七夕と盂蘭盆

★はじめに

過般、『ハタケと日本人—もう一つの農耕文化』(木村茂光著、中公新書)を読んでいたら、
「盂蘭盆に供えられる供物のほとんどが畠作物であった」とか、
「盂蘭盆の性格も祖霊信仰という側面ではなく、夏の畠作物の収穫祭としての性格を持っていた」とか、
「七月七日の七夕に索餅(さくべい、麦縄ともいい、小麦粉に米粉を混ぜて作ったうどん状の食物)を食べる習慣があった」とか、
「中国の行事<二星会合と乞巧奠(きっこうでん)>が入ってくる以前の七夕は、宴や相撲、特に日本の伝統的な神祭であった相撲が行われている」と述べられて、盂蘭盆はもとより七夕も日本固有の行事であり、七夕(七月七日)が盂蘭盆(七月十五日)に入る予祝祭としての意味があるというご見解だった。
また、「七月の位置」という<項>を設けて、以下のごとく曰っておられる。
かつて和泉国和泉郡黒鳥村(現・和泉市黒鳥町)に所在した安明寺では、安明寺の所有する財産や収入に関しては年預(年ごとの責任者)が統轄し維持することになっており、かつそれは毎年七月十六日に老僧たちによって「結解(けちげ)」=決算収支が行われることになっていた。安明寺は黒鳥村住人を丸抱えにした村落寺院であったので、七月十六日(盂蘭盆の翌日)は安明寺、黒鳥村の一年の収支決算が行われる日であった。
事例は少し違うが、筑前国観世音寺では「御仏聖供米」=仏の供養のためにかかる費用について、「八月一日より明年七月晦日まで、あわせて三百六十日閏月分は除き定める」とある。当時(中世)にあっては、決算期間が7月16日から翌年7月15日までとか、8月1日から翌年7月晦日までといい、民間の決算の終了日は7月が絡むことがほとんどだったようだ。その要因の一つとして、農民の生活と畠作物との密接な関係が存在したという。

日本の農耕文化を形成したのは南からの稲作と北からの雑穀を中心とした畠作である。畠作は焼畑からはじまる縄文農耕から続いているという説もあるが、米、米、米の我が国にあっては何でも米に換算され、正確な畠作農耕は解っていない。現在まで続いている縄文畠作物としては、サトイモ(日本への渡来の経路は不詳。縄文時代中期に導入された。サトイモは古くから農耕儀礼や儀礼食に多く用いられ、イネの渡来よりも古いとも推定されている)、アワ(日本には縄文時代に朝鮮半島を経て渡来したと考えられている)、ヒエ(中国から朝鮮半島を経て縄文時代に日本に伝来したと考えられている)、クリ(クリは日本原産て、平均した大きさのものが出土することから、縄文時代初期から食用に利用され、ある程度の管理、栽培があった)、ヒョウタン、リョクトウ(緑豆)(福井県鳥浜遺跡で縄文早期・前期の包含層から出土している。これらはわが国に自生する植物ではない)などがある。

文献での盂蘭盆の記録は推古 14 (606) 年に斎を設けたのが始りとされるが,本格的には斉明3 (657) 年<8月29日(斉明天皇3年7月15日) – 飛鳥寺で盂蘭盆会が設けられる。>とされる。また、七夕は「日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。その後、平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。」と言うのが最大公約数的な意見である。おそらくそんなに古い行事ではないようだが、前身の行事については文献もなく「根拠がない」と非難されるのがオチなので詮索はしない。

★会計年度

「日本の会計制度は、近代国家におけるさまざまな制度と同じく、明治維新以後その基礎が築かれ、資本主義の発達と相まって進展を遂げてきた。」とあるように、明治時代以前の国家財政における会計制度は不確かなもののようであるが、以下の制度的なものを取り上げる説もある。
1.国家の会計を1年間で区切る方法は、律令国家の段階から存在していたとみられ、 7 世紀末期には「 旧暦 1 月 – 旧暦 12 月制」が導入され、これに基づいて租税の納付・輸送、監査(勘会)、官司からの請求と実際の予算配分などが実施されていた。
中世のことではあるが上述の「旧暦8月 ー翌年旧暦7月」とは大いに違うようだ。しかし、明治政府における「会計年度」は、明治元年( 1868 年)においては、従来の慣例に従って「旧暦1月 – 旧暦12月制」だった。従って、日本では650年頃より理由は判然としないものの1200年間にわたり「 旧暦 1 月 – 旧暦 12 月制」が導入されていた。
大蔵省が 明治 2 年 7 月 8 日( 1869 年 8 月 15 日)に創立すると、同年 旧暦 9 月に「金穀出納ノ実計ニ適合セス」として、会計年度は新米の収穫後に合わせて「 旧暦 10 月 – 旧暦9月制」と決
められ、同年より導入された。その後数回の会計年度の変更を経て現在の「4月 ー 3月」になったのは、明治17年( 1884 年)10月に「 4 月 – 3 月制」の導入が決定され、明治19年( 1886 年)4月から実施された。明治政府の財政難のためか税収の多寡により会計年度はコロコロ変わったようである。
2.上述した期末を旧暦六月あるいは七月の地方と旧暦十二月の中央との違いであるが、多分に私見で恐縮ではあるが、日本では古く「『魏志』の(裴松之)の注に…魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」とあるごとく、早くから春から秋にかけての表作と冬の裏作があったのではないか。おそらく、表作とは旧暦七月から十二月の収入を言い、裏作とは旧暦一月から六月までの収入を言ったのであろう。十二月の決算事務を一月に行い、六月の決算事務は七月に行ったのであろう。従って、当時の農民は半年を水田稲作の公租公課の作業に充て、半年を自家消費用の畠作物(裏作)の作業に充てていたのではないか。現代の話であるが、過日、インターネットを見ていたら、農家の人と思うが裏作に小麦を作ったら栽培法も簡単で、収量も多く、食味も良いと言うことだった。古代の農民もゆとりの農業ではなかったか。農業は大変などと言うのは水稲稲作に固執した人でアンテナが低かったと言うことか。

★年中行事は意味が変わる

七夕も盂蘭盆も現代では本来の意義からは変質しているようだ。本来の意義と言っても起源・歴史・由来には諸説があり、今となってはどれが本来のものかはわからないが、最大公約数的なものをまとめてみると、

1.七夕(「たなばた」または「しちせき」と読む
2.五節句<人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)>のひとつである。
3.次の行事が合体した。
(1)日本の神事であった「棚機(たなばた)」と(棚機津女伝説ははっきりしない。但し、尾張国山田郡に「多奈波太神社」(式内社)、河内交野原(大阪府交野市)に天棚機比売(アマノタナバタヒメ・織姫)を祭神とする「機物(はたもの)神社」がある。私見で恐縮だが、地名の山田郡から推察して「多奈波太」とはタノハタ即ち「田の畠」(二毛作地)の転訛ではないか。但し、山田は安閑天皇の皇后春日山田皇女の御名代部に由来するという説がある。漢字の棚機は後世の当て字か)
(2)中国の織姫と彦星の伝説と(中国には織姫と彦星の類話がたくさんあるようで、日本へはどの伝説が入ってきたかは不明。但し、織姫と彦星の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされている、と言う)
(3)奈良時代に中国から伝来した「乞巧奠(きこうでん)」(七夕には乞巧奠(きつこうでん)といって針糸や着物の雛形を吊して裁縫の上達を祈る風習があった。近年まで家族の衣服を整えるのは女の重要な仕事であり,裁縫の巧拙は嫁の評価に直接つながった、と言う)

日本の棚機津女伝説に中国の乞巧奠の風習や織姫・彦星伝説が取り入れられたものか、逆に中国の乞巧奠や織姫・彦星伝説に日本の棚機津女伝説が乗っかり七夕伝説が生まれたものかははっきりしない。中国でも「七夕」と言うそうで、あるいは日本の古代貴族により中国から継受された制度なのかもしれない。

1.盂蘭盆は、中国で盂蘭盆経に基づき、苦しんでいる亡者を救うための仏事で7月15日に行われた。
2.日本に伝わって初秋の魂祭り(たままつり)と習合し、祖先霊を供養する仏事となった。
3.迎え火・送り火をたき、精霊棚に食物を供え、僧に棚経たなぎようを読んでもらうなど、地域によって各種の風習がある。
などだが、『目連の草子』と言う室町時代の短編物語に書かれている盂蘭盆の起源説話は《盂蘭盆経》や中国の所伝、あるいは《三国伝記》や後代の《目連記》の所伝とは異なる、と言う。室町時代中期には踊念仏が盂蘭盆会の行事に取り入れられ「盆踊り」になったようで、中国発祥の本来の盂蘭盆と日本の盂蘭盆とは違うようだ。

★まとめ

七夕も盂蘭盆も起源は中国と言いながら日本に入ってくると日本の土着の宗教や風習と習合して中国の原形を留めながらも日本独自のものになっているようだ。従って、「盂蘭盆はもとより七夕も日本固有の行事であり、七夕(七月七日)が盂蘭盆(七月十五日)に入る予祝祭」という上記木村茂光博士の説はいかがなものか。元々主旨の違う祭事ないし神事であったようである。「日本の伝統的な神祭であった相撲」と相撲を強調しておられるが、相撲は弥生時代に水稲稲作とともに大陸の方から我が国に入ってきたようで銅鐸にも描かれている。当時は神事と考えられていたかどうか。今で言うスポーツのようなものではなかったか。その後、いずれかの勝ち負けで吉凶が判断されたりして神事に昇格したのではないか。従って、相撲が神事に昇格したのは垂仁天皇など吉備系の人が大和に来てからではないか。
結論を言うと、日本の棚機と中国の七夕や乞巧奠が結びつけられたからと言って同じものにはならず、ただ単に同じ日に祝っているだけで、仏教行事の盂蘭盆がそれらに結びつくとは到底考えられない。

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