熊野国造はどこに住んでいたの

★はじめに

日本の古代には、令制国が成立(大宝元年<701年>か)する前に、国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)があったようであるが、その国や県の領域ははっきりしない。ましてや、その国造や県主が居住していた地(現代に即して言うと県庁所在地か)となるとますます不明である。ここで論ずる熊野国(文献には熊野国という表現はなし。筆者の便宜上の表記)も国造が居たであろうとおぼしき地域が三カ所があり、言わずと知れた、熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)、熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮)、熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)である。上記の三大社のうちウェブサイトで宮司家の祖神等を明確に語っているのは熊野本宮大社で、それによると、

『熊野本宮大社』(「当社について」縁起・神話)
「天火明命は、古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神です。天火明命の息子である高倉下は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に天剣「布都御魂」 を献じてお迎えしました。
時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟の巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。
この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。

熊野本宮参詣曼荼羅第十三代成務天皇の御代には、国々の境が決められました。
熊野国は、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)と定められ、初代の熊野国造(長官職)には高倉下の子孫である、大阿斗宿裲が就任しました。
このように、熊野国造家は天神地祇の子孫である「神別諸氏」の氏族であり、物部氏の先祖でもあります。熊野本宮大社の神々は大阿斗宿裲以降、千数百年もの間、熊野国造家の子孫によって代々お祀りされてきました。」、と。

何やら『記紀』や『先代旧事本紀』などを寄せ集めたような内容だが、現宮司さんのご見解かどうかはわからないが、
1.熊野国造家の祖神は天火明命である。
一般に言われるような祖神は饒速日命ではない。『先代旧事本紀』に言う「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(平たく言うと天火明命と饒速日命は同一神)」の神名はは否定されるべきである、と言うことなのだろう。天火明命は尾張氏(尾張連)・津守氏 ・ 海部氏などが祖神としている。
2.時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わした。
紀伊半島に勢力のあった大伴氏の祖神に配慮したものか。もっとも、江戸時代まで熊野本宮大社と三重県熊野市の産田神社の神事は共通したものがあったという。影響は海の産田神社から内陸の熊野本宮大社へ伝播したという説がある。「永正十八年の棟札は、祭主として、「紀伊牟婁郡有馬荘司榎本朝臣和泉守忠親・神主藤原森純」の名がみえるが、『紀伊続風土記』によれば、「上古は榎本氏が代々神官として社領の地を治めていたが、中世以来別に神官をおいて神事をさせた。藤原森純はその神官である。天正(一五七三-九二)のころ榎本氏(大伴氏一族という)が断絶し、そのとき宮社は兵火にかかって古記録も焼失した。」と言う。
3.第十代崇神天皇の御代、熊野連により熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建された。
熊野連は『新撰姓氏録』では饒速日命の子孫といい、また、当時にあって社殿(神籬のことか)はあったのか。
4.初代の熊野国造(長官職)には高倉下の子孫である、大阿斗宿裲が就任し、熊野国造家は「神別諸氏」で、物部氏の先祖でもあります。
一般には、「饒速日命(物部氏の祖)の後裔、大阿刀足尼が熊野国造に任じられ、子の稲比が熊野直を賜姓される。子孫の伍百足が熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎する。」と解されている。伊香色雄命系の穂積氏や物部氏と宇摩志麻遅命を祖とすることは同じだが、高倉下という人物は『記紀』にも出てくるが、『先代旧事本紀』や『海部氏勘注系図』が主な出典かと思われ信頼に足るものかどうか。
以上より大阿刀足尼が熊野国造に任じられ、その子孫が熊野本宮大社の禰宜となる、と解釈されているようで、熊野国の国造は熊野本宮大社の宮司であり、先祖代々現在の和歌山県田辺市本宮町本宮に在住していたと思われる。

★その他の熊野国にある大社の宮司家は

熊野速玉大社については、
1.熊野国造は現在の熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮)にいたと言うのが学者先生の多数説かとも思われる。熊野国造「その治所は、おそらく新宮の地にありしにて、熊野の神は此の国の氏神たりしならん。」(『姓氏家系大辞典. 第2巻』太田亮 著、p.2143)など。但し、国造本人については『先代旧事本紀』の見解を踏襲し、熊野本宮大社の言う人物と同一とするもののようである。
2.神武天皇一行は熊野へと到着し、「天磐盾」(『日本書紀』の記載)へと登られた。この「天磐盾」は、現在の新宮市にある神倉山・ゴトビキ岩であると言う。また、一行は、熊野で悪神の毒気により倒れた。しかし、高倉下が剣(布都御魂、石上神宮にある)をもたらすと覚醒したという。高倉下という有力者がいたが、国造につながる人物であるかどうか。ここから大和への案内役(後世の先達の前身か)として遣わされたのが八咫烏である。要するに、山岳ガイドが新たに加わったと言うことで、また、大和の宇陀からは実戦部隊(後世の御師のことか)として道臣命と大久米命が加わった。八咫烏は『古事記』では高木大神(タカギノオオカミ)が、『日本書紀』では天照大神(アマテラスオオミカミ)が遣わしたと言う。熊野三山ではこの八咫烏が、熊野の守り神になった言う。一体に『古事記』では「熊野」と聞いて「神倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽失。」即ち、動物の熊を連想し、「八咫烏」と聞いて鳥類の「カラス」を連想しているが、正しいかどうかはわからないが、一時期、絵を見せられて動物を連想するのは知能レベルが低いとか言うような説があった。当時の知識層がこう言う連想をするようではいかがなものか。
3.熊野速玉大社には残された史料や祭事(御船祭など)などが他の大社に比べ多い。但し、熊野本宮大社は明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち中四社・下四社が倒壊し、現在地に上四杜のみお祀りすることとなりました、とあり、本宮大社の史料はそのとき失われたものが多いかとも思われる。。
4.初代国造大阿刀足尼は当然ながら高倉下の子孫と言うことである。
5.穂積忍麻呂が初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられて(奈良時代、760年頃か)からは、熊野三党のひとつ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。
6.神紋の八咫烏の三本足は熊野三党の威を表したもの。熊野三党とは榎木、宇井、鈴木の各氏を言う。
7.『記紀』では、神武天皇一行が熊野で上陸したのは現・新宮市で間違いない。

熊野那智大社については、
1.熊野那智大社については『記紀』を初めほとんどの古文献には出てこないが、社伝では、
「当社は神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)の御東征を起源としています。
西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に上陸されました。
一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴命(おおなむちのみこと)の現れたる御神体としてお祀りされました。
神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、大和の橿原の地へお入りになられ、西暦紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位されました。
先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は石に姿を変えて休んでいるといわれています。(烏石)
その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本にお祀りしておりましたが、仁徳天皇5年(317年)、山の中腹にあらためて社殿を設け、熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げました。
これが熊野那智大社の始まりとされております。」、と宣っている。
熊野本宮大社や熊野速玉大社とは異なり、『延喜式神名帳』にも登載のない神社なので自己申告となる社伝についての真偽はなんとも言えない。
2.熊野那智大社については、物証に大なるものがある。紀伊半島最南端にある古墳の下里古墳である。概略は、

所在地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下里(旧下里町)
形状     前方後円墳
規模     墳丘長40m
埋葬施設 竪穴式石室(内部に木棺か)
出土品 鏡(散逸)・玉類(散逸)・鉄製品・土器片
築造時期 4世紀末-5世紀初頭

地図で計測すると熊野大滝と下里古墳の直線距離は10kmあまりで、また、那智大滝と熊野速玉大社の同距離も10kmあまりで、何やら熊野速玉大社と熊野那智大社の関係は今で言う熊野那智大社は熊野速玉大社の別宮とか摂社とか末社とか言われる類いの神社ではなかったか。熊野那智大社は完全に独立した神社ではなかった。さればこそ、熊野速玉大社は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする、と言い、熊野那智大社もご祭神「熊野夫須美大神」となっているのではないか。
下里古墳については、築造時期が4世紀末-5世紀初頭と言い、おそらく此の地域から応神天皇の朝鮮半島出兵に徴用された人物の論功行賞のために築造されたものではないか。被葬者はおそらく当時の熊野国造かと思われる。応神天皇の朝鮮半島出兵は『記紀』等の正史では「神功皇后の新羅征伐」と言う。海外の史料では女性が主導した征伐というものはないので応神および仁徳天皇の事績とする。
3.地名に古代からのものが多い。『紀伊続風土記』(天保10年(1839年)刊)によると、
*八尺鏡野(やたかの)村 現・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町八尺鏡野(やたがの)。古くはヤタ・カカミと称えたのを後世下略してヤタカと称えるようになったか。村に八咫烏を祭る「八咫宮」があり祭神とご神体を混同したか。
*和田村 現・那智勝浦町下和田(しもわだ)。後世の国造は和田氏を称えていた。紀伊国には「和田」の地名が多いが、ここが熊野国造(和田氏)の発祥の地か。
和田村には「諏訪神社」があり、「当社は神殿を造らないという伝承があって神殿の建物がない。高さ1m、面積3.3㎡程の石垣を積み、その中心に桧(古びた槍先、という文献もある)を祀っているだけである。岩境崇拝の古い祭祀の名残りであろう。」とある。熊野那智大社の神殿もこのような神籬であったか。とにかく、熊野灘沿岸にはこの種の神社が多いようである。(例、三重県熊野市・産田神社など)
*大田川 現・大田川 「源は色川。大田荘中を流れる川の全長は3里ばかり。下里村に至って海に入る。海口より全4里半ばかり船便を通すという。両岸に巌石がなく流れは平穏で船の通いに都合がよい。」とあり、用途の広い地域として早くから開けたのではないか。

★まとめ

『記紀』等に出てくる熊野国の地名は、

『古事記』(中巻・神武天皇段)
「神倭伊波禮毘古命、・・・、到熊野村之時、・・・。此時、熊野之高倉下・・・、其熊野山之荒神、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。」
熊野村は和歌山県新宮市新宮か。熊野山は和歌山県田辺市本宮町か。

『日本書紀』
日本書紀巻第一神代上
「一書曰、伊弉冉尊、生火神時、被灼而神退去矣。故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。」
有馬村は三重県熊野市有馬町か。

日本書紀巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月乙未朔丁巳
「遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾」
狭野は新宮市佐野か。熊野神邑は新宮市新宮か。天磐盾は新宮市の神倉山・ゴトビキ岩か。

『記紀』に出てくる熊野国の地名は現在の和歌山県新宮市と三重県熊野市の地名で熊野浦に沿ったものである。熊野浦は七里御浜とも言い、白砂青松の景勝地で「日本の白砂青松100選」(1987年)に選定されていると言う。何か神武東征の上陸地は意図的に熊野浦に設定されたとも考えられ眉唾な話とも思われるが、熊野速玉大社は創建年代が不詳と言われながら、伝景行天皇58年の神社がどうして神武天皇の時代にあるのか。もっとも、『日本書紀』を子細に読むと、神武天皇の時代にあったのは「天磐盾」即ち「神倉山・ゴトビキ岩」だけか。これで神邑とは大げさか。
神武天皇が熊野村から大和国を目指したことは間違いないが、熊野三山と何の関係もなかったことは間違いない。せいぜい「高倉下」という人物が出てくるだけだ。
熊野三山と熊野国造も関係がないと思う。せいぜい、多数説では高倉下が熊野国造の祖かとも言うが、『先代旧事本紀』では「饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔、大阿刀足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の代に熊野国造となり、その子・稲比が熊野直(くまののあたえ)の姓(かばね)を賜った」という。高倉下と大阿刀足尼は何の関係もないか。そもそも、高倉下は『先代旧事本紀』以外は饒速日命とは関係がない。『海部氏勘注系図』は先代旧事本紀を移入したものであろう。
翻って、現在の熊野三山の宮司家は熊野本宮大社の宮司家は「天火明命は、古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神です。」と言い、熊野速玉大社の宮司家は「穂積忍麻呂が初めて熊野速玉大社の禰宜に任じられて(奈良時代、760年頃か)からは、熊野三党のひとつ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。 」と言い、熊野那智大社の社家には潮崎氏・米良氏・橋爪氏・西氏があり、那智山の第一の位の高い家は尾張姓を称する潮崎氏と言う。饒速日命系はまがい物で天火明命系が正統か。
私見では国造家と宮司家は本来関係のないもので、熊野国が律令国の紀伊国牟婁郡に編入され牟婁郡の郡司になったものの国造の時のような勢力には至らず、宮司のような仕事にも手を出すようになったのではないか。
熊野国造の本来の出身地は現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下和田(旧和田村)ではなかったか。熊野国の領域は元・紀伊国牟婁郡に編入されて、元国造家はその後牟婁郡の郡司や熊野本宮大社の宮司などをしていたようである。そこで関心が集まるのは近隣の下里古墳と熊野那智大社である。
下里古墳の被葬者は熊野国では熊野国造しか考えられず、付近に同種の古墳がなく孤立古墳の感を呈するが、おそらく、開発首長(熊野国造)の墳墓と思われ、珍しい例ではない。この古墳は特殊な事情下で築造されたと思われ後には続かなかったのであろう。即ち、被葬者は応神天皇の朝鮮出兵に遭遇し、戦闘要員の少なくなった日本軍は頻繁に兵員徴用を行い、応神天皇の参謀役だったと思われる大伴某の甘言にのり半島にまで出かけたのではないか。帰国しても何の論功行賞もない。そのうち被葬者はお亡くなりになって息子が大伴某に抗議したのだろう。応神天皇は「和田は何の役にも立たなかった」と不満たらたらだったが、一応、前方後円墳を築造するのには同意した。古墳が河川沿いにあるのも建設資材の運搬の便のためであろう。従って、国造家は大伴氏とは血族とは言わないまでも何らかの縁故関係者だったのではないか。そうでなければ、単に大量の田地を提供したからと言って後進地の熊野で中央豪族の後ろ盾がなくてあの種の古墳はできなかったと思う。無論、後ろ盾としては尾張氏も考えられるが、大伴氏の方がインパクトが強いであろう。
和田氏には後世熊野水軍の和田氏(太地浦・現太地町)もいるが、国造家とは関係がないのでは。
熊野那智大社の宮司は誰が行っていたかだが、『延喜式神名帳』<延長5年(927年)>にも登載がない熊野那智大社の宮司類似の行為を国造が行っていたとは考えられない。あるいは、和田村から那智の大滝に向かって「二礼二柏手一礼」をしたところで意味がなかったと思う。
以上より神武天皇が現在の新宮市へ来たときは熊野国造は現在の那智勝浦町におり、新宮市には高倉下(高倉司のことか)と言う倉庫係のような人がいただけで神武天皇は楽勝と言うことになったのではないか。それに引き換え、白肩津はおそらく現在の枚方市の一部で、伊香色雄命を始祖とする多くの氏族(物部とか穂積とか采女とか)がいて歯が立たなかった。おそらく神武東征の話は神武天皇が沿岸部進出を狙い沿岸部の主要地域に駒を進めようとしたが、何分にも古墳時代は格差社会の時代で古墳の大小は言うに及ばず、人間の体格、ことに身長にも米を食べるかどうかによって格差が生じたようだ。次いで進出を図った紀伊国男之水門では紀臣氏と戦ったが、海などを知らない人々が海戦に及んでもイチコロで終わりだ。初めの神武天皇は戦には弱かったと言うことである。

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