レガリア

★はじめに

大林太良東京大学名誉教授によると我が国の神話や民話の類いは類話が世界のどこかにあるといい、また、神話には伝播説と普遍心性説とがあるが、ユーラシア大陸の古代における交流を証明することで、有史以前の広範な伝播の仮説を打ち立て、ますます持って我が国の神話はユーラシア大陸のいずこからか伝播してきたというもののようである。我が国天皇のレガリアとも言うべき「三種の神器」はすでに弥生墳丘墓(例、福岡市の吉武高木遺跡や壱岐市の原の辻遺跡)にも見られるようで、特に、「北部九州の弥生時代前期末、中期の副葬品は多くの韓製銅剣、銅矛、銅戈などの青銅器、大陸製の青銅器や璧(へき)、その他玉類などが豊かであった。」(wiki)とあり、璧を鏡の前身とするならば「三種の神器」の原形は朝鮮半島や中国大陸にあったと言うべきなのであろうか。ちなみに、ユーラシア大陸におけるレガリアの具体例を見てみると、
三種の神器 – 日本国天皇
五種の神器 – タイ国王
冠 – フランス国王
王冠、王笏、宝珠 – イギリス国王
九鼎 – 古代中国(殷、周王朝)
帝国権標(帝国王冠、帝国宝珠、帝国剣、祝典剣、帝国十字架など)、戴冠式装束(鷲のダルマティカなどのダルマティカ、アルバ、ストラなど)、帝国聖遺物(聖槍、聖十字架の欠片、聖ヨハネの歯など) – 神聖ローマ帝国皇帝
ムハンマドの杖と聖外套 ‐ イスラム帝国アッバース朝のカリフ権の象徴
オスマンの剣 - オスマン帝国のスルタンの剣
漁師の指輪(漁夫の指輪とも) ‐ ローマ法王のレガリア
ジャムシードの杯 ‐ ペルシア帝国王継承の象徴とされた伝説上の支配者ジャムシードが所有した杯
斧(おの)鉞(まさかり)- 地中海のクレタ王ミノス、古代中国・日本
ほかにアフリカ大陸にもレガリアの概念があるようだが、ユーラシア大陸の方が圧倒している。日本の「三種の神器」は高句麗の『三国遺事』における「天符印(鏡・剣・鈴)」に類似するが『三国遺事』が書かれたのは十三世紀であり、「天符印」の時代背景はいいとしてもいかがなものか。いずれにせよ日本の天皇のレガリアである鏡・剣・玉のうち玉は格別、鏡、剣は日本で作られたものではない。当時の日本では製品化できるような鉄や銅は産出されていなかった。それかあらぬか、斎部広成は『古語拾遺』で「天璽の神器について<八咫鏡及び草薙の剣>の二種(「即以八咫鏡及草薙劍二種神寶,授賜皇孫,永為天璽。【所謂神璽劍、鏡是也。】矛、玉自從。」)の神宝」としている。外国のものまねと言いたいのだろうか。

★日本独自のレガリアはなかったのか

弥生時代が外国文化の継受ならば、縄文文化はどのような時代なのであろうか。端的に言うと、縄文時代の我が国における二大発明は土器と弓矢にあったという。いずれも世界的にも早い段階のものと思われその扱いを縄文土壙墓の副葬品で見てみると、副葬品としては土器、石鏃、石皿、棒状鹿角、腕輪、耳飾りなどが見受けられ、縄文時代後期になると、石・土製の首飾り、飾り玉、朱漆塗りの櫛等の装身具を着装したもの、石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく)・石錐(せきすい)・石槍(いしやり)・石棒(せきぼう)等を副葬したものが見られる、と言う。また、「北九州では『甕棺』(かめかん)に遺体を納めた後、年月を経て『骨』になったものを新しく壷土器に埋葬し直す」と言う風習があったらしい。甕棺を作る技術は専門の職人によるものであり、甕棺の中には、身分を表すような副葬品が多く見られる。(例、鏡、銅矛、銅剣)
以上により縄文土壙墓の副葬品として土器(生活用具は少なく、祭祀用土器と思われるものがほとんどという)や石鏃があり、当時の人々にとっても我が国の発明品である縄文土器や弓矢の所持がステイタスを表すシンボルであったのかもしれない。但し、弓は木製であり腐食等により縄文草創期・早期のものは発見しづらいようである。
そこで、この縄文時代の発明品をレガリアにした王はいないのかと言うことであるが、やはり縄文人や縄文文化を色濃く受け継ぐ王にはそういう人がいたようである。『日本書紀』にはないが『古事記』上巻大國主神の段に、大國主神が須佐能男命の果たす試練を乗り越えその妻妻須世理毘賣を背負って逃げ出す際、「即取持其大神(須佐能男命のこと)之生大刀與生弓矢 及其天詔琴而」と言っている。これは須佐能男命のレガリアである「生大刀と生弓矢」および「天詔琴」を大國主神に譲ったと言うことであろう。これを倉野憲司博士は「政治的支配力(生大刀・生弓矢)を身につけて大國主神となり、宗教的支配力(天の詔琴)を身につけて宇都志国玉神となれ」の意味だという。
生大刀は日本の鋼(はがね)で造った大刀か。中国や朝鮮半島では剣が使われることが多い。生大刀は三種の神器の天叢雲剣とは性質が異なるものか。天の詔琴は『日本書紀』(神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年3月1日条 皇后選吉日 入齋宮 親爲神主 則命武内宿禰令撫琴)の武内宿禰が弾いた琴と同じことか。生弓矢は当然のことながら日本製と思われる。土器が出てこないのはすぐに壊れてしまう、すなわち永続性がないとか、重量があるとかその種のことからではないか。
以上より神器に「生大刀」、「生弓矢」、「天の詔琴」を採用したのは日本海側にあった国々の王ではないかと思われるが、生大刀が日本製ならば出雲国や吉備国が有力な候補地であろうかと思われる。

★『日本書紀』における三種の神器のレガリアとしての記述

『古事記』にはレガリアとしての記述はなく、『日本書紀』では以下のごとくある。
*允恭天皇元年十二月の条、「是に、群臣、大きに喜びて、即日に、天皇の璽付(みしるし)を捧げて、再拝みてうえる」。
*清寧天皇前記十二月の条、「大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽(しるし)を皇太子に奉る」。
*顕宗天皇前記十二月野上、「百官、大きに会へり。皇太子億計(おけ)、天子の璽(みしるし)を取りて、天皇の坐に置きたまふ」。
*継体天皇元年二月の条、「大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡(みかがみ)剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上りてまつる」。
*宣化天皇前記十二月の条、「群臣、奏して、剣(みはかし)鏡(みかがみ)を武小広国押盾尊(宣化帝)に上(たてまつ)りて、即天皇之位さしむ」。
*推古天皇前記十一月の条、「百寮、表(もうしぶみ)を上(たてまつ)りて勧進(すすめ)る。三(みたび)に至りて乃ち従ひたまふ。因りて天皇の璽印(みしるし)を奉る」。
等があり、ここでも大伴室屋、金村の祖父・孫が出てくる。三種の神器をレガリアとして制度化したのは大伴室屋か。また、神器は三種ではなく斎部広成説くところの鏡(みかがみ)剣(みはかし)の二種である。

★まとめ

三種の神器の根拠は、
『古事記』によると天孫降臨の段に「於是、副賜其遠岐斯(招きし・おきし)此三字以音、八尺勾璁・鏡及草那藝劒・亦常世思金神・手力男神・天石門別神而、詔者「此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉。次思金神者、取持前事爲政。」<ここに天照大神を石屋戸から招きだした八尺勾璁・鏡および草那藝劒、また常世思金神・手力男神・天石門別神を副え賜いて・・・>三種の神器も天石屋戸(あまのいわやと)に関わる八尺勾璁・鏡の伝承と草那藝劒に関わる伝承に分けられるようだ。天石屋戸(あまのいわやと)に関わる八尺勾璁・鏡の関係者は常世思金神・手力男神・天石門別神と思われ、草那藝劒に関わる関係者は素戔男尊なのであるが、ここでは何の音沙汰もない。おそらく三種の神器の草創譚などはなかったのであろうが、五伴緒(天児屋命・太玉命・天鈿女命・石凝姥命・玉祖命)の中に中臣連の祖神天児屋命がいるので『記紀』編纂時に藤原不比等が五伴緒の説話とともに創作したものか。
『日本書紀』(巻第二・神代下・一書曰)によると「故天照大神、乃賜天津彥彥火瓊瓊杵尊、八坂瓊曲玉及八咫鏡・草薙劒、三種寶物。」と素っ気のないものである。
現今で言う即位の礼に大伴室屋、大伴金村の名が出てくるのもこの種の式典がその頃整備されたのではないかと思われる。『日本書紀』にも「雄略十四年夏四月甲午朔 天皇欲設呉人 歴問群臣曰 其共食者誰好乎 群臣僉曰 根使主可 天皇即命根使主 爲共食者 遂於石上高拔原 饗呉人 時密遣舍人 視察裝飾 舍人復命曰 根使主所著玉縵 太貴最好 又衆人云 前迎使時 又亦著之」とあり、この頃から服飾、装飾品等に意を用いるようになったのではないか。
レガリアとしての三種の神器も伝世品なのか出土品(副葬品)なのかであるが、天照大神の意図したところは天孫降臨の際に瓊瓊杵尊に授けてその後瓊瓊杵尊の子孫へ代々申し送るように、と言うことなのかと思われる。現在の天皇家の三種の神器の管理はこの方法によると思われる。しかるに、福岡市の吉武高木遺跡では「3号木棺墓の副葬品は、内容が優れているだけではなく、銅鏡・青銅製武器・勾玉という組み合わせにも注目が集まりました。これは、歴代天皇のレガリア(象徴品)である鏡(八咫鏡:やたのかがみ)・剣(草薙剣:くさなぎのつるぎ)・勾玉(八坂瓊勾玉:やさかにのまがたま)という「三種の神器」をほうふつとさせるもので、この3種類をそろえて副葬した墓としては、3号木棺墓は日本で最初のものでした。このことから、この3号木棺墓は「最古の王墓」とよばれるようになりました。」(やよいの風公園H.P.)と言い、写真で見る限り何世代かに伝世しその後埋納したとは思われない。3号木棺墓の具体的出土品は、銅鏡(多鈕細文鏡)1・銅剣2・銅矛1・銅戈1・ヒスイ製勾玉1・碧玉製管玉95という。銅製品は中国製で、ヒスイ製品は新潟県製、碧玉製品は島根県製ではないかと思われ(但し、全部、中国製という説もある)、3号木棺墓の主は大国主命のような日本海沿岸を商圏とした交易商人ではないかと思われる。従って、これらの副葬品は被葬者が集めた装飾品ではなかったかと思われる。被葬者は権力者などではなく富裕な人だったので周りの人の面倒を見ていたのではないか。微妙なところだが、福岡から遠い中国や新潟県の品物は少なく、頻繁に行き来をしていた島根県のものが多いのはそこいらの事情を表しているのではないか。この段階ではレガリアとは言えなかったのではないか。銅剣・銅矛・銅戈も戦闘用としてはやや小ぶりで、せいぜい護身用ではないか。
それでは日本におけるレガリアの発祥は何をモチーフにしたのかと言えば、鏡は太陽を、勾玉は月を、剣は武力を表し、天照大神、月読尊、素戔男尊を表象したものか。但し、三貴子の神話は天照大神と月読尊の神話が元々あって素戔男尊は後で追加されたと言う見解もある。また、三にまつわる神話はいろいろあり、例えば、キリスト教の「三位一体」、ヒンドゥー教の「三神一体」、地母神の「三相一体」等があり、日本の三種の神器の起源が奈辺にあるかは確定しづらい。

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