正能(しょうのう)について

★はじめに

インターネットか何かを見ていたら「正能(しょうのう)」という苗字の人が現れた。東日本に多い「せいの(清野、制野、青野、情野、清埜などと書く)」の異形かなと思ったら、<日本全国で見ると、「正能」さんは主に「埼玉」「東京」「神奈川」「千葉」「茨城」の順に多く分布しているようです。>とあり、読みも<一般的に「しょうのう」とよみます。>とある。挙げ句の果てに、「正能(しょうのう)という地名もある。」と言い、旧所在地名称は「埼玉県北埼玉郡騎西町正能」で、現在の地名は市町村合併により「埼玉県加須市正能」となっている。もっとも、「正能」が文献に現れるのは江戸時代からだそうで、それまでのことは良く解らないが、おそらく地名的には「正能」の方が「騎西」より早い地名ではなかったかと思っている。玉敷神社も元は正能にあったと言い(現在は騎西にある)、創建も「大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年(136年)、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいう。」とあり、古い神社であることは間違いない。また、「埼玉県の元荒川流域を中心に数多く分布する久伊豆神社の総本社的存在である。平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。」
ところで、后(きさい)は后(きさき)の音変化で私市とか騎西とも書くらしい。「私市党 は、騎西(北埼玉郡騎西町)の皇后の御料地である私市部の管理をした。牟自の子孫の黒長から私市氏を称した。」と言うが、『埼玉苗字辞典』(茂木和平著 茂木和平 2004-2008。インターネット版あり)では、
「騎西 キサイ 埼玉郡騎西庄あり。鷲宮村付近の寄東郡に対して、寄西郡と称す。持田村(行田市)長福寺正慶元年阿弥陀如来坐像に武州騎西郡糯田郷と見ゆ。」とあり、これが事実とすれば、騎西(寄西)というのは埼玉郡の西部即ち埼西(きさい)のことであり、寄東とは埼東と書くのであろう。また、同書は「私を紀佐一と称す。私(きさい)は后(きさき)の転訛にて、私部は皇妃の封民を云う。日本書紀・敏達天皇六年条に「詔して日祀部、私部を置く」と見ゆ。・・・・・私市党は熊谷郷を本拠地とし、西熊谷郷(大里郡久下村付近)、東熊谷郷(埼玉郡成田村、今の上之村)の一帯に一族が居住す。寄西郡(騎西町)の地名より発祥したのでは無い。・・・・・私市(きさいち)氏は、東京都あきる野市に五十四戸、木佐一氏は京都府竹野郡丹後町此代に九戸存すのみで、諸国には此氏の集落はどこにも無い。」と。最後の方は少しばかり言い過ぎで東京都、福井県、大阪府、北海道などに分布しているようだ。「私を紀佐一と称す。私(きさい)は后(きさき)の転訛にて、私部は皇妃の封民を云う。」というのもやや持って怪しの説で、古く國學院大学教授に高柳光寿と言う先生がおられたようでこの先生がお書きになったもので中央貴族が荘園の管理者に送った書状に「すだれ」を至急送ってくれという下りがあったらしい。先生は<こんなものまで荘園に調達させていたのか>とのことだが、平安時代になっても貴族は貨幣経済の意義を理解していなかったのではないか。京都の町に商店街があって日用品はそこでお金と引き換えに買うことが一般的ではなかった。奈良時代末の蓄銭叙位令も意味のないものではなかったか。ことほどさように私市とか荘園は当時の都の近くにある必要があったのではないか。著名な私市の地名としては、

*大阪府交野市私部
大阪府交野市私市

平城京・平安京に近い。

*京都府福知山市私市
*京都府綾部市私市町

いずれも平安京に近い。

史料では、『日本書紀』巻第二十敏達天皇の項目に「六年の二月の甲辰の朔に、詔(みことのり)して、日祠部(ひのまつりべ)・私部(きさいちべ)を置く」(577年)、と掲載されているのが初出である。「きさいちべ」という訓は、『釈日本紀』(鎌倉時代末期)にも現れる古い読み方で、「きさきチべ」のイ音便化である。
「私部(日本古代における后妃の私有部民。)の呼称の淵源(えんげん)は、中国漢代の皇后の付属の官を私官(しかん)・私府と称したことに関連を求めるのが有力。〈私〉は寵愛を受ける人の意で,中国漢代には皇后に付属する官を〈私官〉といった。」と。私部の分布は全国に及び、管掌者は首(おびと)、直(あたい)、または造(みやつこ)の姓(かばね)を有した、などという。但し、語義未詳とする辞書もある。
以上より、文献的には武蔵国に私、私市、私部なる苗字を名乗る人は多かったようであるが、私市党といえるかどうかは疑問。加須市騎西の地名が私部によったものかは不明であり、また当地にいたとされる私市氏が私部の管掌者であったかは不明と言わざるを得ない。それに、私市党が現れるのが平安時代の末というのも私市氏が本当に后妃の私有部民の称だったのかは疑問もわく。騎西を地形地名とし、「きさ」は刻むの意味の崩壊地形、浸食地形とし、「い」は井あるいは居として、騎西城の城郭構造は驚くべきことに「平城(沼城)」とする説あり。

★正能とは

正能とは全くもって現代風の読み方であり、文献初出も江戸時代というのはさもありなんと言うところである。また、正能は地名にも苗字にもあり、地名は埼玉県加須市正能(旧埼玉県北埼玉郡騎西町正能)とあり、苗字は1 埼玉県(約400人)、2 東京都(約70人)、3 神奈川県(約30人)、4 茨城県(約30人)、5 千葉県(約20人)、6 群馬県(約10人)とあり、埼玉県とその隣接県あるいは旧武蔵国に集中している。同じような発音の苗字としては ショウノウ 【庄納】、 ショウノウ 【松納】、 ジョウノウ 【城生】、 ジョウノウ 【城納】、 ジョウノウ 【上能】等があるようだ。これらの場合「のう」は上の者へ何かを「納める」意味に解する場合が多いようで、何かを「上納」していたものが自分の苗字に「しょうのう」とか「じょうのう」とかをつけて名乗っていた、と言う見解が有力なようだ。
翻って、地名と言うからには土地の地形や地質等の特徴を持って名付けるとするならば、「正能」に関しては、

「ショウブ」
①細い流れ、水路、清水 ②沢、田、沼 ③低くて平らな水田地 ④案山子、水車(のある所)/菖蒲、尚武、正分/ → ソウズ・ソウヅ
【例】 埼玉県加須市菖蒲町菖蒲(低い平地の水田地)但し、埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲と思われ、加須市芋茎と隣接する。著者の勘違いか。

「ショウズ」(ショウブの転訛語)
①小規模な水路 ②沢、田、沼 ③低くて平らな水田地 ④案山子、水車(のある所)/清水/
【例】 佐賀県唐津市肥前町菖津浦(現在は唐津市肥前町鶴牧と言うらしい)

『あぶない地名 災害地名ハンドブック』(著者:小川豊、三一書房)より抜粋。

菖蒲は、シミズ(湧水)→ショウズ→ショウブ(菖蒲)と転じた地名との説あり。

以上より判断するならば、正(ショウズ・清水・小規模な水路)能(ノウは野のこと)のこととなり、菖蒲と同じ「低い平地の水田地」の意味ではないか。いつ頃からの地名かと言われれば、私市党が台頭した平安時代末期、鎌倉時代、室町時代にはすでにあったのではないか。玉敷神社の創建が大宝3年(703年)と言うので、その頃からあった地名と言っても過言ではない。もっと子細に言うと、ショウズ(正津、清水<ショウズ>、菖津など)は全国区の地名で埼玉県加須市に偏った地名ではなく、弥生時代以降に日本に導入された「沼(ショウ)」の字が日本語化されたものではないか。騎西城が沼城と言うのも単なる湿地と言うよりも周りを水田に囲まれた城郭でこの場合の「沼(ショウ)」とは水田を言ったものではないか。但し、日本語の湖、池、沼などの差異は地域等によりはっきりしない。

★まとめ

1.騎西に関しては、「騎西 キサイ 埼玉郡騎西庄あり。鷲宮村付近の寄東郡に対して、寄西郡と称す。」とある。おそらくこれは「埼西」と書くのが本筋だとは思うが、埼玉郡の有力地(現在の熊谷市、行田市、鴻巣市)から見ての東西ではなく、鷲宮から見て西と言うことのようだ。あるいは、今はないが日川(にっかわ)という川があってそれの東西と言う説もある。とにもかくにも、騎西は后(きさき)の転訛語ではなく、武蔵国の何らかの理由(一説に信仰圏の違いと言い、東の鷲宮神社にたいし西の玉敷神社<久伊豆神社>)によって「埼東」「埼西」と呼称されたものと思われる。『和名抄』では埼玉郡埼玉郷とあるので、あるいは平安時代末期あたり以降の地名か。一説に、中世後期から近世初期にかけてみられる郡名と言う。本当だとしたらますます武蔵七党との関係は薄くなる。
2.私市党については、その発祥が騎西町と言い、元の職業が私部だったという説が有力ではあるが、「私市党は熊谷郷を本拠地とし、西熊谷郷(大里郡久下村付近)、東熊谷郷(埼玉郡成田村、今の上之村)の一帯に一族が居住す。寄西郡(騎西町)の地名より発祥したのでは無い。」との反論もある。現在、旧武蔵国で「私市」の苗字を名乗る人は「東京都あきる野市」に集住しているようで、これらの人々にご先祖が熊谷市から来たものか、はたまた、加須市騎西から来たものか尋ねてみなかったら解らないが、地名の私市、私部、騎西などと苗字の私市、私部、木佐一等とは直接の結びつきはないのかも知れない。地名に関しては『和名抄』に丹波国何鹿郡私部郷、因幡国八上郡私部郷、肥後国飽田郡私部郷(二十巻本和名類聚抄[古活字版]・巻九)などにあり、人名に関しては「私部氏(私部首)は私部の統率者(地方伴造)氏族。」(Wiki)とあり、インターネットで「私部」をまとめた人名を見ても「私」「大私」「私部」「奈癸私造」がすべてで「私市」という苗字(氏の名)はない。私市党の始祖が武蔵国の農産物の私的な市場を開いたので私市と言ったものか。要するに、武蔵国の私市氏は中央の私市、私部とは何の関係もなく、経済力で興った過渡期の豪族で軍事力がなかったため衰退したと言うべきか。私市党を吸収して台頭したのが野与党か。
3.久伊豆神社の久伊豆であるが、久伊豆(ひさいず)、騎西(きさい)の語頭の「ひ」とか「き」は入りわたり音で「ひ」と発音しても「き」と発音しても同じものか。久伊豆の発音も通説は「ひさいず(づ)」と読みをつけているが、「ひさいつ」が正で、「久伊(騎西)の」を表す「の」に相当する「つ」ではないか。「久伊豆神社は埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。」とあるが、武蔵七党の野与党や私市党は存在感が薄くいつの間にか沈んでしまったという感じだそうな。野与党は旧与野市のことだ(足立郡司武蔵武芝の息子・武宗(野与二郎)が受け継いだ野与荘は足立郡内にあったという。但し、旧与野市<現さいたま市中央区>には久伊豆神社は一社もなく野与党・私市党との信仰圏と合致するかどうか。) 、とか私市党は大阪府交野市私市から来たなどと言わば当てずっぽうな見解もあるが、この場合の「ヒサイツ」は「キサイツ」であり、「キサイチ」即ち「私市」に転訛したのではないか。
野与党発祥地の野与荘については今のところ位置不詳とある。候補地としては現在の行田市(行田市持田)、加須市(加須市内田ケ谷)、白岡市(白岡市野牛・篠津)などがあげられている。現在、白岡市には「のよのみち」(篠津より野牛に向かう道)、「のよの家」があるという。

ここで言いたいことは、私部と私市は似て非なる関連のない語であり、「きさいち」の漢字表記を現代流に書くと「騎西地(池)<きさいち>」であり、私市氏の初代あたりが見栄えが良いようにと「私市」としたのではないか。この場合は意味は「埼玉郡の西、あるいは、段丘(刻む)のあるところ」か、はたまた、日本は『魏志倭人伝』 の時代より公設市場の発達した国で私市氏の初代あたりが近郊の特産物を集め私設の物産市場を創設しその私設の市場を私市と言ったのかも知れない。但し、私市の地名は関西にもありその発祥も一考を要する。関東では私市氏が野与氏より先行したが、野与氏に吸収され野与氏が私市氏の影響を薄めるために「久伊豆神社」とか「騎西」にしたのではないか。

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