縄文語と弥生語

★はじめに

一説によると、言語は一万年もたてば文法、語彙、発音等がきれいさっぱりと変わり、別な言語のようになるとの説がある。我が国で言語を用いた人としては、旧石器時代人、縄文時代人、弥生時代人、古墳時代人以降と言うことになるようだ。旧石器時代人はその後縄文人に発展したと言う説が近時有力だが(現在の日本列島が縄文海進により成立するまで、日本はユーラシア大陸の東端になり、そこに脱アフリカを果たしたY-DNA CやY-DNA Dがポツン、ポツンと集落を形成して住んでいた。その後縄文海進が進んで日本は島国となり、日本列島に取り残された旧石器時代人が縄文時代人と進化したと言うものである。他の説は、縄文時代人は日本列島になってから北方ルートや南方ルートからやって来たものとする。)、

*旧石器時代人も人間同士が意思の疎通を図る場合言語を用いたかと思われるが、土器等を用いた縄文時代人ほどには文化の進展は見られず、言語もそれほどのものではなかったと思われる。おそらく、「ア」とか「イ」とか言う単音語が主で、感情の起伏は高音とか低音とかで表し、危機が迫ったときなどは後世の怒鳴り声のようなものを発していたのだろう。こと、この時代の言語に関しては何を言っても妄想以外の何物でもない。
*縄文時代については、一般的には約16000年前から約3000年前までを言うとするのが多数説である。縄文時代としては13000年ほど存在していた。前述の一言語の寿命が一万年とすると現代は第二縄文語時代とでも言うべき時代で現代語と全く無関係ではないようだ。縄文語がすっかりとなくなったのに何を言う、と言う見解があろうかと思われるが、「過去の⾔語は⽂字がなければ検証不可能であり、『縄⽂語』の解明は、その試みは存在するものの、極めて難しいと⾔わざるを得ない。⽇本列島における縄⽂時代の⾔語は、共時的にも通時的にも複数存在したと考えるのが⾃然である。(縄⽂⼈は時期によって異なるが地域ごとに4から9のいくつかの諸集団に別れていた、からか。)」お説ごもっともではあるが、こと日本人に関して言うと、日本国開闢以来の頃から旅行好きと見え、旧石器時代の琥珀が「湯の里4遺跡(北海道上磯郡知内町)」や「柏台1遺跡(北海道千歳市柏台)」から出土しており、当時の琥珀はまだ国産品とは考えづらく、バルト海とまでは言わなくともカムチャッカ半島やバイカル湖あたりから仕入れてきたのではないかと考えられている。また、「出雲方言に東北方言と音韻の類似する面がある」と言い、「細石刃は日本全国に広がっており、北東日本の楔形細石刃と南西日本の野岳・休場型や船野型細石刃の二つの分布圏に分かれる。前者はシベリアから北海道を経由して本州へ、後者は中国黄河中・下流から九州を経由して本州へ及んだらしい。」とある。とにもかくにも、二万年前の頃の日本人は陸路にせよ海路にせよ動き回ることが好きな人たちだった。交易品がどのような形(例として、日本人が直接海外の生産地へ行ったとか、中継貿易地があってそこを経由して交易品を入手するとか、仲介貿易を行うとか)で入手したのかは不明ではあるが、交易品が広くカムチャッカ半島、シベリア(バイカル湖)、黄河流域などに及んでいるところを見ると、これらの地域が二万年前頃には一地域で一言語の世界だったかも知れない。当時は覚える語彙もそんなに多くはなかったと思われるので当時の言語は広域言語でバイカル湖からカムチャッカ、日本、中国では同じような言葉が話されていたのかも知れない。
*古墳時代以降については、おそらく日本語としては引き続き改良を重ね、現在に続いている言語と思われるので、ここでは割愛する。

★縄文語

日本で言語が本格的に機能しだしたのは縄文時代かと思われる。土器、弓矢、丸木舟、建築物(ロングハウス、三内丸山遺跡の六本柱建物跡等)、都市計画(鹿児島県霧島市国分の上野原遺跡等)などの発明や構築は無言語や単に意思の疎通を図るための貧弱な言語では無理で、精緻な言語が必要だったであろう。特に、三内丸山遺跡の六本柱建物跡では、①測量の技術が存在していた②35センチメートルの倍数の長さの単位は他の遺跡でも確認されている。「縄文尺」は広範囲にわたって共通規格として共有されていた③大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要とした。集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できる指導者がいた。以上を考え合わせると低レベルでの言語は意味をなさず、かなり高度な言語で意思の疎通を図ったのではないか。特に目立つのは、測量技術とか、長さの単位の広範囲での共有化とか、丸木舟の製造とかには単に従来の経験や勘に頼るのではなくはっきりとした数値でやりとりすることが必要であろう。それには我が国古来の「ひ」「ふ」「み」「よ」「い」「む」「な」「や」「こ」「と」で間に合ったのか。もっとも、これは十進法で飛鳥時代あたりに完成したもので、縄文時代の数詞は前期には「1(fi)・2(fu)・4(yo)・8(ya)」しかなかった説(「倍々数詞」「分配数詞」と言い、1の2倍は2、2の2倍は4、4の2倍は8となる。8の2倍はどうしてないのだと言われても当時は数詞は一桁しかなかったと言うことか。縄文後期に「3・5・6・10」が加わった。弥生時代に「7・9」が伝来し(高句麗からか)我が国の十進法の祖型ができたらしい。但し、こんな紆余曲折を経て十進法にたどり着いたのは東アジアでは我が国だけで真偽のほどはつまびらかではない。4個とか8個の数字を駆使して建物を建てたなんてあまり考えられないことだ。
語彙については現在残っている一語一音節の語彙はほとんどその出現が縄文時代にあったのではないか。例として、あ(吾、我)、い(藺)、ゐ(井・水のことか。中国語の水(シュイ)が弥生時代に導入され「ゐ<wi>」となったか。)、う(鵜)、え(江、餌)、お(麻)、を(尾、小)など。そのほか重要な語としては、き(木、黄、生)、け(褻、毛)、こ(子、蚕)、す(州、巣)、せ(瀬、背)、た(田・弥生時代に中国から田<たん>が導入され<た>になったか。)、ち(乳、血)、つ(津・後世、集<つど>う、となったか。今は船が集うところ即ち港の意味だが、かってはどうだったか。)、て(手)、と(戸、外)、な(那=土地、国。名、菜、汝)、に(荷、丹)、ね(根、音)、は(歯、刃、端、羽、葉)、ひ(日、火、樋)、へ(屁、辺)、ほ(穂)、ま(真、間)、み(実、身、箕)、め(芽、目、女)、や(矢、屋)、ゆ(湯)、よ(世、夜、四)、わ(輪)等。これらの単語全部が縄文由来とはとても考えられないが、ある程度縄文後期由来のものはあるのではないか。
語順であるが、日本は一貫して「主語 (Subject) – 目的語 (Object) – 動詞 (Verb)の語順をとる」言語のようである。世界の言語の約45%がSOV型言語である、と言い、一説によるとSOV型がSVO型に先行し語順の祖型であるらしい。しかし、現代ヨーロッパ諸語、中国語、東南アジア諸語などはSVO型が主流である。ともあれ、「アル=サイード・ベドウィン手話のように自然発生から100年とたたない視覚言語が、周囲のアラビア語などと異なるSOV型語順を自然にとるようになった」とあるので、日本語、琉球語、アイヌ語、朝鮮語は世界の、あるいは、極東の最古参の言語なのであろう。
発音については、小泉保関西外国語大学名誉教授(物故)は<「出雲方言に東北方言と音韻の類似する面がある」と言い、この裏日本的な音韻は、縄文語(裏日本縄文語)を受け継ぐものであるとされる。即ち、「ズーズー弁」が飛び地状に分布するのはかつて日本海側で広く話されていた基層言語の特徴だとし、「ズーズー弁」と言われる出雲方言は、縄文語を正当に受け継いでいる縄文語本流の言語である>と言う。出雲地方や東北地方では一万年以上にわたって縄文音が話されていると言うことか。

★弥生語

弥生時代は中国から稲作技術が伝わった時代と言われ、さぞかし日本語は中国語に置き換わったとまでは言わないものの中国語の影響を受けたのではないかと思われるが、来日した中国人の数が日本人を圧倒するものではなく、かつ、稲作以外に目立った中国の物品や文化遺物がないと言うことで、おそらく中国の一部地域の人が来日しただけである。それが証拠に、稲のRM1遺伝子は全部で八種類あるそうだが、日本には三種類しか入ってきていない。中国には八種類全部が、朝鮮半島には七種類が、あるらしいが、朝鮮半島にない遺伝子の稲が我が国に多い等の理由により、日本の稲は中国から直接入ってきたと解されている。こと、稲作農業に関する限りは日本と朝鮮は何の関係もないと言うことらしい。また、中国系の遺物が少ないことから中国の影響はほとんどなかったのではないか。奈良県の唐古・鍵遺跡の絵画土器に描かれた楼閣の絵が中国っぽい。類似の絵としては鳥取県米子市の稲吉角田遺跡の弥生中期の壺絵がある。 あるいは、奈良盆地に稲作がもたらされたのは日本最古か。例として、奈良県御所(ごせ)市の中西遺跡と周辺で、確認された水田跡が約4・3ヘクタール、約2400年前の遺跡(弥生初期)、大規模な水田稲作遺跡。4ヘクタールと言えば現在でも豪農の部類に入るのであり、当時にあっては開墾した人は一国一城の主だったのではないか。領主としては現在の御所市方面に勢力のあった葛城氏、尾張氏など、天皇氏の前に大和盆地へ天下ったという伝承を持つ物部氏、最後発かも知れないが天皇氏などが考えられる。これらの領主層の人々が渡来系の人とは思われず、少数の渡来人は圃場の作成、運営、種籾の管理等を指導したのではないか。即ち、日本は朝鮮半島と違って中国人の支配はなかったと言うことで、言語も基本的に旧来のもので、専門用語の借用等があった程度か。
言語に関して言うと、語順(文法)や発音はあまり変わらなかったであろうが、語彙が、俄然、中国由来のものが多くなったのではないか。そもそも、水田稲作なんて日本にははっきりしたものはなく、体系化されたものが語彙共々渡来人とともに日本へ入ってきたのではないか。なお、小林昭美「日本語千夜一夜~古代編~」というウェブサイトに[古代日本語語源字典](第160話ー第206話)という一項があり、日本語単語の中国起源説が網羅されている。例として、米(こめ)<「米」の古代中国語音は米[myei]である。隋唐の時代以前の上古音には語頭に入り渡 り音があって「米」は米[hmyei]だったと考えられる。日本語の「こめ」は上古中国語の米[hmyei]に依拠したものである。>と。

★まとめ

日本列島で文化を築いたのは縄文人で、13000年ほど日本列島に存在した。また、その後も日本列島に存在したことは間違いなく現在でも縄文人の血を引くと思われるY染色体ハプログループD1a2系統の人々は35%いる。日本の場合これらの人々が言語の寿命は一万年で、縄文時代は一万年を突破したので縄文語は消滅したとか、また、弥生時代に入ったら弥生人の弥生語に押されて消滅したとか、その種の話は現在でもY染色体ハプログループD1a2系統の人が35%もいると言うからには考えづらい話だ。日本語はやや大げさに言うと現在でも「古文」などと言う学科があるので、大きな変化がなかったと言えば間違いになるかも知れないが、中国語が日本語に変わったというような劇的変化(日本語の起源は中国語にあり、と言う説はあるようだ)ではなく、基本となる原日本語(縄文語)があってそれが周りの国(中国や朝鮮)の言語の影響を受けて緩やかに変化し、現在の日本語があるのではないか。
日本語は孤立言語と言われ「新石器時代以降の文明の中心都市からすると周辺地域ないし孤立地域に属している。」言語となり、あまり芳しくない言語となっている。今でこそそこそこの人口を抱え、経済的にも発展しているので「こんなのは怪しの説だ」などとなるのであろうが、やはり縄文時代は地の果ての国であり、人口も少なく明日にでも消滅してもおかしくない国だったようだ。しかし、一方で「世界の言語の約45%がSOV型言語」とあるように、日本語もそのお仲間入りを果たしているところを見ると中央アジア方面との言語とつながりがあったのではないか。中央アジアと極東は当時にあっては離れすぎで双方の言語のつながりは消滅してしまった。

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