日本武尊の東征

★はじめに

日本武尊の東征と言っても、肝心の日本武尊は実在の人物なのかどうかについては多くの学者先生は懐疑的である。即ち、天皇家の系譜は「万世一系」ではなく、上古にあっては「ヒコ系」「イリ系」「ワケ系」「タラシ系」等が入り交じったもので、日本武尊は王統譜上では名前に「イリ」「ワケ」を含まず、六世紀前半、あるいは七世紀以降に「イリ系」と「ワケ系」とを結ぶために景行天皇の子として組み込まれた、と見られており、さらに、仲哀天皇(足仲彦尊)や神功皇后(気長足姫尊)の「タラシ系」の系譜に結びつけられたのは七世紀後半とする説が有力だ。但し、景行天皇の和風諡号に「大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)」とあり、次の成務天皇の和風諡号に「稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)」とあるので、景行天皇は「タラシ(足)」系の始祖であり「ワケ(別)」系の始祖かとも思われるが、おそらく本来は「ワケ系」の始祖で、「タラシ系」は後世の王統譜編纂者が作文したものと思われる。『記紀』では景行天皇の時代に日本(倭国)は統一されたと考えられており、何分にも景行天皇は今で言う「乗っ取り魔」とでも言うべき人物で、この時代にたくさんの国や地域等の伝承や系譜等が集まり、ごちゃごちゃになってしまったのだろう。
物議を醸す景行天皇を見てみると、「大足彦」と「忍代別」と二つの名前に分割でき、「大足彦」系即ち「タラシ系」は景行(オオタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)、仲哀(タラシナカツヒコ)、神功(オキナガタラシヒメ)の名が上がり、「忍代別」系即ち「ワケ」系は景行(オオタラシヒコオシロワケ)、応神(ホムタワケノミコト)、仁徳(大雀命とあるが、本来は多賀別<タカワケ>、あるいは、高津別<タカツワケ>とか言ったのではないか。)、履中(オオエノイザホワケノミコト)、反正(タジヒノミズハワケノミコト)などがある。タラシのカバネだが、景行(晩年)、成務の両天皇の都は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、滋賀県大津市穴太)にあり、仲哀天皇は「日本武尊の白鳥伝説と神功皇后の新羅(しらぎ)征討伝承を同書<日本書紀>に組み込むための存在とされる。」というような見解が多い。神功皇后は諸々の伝説を寄せ集めた人物で実在の人ではないとする。具体的には、①朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語 ②各地で語られていた母子神信仰に基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承 ③京都府綴喜郡に居住した古代豪族息長(おきなが)氏の伝承 ④7~8世紀に古代天皇制の思想によって潤色を受けた伝承などが混合されて神功皇后像ができたものとする。神功皇后の実名とされる息長帯比売命(古事記)によると出身地は滋賀県坂田郡息長村(現・米原市能登瀬あたり)と考えられがちだが、一説には息長氏の本貫の地は京田辺市天王あたりと言う。しかし、神功皇后は父の系譜が、第九代・開花天皇-日子坐王-山代之大筒木真若王-迦邇米雷王-息長宿禰王-息長帯比売命と言い、母の系譜は天之日矛ー多遅摩母呂須玖ー多遅摩斐泥ー多遅摩比那良岐ー多遅摩比多訶(妻・菅竈由良度美・すがかまゆらどみ・比多訶の姪)ー葛城高額比売ー神功皇后とあり、神功皇后の父親の息長宿禰王の代には近江国に進出していたのではないか。天日槍命の従者は近江国に定住したという記録もあり、息長宿禰王と葛城高額比売の結婚もあながちでたらめと言い切ることはできないと思われる。但し、息長宿禰王のご先祖は第九代開化天皇とされ欠史八代の天皇は架空という説が根強く、日子坐王も架空の人物の子でいるはずもなくその存在は怪しいという説がある。日子坐王は『古事記』ばかりに顕著で、事績としては玖賀耳御笠を殺害しただけで、あとは仰々しい系譜だけがあるのみである。多数の学者先生が唱えるように、成務天皇、日本武尊、仲哀天皇、神功皇后あたりは存在が怪しい人物と言うことになろうかと思われる。
また、「タラシ」の語については、『古事記』序文に、
「於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。」(姓に於きて日下を玖(く)沙(さ)訶(か)と謂い、名に於きて帶の字を多(た)羅(ら)斯(し)と謂う。 此(かく)の如き類(たぐい)は本の隨(まにま)に改めず。」とあり、景行天皇の時代ははっきりしないが、太安万侶の時代は名前につける男女兼用の一般的な文字だったか。例として、藤原義江(男)、朝井良江(女)の「江」の文字のようなもの。従って、景行(オオタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)、仲哀(タラシナカツヒコ)、神功(オキナガタラシヒメ)が景行と成務はともかく、ほかは血縁関係にあったかどうかは不明と言うほかはないと思われる。それに、「タラシ」の語は景行天皇より後の世代の語、と言う見解もあり、悪賢い官吏の後付けの語なのかもしれない。そもそも現代では、成務、仲哀、神功の天皇皇后はその存在を否定する向きが多い。

★日本武尊の東征は嘘八百か

日本武尊が架空の人物なら、『記紀』にある彼の伝承はすべてないことになるのだが、類似の話はある。例えば、『日本書紀』では景行天皇は日本武尊の東征の前段階として、

*廿五年秋七月庚辰朔壬午 遣武内宿禰 令察北陸及東方諸國之地形 且百姓之消息也
*廿七年春二月辛丑朔壬子 武内宿禰自東國還之奏言 東夷之中 有日高見國 其國人 男女並椎結文身 爲人勇悍 是總曰蝦夷 亦土地沃壞而曠之 撃可取也

景行紀廿五年秋七月 武内宿禰を遣わし北陸及び東方諸国の地形及び人民(百姓)の様子を視察させた。景行紀廿七年春二月 武内宿禰は東国より帰還し奏上するには、東の夷の中に日高見国あり。その国の人男女皆みずらを結い入れ墨をする。人となりは勇み悍し。これをすべて蝦夷という。また、土地は肥えて広い。撃ちて取りつべし、と。

これに対して、景行天皇が派遣したのは日本武尊で、『日本書紀』では、おおむね以下の通りとなっている。しかし、日本武尊を架空の人物とするならば実際に遠征の発動をしたのは景行天皇であろう。

倭―伊勢―駿河(焼津)―相模(馳水/走水)―上総―陸奥―日高見―常陸―甲斐―武蔵―上野―碓日坂―信濃―美濃―尾張―近江伊吹山―伊勢能煩野
酒折宮(甲府市酒折)で靫部(兵士)を大伴連の遠祖・武日に賜わった。
吉備武彦を越国(新潟県等)に遣わし、地形が急峻か平坦か、人民が従順かどうかを調査させた。

『延喜式』卷第卌八
左馬寮/右馬寮/准此。
御牧
信濃国/山鹿牧。塩原牧。岡屋牧。平井手牧。笠原牧。高位牧。宮処牧。埴原牧。大野牧。大室牧。猪鹿牧。萩倉牧。新治牧。長倉牧。塩野牧。望月牧。
甲斐国/柏前牧。真衣野牧。穂坂牧。
武蔵国/石川牧。小川牧。由比牧。立野牧。
上野国/利刈牧。有馬島牧。沼尾牧。拝志牧。久野牧。市代牧。大藍牧。塩川牧。新屋牧。
前2ヶ国は左馬寮、後2ヶ国は右馬寮の管轄下であった。なお、承平年間には武蔵国で2ヶ所(阿久原牧、小野牧)が増設されている。

何が言いたいのかと言えば、上述の日本武尊(景行天皇か)の東征ルートのうち「陸奥―日高見―常陸―甲斐―武蔵―上野―碓日坂―信濃」は後世にあっては著名な馬産地である。おそらく景行天皇のこの遠征の目的は中型ないし大型の馬を探すことにあったのではないか。このルートにあって陸奥、日高見(ローマ字ではKhitakamiと書き、Kitakami<北上>、Hitakami<日高見>のいずれの発音にもなり、ここでは日高見である)への遠征は蝦夷を捕らえる物語の核心の部分かもしれないが何やら嘘っぽいところもある。平安時代になっても有力馬産地として東北地方が出てこないところを見ると、馬マニア以外には知られていなかったのかもしれない。常陸には以下の記録がある。
『常陸国風土記』行方郡
飛鳥浄御原の大宮に臨軒しめしし天皇(天武天皇)のみ世、同じき郡の大生の里の建部袁許呂命は、此の野馬を得て、朝廷に献つりき。所謂行方の馬なり。或る人茨城の里の馬といふは非ず。
(其野出勒馬 飛鳥浄御原大宮臨軒天皇之世 同郡大生里 建部袁許呂命 得此野馬 献於朝廷 所謂行方之馬 或云茨城之里馬非也)

★まとめ

日本武尊の東征の話を推察するに、日本武尊が架空の人物とするならば東征を進めたのは景行天皇で、天皇はまず吉備武彦に従来の南方系で小型の馬はやや太めの天皇が乗るとすぐにひしゃげて潰れてしまうので東国へ行って大型の重量に耐える馬を探してこいと送り出した。しかし、武彦は馬には詳しくなかった(運送手段として西は舟<又は、牛>、東は馬、と言う説もある)ようで何も発見できなかった。そこで、天皇は武彦にもう少し捜索範囲を広めるように言い、体よく越(新潟県)へ追いやり、従来の「常陸―甲斐―武蔵―上野―碓日坂―信濃」ラインは武日命に重畳的に探索させた。武日命は幸いにも甲斐国で天皇の所望の馬を発見し、天皇はこれ幸いと武日命に靫部をつけて馬の繁殖を命じた。こうでも解さない限りは「以靫部賜大伴連之遠祖武日也」の意味がわからない。靫部は馬を盗まれないように警護をする者の意か。しかし、武日命は守るべき領土や財産もあり乗っ取り魔の景行天皇の手には乗らなかった。甲斐国は南部氏の出身地で、南部氏は馬の取り扱いの巧者であったという。後世、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼして南部氏を甲斐国から東北の南部地方(陸奥国糠部郡)の地頭にしたのも当該地が良馬の産地だったからと言う説もある。
古代にあっては馬も三流くらいがあったようで、一流は南からの小型馬で、現在も沖縄県に宮古馬・与那国馬、鹿児島県にトカラ馬、宮崎県に御崎馬、愛媛県に野間馬がありその後継馬か。二流は応神天皇が朝鮮遠征から持ち帰った馬で、対州馬がその痕跡か。『日本書紀』応神天皇十五年秋八月壬戌朔丁卯 百濟王遣阿直伎 貢良馬二匹、とあるが、実際には応神天皇が、帰国の際、日本に大量の馬を持ち込んだのではないか。三流は北海道和種(元祖は南部馬か)や木曽馬に跡形をとどめる、モンゴルから北方経由でやって来た日本在来種で、大型の馬ではなかったかと思われる。
馬の用途は東日本と西日本では違ったようで、東日本では運送用として、西日本では作業用として使役されたようである。従って、馬の文化も東西では違うようで、東日本には労働歌として「追分節」がある。源流は二つあって、一つは岩手県を中心とする旧南部領の博労(ばくろう)の「馬子唄(まごうた)」で、それが東北地方一円に広まり、のち関東、中部地方の主要街道の駄賃付け馬子の「馬子唄」になった。もう一方は『信濃(しなの)追分』が、飯盛り女の鞍替(くらが)え、瞽女(ごぜ)や座頭(ざとう)による持ち回り、旅人の国土産(くにみやげ)で広まり始め、各地で流行唄(はやりうた)として歌われるようになった。前者(岩手県)の追分節は労働歌であり、後者(長野県)の追分節は現今の流行歌というもののようで、現在南部地方起源のものとしては『南部馬方三下り』、『津軽三下り』(青森県)、『江差(えさし)三下り』(北海道)が残っているという。信州追分起源のものとしては、『越後追分』(新潟県)、『酒田追分』(山形県)、『本荘(ほんじょう)追分』(秋田県)、『松前追分』『江差追分』(北海道)となった、と言う。
残念ながら、陸奥や蝦夷が中央政府に認識だされ始めたのは文献上では『日本書紀』の景行天皇(特に、景行天皇四十年)の頃となっているが、その後は散発的でまとまって蝦夷征討を行ったのは斉明天皇の阿倍比羅夫のようである。従って、景行天皇の時代に日高見国(現在の北上市、奥州市、一関市あたりか)まで遠征したとは考えづらく、信濃、甲斐、関東一円をうろうろして大型馬の発掘に努めたのではないか。当時の日本では騎馬の習慣のある人は非常に少なく、ましてや敵味方の騎馬隊同士が戦うと言うことはまだ考えられなかったと思う。馬の初期の用途は物を引くことであり、乗用は後世のことのようである。馬は四肢が長く頸も長い、とあるが、それは現代の馬のことで、古代和種は四肢は太く、短く、頸もやや太めで短かったようだ。体躯はやや角張って物や人を乗せるのに便利だったようだ。使役馬としては有効で運搬や土木作業、農耕が主なる用途だったのではないか。

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