氷川神社と兄多毛比(2-2)

兄多毛比命について文献に出てくるのは1)国造本紀と2)高橋氏文である。

「国造本紀」についてはその実体の「先代旧事本紀」が偽書とされ、また、こと兄多毛比命に関する限りその任命者(成務天皇)、その先祖(二井之宇迦諸忍之神狭命、兄多毛比命はその十世の孫という)についてははなはだ疑問だ。兄多毛比命の九代も前にそんな長たらしい意味不明の先祖がいたなんて考えられない。

また、高橋氏文には、景行天皇が皇后とともに後の安房国へ旅行した際、食事の相伴係として无邪志国造の上祖大多毛比(エタモヒと読むがオホタモヒと読む説もある)と知々夫国造の上祖天上腹、天下腹等を呼んだ、とある。

ここでも理屈をこねる人は理屈をこねるものであり、兄多毛比命は「国造本紀」では成務天皇の御代に出雲から武蔵に来たことになっているのに、「高橋氏文」では既に景行天皇の御代に无邪志国造であったかどうかは別にして、无邪志の人であったことは間違いない。従って、兄多毛比命は元々无邪志の人であり、「国造本紀」に言う出雲族説はでたらめと言うことになる。

兄多毛比命は氷川神社を始め武蔵国のあちこちの神社で社伝ないし由緒に出てくる名前である。原典は神職に好まれたという「国造本紀」かと思うが、以下例を上げると、

1.人見稲荷神社 府中市若松町

御祭神は倉稲魂命、天下春命、瀬織津比咩命三柱にして、武蔵国造兄武比命の祀られし社なと

伝う。(社頭案内板)

2.小野神社 府中市住吉町

人皇三代安寧天皇ノ御代、御鎮座。祭ル所天下春命大神也・・・出雲臣祖二井諸忍野神狭命ノ十

世兄武日命、始テ此懸ノ国造ト成玉フ時、

御祖神タル故、此地ニ勧請鎮守トナシ給フ(式内社小野神社由緒、正和二年(1313)秋七月神主澤

井佐衞門助藤原直久)

人見稲荷神社は小野神社を分祀したものか。稲荷神社を、後世、追祀したものであろう。また、いずれも「兄多毛比命」を「兄武比命」と読み間違えあるいは書き間違えしている。おそらく原典は藤原直久の由緒書にあるのだろう。「毛」の字は、ケ乙類とモ甲類があるようだが、万葉集ではほとんど「モ」と読むようだ。ケと読むのは毛野(ケノ)国ほかわずかだ。従って、兄多毛比は「エタモヒ」であって「エタケヒ」ではあるまい。

兄多毛比命は伝承では現在の埼玉県にも東京都にもその足跡があるが、資料が少ないので恐縮だが稲荷山古墳出土鉄剣でもその痕跡は認められない。しからば、兄多毛比命は架空の人物なのだろうか。国造本紀は偽書のレッテルを貼られているので、さもありなんだが、高橋氏文は何を根拠にかような文章(无邪志国造上祖大多毛比)を書いているのか。おそらく「国造本紀」は高橋氏文の後にできた歴史書であり、「国造本紀」を参照したとは考えられない。国造本紀が兄多毛比命を国造としているのに対し、高橋氏文は大多毛比を无邪志国造の上祖としている。此方の方が事実に近いと思うが、稲荷山古墳出土鉄剣にその名がないところを見ると今の埼玉県には居住していなかったのではないか。足立郡、埼玉郡、及び、上野国の一部(現在のJR高崎線沿い)は大彦()を始祖とする一族が支配していて出雲族が進出する余地はなかったのではないか。それに対して、出雲族は出雲伊波比神社とか出雲乃伊波比神社とかがある(但し、創建時より神社名に出雲がついていたかは疑問)入間郡とか男衾郡、はたまた、多摩郡とか現在のJR八高線に沿って入植したのではないか。従って、兄多毛比命が氷川神社を専ら奉崇したという氷川神社の社伝ははなはだ疑問だ。

それでは、兄多毛比命はどのような人物だったのだろうか。一説に弟がいて乙多毛比命と言ったと言うが、これは兄多毛比命と言う名に引きずられた説であろう。また、一説に相武国造の弟武彦命のことと言うが、祖先が少し違うような気がする。もっとも、国造本紀は当てにならないので何とも言えない。ここでは、「兄」の文字を兄多毛比と一続きの一文字と解する見解と、兄・多毛比、乙・多毛比の形容語として扱う二説に基づいて考察してみる。

兄多毛比(エタモヒ)と一語に解する説によると、「イ」と「エ」は混用するところは少なくないので「エタモヒ」を「イタモヒ」と解すると、イタモのタモの意味であるが、タマ(多摩)、ツマ()、トモ()とも考えられる。また、少し仰々しくなるが「魏志倭人伝」に不弥国とあり、そこの官に多模(タモ、タマもしくはトモ)というのがある。多摩も妻も鞆も同じ意味で海なら海に突き出た半島のようなところ、陸なら丘陵地帯の平野との境のところかと思う。発音が違うのは一種の方言なのではないか。従って、イタマ、イツマ、イトモも同じ意味でイトモ→イツモ→イヅモ→出雲で、兄多毛比(エタモヒ)とは出雲日、出雲霊、出雲氷などの漢字を当てることができるか。この場合、兄多毛比(エタモヒ)は出雲族の可能性が高いか。なお、高橋氏文にある大多毛比がオホタモイと読むのならこちらは大彦と同族なのか。兄多毛比命と大多毛比は別人となる。また、魏志倭人伝の「多模」を「タモ」と読むなら、エタモイは地方官の長官(国造)か。且つ、魏志倭人伝では国々の官名が統一されていないので、不弥国は出雲国の出先機関で、多模とは出雲国の官名であったのでは。即ち、やはり兄多毛比命は出雲の出身だったか。

兄・多毛比の意味と解するなら多毛比が意味の中心になる。武蔵国には現在の東京都多摩地域のほか埼玉県にも玉ノ井村(熊谷市玉井)、玉川郷(比企郡旧玉川村玉川)、玉敷神社(北埼玉郡騎西町)、玉太岡(東松山市岡)など玉のつく地名が多い。或いは、多摩の地域が今の多摩から埼玉県までに及んでいたのか。即ち、多毛比は多摩比のことか。理屈を付ける人は多毛比となっているのに、何で多摩比となるのかと言うのかも知れませんが、「モ」と「マ」は口の開け具合によって多毛比とも多摩比とも聞こえる。この場合は、兄多毛比命は武蔵国の出身になるか。

当時の武蔵国は現在のJR高崎線に沿った埼玉郡や足立郡などを地盤とした集団と現在のJR八高線沿いの入間郡や男衾郡などを地盤にした集団があったことは間違いがないと思う。武蔵国には无邪志国造と胸刺国造とがいたと言うが(但し、武蔵国に同じ胸刺(むさし)、无邪志(むさし)を名乗る国造がいたとは思われないと言う見解も根強い)大彦系の国造と兄多毛比系の国造のことではないか。また、高橋氏文では景行天皇が无邪志国造の上祖と知々夫国造の上祖を招いたと言うが、お隣同士の国造で仲が良かったからではないか。ないしは、无邪志国造と知々夫国造とは同族か。

ここで、武蔵国造に所縁のある主なる神社について見てみると、

氷川神社 その分布図で見てみると、埼玉県や東京都でも荒川区、北区、板橋区などの埼玉県に接する地域に多い。ほかにも散見するが後世の人の移動によるものであろうか。

「・・・成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し・・・」埼玉県さいたま市(旧大宮市)

小野神社 「兄多毛比命が武蔵国国造となった時、御祖神としてこの地に勧請祭守された」東京都府中市

大国魂神社 「・・・出雲臣天穂日命の後裔が初めて武蔵国造に任ぜられ当社に奉仕してから代々国造が奉仕して・・・」東京都府中市

氷川神社と小野神社は新旧の武蔵国一の宮で、いずれも兄多毛比命との所縁を説いている。

特に、小野神社の説明では小野神社の祭神は天下春命と瀬織津比売命でこの説明では或いは兄多毛比命は知々夫国造と同族か。しかし、小野神社の祭神は本来瀬織津比売命一座という説もある。小野とは小野郷からの神社名と言うが、小野とか瀬織津比売命とか何か滋賀県に関係があるように思われる。古代豪族小野氏は滋賀県の出身(近江国滋賀郡小野村)と言うし、瀬織津比咩命は滋賀県の神社に祀られることが多い。例として、佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)名神大社、天智天皇8年中臣朝臣金連が創建、河桁御河辺神社など。小野郷も小野神社も大化の改新後小野氏が近江から武蔵へ導入したものではないか。何せほかの多摩地域の式内社は出雲系の神を祀る神社が多いのに(例として、阿伎留神社、阿豆佐味天神社、穴澤天神社、布多天神社)、小野神社ばかりが特殊な神々を祀っている。案ずるに、やはり武蔵国には今の東京都府中市界隈に出雲系の国造と埼玉県行田市界隈に土着の大彦を祖とする国造がいたのではないか。二人の国造がどのくらい並立していたのかは分からないが、棲み分けとしては。出雲系の国造が多摩川以北の多摩地域から児玉郡までを結んだ地域ではなかったか。児玉(こたま)郡は、かたま郡の訛りで彼方(遠方)の多摩という意味では。これに対し大彦系の国造は埼玉郡、足立郡及び今の東京23区あたりが地盤ではなかったか。安閑天皇の御代武蔵国造笠原直使主が屯倉として横淳(武蔵国横見、今、比企郡吉見町)、橘花(武蔵国橘樹、今、川崎市住吉)、多氷(氷は末の誤りとし、武蔵国多摩郡)、倉樔(樔は樹の誤りとし、武蔵国久良()郡、今、横浜市)の地を朝廷に奉ったというのも、横淳は別としてみんな今の多摩川以南の地であろう。多氷は今の多摩市あたりかと思う。また、横淳も横見ではなくどこか今の多摩川以南にある神奈川県の地ではないか。要するに、武蔵国と言っても今の神奈川県は統治の範囲外だったのではないか。この時、まだ出雲系の国造がいたかどうかは不明である。

以上より「兄多毛比命」のことをまとめてみると、

1.読みは「エタモヒ」では。

(エ)は、「大」の意味であり、多毛(タモ)は、多模(タモ)であり、出雲国で言う地方長官(大和国で言う国造か)、比(ヒ)は、彦や姫のヒで、意味するところは広く「人」の意味か。これを漢字で書くと「大官人」となり、魏志倭人伝に言う「大官」と同義か。

2.兄多毛比命はどこから来たか。

やはり名前からして出雲国からではないか。出雲国から出雲族が多い今の長野県諏訪地方、山梨県、奥多摩を経由して武蔵国に入ったのでは。

3.兄多毛比命はどこに住んだか。

東京都府中市か。大国魂神社は延喜式神名帳には載っていないが、古くからあった神社のようで、祭神の大国魂大神は大国主命のことであるという。延喜式神名帳に記載されている多摩地域の神社も多くは出雲系の神を祀っており、その中心となる地域ないし神社だったのではないか。後世、武蔵国の国府に選ばれたのも神社の建物自体が出雲の杵築大社と同じく壮大なものだったのがその理由ではないか。

兄多毛比命は今の府中市に定住後、その開拓の進路を多摩川を下流へとは向かわず、今のJR八高線を北上し現在の埼玉県本庄市児玉町へととったのではないか。もっとも、多摩川沿岸には古墳が多いので、その築造者が出雲族だったかは一考を要する。

4.「国造本紀」に、胸刺国で兄多毛比命の息子の伊狭知直が国造になったとするが、これは、伊狭知直が兄多毛比命の後を継いだことを意味するのであり、无邪志国は兄多毛比命が、胸刺国は伊狭知直が、国造になったとするのは誤りではないか。

5.武蔵国造家であるが一般には、兄多毛比命直系→一族の笠原氏→一族の物部氏→一族の丈部氏となったと思われており、記録では辛巳年(633)物部連兄麻呂が武蔵国造に任命された(聖徳太子伝暦)とあり、また、神護景雲元年(767)足立郡の人、丈部直不破麻呂が武蔵国造に任命された(続日本紀)とある。この場合、笠原氏と丈部氏は大彦の子孫であり、物部氏が兄多毛比命の子孫ではないか。従って、无邪志国では大彦直系、笠原氏、丈部氏が間断なく続き、胸刺国では兄多毛比命直系、物部氏が続いたのではないか。最後に丈部氏が両国を統合したか。なお、物部氏が国造になって、その国造としての始祖である兄多毛比命を祀らなかったのはなぜなのだろうか。また、兄多毛比命の息子が国造になった国として胸刺国、菊麻国、波伯国、大嶋国が挙げられるが、胸刺国、菊麻国は今の関東で問題がないとしても、波伯国と大嶋国は今の山陰や山陽で関東にいた人の子どもがどうして中国地方に行ったのだろうか。胸刺国造の祖が岐閉国造の祖兄多毛比命の子というのもどういうことなのだろう。単に書き間違い、写し間違いという説もあるが、兄多毛比命が複数いたことも考えられる。この場合、兄多毛比命なんて人名のごとき言っているが、あるいは「兄多毛比」とは単なる官名を言ったものかも知れない。

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