古代の武士団

★はじめに

「古代の武士団」と言っても古代には武士ないし武士団なるものはなく、一説によると「古代では戦闘目的の為に組織された集団を「軍(いくさ)」と言い」、律令体制下では軍団(国家の軍隊)と武士団(平安時代に「兵(つわもの)」と呼ばれた者達が私的に従える集団、またはその集団の結合体、即ち、後世的に言うと傭兵ないし私兵とでも言うべきもの)とがあった。日本の国ではそもそもさような戦闘集団を必要とするようになったのは弥生時代からで、縄文時代では武器を持って戦うと言うことはまれな出来事であったようである。縄文時代の二大発明(土器と弓矢)の一角を占める弓矢も人間どうしが戦う武器ではなく、狩猟のためというのが一般的解釈だ。獲物を捕る道具と言うことで動物ばかりでなく魚なども弓矢で取っていたようだ。そこで、古人骨を検証した先生がいて、縄文時代の遺骨では大きなけがなどで損傷したものは少なく、弥生時代に入ると、俄然、首のない遺骨とか鏃(やじり)が何本も突き刺さった遺骨とかが多くなるそうな。これは忌憚のない意見を言うと縄文人と弥生人は別人種と思われ、縄文人は温厚な人種であり、弥生人は好戦的な人種なのだろう。これは何も一般的に言われている水稲稲作の収量の問題だけではなく、双方の人間性に由来するものなのだろう。例えば、弥生人は水稲を携え長江流域からやってきたと考える人は多く、この流域を調査に行かれた先生によると古代の長江流域の人は神事に人間を生け贄として献げ、遺骨を十把一絡げのようにして祭壇の周りに捨ててあるとか。これなんかも、我が日本人には受け入れられなかったらしく、さような遺跡はほとんどない。そもそも稲作にしても中国から導入されたのはバラバラの品種で、種まきは一緒であっても稲刈りはまちまちで穂積氏のような穂積(穂摘み)の専門職までが現れる始末だ。そこに北方からやって来たのが縄文農家の人々で稲の刈り入れ時を揃え現在の水田稲作に近いものにしたのではないか。おかげで穂積氏は失職し、上級豪族から中級豪速に格下げになったのではないか。
とにもかくにも、こう言う争いごとを趣味にしているような人に対し旧来の日本人も何らかの対抗策を打たなければならない。はじめは家と家の争いだったものが、一族と一族の争いになり、地域と地域の紛争状態になって、その場限りのいわゆる喧嘩のようなものから恒常的な護衛団とか職業軍人のような人が必要になったのではないか。
その職業軍人の集団として最初に出てきたのは「久米(くめ)」と言う集団ではなかったか。神武天皇の一の護衛団(現代的に言うと子分というのか)も久米という集団で、大久米命は著名である。『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。ほかに伊予国久米郡の久味国造(伊予来目部小楯は一族か。のちに彼は山部大楯連の跡を継いで山部氏となった。)もいた。後世の久米部(くめべ・来目部ともある)の伴造氏族である。

★久米(くめ)のこと

久米というのは発足当初は傭兵と言おうか私設軍団と言おうかその種の組織であったらしい。有史以来即ち文献に出てくる具体的な久米集団としては、①天皇氏の久米<神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔>、②大伴氏の久米<高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔>、
③伊予国の久米について少し詳しく宣べると、
1.伊予国の領主は、おそらく伊豫氏で伊予之二名島(伊予二名洲)とか伊予津彦命、伊予部、伊豫国造などがある。
2.根拠地は、伊豫國伊豫郡 伊豫神社、現・愛媛県伊予市上野あるいは愛媛県伊予郡松前町神崎あたりにいたようである。論社の両伊豫神社は接近している。
3.四国全体をも伊予之二名島(いよのふたなのしま・伊予二名洲)と言ったようで、胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は、愛比売(えひめ):伊予国、飯依比古(いひよりひこ):讃岐国、大宜都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)、建依別(たけよりわけ):土佐国と言い、意味するところは不明なるも、生産した食料は生産者や領主が独占したら不適当なのであって、丁度、「田」の字が「区画された狩猟地・耕地」の象形と言うので四区画のそれぞれに愛比売、飯依比古、大宜都比売、建依別と名付け、愛比売は領主、神官、巫女などの非生産的人々の食料を生産するところ、飯依比古は食料生産者のための耕地、大宜都比売は土器などの生活用品生産者のための田畑、建依別は外敵と戦い、集落を警護する人々の圃場ではなかったか。おそらく四区画の食料生産は飯依比古が行い、各人への分配は後世の伴造に相当する人が行ったのであろう。但し、地名に人名を当てるのは日本ではないことはないが一般的とは言えず、半島や大陸からの導入か。
4.伊予久米氏は伊予国久米郡(現・愛媛県松山市の一部と東温市の一部)にいたと思われる。
5.伊与来目部小楯は、伊予国の久米氏の子孫と考えられる。
④吉備国の久米
吉備国の久米氏については文献的には何の根拠もない。ただ、久米郡はあり和銅6年(713年)に備前国から美作国が分割された時には美作国久米郡となっている。『先代旧事本紀』(国造本紀)に吉備中縣国造は「崇神天皇の時代、神祝命(かみむすびのみこと、神魂命)の十世孫である明石彦(あかしひこ、阿加志毘古命)を国造に定めた」とあり、吉備中縣国造は神祝命即ち神魂命の子孫で天皇氏の久米氏と同祖なので吉備中縣国造とは久米氏であると言う説もある。『先代旧事本紀』は偽書説もある曰く付きの書であり、「近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証されたことから、本文は研究資料として用いられている。」とあるが、大いに疑問である。
私見で恐縮ではあるが、『魏志倭人伝』 に出てくる邪馬台国の官「官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮」、伊支馬(いくめ)、彌馬升(みまつ)、彌馬獲支(みまかき→みまき)、奴佳鞮(なかて→なかつ)となり、伊支馬は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)即ち、垂仁天皇のことか。彌馬升は観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)即ち、孝昭天皇のことか。彌馬獲支は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)即ち、崇神天皇か。奴佳鞮は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)即ち、仲哀天皇か。
1.伊支馬(イクメ) 美作国久米郡久米郷(現・岡山県津山市宮尾。宮尾遺跡)。ほかに大和国高市郡久米郷(奈良県橿原市久米町)。
2.彌馬升(ミマツ) 『播磨国風土記』に「飾磨郡」に大三間津彦命とか「讃容郡」の邑宝(おほ)里に弥麻都比古命、同里・久都野の段に弥麻都比古命とあり、播磨国佐用郡と美作国吉野郡は隣接して双方行き来があったようだ。播磨国佐用郡佐用郷(現・兵庫県佐用郡佐用町)。
3.彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ) 美作国は国名の発祥地が未詳であって、彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ)の具体的な比定地も不詳。現・岡山県美作市か。
4.奴佳堤(ナカテ、ナカツ)は「吉備の中山」で、①備前一宮の吉備津彦神社、あるいは、②美作国一宮中山神社のいずれかを言うとある。中山も今は「なかやま」と言うが、古くは「なかつやま」と言ったか。ここでは「中山神社。現・岡山県津山市一宮」のことと思う。
いずれも『魏志倭人伝』 に出てくる邪馬台国の官人は吉備国(後世の美作国)の人ではないか。その中でも吉備国で軍を動かす久米の長は垂仁天皇ではなかったか。とにかくこの御四方は調略工作に当たった邪馬台国の大伴某に拐(かどわ)かされ吉備氏一族を捨てて大和国に寝返った。大和国としては鉄の原料は手に入るし、兵員増強にもなり一挙両得というところではなかったか。

★古代武士団の出現

「久米」集団が一領主一集団なのに対し、「武士団」は一領主多集団になるのかとも思う。例えば、吉備国を見てみると、

吉備氏の系譜には3種類がある。

1.別(わけ)号の人名表記が主で、王家との関係も姻戚関係のみで王族出身ではない。一族内部も対等の関係で、5世紀までの部族同盟的な関係を伝える。一説によると、4世紀後半から5世紀後半のこの地域の古墳群を分析すると、10の地方集団が存在したと推定される、と言う。
『日本書紀』巻第十(応神天皇22年3月14日条)には、応神天皇の妃(吉備御友別の妹・兄媛)の実家(当主は御友別)で一家の歓待を受け、その答礼として彼の息子らに吉備国を以下のように分割した、 と言う。
*川嶋県(かわしまのあがた、備中国浅口郡)を長子稲速別(いなはやわけ)に委任した(現在の岡山県総社市西半、倉敷市(元吉備郡真備町))。これが下道臣の始祖である。
*上道県を(かみつみちのあがた)を中子仲彦にゆだねた(現在の西大寺市、岡山市東半)。これが上道臣、香屋臣の始祖である。
*三野県(みののあがた)を弟彦にまかせた(現在の岡山市北半、旭川以西)。これが三野臣の始まりである。
*波区芸県(はくぎのあがた)を御友別の同母弟(いろど)の鴨別(かもわけ)に任せた(岡山県笠岡市あたり?)。これが笠臣の始祖である。
*苑県(そののあがた)を同母兄(いろね)の浦凝別(うらごりわけ)に任せた(元吉備郡真備町北部)。これが苑臣の始祖である。
これら下道臣や上道臣等々を御友別の一族とすることには異論もあり、あるいは血縁関係はないが武士団として団結した集団の集まりだったか。○×県と言っているように単なる県主の域を出ないものか。
2.吉備津彦が四道将軍の一人として王家系譜に記載された事を前提とし、共通の始祖をその異母弟(吉備氏の祖・稚武彦命は吉備津彦命の異母弟)としたもので 6世紀中頃以降に作成された、と言う。
一説によると、吉備津彦命・稚武彦命兄弟は吉備武彦の氏名を吉備津彦命(吉備の部分を借用)、稚武彦命(武彦の部分を借用)と分割して創作された人物たちでその後の吉備氏の系図は疑問詞がつくとなりそうだ。
3.7世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として立身した事に対し、上道臣らが対抗して始祖の尊貴性を主張するために作成された。
上道臣氏から見ると吉備真備(下道氏<下道朝臣>。のち吉備朝臣)とか笠臣とか言っても氏素性のわからぬ者が自己の正当性を主張するものとして作成したとして、本流のものが作成した系図ということなのであろう。
翻って、出雲氏を見てみると天穂日命の後裔と称するも天穂日命は出雲国とは縁が薄いようでおそらく因幡国が本拠なのであろう。出雲国は大和朝廷に何度か攻め込まれているのでなんとも言えないが、おそらく出雲臣氏は因幡国気多郡から出雲国にやって来たのではないか。具体的に出雲国と因幡国の地名、人名を比較してみると、

因幡国 出雲国の類似点
気多郡
大原郷 出雲国大原郡があった。
坂本郷 楯縫郡佐香(さか)郷。風土記では佐香は酒か。
口沼郷(かぬ — )「カヌ」は鹿奴、すなわち鹿野である。
勝見郷(かちみ — )
大坂郷
日置郷 神門郡日置郷
勝部郷 神門郡古志郷は勝部氏が引っ越し(古志)てきたところか。
古志郷の地名の由来は、古志の国の人たちが来て、堤を造ったが、
その後そのまま住み着いたので古志と呼ぶようになったという。
私見で恐縮だが、勝見も勝部も同じ意味で別の漢字で書くといずれも「勝辺」とも書くことができる。「勝」の漢字を見ると朝鮮語のスグリとか村主とか言う先生が多いが、カツとかカチ、カテなどという地名は日本にはたくさんあり、(例として『和名抄』では、越前国丹生郡可知郷、備前国上道郡可知郷、越後国沼垂郡賀地郷など)勝見、勝部は地名から来た氏の名とみてよいのではないか。

出雲国の勝部氏と因幡国の勝部氏

勝部氏は摂津、因幡、伯耆、出雲、隠岐に存在し、ここでは因幡国気多郡勝部郷によったと思われる勝部氏と出雲国大原郡の大領の勝部氏(出雲国神門郡古志郷<出雲市知井宮町、古志町>の神門臣氏の分家か。本貫は出雲国大原郡斐伊郷(現在の雲南市木次町)か。)が著名であるが、「神門郡に関しては、『出雲国風土記』によれば、伊加曾然(いかそね)という者がこの地に神門を奉ったことにより神門臣の姓を賜り、その神門臣が定住したのでその地を「神門」と呼ぶようになったとされる。郡家は古志郷にあった。」と言う。
いずれにせよ出雲国の勝部氏はどこからかやって来た人のようで、確証はないものの勝部は土木工事にたずさわった部民という。土木工事と言ってもいろいろあるので具体的に何をしていたかはわからないが、出雲氏は古墳造営にたずさわっていたとも言うので古墳造営関係の仕事をしていたのではないか。

★まとめ

古代にあって同族とか一族と言われる人の多くは、何らかの利害関係で結びついた連合体とも言うべき集団で、特に、弥生時代には殺伐とした時代に入った。そこで後世の武士団のような団体が結成され、その大なるものが小を飲み込み地域統一、国家統一へと進んだのではないか。特に、吉備地方はその鉄資源とともに統一の傾向が強かったと思われる。その陰には美作地方のようにあちらに転んだりこちらに転んだりと裏切り者を量産したような地域もあったのではないか。美作は後世になっても美作菅家党などという著名な武士団が現れた。美作国勝田郡というのも何か勝部と関係がないのか。

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