山頂の神社

★はじめに

統計や定義によっても数値は変わるのであろうが、日本の地形別面積ではおよそ60%が山地という。また、標高別面積では、標高500m以上1000m未満が20%、標高1000m以上が6%と言う。山がちな国は山岳信仰があるらしく、特に、アジアの国々はその傾向が強いようである。一般に山岳信仰のある地域と言われているのは、
日本、朝鮮半島、ヒマラヤ山脈(チベット高原、ネパール、ラダック)、アンデス山脈(ペルー)、中国(五岳信仰)などであるが、スカンジナビア半島は山がちな地域ではあるが、森林率は高いものの山岳信仰と呼べるものはないようである。
日本は世界的に見て有数の山岳信仰の国らしく、少しばかり高い山へ行くと山頂付近には小さな神社が建っていることが多い。ご丁寧にもその神社の呼び名まであり、通常、山頂付近の社(やしろ)は奥宮(奥社、上宮、元宮、山宮)と言い、山の中腹や麓にある社は里宮(本宮、本社)と言い、一般に神社の成立上、里宮が本来の祭場とみるべき場合が多い、と言う。
とは言え、山頂付近には縄文土器の破片などが発見される場合があり、我が国には縄文時代から山岳信仰があったのかと述べる向きもある。あるいは、この土器は後世山伏(修験者)が運んだものと言う人もいるが修験者が縄文土器を選んで運んだなどと言うのは修験者の中に考古遺物の目利きがいて山頂まで運んだ、と言うことになろうかと思う。しかし、山伏が縄文文化の継承者とは言いがたく、おそらく山頂の縄文土器の破片は縄文人が運んだものであろう。
時代は同時期あるいは若干下ると思われるが、青森県田舎館村の弥生時代の垂柳遺跡(およそ2000年前)では、水田遺跡の中に人間の足跡がおとなから子どもまであり、家族みんなで農作業に従事していたことが想像できます、と言う。しかし、当時の水田稲作は現在のそれとは違い家族総出で行っても一年間の家族の主食とはなり得なかったと思われる。おそらく直播き(じかまき・じきまき)が主流で「発芽がふぞろいとなり,生育にむらを生じやすく,幼植物期での管理が不十分となるなどの欠陥がある。 」と言う。子供の足跡と言うが当時は労働力になったかどうか。従って、水田の足跡は家族総出の泥んこ遊びで当時の人にとっては気分転換のレジャーのっようなものではなかったか。但し、垂柳遺跡では途中で水田稲作をやめている。洪水被害のためと言うが米が主食であったならすぐにでも復興に取りかかっただろうが、主要食糧は堅果類のほかオオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類とアズキ、大豆などの豆類だったのだろう。奈良、平安の時代になっても米、米、米と言って白米を食べたいと言ったのは貴族や僧侶等の上層部の人で生産農家は凶作に強い粟や麦へ転換しようとしていたと言う。
その類推で行くと縄文時代の山頂の遺物も何やらレジャーの登山でも行っていたのではないか。山頂で持参した昼食あるいは間食でも食べて空の容器は重たいので付近に捨てた、と言うようなことではなかったか。(例として、大山<神奈川県>山頂からは縄文式土器・土師器・須恵器の破片が発見されているという。また、八ヶ岳<長野県・山梨県>では編笠山で縄文時代の石鏃が採取されているという。害獣駆除のため持ち歩いていたか。)
今のところ縄文人が山頂で神事を行ったかは不明と言うほかない。あるいは、今で言う「ヤッホー」と叫んで「こだま(山彦・山の神)」を楽しんだりしたか。

★神体山

山岳を神と見立てるのはアニミズムの一種と言われ、上述の日本、朝鮮半島、ヒマラヤ山脈、アンデス山脈、中国などのほか世界に普遍的に見られるらしい。しかし、神体・神体山などという語は、神体については平安中期に成立し、古くは神体として直接崇拝の対象とされる山をいう、とある。山を神体とする表現は江戸中期に奈良県の三輪山をいうようになり、神体山の用語も1871年(明治4)に大神(おおみわ)神社が奈良県あての口上書に三輪山を指して使ったのが最初とされる。比較的新しい語彙のようである。当然のことながら、縄文時代には神体とか神体山は「その実あれど、その名無し」の状態だったかと思われる。また、類似の言葉に「神奈備(かんなび)」がある。神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とは、神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域のこと、と言う。古い神社では、拝殿や本殿もなく、自然の神奈備そのものを祭神として祀るところもある。 また、神奈備山は一般に人里に近く笠を伏せたような低い独立峰で,樹木に覆われて山中に磐座(いわくら)や磐境(いわさか)など祭祀遺跡を思わせるもののある場合が多い。以上の見解をまとめれば、現在の霊山の山頂に建てられている奥宮とか奥社などと言う神社建物は論外のものであり、かなり後世の仏教文化にまみれたものとなるらしい。日本の神社でも正統な古神道を受け継いでいる歴史のある神社は神籬(ひもろぎ)や磐座(いわくら)で神事を行っているようだ。神殿や拝殿でお祓いなどを行っているのは信者に対する現代的なサービスなのであろう。

★山岳信仰

日本の山岳信仰はあまたあり、その根源とするところは水源・水運・水産業、狩猟・牧畜業、鉱山業、(森)林業などを営む人に支えられている。これらの人々は山から流れる川や、山に関わる森林地帯、山の中の鉱物資源、山麓の牧野等にその生活の全てに渡って依存している。何を信仰するのかと言えば、
1.火山 火山の噴火への畏れから、火山に神がいるとみなして信仰する。
2.水源 周辺地域を潤す水源となりうる山
3.死者の霊が集う山 死者の霊が死後にそこへ行くとされている山
4.神霊がいるとされる山 突如その山に神霊がいるとされ信仰が集まった
5.先祖の霊がいる山 山の中にはご先祖さまの霊がいて、墓を山の中腹に建てる場合と山麓に建てる場合がある。
など、と言う。
修験道とは、日本古来の古神道と伝来してきた仏教(特に天台宗や真言宗などの密教)とが結びついて、新たな宗教となったものである。仏教と結びついているので日本で発生した新興宗教なのであるが、修行僧(山伏あるいは修験者)は現存している。具体的な神社仏閣は、中世期に著名なのは、吉野(奈良県)、熊野((和歌山県)、羽黒(山形県)、英彦山(福岡県)、白山(石川・岐阜県)など。近世期には、富士山、木曽御嶽(おんたけ)山、出羽三山、大峰山、三峰山(埼玉県)、石鎚山(愛媛県)などが著名である。仏閣では比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺が著名。縄文系山岳信仰神社としては、古くからの十二様と称する土着の山の神を祀った十二神社。十二様信仰は射日儀礼を含む「十二講」の習俗を伴い、北関東・甲信越を中心にして東日本の山間部に分布する、と言う。類似の神社名で十二所神社あるいは十二社神社というのは熊野神社の系列のものという。「十二」というのは峠を意味する「たお」「とう」の当て字か。

★まとめ

日本に山の民や海の民にはっきりと区別するような名称を与えたのは応神天皇で、「此之御世、定賜海部・山部・山守部・伊勢部也。」(『古事記』中巻 応神天皇記)、「五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國、定海人及山守部。」(『日本書紀』巻第十 応神天皇紀)とある。おそらく応神天皇は朝鮮遠征から帰国した折、半島の官僚組織である「部曲」制を導入したものであろう。当時は組織も未発達だったらしく、山部・山守部の山の民と海部(海人<おそらく『紀』は海人部の部が脱落したものであろう>)・伊勢部(一般には磯部と解している)の海の民の二種類の「部」しかなかったようである。山の民や海の民が「部」に編成されたからと言って従来の風俗習慣が変わるわけではなく従来の山の神や海の神を祀っていたのであろう。両者の違いは他界観にあるのではないかと思われる。「他界を海、山、かなたの地上に設定する水平型と、天上、地下に設定する垂直型がある。これは葬制とかかわりがあり、火葬では天上、水葬は海、山葬は山、埋葬は地下に設定するといわれる。」と言うが、山部の山葬(陸)と海部の水葬(海)ではその他界観にかなりの違いがあったのではないか。山部にしてみると峠に立って自分たちの住む土地の反対側が他界で、海部は遺体が沈んだ海の底が他界となるのか。山部、海部のいずれにせよ他界は現世の延長線上にあるようだ。
結論を言うと、我が国の山岳信仰は有史に入ってからのもので、山頂の神社や山岳信仰も縷々述べられたあとに「これらは伝承の域を出るものではなく、歴史的事実も定かではない。」と言われるとがっかりする。当然のことながら、縄文時代の山頂遺跡は東日本に多いと思うが、西日本でも奈良県の三輪山山頂にストーンサークルがあるという人もいる。また、六甲山山頂、「六甲山カンツリーハウス敷地内にアメノホヒ=天穂日命の磐座がある。」という人もおり、これは写真もありストーンサークルを人為的に作ったと思われる節がある。よって、山頂の神社は日本にあっては新興宗教の遺跡なのである。

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