大和朝廷中興の祖

★はじめに

『記紀』によれば、大和朝廷の創業者は神武天皇であり、中興の祖は崇神天皇と言うことになるらしい。『日本書紀』では、神武天皇は「始馭天下之天皇」と言い、崇神天皇は「御肇国天皇」と言い、いずれも読みは(はつくにしらすすめらみこと)と言うとある。文字が違うのに読みが同じとは腑に落ちない点もあるが、一応、大和朝廷の発展段階における創業者であり、中興の祖となるようである。もっとも、現今では『記紀』の当該天皇の記事につき史実と信ずる人は少ないようであり、
神武天皇について言えば、
「『日本書紀』の紀年法の誤りからきたもので、考古学的にみれば原始社会の段階における大和の一土豪として喧伝されてきた話を、こんな形で描いたものであろう。」とか、
「日向(ひゅうが)から東征して大和(やまと)に入り,橿原(かしはら)宮を営んで即位したというが、もとより史実ではない。」とか、
「神武天皇は、神の代から人の代への接点に位置する神話的な人物であり、即位の辛酉の年(紀元前660年)は中国の讖緯(しんい)思想によってつくられ、事績には神話的な色彩が濃く、史実を伝えるものはほとんどない」とか、散々である。
崇神天皇に関しては、
「同じ称号をもつ神武(じんむ)天皇に対して真の建国者とする説や、大和朝廷を確立した最初の天皇とする説などがある。」と言う友好的な見解もあるが、
「四道将軍の派遣については、そこに戦闘記事などが全くないことなどから見ても、事実ではないとするのが一般である。」とか、
「朝廷の北陸平定は飛鳥時代に入ってからであり、四道将軍派遣は事実ではない。」など、
「疫病の撲滅とか、四道将軍を派遣して国内を平定したとか、天照大神を大和の笠縫邑に遷したとか、盾と矛を捧げて墨坂神、大坂神を祭ったとか、また出雲大社の神宝を献上させたとか、多くの話がこの天皇の代のこととして語られる。いつの時代のこととして設定されているのかはっきり記述されていない、大物主神と倭迹迹日百襲姫との神婚説話もこの天皇にかかわる形で語られる。」など、
言わば、各氏族や地域から吸い上げた説話を崇神天皇の御代に繰り入れた<寄せ集めの事績>とでも言いたそうな見解が多い。
以上より見てみると我が大和朝廷の創業者も中興の祖も踏んだり蹴ったりという感じで、現代の専門家から見ると散々な目に遭っているというのが実情のようだ。それもそのはずで、文字もほとんどない時代に神武天皇から『記紀』ができるまでおおよそ600年~700年近くはかかっているだろうし、崇神天皇でも400年くらいはかかっているのではないか。そんな長期間は文字に記録されていたとしてもはなはだあやふやなことが多いだろうし、『記紀』の内容は嘘半分と言われても驚かない。特に、『日本書紀』は背伸びをして漢文で書いたようなので、筆者の中には中国や朝鮮半島の人もいるという説があり、まったく以て日本の歴史なんかは理解しておらず、故国の歴史書を丸写ししたような箇所もあるようだ。そこで、文字資料が調っている日本の『記紀』と中国の『魏志倭人伝』を比較してみることにする。

★『魏志倭人伝』と『記紀』

『魏志倭人伝』と『記紀』は同時代のものではなく『魏志倭人伝(正式には『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)』は、西晋の陳寿により3世紀末<280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間>に書かれた正史で日本の『古事記』(712)、『日本書紀』(720)とは400年ほどの時間差がある。その中で統治等に関するものとしては、

『魏志倭人伝』
①倭国の統治者として、邪馬壹國の女王と四等官とおぼしき官名があがっている。これらの人々が倭国政権の枢要の人々なのであろう。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
有男弟 佐治國
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之・・・自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國
復立卑彌呼宗女壹【臺】與年十三王 國中遂定 政等以檄告喩壹與

倭国のトップは邪馬壹國の女王で、名を「卑弥呼」という。卑弥呼の死後は壹與あるいは臺與。その下に、以下の四等官がおり、ほかに政策決定に関わっている人として弟がいる。
一等官 伊支馬、二等官 彌馬升、三等官 彌馬獲支、四等官 奴佳鞮、が記載されている。
遠く離れたところ(九州北部)に大倭、大率、伊都国国王もいるが中央政界に対する影響力は低かったようである。
ほかに、難升米、都市牛利、載斯烏越、掖邪狗、伊聲耆等がおり、現今で言う外交官のことかと思われる。難升米が外務大臣で都市牛利は次官か。外務省も後世の但馬国にあり、中国との交渉は中国語が堪能な渡来人が当たったと思われる。

②敵対勢力としては、狗奴国があり、

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和

狗奴国には男王・卑彌弓呼と官・狗古智卑狗があるという。

『古事記』
崇神天皇

*妃は木國造(名・荒河刀辨)の女、尾張連之祖の女、大毘古命の女。
*伊久米伊理毘古伊佐知(いくめいりびこいさち)命は天の下治しめしき。豊鍬入姫命は伊勢の大神の宮を拜(おろが)み祭る、倭日子(やまとひこ)命<此の王の時に始めて陵(はか)に人垣を立てき>。
*此の天皇の御世に疫病(えやみ)多(さわ)に起りて人民(おおみたから)盡きなんとす。
意富多多泥古の命を以ちて神主として、御諸山に意富美和の大神の前を拜(おろが)み祭りき。 また伊迦賀色許男命に仰せて天の八十毘羅訶を作らしめ天神、地祇(くにつかみ)の社を定め奉りき。 また宇陀の墨坂の神に赤き色の楯・矛を祭り、また大坂の神に黑き色の楯・矛を祭り、また坂の御尾(みお)の神、及び河の瀬の神、悉く遺(のこ)し忘るる無く幣帛(みてぐら)を奉りき。 此に因りて疫(え)の氣(け)悉く息(や)みて國家(くに)安平(やす)らぎき。意富多多泥古は意富美和の大神と活玉依毘賣の間の子。
*此の御世に大毘古の命は高志の道に遣わし、其の子、建沼河別の命は東の方十あまり二つの道に遣わし、また日子坐の王は旦波の國に遣わしまつろわぬ人どもを和平(やわ)さしめき。
*天皇の庶兄(ままね)建波邇安の王の反乱。
*初めて男(お)の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女(おみな)の手末(たなすえ)の調(みつぎ)を貢(たてまつ)らしめき。
*是の御世に依網(よさみ)の池を作り、また輕の酒折(さかおり)の池を作るなり。

『日本書紀』

*崇神天皇5年 疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
*崇神天皇6年 疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
*崇神天皇7年
2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
8月、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人がともに同じ夢を見る。
11月、夢の通りに大田田根子を大物主神の神主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神の神主としたところ、疫病は終息し五穀豊穣となる。
*崇神天皇10年
9月、四道将軍派遣、武埴安彦の叛乱
*崇神天皇11年
4月、四道将軍が戎夷を従わせて帰参、その様を奏上した。
*崇神天皇12年
9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と称えられる。
*崇神天皇17年
10月、献上品を運ばせるための船を作った。
*崇神天皇60年
7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが皇軍に誅殺される。
*崇神天皇62年
10月、依網池を造成。
11月、苅坂池と反折池を造成。
*崇神天皇65年
7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。

『記紀』の共通点としては①疫病が流行②四道将軍派遣③武埴安彦の叛乱④租税公課の制度の創設⑤依網池、酒折池(反折池)等を造成、があり、『日本書紀』だけのこととして①飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が誅殺される。②任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。
難癖をつければ切りがないが、疫病が神主の祈祷で治るものか、とか、大彦命と武渟川別命父子が現在の福島県会津若松市で合流したと言うが当時にあって大和朝廷の勢力がそんなところにまで及んでいたのか、とか、武埴安彦の叛乱がそんなに仰々しいものであったのか、とか、租税公課のことは『魏志倭人伝』にも書いてある、とか、溜池造成の話は後世のことを前倒しにしたのでは、とか、真実味のある説話は少ないようだ。残るは、造船、出雲国掃討、任那国との我が国初の国交樹立があるが、造船と言っても当時は丸木舟(構造船ではない)であったし、出雲国掃討と言っても大和朝廷による出雲国への再三にわたる掃討戦で出雲国は疲弊していただろうし、任那国との国交樹立と言っても民間外交は3000年も前から行われていたようだ。

★『魏志倭人伝』と『記紀』との突合

『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年」の『記紀』的な意味は神武天皇及び欠史八代の天皇が七八十年統治していたが、その後暦年(せいぜい五年くらいか)に渡り倭国は騒乱状態に陥り、卑弥呼女王の共立となった。
「官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮」の『記紀』的意味は、伊支馬(活目入彦五十狭茅、第十一代垂仁天皇か)、彌馬升(観松彦香殖稲、第五代孝昭天皇か)、彌馬獲支(御間城入彦五十瓊殖、第十代崇神天皇か。ミマカキは瑞籬<ミズカキ>宮の誤記か)、奴佳鞮(足仲彦、第十四代仲哀天皇か)で、三輪王朝即ちイリ王朝の天皇は中国人の目から見ると臣下であって国のトップではなかった。結論を言えば、崇神天皇、垂仁天皇の二代の天皇は天皇ではなく、卑弥呼女王(倭姫命)、台与女王(豊鍬入姫命)が国王であったのであろう。端的に言うと、欠史八代の天皇の次の天皇、あるいは、欠史八代の天皇と崇神天皇の継承が円滑に行かなかったと思われる。
また、卑弥呼女王の死後、『魏志倭人伝』では「更立男王國中不服 更相誅殺當時殺千余人 復立卑彌呼宗女壹【臺】與年十三為王 國中遂定」とあるが、この男王を卑弥呼女王の息子か、とする説もある。要するに、倭国は失礼ながら神武天皇以来の血統で繋がった天皇は劣化しはじめ、つれて卑弥呼女王は頭脳明晰な古参重鎮を遠ざけ、もし大倭や大率が大伴氏や久米氏を意味するのなら、両氏は現今でいう「飛ばし」にあって九州くんだりまでやって来たのではないか。最初の騒乱はともかく、卑弥呼女王逝去直後の誅殺事件は卑弥呼女王自身に原因があったのではないか。

★まとめ

景行天皇や応神、仁徳両天皇の出現にはそれなりの財力や武力が必要ではなかったか。いずれにしても景行、応神、仁徳の諸天皇は多かれ少なかれ大伴氏の資力に頼っていたことは間違いないと思う。しかし、そういう一人の人物や一団体に頼る組織運営はいろいろな意味で行き詰まるだろうから、多角化を、あるいは、ハードカレンシーが直接大和朝廷に入ってくる方策を検討しなければならなくなったと思われる。ここで垂仁天皇の年譜の主要なものを見てみると、

垂仁天皇3年 3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
垂仁天皇5年 10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
垂仁天皇7年 7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
垂仁天皇15年 8月、後宮に入れた丹波道主王の女たちから日葉酢媛を皇后とした。
垂仁天皇23年 鳥取部、鳥養部、譽津部が設けられた。
垂仁天皇25年 3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
垂仁天皇27年 8月、諸神社に武器を献納し神地・神戸を定める。 来目(奈良県橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。
垂仁天皇28年 殉死の禁令。
垂仁天皇32年 7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風習に替えて埴輪を埋納する(埴輪の起源説話)。
垂仁天皇35年 五十瓊敷入彦命に河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。
垂仁天皇39年 10月、五十瓊敷入彦命が剣千振を作り石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
垂仁天皇90年 2月、天日槍の玄孫の田道間守に命じて常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。

以上は『日本書紀』より。

其の大后、比婆須比賣の命の時に、石祝作(いしつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めき。

以上は『古事記』より。

言うなれば、武器、剣などを神社に献納する話があるが、これは神社を武器庫として使用したためか。新羅の王子・天日槍命の来朝の話。外国との交易を盛んにしようとしたものか。丹波道主王の女の日葉酢媛を皇后とした。丹波の何らかの技術を取り入れようとしたものか。屯倉の設置。朝廷の財政基盤を確実なものにするためか。地溝の開拓。農業の普及か。倭姫命の伊勢神宮の創建。朝廷神道の確立か。特に、『記紀』ともに取り上げているのは、古墳に関する話で、『古事記』では「比婆須比賣の命の時に、石祝作(いしつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めき。」とあり、『日本書紀』には「野見宿禰が進んで曰く」として、殉死(殉葬)は良くないとして、埴輪で代用するように進言した。石作部、土師部の制度創設をもって本格的な陵墓造営事業が成立したのであろう。ところで、その陵墓造営事業を起こした比婆須比賣命とは何者なのだろう。父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女と言い、景行天皇は垂仁天皇と比婆須比賣命の間の子と言う。何やら信じがたい面もある。当時の弥生時代末期の弥生墳丘墓の先進地域は吉備国と出雲国がある。吉備の代表例としては岡山県倉敷市の楯築弥生墳丘墓があり、出雲では四隅突出型弥生墳丘墓が著名で、代表例として島根県出雲市の西谷3号墳弥生墳丘墓がある。ほかに比婆須比賣命の出身地とされる丹波(丹後)に弥生時代終末期に大型墳丘墓が現れ京都府京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳墓が有力な弥生墳丘墓である。山陰の出雲、丹波の墳丘墓がいずれも方形の墳丘墓なのに対し、楯築弥生墳丘墓は「直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。」また、特殊器台・特殊壺、壺型土器(円筒埴輪の起源か)もあると言うので、円墳と方墳を合成したような前方後円墳は楯築弥生墳丘墓をモデルにしたものかとも思われるが、厳密に言うと形状も違い前方後円墳は畿内で突如として発生した、と言う見解が根強い。そこで日葉酢媛命の役割だが、女性が土木建設業を興すというのは当時にあってもはなはだ難しく思われ、垂仁天皇が実際に朝廷主導による陵墓造営事業を起業し、朝廷の直轄事業として推進したのではないか。そして、垂仁天皇、日葉酢媛命皇后お二方の出身地だが、お二人とも吉備国の出身ではなかったか。垂仁天皇は後世の備前国(→美作国)久米郡久米郷(津山市くめ等)の出身か。日葉酢媛命は備中国賀夜郡日羽郷(総社市日羽)の出身か。円筒埴輪のうち、普通円筒埴輪(器台だけから成る)は吉備国発祥と言われ、朝顔形円筒埴輪は墓前に供える壺と器台が結合したもので吉備国出身の垂仁天皇夫妻の影響によるか。
おそらくこの邪馬台国(大和国)と狗奴国(吉備国)の調停交渉は大伴某と狗古智卑狗との間で行われたと思うが、大伴某は調停に入る前に狗奴国の外堀を埋めるべく狗奴国側の有力重臣を自陣に引き入れたかと思われる。伊支馬(活目入彦五十狭茅、第十一代垂仁天皇か。美作国久米郡久米郷)、彌馬升(観松彦香殖稲、第五代孝昭天皇か。飾磨と名づけたわけは、大三間津日子命(おほみまつひこのみこと)がこの所に屋形を造って住まわれている時に、大きな鹿があって、鳴いた。その時、王は「鹿鳴くかも」と勅された。ゆえに飾磨郡(しかまのこほり)と名づける。また、阿波国名方郡には「御間津比古神社」<祭神、御間津比古色止命>がある。御間津比古色止命は長<なが、なか>国造の祖先<大国主命の子孫という>とされるが、播磨国の大三間津日子との関係は不明。多数は双方とも孝昭天皇と解するようだ。)、彌馬獲支(御間城入彦五十瓊殖、第十代崇神天皇か。ミマカキは瑞籬<ミズカキ>宮の誤記か。美作<ミマサカ>の転訛か。)、奴佳鞮(足仲彦、第十四代仲哀天皇か。中臣印達神社の神官か。中臣は地名で<ナカジン>と読み、中陳とも書いた。たつの市揖保町中臣。あるいは、元々は徳島県の那賀川流域の人か。)はいずれも播磨から吉備にかけての人と思われ、「卑弥呼後」のことも視野に入れて調停工作に当たったが、中には大伴某はすぐにも大王(おおきみ)にしてやると言ったなどとごねるものもいて卑弥呼女王もカンカンになり、大伴某を九州に飛ばし、大伴某がいないのでそんなことを言ったかどうか解らない、とか言って四人をなだめたのではないか。但し、四人は『記紀』ではいずれも大王(天皇)になっている。
だらだらと恐縮なので結論を言うと『記紀』では、大和朝廷の中興の祖は崇神天皇のように記されているが、両天皇は似たところもあるが、やはり天日槍の来朝、鳥取部・鳥養部・譽津部の設置、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す、諸神社に武器を献納、来目に初めて屯倉を興す、殉死の禁令、殉死の風習に替えて埴輪を埋納、池溝の開削、剣千振を作り石上神宮に納める、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)の輸入、特に、『古事記』の「比婆須比賣の命の時に、石祝作(いしつくり)を定め、また土師部(はにしべ)を定めき」とあるのを、一言でまとめれば「富国強兵」策とでも言うべきもので、大和朝廷の財政、軍事の基盤をそれまでの諸豪族に頼った他力本願的なものから朝廷主導の自力本願的なものに変えたのではないか。

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