古代の格差社会

★はじめに

一億総中流とか国民総中流という言葉はまだ生きているようで、去年(平成30年6月調査)の内閣府発表「国民生活に関する世論調査」の結果では、
国民は自らの生活程度を『「上」と答えた者の割合が1.6%、「中の上」と答えた者の割合が13.6%、「中の中」と答えた者の割合が58.0%、「中の下」と答えた者の割合が21.1%、「下」と答えた者の割合が4.2%となっている。』 と言う。実に、92.7%の国民は程度の差はあれ自分を<中流階級の人>と見なしているようだ。同調査が定例化した昭和33年(1958年)にはすでに『「上」0.2%、「中の上」3.4%、「中の中」37.0%、「中の下」32.0%、「下」17.0%』となっており、驚くべきことか72.4%の国民は自分を<中流階級の人>と自負していたようである。その後、「中」の人は1960年代半ばまでに8割を越え、昭和45年(1970年)以降は約9割となった。国民意識が一億総中流(昭和45年以降)になってからほぼ半世紀である。我が国では国を挙げての階級闘争が希薄であったせいか、「国民生活に関する世論調査」が始まる頃には、戦後復興期《朝鮮動乱(昭和25年6月<1950年>にともなう特需景気に助けられ、日本を占領したアメリカなどの連合国の<経済の民主化政策>などがよろしきを得て、日本経済は昭和30年(1955年)に戦前の水準を回復し、翌年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した》、高度成長期《所得倍増計画(昭和35年<1960年>)、日本の国民総生産 (GNP) が世界第2位となった(昭和43年<1968年>)、第一次石油ショック(昭和48年)<1973年>)》 、安定成長期《1974年の経済成長率は-0.2%と戦後初めてのマイナスを記録したが、その後は3~5%の安定成長( 1974年~1980年代前半)に移行した》、バブル期《日銀は金融緩和政策に踏みきり、この低金利政策(公定歩合が7回引き下げられた) によって生じた余剰資金が株式や土地投機へと向かい( =財テク )、内需主導型の空前のバブル(1986年~1991年)が発生した。1987年から景気は再び上向きに転じ、平成景気がスタートした》、ここまではいわば右肩上がりで一億総中流でもよかったが、この後の「平成不況」が長期化して1990年代は 「失われた10年」 とも言われている。不況の具体例。銀行の貸し渋りは、会社に資金が回りにくくなるということで、経営が苦しくなり、倒産する会社が増えてしまう。そうなると、給料が減って生活が苦しくなったり、自分たちも失業するのではないかという不安から財布のヒモをきつくする。ますますモノが売れなくなり、景気はさらに悪化するのだ。また、デフレ( デフレーション )とは、たんに 「 物が安くなる 」 ことではない。デフレとは、社会全体として物価水準が下がりつづけることであり、需要不足による物価下落が特徴となっている。すなわち、消費者が物を買わなくなる(=需要が減る)ので、売る側は仕方なく値段を下げる。また、今の日本は、資産価格の下落がある。バブル崩壊で株価や地価が暴落して長期不況に突入し、デフレ状態になっている。デフレスパイラルの発生もある。デフレの悪循環である。
この期に及んで『一億総中流』は再考を要すると思われるのだが、我が国民は一億総中流にしがみついているような感じだ。
ここでは現代の格差社会を取り上げるのではなく、古代の格差社会について述べてみたいと思うので現代の経済状況のことについては打ち切る。

★日本社会の格差とはいつ頃発生したのか

最近は縄文時代からの格差社会を想定する向きが多い。格差社会でなかったと言う旧来の説は、1.縄文時代の竪穴住居の大きさやつくりには、大きなちがいがない 2.埋葬が共同墓地で行われている 3.副葬品も見られない。但し、晩期には工芸品的な価値の高いものが副葬される場合が多くなる、と。しかし、地域によっては格差社会の萌芽とでも言うべく、1.土壙墓に一人の遺体が納められているものと、多数の遺体が葬られているものがあるという 2.定住して縄文農業(陸稲、野菜、果樹など)をしていた地域では、すでに弥生時代と大差がない社会を形成していて格差社会となっていた 3.富める地域とそうでない地域、即ち、人々の需要の高い物品を産出する地域とそうでない地域は元々あった、など。私見で恐縮なのであるが、格差というものは自然発生的なものより、人為的に作られたものに表れると考えられ、それらの代表例としては、住居、墓、装飾品、道具類等に顕著に表れると考え、それらがまとまって出土している三内丸山遺跡(縄文時代中期<約4500年前>)を検討してみる。
三内丸山遺跡では都市と言うべきものが形成され組織ができていたと思われるので、すでに、階級ないし格差社会が現出しており、あまり参考にならないかもしれないが、以下の項目を考える。

1.家屋
*数多くの竪穴式住居跡(多数の住民の家)
*大型竪穴式住居跡(長さが10mを超える大型の竪穴式住居跡、最大のもので長さが32m。集会所、共同作業場、冬期間の共同家屋などの説)
*掘立柱建物跡(高床の倉庫。墓地の入口にあるものは埋葬に関する道具の保管庫、もしくは儀式を行った場所との説)
*大型建造物(一説に漁に出た船の目印(現在の灯台か)や魚の群れを見つけるための施設との説。あるいは、古代版超高層マンションか)
以上より家屋に関する限りはあまり村長と村人の格差は見られないようだ。

2.墓
大人の墓と子供の墓は分かれていた。
*大人の墓(大人の墓は、南北を向くように道路をはさんで東西方向に整然と2列に並び、それぞれ足を向けて、南北に向かい合うように配置されている。また、道路は幅約12メートル、長さが420メートル以上、海の方向へ延びていた)
*環状配石墓(ストーンサークル)(土壙墓を石でストーンサークル状に囲んだ墓。道の跡周辺から検出。この墓は村長の墓とも考えられている。1999年10月6日にこの墓の一つから炭化材が出土したが、これは最古の「木棺墓」の跡であるとも言われる)
当時、すでに土壙墓と環状配石のある土壙墓があり、墓に関する限りは身分とか格差があったようだ。但し、これは三内丸山遺跡のような都市型遺跡に関することであり、従来の小規模遺跡にまで及んでいたかは不明である。「環状配石墓には,敷石住居や方形掘立柱建物など特殊な遺構を伴うことがあり,祭場としての機能も有していた。その出現は縄文時代前期後葉にさかのぼり,後期,晩期が配石墓の最盛期である。ヨーロッパと同じものではない。」とあるが、敷石住居には敷石住居の外に六本の柱と一本のトーテムポールを描いているものがあり、方形掘立柱建物は建物ではなく四本柱の春分の日、夏至、春分の日、冬至を表す屋外の柱で双方とも縄文カレンダーの一種ではないのか。

3.装身具
*三内丸山遺跡の副葬品からは社会的不平等の広がりが、列状墓の配置からは密接な関係にある異なる集団の存在が指摘できた。(中村 大・立命館グローバル・イノベーション研究機構)
*三角形のけつ状耳飾りと、同様の石材で作られた箆状(へらじょう)垂飾はおそらく飛騨変成帯産で、北陸から持ち込まれた可能性が高い。(川崎 保・長野県埋蔵文化財センター)
*装身具には腕輪,耳飾り,ペンダント,ヘアピンがあり,ヒスイ,土,木,石などで作られた多種多様な種類がある。

「副葬品からは社会的不平等の広がり」とあるが、副葬品が必ずしも装身具ではないが、土壙墓からは「石器(石鏃)やヒスイ製の玉(ペンダント)や赤色顔料が出土した例があるという。これらはおそらく交易品で誰でもが持てるものではなかったと思われる。

以上より三内丸山遺跡は完全な平等社会ではなかったかもしれないが、かと言って現今に見るような格差社会ではなく多くの人々に不満をもたらすような格差はなかったのではないか。縄文農業と言ってもまだまだ稚拙で収量も少なく特定の人が独占するなどとは考えづらく多くの人にそれなりの平等の原理により配分されたのではないか。能力主義は行き渡っておらず、人頭等による配分が主流で、交易品の上層部独占と言っても階級も細分化されていなかったと思われるので、珍しいものは村長が保管し、村民に見せていたのではないか。副葬品の石鏃というのがやや気になるが、狩猟用で隣村との紛争に使われたものではないと思われる。

★墓特に古墳の格差

古墳時代になると明確に組織社会となり、特に好太王碑分にある朝鮮半島進出などは烏合の衆の集まりでは成り立たないものである。そのせいか、これらの軍団が帰国すると墳墓にも格差ができ、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳、四隅突出墳等の各種の古墳ができた。特に、百舌鳥古墳群と古市古墳群は顕著で百舌鳥古墳群の古墳の格差は尋常ならざるものがある。主なものを列挙してみると、

01 仁徳天皇陵古墳 にんとくてんのうりょうこふん 前方後円墳  486m 日本最大の規模
02 履中天皇陵古墳 りちゅうてんのうりょうこふん 前方後円墳  365m 日本第3位の規模
03 ニサンザイ古墳 にさんざいこふん       前方後円墳 300m 反正天皇陵古墳(多数説)
04 御廟山古墳 ごびょうやまこふん        前方後円墳  203m
05 反正天皇陵古墳 はんぜいてんのうりょうこふん 前方後円墳  148m 被葬者不明
06 いたすけ古墳 いたすけこふん         前方後円墳 146m
07 長塚古墳     ながつかこふん       前方後円墳 106.4m
08 永山古墳     ながやまこふん       前方後円墳 100m

ちなみに、古市古墳群は、

01 応神天皇陵古墳 おうじんてんのうりょうこふん 前方後円墳  425m 日本第2位の規模・体積最大
02 仲姫命陵古墳 なかつひめのみことりょうこふん 前方後円墳  290m
03 仲哀天皇陵古墳 ちゅうあいてんのうりょうこふん 前方後円墳 245m
04 允恭天皇陵古墳 いんぎょうてんのうりょうこふん 前方後円墳 230m
05 墓山古墳     はかやまこふん        前方後円墳 225m
06 津堂城山古墳 つどうしろやまこふん       前方後円墳 210m
07 白鳥陵古墳 はくちょうりょうこふん       前方後円墳 200m
08 野中宮山古墳 のなかみややまこふん       前方後円墳 154m
09 古室山古墳 こむろやまこふん          前方後円墳 150m
10 仁賢天皇陵古墳 にんけんてんのうりょうこふん  前方後円墳 122m
11 安閑天皇陵古墳 あんかんてんのうりょうこふん  前方後円墳 122m
12 清寧天皇陵古墳 せいねいてんのうりょうこふん  前方後円墳 115m
13 二ツ塚古墳 ふたつづかこふん          前方後円墳 110m
14 大鳥塚古墳 おおとりづかこふん         前方後円墳 110m
15 はざみ山古墳 はざみやまこふん         前方後円墳 103m
– 雄略天皇陵古墳
(島泉丸山古墳) ゆうりゃくてんのうりょうこふん
(しまいずみまるやまこふん) 円墳 75m
– 雄略天皇陵古墳
(島泉平塚古墳) ゆうりゃくてんのうりょうこふん
(しまいずみひらつかこふん) 方墳 50m

以上を概括してみると、
1.百舌鳥古墳群では仁徳天皇父子の古墳と御廟山古墳以下の古墳には隔絶したものがある。従って、この古墳群は仁徳天皇一族の墓所として造営されたもので、御廟山古墳以下の古墳は仁徳天皇の孫、ひ孫等の墓、あるいは仁徳天皇の外戚(葛城氏・葛城襲津彦など)、重要な家臣(朝鮮半島へ出兵した、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰など)の墓。場合によっては、允恭天皇陵かと思われる。允恭天皇は仁徳天皇の実子でアルコール依存症(母の葛城氏にはアルコール依存症の傾向があったようだ)のためか仁徳天皇に厳しく譴責され、後世の久離勘当よろしく母方の里である大和国へ追放されたようである。雄朝津間稚子宿禰尊と一般の豪族のような名前になったのであるが、反正天皇が崩御され、後継者不在から皇后および群臣が雄朝津間稚子宿禰尊に強い即位要請を行い即位した。300m以上の巨大古墳とならなかったのはアルコール依存症がたたったか。古市古墳群にある允恭天皇陵も230mというので、御廟山古墳の203mはさほど見劣りするものではない。被葬者としては現代流に言うとお騒がせ皇后の磐之媛命も候補になろうかと思われる。但し、宮内庁は佐紀盾列古墳群にあるヒシアゲ古墳もしくはコナベ古墳と言うもののようだ。「倭の五王」の掉尾を飾る雄略天皇の御陵がはっきりしないのも気がかりだ。雄略天皇の大連は大伴室屋で室屋は「臣下の鑑」のような人で天皇の崩御後は葬儀委員長として直ちに土師氏や伊福部氏を招集し葬儀や御陵造営等の具体策を指示したものと思われる。雄略天皇は仁徳天皇の孫であり、大伴氏も摂津、河内、和泉に勢力があったと思われるので、雄略天皇の御陵は百舌鳥古墳群に造営されたと思われる。しかるに、百舌鳥古墳群には天皇の御陵らしきものがないので①天皇の御陵は実際は顕宗天皇に破却されてしまった。②現在の百舌鳥古墳群の古墳の比定に間違いがある。可能性としてはニサンザイ古墳が雄略天皇陵となるか。③雄略天皇の遺言は「国家の費え」になるような大型古墳は造るな、であった。可能性としては御廟山古墳が雄略天皇陵となるか。いろいろ考えられるが概ね以上のようなことではなかったか。
2.古市古墳群は縄文時代の環状配石墓(ストーンサークル)に構成が似ている。ストーンサークルでは大きな環状配石の真ん中に墓標のようなものを立て(これが初代の墓。古市古墳群では誉田御廟山古墳になるか。)、周りの環状配石は初代の子や孫などの墓標と言うもののようだ。子孫が増えれば環状列石を二重、三重に増やす。時代を経るに従って墳墓は小型になるのだろう。古市古墳群では200m級が応神天皇の子の世代で、100m級が孫の世代、90m、80mと墳丘長が短くなるほどひ孫、玄孫などと下った世代になったのではないか。但し、誉田御廟山古墳は既存の墓所(先行する大型古墳として津堂城山古墳、仲姫命陵古墳がある。)に造営されているので旧来の墳墓との整合性をどのようにとっているのかは不明である。

★まとめ

古市古墳群と百舌鳥古墳群を庶民的用語で言うと、前者は天皇氏の本家の墓所であり、百舌鳥古墳群は仁徳天皇とその子孫の分家の墓所であったと思われる。古市古墳群は誉田御廟山古墳以前にもすでに墓所として存在しており、誉田御廟山古墳の周りには小型の古墳がごちゃごちゃしていたようだ。特に、二ツ塚古墳は取り壊さずに誉田御廟山古墳を遠慮しいしい造営しているのは応神天皇や側近の人たちが自分たちは天皇氏本流の人ではなく末流の人と考えていたからではないか。景行天皇の後継者である日本武尊や成務天皇、仲哀天皇を創作上の人物としたら応神天皇や仁徳天皇は景行天皇の皇子となり、景行天皇には何分にも『古事記』では八十人の御子がいたと言うことなので、応神や仁徳は自分たちを本流とは認めがたかったと思われる。『日本書紀』では成務天皇、日本武尊、五百城入彦皇子が景行天皇の本流と考えられていたようで、応神、仁徳は蚊帳の外だったようだ。しかし、朝鮮遠征から帰国したら「好太王が侵略してきたらお前たち(応神、仁徳)で対応せよ」と言うことで、天皇氏主流に祭り上げられたのではないか。兄弟相続、末子相続が一般的な当時にあって、もう応神と仁徳が兄弟であったとしたならば、兄は長子相続系の旧来の墓所に墓を造り、弟は新しい始祖は「俺」と言わんばかりに新設の墓所を造ったのではないか。従って、百舌鳥古墳群の墳墓の大きさに格差があるからと言って現代のような能力による格差ではなく血縁の濃淡による格差で本来の意味の格差ではない。天皇氏のご先祖様は「自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」(『宋書・倭国伝』)とその実力のほどを誇っているが、これらの毛人、衆夷、海北の上に立ってこそ格差というものなのである。よって、古墳時代に本来の意味の格差があったかどうかははっきりとはしない。百舌鳥古墳群の古墳の大小の格差は仁徳天皇一族と言う限られた人々の血縁に基づく濃淡による格差であって本来の意味による格差ではない。

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