野見宿禰考

★はじめに

野見宿禰と言えば、①『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇7年7月条に、出雲国(島根県)の人で、召されて当麻蹶速(たいまのけはや)と角力(すもう)をとり、これを殺して天皇に仕えた、とか、②垂仁天皇32年7月条には、皇后日葉酢媛(ひばすひめ)の葬に際し出雲の土部(はじべ)を率い初めて埴輪(はにわ)をつくったと言う起源譚がよく知られている。しかし、いつの世にも難癖をつける人はいるようで①相撲の起源譚については、相撲そのものの起こりというよりも、毎年宮中行事として7月7日に催される相撲節会の由来を語る話である、と言い、②埴輪の起源についても、弥生時代後期後葉の吉備地方の首長の墓であると考えられている弥生墳丘墓(例えば、楯築墳丘墓)から出土する特殊器台・特殊壺であるといわれている、と。野見宿禰が相撲の起源にも、はたまた、埴輪の起源にも関係がないとすると『日本書紀』やその他の文献に出てくる野見宿禰とは何者なのかと言うことになる。
『日本書紀』などで彼の経歴を綴ってみると、野見宿禰は出雲臣の遠祖天穂日命の14世孫と言い、その名は『出雲国風土記』飯石(いいし)郡条に記す「野見」の地名によっている、とのことである。出雲国で何をしていたかは解らないが、垂仁天皇7年、天皇の命により当麻蹶速と相撲をとるために出雲国より大和国へ召喚され、蹶速の腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられ、その後は垂仁天皇に仕えた。一説に、第12代の出雲国造である鵜濡渟(宇迦都久怒・ウカツクヌ)の子。またの名を襲髄命(かねすねのみこと)という。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことであると言う。さすれば、野見宿禰は垂仁天皇に仕える前は出雲国国造であったようだ。しからば、出雲国国造とは何をしていたかと言えば、一般国務の総理のほか、おそらく弥生時代から盛んだった四隅突出型墳丘墓の造営に主なる精力を割いていたのではないかと思われる。言わば、墳墓造営はお手の物で垂仁天皇から土師職に任じられて姓を土師臣 (はじのおみ)としたのも適職に就いたようなものだったかと思われる。とは言え、野見宿禰架空人物説のような見解もある。それによると、
①まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないか。
②相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないか。
③土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないか。
④古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。
何ともいえない見解だが、土師氏の栄枯盛衰・竜頭蛇尾を解いたものか。

しかし、野見宿禰と言う人物は別の人もいる。

『延喜式神名帳』に、
因幡国高草郡 大野見宿禰命神社 祭神・野見宿禰
『倭名類聚抄』には「因幡国高草郡野見郷」とある。
『社頭・大野見宿禰命神社記・藤原具房著』には「因幡国高草郡野見の保 徳尾村に祭るところの神社は、野見宿祢の霊なり。」とある。

『延喜式』に記載されている高草郡の、いわゆる式内社は、
伊和神社
倭文神社
天穂日命神社
天日名鳥命神社
阿太賀都健御熊命神社
大和佐美命神社
大野見宿禰命神社
上記七社のうち天穂日命神社と天日名鳥命神社、阿太賀都健御熊命神社は祭神が親子という。天穂日命神社と大野見宿禰命神社は祭神が祖先と十四世の孫と言う。大和佐美命神社の祭神を野見宿禰という説もあるが有力ではない。伊和神社の伊和は岩の意味で私見で恐縮ではあるが前方後円墳草創期の因幡国は石材業者即ち石工を提供した国ではなかったかと思われる。従って、高草郡の七式内社は古墳の造営とは無関係ではなかったと思われる。但し、当時の岩の標準語の発音は伊波(イハ)であって伊和(イワ)ではない。石材で著名な播磨国にも伊和大神とあるので、当時にあって近畿地方と中国地方の発音は少し異なっていたのかもしれない。発音の違いの境は加古川か。
一般には二人の野見宿禰は混同されていると思われるが、検討をしてみる。

★出雲国の野見宿禰と因幡国の野見宿禰

まず、野見宿禰の元祖とされる天穂日命についてであるが、天穂日命を祀る神社として出雲国には能義神社(島根県安来市・祭神の野城大神は天穂日命という)一社だけがあるという。これも元々の祭神が野城大神でその後祭神が天穂日命に代わったので野城大神は天穂日命であると言うことであって、能義神社が祭神を人気衰退の野城大神から天穂日命にすげ替えたと言うのであれば出雲国に天穂日命を本来の祭神にしている神社はなくなってしまう。しかし、世の中捨てる神あれは拾う神ありで、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされた最初の神で出雲国に最初にできた神社(能義神社か)の祭神であると説く人もいる。とは言え、天穂日命は出雲国では非常に影の薄い神で出雲国造家一族の祖神と言うにとどまっているようだ。出雲国の統治者が大和朝廷に討伐されるごとに変わり、大国主命、素戔嗚尊、天穂日命となり、『出雲國風土記』には八束水臣津野命と言う出雲国の祖神が出てくるが、これまた祭祀神社が貧弱で、主祭神とするものに、

富神社
島根県出雲市斐川町富村(シマネケンイズモシヒカワチョウトビムラ)
創立年代は不詳である。また風土記や延喜式にも富明神の名は見えない。
祭神 八束水臣津野命

長浜神社
島根県出雲市西園町上長浜4258
創建年代は不詳である。和銅3年(710年)以前。『出雲国風土記』において「出雲社(いずものやしろ)」に比定。
祭神 八束水臣津野命
などがあるようだが、いずれにせよ出雲国造家にまつわる祖神や伝承は失礼ながらあやふやな点が多い。

こう見ると、全国区にまたがる天穂日命の方が正統で神戸市六甲山山頂、六甲山カンツリーハウス敷地内にある天穂日命の磐座が何やら真実味を帯びてくる。また、野見宿禰を祀る野見神社と称する神社がたくさんあってどこが本社となるのかは解らないが、おそらく野見宿禰が出雲国や因幡国(因幡国高草郡能美郷)はたまた摂津国(摂津国嶋上郡野身郷)にいてもおかしくはない。当時にあっては在地の豪族は勝手に宿禰のカバネを名乗っていたかもしれないからだ。宿禰は物部氏先祖に多いという。もし野見宿禰が摂津国嶋上郡野身郷の出身なら淀川沿いの物部氏に倣い宿禰を名乗ったのかもしれない。諸説の中に垂仁天皇が野見宿禰を即日(即日に、倭直が祖長尾市を遣し、野見宿禰を喚す。)呼び寄せたというのは「奈良県桜井市出雲」のことという説がある。そこまで言わなくとも、摂津国嶋上郡野身郷の野身神社あたりも当たらねど遠からず、ではないのか。大阪府藤井寺市のWebサイトにも以下のごとくある。
「蹶速の領地當麻は、今の当麻町のあたりだったと考えられています。領地内には石棺(せっかん)材になる二上山凝灰岩(ぎょうかいがん)の産地が含まれていることに注意する必要があるでしょう。それはのちに天皇の葬儀を仕切ることになる土師氏の祖先、野見宿禰が石棺材の産地を確保したことは見逃せないからです。また、野見宿禰の「のみ」は石工の使う「鑿」に通じることもあながち付会ではないかもしれません。」
「京都府立大学名誉教授の門脇禎二さんによれば、出雲の大和への服属時期は、6世紀末をさかのぼることはないといいます。6世紀末といえば、古墳時代も終わり、聖徳太子が活躍したころです。
古墳造りの専門技術者集団として活躍する土師氏の祖先が、出雲出身者だとする点は歴史的な事実とは食い違いがみられるのです。」
古墳時代の頃は出雲国と大和国は没交渉だったというのか。

★まとめ

『記紀』によれば我が国の古墳造営産業が組織されたのは垂仁天皇の時代で、
『古事記』では、「又其大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部。」現代的に言うと陵墓造営のため石材部と土木部を組織したと言うことである。
『日本書紀』では、「垂仁天皇卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命薨。臨葬有日焉、天皇詔群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」(埴輪の起源説話)。現代的に言うと窯業部が組織されて陵墓造営に必要な「石」、「土」、「埴」の専門職人が整い、陵墓の組織的造営が始まったと言うことである。
石材工事、土木工事、埴輪制作にはそれぞれ責任者がおり、それらをまとめた統括責任者もいたことと思われる。統括責任者については『日本書紀』に埴輪の起源に続き、
「天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。」と言い、『古事記』の「土師部」と『日本書紀』の「土部」はどう違うか問題ではあるが、「是土部連等、主天皇喪葬之緣也」というところを見ると、土部連(野見宿禰及びその子孫)が天皇喪葬の主導者と言うことなのだろう。従って、陵墓造営も野見宿禰及びその子孫が統括責任者と言うことで行っていたのであろう。
陵墓造営は統括責任者がどのような古墳を造るかを模型で示し、土木工事部門の担当者が模型を拡大して墳墓の外形を造り、石材工事部門の担当者が石室等の内部構造及び葺石等の外観を造り、最後に埴輪制作部門の担当者が円筒埴輪と形象埴輪を所定の場所に置いて完成となったのではないか。とは言え、埴輪しか造らない人(野見宿禰)が現代的に言うと剛構造物とも言うべき古墳を建造することができたかと言うことである。そこで野見宿禰は土師氏により大和朝廷から家伝の提出を命じられたさい創作された人物という説がある。
「まずその名前は、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案された。次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとした。最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承した。」と説く。ほかにも鳥取市の大野見宿禰命神社は因幡国高草郡能美郷に居住した土師部が奉斎したもの、と言い、あるいは大野見宿禰命などと言うのは後世の命名で本来は大野見明神とかいう地主神で野見宿禰なんて人物は因幡国にはいなかった、と散々な見解がある。また、「野見」は「鑿(ノミ、カンナのノミ)」に通ずと言う意見に対しても、上代特殊仮名遣いで「野見」は甲、甲であるのに対し、鑿は乙、乙で違うという見解もある。但し、甲、乙は方言の違いかもしれないので何ともいえない。私見で恐縮だが、野見宿禰よりは武内宿禰の方がまだましで、武内宿禰も創作上の人物というのが一般的であるが、「武内宿禰を「棟梁之臣」に任じた」というのは棟梁とは大工等のかしらを言い、「神功皇后が神田に儺河(那珂川)の水を引きたいと思い、溝を掘ったが大岩にあたった。武内宿禰が皇后に召されて剣・鏡を捧げ神祇に祈ると、溝は通じた。」というのは、武内宿禰は土方仕事にも強かった、「応神天皇の命でそれら韓人を率いて韓人池を造った。」とは土木工事が得意なのであり、「因幡国風土記』逸文によると、仁徳天皇55年3月に武内宿禰は360余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残して行方知らずとなった。」というのは因幡国へ石材工事の指導に行って現代的に言うと痴呆症のため行方不明になったと言うことか。兎にも角にも、野見宿禰という人は出雲国にあっても、因幡国にあっても影が薄い。朝廷が創作したものではなく土師氏が創作したものなのでその後のフォローが十分ではないようだ。例えば、神功皇后などは『記紀』の関係者が創作したと見え壱岐、対馬、九州北部にはたくさんのローカル説話が残されている。

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