海の神

★はじめに

我が国は戦後の一時期までは水産業が主要産業の一つで、かつ、漁獲量世界一の国でもあった。しかし、ここで議論をするのは古代の漁業や航海のことで一説によると我が国では貝塚から発掘される魚貝類の遺物から、すでに縄文初期には、今日われわれが食用としている魚貝類をほとんど利用していた、と言う。従って、漁業は我が国採取経済のはじめより動物性タンパク質摂取の先端産業だったようだ。しかも、縄文時代からと言うので東日本がその中心地だったのだろう。しかし、我が国の古代の歴史書『記紀』などをひもといても東日本の漁業の実態はまったく以て出てこない。当時の西日本の漁業技術がどれほど優秀なものかはわからないが、漁業、航海の神として以下の神が出てくる。

①大綿津見神・大海神(オオワタツミ)と 綿津見大神(豊玉彦) 二神は若干ニュアンスの違う神名で出てくる。
その1 大綿津見神 神産みの段で伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)・伊邪那美命(伊弉冉尊・いざなみ)二神の間に生まれた。
但し、『記紀』において伊弉諾尊は須佐之男命(素戔嗚尊・すさのを)に海を治めるよう命じている。
その2 綿津見大神 海幸彦山幸彦の段で山幸彦が海幸彦の釣針をなくして困っていた時、塩土老翁の助言で綿津見大神(豊玉彦)の元を訪れた。
大綿津見神と綿津見大神(豊玉彦)との関係ははっきりしないが、一般には同一神と考えられている。
山幸彦(火遠理命・彦火火出見尊)は綿津見大神の娘である豊玉姫と結婚している。彦火火出見尊と豊玉姫命の子に彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあわせず の みこと)がおり、神武天皇の父という。

②綿津見三神
伊弉諾尊が黄泉から帰って禊をした時に、ソコツワタツミ(底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ(中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ(上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。この三神は大綿津見神とは別神である。
禊をした場所は、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と言う。具体的な場所については定説はない。
綿津見神の子孫としては、
『古事記』神代記には、綿津見神の子で阿曇氏の祖として「宇都志日金拆命」の記載があり、穂高神社側ではこれを穂高見命の別名としている。
宇都志とは現世・現実のこと。日金は信濃国更級郡の氷銫斗賣(ひかなとめ)神社の氷銫、拆は信濃国佐久郡とする説あり。
『新撰姓氏録』には、1.右京神別 安曇宿禰 – 海神綿積豊玉彦神の子の穂高見命の後。2.右京神別 凡海連 – 海神綿積命神の男の穂高見命の後。3.河内国神別 安曇連 – 綿積神命の児の穂高見命の後。以上三流の綿津見神の子孫が載っている。但し、これでは穂高見命が豊玉彦神(大綿津見神)の子なのか、綿積神命(綿津見三神)の子なのかは解らない。
阿曇氏に関しては、神功皇后の三韓出兵に同行した阿曇磯良がいる。但し、阿曇磯良は『志賀海神社社伝』や『八幡愚童訓(石清水八幡宮縁起)』に出てくるが、正史の『記紀』には出てこない。あるいは『日本書紀』(応神紀)や『筑前国風土記』逸文に出てくる阿曇大浜が伝承の正統か。『筑前国風土記』逸文には大浜宿禰の弟か何かは解らないが小浜という人物も出てきて五色塚古墳(ごしきづかこふん、千壺古墳<せんつぼこふん>)と小壺古墳の説明もつけやすいし、淡路島の阿曇浜子という後世の淡路島の海人の長との関連も図られる。
「民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある(磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。」などと言われているが、これらはやや眉唾の話で神功皇后は架空の人物で、磯良は応神天皇の朝鮮遠征に従った人物ではないか。応神天皇帰還の際には、天皇は磯良の有能さを認め畿内に同道させたのではないか。『日本書紀』に、応神天皇のとき、阿曇連の祖大浜宿禰を遣わして諸所の海人の騒ぎを鎮めさせ、宿禰を〈海人之宰(海人の統率者)〉としたとある。磯良と大浜は名前が違うではないかと言う向きもあるかと思うが、磯も浜も海岸沿いの地で、良(ら)、大(おお・多)は複数をあらわし、たくさんの港を支配した者の意ではないのか。あるいは、大浜は磯良の息子か。 阿曇氏の居住地は応神天皇や仁徳天皇、大伴氏などと同じ摂津国だったと思われる。ハッタリの『高橋氏文』とは違い、阿曇氏は戦渦広がる戦場をものともせずに出陣し、操船の技術も高く、漁業・調理にも優れ、勝負の瀬戸際にいる諸将にとっては「高橋(膳)はもういい」となったのではないか。なお、『新撰姓氏録』には摂津国の阿曇氏がないようだが、『播磨国風土記』には、阿曇百足たちが難波の浦上(うらかみ)というところに住んでいたとか、また摂津国難波には安曇江(『続日本紀』によると天平16年(744)2月難波に滞在中の聖武天皇が安曇江に行幸している)や安曇寺(現在の高麗橋にあったという説がある)があったと言う。

③住吉三神
伊弉諾尊が黄泉から帰って禊をした時に、ソコツツノオノカミ(底筒之男神)、ナカツツノオノカミ(中筒之男神)、ウワツツノオノカミ(上筒之男神)の住吉三神(住吉大神)も一緒に生まれている。

④宗像三女神
天照大神と素戔嗚尊が誓約(うけい)をして子を生むことにした。天照大神は素戔嗚尊の剣を受け取ると、そこから宗像三女神の三柱が生まれた。三女神は素戔嗚尊の物実から生まれたので素戔嗚尊の子である。天照大神の三女神に対する神勅は「道中(みちのなか)に降居(くだりま)して天孫(あめみま)を助け奉(たてまつ)りて天孫に祭(いつ)かれよ(道中に降り、天孫(=天皇)を助け、天孫から祭祀を受けなさい)」と言うもの。一般に言う航海安全の神と言うべきものであろう。しかし、宗像神の信徒は海人族即ち漁師で航海安全の神などと言うのは朝廷のための後講釈の感を免れない。

⑤和邇氏
和邇氏については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある一方で、「対馬では今でも、大型の舟を「ワニ」、小型の舟を「カモ」と言い、「ワニ・和邇氏」というのは大きな船を持って遠洋航海できる氏族という意味なのか。」という見解もある。また、「和邇氏の遠い祖先が隠岐・因幡に住む航海技術を持った一族であった。」など、和邇氏を漁業系の海人族と見る向きもあるが、そうだとしてもほかの海人族に比べ影響力が少ないようなのでここでは割愛する。

★綿津見三神と住吉三神

綿津見三神と住吉三神は人間で言うと言わば双子で生まれたようなものである。人間なら双子でも全然問題ないのであるが、神様の世界では双神はあり得ないとばかりに綿津見三神と住吉三神は本来は一神である、と曰う説がある。そもそも双子で生まれたというのもおかしな話だが、「神功皇后が住吉大神(すみよしおおかみ)の御加護を得て大いに国威を輝かせられたことにより御鎮祭になりました。」と言うのも住吉の地名が畿内発祥と思われるのに、 住吉神社(福岡市博多区)・住吉神社(山口県下関市)・住吉大社(大阪市住吉区)の創建順になっている。もっとも、福岡市の住吉神社社記(筑前国住吉大明神御縁起)では、この住吉神社が鎮座する地を住吉神の生まれた阿波岐原(あはきはら、檍原)の古跡に比定する。これをもって『住吉神社略誌』では上古よりの鎮座として「住吉本社」または「日本第一の住吉宮」であるとし、全国2千数百社ある住吉神社の始源であるとしている。それっぽいが、しかし、畿内の住吉神社では神戸市の本住吉神社が本家筋を唱えている。本住吉神社の泣き所は『延喜式神名帳』に登載のないところで、福岡、下関、大阪の住吉神社に比べ説得力がないことになる。そもそも、漁業関係者の神社が多いところは対馬、壱岐、九州北部(下関もここに入るのだろう)で、阿曇氏が志賀島から応神天皇とともに畿内にやって来たとき、綿津見三神が神名を変えて住吉三神になったとも考えられる。とは言え、綿津見三神と住吉三神ではその神名において意図するところは違うように思われる。即ち、
綿津見神は、ソコツワタツミ(底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ(中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ(上津綿津見神、表津少童命)の三神
住吉神は、ソコツツノオノカミ(底筒之男神)、ナカツツノオノカミ(中筒之男神)、ウワツツノオノカミ(上筒之男神)の三神
となっているが、上・中・底の区分けは同じものの、神名の本体は「綿津見神」と「筒之男神」と違う。綿津見は海洋と解して海神と考えられるが、筒之男は意味不明である。
「筒」の辞書的意味については、

① 丸く細長く中がからになっているもの。くだ。管。
② 銃身。砲身。 「 -先」
③ 小銃。大砲。 「大-」 「捧げ-」
④ 井戸がわ。井筒いづつ。
⑤ 轂こしきの異名。
⑥ 俵にさしこんで米や麦を出すために用いる、先をとがらせた竹。米さし。
⑦ 酒などを入れる竹筒。ささえ。
⑧ 和船で、帆柱の受け材。
古語では「丸く細長く中がからになっているもの。くだ。管。」と「井戸がわ。井筒いづつ。」で使われるようである。
地名や人名では「筒川」「筒井」「筒江」があるが、川、井、江などは川を表す言葉で、筒は何か川に包(つつ)まれた(囲まれた)土地を言うのか。包(つつ)を筒(つつ)の字で代用したか。また、住吉も古くは「スミノエ」と読んだようで漢字で書くと「澄みの江」となり、意味は「清く澄んだ川」ほどの意味と言う。従って、住吉にしても筒之男にしても漁業とは関係がなく本来の意味は住吉(澄川)から導水管を引き飲料水やほかの生活用水に利用したことを言ったものか。上、中、底の意味は取水管の口が川の中でどこにあるかを言ったものか。サイフォンの原理を利用して川の水をくみ上げたか。
以上より綿津見三神と住吉三神は起源を異にし、一方は海の神と考えられ、他方は川の神と思われる。

★東日本の漁業の神

東日本や北日本の漁業や航海の神は日本の文献には出てこない。しかし、第二次世界大戦後、山内清男元成城大学教授が「アメリカのカリフォルニア沿岸のインディアンに、ドングリとマスを貯蔵して生活する集団がいることに注目し、1947年頃から、東日本と西日本のサケ・マス類の漁獲量の違いを根拠に、西日本においてはドングリによる生業しか成り立たず、一方の東日本にはドングリに加えてサケ・マスを漁獲して保存することができたために、食料に余裕が発生したと主張して、東日本の縄文時代の遺跡が西日本よりも格段に多い理由をサケ・マス論に求めた。」(Wikipedia)
そこで、私見はサケ・マスがそんなに重要な食料なら稲魂(倉稲魂命)信仰と同様サケ・マスを神と崇める宗教があってもいいのではないかと思いインターネットで検索したところ、
マルハニチロ株式会社のサイトに以下のような一覧表があった。

日本にはサケの上ってくる川がある地方には「サケ」をお祭りしている神社や「サケ」に関係する神社やお寺が数多くあります。ここではその代表的なものをピックアップしました。
岩手県宮古市津軽石(つがるいし) 月山神社、黒崎神社
山形県中山町岩谷 十八夜観音堂
山形県河北町溝延(みぞのべ) 阿弥陀寺
山形県尾花沢市 御所神社
山形県真室川町小国(おぐに) 大日堂
千葉県香取市山田町 山倉神社、観福寺
石川県珠洲市(すずし) 辛鮭(からざけ)の宮
京都府舞鶴市(まいづるし) 大川神社野々宮社
福岡県嘉麻市(かまし) 鮭神社
縄文時代などは今より平均気温が2℃ほど低く、九州でもサケが捕れたようである。但し、サケは神と言うことで食べないところもあるとか。漁業に関する限り東日本は即物的なところがあり、サケを抽象的な神に昇華することなく、サケそのものを神と崇めたようである。

★まとめ

我が国の海人が祀る祭神は綿津見三神と住吉筒之男三神に定着するまでは紆余曲折があったようで博多湾岸の綿津見三神と大坂湾岸の住吉筒之男三神に収束するまでいろいろな海神がいたのであろう。後世になると海神は漁業の神と航海の神がセットになって祀られるが、おそらく綿津見三神が上・中・底の三神をセットにしているのは元々は潜水漁法の漁師の神ではなかったかと思われる。但し、「綿津見神」は海の神の象徴として創作された神という説もある。
翻って、東日本の海神を考えるとおそらく自然崇拝的要素が強く、今は神の使いとなっているハタハタ、鯉、リュウグウノツカイなども神使(しんし)ではなく古くは神として崇められる存在だったのではないか。しかし、「背に腹はかえられぬ」で、縄文人といえども空腹時には周りの食べられる物は何でも食べなくちゃあと言うことで、神である魚を神使に格下げして食欲を満たしたのではないか。

綿津見三神と住吉筒之男三神は神功皇后と直接繋がることが多い。
1.綿津見神社 福岡市東区三苫(みとま)
鎮座由来 香椎宮旧記に、神功皇后が韓半島攻撃のために渡航した時、対馬を出港した時に、急に大雷雨、大風、大波が起こって危険な状態になった。
その時、船にあった苫(とま)三枚を海中に投入し、いつどこであれ、この苫が流れついたところに社を建てて、拝祭しますと海神に祈った所、たちどころに風波が治まり、征韓の大業を易く終えて、凱旋された。
2.海神社 神戸市垂水区宮本町
神功皇后が三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって船が進めなくなったので、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、その縁でこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まりという。
『日本書紀』には広田神社・生田神社・長田神社につきほぼ同様の創建の記述がある。但し、いずれも祭神は綿津見三神ではない。
3.風浪宮 福岡県大川市酒見
神功皇后が新羅親征よりの帰途軍船を筑後葦原の津(大川榎津)に寄せた時、皇后の御船のあたりに白鷺が忽然として現われ、艮(東北)の方角に飛び去った。皇后はその白鷺こそ我が勝運の道を開いた少童命の御化身なりとして白鷺の止る所をつけさせられ、其地鷺見(後の大川市酒見)の里を聖地とし、武内大臣に命じて仮宮(年塚宮)を営ませ、時の海上指令であった阿曇連磯良丸を斉主として少童命を祀りました。
4.住吉神社(福岡市)、住吉神社(下関市)、住吉大社(大阪市)
住吉神社(福岡市)
『日本書紀』において新羅征討以前に神功皇后が依網吾彦男垂見に対して住吉神の神主を命じたとする記事を当社の創建記事とする。但し、神功皇后の新羅征討譚では当社は直接には出てこない。
住吉神社(下関市)
三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたいほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。<從軍神、表筒男・中筒男・底筒男三神、誨皇后曰「我荒魂、令祭於穴門山田邑也。」時穴門直之祖踐立・津守連之祖田裳見宿禰、啓于皇后曰「神欲居之地、必宜奉定。」則以踐立爲祭荒魂之神主、仍祠立於穴門山田邑。>
住吉大社(大阪市)
住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。皇后は大和への帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進まなくなったため、務古水門(むこのみなと:兵庫県尼崎市武庫川河口)で占うと住吉三神が三神の和魂を「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るように託宣を下した。そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという。<亦表筒男・中筒男・底筒男三神誨之曰「吾和魂、宜居大津渟中倉之長峽。便因看往來船。」於是、隨神教以鎭坐焉。則平得度海。>

以上より判断するなら、住吉筒之男三神は大坂湾岸発祥の海神であり、綿津見三神は九州北部出身の海神かと思う。『延喜式』神名帳(927年成立)において摂津国・播磨国・長門国・筑前国・壱岐国・対馬国にそれぞれ住吉神社の記載があるが、これは後世の遣唐神主が寄港地ごとに祭壇を設けるのが面倒なので固定した施設として神社を造ったという説もある。
綿津見三神の本拠地「志賀海神社」は志賀島の海人族(志賀族)の志賀神社と対馬の阿曇海人族の奉じる「海(わたつみ)神社」の「海神(わたつみのかみ)」が合併して誕生したものという説がある。但し、対馬の「海神(わたつみのかみ)」は本来は豊玉彦命系の神で阿曇氏の綿津見三神とは違うと思う。因みに、「志賀(しか)」とは漁場とか好漁場という意味との有力な説もあるが、言語学的な裏付けがないとかで、通説はスカの転で「州処(すか)」つまり砂州や砂丘のあるところと解している。そもそも、アヅミはアヅ(崩壊地形)、ミ(接尾語)で海食崖のことと言う説もある。穂高見神は九州ではほとんど祀られていないという。
畿内の阿曇氏の本拠地は「海(わたつみ)神社」(神戸市垂水区宮本町)で、五色塚古墳はあるいは阿曇磯良の墓か。しかし、多数説は「乃詳為天皇作陵、詣播磨興山陵於赤石。仍編船絙于淡路嶋、運其嶋石而造之。(乃ち天皇の為に陵を作ると詳り(いつわり)、播磨に詣りて(いたりて)、山陵(みささぎ)を赤石に興つ(たつ)。仍りて船を編みて淡路島に絙し(わたし)、其の島の石を運びて造る。)」(『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条)として、仲哀天皇の遺骸を伴わない「偽陵」とする。あるいは、明石国造の墓という説もあるが、規模が大きすぎるようだ。阿曇磯良は論功行賞で天皇級の墓を建ててもらったか。しかし、周りには小規模古墳がたくさんあったようなので有力者一族の墓地かと思われ天皇の単発の偽陵とは考えられない。

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