前方後円墳の被葬者は誰なのか

★はじめに

日本の墓は縄文時代より存在するのであるが、ここでは墓の歴史を説くのではなく、日本列島に特異な前方後円墳を取り上げてみようと思う。最古の前方後円墳は箸墓古墳と言われ、大和国の纏向(現・奈良県桜井市)に現存する。すなわち、前方後円墳発祥の地は大和国ということになる。大和国には前身となるようなそれらしき古墳もあるという。例えば、奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀後半頃)の前方(円形周溝墓に渡るための陸橋)後円形(円形周溝墓)の弥生墳丘墓が発見されている。ここでは全国的に分布する(前方後円墳がないのは、北海道、青森県、秋田県、沖縄県のみという)前方後円墳のことは割愛し、大王級の前方後円墳が多い畿内の古墳について見てみることにする。

★大王級の前方後円墳は何のために造営されたか

最古の前方後円墳「箸墓古墳」が『魏志倭人伝』の言う卑弥呼女王の墓とするならば、大げさに言えば国家統合を契機にその象徴として造営された墳墓ということになろうが、ここでは超大型前方後円墳が量産されるようになった四世紀末から五世紀にかけての古墳時代を検討してみる。具体的には、古市古墳群と百舌鳥古墳群の時代のことである。両古墳群には密接な関係があるようで、双方とも軍事氏族の古墳群という説が有力である。浪費産業ともいうべき戦争を本分にしながらなぜまた金のかかる巨大古墳を造ったかであるが、

1.失業対策
2.外国に対するデモンストレーション

ほかにも諸説があるようだが、ここでは国家が円熟期に入った五世紀のことなので上記二説を検討する。

1.失業対策説
四世紀末から五世紀初頭にかけては『好太王碑』に、
「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年(391年)來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」とか、
「九年(399年)己亥百残違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境潰破城池」とか、
「十年(400年)庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退」とか、
「十四年(404年)甲辰而倭不軌侵入帯方界」とか、阻止
「十五年か十六年(405年or406年)倭寇潰敗斬殺無數」とか、
があって倭国の朝鮮半島進出が書かれているが、結局、得るところなく撤退したのであろう。これに対応する日本側の文献は、『日本書紀』巻十応神天皇三年十一月条に、
「三年冬十一月 處々海人訕膨之不從命 【訕膨 此云佐麼賣玖】 則遣阿曇連祖大濱宿禰 平其訕膨 因爲海人之宰 故俗人諺曰 佐麼阿摩者 其是縁也 ◎是歳 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无禮状 由是 百濟國殺辰斯王以謝之 紀角宿禰等 便立阿花爲王而歸」
言わんとするところは、尾羽打ち枯らし帰国した倭国軍兵士は伊都国あるいは奴国あたりで解団式でも行ったのであろうが、その時総司令官応神天皇は「ここはもはや敵地ではない。故国の地である。故国の地に帰ったからには敵地で支給されていた食料、衣類、その他の生活必需品、武器等はもはや自分で調達しなければならない云々」とのたまった。しかし、なかには畿内のほうから来ている人もおり、どのようにして故国にたどり着くかだが、厳しいものがあったのではないか。たとえ、九州北部の地域から来ている人でも自宅まで行き着くのは大変だったと思われる。そこで起きたのは兵士による反乱である。時の政権執行部としては内戦に拡大するのを恐れ阻止策として反乱兵の主体は海人族とみて海人族の大立者阿曇大浜に白羽の矢を立てて鎮圧を依頼した。大浜とてそうやすやすと要請に応じたわけではないだろうが、大伴某の懇願により反乱兵説得に成功したのではないか。『日本書紀』ではこの朝鮮半島出兵を紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰の四将の主導で行われたことのようになっているが、はなはだ疑問だ。
ここに出てくる大伴某は大伴武以の長男と思われ、彼は朝鮮半島などへは行きたくなかったのであろうが、景行天皇(存命ならば)あるいは五百城入彦皇子の強力な要請のもと(倭軍侵略に驚いたのは半島の国々だけでなく寝耳に水のような話だった倭国執行部も驚いたのではないか)遠征軍に加わったのではないか。都合十年余り駐留し、息子は朝鮮婦人との間に生まれて日本語がままならず、国政参画は無理と見て、武以の次男か三男かはわからないが、分家筋の室屋が大伴某の跡を継いだのではないか。室屋が允恭天皇の代に突如出現するのも大伴某との家産等の引継ぎ事務があったからではないのか。「一般に流布している系図では大伴武以(武持・健持:たけもち)の子とされるが、世代は合わない。ほかに、武以と室屋の間に2-3代を記す系図もある」との説が有力だ。おそらく系図的には大伴武以→大伴某(武以の長男)→武以の孫(武以長男の子)→大伴室屋とつながるものなのであろう。一般の大伴氏系図では大伴某と某の息子が略されているとみるべきか。大伴某及びその息子の墓は大阪市住吉区帝塚山にある帝塚山古墳ではないか。「現在は、帝塚山古墳は一つだけだが、明治時代までは、俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていた。ただし、大伴金村は6世紀前半の人物で年代が合致しない。」とあるのも、大伴武以の子、孫の墓とすれば幾分解消できるのではないか。
阿曇大浜は二度のお勤めとして好太王侵略の際の防御隊の隊長の一人ではなかったかと思われる。第一防御隊の隊長は吉備国の吉備氏で、第二防御隊の隊長が明石国(播磨国および兵庫県にあった明石郡、美嚢郡、加古郡、印南郡)の阿曇氏で、第三防御隊の隊長は摂津国の大伴氏ではなかったか。阿曇大浜は明石国の領主に収まったと思われるがその後ほどなくして亡くなったのではないか。墳墓は兵庫県神戸市垂水区五色山の五色塚「千壺」古墳か。内戦阻止の論功行賞によるものであろう。並立している小壺古墳は『釋日本紀』卷六「阿曇連等所祭神」條(『筑前國風土記』逸文「有陪從名云大濱、小濱」<これだけでは大濱と小濱が兄弟かはわからない>)に出てくる小濱の墓か。大濱と小濱は系図上兄弟となっているが、異論も多い。小濱は論功行賞には与らなかったが、強力な大伴氏への働きかけで応神天皇は国費での造営は認めなかったが、大伴氏の負担で造営されたのかもしれない。何分にも五色塚古墳と小壺古墳との規模の格差が著しい。

古墳造営を失業対策とみるのは、戦地から引き揚げてきて復員した兵士のその後の生活を考えるに、おとなしく食料増産に励んでくれるといいのだが、武器を使用して十年も兵士をしているとそれしかできなくなる。マイペースで仕事ができる農業などの自営業等とは違い、古墳造営のような土木作業は軍隊と同じく号令一下で作業を行い団体行動を要求される。復員兵にさらなる騒動を起こされては国家の安寧は保たれぬとばかりに国家財政破綻寸前にも顧みず、巨大古墳造営に踏み切ったのではないか。無論、応神、仁徳両天皇は自分たちの若気の至りで国家財政逼迫の瀬戸際まで追いやったことは重々承知しており、古墳造営を有償化し国家財政再建の一助としたのではないか。従って、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳は応神天皇や仁徳天皇の古墳ではない、という説もある。

2.外国に対するデモンストレーション説

大型古墳群の造営の中心が大和から河内へ移る五世紀は「倭の五王」の時代と言われ、古墳時代で言うと前期から中期への変革期であった。倭の五王は中国へ遣使(主として宋)をしたことで知られ、五世紀は当時の我が国(倭)為政者にとっては世界の一流国である中国への関心が非常に高かったのではなかったか。当然のことながら中国に関心を寄せるとどうしても背伸びをしてお付き合いをしなければならない。双方の記録に宋からの遣使の記録はないようだが、「倭の五王」を讃(履中・百舌鳥)、珍(反正・百舌鳥)、済(允恭・古市)、興(安康)、武(雄略・古市)とするならば、外国人に見てくれとばかりに造営されたのは履中天皇陵と反正天皇陵で古市古墳群の天皇陵は大和盆地へ行く道順によりけりのようだ。
中国人の来訪はなかったようなので、古墳造営は失業対策のためだったか。

★古市古墳群と百舌鳥古墳群

前提として、古市古墳群と百舌鳥古墳群は以下の点から同一のグループとされる。
1.両古墳群から出土している副葬品の構成が共通。
2.時間の推移とともに同様の変化がみられる。
3.古墳群の構造や埋葬施設などもきわめてよく似ている。
4.最新の機能を備えた武器が大量に出土。

朝鮮半島からの倭国軍撤退とともに超大型古墳群の造営地が大和から河内へ移った。理由はいろいろあるだろうが、最も大きな理由は撤退の最高責任者ともいうべき応神天皇と仁徳天皇が河内に都をおいたからではないか。応神天皇は『日本書紀』によると、都は軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町か)という。また、難波にも大隅宮(おおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区)がおかれたとあるが、おそらく大隅宮が生活の拠点ではなかったかと思われる。仁徳天皇は宮居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)<大阪市中央区法円坂1丁目あたりか>とした。また、好太王の進撃に備え諸々の軍需産業を育成し、施設などを創設したようだ。それには大伴氏の財力が必須と考え両天皇は大伴氏の地盤である摂津に都をおいたのではないか。墳墓はその都の近くということで古市と百舌鳥になったかと思われる。「山稜は大和から河内に移動しているが歴代の宮の所在地はほぼ一貫して大和に伝承されている。王墓の移動は政治権力の移動を意味しない。」という見解もあるが、いかがなものか。なお、前後するが倭国の半島侵略について「急速な軍事体制化は古墳時代前期後半に始まった朝鮮半島側からの継続した要請によって生じた現象であった。」と言うのも首肯できない。この紛争は倭国の応神・仁徳両天皇が一方的に仕掛けたもので、半島の国々も驚いただろうが、倭国の景行天皇あるいは五百城入彦皇子も驚いただろう。倭国の最高責任者は直ちに大伴某を呼び、現地を視察させ、善後策を協議し、渋る大伴某を派遣しようとした。「あんな不良息子(弟)ではだめだ。お前(大伴某)が行って指揮をとれ」と大騒ぎになったのではないか。大伴某にとっては大迷惑だったと思う。かてて加えて、帰国してからは好太王の侵略におびえ、コストのかかる常備軍の設置、軍需産業施設の建設などが大伴氏の肩に重くのしかかったのではないか。もっとも、古市・百舌鳥両古墳群には別々のスポンサーが付き古市古墳群はあるいは物部氏が開発者となり、百舌鳥古墳群は大伴氏が造営を担ったのではないか。主な軍需品の生産施設としては、
1.馬匹生産の導入
2.土器製塩
3.武器生産(短甲、刀剣、冑、盾、槍、鉾、鉄鏃、弓、馬具など)
4.鉄器生産
5. 須恵器生産
6. 燃料・原材料の調達
等の生産工場や牧場等

古市、百舌鳥両古墳群の築造順序は以下のごとくであるという。

津堂城山(古市、4世紀後半、允恭)→仲ツ山(古市、5世紀前半、応神皇后仲姫命)→百舌鳥陵山(上石津ミサンザイ、百舌鳥、5世紀初頭、履中)→誉田御廟山(古市、5世紀初頭、応神)→大仙(百舌鳥、5世紀前期-中期、仁徳)→土師ニサンザイ(百舌鳥、5世紀後半、反正空墓)→岡ミサンザイ(古市、5世紀末葉、仲哀)の順であるという。
何か「倭の五王」の掉尾を飾る雄略天皇の御陵も出てきていないし、安康天皇の御陵もない。私見の勝手な機械的な当て推量だが、
『魏志倭人伝』に、「官有伊支馬(垂仁)、次曰彌馬升(孝昭)、次曰彌馬獲支(崇神)、次曰奴佳鞮(仲哀)。」とあり、
津堂城山古墳は孝昭天皇陵、従って、孝昭天皇は欠史八代の天皇ではない。
仲ツ山古墳は仲哀天皇陵。仲哀天皇の足仲彦尊の仲彦は仲ツ山から来ているか。
百舌鳥陵山(履中天皇陵)
誉田御廟山(反正天皇陵)
大仙(允恭天皇陵)
土師ニサンザイ(安康天皇陵)
岡ミサンザイ(雄略天皇陵)
場合によっては、津堂城山(応神天皇陵)、仲ツ山(仁徳天皇陵)もありうるか。
御廟山古墳は古市古墳群にも百舌鳥古墳群にもあるが、これは八幡信仰が平安時代に入り河内源氏の勃興とともに河内源氏の氏神としてまず古市の御廟山を神体山として祀り、次いで百舌鳥にも分祀したという見解がある。ある意味、宇佐八幡は何なのかという見解だ。

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