熊野国について

★はじめに

紀伊国牟婁郡は律令国成立前は熊野国と言われていたらしいが、文献には熊野国の表記はなく、単に熊野と書かれているだけのようだ。多数説になるのかもしれないが、一説によると『記紀』や『日本霊異記』では「熊野村」とか「熊野××(例、神邑)」とか「紀伊国熊野(例、紀伊國熊野之有馬村)とか「人名(例、熊野久須毘命、熊野之高倉下)とばかりあり、熊野国の存在を示す確証はなく紀伊国牟婁郡内の一地名であった可能性も大きい、と言う。
それかあらぬか辞典によっては「熊野」を一語としてその語源のうんちくを傾けているものもある。それによると、

①クマはコモリ(隠り)の義 ②カミノ(神野)の転 ③クマ族が占拠した野 ④大熊出現の神話、等が語源と言うが何やらすっきりとしたものではない。一般の固有名詞としては、丹後国熊野郡とか、但馬国二方郡熊野郷とかが見える。広い意味での丹波国の海岸線(日本海)沿いに偏っているが、特別に熊野灘沿岸の熊野を持って特異な語とするのはいかがなものか。

一般的な意味の熊野については、「クマ」に字義があり、「ノ」は格助詞のノ、あるいは、野原などのノと理解されている。地名用語ではよく使われる文字で、
くま(隈、曲、阿、暈)
一般的な意味では、①道や川などの曲がったところ ②奥まり隠れたところ ③色や影の濃い部分、または色の重なった部分 ④曲がり角の意で、朝鮮語KOP(曲)と同源。
地名用語では、①水の入り江は陸(クガ)が曲がっているところから、クはクガ(陸)、マはマガリ(曲)の義。②入り込んだところの義。クは物の中へ入り込む義で、マは間。③オクマ(奥間)の上略。
くま(熊)
一般的には動物の熊を言う。①朝鮮語KOM(熊)と同源。②神の意の古語クマに、熊の意の百済方言クマの字「熊」を借りた。③隈、隅、隠の義。④カミ(神)の転声。

以上より地名についたクマ(熊、隈、曲、阿、暈など)は、道や川などの曲がったところ、水の入り江、入り込んだところ、などが考えられる。

★熊野の地名の発祥地は、

熊野の地名の発祥地は熊野三山界隈の地と思われ、二カ所ほど候補地と考えらる。一カ所目は現在の和歌山県新宮市新宮、神倉あたり。もう一カ所は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下和田あたりが該当するかと思われる。新宮市にはほかに熊野川河口に熊野地(くまのじ)と言う地名があり、廻船(かいせん)が寄港し、廻船の乗子が多く居住したという。熊野川上流の木材が流送される貯木場もあった。これは「熊之路」で「クマに到る経由地」の意かとも思われるが、クマが熊野本宮大社なのか、はたまた、熊野速玉大社なのかはわからない。とは言え、熊野の地名発祥の地ではないと思う。
那智勝浦町の下和田は明治時代になる前は和田村と言われていたところで、「ワダ」とは漢字で書くと「曲」となり、クマと同じである。よって、クマもワダも道路や川、海岸、地形などの湾曲したところをいい、新宮市新宮(旧名は熊野神邑あるいは天磐盾か。はっきりはわからない。)も那智勝浦町の下和田も起源は同じで川の湾曲部に当たる。
しかし、旧熊野国には漫然と熊野という地名はあっても具体例は乏しい。唯一ヒントとなるものは「日本書紀 巻第三 神武天皇紀」に「遂越狹野而到熊野神邑」とあるのみで、狭野(現在の新宮市佐野)を越えたら熊野という地名だったようだ。即ち、現在の新宮市中心部、ことにゴトビキ岩のあたりが熊野ではなかったか。この地域の神話に神倉とか高倉とかの語が出てくるが、いずれも同じ意味で「ゴトビキ岩」のことかと思う。同じ『日本書紀』に「號曰熊野高倉下、・・・時武甕雷神、登謂高倉下曰「予劒號曰韴靈。韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。」高倉下曰「唯々」而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之、果有落劒倒立於庫底板、卽取以進之。」という話も高倉の倉の漢字にひかれたもので、そんな「庫」はあったのか、なかったのか。おそらく高倉下はゴトビキ岩を祀る現今で言うところの神主で武器庫などは持っていなかったと思われる。
以上より那智勝浦町下和田と新宮市新宮のいずれの地が熊野の語源になったかであるが、いずれの市や町もはっきりとした地名の文献初出は平安・鎌倉以降で、それ以前のことは『記紀』にも載ってはいるが、半信半疑のような話で不明と言うほかない。
新宮市の古代遺跡としては「阿須賀遺跡」があり、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡で、住居跡が円形3、隅丸方形1、方形6の合計10基、掘立柱建物跡4基が確認されているほか、弥生式土器・土師器が多く、その他に臼玉・管玉などの石製品が見られる。沼沢地化した熊野川河口において、蓬莱山麓一帯のわずかな微高地に成立した農耕漁労集落と見られ、阿須賀神社境内だけでなく周辺一帯の相当に広い範囲から出土品が見られることから、大規模な集落が存在していた、と言う。また、神倉神社からは弥生時代中期の銅鐸片や滑石製模造品が出土している、と言う。
一方、那智勝浦町は下里古墳以外に遺跡の類いは何もないらしく、「下里古墳は古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。墳丘からは築造当時のものと見られる二重口縁壺のほか、縄文土器、弥生土器、平安時代の製塩土器が出土している。特に二重口縁壺は東海地方の影響を受けた遺物になる。」等言われているが、どうしてこんなところに集落遺跡がないのか疑問だ。私見ではこの古墳の被葬者は熊野国造で、大伴氏の徴兵政策で他の紀ノ川流域の豪族たちとともに熊野国からは唯一参加した人物と思われ、紀臣氏に引率されて朝鮮半島へ渡ったのではないかと思われる。地名にも「八尺鏡野」「和田」「粉白(このしろ、『太平記大全』に、小代兵庫は紀州の者也。小代<古くは(をしろ)>は粉白か)」「庄」などの古いものがあり、もう少し調査すべきであろう。何にもまして古墳を築造すると言うことは人的組織や物的資源がしっかりしていなければならない。但し、近隣の太地町の「太地熱帯植物園遺跡」(太地町太地)ではサヌカイト製の細身の有舌尖頭器が単独で採取された。詳細は不明。石器は先端部が欠失しているものの基部には舌状突起が認められ、有舌尖頭器と思われる。但し、身部の両側縁がほぼ並行する点、長幅比が極めて大きい点など、近畿地方ではあまり類例を見ない特異な形状を示している。先土器時代終末期から縄文時代草創期の遺物と推定される。そのほかにこの地方に特異なものとしては、磐境がある。小型の石で周囲を囲ったり石を積み上げたりして造った臨時の祭場で,形は円形・方形など。臨時的な施設のため、磐座(いわくら)に比べて現存するものは少ない。磐境は我が国ではストーンサークルが多いかと思うが、熊野地方ではストーンスクエアとでも言うのか四角形が多い。
今のところは熊野の地名発祥の地は「新宮市新宮、神倉」のあたりか。言語的には「クラノムラ(倉之村)」の訛りで「ゴトビキ岩」(神倉、高倉の倉は「岩の露出した崖や断崖」を言う)のことを言ったか。

★熊野国の主導者は誰だったのか

熊野国の統治者は熊野国造と思われるが、現在で言うと神主というのか高倉下の子孫かはわからないが余計な人物がいた。後世、御師と称する熊野詣の際の祈祷や宿泊の世話、山内の案内をした人物で、熊野御師と言われた。平安時代末期に発生したと言われるが、平安初期という説もある。御師の前身は神主であったのであろうが、熊野速玉大社では神主は神主とし「穂積 忍麻呂(ほづみ の おしまろ)が就任して、父・濃美麻呂の代に紀伊国熊野に下向して熊野速玉大社の神職となり、忍麻呂が初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられた。以降、忍麻呂本宮禰宜の子孫である紀州熊野系の穂積氏が熊野速玉大社の禰宜を世襲した。」という。しかし、熊野三党と言われ藤白鈴木氏は穂積臣、榎本氏は榎本連、宇井氏は丸子連を本姓とし、三氏ともに御師を勤めていたようだ。本来的に言うと高倉下の子孫の神主は榎本氏、宇井氏で、穂積氏は後発の神主ではなかったか。穂積忍麻呂が熊野速玉大社の神主になったのは奈良時代のことでそれ以前の神主は榎本氏、宇井氏だったのだろう。榎本氏や宇井氏は国造であったという話は聞かないので国造は別にいて現在の新宮市に在住していたのか、はたまた、別のところに在住していたのかは不明である。しかし、熊野国が紀伊国に編入されてからは牟婁郡大領、また熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎したという。おそらく熊野国造家が台頭したのは熊野直広浜が女官として出世してからで、それに伴って一族の官位も進められたのではないか。『先代旧事本紀』の言う「饒速日命の後裔といい、大阿刀足尼が熊野国造となり、その子稲比は熊野直の姓を賜った。」などと言うのは何の根拠もない創作話で、伍百足(系図の一本に熊野直広浜の父という)が牟婁郡郡司(大領か少領という)、熊野本宮禰宜の職に就いたのが熊野国造氏と言おうか熊野氏の始まりではないのか。伍百足の孫の蝶が延暦十四年(795)三月桓武天皇から熊野連を賜った、と言う。そもそも熊野国造氏のはっきりした記録は牟婁郡から貢上された采女(牟婁采女)熊野直広浜の昇進記録ばかりだ。「大化改新後に紀伊国牟婁郡の郡司に任じられて大領か少領、熊野三山(本宮、新宮、那智)を管領」などと言うのも眉唾の話か。紀伊国牟婁郡の郡司は牟婁郡牟婁郷に官衙があってそこに在住していただろうし、本宮禰宜は熊野本宮大社に居住していただろうから牟婁郡郡司と本宮禰宜の兼職は難しかったのではないか。私見では牟婁郡郡司は紀伊国の出身者がなり、本宮禰宜に熊野国造氏が就任したのではないか。創建:不明(伝崇神天皇代、B.C.33年?)などと書いてある文献もあるが、おそらく実際の創建は西暦600年代で、有り体に言うと失職した熊野国造家のために建てたものではないか。従って、実際の熊野国を古代に主導したのは下里古墳の被葬者の子孫とか、熊野速玉大社の神官ではなかったか。

★牟婁郡のその後

熊野国が紀伊国牟婁郡に編入された後の牟婁郡は、
*岡田郷 1説 現・西牟婁郡上富田町岡、西牟婁郡上富田町市ノ瀬字中ノ岡、西牟婁郡上富田町市ノ瀬字下ノ岡を中心としたあたり。
2説 現・東牟婁郡那智勝浦町を中心としたあたり。
*牟婁郷 現・田辺市を中心とする地域。
*栗栖郷 現・田辺市(旧西牟婁郡)中辺路町栗栖川を中心とする地域。
*三前郷 1説 新宮市三輪崎
2説 現・東牟婁郡串本町を中心とした地域。三前は潮岬のこと。
*神戸郷 現・新宮市、三重県紀宝町を中心としたあたり。
旧熊野国は比定地が新宮市に偏っている。おそらく熊野国の発祥地が現在の新宮市なのでそのようになるのかもしれない。ところで、熊野三山の創建は熊野速玉大社、熊野那智大社、熊野本宮大社の順で熊野速玉大社は前身の神倉神社を含め熊野地方の祭りごとの中心地ではなかったか。これに対して熊野那智大社は下里古墳に見られるように政(まつりごと)の中心地で、祭政一致ならぬ祭政分離の国家体制を早くから採用していたのではないか。熊野三党(穂積、榎本、宇井の諸氏)が祭りごとの主導者であるが、熊野国の政(まつりごと)の主導者は何の記録もない。

★まとめ

熊野国の特異な点としては磐境の遺跡が比較的多いことである。特に、方形の磐境は東日本にはほとんど見られず、西日本の専売特許のようなものだ。そのうち、熊野国では三重県熊野市の産田神社の方形磐境、那智勝浦町下和田の諏訪神社の方形磐境、白浜町の阪田山遺跡の円形磐境、紀の川市岸宮・中宮遺跡の円形磐境(平安時代という)などがある。神籬や磐境は臨時の祭祀場なので遺跡が出てくるのは少ないとのこと。しかし、熊野灘に沿った産田神社、諏訪神社はいずれも方形であり、「石囲い施設には円形と方形とがみられるが、用法上の区別は明らかでない。」と言う。日本の住居形式は竪穴式住居と高床式住居に分けられ、特に、庶民の住居形式である竪穴式住居は円形(主流)から隅丸方形(隅が丸い四角形、弥生時代の後期<2世紀から3世紀頃>)、長方形へと移行したようである。また、古墳にも前方後円墳と前方後方墳があり、ご先祖様(祖神)が永遠の眠りについているところは円形か方形かのいずれかである。また、前方後方墳の発達した地域は中部・東海地方と言われ、あまつさえ熊野本宮大社の宮司さんや熊野那智大社の宮司さんはその祖神に天火明命(尾張氏の祖神)を当てている。下里古墳の出土品のうち「特に二重口縁壺は東海地方の影響を受けた遺物になる。」とあることなどを踏まえて考えると、磐境の形に円形と方形の違いがあると言ってもいずれも原形は家屋であり、用途は天界から天下った神が宿るところであり、外部の具体的な影響としては尾張国の尾張氏の進出があるのではないか。
次いで気になるところは、大伴氏の影響である。中央豪族の大伴氏かどうかはわからないが、熊野三党のうち饒速日命系の穂積氏はともかく、榎本氏、宇井氏が本姓はおのおの榎本連、丸子連と宣っておられることだ。ものの系図によると、大伴金村の息子大伴狭手彦は榎本氏の祖とあり、金村の息子糠手子の子頬垂(読みは、つらたり、か)は丸子連の祖となっている。これらの榎本連、丸子連が大伴氏由来の姓ならば、一般的には熊野の豪族に中央の豪族が婿入りしたと考えられる。理由としては大伴金村失脚後中央での就職口が乏しくなった狭手彦や頬垂が地方へ落ち延びたとか、あるいは、榎本氏や宇井氏が近隣諸国(例として、尾張氏)に圧迫され始めたので中央豪族の後ろ盾によって追い返そうとしたのか。しかし、両氏の改姓は喫緊の課題ではなかったらしく、その後も榎本、宇井を名乗っているようだ。おそらく、大伴狭手彦や頬垂は日頃は現在の大阪市住吉にいて年に数回視察のため現在の和歌山市や新宮市に出向いたのではないか。
熊野速玉大社と熊野那智大社の祭神は熊野夫須美大神(熊野結大神)・熊野速玉大神(速玉大社)、熊野夫須美大神(那智大社)と言い、大伴氏の祖神には高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)とあり、夫須美の部分と産霊の部分が一致する。また、「天神御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以・・・」(『古事記』中巻神武記)とあって、現在の新宮市に高木神(高皇産霊尊)が天照大神とともに出現している。
三重県熊野市の花の窟(花の窟神社)や産田神社の由緒来歴も日本神話の一部を切り取ったようで、やや大げさに言うと国家生成の始原の地と言うことになろうかと思う。要するに、大伴神話がここまで運ばれたと言うことなのだろう。
結論を言えば、紀伊半島は日本の縮図のようなもので大和朝廷・大伴氏系影響下にあった旧紀伊国と(円形磐境を用いるようだ)尾張氏の影響下にあった熊野地方(方形磐境を用いる)の習俗の違う二つの地域の人が住み分けていたようだ。しかし、いずれも広い意味での日本国の習俗であり、根源(磐座など)とするものは同じである。

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