智頭枕田遺跡について

★はじめに

鳥取県というと著名な遺跡は妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡であるが、近時「智頭枕田遺跡(ちづまくらだいせき)」という降ってわいたような大物複合遺跡が出現し、発掘・研究が進み青森県の「三内丸山遺跡」や佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」ばりに有力な遺跡になるのかと思いきや、古い考古参考図書は言うに及ばず新しい参考書にもほとんど取り上げられていない有様だ。良くは解らないが「国民健康保険 智頭病院の建設によって、遺跡は消滅した」と言う。考古遺跡は記録保存もさることながら現状保存と言おうか現物を保存しておくことが重要で「三内丸山遺跡」や「吉野ヶ里遺跡」がその名をとどろかせたのも現状保存があったからこそではないか。もっとも、「三内丸山遺跡」や「吉野ヶ里遺跡」は県立の施設(吉野ヶ里遺跡は「国営吉野ヶ里歴史公園」として一部を国が管理する公園、と言う)で、町営の智頭病院とは政治力、資金力においても雲泥の差があったのかも知れない。残念無念の極みなのではあるが、一応、インターネットなどで報じられているところを見ると、「智頭枕田遺跡」の概要は、

智頭枕田遺跡

1.2017年(平成29年)3月までに計約80カ所の遺跡や遺構が確認された。
2.縄文時代から平安時代(縄文・弥生・奈良・平安時代)の複合遺跡である。
3.九州を除いた西日本では最大級の遺跡である。
4.遺物としては、石囲埋甕炉をはじめ、爪形文土器、押型文土器、石鏃、石錘、石斧、石棒、石錐、石匙、石皿、磨石、土製耳飾、など20万点を超える土器片が発見され記録保存されている。
5.2017年(平成29年)4月15日に智頭町歴史資料館(旧土師(はじ)小学校の校舎)を開館し、当遺跡などで見つかった土器や文化財約300点を展示している。
6.住民の居住の連続性がなかったのかは解らないが、「縄文時代では、早期から前期末、中期末から後期初頭、晩期の遺構・遺物が多量に検出された。」とある。
7.縄文早期以降どの時代でも、遠隔地との交通・交流を示す発見があり、交通の要衝としての役割を演じていた。
8.信州・北陸地方の浮線網状文土器や東北の変形工字文土器の出土。中国地方に普遍的な突帯文土器、弥生前期初頭の北九州系遠賀川土器の出土。
9.住居址の形は、長方形で2本の柱穴と石囲炉を伴っている。この住居形態は兵庫県東部(神戸市内の住居址遺跡のことか)で多く見つかっている。

今となっては上記のことが正か否かは判断が難しくなっているが、縄文時代の智頭枕田遺跡の人々は信州・北陸地方とか東北、中国地方、遠賀川、兵庫県東部などと言っているところを見ると、やはり東日本からやって来て中国地方の山間部(遺跡は標高180mという)に定住したのではないか。おそらく縄文人は北方系の人で暑さに弱かったのでこう言うやや冷涼の場所に居を構えたものと思われる。

★鳥取のこと

鳥取は一般的には、『古事記』(中巻・垂仁天皇)では「於是天皇因其御子定鳥取部鳥甘部品遅部大湯坐若湯坐」とか、『日本書紀』(巻第六・垂仁天皇・廿三年冬十一月甲午朔乙未)では「則賜姓而曰鳥取造因亦定鳥取部鳥養部誉津部」とか言い、「鳥取造(ととりのみやつこ)の管掌のもと、「鳥取部」は愛玩用の水鳥を捕まえる「部」で、「鳥養部」は捕獲した鳥を飼育し、養う「部」であったと推測される。」と理解されている。但し、異を唱える見解もあり、
「(地名学者の)谷川健一は、金属精錬と鳥の伝承との間には深い関係があり、「誉津別命」という名前が火の中で生まれたことを意味しており、「湯坐」の語に「融解した金属の湯」の意味が隠されていると指摘した。天湯河板挙と少彦根命との関連性などもあげ、雷神である饒速日命(にぎはやひ の みこと)を祖神とする物部氏は鳥養部を管轄していたのではないか、と見ている。」(谷川健一氏の地名関連の著作には<鳥取という地名>などとして述べられている)
しかし、これを子細に観察すると、「誉津別命」と言うのも、後世、応神天皇が諱を「誉田別(ほんだわけ)」と言い、旧名を「大鞆和気(おおともわけ)」と言ったという。誉津別と誉田別とはなんとなく似た部分もあり、応神天皇が大鞆和気から誉田別に入り婿あるいは養子になったとすると「子孫もいない誉津別命の説話が長々と『記紀』に語られているのはおかしい」と言う批判も、元々は応神天皇に付属した説話だったか。また、応神天皇陵とされる「誉田御廟山古墳」も「東側の内濠と内堤が大きくくびれており、そのくびれ部に接して「二ツ塚古墳」があります。これは、二ツ塚古墳が先に造られていたためにこの部分の濠と堤を屈曲させて誉田御廟山古墳を築造したと考えられています。」とか、「大王の墓を造るに当たってわざわざ本来の設計を変更し、変形させてまでして残された二ツ塚古墳とは、いったいどんな人が葬られていたのでしょうか。」とか言う疑問も呈されている。応神天皇には非常に気を遣わなければならない養父とかその種の人がいてこんな御陵になったのかと思われる。墓の主は誉津別命のことか。
「湯坐」、「天湯河板挙」の「湯」の意味については多々あり、①溝。溝川。用水路。②ヰの転。温泉ではなく、「井」即ち「泉」の意。③湯。特に、温泉。④ユミ(弓)の略。⑤ユズ(柚)の略。⑥イハ(岩)の転の
ユワの略。⑦ユ(油)で石油の湧出にちなむ。⑧ユ(斎)で「神聖」の意味。⑨動詞ユル(揺、弛など)の語幹に由来し「地盤がゆるむ」。⑩動詞ユル(淘)の語幹で、砂丘など砂がゆりあげられた地。⑪形容動詞ユル(緩)の語幹で、「緩傾斜地」を言う。
一般的には、1、2、9、10、11、4、6、7あたりの意味で使用されるとか。谷川健一説の<「湯坐」の語に「融解した金属の湯」の意味が隠されている>というは穿ち過ぎか。
湯坐(ゆえ)の語が出てくるのは『古事記』中巻・垂仁天皇段で「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉。」とあり、湯坐とは子代の一般名称か。同類の表現には『新撰姓氏録』の丹比宿祢の記事中「奉号曰多治比瑞歯別命。乃定丹治部於諸国。為皇子湯沐邑。」<湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)は、飛鳥時代から平安時代までの日本で、一部の皇族に与えられた領地である。>と言う。『日本書紀』(巻第二十九)天武天皇十三年(684)十二月に大伴連以下に宿禰を与えたときに大湯人連・若湯人連とある。大湯坐・若湯坐の伴造か。以上より湯坐は金属の湯とは関係がない。おそらく古代にあっては乳幼児は産湯から始まり三日ごととか定期的に入浴を行っていたのであろう。乳母の主要業務は入浴をさせることではなかったか。
天湯河板挙命であるが、河板挙(かわたな)は現今で言う河岸段丘のことかと思われる。湯は川のことか。即ち、天湯河板挙とは河岸段丘に居を構え捕鳥を業としていた人ではないか。垂仁天皇とて全くの素人に鵠の捕鳥を命じたわけではなくそれを生業にしていた天湯河板挙に依頼したのであろう。
ところで、ここで言う「鳥取」とはどういう意味なのであろうか。『記紀』によると「鳥取部」は愛玩用の水鳥を捕まえる「部」で、「鳥養部」は捕獲した鳥を飼育し、養う「部」であったと推測される、と言う。おそらくこれは後世の概念で描かれたもので、『記紀』に出てくる鳥取の類話としては、『古事記』中巻・神武天皇段「宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流(うだの たかきに しぎわなはる わがまつや しぎはさやらず いすくはし くぢらさやる)と言うのがあり、我が国においては鳥類は有史以来食用と認識されていたのではないか。中には垂仁天皇の誉津別命の説話を全否定する先生もいる。一応、『和名抄』では鳥取郷という郷は、因幡国邑美郡鳥取郷・河内国大県郡鳥取郷・和泉国日根郡鳥取郷・越中国新川郡鳥取郷(「今亡」)・丹後国竹野郡鳥取郷・備前国赤坂郡鳥取郷・肥後国合志郡鳥取郷の七カ所になっている。これに対し鳥養郷は筑後国三瀦郡鳥養郷のみである。鳥取郷・鳥養郷はなぜか中部・東海以東にはなく、かろうじて富山市以西となっている。しかも、越中国新川郡の鳥取郷は「今亡」との注がある写本があるといい、あるいは、早くに消滅していたのかも知れない。鳥取郷はやや持って大和朝廷勢力が強いところにあり、鳥取造、鳥取部などは何らかの政治的意図のもと置かれたものか。単に愛玩用の水鳥を捕まえる「部」ではなかったと思う。鳥取、鳥養の地名が西日本を中心に分布しており、白鳥飛来地と関係するのであろう、との見解もあるが、鵠(くぐい、白鳥)からの連想かと思うが、白鳥は留鳥のほか渡り鳥がおり今は北海道を初めとする東日本で越冬することが多いのではないか。また、鳥を霊鳥として呪力を期待する向きもあるが、多くの動物にはそのような力が備わっている。従って、当時の人にあっては鳥類は食用動物であって、愛玩動物として飼養するのは非常に少ないと思われる。おそらく、白鳥が出てきたからこんな話になったのであって、一般的な鳥類としてはカモ(鴨)とかシギ(鴫)とかが多かったのではないか。
話は横道にそれるが、因幡国には古墳造営に関わる氏族が多い。古墳造営者には中央では土師氏とか伊福部氏とかが有力であるようだが、地方では尾張氏、石作氏、出雲氏、伊与部氏、神門氏、六人部氏、水主氏、三富部、五百木部等があり、土師氏は因幡国八上郡土師郷または因幡国智頭郡土師郷に由来するか。伊福部氏は宇倍神社神主兼因幡国造。尾張氏は因幡国智頭郡佐治郷(現・鳥取市佐治町)の佐治氏は本姓を尾張氏という。また、因幡国巨濃郡宇治郷は武内宿禰の出身地で、景行天皇(恩志呂神社神官か。本名は忍代別)とは同郷の人で土建国家として国家復興を果たそうとしたのではないか。手っ取り早いのが古墳造営だった。古墳造営の総監督は武内宿禰で、土師氏が土木工事、伊福部氏が石材工事を担ったのではないか。次いで、垂仁天皇の誉津別命の説話も因幡国邑美郡(おうみぐん)品治(ほんじ)郷・鳥取郷とあるように現在の鳥取市界隈にあった説話を寄せ集めたものではないか。誉津別命の説話を全否定する先生がいるように同説話は本物の垂仁天皇とは全く関係がないような話ではないのか。鳥取についても因幡がイナ(砂地)ハ(端)で鳥取砂丘そのもののことかとも思われる地名だが、当該地は潟湖が多いようで渡り鳥の飛来地としては絶好の場所とも思われ、捕鳥の民としての鳥取部がいたとしても全くもっておかしくはない。しかし、宇倍神社を見るに、祭神は「本来は伊福部氏の祖神を祀り、後に武内宿禰命を祀るとされた」と言うが、初めから古墳造営の総監督武内宿禰命で、「本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部であり、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたとされる。」とあるが、宇倍神社自体が古墳に由来するものではないか。摂社に、国府神社があるが周りの神社を合祀し祭神は、建御雷神・日本武尊・速佐須良比咩神・武内宿禰命・伊弉諾尊・菊理姫命・土御祖神・奧津彦命・奧津姫命・宇迦之御魂命の10柱と言う。これも古墳造営には各種の職人さんが必要でこんな結果になったのだと思う。

★まとめ

因幡国は出雲国の後塵を拝してあまり著名ではないかも知れないが、我が国草創期(因幡の白兎の説話)から勃興期(誉津別命の説話)などにその足跡が垣間見られる。その基盤となったのが縄文時代から平安時代までの長きにわたって因幡国に影響を与えてきた智頭枕田遺跡の功績ではなかったかと思う。同遺跡と出雲国や大和国の交流関係は具体的にははっきりしないが、縄文弥生の時代はまだ九州を除いて東日本の方が先進的であったと思われ畿内、東海はまだ中継点の域を出なかったのではないか。智頭枕田遺跡の人々にとっては目的地は東は関東、西は九州北部だったと思われる。「弥生中期の土器は、山陰、吉備、畿内で使われたものが出土しており、これらの3つの勢力が智頭町で交差していたことを示す。」という。関東と九州は脱落したと言うことか。山陰、吉備、畿内は『魏志倭人伝』 にも出てくる古代国家の基礎ともなる地域で山陰(投馬国・出雲国)、吉備(狗奴国・吉備国)、畿内(邪馬台国・大和国)と思われる。
とにもかくにも、こう言う重要遺跡を記録保存のみと言うのは文字の解釈即ち文学的解決では話にならない。やはり現状保存をして後世の優秀な先生に解釈してもらわねば正しい結論は出ないのではないか。残念至極である。

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