阿弖流為について

★はじめに

ここでは「アテルイ」の意味について検討する。アテルイは漢字では「阿弖流爲(アテルイ)」、「阿弖利爲(アテリイ)」と書かれるようで、現在の通説は「阿弖流爲(アテルイ)」のようである。阿弖流為は蝦夷の族長かと思われるが、彼の前に大物の族長がおり伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)と言った。伊治公呰麻呂はもと陸奥国伊治村(郡)(後世の栗原郡〔現在の宮城県栗原市全域と大崎市の一部にあたる〕に相当する地域と推定されている)の蝦夷族長と考えられ、その経歴は、

*宝亀8(777)年、出羽の蝦夷鎮定の戦功により蝦夷第二等から外従五位下に叙せられた。一説に、伊治城(宮城県栗原市築館)造営に功を上げ、外従五位下に叙せられたという。
*宝亀9(778)年、上治郡(伊治郡の誤記という。即ち、「上」は「此」を略したもの。)の大領(郡司)となる。
*宝亀11(780)年、宝亀の乱(ほうきのらん)を起こす。陸奥国の一部地域(のちの陸前国、宮城県)にて、大和朝廷に対し、伊治公呰麻呂が首謀者となって反乱を起こした。首謀者の名を採って伊治呰麻呂の乱(これはりのあざまろのらん、これはるのあざまろのらん)とも呼ばれる。
反乱の原因及び内容について、『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥(22日)条では、乱の原因を伊治公呰麻呂の牡鹿郡大領道嶋大楯及び按察使(あぜち)紀広純に対する私怨と言い、乱の内容は、宝亀11(780)年朝廷に服属していた蝦夷をひきい伊治城で反乱。胆沢地方平定を企図した覚鱉城 (かくべつじょう)築城のため伊治城に赴任した按察使紀広純と牡鹿郡大領道嶋大楯を好機至れりとばかりに殺害した。陸奥介の大伴真綱(おおとものまつな)だけは囲みを開いて多賀城に護送された。城下の住民は籠城作戦をとろうとしたが、真綱は陸奥掾の石川浄足(いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃亡。数日後、俘囚軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去ったという。当時、多賀城の倉庫には「兵器粮蓄 勝げて計うるべからず」(『続日本紀』)とある。
*伊治公呰麻呂のその後は不明。

しかし、朝廷では宝亀の乱を鎮圧すべく即座に中納言・藤原継縄を征東大使とする征討軍の編成が行われたが、継縄は準備不足などを理由にして平城京から出発しようとせず、遂に大使を罷免されてしまった(後任大使は藤原小黒麻呂)、このとき大伴真綱は陸奥鎮守副将軍に任ぜられている。 藤原小黒麻呂は、2,000の兵を率いて出兵して敵の要害を遮断したというが、たいした成果を上げられないまま、翌天応元年(781年)6月征夷部隊を解散、8月に帰京するが、三階昇進して正三位に叙せられている。敵前逃亡者(大伴真綱)が前線の要職に就いたり、指揮権放棄者(藤原継縄)が何の責任も問われない、戦闘最中の部隊の強制解散者(藤原小黒麻呂)が三階級特進などはどう見ても常軌を逸した政治だ。
ところで、伊治公呰麻呂のその後だが、朝廷にも情報提供者(大伴真綱や石川浄足など)がいたようだし、戦闘要員としては元朝廷に服属していた蝦夷の兵員もいたので短期決戦になった場合は勝利も見込めただろうが、長期戦や持久戦になった場合の見通しは勝ち目に乏しかったのではないか。朝廷軍と蝦夷軍は宝亀の乱後乱の鎮定のため何度も戦っているようなので伊治公呰麻呂はその戦乱の中で亡くなったとも考えられるが、朝廷軍は伊治地方(宮城県)を攻略し、その矛先を胆沢地方(岩手県)に向けたのではないか。無論、胆沢蝦夷もそれを警戒していたと思われる。そこで胆沢に登場したのが伊治公呰麻呂だったか。征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古(吉弥侯伊佐西古 きみこのいさせこ、と同一人物か)」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。一般にこれらの人を胆沢蝦夷と解しているようだが、伊治蝦夷のことではないのか。「しかしここにアテルイの名はない。」というのも当然のことではないか。
<アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。>

★阿弖流為ってどんな人

こんなことを言ったら岩手県民に叱られるかもしれないが、阿弖流為は、伊治公呰麻呂ほどは有能ではなかったらしく、史料における露出は『続日本紀』にある巣伏(すぶし)の戦いについての紀古佐美の詳細な報告と『日本紀略』にある阿弖流為の降伏に関する記述である。
巣伏の戦いについては、北上川に架かる四丑橋の東側(奥州市江刺区愛宕金谷)の石碑と奥州市水沢区佐倉河北田の物見やぐらが立つ公園 (巣伏古戦場跡公園)内に「巣伏の戦いの跡」と刻んだ石碑がある。四丑(しうし)とは巣伏(すぶし)の転訛という。両石碑は四丑橋を挟んで北上川の東岸と西岸にある。戦場は広いもので両説とも間違いではないのだろう。
巣伏の戦いは戦略等については諸説あり門外漢は割愛するが、「延暦8年(789年)3月末に衣川(現在の岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関・関山中尊寺付近か)に陣を敷くが、1ヶ月以上に亘り軍を動かさなかったことから、5月中旬に桓武天皇の叱責を受ける。これを受けて古佐美は5月末に大規模な渡河を伴う軍事行動を起こす」と言う。当時の5月と言えば雨期かとも思われ、「五月雨をあつめて早し最上川」ではないが、北上川は洪水の元凶、衣川は飲料水等の生活用水のために確保した川ではないか。即ち、紀朝臣古佐美は大河の水が引くのを待って行動を起こそうとしたのではないか。いずれにせよ古佐美の立場は難しく、「大規模な渡河を伴う軍事行動を起こす」(敵方は北上川の対岸にいたと思われる)と被害は甚大となり、河の水が引くのを待てばその間の兵糧が無為徒食になってしまう。五万とも言う兵士を動員し、食糧を十分に多賀城(多賀城市)に運びこんだ上での征討軍であったが予定が狂ったようだ。そのためか、6月に入ると古佐美は進軍に当たっての兵站の困難さと、軍を維持するために大量の兵糧が必要であることを理由に朝廷の許可を得ずに征東軍を解散し、桓武天皇から再度の叱責を受けた、と言う。細かいことを言うと当時の5月は田植えの時期で手持ち食料も少なく、農民が凶作に強い粟、麦の転作を主張したところ、訳のわからぬ為政者は「水田稲作をやめるな」と言い、今でもそうだが雨期は疫病の季節でもある。従って、この時期は餓死者と疫病で死ぬ人が多かったと思われる。よって、紀古佐美の判断は正しかったのではないか。
一方、阿弖流為と言えば「巣伏の戦い」は彼の生涯において唯一の大戦における勝利ではなかったかと思われる。第2回遠征軍は、延暦13年(794)正月に征夷大将軍大伴弟麻呂、副将軍坂上田村麻呂らで胆沢へ出発した。第3回遠征軍は、延暦20年(801)2月、坂上田村麻呂は征夷大将軍として胆沢の遠征に出発した。いずれも戦果の記録に乏しいが阿弖流為は朝廷軍に連敗したようである。これも阿弖流為一人の責任にするのは酷で何分朝廷軍は万単位の兵員だったのに対し、胆沢蝦夷軍は千数百人の兵力だった。多勢に無勢、衆寡敵せずで、いくら朝廷側の兵士が非力と言っても千人で一人の胆沢蝦夷の兵士に突撃すれば「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」でこれで敵方は壊滅すること間違いなしだ。それもこれも東北地方の縄文人を主体とした社会現象で人口滅失の潮流に歯止めがかからないからである。子供は生まれない、住民は戦闘で亡くなっていくでは、阿弖流為ならずとも敗戦濃厚なのである。

★阿弖流為ってどんな意味

阿弖流為にまつわる地名は数カ所ある。

生誕地:陸奥国 跡呂井(あとろい)村 現在の行政区画では、奥州市水沢区佐倉河あたりと言う。江戸時代の「安永風土記」(1773)には「安土呂井村」と記されているが、それ以前の記録はわからない。1996年9月から発掘調査が進められていた奥州市水沢区の杉ノ堂遺跡(跡呂井二ツ壇地区)で奈良時代の焼失住居跡五棟が発見された。
東北地方の苗字や地名をアイヌ語由来のものと考える向きも多いが、跡呂井について言うと山口県に山口県光市岩田溝呂井と言う地名があり、跡も溝も同じようなニューアンス(川や水路の跡)の語であり、「井」を川の意と解すると、
「饒速日命の降臨に船長、舵取りに、跡部・阿刀の名があり、阿刀氏が大和川の舟運を支配していたものと思われます。
船長には跡部首等祖の天津羽原
梶取には阿刀造等祖の大麻良」
とあり、跡呂井とは北上川を意味したのではないか。阿弖流為が跡呂井の転訛とすると阿弖流為は川部で、舟での運送業、川魚漁師、造船業、築堤工事業等に携わっている人を言ったものか。

姓について:大墓公阿弖利為と言い、大墓公が姓で、阿弖利為は名前と言うことか。大墓公は読みが一定しない。
1.大墓公(たものきみ)大墓を「たも」と読み、奥州市内の地名の「田茂山」(現奥州市水沢区羽田町。)が由来とする説。田茂山はアテルイが朝廷軍と戦った場所(一説に巣伏村のことと言う)で、有力説である。前方後円墳を「大墓」と称する。大墓公という姓は、地元の角塚古墳から取られた。
2.大墓公(たいぼのきみ)①「ほ」も「も」もものの先端部分をいい、北上川沿いの両サイドの山々を言う。「大」は「多」のこと。
3.大墓公(たいものきみ)  同上
4.大墓公(おおはかのきみ)①古墳、特に前方後円墳 ②「剥ぎ」と通ずる語で「崖地」。北関東から東北にかけて多い ③墳墓。大は美称。
5.大墓公(おおつかのきみ) 同上
などが有力である。因みに、盤具公母礼の方は、(ばんぐのきみもれ)、(ばぐのきみもれ)、(いわとものきみもれ)あるいは(いわぐのきみもれ)の諸説が有力である。
なお、盤具公母礼の「盤具」は「イハキ」即ち「磐城」のことで、自陣もしくは自宅を石垣で囲った場所を言うのではないか。「母礼」は、「明治22年(1889年)4月1日 – 町村制施行にともない、赤生津村と母体村が合併して生母村が発足。」の母体(もたい)村(現・奥州市前沢区生母)が起源とする説がある。但し、私見では音を写したのなら「森(もり)」の聞き間違い、漢字を写したものなら「母体」の誤写かと思う。

★まとめ

「アテルイ」の「*テルイ」から苗字の照井や地名の照井に関係づける説もある。即ち、

照井(苗字)のベストテンは、岩手県と秋田県が一位、二位を占め全国的には照井姓の三分の一は岩手県に住んでいるという。
1 岩手県 花巻市(約2,500人)
2 秋田県 横手市(約1,500人)
3 岩手県 北上市(約900人)
4 秋田県 仙北郡美郷町(約800人)
5 岩手県 盛岡市(約700人)
6 秋田県 秋田市(約400人)
7 岩手県 和賀郡西和賀町(約400人)
8 岩手県 遠野市(約300人)
9 岩手県 紫波郡紫波町(約300人)
10 秋田県 湯沢市(約200人)

照井(地名)は現在では以下のごとしである。
岩手県一関市中里照井 北上川支流磐井川
岩手県奥州市前沢照井舘 北上川
宮城県加美郡加美町照井 鳴瀬川
宮城県登米市南方町照井 北上川支流迫川

苗字にせよ地名にせよ東北プロパーな「名」でアイヌ語に関係する語かなとも思う。「バチェラー・アイヌ語辞典」では、「Terere テレレ 突き出す」が一番近い感じであるが、当てにはならない。当時は平安時代で大和文化も東北へ相当浸透していると思われるので照井も阿弖流為も日本語と解する。
照井の地名の話などを見ていると、一番多いのは照井という人が住んでいたとか人物にまつわる地名等が多いようである。次いで、語源的に見てみると照井の地名の説明や地図には、①河道跡、河跡の語が一番多く、②水量が豊富で日照り等が続いても涸れない川、と言うのがそれに次ぐ。おそらくこの場合の「井」は河川の意味で井戸の意味ではないようだ。現存の照井川を見てみると水が流れ涸れ川ではないので河道跡、河跡などと言うのはおかしいというかもしれないが、水が多くなれば、また、河川が復活するのだろう。それに河川というものはよく河道を変えるものだ。この照井地名だが派生地名がないようで本当は阿照井などの地名があっても良さそうだった。紀朝臣古佐美の言う「賊帥夷、阿弖流爲居」の阿弖流爲居が阿照井村のことか。「居」は集落のことで村を意味したようだ。阿弖流為の起源の一つである跡呂井は現在奥州市水沢区佐倉河と言うようで北上川と胆沢川に挟まれた扇状地の上にある地域のようである。話は飛ぶが、滋賀県に安曇川(あどがわ)という川があり、一般には海人の安曇(あづみ)氏由来の地名という。安曇のアヅがアドになったというもののようである。私見では対岸の安土(あづち)をアドと読み違えたのではないかと思っている。しかし、安土とか、安曇(あど)、安堵、安刀(あと)、安曇(あづみ)などは同じ語義で「河岸の崩れるところ、崖地、傾斜地」というのが多数あるいは有力説である。従って、阿弖(安土)流(の)為(川)とも考えられ安曇川(あどがわ)とも同義と考えられる。東北の人と言っても全部が全部アイヌ系の人ではない。
多数説は大墓公阿弖流為や盤具公母礼の大墓公や盤具公を地名と解しているようだ。伊治公呰麻呂の伊治を類推したものであろう。しかし、大墓公も盤具公も読みはまちまちである。大墓は角塚古墳(5世紀末から6世紀初の築造と推定。日本最北の前方後円墳で岩手県唯一の前方後円墳である。所在地は岩手県奥州市胆沢南都田。雄略天皇時代の古墳と思われるので稲荷山古墳や江田船山古墳ばりの金象嵌や銀象嵌の鉄剣や鉄刀が出てくる可能性がある)を言うとの説がある。一般的に大墓という地名は集合墓の地名に多いようだ。大墓公とか盤具公とか言う姓は『日本紀略』や『類聚国史』を根拠に古くに朝廷から与えられたと解しているが、やや怪しく、おそらく彼らの死の直前にお愛想で与えたのではないか。要するに、坂上田村麻呂も朝廷も阿弖流為や母礼を騙しに騙し死へと追いやったものであろう。私見では、阿弖流為は坂上田村麻呂を信用しすぎて墓穴を掘った。大墓とは朝廷サイドから見て間抜けでお人好しの阿弖流為が自らの大きな墓穴を掘ったと言うことではないのか。母礼の盤具とは岩のことで母礼の墓標を言ったものか。あまりいい話ではない。

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