太秦の地名

★はじめに

太秦(うづまさ)と言えば京都市右京区にある「太秦」の地名が有名で、当地(嵯峨野・太秦一帯)を開発した渡来系氏族の秦氏の本貫の一つになっている。秦氏の由来は百済をはじめ新羅とか、中国五胡十六国時代の羌族とか、果てはユダヤ人なる説もあるが、秦氏を論じるわけではなく割愛する。また、太秦という地名は大阪府寝屋川市太秦(河内国讃良郡太秦)にもあるが、一説によると秦氏はまず河内国讃良郡太秦に定着し、その後山城国葛野郡葛野郷へ移住したという。これも詮索はしない。古墳に関しては寝屋川市太秦の古墳は消滅してしまい太秦高塚古墳(全長39メートル)が太秦古墳群で、唯一現存する古墳である。ほかの古墳は小規模古墳と考えられている。これに対し、京都市右京区太秦の古墳は、「蛇塚古墳」(全長約75m)、天塚古墳(墳丘長約71メートル)、垂箕山古墳(墳丘長は約63メートル<または約75メートル>。宮内庁により桓武天皇皇子仲野親王の墓に治定されているが、時代が合わないという。)、清水山古墳(墳丘長約60メートル、石碑のみ)などの後期古墳の分布があり、秦氏一族の墓と推測されている。これを見ても、秦氏は現在の寝屋川市から京都市に移動したとも思われるが、あるいは別々の氏族かもしれない。秦氏と言えば格好もいいが、現代用語で言うと大量難民あるいは偽装難民と言うことで、秦氏が日本に来た頃の大陸・半島の状況はと言えば、中国は南北朝時代で北朝は五胡十六国時代、南朝は東晋、宋、斉と王朝がめまぐるしく代わり、不安定な状況が続いた。そういうときの構図は、まず、大陸の負け組は朝鮮半島に逃れる。例として、「孫本人(孫正義氏)は、約1000年前に中国南朝の宋から戦乱を避け高麗へ帰化した一族の末裔であると主張している。」(Wikipedia)がある。そうこうするうちに朝鮮半島の古来の人は中国人に追われて日本列島へ。特に、南北朝の時代はそれがひどかったと見え日本には大量難民となって上陸したのではないか。無為徒食では日本人に叱責されるので、家系の上では秦の始皇帝の子孫と大洞気味に名乗り、仕事をしなければ日本人に海にでも放り出されるので当時の日本人が敬遠しがちな土木作業、鉱山開発や貴婦人が好む養蚕、機織業などを一生懸命にやり露命を保ったのではないか。
京都市と寝屋川市の地名の前後だが、寝屋川市には江戸時代ではあるが「太秦村」のほかに「秦村」というのもあり、いずれかが本村で他方は分村ではなかったかと思われる。一般的には、太秦村から秦村が分かれたとは考えがたく、秦村から分村して太秦村になったのではないか。しかも、太秦村の村民は血気盛んな者が多く秦村を追放されたのではないかと思う。村名も当初は「大秦村(おおはたむら)」と名乗り、秦村から抗議を受けて「太秦村」と表記を改めたのではないか。従って、太秦の地名は文字の上ではまず寝屋川市から始まり寝屋川市太秦の村民の一部がまたまた他の村民と衝突して現在の京都市太秦に移住し、京都の太秦村ができたのではないかと思われる。

★「太秦」の意味

「太秦」という語の意味については諸説がある。主なものを列挙すると、

1.秦酒公(秦氏)が大和朝廷に庸調を奉献する際、絹を「うず高く積んだ」ことから、朝廷より「禹豆麻佐」の姓を与えられ、これに「太秦」という文字を当てた。
『日本書紀』巻十四雄略天皇
「十五年、秦民、分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、充積朝庭、因賜姓曰禹豆麻佐。」
2.秦氏の献上した糸がうずたかく巴渦のかたちに似ていたので「うづまさ」と呼ぶようになった。
3.太とは拠点の意味で、朝鮮半島から渡来した秦氏の拠点だったので太秦と言う。
4.聖徳太子の「太」と秦氏の「秦」で「太秦」にした。
5.秦氏の、特に長を指す別称が太秦と言った。
6.古代ヘブライ語の「ウズ」(光)「マサ」(賜物)が語源である。
いずれの説も1.2.を除いて「太秦」の読みがどうして「うづまさ」となるのかが今ひとつはっきりしない。一般には、1.説(『日本書紀』)が正当と考えられているようだ。

★「うづまさ」の検討

賜姓の「禹豆麻佐」だが、何に起因するのかと言えば、やはり地名に拠ったものではないかと考える。現在の寝屋川市太秦や京都市右京区太秦の地が1600年ほど前の古墳時代に「うづまさ」と呼ばれていたかどうかは確証がないが、当該地が雄略天皇の頃には「禹豆麻佐」と言われていたと解するなら当時にあっては割と広く存在していた地名ではなかったかと思われる。そこで、「禹豆麻佐」の意味を検討してみると、
「禹豆麻佐」は、「うつま」と「さ」に分解でき、
「うつま」は漢字で「美馬」とか「打馬」と書き、現在の徳島県美馬市(読みは<みま>という。讃岐山脈と吉野川に挟まれたところ)、や鹿児島県鹿屋市打馬(高隅山連山と肝属川に挟まれたところ)などがあり、山裾の河岸段丘上と言ったところか。また、沖縄県にやたらと多い「内間(うちま)」地名も元々は現在の鹿児島県鹿屋市打馬からの移住先のことか。鹿屋市はその歴史も古く、縄文時代早期から人の定住があったといい、日本の南方の中心地で「打馬」もその頃からの地名ではなかったか。京都の太秦も双ヶ丘や仁和寺方面の北山と桂川に挟まれた似たような地形ではなかったか。以上より「打馬」「内間」は山裾の河岸段丘上、あるいは、河川の自然堤防上を言ったものと思われる。
「さ」は、「さは(さわ)」の後略で、水のあるところを「沢」と言い、川や湖沼のあるところが「沢」となったのではないか。「沢」は東日本の地名で「谷」が西日本の地名と言う説もあるが、現在では沢のつく地名は西日本にもあるというのが一般的になってきている。特に、近畿地方は九州南部までとは言わずとも縄文文化の痕跡が残るところと言う。寝屋川市太秦は淀川を控え、京都市太秦は桂川の堤防上とするといずれの地も交通の要衝にあたり縄文時代から開けていたとしても問題ではない。太秦氏が古墳時代にやって来たとしてもそれ以前に縄文人もいて「禹豆麻佐」と言っていたのではないか。
以上より「うづまさ」とは河川もしくは湖沼地帯の少しばかり高まったところにある居住地域を言ったのではないか。

★まとめ

「賜姓曰禹豆麻佐。」の姓を「カバネ」と訓じているが、「カバネには有力豪族により世襲される称号として、いわゆる爵位としての性格と、職掌の伴う官職としての性格の二つの側面があるとされる」と言うものの、この場合の姓は現今で言う苗字のことではないか。秦氏には「造(秦造)」「公(秦酒公)」「勝(百八十種勝)」などの一般的に言うカバネがその氏の名についており、雄略天皇はその氏の名とおぼしき、あるいは、秦と言うのは氏の名ではないと考えたのか、秦氏が秦と言っているもの(現代的に言うと苗字)を禹豆麻佐に変えるように言ったのではないか。但し、秦氏が太秦氏となったのは「秦嶋麻呂 が、天平14年(742)造宮録(さかん)として恭仁宮(くにのみや)の造営にたずさわり、正八位下から従四位下にのぼり、太秦公(うずまさのきみ)の姓をあたえられる。」とあるので、奈良時代のことか。雄略天皇賜与の「禹豆麻佐」は使用されていなかったようだ。しかも、太秦姓は「秦氏宗族の称」という説もある。「禹豆麻佐」の地名は元々あったようだが、漢字の太秦としたのは秦氏のあるいは太秦氏のご都合によるもののようである。

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