古代の国家体制の変遷

★はじめに

日本の古代における国家体制(平易に言うと王朝)の変遷については、外国の文献にも日本の古典歴史書にもそれらしき記載がある。まず、外国文献であるが具体的な王の名前とか王朝名は記載されていないが、「倭国大乱」とか「倭国乱」と言うことで、やや大げさに言うと<天下分け目の大合戦>とばかりに記載されている。例としては、
『魏志倭人伝』
「「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼」
『後漢書・東夷伝』
「桓霊間 倭国大乱、相攻伐歴年主無」(桓霊間は西暦146~189)
『梁書・諸夷伝・東夷条』
「漢霊帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼爲王」(光和は西暦178~184)
等がある。
いずれも倭国(日本)が二世紀後半に内戦状態になっており、卑彌呼女王が共立されて乱は鎮定された。
卑彌呼女王と以前の男王の系統との関係がはっきりしない。男王の系統の治世が七八十年続いたと言うことは当時にあっては一つの画期であったことは間違いないことと思われる。政体がそれまでの群雄割拠(弥生時代。有り体に言うと戦乱の時代)から男王に統一されて(統一国家の出現)、その後は内戦(倭国大乱あるいは邪馬台国と狗奴国の戦い等)はあったものの卑彌呼女王の統治(古墳時代)に入っていったと言うことか。但し、この「倭国大乱」は日本文献に言うどの戦いかは不明。『記紀』には皇位継承等をめぐる内乱などが何度もあった(例、崇神天皇:武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱を鎮定した。垂仁天皇:狭穂彦(さほびこ)王の反乱の鎮定。景行天皇:熊襲征討、蝦夷平定等。)ので、有力者間の主導権争いかとも思われるが、弥生時代も末期に近づき社会・経済構造が大きく変革したのかも知れない。また、「倭国大乱」が展開された地域であるが、卑彌呼女王の時代になっても「邪馬台国と狗奴国」の抗争が記されているところを見ると狗奴国を吉備国とすると、中国(山陽・山陰)・四国・近畿およびそれに付帯した九州北部が考えられるのではないか。
一方、日本にあっては古代国家の政変に関しては、「王朝交替論」ないし「王朝交替説」という学説がある。
「王朝交替論」と「王朝交替説」の違いだが、「王朝交替論」が<万世一系の天皇観に対し、4~6世紀の間においてはいくつかの王朝の創始、交替があったとする見解。先駆となったものに東京大学名誉教授の江上波夫(えがみなみお)先生の「騎馬民族征服王朝説」がある。>という。「王朝交替説」は<日本の古墳時代に皇統の断続があり、複数の王朝の交替があったとする学説。 >という。何かどちらも同じことを言っているのではないかと思われ、一応、ここでは「王朝交替説」に用語を統一する。
「王朝交替説」と言っても一人の学者先生が説いているわけではなく、多くの人が述べており、戦後最初に唱えたのが早稲田大学名誉教授の水野祐博士で「三王朝交替説」というのが著名である。その説くところは、「第10 代の崇神天皇、第16 代の仁徳天皇、第26 代の継体天皇を初代とする3 王朝の興廃があった」とされる。
ほかに岡田英弘東京外国語大学名誉教授は「1. 河内王朝、2. 播磨王朝、3. 越前王朝、4. 舒明天皇以降の、日本建国の王朝」を挙げておられる。また、大阪教育大学名誉教授鳥越憲三郎博士は、神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇で、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした葛城王朝であるという。その後、葛城王朝は崇神王朝に滅ぼされたが、河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。河内王朝系の天皇の后は葛城氏の子女が多いようだ。

★倭国大乱

倭国大乱の前の統一王朝については、『後漢書』東夷伝に、永初元年(107年)、倭国王帥升が後漢へ使者を出したとあり、帥升を初代とする王朝とする向きがある。しかし、桓帝・霊帝(146年 – 189年)の倭国⼤乱(『後漢書・東夷伝』)から逆算すると66年頃には倭国王が居たこととなり、永初元年(107年)の使者の派遣とは年数に開きがある。よって、帥升が初の倭国王だったことには疑問を呈する向きが多い。この差は『記紀』が掲げる畿内の統一王か、中国との外交交渉の窓口になっていた九州の地域王の違いかと思われる。

大乱の原因については、①倭国王位の承継をめぐる争い ②2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた⼟地収奪争いにあった(『新羅本記』に「⼗年(193年) 六⽉倭⼈⼤饑。来求⾷者千余⼈」とある由。また、ニュージーランド北島のタウポ湖というカルデラ湖の中にあるハテペ火山の噴火によるとの説) ③弥⽣系渡来集団が九州から畿内への拡⼤過程で各地に先住していた縄⽂系在来集団(熊襲などもその一団に入るか)との間で摩擦が生じた、などがあげられているが、社会の変革を説く見解もある。即ち、
1.青銅器祭祀から墳墓儀礼へ
2.共同体墓域から区画墓即ち古墳へ
3.地域経済から広域経済へ
と言う、社会組織形態、イデオロギー、経済という様々な要素での変化が密接に関連し合ったものであった。この新しい社会体制の中心として、大陸からの玄関口である九州北部よりも列島内の生産と流通の結節点になりやすい近畿の方が適合的であった、との説もある。言うなれば、経済活動の進展とともにそれについて行ける人と行けない人との軋轢が生じ倭国大乱となったというのである。即ち、倭国大乱は起こるべくして起きたというのが実態なのだろう。
問題となるのは、青銅器祭祀であるが当初は武器形青銅祭器(銅剣・銅矛・銅戈・銅鏃等。朝鮮半島より九州へ波及した)と銅鐸(畿内で発祥したか)、銅鏡(中国の威信財)があったようであるが、「武器形青銅器は武器としての実効性の高さ、実用性に裏打ちされた武威の観念により青銅祭器となり、銅鐸は縄文以来の公開性の高い祭祀での使用に適しており、金属音響の使用そのものが祭祀的行為として成立するとともに、大型の立体的器物として新素材である金属光沢を発する外形は祭器としての地位を得るのに十分であった。そういう祭器が消滅したのは、青銅という素材が祭器のほか、小型青銅器の原料にもなり、銅鏃など消費性の高い器物素材に転換して行った。弥生時代の銅鏃は実用品であったが、古墳時代に鉄鏃が普及するとともに廃れたか、儀仗的なものになった。青銅祭器(広形銅矛と突線鈕式銅鐸)は、少なくとも古墳時代にくだることが特定できた埋納が存在しないこと、古墳に弥生青銅祭器が存在しないことから、古墳成立という時代転換を前にあるいは中で最後の埋納を終え、新たな祭器を作り出すことも、再び取り出すこともなくなり終焉を迎えていった。鏡面と鏡背の二面をもつ銅鏡は、鏡面に武器形青銅器に共通する金属光沢を,鏡背は銅鐸に求められていた鋳造文様の造形性を継承できた。」と。もっとも、「青銅器祭祀から墳墓儀礼へ」と言っても、弥生時代の青銅器祭祀と古墳時代の墳墓儀礼が同質の葬送儀礼かは疑問である。弥生時代の青銅器祭祀は元々埋納儀礼で、埋納祭器は頻繁に取り出して使うものではなく春夏秋冬の決まったときに掘り出して祭器として使用されたものではないか。従って、埋納地には後世の鳥居のような目印になるものが立てられていたのではないか。それが、倭国大乱の渦中に忘れ去られてしまったものか。
「倭国大乱」の時期は『後漢書』では、桓帝・霊帝の間(146年 – 189年)に⼤乱が起こったとなっている。およそ二世紀後半でこの頃の日本は中国の混乱(例、<党錮の禁・166>、<黄巾の乱・184>)により不安定な状態になり、大陸や半島から流れてきた人々により日本でも反乱が起きたか。しかし、日本での「倭国大乱」の主因は弥生水田稲作による社会組織形態、イデオロギー、経済等による変革が大きかったのではないか(松木武彦国立歴史民俗博物館教授)と思う。「黄巾の乱」の首謀者・張角(ちょうかく)は、初期道教の一派である太平道(たいへいどう)を創始したとあるので、卑彌呼女王もその影響を受けたものか。
「倭国大乱」の及んだ範囲であるが、前述のように狗奴国を吉備国とするなら、中国(山陽・山陰)・四国・近畿およびそれに付帯した九州北部が考えられる。この範囲には日本の草創期の豪族の根拠地があったと思われる。具体的には、山陽(吉備氏)、山陰(出雲氏、丹波氏、但馬氏)、四国(伊豫氏、佐伯氏<佐伯は讃岐の転訛か>)、近畿(天皇氏、久米氏、賀茂氏<賀茂建角身命>、紀臣氏、紀直氏、大伴氏、物部氏、穂積氏等)、九州北部(阿曇氏・筑紫君氏等)などがあげられる。

★王朝交替説

「近時、王朝交替説には疑問も提起されている。すなわち、世襲王権未確立のもとでの複数王家(王統)による大王位の交替、すなわち畿内連合政権論からこの王朝交替説を克服しようとする見解も出されている。総じて王朝交替説は、万世一系的天皇観を克服するうえで大きな役割を果たしたが、「王朝」概念の不明確さもあって、王権―国家形成史としては追究が弱かった。」とあるが、近時はこの学説(王朝交替説)はあまり顧みられないようである。何分にも我が国には神武天皇が即位した頃はもとより継体天皇が即位されたという西暦507年頃にも国語を表記する文字はなかったようで口承だけでは正確な歴史は伝わらなかったと思われる。ここで王朝交替説を列挙してみても始まらないので著名な水野祐博士の見解を紹介してみる。

水野祐博士の「三王朝交替説」
古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33 代の天皇のうち、15 代である。その他の18 代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘した。そして、15 代の天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成した。仮説では、『記紀』の天皇の代数の表記で、第10 代の崇神天皇、第16 代の仁徳天皇、第26 代の継体天皇を初代とする3 王朝の興廃があったと言う。前提として、神武天皇と欠史八代は史実ではない、と。

1.崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)
大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいた。この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多い。古墳の編年などから、古墳時代の前期( 3 世紀 の中葉から 4 世紀 の初期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和・柳本古墳群が展開し、渋谷向山古墳(景行陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓か)、行燈山古墳(崇神陵に比定)、メスリ塚、西殿塚古墳(手白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300 から200 メートルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があった。三輪政権(初期大和政権)の政権の成立年代は3 世紀中葉か末ないし4 世紀前半と推測されている。それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造された。政権の性格は、卑弥呼を女王とする邪馬台国の呪術的政権ではない。

但し、私見ではこの王朝と言おうか政権は実効力を伴った政権ではない。おそらく『魏志倭人伝』 に言う「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸」と言う後世で言う四等官のような人たちの集まりで、①これらの人たちは大和国の人ではない。いつまでたってもだらだらと決着がつかない邪馬台国(大和)と狗奴国(吉備)の争いに中間地(現在の神戸市)にいた大伴氏が調停を行い、大幅に大和国に肩入れをするとともに、吉備国にもおいしい講和条件を提案したのだろう。もっとも、大伴氏が直接交渉したのは吉備国王ではなく現今で言う吉備国の防衛大臣とか、外務大臣とか、言わば吉備国の主要閣僚ではなかったかと思われる。挙げ句の果てに、大伴氏はこれらの主要閣僚を引き抜いて大和盆地に連れてきた。これらの人に三輪山麓に豪邸をあてがい、死後の巨大な墳墓の約束までしたのではないか。箸墓などと言うのは上記一等官の伊久米入彦(垂仁)の夫人が亡くなり吉備の豪族に見せるための試作墳墓ではなかったか。邪馬台国中枢の人々は大和三山にいたか。
因みに、伊支馬はイキマと読むらしいが伊久米で垂仁天皇、彌馬升はミマスと読むらしいが観松で孝昭天皇、彌馬獲支はミマカキと読むらしいが御間城で崇神天皇、奴佳鞮はナカテイと読むらしいが「仲」(ナカツ)で仲哀天皇か。但し、「タラシナカツヒコ(足仲彦)」という和風諡号のうち「タラシヒコ」・「タラシヒメ」は後世の7世紀頃から用いられるようになった天皇の呼称である。「タラシナカツヒコ」から後世の創作による「タラシヒコ」を除くと、「ナカツ」という普通名詞のみになる。よって、これは仲哀天皇が架空の人物の証左である、との見解がある。また、天皇の実名に「仲」というのは中位の人とか次位の人とか言う意味で、おかしいという見解もあるようだ。『日本書紀』(応神二十二年九月)に「上道縣,封中子仲彥。是上道臣、香屋臣之始祖也。」とあるので、仲彦は吉備国の人か。吉備国の命名法として仲彦と言うのは一般的な名前だったのかも知れない。いずれの天皇も実在性は定かならずとある。
この王朝を利用したのは物部氏で、崇神天皇の母堂は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と言い、兄に伊香色雄命(いかがしこおのみこと)がいて穂積氏・物部氏の祖と言う。また、崇神天皇の先代の開化天皇は母堂を欝色謎命と言い欝色雄命の妹と言う。この二代の天皇には宇摩志麻遅命(穂積・物部等の祖)の血筋が色濃く入っている。

2.応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)
応神王朝は天皇の宮と御陵が河内(河内国、摂津国、和泉国、即ち、大阪湾岸)に多いことから河内王朝ともよばれている。この王朝に属する天皇や皇族に「ワケ」のつく名称をもつ者が多いことから「ワケ王朝」とよばれることもある。なお、応神天皇を架空の天皇とする見解もある。この場合王朝は仁徳王朝とよばれる。河内王朝(応神王朝)は、宋書に倭の五王が10 回にわたり遣使したとの記述がある。大阪平野には、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、応神天皇は難波の大隅宮に、仁徳天皇は難波の高津宮に、反正天皇は丹比(大阪府松原市)柴垣に都を設置していることから、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったと思われる。河内湾に港湾施設を築き、海軍を設置し、瀬戸内海の制海権を掌握していた。また、たびたび宋へ遣使を行い、朝鮮半島への外征も行うなど半島にも橋頭堡を築き、アジアへとつながる国際国家の先駆けとなった。但し、河内王朝発祥については諸説があり、①河内王朝は新王朝の樹立などではなく初期大和政権の河内地方への進出であったとする説、②瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説、③三輪王朝(崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説、④九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説、など。

3.継体王朝(近江王朝)

継体天皇は自称応神天皇 5世の孫と言うが、これが事実かどうかは判断がわかれている。水野祐博士は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したと言う。また、継体天皇が事実応神天皇の5世の孫であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い、とも。その後、継体天皇の崩御後「継体・欽明朝の内乱」があったという説もある。そもそも、新興の継体天皇に、それにくっついてきた新興の豪族蘇我氏は畿内に経済基盤があるわけでなく皇位を簒奪したと言ってもそれを裏付ける財力がなかった。継体天皇の方は畿内の旧勢力がなんとかしてくれたかも知れないが、蘇我氏にいたっては誰にも見向きもされなかったのではないか。屯倉の増設と言っても全部自分(蘇我氏)のため。田舎の人々などを騙して開墾したものであろう。こんな状態だから国民のための統治を行おうとした安閑・宣化帝と蘇我氏傀儡の欽明帝が紛争を起こすのも当然だ。
但し、『記紀』が天皇は万世一系と言っているならそれを覆す資料はないのだから「王朝交替説」などは論外の説というような見解もあるようだ。

★結論

我が国の人皇初代神武天皇は九州から来たなどと言うのは眉唾な話で、天皇の論功行賞に与った道臣命(神戸市)、大久米命(橿原市)、椎根津彦命(明石市)、弟猾(奈良県)、弟磯城(奈良県)、剣根(奈良県)、八咫烏(和歌山県)のほとんどは畿内の人で神武天皇の出身地が九州などと言うのは全く考えられない。一般的な観念から言うと九州から一緒に来た人がいればその人を優先して行賞を与えるのであって、九州から来た人が出てこないのはおかしい。『記紀』の編纂者は九州にこだわっているが今ある遺跡も後世のものではないのか。一応、神武天皇を含め欠史八代は史実ではないと言う見解も多いが、卑彌呼女王の前は男王が七八十年統治していたというのだからそこいらのつじつまを合わせるためにも神武天皇と欠史八代の天皇は必要なのではないか。
一般には、神武天皇および欠史八代の天皇→イリ王朝(10代・崇神、11代・垂仁)→タラシ王朝(12代・景行(大足彦忍代別)、13代・成務(稚足彦)、14代・仲哀(足仲彦))→ワケ王朝(15代・応神、16代・仁徳、17代・履中、18代・反正、19代・允恭、20代・安康、21代・雄略、22代・清寧、23代・顕宗、24代・仁賢、25代・武烈)→継体王朝(26代・継体以降)という。このうちイリ王朝は臨時政権、暫定政権で王朝のなかには入らないのではないか。また、タラシ王朝も大足彦とか、稚足彦とか、足仲彦とか実名を伴わず、実在は疑わしい。但し、景行・大足彦忍代別は忍代別がワケ王朝の開祖と思われ、景行天皇→応神天皇→仁徳天皇(景行は応神、仁徳の実父)とつながり古代倭国の最大の王朝となったか。
神武天皇および欠史八代の王朝は大和盆地にあったとしたなら、ワケ王朝はどこで発祥したのだろうか。一応、ワケ王朝は別名を河内王朝といい河内平野で発生したのではないかと思われている。特に、応神天皇が都した大隅宮とか仁徳天皇が都した高津宮は古代にあっては上町台地の先端部分にあり、「大隅宮は東淀川区大隅などにはあらず」と吉田東伍博士の説。おそらく大隅宮、髙津宮(中央区髙津)は隣どうしにあったものか。そのあたりがワケ王朝発祥の地なのであろう。現在でも大阪市の中枢の地である。「神武天皇の時代、現在の「大阪城」の場所に「生島神」「足島神」の両神が祀られたのが「生國魂神社」の始まりとされている。両神は大地・国土の守護神であり、「上町台地」の対岸にあたる「淡路島」の「国生み神話」とも重ねることもできる。」、と。「ワケ王朝」の日本国創世神話は大阪湾岸から始まったことがわかる。残念ながら我が国の創世神話は神武天皇由来のものではなく応神天皇由来のもののようである。大阪湾岸と言えば有力豪族として大伴氏が著名で、天皇氏との関係は、

初代神武天皇と道臣命(大伴氏遠祖という) 神武東征に際して奈良盆地への道案内をした。論功行賞として天皇家の宮殿隣地を宅地として賜る。
第十一代垂仁天皇と武日命(道臣命の七世孫) 垂仁天皇25年、阿倍臣の遠祖武渟川別(たけぬなかわわけ)・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根とともに五大夫(まえつきみ)となる。
第十二代景行天皇と武日命 景行天皇40年、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で靫負部を賜わる。
第十四代仲哀天皇と大伴武持大連 仲哀朝の四大夫の一人。神功皇后は四大夫(中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連)に命じ、百寮を率いて宮中を守らせる。伴氏系図に「初賜大伴宿禰姓」とある。公卿補任には、仲哀天皇の即位の年大連(おおむらじ)を賜り、若年の天皇の輔佐を命じられたとある。

第十代崇神、第十三代成務、第十五代応神には露出がないが、第十代崇神天皇の時に「崇神六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。」とあるが、卑彌呼女王の魏との国交の方が遠大で本格的なものだ。おそらく崇神天皇の記録を残した人は単に魏の外交団の行列を見たか少なくとも政権の中枢にいなかったもしくは後世の人の作文であろう。崇神天皇は臨時的と言おうか暫定的と言おうかその種の大王ではなかったか。第十三代成務天皇は先代の景行天皇の分身のような人物で、実在を疑問視する見解も多いようだ。第十五代応神天皇は朝鮮半島に出征しており、大伴氏も同道したのではないか。半島の軍事行動の記録は日本には及ばなかった。応神天皇の業績も日本へ帰国してからのものがほとんどだ。

こうして見ると、日本の『記紀』の記録も満更でもなく、『魏志倭人伝』 の「其國本亦以男子為王 住七八十年」は神武天皇と欠史八代の天皇の時代に当たり、「倭國亂相攻伐歴年」は暫定ないし臨時政権の「イリ王朝・タラシ王朝」の時代で、特に、第九代開化天皇は都を春日率川宮(かすがのいざかわのみや。現・奈良県奈良市本子守町周辺)として従来の畝傍界隈(例、孝元天皇、軽境原宮<かるのさかいはらのみや。現・奈良県橿原市大軽町・見瀬町周辺>)から大きく変更している。また、崇神天皇の時代は四道将軍の派遣とか武埴安彦命の反乱とか軍事的ゴタゴタが続きそれらのことを言ったものか。『記紀』で言う崇神天皇、垂仁天皇の時代は『魏志倭人伝』 で言う卑彌呼・臺與の長期政権を言うものか。

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