倭国大乱の一態様

★はじめに

「倭国大乱」とは、日本の史書にはそれらしきものはなく、中国の正史の『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)とか、『後漢書』卷85 東夷列傳第75とかに、仰々しく記載されている。それによると、
『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」

『後漢書』卷85 東夷列傳第75
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」

特に、『後漢書』の方は具体的で、「倭国大乱」があったのは後漢の「桓 靈閒(146年 – 189年)」の時と言うことで、倭国が半世紀近くにわたって内戦状態だったと言い、また、「更相攻伐 歴年無主」とは、無政府状態で大王(おおきみ・天皇)が不在だったと言うことかと思われる。これに『魏志倭人伝』の「本亦以男子爲王住七八十年」を加味すると、倭国が王ばかりの国から大王一人とその配下の王たちの曲がりなりにも統一国家となったのは紀元一世紀の半ば頃かと考えられる。当然のことながら、統一後、日の浅い倭国が不安定であったことは想像に難くない。いろいろ現代的観念から見て「どうしてこんなことで争いになるのだろう」と言うようなことが頻繁に起きていたのかもしれない。
倭国を統一したのも、九州北部の勢力なのか、はたまた、畿内の勢力なのかも問題だ。一応、正史の『記紀』では大和朝廷が我が国を統一したようになっているが、中国の史書『後漢書』卷85 東夷列傳第75には、また、「安帝永初元年(107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」とあり、帥升も写本によっては師升とするものもあって、読み、意味ともにはっきりしない。
倭国統一勢力に関するものとしては、<『翰苑』の、『後漢書』を引用した箇所には「倭面上國王帥升…」とある。また、北宋版『通典』には「倭面土國王師升等…」とある。>と言い、「倭面上國」とか「倭面土國」の読みと意味であるが、
内藤湖南博士は、「倭面土」は「やまと」の中国式表記ではないか、と言う。
これに対し、
白鳥庫吉博士は、「面の古い字体はしばしば回に見誤られやすいといい、「倭面土國」は正しくは「倭回土國」であったとし、それは「倭の回土(ヱト、weitu)國」とよむべきだとして、伊都国をさしている」とした。
ほかに、
橋本増吉氏元東洋大学学長は、日本書紀の神功皇后の巻には「松浦県(まつうらあがた)」は「梅豆羅(めずら)國」ともいったと記してあることや、面土の古音はカール・グレーソンによるとMian’t`uoであるということを根拠に、「面土」はmetu-laの音訳だとして、「面土國」を「末盧國」にあてる説を唱えた。
ここでも、大まかに言って「邪馬台国」論争と同様京都大学の「倭面土國」は大和とする説と、「倭面土國」は九州北部であるという説が対立しているようだ。

★西暦一世紀から二世紀頃の倭国

倭國王帥升等が安帝永初元年(107年)に中国へ行ったのも、桓 靈閒(146年 – 189年)に倭國大亂があったのも、日本の史書『記紀』によれば、いくら頭をひねってみても神武天皇及びそれに続く欠史八代の時代としか考えられない。ご存じの通り、「欠史八代とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の天皇のこと」と言い、「現在の歴史学では二代から九代までの実在を疑う「欠史八代」説が主流となっている。一方で実在説を唱える学者も少なくない。」という。
第二代綏靖天皇の原像は「ぬなかわみみ(渟名川耳/沼河耳)」という名の川の神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説
第三代安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看/玉手見)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説
第四代懿徳天皇の原像は「すきつみ(耜友/鉏友)」という名の鋤の神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説
第五代孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説
等々があり、失礼ながら欠史八代の天皇は踏んだり蹴ったりの天皇で実在していたとしてもその実名も解らないという存在だ。 『魏志倭人伝』には「本亦以男子爲王住七八十年」とあるから、八十年間くらいは男王(大王と言ったか)がその地位にあったと言うべきであろう。
とは言え、欠史八代の天皇がすべて架空かと言えばそうとも言い切れないところがある。特に、皇后が磯城縣主(紀では葉江・記では波延と言う人物が著名)から脱却する八代以降は后妃・皇子女も多様になり大和朝廷の拡張期に入ったのではないか。そこで、第八代孝元天皇と第九代開化天皇の皇妃等を抜粋してみると、

第八代孝元天皇

后妃・皇子女
皇后:欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命) – 穂積臣遠祖の欝色雄命(内色許男命)の妹。
第一皇子:大彦命(おおひこのみこと、大毘古命) – 四道将軍の1人。阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣ら7族の祖(紀)。
皇子:少彦男心命(すくなひこおこころのみこと:日本書紀一書、少名日子建猪心命) – 日本書紀本文なし。古事記では次男とする。
第二皇子:稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと、若倭根子日子大毘毘命) – 第9代開化天皇。
皇女:倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと) – 古事記なし。
妃:伊香色謎命(いかがしこめのみこと、伊賀迦色許売) – のち開化天皇の皇后で崇神天皇の母。
皇子:彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと、比古布都押之信命) – 武内宿禰の祖父(古事記では父)。
妃:埴安媛(はにやすひめ、波邇夜須毘売) – 河内青玉繋の娘。
皇子:武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと、建波邇夜須毘古命)

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では軽境原宮(かるのさかいはらのみや)、『古事記』では軽之堺原宮。
宮の伝説地は、現在の奈良県橿原市大軽町・見瀬町周辺と伝承される。見瀬町では、牟佐坐神社(古くは「境原天神」とも)境内が宮跡にあたるとして参道に「軽境原宮阯」碑が建てられている。

第九代開化天皇

后妃・皇子女
皇后:伊香色謎命(いかがしこめのみこと) – 元は孝元天皇の妃。
第二皇子:御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと、御真木入日子印恵命) – 第10代崇神天皇。
皇女:御真津比売命(みまつひめのみこと:古事記) – 日本書紀なし。
妃:丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘。
第一皇子:彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命)
妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命) – 姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹。
第三皇子:彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)
妃:鸇比売(わしひめ) – 葛城垂見宿禰の娘。
皇子:建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ:古事記) – 日本書紀なし。
『帝王編年記』『本朝皇胤紹運録』など中世編纂の史書には、以上の后妃のうち鸇比売のみが見えず、代わりに吉備津彦命の女の包媛(色媛?)が挙げられている。

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では春日率川宮(かすがのいざかわのみや)、『古事記』では春日之伊邪河宮。
宮の伝説地は、現在の奈良県奈良市本子守町周辺と伝承される。同地では、率川神社境内が宮跡にあたるとされる。この説は開化天皇陵にも近く優勢であるが、一方で奈良市春日野町の東の四恩院廃寺付近とする説もある。

いずれも皇后・妃を淀川水系の有力合流点である現・京都府八幡市界隈から出している豪族で北から息長氏(滋賀県)、三上氏(滋賀県)、鬱(内)氏(京都府)、賀茂(八咫烏氏)氏(京都府)、穂積氏(大阪府)、伊香氏(大阪府)、物部氏(大阪府)、和珥氏(奈良県)、葛城(国造)氏(奈良県)、天皇氏(奈良県)などがあるが、なぜか多くの氏族は物部氏に関連付けられている。但し、三上氏、賀茂(八咫烏氏)氏、葛城(国造)氏は皇后・妃を出していない。
特徴的なのは第九代開化天皇で、妃に丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘とあり、第三皇子に彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王。母が姥津媛(ははつひめ)と言い、姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹)となっており、都も今までの奈良盆地南部より、宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では春日率川宮(かすがのいざかわのみや)、『古事記』では春日之伊邪河宮。「宮の伝説地は、現在の奈良県奈良市本子守町周辺と伝承される。同地では、率川神社境内が宮跡にあたるとされる。この説は開化天皇陵にも近く優勢であるが、一方で奈良市春日野町の東の四恩院廃寺付近とする説もある。」と言い、奈良盆地北部へ移している。また、彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)については、
「『古事記』に見えるように、彦坐王は春日・沙本・山代・淡海・旦波ら諸豪族を血縁で結ぶ地位に位置づけられている。このことから、彦坐王の系譜は和珥氏や息長氏を中心とする畿内北部豪族らにより伝えられたとする説があるほか、そうした畿内北部における広域的な連合政権の存在の暗示が指摘されている。」(Wikipedia)と言う。 また、『古事記』崇神天皇段では、日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討ったという。

★まとめ

諸々の豪族、息長氏、三上氏、鬱(内)氏、賀茂(八咫烏氏)氏、穂積氏、伊香氏、物部氏、和珥氏、葛城(国造)氏等が欠史八代の時代から天皇氏と姻戚関係にあったとは考えづらく、おそらくこれらの有力氏族はまったく別々の氏族であったのではなかろうか。別々の氏族であるから時には勢力争いもあり、利害関係の対立もあり、人間関係のもつれなどもあったのではないか。そのたびごとに小競り合いや紛争があったとは思われないが、例えば、長期的な気象の変動により大干ばつが長引いたり、低温状況が続いたりした場合、食糧確保の争いなどが起こったのではないか。上流の堰(せき)の破壊などは一般的に大問題となり、後世の「番水」のような決まりがなく、紛争が長期化し43年(「桓 靈閒(146年 – 189年)」)もかかったと言うことか。この間、大王(欠史八代の天皇)はいたが機能がしなかったと言うことかと思う。
上述の彦坐王のことだが、「彦坐王の系譜は和珥氏や息長氏を中心とする畿内北部豪族らにより伝えられた」とか、「畿内北部における広域的な連合政権の存在の暗示」とか言われているが、確かにこの皇子のお妃の出身地は徐々に北方(春日・沙本・山代・淡海・旦波)に繰り上がっているが、最後に「旦波国(丹波国)に遣わされ、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討っ」て丹波平定を行ったのではないか。これって、「『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、丹波道主命を丹波に派遣する(四道将軍の派遣)」とあり、「『古事記』では、丹波に派遣されたのは丹波道主命ではなく父の日子坐王(彦坐王)」とある。『記紀』編纂者の資料整理がおかしかったとも思われるが、そもそも「四道将軍の派遣」というのも近時の学説では疑問視する見解が多く、おそらく『古事記』の方が正しいのであろう。彦坐王と丹波道主命は『記紀』では混同されているようだ。
以上より判断すると彦坐王は倭国大乱の畿内北部における後始末係とも言うべき人物で、倭国大乱を鎮圧したのは邪馬台国の卑弥呼女王ではなく、余りお役に立ってはいなかった大王一族の人ではなかったか。また、卑弥呼女王の就任後も畿内南部では「邪馬台国狗奴国の争い」が引き続き繰り広げられていたようである。『魏志倭人伝』ではこちらの方を仰々しく描写しているがこちらも卑弥呼女王の逝去とともに終わったようである。

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