饒速日命

★はじめに

饒速日命と言えば、『記紀』にも登場する神で、神武東征(東遷)より前に奈良盆地(大和盆地)にいたと言う。
『古事記』では、神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神と言い、那賀須泥毘古の妹の登美夜須毘売(『日本書紀』では三炊屋媛)を妻とし、登美夜須毘売との間に宇摩志麻遅命をもうけた。宇摩志麻遅命は、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。
『日本書紀』でははっきりしないが『先代旧事本紀』では、神武東征に先立ち、天神御祖(あまつかみみおや)から十種の神宝を授かり、ほかに天羽羽矢と歩靫(『日本書紀』にも記載あり)を授けられ、天磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。また、饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。『先代旧事本紀』では饒速日命は、物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神と伝える。
問題は『先代旧事本紀』で、この著者、出所、発刊年等が不明な著作にその後の歴史家等が振り回されているようだ。ようやく江戸時代になって国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長、はたまた、徳川光圀らによって偽書とされた。しかし、最近では「序文のみが後世に付け足された偽作であると反証されたことから、本文は研究資料として用いられている。」と言う。
思うに、物部氏の歴史は天皇氏の歴史より古いなどと言うものではなく、おそらく雄略天皇の御代大伴室屋が国史編纂に取りかかり、現代的に言うと物部目大連が大伴室屋にその原稿を見せてもらったところ物部の「物」の字もないと言うことで、早速その原稿を持ち帰り、お抱えの「偽系図作り」(この種の職業は世界的に見ても古くからある職業らしい)に当氏(物部氏)は天皇氏より古いと言う始祖降臨神話を創作させたのではないか。その降臨神話の随伴者も大げさなもので高皇産霊尊が防衛(ふさぎのもり)として三十二人に命じて随伴させた、と言う。さすがに三十二人の中には大伴氏の祖「天忍日命」は入っていない。そんな神名があったら大伴室屋は「これは何かの間違いでしょう。没。」となって、我々も『先代旧事本紀』を現代において目の当たりにすることはなかったと思われる。大伴室屋にしてみると物部目大連の提出した物部氏の家伝のようなものは大伴氏にとっては差し障りのないもので、「記録として留めておきましょう。」くらいのことを言って保管しておいたのであろうが、その後200年ほどを経て天武天皇が国史編纂をしようとしたときには口承ばかりではネタも限られるが、文章として出てきたので絶好の原資料(original source)として使われたのではないか。『先代旧事本紀』はその後も新しい資料が出ると加筆され平安時代まで物部氏関係者に引き継がれたのではないか。

★饒速日命とはどんな神

『古事記』(神武天皇記)には、
「邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。」(邇藝速日命參赴(にぎはやひのみことはまいおもむきて)、白於天神御子(あまつかみのみこにもうししく)、「聞天神御子天降坐(あまつかみのみこあまくだりましつときけり)、故追參降來(ゆえにおいてまいくだりきつ)。」卽獻天津瑞以仕奉也。(すなわちあまつしるしをささげまつりてつかえたてまつりき)。以下、邇藝速日命は登美毘古の妹登美夜毘賣を娶り、宇摩志麻遲命を生み、宇摩志麻遲命は物部連、穗積臣、婇臣の祖なり。

『日本書紀』(巻第三神武天皇紀)には、
ほぼ『古事記』と同様のことを書いているが、饒速日命は「此物部氏之遠祖也。」とあるが、「是娶吾(長髄彥)妹三炊屋媛亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛遂有兒息、名曰可美眞手命。」と言い、可美眞手命(うましまてのみこと)と物部氏の関係は必ずしも明確ではない。

『先代旧事本紀』では、
饒速日命は「天照國照彦天火明櫛甕玉饒速日尊」といい天忍穂耳尊の子で瓊瓊杵尊の兄である天火明命(あめのほあかりのみこと)と同一の神であるとしている。
ここいらに来ると『先代旧事本紀』の信憑性も怪しくなり、嘘八百的要素の強いものになっている。『新撰姓氏録』では饒速日命は、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命は天孫(天照大神の系)とし両者を別としている。

『原田常治氏の説』
原田常治と言う人物は出版社の社長であったらしく、説くところによれば、「大神神社の主祭神である大物主、上賀茂神社の主祭神である加茂別雷大神、熊野本宮大社の祭神である事解之男尊、大和神社の主神である日本大国魂大神、石上神宮の祭神である布留御魂、西日本に多い大歳神社の主祭神である大歳神(大歳尊)と同一だとする。」が、何か大和国の神(大物主、日本大国魂大神、布留御魂、大歳神)に京都、熊野の神を習合したような説で、その本旨とするところは、
祖父:布都御霊→父:素佐之男尊(布都斯御霊)→素佐之男尊の子供は以下のごとし。
長男:八島野尊(諡:清之湯山主三名狭漏彦八島野尊)
次男:五十猛尊(大屋彦尊)
長女:大屋津姫
次女:抓津姫
三男:饒速日尊(布留御霊・大歳尊)(諡:天照国照彦天火明奇甕玉饒速日尊)
四男:倉稲魂尊(宇迦御魂)
五男:磐坂彦尊
三女:須世理姫

三男:饒速日尊(布留御霊・大歳尊)(諡:天照国照彦天火明奇甕玉饒速日尊)の娘婿が神武天皇だったとするもののようである。(『古事記』には須佐之男命と神大市比売命の御子が大歳神<饒速日命>で、大歳神と香用比売命の御子が御歳神であると記されている。この御歳神が神武天皇の皇后と言うもののようだ。但し、伊須気依姫と言う人もいる。また、御歳神は男という説もある。)いずれにせよ穀霊神と国家統一神がすんなりと結びつくものかどうか。また、西日本のみであるが日本国家統一は出雲国から始まったというもののようである。この説の信奉者も多く(『消された大王 饒速日』<神一行・学研M文庫>など)余計なことは言えないかもしれないが、饒速日命(出雲国の王)が九州全島を制覇し、大和国をも乗っ取ると言うようなことは考えづらいことだ。
例えば、天忍穗耳尊は別名を「正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」と言い、これなんかも取りようによっては「私は速日(饒速日命)に勝った」ともとれる内容だ。
銅鐸も饒速日命王国のレガリアみたいなことを言っておられるが、九州全島をほぼ制覇した割には九州からの出土例が少ない。おそらく私見では銅鐸は農民の田植え祭や稲刈り祭の祭具であってレガリアのようなものではないと思う。しかも、穂積氏主導下で使われていたものではないか。

★饒速日命の神名について

饒速日命が素戔男尊の子というのは原田常治氏の説で、一般には「『先代旧事本紀』では天照大神の孫天忍穂耳尊と高皇産霊尊子栲幡千千姫との子である天火明命と同一神とされ、『伊福部氏系図』では大己貴命の子五十研丹穂命の5世孫である荒木臣命(荒根使主命)の子としている。」と言われるが、いずれの書物も信頼性に乏しく採用しがたい。しかし、『記紀』ともに饒速日命には『古事記』では宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)、『日本書紀』では可美真手命(うましまでのみこと)、と言う息子があり、麻遅にせよ真手にせよ当時の標準日本式漢字に直すと「間地」となり、隣地との境界を示す現今で言う「道」であり、田畑の区分けの仕事をしていたのではないか。ほかに著名な「マチ」の名の人として蘇我満智がいる。おそらく、蘇我氏も物部氏もその本業は現今で言う農林大臣のような職業ではなかったか。特に、物部氏は穂積氏と同族といい、穂積とは穂摘みのことで淀川中流域にいて全国の田地を管理していたのではないか。物部とはその地域の特産物の生産、流通管理するものを言うとの説あり。要するに、穂積氏や物部氏は淀川の水上運送や水利事業に関わった当該地域の有力な豪族ではなかったかと思われる。
ところで、物部目大連は大伴室屋大連に国史編纂の原稿を見せてもらったとき、当然のことながら大伴氏の祖神という「天忍日命」の名があったはずで、物部目は当氏にもそのような祖神が必要だと偽系図作りに創作を命じたところ妙案が浮かばなかった。そこで「天忍日」に範を取って、天=美称、饒=美称、忍=押(お)し、多(おほ)し、速=生やす、囃し、日=太陽、即ち、どちらも太陽が朝に東の空から出てきてさんさんと輝く様を言ったものではないか。しかし、一般的には、「オシヒ」の名称については、「大し(おし)霊(ひ)」の意とする説や、「オホシヒ」と見て勇壮な意とする説が挙げられている、と言い、饒速日については、和して栄すさま。饒=にき(和く)」、速日=はやひ(栄ふ)との説がある。」、と言う。畢竟、饒速日命とは物部目大連が天忍日命をモデルにした架空の神であり、一世を風靡したという原田常治説はやや持って疑問だ。

★まとめ

西日本の統一は出雲王国によってなされたと言う説も出雲国から銅剣や銅鐸、銅矛が大量にまとまって出土しており、出雲王国の王(この場合は物部氏の祖神の饒速日命ではない)は旧弊打破とばかりに銅製品を回収し、鉄製品の普及を図ったものかとも思われる。回収した銅製品も再利用されるわけではなく死蔵されてしまった。我が国古代にあっては出雲国の痕跡が多いことは周知の事実であるが、具体的には関係は不明なるも京都府亀岡市に丹波国一宮出雲大神宮があり、京都市には山城国愛宕郡出雲郷(現・北区出雲路神楽町・出雲路俵町など)は奈良時代からの地名と言う説もあり、奈良県桜井市出雲という地名まである。東日本では埼玉県久喜市に「関東最古の大社」と言う「鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)(祭神:天穂日命、武夷鳥命、大己貴命)」などがある。しかし、我が国の創世神話では出雲国が舞台になったことはなく(但し、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)の国引き神話はある。しかし、ローカルなもの)、一説によると国生み神話関連の神社が多いのは、淡路島を含めた大阪湾岸と九州南部という。大阪湾岸には伊弉諾尊と伊弉冉尊による大八島国の生成、神々の生成神話があり、九州南部には天孫降臨神話がある。本来の意味の創世神話は伊弉諾・伊弉冉神話であろうが、天孫降臨は天皇氏の伊弉諾・伊弉冉神話の進化型神話であるようだ。
翻ってみると、「地方の神話・伝承・習俗は原素材として中央の文献に取り入れられ、宮廷風に潤色されたのちそれは再び地元にかえされるという二重の往復運動が見られるのである。」(谷川健一著「日本の地名」岩波新書、p.158)との見解もあり、おそらく日本神話の根源は伊弉諾・伊弉冉神話にあり、変則的ではあるが天孫降臨神話は伊弉諾・伊弉冉神話を加工して九州へ持って行ったものと思われる。おそらくその時期は大和朝廷が隼人攻略を行っていたときで、なかなか成果が上がらないので懐柔のため天孫族と隼人族は元々は同一であるという演出をしたのではないか。宮崎県に古墳が多いのも、「敗者の将帰国すべからず」と言われて、西都原あたりに死屍累々と築いたのではないか。
以上より、伊弉諾・伊弉冉神話は当該地の有力豪族であった大伴氏の祖先伝承が元になり、天皇氏用に潤色され、天孫降臨神話となり、その後に物部氏の降臨神話が創作されたのではないか。従って、物部降臨神話は天孫降臨神話の模倣であって饒速日命の実在は甚だ疑わしい。多数説は創世神話は多くの氏族や地域、民間神話があるので物部降臨神話もあながち不当ではないというもののようだが、『先代旧事本紀』ができたのが平安時代に入ってからと言うので何百年も前の文字のない時代の話をそのまま鵜呑みにできるものか。物部氏の本質は淀川を利用した河部であり、水田稲作の管理者であったのではないか。その意味で穂積氏と同族というのも首肯できる。

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