神武東征

★はじめに

「神武東征(東遷)」と言っても最近の歴史学者はこれを史実とする人は少なく、何らかの意図に基づく創作神話と考えておられる人が多いようだ。しかし、「無から有は生じない」とか「火の無い所に煙は立たぬ」とか言う《ことわざ》のとおり全く根拠がなくそんな神話ができるはずもなく、多少でもその事実があったのではないかと考える向きもあるようだ。一応、『古事記』から「神武東征」を箇条書きに抜粋してみると、

「神武東征」
1.神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ。以下、長たらしいので神武天皇という)は、兄の五瀬命と舟軍を率いて、日向の高千穂宮を出発し筑紫へ向かう。
2.豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古・宇沙都比売の二人が仮宮を作って彼らを供応した。
3.筑紫国の岡田宮(福岡県北九州市八幡西区)で1年を過ごした。
4.阿岐国の多祁理宮(たけりのみや・広島県安芸郡府中町)で7年を過ごした。
5.吉備国の高島宮(岡山県岡山市南区宮浦)で8年を過ごした。
6.浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時の河内潟沿岸。)で、長髄彦(ナガスネヒコ)の軍勢と一戦に及び五瀬命は長髄彦が放った矢に当たり、紀国の男之水門(和歌山市小野町、水門吹上神社)に着いた所で亡くなった。五瀬命は矢に当たった時に、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで紀伊半島を南の方へ回り込んだ。
7.神武天皇が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると神武天皇を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神武天皇はすぐに目が覚めた。高倉下から神武天皇がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。
8.神武天皇は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大神と高木神(タカミムスビ)が現れた。二神は建御雷神(タケミカヅチノカミ)を呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。その大刀は甕布都神(みかふつのかみ)、または布都御魂(ふつのみたま)と言い、現在は石上神宮に鎮座している。
9.高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野(現在の新宮市であろう)から熊野川・吉野川を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。
宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、神武天皇に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神武天皇を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神武天皇に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神武天皇にこのことを報告した。そこで神武天皇は、大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。
10.忍坂の地では、土雲(土蜘蛛)の八十建が待ち構えていた。そこで神武天皇は八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った八十膳夫(調理人)をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。
11.その後、目的地である磐余の弟師木(オトシキ)を帰順させて兄師木(エシキ)と戦った。最後に、登美毘古(長髄彦)と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
12.神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮で神武天皇として即位した。

以上、引用が長くなって申し訳ないが、九州高千穂宮(峡)(行程の途中で豊国(宇沙<現 宇佐市>)によっているので高千穂峰ではあるまい)から大和国畝火(畝傍)で即位する一連の行為であるが、食事をしたのが豊国の宇沙(現 宇佐市)で、宇沙都比古・宇沙都比売の二人が仮宮を作って彼らを供応した、の一件だけ。筑紫国の岡田宮(福岡県北九州市八幡西区)で1年、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや・広島県安芸郡府中町)で7年、吉備国の高島宮(岡山県岡山市南区宮浦)で8年を過ごした。高千穂峡を出発してから都合16年ほどになるのだが、その間何をしていたのだろうか。一番肝心なことは兵糧はどうなっていたかと言うことである。舟にでも積んで移動していたのか。しかし、当時(私見の勝手な推量では西暦元年頃か。皇紀元年の頃は稲はなかったと思う。但し、『古事記』には神武と登美毘古のの戦闘歌謡に粟畑が出てくる。)にあっては米の量産はほとんどできなかったであろうし、粟や稗の大量栽培が可能であったかどうかは疑問である。それに、稗は冷涼な地域の穀物で、北海道、東北、中部高地などが主産地ではなかったか。
とにもかくにも、今もそうだが当時にあっても主要都市群であった、筑紫国に1年、安芸国に7年、吉備国に8年も滞在しながら何の所見もない。しかし、畿内に入ってきたら急に行動が活発になる。そこで、情報量が多くなる「浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時の河内潟沿岸。)」からの東征行を検討してみる。

★畿内に到達した神武東征軍

筑紫国に1年、阿岐国に7年、吉備国に8年、それぞれ滞在したとされるが、現代的に言うとだんだん期間も長くなりどうしたことかとも思う。ざっくばらんに言うと兵糧もままならず神武軍はカロリー不足、栄養不足で体力が消耗し反抗勢力討伐にも時間がかかったものか。筑紫国や吉備国は当時にあっても先進国であったであろうが、阿岐国は神武天皇が滞在したという多祁理宮(現・多家神社)は祭神が神武天皇、安芸津彦命(安芸国の開祖神とされる)とされるが安芸津彦命なんて失礼ながら聞いたこともない。そんなところで7年間も費やすとは考えがたい。
吉備国を出発し浪速国の白肩津に到達する前にワンクッションがあり、吉備国の高島宮と浪速国の白肩津の間に速吸門(はやすいのと。本来は豊予海峡を言う。『日本書紀』は速吸門を宇佐の前に置いている。ここでは私見の勝手な解釈で明石海峡に比定する。)と言う海峡があり、棹根津日子(倭国造等の祖)と言うものを臣下とした。棹根津日子は船路の先導者(水先案内人)、『日本書紀』では参謀として「女軍を忍坂に派遣して兄磯城軍の精兵をおびき出し、男軍を墨坂から出して挟み撃ちにして、兄磯城を斬り殺した、と言う。」

その後の行程は、
浪速国の白肩津(大阪府東大阪市)から紀国の男之水門(和歌山市小野町)、熊野(和歌山県新宮市)に至った。
神武天皇が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると神武天皇を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。
熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀(佐士布都神といい、甕布都神とも布都御魂ともいい、石上神宮に祀られている。)を持って来ると、神武天皇はすぐに目が覚めた。高倉下から神武天皇がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。
なんだか意味のわからない話だが、神武軍は栄養失調による疲労困憊とか一時的な熱中症などに罹ったと言うことか。また、大刀を受け取る経緯(いきさつ)の中で、高倉下の夢に天照大神と高木神(タカミムスビ)が現れた、と言う。高木神の命令で神武一行に遣わされた八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀に到達した。
宇陀(奈良県宇陀市)では兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟を討伐し、忍坂(奈良県桜井市忍阪)の地では、土雲(土蜘蛛)の八十建を打ち殺した。
磐余(奈良県橿原市)の弟師木(オトシキ)を帰順させて兄師木(エシキ)を討った。但し、『古事記』では兄師木、を弟師木ともに撃たれる。最後に、登美毘古(長髄彦)撃破した。神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原(かしはら)宮で神武天皇として即位した。登美毘古の登美は奈良県桜井市外山か。
出てくる地名は、白肩津(大阪府東大阪市。枚岡か。白肩は枚方と同意か。)、男之水門(和歌山市小野町)、熊野(和歌山県新宮市)、宇陀(奈良県宇陀市)、忍坂(奈良県桜井市忍阪)、磐余(奈良県橿原市)、登美(奈良県桜井市)など大阪府、和歌山県、奈良県の地名のみだ。目的地が奈良県だったので奈良県の地名が多いが、ほかに和歌山県、大阪府の地名がある。戦後、王朝交替説等もあって、大阪府、和歌山県、奈良県等が天皇氏発祥の地と言う説もある。失礼ながら「日向の高千穂宮」から吉備国の高島宮までは移動に16年も要したのに特記すべき記事もない。例えば、浪速国の白肩津では、長髄彦の軍勢と一戦に及んだ、紀国の男之水門では五瀬命が逝去し埋葬した、熊野では、大熊が現われてすぐに消えたが、神武一行は皆毒気に当てられ気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下が、一振りの大刀を持って来ると、神武天皇はすぐに目が覚めた。高倉下から神武天皇がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した、と具体的内容が記されている。従って、「日向の高千穂宮」から吉備国の高島宮の話は後世の創作と思われ検討の余地もない。『記紀』の神武東征の話は端的に言うと神武天皇の奈良盆地の統一譚あるいはそれをもう少し隣接地帯(特に、紀伊国、河内国)に推し進めた説話であって九州から倭の地を征服にやって来たなどというのはここに書くのは論外と言うべきなのだろう。こう言うことになったのは、この説話が作られた頃は大和朝廷と隼人族が一進一退の攻防を繰り返していたのでその融和策として作成されたとか、はたまた、天皇氏の先祖が大伴氏の時の当主から我が家の先祖は北の国(今の青森県あたりか)から舟に乗ってやって来た、と言われ、その対抗策として南の国から舟に乗ってやって来たとしたものか。

★紀伊国の有力者

紀伊国は『和名抄』によれば伊都郡・那賀郡・名草郡・海部郡<現在は海草郡に統合(海部郡+名草郡)>・在田郡(有田郡)・日高郡・牟婁郡からなり、そのうち牟婁郡は令制国成立の際に紀伊国が熊野国を編入し、新たに紀伊国となった。その際熊野国の領域は元・紀伊国牟婁郡に編入された。牟婁郡の郷は『和名抄』に神戸郷、岡田郷、牟婁郷、栗栖郷、三前郷が記載されているが、この内熊野国造でなく紀伊国造の領域であったのは牟婁郷のみである。現在は概ね和歌山県に西牟婁郡、東牟婁郡が所属し、三重県に北牟婁郡、南牟婁郡が所属している。
紀伊国は神武天皇以来の地名であり、有力者としては、古代氏族として、7世紀以前には大伴連・来目直(紀崗前来目連と言う連カバネの人もいたようだが、久米氏の連カバネの人は少ない。石見国の久米連)・紀直・名草直など。8世紀以降忌部氏や渡来人系氏族が現れる。9世紀以降には紀臣氏も現れる。紀直氏は、名草郡に本拠を置き、紀伊国内諸郡から和泉・河内などにも勢力を拡大。岩橋(いわせ)千塚古墳群(現・和歌山市)は紀直氏の古墳とされる。
紀直氏、紀臣氏、両者統合の象徴としての武内宿禰(『古事記』では27氏族の祖と言う)、大伴氏、忌部氏などが目につき、旧熊野国関係では和田氏(熊野国造家)、鈴木氏、宇井氏、榎本氏の熊野三党(熊野権現の御師)がある。
紀直氏は紀伊国造(天道根命を始祖とする)として紀伊国に土着した豪族であり、紀臣氏は孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖とすると言い、大和国平群郡紀里を本貫としたようである。武内宿禰、紀角の父子はともに母方が紀伊国造家の出自であったと言う。紀直は地方豪族として、紀臣は中央豪族としてそれぞれ活躍した。しかし、紀臣氏も経済基盤は紀伊国にあったか。紀伊国造家の墓所が紀の川左岸の「岩橋(いわせ)千塚古墳群」であるとしたら、右岸の晒山古墳群(著名な大谷古墳がある)が紀臣氏の墳墓だったか。

大伴氏と紀伊国に関しては、公の記録として、
名草郡 忌部郷 天平勝宝2年(750)3月21日 〔大伴若宮連大淵勘籍〕<大伴若宮連大淵〈年廿八/紀伊国名草郡忌部郷戸主大伴若宮連部良戸口>
名草郡 片岡里 神護景雲3年(769)11月25日〔続日本紀30〕<(神護景雲三年一一月二五日)己丑、陸奥国牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言、伝聞、押人等、本是紀伊国名草郡片岡里人也、昔者、先祖大伴部直、征夷之時、到於小田郡嶋田村而居焉、>
那賀郡 那賀郷 天平20年(748)4月25日  〔写書所解〕 申願出家人事/合廿八人大伴連蓑万呂〈年廿九 労三年/紀伊国那賀郷戸主大伴連伯万呂戸口〉

『日本霊異記』には、
上 第五「信敬三寶得現報緣」 大花位・大部・屋栖野古連公者,紀伊國名草郡宇治大伴連等先祖也 「大部は大伴に同じ。部は伴の漢訳という。」
下 第十七「未作畢捻埴像生呻音示奇表緣」 沙彌・信行者,紀伊國那賀郡彌氣里人.俗姓大伴連祖是也

『粉河寺縁起絵巻』には、
所在地 和歌山県紀の川市粉河
創建年 (伝)宝亀元年(770年)
開 基   (伝)大伴連孔子古(くじこ) 職業は猟師だったという。なお、孔子古(くじこ)は大伴連氏と言うことで系図では金村の子孫として登録されている。

大伴氏と熊野国に関しては、
熊野三党は、藤白鈴木氏は穂積臣、榎本氏は榎本連、宇井氏は丸子連を本姓とする、とある。そのうち、本姓が榎本連の榎本氏、丸子連の宇井氏は通説かどうかはわからないが榎本連の始祖は大伴金村の次男(?)狭手彦で、丸子連の始祖は大伴金村の三男(?)糠手子の子・大伴頬垂と言う。ほかに、大伴頬垂の弟、大伴加爾古を始祖とする仲丸子連というのもある。しかし、熊野三党に関しては、三氏すべてが穂積氏の出とする説、熊野三党の祖は高倉下命とする説などがある。大伴氏は全くもって検討の対象にも入っていないが、しかし、近隣には三重県熊野市有馬町があり、<「産田(うぶた)」は産所の意であり、『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊奘冉尊(いざなみのみこと)が火の神である軻遇突智(かぐつち)を産んだ時に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に埋葬されたと記されており、産田の名称は、伊奘冉尊の出産した場所によるといわれる。また、付近に位置する花窟(はなのいわや)神社が、亡くなった伊奘冉尊の墓所であるとされる。>(Wikipedia「産田神社」)、と。これって伊弉諾尊伊弉冉尊・国生み神話の一部であり、大阪湾方面の出身者(大伴氏)が伝えたものではないか。それに、熊野山中で急に天皇家の祖神である天照大神と大伴氏の祖神である高木神(高御産巣日神)が出てくるのも大伴氏が紀伊半島へ引っ越したので、伝説も一緒に引っ越したと言うことか。因みに、産田神社の神官は古代より戦国時代にお家断絶するまで榎本氏が務めていた由。また、淡路国にも榎本氏があったようで、天平十年(738)『淡路国正税帳』に同国史生、榎本直虫麻呂とある。紀伊国にはほかに大伴部直と言う人物もいた。連カバネでは『新撰姓氏録』では「道臣命十世孫佐弖彦之後也」とあり、紀伊国名草郡、安芸国佐伯郡、「豊後国戸籍」に榎本連がいる。

紀伊国の忌部氏
「事績が中臣氏に押されて少なくなっていった中央氏族の齋部とは異なり、品部である各地の忌部には、玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐などがあった。それらの品部の部民も後に忌部氏を名乗ったことが文献に見られている。こうした地方氏族は随所に跡を残している。」、と。
一応、紀伊忌部氏は、
紀伊忌部
地域:紀伊国名草郡御木郷・麁香郷
『古語拾遺』では「御木」は木を採る忌部、「麁香(あらか)」は殿を造る忌部がいたことによるとする。『和名類聚抄』では、紀伊国名草郡に忌部郷と神戸郷(忌部神戸か)が見え、和歌山県和歌山市鳴神の鳴神社付近に比定される。但し、『和名抄』では上記の通り名草郡御木郷・麁香郷はなく、名草郡忌部郷・神戸郷とあり、斎部広成の勘違いか。
祖神:彦狭知命 – 忌部五部神。( 『古語拾遺』による。『日本書紀』では、手置帆負命<笠づくりの忌部>)
職掌:材木の貢納、宮殿・社殿造営
関係地
鳴神社(和歌山県和歌山市) – 式内社(名神大)。
『和名抄』にある名草郡忌部郷は現在の和歌山市井辺(いんべ)に比定され、考古学的遺跡は多いものの忌部氏にまつわる説話は少ない。

紀伊国の来目氏
文献的には、
紀崗前来目連、城丘前来目の二名の名が見えるのみである。
『日本書紀』 雄略天皇九年「紀小弓宿禰が新羅討伐の大将軍として渡海。新羅軍を打ち破った。この戦で、大伴談連と紀崗前来目連が戦死、紀小弓宿禰は病没。」
『日本書紀』 雄略天皇二十三年「城丘前来目は天皇没後の皇位をめぐる星川皇子の乱にくわわり大蔵の役所を占拠するが、大伴室屋の兵に包囲され、皇子らとともに焼き殺された。」

★まとめ

神武東征の説話の中には大伴氏や大伴金村失脚後の内容が盛り込まれているようだ。金村失脚後は大伴氏一族は中央政界における役職には就けなかったらしく、長男の磐は任那救援のために派遣されたのち、甲斐国山梨郡山前邑に移住し、子孫は大伴山前氏(大伴山前連)となった、次男(または三男)の狭手彦は宣化天皇2年兄の磐とともに任那救援のため渡海し、また、欽明天皇23年大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐の後は消息不明、三男(または四男)の糠手子は蘇我氏嫌いの敏達天皇の引きのためか敏達天皇12年任那再興のために百済から日羅を招聘。糠手子は日羅一行に対する特使のようになったようだ。息子に大伴頬垂 – 丸子氏祖、大伴加爾古 – 仲丸子氏祖がいる、四男(または五男)の阿被比古はこれと言った記録はないが、子(一説に大伴金村の子)の咋子は用明天皇2年丁未の乱において、物部守屋討伐軍に参加。崇峻天皇4年紀男麻呂・巨勢比良夫・巨勢猿・葛城烏那羅と共に任那再建のための遠征軍の大将軍に任ぜられたが、翌崇峻天皇5年崇峻天皇が暗殺され遠征軍の渡航は中止。推古天皇9年新羅に侵略された任那の救援を命じるために高句麗へ派遣された。推古天皇16年小野妹子に従って来日した隋使・裴世清が朝廷で国書を提出した際に、咋は国書上奏の任にあたった。推古天皇18年新羅・任那の使人が来朝した際、蘇我豊浦蝦夷・坂本糠手・阿倍鳥と共に四大夫の一人として対応。ここいらから柄の悪い蘇我氏を嫌悪する推古天皇から蘇我氏が敬遠され育ちのいい大伴氏が再浮上したか、大伴金村の末子かと言う宇遅古と言う人物(架空の人物という説あり)は紀伊国粉河寺の創建者大伴連孔子古の先祖という。
いずれにせよ、神武東征とは奈良盆地の大和朝廷が「井の中の蛙大海を知らず」であったはまずいので、海の方へ道を開こうとした。浪速国の白肩津(大阪府東大阪市)、紀国の男之水門(和歌山市小野町)、熊野(和歌山県新宮市)はいずれも港町であったと思われ、海人族の取り込みを図ったのではないか。ただ、行く先々では先住民もいた。日臣(ほのおみ)とか道臣(みちのおみ)とか言う人物を統領とする集団や淀川水系を支配する宇摩志麻遅命の一族があったが、宇摩志麻遅命一族は農業氏族で強力な戦闘能力があり、これを敬遠した大和朝廷は海人族の大伴氏と結びついた。淀川水系の支配者を大和朝廷傘下に入れたのは第八代孝元天皇か第九代開化天皇ではないか。大伴金村の子や孫が紀伊半島や甲斐国に落ち延びたのも金村の時代になっても大伴氏の勢力とか影響力がこれらの畿内方面や東国に残っていたからではないか。いずれにせよ「神武東征」はなかった。

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