四道将軍の派遣の実態

★はじめに

「四道将軍の派遣」とは『日本書紀』に出てくる概念で、「崇神天皇十年九月丙戌朔甲午(九日) 以大彦命遣北陸 武渟川別遣東海 吉備津彦遣西道 丹波道主命遣丹波」とあり、大彦命、武渟川別、吉備津彦、丹波道主命の四将軍を言うと言うもののようである。四人はいずれも皇族であり、日本国を統一したのは天皇家であり、どこの馬の骨とも解らぬ大伴や物部のごとき氏族の助力によって天下統一を果たしたのではないと言いたげな趣(おもむき)だ。大彦命と武渟川別は親子であり、吉備津彦は『古事記』孝霊天皇段に、大吉備津日子命は若建吉備津日子命とともに吉備国平定に派遣されて、針間(播磨)の氷河之前に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たした。(大吉備津日子命與若建吉備津日子命 二柱相副而 於針間氷河之前居忌瓮而 針間爲道口以言向和吉備國也)とあり、兄弟で国家統一事業に参加しており、丹波道主命は父が彦坐王(異伝あり)で親子で丹波平定に尽力したなど、日本国統一が天皇家一族という血族集団により完成されたと言うことが解る。
そういう意味では天皇家は、やれ神武天皇が九州南部より東遷してきたとか、応神天皇が九州北部よりやって来たなどと言うことは考えづらいことだ。大和盆地で力を蓄え、周りの中小豪族を糾合し、吉備国、丹波国、高志国、毛野国の強国を完全に傘下に収めて国家統一へと進んでいったのではないか。四道と称する地域も後世よりは遙かに大きく、例えば、吉備国なら現在の広島県、岡山県、兵庫県の一部などが含まれていたと思われ、丹波国なら後世の丹後、但馬、丹波に加え山城や摂津の一部も入っていたかと考えられ、高志国は越前、加賀、能登、越中、越後などの広域地域ではなかったか、また、毛野国は後世の上野や下野はもとより武蔵国なども入っていたのではないか。いずれにせよ「四道」は当時の大和朝廷にとっては本州全体即ち「全国」「全日本」と解してもおかしくはなかったと思われる。
ところで、この四道将軍だが、名前が少しばかりおかしいような気がする。大彦命はその後の考古学の知見により何やら武蔵国の豪族と思われ、武渟川別は『古事記』の大国主の神話の段に登場する高志国の沼河(沼河比売が著名)の豪族ではなかったか。また、吉備津彦や丹波道主命はそれぞれ在地の豪族ではなかったか。そう考えると『日本書紀』の四道将軍の派遣の話は何やら怪しくなり、失礼ながらいい加減な創作話とも思われてくる。特に、『古事記』にはなく『日本書紀』には堂々と載っているので『古事記』ができた和銅5年(712年)から『日本書紀』ができた養老4年(720年)までの間に、あたふたと創作されたものではないか。一般的に言って、四道将軍の派遣で疑問に思うのは「崇神天皇十年冬十月乙卯朔、詔群臣曰<今反者悉伏誅、畿內無事。唯海外荒俗、騷動未止。其四道將軍等、今急發之。>丙子、將軍等共發路。」として、「十一年夏四月壬子朔己卯、四道將軍、以平戎夷之狀奏焉。」とあるが、「以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波」ともあり、こんな大遠征が半年でできるものか。特に、北陸などは冬になると大雪で行軍もままならなかったのではないか。はなはだインチキくさい話だ。また、多数説はこれは創作神話ではないと言うが、派遣将軍の名前や派遣期間などから見てはなはだ疑問を生じる話だ。『日本書紀』の奏上間際にこれら四名の史実を反転して顕彰する事情があったのであろうか。
そこで、『古事記』では<四道将軍の派遣>の説話はないのであるが、類話はあるのでそれを検討してみる。

★『古事記』における「四道将軍の派遣」の類話

1.『古事記』「大吉備津日子命(別名:比古伊佐勢理毘古命)與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口、以言向和吉備國也。」

*大和と吉備の対立はすでに欠史八代の時代から始まっているようで、第七代孝霊天皇の時代に大吉備津日子命(別名:比古伊佐勢理毘古命)と若建吉備津日子命が針間氷河之前(加古川の河口か)まで進出していたという。原因は、当時、現在の神戸市に本拠を置いていたと思われる後世の大伴氏の出動要請によるものか。但し、武力闘争ではなく現今で言う外交交渉の域か。

2.『古事記』「此天皇(開化天皇) 娶旦波之大縣主 名由碁理之女 竹野比賣 生御子 比古由牟須美命」

*丹波も吉備と同様欠史八代の時代から大和とのつながりがあったようである。「大縣主」はここでは「大王」とか「大彦」と同じで、多くの縣主をまとめた人物を言うのであろう。由は湯で、碁理はカバネとして今の城崎温泉あたりの豪族ではなかったか。由碁理は『魏志倭人伝』に出てくる都市牛利と言う説もある。しかし、碁理というカバネは同じで同族かもしれないが、名前の「由」と「都市」では発音がかなり違うと思う。但し、邪馬台国の外務次官を世襲した家柄であるかもしれない。由碁理、都市牛利がともに城崎温泉の出身ならばさもありなんというところだ。竹野比賣は母が竹野川流域の人で京丹後市峰山町あたりの人か。竹野比賣の子・比古由牟須美命は『日本書紀』での表記が彦湯産隅命とあるので、温泉関係由来の名前なんじゃないか、と言う人もいる。

3.『古事記』開化天皇段に「日子坐王は春日・沙本(春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣)・山代(山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨)・淡海(天之御影神之女・息長水依比賣)・旦波(息長水依比賣の皇子・丹波比古多多須美知能宇斯王<丹波道主命>)ら諸豪族を血縁で結ぶ地位に位置づけられている。

*ここが重要なところで日子坐王は大和北部、山城、近江、丹波に勢力を張ったと見え、息子を丹波道主命として丹波(後の丹後)に拠点を置き、大和朝廷の勢力を伸長したか、はたまた、独自の王国を築いたのであろうか。

4.『古事記』「此之御世(崇神天皇)、大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴人等。又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠。」

*これが四道将軍の派遣に関する元々の話かとも思われるが、大毘古命と其子建沼河別命の説話と日子坐王の説話は結びつかないのではないかと思われる。即ち、別々の話で日子坐王の方は現在の京都市の豪族八咫烏氏(後の賀茂氏)が丹波勢力に弾圧され、八咫烏氏に援軍を要請された大和朝廷が日子坐王を派遣して加勢したのではないか。玖賀耳之御笠と言う人物もはっきりしない。意味としては「玖賀」は、空閑地、陸を意味し、「耳」はカバネ、「御笠」は周りより少しばかり高い台地を言うようで、丹波国には該当する地名がないので「玖賀」は鳥取県岩美郡岩美町陸上(くがみ。元は「くが・かみ」であろう)という説もある。丹波国の地名とすると、玖賀は舞鶴市で御笠は大江山を言うとする見解もあるらしい。しかし、丹波の主要地域が後の丹後国丹波郡丹波郷というので現在の京都府京丹後市峰山町丹波であろうが残念ながら玖賀山の地名はなく峰山とか荒山という地名が散見するばかりである。東京都杉並区久我山という地名があり、鉄道駅は谷にあり、周りは少しばかり高い丘陵地になっている。玖賀とは「高くなったところ」との意で、峰山盆地も似た地形になっているのではないか。峰と玖賀はここでは同じ意味か。
前後するが、「大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴人等。」も意味不明である。「東方十二道」は後の国名で言えば、遠江、駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、および信濃、上野、下野、陸奥の十二ヵ国を総称したもの、とする説がある。ほぼ中央高地以東の地域で、大毘古命が高志道というのは、もし、大毘古命を稲荷山古墳出土鉄剣の「乎獲居臣上祖名意富比垝」の意富比垝と同一人物とするならば大毘古命は敵前逃亡者と言おうか面が割れた裏切り者と言うことになるのだろう。従って、『記紀』の編者としては東方十二道には大毘古命とは別人(この場合は大毘古命の息子・建沼河別命)を当て、大毘古命は高志道となったのであるが、大和朝廷が高志方面に勢力を拡大し始めたのは、文献的に『日本書紀』で「景行天皇25年7月3日条、同27年2月12日条武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察した。帰国すると、蝦夷を討つよう景行天皇に進言した。(廿五年秋七月庚辰朔壬午 遣武内宿禰 令察北陸及東方諸國之地形 且百姓之消息也。廿七年春二月辛丑朔壬子 武内宿禰自東國還之奏言 東夷之中 有日高見國 其國人 男女並椎結文身 爲人勇悍 是總曰蝦夷 亦土地沃壞而曠之 撃可取也」が最初か。以上を見ると、大毘古命の高志道派遣は創作話か。それに、四道将軍の遠征期間も『日本書紀』によると、崇神10年9月9日(再出発は崇神10年10月22日)から崇神11年4月28日とあるので半年では余りにも短すぎないか。武内宿禰の視察でさえ一年半ほどかかっている。

★まとめ

以上を総括すると、四道将軍の派遣とはまったく関係のない四人の将軍を寄せ集めて、一つの派遣譚としたようで、いずれも皇族とは言ってはいるものの真実かどうか。四道将軍の派遣の話を史実とは認めない説もある。当然のことで、『古事記』によると吉備氏攻撃は第七代孝霊天皇の時代(大吉備津日子命と若建吉備津日子命。四道将軍の吉備津彥を言うか)であり、日子坐王が玖賀耳御笠を討ったのは崇神天皇の時代という。大毘古命と其子建沼河別命は崇神朝の人物か。大毘古命父子は「故大毘古命者隨先命而 罷行高志國 爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共 往遇于相津 故其地謂相津也」と言って福島県会津若松市の地名譚を残しているようだが、これだけじゃあ四道将軍の派遣の成果としては物足りない。但し、「大和朝廷が会津を征服したことが読み取れる。」などと曰う説もある。会津大塚山古墳のように4世紀末造営の古墳もある。これは崇神天皇の時代と言う人もいるが、景行天皇の時代ではないか。景行天皇と東北地方というと、『古事記』では倭建命の関東甲信地域の征討であるが、『日本書紀』では、
1.廿五年秋七月庚辰朔壬午 遣武内宿禰 令察北陸及東方諸國之地形 且百姓之消息也
2.廿七年春二月辛丑朔壬子 武内宿禰自東國還之奏言 東夷之中 有日高見國 其國人 男女並椎結文身 爲人勇悍 是總曰蝦夷 亦土地沃壞而曠之 撃可取也
3.四十年夏六月 東夷多叛 邊境騒動 ○秋七月癸未朔戊戌 天皇詔群卿曰 今東國不安 暴神多起 亦蝦夷悉叛 屡略人民 遣誰人以平其亂
4.四十年是歳 蝦夷既平 自日高見國還之
5.四十年是歳 遣吉備武彦於越國 令監察其地形嶮易及人民順不
何を言わんとするのかと言えば、未だ景行天皇の時代になっても武内宿禰を北陸や東方諸国に派遣し、また、吉備武彦を越国に派遣するなどは、それらの地域が大和朝廷傘下の国とはなっていなかったのではないか。会津大塚山古墳の被葬者は多数説では大毘古命の息子の建沼河別命と言うが、同古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である、と言う。吉備武彦もその氏の名からして吉備の人と思われ会津大塚山古墳の被葬者の候補の一人かもしれない。
四道将軍の派遣というのは武内宿禰の北陸、東方諸国派遣をヒントにした創作ではなかったか。

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