智頭郡のこと

★はじめに

現在の日本の地名で「チズ」とか「チヅ」とか読む地名は鳥取県八頭郡智頭町しかないようで、先日、智頭枕田遺跡のことを見ていたら、「智頭」にせよ「枕田」にせよあまりなじみのない地名と思った。そもそも、智頭と言っても枕田と言っても全国にこの地名しかないのではないかと思われるほどだ。枕田については①マ(接頭語)・クラ(崩壊地形)・タ(場所を表す接尾語)とか、②開墾地の地割で最後に残った不整形地(イメージとしては布団が整形地なら枕が不整形地となるのか)などの意味が考えられるようだ。一方、智頭については、『和名抄』にも出てくる地名(郡名)で、因幡国智頭郡には美成(みなり)、佐治(さじ)、土師(はじ)、日部(くさかべ)、三田(みた)の五郷があった。智頭郷はないのではっきりはしないが郡家、道俣駅は三田郷(現・智頭町智頭付近)にあったというので、そこが智頭郡の起こりで、また、発祥の地であろうかと思われる。現代的に言うと、千代川、土師川、新見川の合流点となる一帯の小盆地が智頭郡発祥の地となるようである。

★智頭郡の歴史

因幡国智頭郡は現代的に言うと鳥取県八頭郡智頭町となるのだが、智頭枕田遺跡は縄文草創期から遺物が存在するという。町内から出土した最古の考古資料は、縄文草創期の石槍で、段山遺跡(智頭町市瀬・石槍2本・昭和47年)から出土している、と言う。

縄文時代早期・中期~晩期 約8000年前・約4000~2500年前の遺跡がある。

縄文早期前葉 (約8000年前) には、この地に居住の痕跡がある。
縄文中期末葉~後期初頭 (約4000年前~2500年前) には、県内最大のムラがあったという。
縄文晩期末葉 (約2300年前) には、石棒などの祭祀具が出現し、掘立柱建物跡(神殿か)、配石遺構(祭祀場か)、土坑群(墓か)が出現。

具体的な文化度を表すものとしては、縄文土器がある。

縄⽂早期の土器には、復元可能な遺物があり「⼤深鉢」が復元されている。しかし、土器の多くは中期末以降のもので、
中期末~後期には、磨消縄文、波状口縁深鉢、箱状山形口縁、平口縁深鉢、晩期約2500年前には沈線文があるという。
西日本最大級の集落遺跡で、特に縄文時代中期末~後期初頭にかけては、住居、貯蔵穴、掘立柱建物、配石遺構から構成されている。
住居の形態などに東日本と類似の形式(住居内の石囲埋甕炉)が見らる。東日本の縄文人は、定期的に西日本へ交易のために、あるいは、移住してきたか。
晩期では、東日本の影響を受けた土器が出土している。
しかし、総じて同じ縄文時代中期に新潟県に現れた火焰型土器や王冠型土器に象徴されるような、立体的で力強い装飾をもつ土器、あるいは、そのほかの東日本の縄文土器に比べて失礼ながらやや見劣りがする。
ところで、「智頭枕田遺跡」はその出現を持って脚光を浴びるのだが、それ以前の現・智頭町に関する古代の評価と言えば、

『鳥取県の地名』(日本歴史地名体系32 平凡社 1992年10月3日発行)に以下のごとくある。

「智頭郡」P.63
「佐治村に縄文時代の遺物を出した遺跡などがあるものの他地域ではほとんど発見されていない。」

「智頭町」P.353上段
「縄文時代の遺跡は確認されていないが、弥生時代後期の段山遺跡からは弥生土器・石槍などが、また弥生後期の後半に属する埴師(はにし)の長瀬向和(ながせむかえ)遺跡から器台や壺が、そして高下古墳周辺からは後期の壺・甕・高坏などがそれぞれ出土している。」

『鳥取県の地名』の出版後10年にして、2002(平成14)年、2003(平成15)年に「智頭枕田遺跡」が発掘された。
「2017年(平成29年)3月までに計約80カ所の遺跡や遺構が確認され、発見当時は縄文時代から平安時代の複合遺跡として九州を除いた西日本では最大級の遺跡であった。」と言う。何か「智頭枕田遺跡」が発見された後と先ではこうも違うのかと思われるが、智頭町最古の遺物という石槍は段山遺跡(一説に、智頭枕田遺跡からも発見されているという)で昭和47年に発見されており、このときは弥生時代の遺物と解釈されたようである。遺物の評価が時代によって異なり、判然としないが、鳥取県には縄文時代の遺跡(有力どころでは、鳥取市気高町の常松菅田遺跡と智頭枕田遺跡)が少なく、考古学の専門家には今ひとつ取り上げられないのではないか。
以下、弥生時代以降は割愛する。

★智頭の意味

智頭の地名の発祥地は現在の智頭町(大字)智頭のあたりの小盆地を言うようで、あるいは智頭の原意は盆地に絡んだ言葉かも知れない。「智頭」の語源については、

1.智頭町役場説
「『日本後紀』(808年)の記録では、智頭郡道俣駅(ちづごおり みちまたえき)の駅馬の記録があり、奈良以前より智頭という名前は存在しているようです。
一説には、道俣(みちまた)とは、『道が合流するところ』という意味があり、元々は『道頭(ちづ)』・・・道の頭という意味から変化して『智頭』になったのではと云われています。 」
「都から因幡国に入る最初の郡」の意、とも。

2.チヅはツツの転で「ツツ(筒)」状の地形の土地の意、と言う。

以上二説が有力である。

『古代ー近世「地名」来歴集』(日本地名研究所監修)P.196によると、
「『綜合日本民俗語彙』によると、津という言葉はもともと土地の交通の便・不便を表すもので、津がよい、津が悪いなどと使い、(現在でも地方の方言にある由)現在は船の発着所を「港」と言うが、古くは「津」を用いた。」と引用し、智頭は漢字では千(ち)津(つ)となり、千(たくさんの)+津(交通の便の良いところ)があるところ、即ち、現代用語で言うと、「交通の要衝」と言うことではないのか。智頭は物見峠(津山市と鳥取市)、黒尾峠(岡山市と鳥取市)、志戸坂峠(赤穂市と鳥取市)と津に恵まれ、智頭とは、畢竟、千津の意味か。とは言え、チヅ、チツ、チチ、ツツは稀少地名ないし苗字で一般的なものではない。一応、近時、縄文遺跡も発見されたといい、縄文時代から人間が住んでいたと思われ地名もあったと思われる。縄文時代の地名は一音節語がほとんどだったと思われ、智頭ならチあるいはツと言われ、人間の少なかった縄文時代でならそれでも良かったが、弥生、古墳と進むにつれ一音節では意味もわからなくなった。時代が下ると一音節の単語はなくなり、智頭の場合なら「チ」を重ねて「チチ(知々、千々、父など)」、「ツ」を重ねて「ツツ(筒、豆酘、通津など)」とした。「チチ」も「ツツ」も現在の地図で見ると川っ縁や、海っ縁の危なかっしいところで、現代流に言うと崩落地、崩壊地、急傾斜地などを言ったものではないか。従って、智頭の意味するところは広い意味での崩壊地形を言ったものか。縄文時代の智頭は東日本の各地域から人がやって来て、今の新潟県出身なら崩壊地形を「チ」と言い、今の宮城県出身者なら「ツ」と言ったので、双方出身者が解るように崩壊地形を「チ・ツ」と名付けたのではないか。あと、考えられるとしたら縄文時代から長く続いている土地の地名には焼畑地名がある。現在も千津という地名があるようだがほとんどが「センヅ」と読むようだ。神奈川県南足柄市千津島カナガワケンミナミアシガラシセンヅシマ、群馬県邑楽郡明和町千津井グンマケンオウラグンメイワマチセンヅイ、和歌山県日高郡日高川町千津川ワカヤマケンヒダカグンヒダカガワチョウセンヅガワ。語尾の「井」とか「川」は現今で言う「川」の意味かと思うが(特に、群馬県邑楽郡明和町千津井は現状では利根川の隣接地)、どこも語義不明と言うことらしい。ただ、一般的には「センヅ」は後世の読みで「チツ」が先行していたのではないか。但し、焼畑地名の類例としては、沖縄県の焼畑地名という「知名(チナ)」、「喜名(キナあるいはチナ)」がある。おそらく、知名は火入れした後の耕作地で、喜名は休閑地のことかとも思われる。知は火の訛りで、喜は木のことか。名は土地の意味であろう。しかし、沖縄県方面では「チ」と「キ」は混用される傾向にあり、知名も喜名も同じ発音・意味かも知れないので、お前の余計な妄想を言うなとお叱りを受けたら大変なのでお断りしておく。

★まとめ

智頭枕田遺跡が発見され、縄文遺跡と言われてからまだ20年足らずである。おそらく、インターネットなどではしゃいでいるのは一部の古代史好事家なのだろう。良い悪いは別にしてその道の大家はあまり関わりを持っていないようである。智頭枕田遺跡が発掘物から見て縄文遺跡であることは間違いないとは思うが、おそらく峠を越えた交易の範囲は畿内および吉備あたりが主要交易地ではなかったか。智頭商人はもっぱら陸路を移動したようで、同じ内陸の地の人と言っても大和国の人が海や川の航路を重視したのに対し大いに異なった交易路を取ったようである。これは智頭商人が単に中継貿易だけをしていたばかりではなく、何らかの自国特産品を背負って移動していたのではないか。智頭枕田遺跡から出てくる遺物は、爪形文土器、押型文土器、石鏃、石錘、石斧、石棒、石錐、石匙、石皿、磨石、土製耳飾、などと、何の変哲もないようなものばかりで、人間が生活していく上で必要なものである。土器や石器は重たいもので遠方への交易品としては不適当である。ところで、智頭はやや不適当かも知れないが、出雲国と吉備国の中間ほどのところにあり、特に近隣の美作国とは古代遺物が智頭枕田遺跡と奈義、津山は似ているものがあるという。「まがね吹く 吉備」と言われ備中の総社市域から美作の津山市にかけては古墳時代より製鉄遺跡が多いようである。五斗長垣内遺跡(兵庫県淡路市黒谷)、淡路市舟木遺跡(兵庫県淡路市舟木)(いずれも弥生後期後半~弥生終末期<2世紀後半~3世紀前半>の鉄器工房遺跡)があるので、これらの鉄器工房の原材料の鉄鋌の全部が朝鮮製というのもおかしく、智頭商人は津山あたりで鉄鋌を仕入れ、淡路島まで運んだのではないか。当時は日本には製鉄技術はないと言うが、淡路島や滋賀県彦根市の稲部遺跡の鉄器製造群落遺跡の規模から見て考えづらいことではないか。しかし、「弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップ」は未だ解決されていない、と言うのが通説とか。(日立金属)

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