禰を始祖としたのだろう。以上を要約すると、内氏には 1.内色許男命の子孫(山城国綴喜郡宇智郷) 2.味師内宿禰の子孫(大和国宇智郡) 3.武内宿禰の子孫(大和国葛上郡、葛下郡)の三派があったのではないか。武内宿禰を増広、潤色したのは蘇我馬子か。それぞれの内氏が血縁関係にあったのかは疑問ではある。
伊迦賀色許男命は『古事記』では穗積臣等之祖 内色許男命の子であり、『日本書紀』では物部氏遠祖 大綜麻杵の子となっており、おそらく、大綜麻杵、伊迦賀色許男の系譜は蘇我氏の武内宿禰に倣った創作とも言うべきもので、大綜麻杵、伊迦賀色許男は物部氏が穂積氏の系図に押し込んだ偽系図とも言うべきものである。ここから物部氏の架空の氏族とも言うべきものが始まったのではないか。繰り返すが、伊迦賀色許男命は実在の人物で内色許男命の子息ではなかったか。

 

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加羅、韓、唐、辛の地名

★はじめに

古代日本には加羅(から)とか韓(から)と書かれた地名があったようであるが、日本の朝鮮半島南部の支配がなくなると日本の加羅や韓と書かれた地名は八世紀以降は唐(から)とか辛(から)の文字に置き換えられほとんど残っていない。日本の学者先生の多くは日本の加羅、韓、唐、辛、賀羅(きゃら)、賀陽(かや)、蚊屋(かや)などの地名は朝鮮半島の加羅(『三国志』魏志東夷伝によれば,韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也。「韓」は「から」を音訳した漢字と解釈されている。)地方から日本にやって来た人たちの移動とともに広がった地名と言う。特に、鈴木武樹元明治大学教授著「地名・苗字の起源99の謎 あなたの祖先はどこから来たか」(PHP文庫)<50 「韓(カラ)」のつく地名は何に由来するのか>などを読んでいたら日本は韓国の人に占拠されたと思うばかりだ。もっとも、他方では唐洲なら涸洲(川跡)とか辛沢なら空沢(水が流れたり流れなかったりする沢)などの「カラ」は別義に解しているようだ。
ところで、加羅(から)とか韓(から)と言う語は何語なのだという疑問があるのだが、 『三国志』魏志 東夷伝 倭人条によれば「從郡至倭,循海岸水行,曆韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里。始度一海,千餘里至對馬國。」とあって、狗邪韓國は倭の一部とも読める内容になっている。但し、解釈には諸説あり。また、狗邪(くや)とは賀陽(かや)と同じという説もある。その説では狗邪韓國は狗邪(=カラ)韓(=カラ)国の意となり、理解薄弱のためか同じ意味を重ねて表現したようである。そこで、日本語で「カラ」がどのように解釈されているのか辞典で調べてみる。

★「古典基礎語辞典」(大野晋 編、角川学芸出版)の「カラ」の解説

から(族・柄)
(解説)カラ(幹)と同根。上代では、「親族(うがら)」「同胞(はらから)」「族」などの複合名詞として使われることが多く、血縁関係のある一族であることの意。また「神柄(かむから)」「国柄(くにから)」「人柄(ひとがら)」「山柄(やまがら)」などの複合名詞では、カラは、一族のものに本来共通して備わっている性質、すなわち素性や品格の意。
(語釈)1.血のつながる一族。2.品格。素性。素質。すじ。3.原因や理由。ため。ゆえ。
(参考)日本語のカラは満州語・蒙古語のkala、xala(族)と同系の語とみられてきた。この語は現在も満州族、蒙古族では社会生活上の重要な概念であるが、日本の古代社会にはウヂ(氏)よりもいっそう古く入ったらしく、奈良時代以後、ウヂほどには社会組織のうえで重要な役割を果たしていない。なお、朝鮮語ではkyoroi(族)の形になっている。

から(幹・柄)
(解説)カラ(族)と同根。芽を出してまっすぐに伸びたものが原義。この種のカラは「粟柄(あはから)」「楫柄(かぢから)」「鍬柄(すきから)」など複合名詞として使われることが多い。形はいずれも棒状。
(語釈)1.草や木の茎。2.道具の柄3.矢の篦(へら)。矢の竹。矢柄。

から(韓・唐)
(解説)もと3~6世紀ごろ、朝鮮半島南部にあった小国「伽羅」を指したが、のちに朝鮮半島全部、やがて随・唐と国交を開くようになると中国、そして中世以降は南蛮などの外国のことをも指して言うようになった。

から(殻・骸・躯・空)
(解説)水分・生命がすっかり失われて死んだものの意。原義は、動植物の外部をおおっている固い皮、つまり外殻の意。
(語釈)1.貝などの動物や草木の実などの外部をおおう固いもの。外殻。外皮。2.蝉のぬけがら。3.魂の抜け去った後に残る肉体。死体。なきがら。むくろ。4.名詞に冠して接頭語的に用いる。ア、水分がなくなった、死んでいる意を表す。枯山。枯木。イ、乾いた、実質のない、空疎である意を表す。「空声」「空身」「空家」など。

上記「古典基礎語辞典」によれば、日本にはまず朝鮮半島から満州族や蒙古族がやって来て(このとき馬も一緒に連れてきたか)<縄文時代末期か>、次いで中国南部から中国人(漢族)が稲を携えやって来たと言うことか<弥生時代>。日本語はアルタイ諸語に属するという説もあり、アルタイ諸語の中にチュルク語族(アルタイ語、トルコ語、ウズベク語、カザフ語、トゥバ語など)、モンゴル語族(モンゴル語、オイラート語、ブリヤート語など)、ツングース語族(エヴェンキ語、満州語など)が入るのは確実視されており、あるいは、日本語の起源は縄文時代末期のモンゴル語族(モンゴル語)とツングース語族(満州語)との合成語かとも思われる。しかし、通過点である古代朝鮮半島では扶余諸語(ツングース諸語か)と新羅語(現・朝鮮語)があったといわれ、扶余諸語と日本語は同系の言葉という説もある。あるいは、扶余諸語(濊貊語、夫余語、高句麗語、百済語)には日本語通訳はいらなかったと言うことか。扶余諸語は、現在、日常言語として使用されているものは皆無でわずかに日本語とか朝鮮語に痕跡をとどめる程度かと思われる。従って、加羅や韓の語が旧満州やモンゴルに起源があるとしても族、幹、柄の意味ではともかく、それが地名にまで波及したかは少しばかり疑問である。また、朝鮮半島南部にあった小国「伽羅」とも言っているが、それが朝鮮半島、中国、南蛮に拡大するのは解るとしても、日本列島に拡散するとは考えづらい。
そこで上述の韓の使用例を考えてみると、「馬韓、辰韓、弁韓/辰韓者古之辰國也」と「狗邪韓國」とがある。前者の例では辰韓を辰國と対応させているので韓とは国の意味かとも考えられる。狗邪韓國では韓も国、次の字も国では重複してしまうのでこの場合の韓(カン、カラ)は原義に戻って部族くらいの意味になるのではないかと思われる。狗邪韓國とは即ち狗邪族の国ほどの意味になるようだ。その狗邪も語源がはっきりせず、どこの国の言葉かもわからない。

★まとめ

加羅、韓、唐、辛などの地名は朝鮮半島由来を説く前に日本語の語源を考えるべきではないか。朝鮮半島の加羅(弁韓)地域はまとまりを欠き、洛東江流域を中心として散在していた小国家群をまとめて加羅と言ったと言う説もある。こんなはっきりしないことは横に置いて、日本の地名の「カラ」について検討してみると、

地名用語としての「カラ」には、
1.涸 2.砂礫 3.崖 4.高地、などの意味があるようである。川や谷が涸れて水が流れなくなったら砂礫地になるのであり、崖は断崖絶壁とまでは言わなくともかなり垂直に高いものであり、その上は高所であろうかと思う。1.涸 2.砂礫は涸れ(かれ)から発生した言葉であり、3.崖 4.高地は上述の「から(幹・柄) 芽を出してまっすぐに伸びたもの」の義で、垂直に高くなった語義と思われる。

鈴木武樹先生は物故者のようで故人を批判するわけではないが、日本の地名の相当部分が朝鮮半島由来というのは納得できない。

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小手(コテ)とはどういう意味

★はじめに

先日、埼玉県所沢市小手指の項を読んでいたら、小手の意味について、剣道の籠手(こて)、日本武尊が小手をかざして前方を見た、自生していた茨(いばら)とか、こんなのが地名の語源になるのかと思われるようなことばかりが書かれてあった。インターネットなどで見てみたら「コテ」という地名は北は東北から南は九州まであちこちにあるようで北海道と沖縄が除かれているので弥生地名と言うことになるようだ。当て字だとは思うが漢字では、小手(一番多いようである)、犢、鐺が、また、濁った場合は小出と書くようである。犢はコテとは読めず完全な当て字であるようだ。意味についてはその道の権威の先生は前述のような当てずっぽうなことは言わず、以下のごとく述べておられる。『地名用語語源辞典』(楠原佑介、溝手理太郎編)に曰く、

こて(犢、鐺、小手)
1.副詞コテコテ、動詞コテックなどの語幹のコテで、「ねばり気のある様子」をいうか。
2.コトの転か。1山頂(コツの転でもある)、2海岸などの突出する岩鼻(コツの転でもある)、3上州、信州で岩石累積して通過困難な谷(コツの転でもある)
3.コツの転か。
4.コデの転か。こで(小手、小出)1山畑(方言・広島県安芸郡)、2湿地(クテ、コタの転。<鏡味>)1はコ(小)・イデ(出)と同じく、「山に新しく開いた畑」の意か。

以上のようであるが、これだけでは具体的なことは解らないので、地名と地形・地勢等を検討してみなければならないと思われる。

★「コテ」の地名の主な具体例

*京都市左京区大原小出石町(こでいし) 四方を山に囲まれ、焼杉山(717m)の東北麓に位置する。
*青森県八戸市南郷大字大森小手ケ森(おおもりこてがもり) 小出ヶ森は大森の子村で、丘陵地である。
*秋田県山本郡八峰町峰浜小手萩(こてはぎ) 石川(竹生<たこう>川)に沿った台地上にある。
*栃木県宇都宮市鐺山町(こてやま) 鬼怒川の河岸場。後背地は標高116m前後。
*栃木県大田原市北滝字小手沢(こてざわ) 御亭山(こてやさん513m)山頂へ向かう沢沿いに集落が点在。
*茨城県猿島郡五霞町小手指(こてさし) 利根川右岸の沖積地に位置する。
*茨城県日立市十王町山部字小手ノ久保(こてのくぼ) 現在地不詳も十王町山部の標高は90m~150mほどの台地と思われる。
*埼玉県所沢市小手指町(こてさしちょう) 武蔵の台地上の原野。
*千葉市花見川区犢橋町(こてはし) 花見川中流左岸の台地上にある。
*愛知県東加茂郡足助町小手ノ沢(こてのさわ) 集落は久木川流域の小起伏面上の山麓に点在。
*高知県幡多郡三原村柚ノ木 天正18年(1590)の三原郷地検帳に「柚ノ木村」「小手村」とあり。現地で言う駄場(だば、台地上の平坦地)にあったか。
*長崎県南松浦郡新上五島町飯ノ瀬戸郷小手ノ浦(こてのうら) 五島列島上五島のリアス海岸。中世、倭寇が船団の基地にしていた。
*長崎県平戸市田平町小手田免(こてだめん) 釜田川流域に位置し、「高山ナク・・高低定リナシ」。
*香川県丸亀市広島町小手島(おてしま) 読みが「こてしま」ではなく「おてしま」であることに注意。

以上を見てみると「台地」とか「丘陵」と言われる微高地につけられた地名か。

★「コテ」の言語的意義

まず、一般には「小手」と書くのであるが、「小」は「こ」と読む場合と、「お(を)」と読む場合がある。以下、「角川 古語大辞典 第二巻」によれば、

「類義の小(を)との違いははっきりしないが、上代では「を」のほうが多く、「こ」が動物や植物、「を」が地象や器物などに多くつく傾向がある」と。従って、地名につく「小」の文字は古代では「を」と読まれ、「小手」は「をて」と発音されていたのではないか。丸亀市広島町小手島(おてしま)はその痕跡が残っていたもので「を」が「お」となったものと思われる。また、現在でも「小」を「お(を)」と読む例はままあるが、概して正調縄文語が残っていると思われる、北関東(栃木県、群馬県、茨城県)以北や北陸、東海、近畿地方が多いようである。中部山岳地帯(長野県、山梨県)や関東地方平野部、はたまた、中四国、九州は少ない。抽象的な作文では意味がわからないと言われたらそれまでなので具体的な地名を示すと、
東北
青森県弘前市大字石川字小山田(おやまだ)
秋田県秋田市上新城小又(おまた)
北関東
栃木県小山市大字小山(おやま)
群馬県前橋市富士見町小沢(おざわ)
茨城県東茨城郡小川町(おがわまち)現在は小美玉市
北陸
富山県氷見市小久米(おぐめ)
石川県鳳殊郡(ほうすぐん)穴水町字小又(おまた)
東海
愛知県額田郡額田町大字小久田(おくだ)
静岡県伊豆市土肥町小土肥(おとい)
近畿
奈良県吉野郡東吉野村大字小(おむら)
滋賀県蒲生郡竜王町大字小口(おぐち)
など。

「小手」の辞書的語義では「小さな(こどもの)手」ほどの意味で地名とはあまり関係がないようである。また、反対語と思われる「大手」も手の大きさを示すもので、肩から指の先まで。手の全体、を言う。例として、 大手を広げる ・ 大手を振る、などだそうで、地名にはなり得ない。
ほかには、「高手小手(たかてこて)」という語句があり、「厳重に捕縛するさまを言う」とある。「高手の縄」「小手の縄」とも表現されており、高い方と低い方という意味かとも思われる。高手の位置があってそれより低いものを小手というのか、小手の位置があってそれより高いものを高手と言うのかはっきりしないが、小手は相対的に低い位置を言うようである。

★まとめ

「コテ(小手)」の読みについては、おそらく、上代にあっては「ヲテ」であったと思われる。地形的にも台地や丘陵地を指すようなので、類義の言葉に「丘・岡(ヲカ)」があり、「ヲテ」と「ヲカ」は同じ語根から発生しているのではないかと思われる。「尾根」という言葉もあり、「尾」とは地形に関して言うと「山裾の、なだらかに延びた部分。<山の尾>」とある。「なだらかに延びた部分」というのが緩傾斜があるのかどうか、段丘があるのかどうか、横に伸びているのかどうか、尾根が平地まで一直線に伸びているのかどうかなどによってニューアンスが異なると思われるが、私見の勝手な解釈で山から伸びた段丘と解釈すると高知県で言う「駄場」(台地上の平坦地)となるのではないか。ヲカのカは住処(すみか)などの場所を表す接尾語と思われ、ヲテのテは山の手(やまのて)などのこれまた場所を表す接尾語ではないか。因みに、小手の反意語は平手(大府市長草町平手前)と言うことか。
以上よりヲテ(小手)の地名のついた土地は少しばかり小高い台地にあり、小手指なら「台地の上の焼畑地」、小手萩なら萩を「崩壊地形」のことという説もあるが、沖積地の微高地を言うのではないか。従って、コテ(ヲテ)(小手)は台地や丘陵地、沖積地ならその微高地のところを言うのではないか。

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