魚と貝

★はじめに

過般の報道によると、「山形県南陽市赤湯の北町遺跡で、縄文時代草創期(約1万1千~1万2千年前)の竪穴住居跡から土器や石器に加え、約2センチの魚骨が1点出土した。鑑定の結果、50センチ前後の成長段階のマグロの背骨の一部と判明し、ほかに哺乳動物の骨などを見つけた。」と言う。
マグロはサケ・マスとは違い、「暖海性で外洋性、回遊性の大型肉食魚で、鮮度を保つ方法が無く、腐敗しやすかった。また乾魚として乾燥させる方法(発掘調査団の愛知学院大・長井謙治准教授はこの説か)もあるが、マグロの場合は食べるに困るほど身が固くなった。唯一の方法は塩蔵にすることだが、マグロの場合は食味がかなり落ちたため、下魚とされ、江戸時代では最下層の庶民の食べ物だった。」と言う。ほかに鹿児島県上野原遺跡等(約9500年前)にある燻製施設から見てマグロの燻製もあったかも知れない。インターネットを見ているとマグロの燻製はおいしいとのこと。いずれにせよ海岸部から持ち込まれたマグロは内陸部の人に変質しないうちに即日食されたのではないか。縄文時代のマグロの骨は貝塚など海岸部で出土例が多い。内陸では、滋賀県の琵琶湖沿岸の入江内湖遺跡(約6000~5000年前。西日本の内陸部ではきわめて稀なマグロ属椎骨<背骨>)などで見つかった例がある。東北地方では縄文時代草創期から内陸部と海岸部で人的、物的交流があったと推測される。また、魚の塩蔵と言っても塩をどのようにして入手したかも問題だ。海岸部にはすでに製塩の技術があったのだろうか。日本には岩塩の鉱脈はないようである。勝手な推量だが、後世(江戸時代)、アイヌ人と倭人の交易でコンブとサケはアイヌ民族から和人への重要交易品目だったと言うが、コンブを干して表面に塩が粉を吹きマグロをコンブ巻きにして持ち歩いたのかも知れない。現在でもサケのコンブ巻きとかニシンのコンブ巻きとかがあり、その原形があるいは12000年前に遡ることができるとしたら驚きである。
日本列島に人が住み始めたとされる後期旧石器時代(3万年前ほど)は日本や西ヨーロッパでも同じだが、発見された魚骨はほとんどが沿岸性のものばかりで、あるいは、当時は舟がなかったのではないかとか、河川を遡上して先方(魚)の方からひょいひょいやってくるサケ・マスは重要な食糧資源ではなかったか、と言うような有力説もある。日本では東京都あきる野市にある「前田耕地遺跡」(縄文時代草創期)では「竪穴住居跡の床面を覆う土の中から、大量の哺乳動物と魚類の骨片が検出され、特に魚類の骨片を詳細に分析した結果、住居内に60から70個のサケの頭部が存在していた。」と言う。従って、前田耕地遺跡は通年居住遺跡ではなくサケ・マスを捕獲する時期だけの居住地ではなかったかと言われている。前田耕地遺跡は縄文時代草創期の遺跡と言っても「遊動する旧石器人」ばりに季節とともに移動していたのではないか。
ユーラシア大陸では洋の東西を問わず人間が最初に口にした水中生物は魚ではなかったか。日本(沖縄県南城市サキタリ洞遺跡。世界最古となる旧石器時代の釣り針(2万3千年前)。魚類の骨、甲殻類の殻。)。ジブラルタル(デビルズ・タワー洞窟(Devil’s Tower Cave)遺跡。旧石器時代後期。魚類、甲殻類。ネアンデルタール人頭蓋骨。)

★貝あるいは貝塚

日本には貝塚がたくさんあり、特に、太平洋岸の内湾には顕著だ。具体的には、東北・三陸海岸、仙台湾、磐城地方、関東地方(7都県全部に貝塚がある)、中部瀬戸内沿岸(岡山県瀬戸内市黄島貝塚)、西北九州(熊本市南区御領貝塚)など。日本海側は潮の干満の差が少なく、干潟も限られ、貝塚は少ない。おそらく貝塚の多い地方では貝を常食していたと思われ、その効率はどうかというと、「1個の貝の栄養価はごくわずかだが、多量に採取する労をいとわなければ人の生存に必要な栄養量を確保することができる。しかし、採集に必要労働力と栄養価からすると決して効率のよい生業とは言えない」という見解もある。おそらく当時の人にあっても貝を常食していたと言っても貝だけを食べていたとは思われない。貝塚の出土遺物には食物関係でも動物遺存体(ヤマトシジミ、エイ・サメ・コイ・クロダイ・スズキ、イルカ、ニホンジカ・イノシシ・タヌキ・カワウソ・キツネ、カモ・カイツブリ、カエル・ヘビなど)、植物遺存体(コナラ<ドングリ>、オニグルミ、オニバス、クリ、エゴマ、ササゲなど)、製塩土器等があり、「縄文人は食べられる物は何でも食べた」と言う説もあり、「貝食は採集に必要労働力と栄養価からすると決して効率のよい生業とは言えない」とあるので、おそらく当時の人も体力をつけるには獣肉とか、魚類が食され、エネルギー源としてはサトイモやアワ・ヒエなどの穀物で摂取していたのではないか。
貝塚は日本では縄文時代に始まり縄文時代に終わった遺構で、発生原因は地球温暖化(その主要な要因は、 極域の陸上に存在する巨大な氷の塊である氷床の融解や拡大によって、海水の体積が増減することに由来します、と言う。)による縄文海進により「内陸まで入江がのび、さらに河川による土砂の流出が進み、浅かった内湾の沖積化が進行するなかで広い干潟が出現し、湾内に淡水と海水が混合する汽水域が発達した。この環境は沿岸性の魚類や砂泥性の貝類の繁殖に最適である。」と言い、東京湾がその代表例である。もっとも、貝塚自体は世界的なものであり、「ヨーロッパ地域、北米大陸(カナダのブリティシュコロンビア州、アメリカ合衆国メイン州)、東アジア沿海地域(日本列島を含む)などの、ほぼ同緯度の地域で、ヴュルム氷期(最終氷期)終焉期以降(後氷期の到来以降)に貝塚が出現している。 極東ロシアの沿海地方から東アジアの沿海地域(日本列島・朝鮮半島・中国大陸の沿海地域)にかけての一帯は、世界的に見ても貝塚が濃密に分布する地域である。」と言う。ヨーロッパには日本の縄文文化に似た【エルテベレ文化】と言うのがあり「バルト海西部,デンマークを中心とする石器時代文化。炭素14法による測定年代は前3800‐前3200年。当時,中部ヨーロッパは,すでに穀物栽培・家畜飼養・土器使用の新石器時代に入っていたが,デンマークでは漁労(タラなど),狩猟(アザラシ,アカシカ,イノシシ,カモ),採集(貝,木の実)に依存しており,中石器時代文化と理解されている。」との説であるが、やや周回遅れの文化で、日本では細石刃、貝塚の出現の頃を言うと言う説もある。

★「貝あるいは貝塚」の担い手は誰か

貝を採取した人、貝塚を築いた人は誰なのかと言うことなのだが、貝には淡水産と海産のものがあるが、いずれにせよ採集にあまり危険を伴わないもので、日本や韓国には古くから「海女=海に潜り貝類や海藻を採る女性漁師」あるいは「韓国済州島の海女」なる職業の人がいる。
男あま(海士)・女あま(海女)の歴史は古いようで、最古の文献は『魏志倭人伝』で、遺物では神奈川県三浦市毘沙門洞穴遺跡より、1世紀前後と見られる鹿の角でできたアワビオコシがあるという。アワビオコシ自体は縄文・弥生の時代からあり、かなり古くから漁業が行われていたことがわかる。貝塚があると言うことは縄文時代草創期より貝を採集する人がいたのであり、男あま(海士)・女あま(海女) はいたと思われる。以前は漁業(沿岸漁業、沖合漁業、遠洋漁業、養殖業)は沿岸、沖合、遠洋と漁場を変えるに従い、男性は沿岸漁業から遠洋漁業に出かける機会が多くなり、女性が沿岸漁業を担うようになったという説がある。この説では貝類もはじめは男海士が取っていたとなるのだが、男性は何分にも漁撈(沖合・遠洋漁業のこと)、狩猟、採集に忙しく、住居の近間でできる採集が早く(縄文草創期)から女性の仕事となったのではないか。従って、貝の採集はすでに縄文時代草創期から女性が行っていたと思われる。
貝塚だが、これも調理して食べられない不要物を捨てる行為だから、当然女性が一定の場所に捨てて貝塚を構築したものと思われる。貝塚もはじめは各家庭単位に作られたかも知れないが、時代を経るに従って集落単位、埋立地へと変遷したのではないか。埋立地というのは各集落が採集地で貝を加工し貝殻を捨て加工品は商取引のため山村集落の得意先に持ち込んだと思われる。そもそも我が民族は巻頭の山形県南陽市赤湯の北町遺跡のマグロ遺骨に見られるように早く(縄文草創期)から他の地域の人々と商取引を行っていたのではないか。バイカル湖から日本列島へ到達するまでも狩猟や採集ばかりではなく他の人々と物々交換等を行いその有無を調整していたのではないか。
洋の東西を問わず、文化発祥の頃は男性が漁撈、狩猟を担い、女性は採集、農業を担ったようである。

★まとめ

日本の海人族文化と言おうか漁撈文化は我が国開国以来始まっており、現在に到っている。一説に「後期旧石器時代の終わりごろと中石器時代を含む時期になってはじめて、人類は水に対する生理的・心理的な恐怖を克服し、河川や海の資源を利用し始める」とあるが、言っていることは我が国そのものだ。おそらく我がご先祖様はまず海岸沿いに住み、サケやマスが遡上する川沿いに進み内陸に住み始め採集生活と狩猟生活を始めたのではないか。我が国には男女の分業が当初よりあったようで、女性は採集、男性は狩猟と区分けされ、それぞれが持ち寄る食材により栄養豊富な食事になっていたのではないか。あるいは縄文時代には「脚気」とか「壊血病」とか「くる病」などという有り体に言えば栄養失調症などと言う病気はなかったのではないか。日本人は今でも「魚食の民」であり、浜辺の人は今も昔も魚を食べていたと思うが、なかには明治時代以前は冷凍・冷蔵技術や運送網の発達が乏しかったので海浜に住んでいる人以外は魚をそんなに食べてはいないという人もいる。しかし、日本には縄文時代草創期から魚の加工技術があり、前述の山形県南陽市赤湯の北町遺跡でマグロの背骨を発掘した先生は北町遺跡のマグロは加工(乾燥)されたものと言っておられる。魚食とは生食を言う、と言うのなら格別、我が国では縄文の昔からいろいろに加工されて持ち運びされた。運搬具の「馬」もあまり役に立たないポニー程度のものであったかも知れないが、それはそれとして人間に代わって物品を運んでいたのではないか。やはり内陸の盆地で魚骨が出てくると言うことは我が国では魚に対するそれなりの需要があり、加工技術も高かったのではないか。今でも干物の産地ならシーズンになるといたる所に魚を干している。加工された干物は自家消費ばかりでなく、外部販売(物々交換)に使われたのではないか。
貝塚のあるところは「ヨーロッパ地域、北米大陸(カナダのブリティシュコロンビア州、アメリカ合衆国メイン州)、東アジア沿海地域(日本列島・朝鮮半島・中国大陸の沿海地域)などの、ほぼ同緯度の地域で、ヴュルム氷期(最終氷期)終焉期以降(後氷期の到来以降)に貝塚が出現している。<但し、貝塚はほかに南米、アフリカ、東南アジア、オーストラリア等にもある>」とあるが、これらの地域はまたサケ・マスが遡上する川が豊富である。サケ・マスは定期的に河川を遡上する魚で、毎年、秋から初冬にかけて産卵のため母川回帰する。前田耕地遺跡(東京都あきる野市)のように、「サケが溯上する秋を中心とする時期に、その捕獲と合わせて石槍を集中的に製作したと推定される。サケの保存を考えれば、前田耕地遺跡もまた、一年の特定の時期に居住地とされることはあっても、通年的な定住集落を形成するまでに至っていない。」と言うが、前田耕地遺跡は格別、おおむね貝塚とサケ・マスの遡上がセットになっているところは定住性の高い(貝塚がある)比較的安定した生活(サケとその加工技術)を送っていたか。真偽のほどは定かではないが、サケは頭をよくする食べ物という説がある。縄文人の頭脳明晰さはこういうところにあるのではないか。
極東ロシアの沿海地方から東アジアの沿海地域(日本列島・朝鮮半島・中国大陸の沿海地域)にかけての一帯は、世界的に見ても貝塚が濃密に分布する地域である。」とあるが、「朝鮮半島の南端、韓国慶尚南道の三千村の沖合にある勒島遺跡群から、朝鮮の土器とは明らかに文化圏を異にする縄文土器や、縄文の道具類が見つかっている。釜山広域市影島(ヨンド)区にある東三(トンサム)洞貝塚からも、7千(B.C.5000)~3千(B.C.1,000)年前(縄文並行期)頃の、縄文人が日本列島から持ってきた縄文土器や、交易品であった九州産の黒曜石などが数多く見つかっている。」などとあるように、朝鮮半島の貝塚は日本人と密接に関係があり、かつ、半島南部は古くから日本人のコロニーがあったのではないか。

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