3万年前の航海

★はじめに

過般(2019/07/09)、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」(代表・海部 陽介(かいふ ようすけ)国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長)は、手作り丸木舟によって台湾東岸から約200キロもの航海を成功させ、沖縄・与那国島へと辿り着いた。想定される日本列島への3つの渡来ルート(対馬・沖縄・北海道)の中で、とりわけ注目すべきは、沖縄島を含む琉球列島(南西諸島)への渡来ルートで、九州~台湾間に1200kmにわたって連なるこの列島の全域に、3万年前頃、突然、人類が現れました。ウェブサイトで図示されている例として、種子島(立切遺跡35000年前、横峰C遺跡35000年前)、奄美大島(土浜ヤーヤー遺跡30000年前、喜子川<きしごう>遺跡30000年前)、徳之島(ガラ竿遺跡30000年前)、沖縄本島(山下町第一洞穴遺跡36500年前、サキタリ洞遺跡35000年前、港川フィッシャー遺跡20000年前)、宮古島(ピンサーブ遺跡30000年前)、石垣島(白保竿根田原洞穴遺跡27500年前)、台湾(八仙洞遺跡30000年前)など。「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」チームはこれが日本列島へのまとまった人類群の渡来と捉え、実証実験に向かったようだ。一般的には北方ルートからの渡来は寒さとの戦いのため南方ルートに比べ遅れると言うことで、あるいは日本列島到達には10000年くらいの時間差があったのかもしれない。
プロジェクトの説くところによると、
1.当時の舟は遺跡から未発見で不明であるため、候補と考えられる草・竹・木の舟をそれぞれ試作して海上実験を行ない、当時の航海技術を検討する。
2.日本列島へは「漂流してきた」という説もありますが、今までに蓄積された膨大な遺跡データから、最初の日本列島人は「海を渡って来た」ことがわかってきたのです。つまり我々の祖先たちは、大海原を航海して来た「偉大なる航海者」だった。
3.琉球列島への進出は、当時の人類が成し遂げた最も難しい航海だったと考えられます。ここでは島々が小さいため、それだけ到達が困難であるだけでなく、島間距離が数十から200 km以上に及び、場所によっては隣の島が見えません。さらにそこには世界最大の海流である黒潮が流れており、それが当時も今のように行く手を阻んでいた可能性が高いのです。
4.琉球列島の主な旧石器時代遺跡。当時これらの島は台湾と地続きだったという説があるが、様々な証拠から否定されている。
5.太古の舟は遺跡に残っていません。しかしその素材は、「草・竹・木」のどれかに絞られます。私たちはこれらの舟を全て試作し、実際に海上でテストすることによって、どの舟が使われたのかを探ります。
6.舟の製作は、それぞれ3万年前の道具で素材の調達・加工が可能かどうかを実際に確認しながら進めている。
7.帆は縄文・弥生時代ですら使われていないことがはっきりしてきましたが、それゆえ、旧石器時代の舟は漕ぎ舟だったと考えるべきです。
8.4万~3万年前の間に、対馬海峡・伊豆諸島・琉球列島の各所で、祖先たちが海を越えた証拠が見つかっています。これらは偶然の漂流ではなかったはずです。 当時から意図的な往復航海が行なわれていた。
9.草束舟と竹筏舟の意外な特徴がわかってきました。どちらも海上で高い安定性を見せ、漕ぎ手たちに「転覆しないという安心感」を与えたのです。その一方、スピードと耐久性には難点が見つかりました。思い通りにならない天候と海況、普段より強まっていた海流などに悩まされ、結局目的地に到達することは叶いませんでした。
10.現地の人によれば、台湾から与那国島は見えないというのです。各方面に情報提供を呼びかけたところ、「見えないと言われた島が見える」との情報が出たのです。山の上から島をみつけた祖先たちは、舟で沖へ出たときに、現在の私たちが「黒潮」と呼ぶ海流によって、必ず北へ流されることを知ったでしょう。
11.小さな与那国島は、半径50km圏内に入らないと海上から見えません。従って、航路の大半は、星などを頼りに、水平線の下に隠れる与那国島の方向を目指すことになるのです。この航海が、予想以上に困難であることが実感できるようになりました。

★上記プロジェクトの見解の検討

1.候補と考えられる草・竹・木の舟をそれぞれ試作して海上実験を行ない、当時の航海技術を検討する。
草の家や竹の家は現在でも東南アジアにはあるようだが、日本では先史、有史時代を通じて存在しなかったのではないか。但し、草葺きの屋根は縄文時代からあったと推定され、かつ、英国・ドイツ等西ヨーロッパにも存在し世界的な様式のようだ。草・竹の舟の実証実験は必要ではなかったが、実験の不備を非難されては困ると言うことで実験を行ったのであろうか。
2.日本列島へは「漂流してきた」という説もありますが、我々の祖先たちは、大海原を航海して来た「偉大なる航海者」だった。
港川人・港川遺跡は「人工遺物を伴わないことから、なんらかの偶発的事故により形成された遺跡と考えられている。」と言い、「漂流してきた」人々と考える説もある。また、薩南諸島、南西諸島の点々と連なるおよそ30000年前の遺跡群が同じ目的を持った人の遺跡群かは疑問だ。「また、人骨の特徴が中国の柳江(りゅうこう)人と類似するため大陸との関係が注目され、日本人起源の問題に新しい一石を投じた。」と言うが、これらの人々が中国大陸から継続的にやって来たかも疑問。
3.琉球列島への進出は、当時の人類が成し遂げた最も難しい航海だったと考えられます。
私見もそう思いたいが、それは日本人の主観的考えで世界的にはもっと航海術に長けた人々がいたのではないか。
4.琉球列島の主な旧石器時代遺跡。当時これらの島は台湾と地続きだったという説があるが、様々な証拠から否定されている。
ブラキストン線(Blakiston Line)の説明につき、津軽海峡を挟んだ動物相の違いは、最終氷期に北海道は樺太、千島列島を通じてユーラシア大陸と陸地で繋がっていたことに対して、本州は朝鮮半島を通じて大陸と繋がっていたことに起因すると考えられている、とある。また、渡瀬線:トカラ構造海峡とも呼ばれる、トカラ列島南部の悪石島と小宝島の間に引かれた動物の分布の境界線。北は旧北亜区(中国・日本地方区)、南は東洋亜区に属することになる。多くの動物がこの線を境として分布を異にしている、と。人間も野生の動物を追って東奔西走したのであろうから、これらの動物相も参考になると思う。
5.太古の舟は遺跡に残っていません。しかしその素材は、「草・竹・木」のどれかに絞られます。
台湾から出発するので草や竹が舟の素材として考えられるが、もし日本で造るのだったら「木」しか考えられない。
6.舟の製作は、それぞれ3万年前の道具で素材の調達・加工が可能かどうかを実際に確認しながら進めている。
3万年前の我が国の舟はほとんどが丸木舟だったと思われる。準構造船は古墳時代に、構造船は室町時代に出現したという。
7.帆は縄文・弥生時代ですら使われていないことがはっきりしてきましたが、それゆえ、旧石器時代の舟は漕ぎ舟だったと考えるべきです。
海国日本と言っても、我が国は意外と漁業、造船、航海などの技術が遅れている。
8.4万~3万年前の間に、対馬海峡・伊豆諸島・琉球列島の各所で、祖先たちが海を越えた証拠が見つかっています。これらは偶然の漂流ではない。当時から意図的な往復航海が行なわれていた。
旧石器時代の海洋交易は事実ではあろうが、担った人、交易品、交易範囲、交易期間等は一部を除いて不明である。
9.草束舟と竹筏舟の意外な特徴は、どちらも海上で高い安定性があったが、その一方、スピードと耐久性には難点があった。天候と海況、海流などに悩まされ、結局、目的地に到達できなかった。
一般に、草束舟と竹筏舟は沿海用の舟で、外洋船として用いるのはいかがなものか。葦舟や竹筏は籐で固縛するのであるが、紐がほどけた場合一瞬にして舟がなくなるので危険と思われる。
10.台湾では「台湾から与那国島は見えない」という。しかし、山の上から島をみつけた祖先たちは、舟で沖へ出たときに、現在の私たちが「黒潮」と呼ぶ海流によって、必ず北へ流されることを知ったでしょう。
黒潮によって北へ流された舟はどのような流路を取ったのであろうか。
11.小さな与那国島は、半径50km圏内に入らないと海上から見えません。従って、航路の大半は、星などを頼りに、水平線の下に隠れる与那国島の方向を目指すことになるのです。
航路の大半は天体観測により与那国島に向かったと言うが、当時、そんな技術があったのか。

★まとめ

旧石器時代に南の海より日本列島に渡ってきた人がいたことは事実であろうが、大勢の人が大型の舟で渡ってきたと言うことには大きな疑問だある。舟の遺物が発見されないのでみんな推測に過ぎないのであるが、ほとんどの書物では舟の大きさは現在のカヌーやカヤックくらいと推測している。おそらく少人数が乗る丸木舟ではなかったかと思われる。兵庫県豊岡市出石町袴狭の袴狭遺跡から出土した弥生時代後期から古墳時代前期(4世紀と言う)の準構造船団が描かれた木製品には大小様々な舟が描かれているが、二人乗りが最小単位の舟のようである。柳田国男先生のご見解かと思うが、先史時代の日本人の移動方法は言わば尺取り虫型引っ越し方法とも言うべきもので、移動は家族単位が基本になっていて、まずお父さんが見える島にカヌーで渡航し島の視察をする。居住が可能と考えたら帰宅し家族に話し、新居など引っ越しの準備をする。晴れの日を見計らって、お母さん、子供、おじいさん、おばあさん、犬などをピストン輸送する。南の国からはこう言う方法で人々がやって来たが、九州南部にまで勢力を伸ばすのが精一杯だったか。
一方、大陸と陸続きだった樺太・北海道(2万年ほど前の氷河期には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。 )ラインは徒歩が原則で、3万年前に日本上陸を果たした南西諸島ルートより遅れること10000年後にして北海道に上陸したのではないか。北海道から本州に渡るには諸説があるが、有力なところでは、冬になると津軽半島と北海道の間や下北半島と北海道の間が氷結し氷結路を歩いて渡った。あるいは、そこまで言わなくとも、津軽海峡は更新世には形成されておらず、本州と北海道は陸続きであったが、その後南北あるいは東西方向の断層などによって 2万年前頃海峡が形成されたと考えられると言い(但し、異説もあるようだ)、北海道と本州は自由往来の時期があったようである。北海道のマンモスの化石は「約4万年前より古い化石と約3万年前より新しい年代を示す化石に分けられ、約3万5000年前あたりを示す化石はなかった。」と言うので、3万年前以降の一団のマンモスハンターが波状的に北海道へやって来たのかも知れない。あるいは、丸木舟で渡って来たと言う。なお、マンモスハンターはいなかったとか、津軽海峡は消滅したことはなく旧石器時代後期の日本は大陸、樺太、北海道が一体化しており、津軽海峡を挟んで、古本州島(本州、四国、九州)があったという。古本州島に来たのが北海道、対馬、沖縄(南西諸島)のいずれのルートかはわからないが、いずれのルートにせよ渡海、航海の技術があったという。
以上より北海道ルートの移住はやや大規模なもの(マンモス狩りも少人数ではできないようだ)で、かつ、単発的なものではなく継続してやって来たのではないか。沖縄ルートに比べ日本進出は遅かったものの途中難渋することもなく本州まで進出した。東日本の人口が多いのは移動手段を徒歩に頼ったためで日本アルプスに行く手を遮られたため東日本にとどまったと言うことである。従って、日本人のルーツは縄文人であり、日本海を舟で移動した人は沖縄までたどり着いたのではないか。沖縄ルートの人はせっかく日本列島に先に到達していたのに北海道ルートのマンモスハンターの行動力とか、食生活が鮭などの有益な食物だったこともあって全国制覇はならなかったと言うことかと思う。考古学の遺跡も沖縄(南西諸島)と九州南部は似ているという。
最後に、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の航海実証実験については、余計なことを言うわけではないが、舟も我々が博物館などで見るものより大型で頑丈にできており、本物はもっと華奢な舟ではなかったか。航路の取り方も出発点を台湾の八仙洞遺跡に寄せたのかも知れないが、人間がそこにしかいなかったと言われればそれまでだが、難易度の高い海流が流れているところを選んだのもわからない。とは言え、成功に到ったことは喜ばしい限りだ。

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