大伴氏は天皇氏に吸収されたのか

★はじめに

『古事記』によると別天神 (ことあまつかみ) 五神とは、天地開闢の際、高天原に三柱の神(造化の三神という。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)が、いずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神)として成って、そのまま身を隠したという。その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に出現したのが宇摩志訶備比古遲神と天之常立神の二柱の神でいずれも独神として身を隠した。次いで現れたのが、十二柱七代の神で神世七代と言う。最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代とする。具体的には、以下のごとくである。

別天神
1.天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
2.高御產巣日神(たかみむすひのかみ)
3.神產巣日神(かみむすひのかみ)
4.宇摩志訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)
5.天之常立神(あめのとこたちのかみ)

神代七代
1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
(左側が男神、右側が女神)

別天神は『日本書紀』には見えない神で、どうして『古事記』に取り入れられたのかと言えば、諸説があると思われるが、私見では『古事記』の編者太安麻呂の大伴氏に対するおべんちゃらではないかと思っている。一般的には、高御產巣日神は大伴氏の祖神で神產巣日神は『古事記』では高天原に座して出雲系の神々を援助する祖神的存在であり、他の神々からは「御祖(みおや)」と呼ばれている、とある。太安万侶の太氏は神武天皇の子の神八井耳命の後裔と称して、中央豪族で繁栄した系統(多朝臣、意富臣、小子部連等)、九州を中心に繁栄した系統(火君、大分君、阿蘇君等)、東国に繁栄した系統(科野国造、道奧石城國造、常道仲國造等)がいるが、中央豪族で繁栄した系統はともかく、九州や東国で繁栄した系統には疑問があり、検討を要する。
大伴氏は物部氏と並んで有力軍事氏族と考えられているが、概して、物部郷とか物部神社などは全国に散在しているが、大伴郷とか大伴神社というのはほとんどない。一説にこの地方の物部の「物」はその地域の特産物を言い、地方の物部氏の多くはその特産物の生産者・管理者を言うものか。とは言え、大伴氏も一方の雄であったはずで、国家に一旦緩急あれば地方の配下の人々に動員令を出して兵士を集めたものと思われる。長々と述べると冗長になるので、大伴氏と太氏は「大部」の読みについても「おおべ」(太氏の部民)と「おおとも」(大伴氏のこと)のわだかまりがあったようだ。大部の文字を公文書で使い始めたのは大蔵善行で、『日本三代実録』(延喜元年(901年)成立)と言う。大蔵善行は菅原道真と並び称される当代一流の学者だったようだが、菅原道真が右大臣にまで昇進したのに大蔵善行の官位は従四位下・民部大輔と言うあまりパッとしたものではなかった。左大臣藤原時平の師匠筋に当たると言うが時平・善行が菅原道真の追い落としに成功しても時平は善行をあまり顧みなかったようである。それもそのはずで大部を「おおとも」などと読んでいるのは当時にあっても非常識であったのではないか。もっとも、大部は大伴部の中略で「おおともべ」あるいは単に「おおとも」と読んだ人がいたのかもしれない。話は飛ぶが、大伴氏の全国における分布について見ると、顕微鏡で見るようなことになるが、文献に出てくるのは、①大伴部博麻 筑後国の上陽咩郡(かみつやめぐん)の人(『日本書紀』巻第三十)②大伴部赤男 武蔵国入間郡の人(『寧楽遺文』)があり、東国や九州に分布していたと思われる。従って、『古事記』に出雲神話が多いことは編者の太安麻呂に関わることであり、太氏は出雲の出身で、太氏が大伴・物部氏のように全国的に活躍した軍事氏族ならともかく、中小軍事氏族と思われ九州や東国に部民をかかえていたとは考えづらい。これらの九州や東国の太氏の一族と称する氏族は大伴氏の氏族だったのではないか。但し、両大伴部氏は『本朝月令』所引「高橋氏文」によれば、「日堅日横陰面背面 諸国人割移 大伴部号 賜於磐鹿六獦。」とあり、大伴氏の大伴部ではないという説があるが、高橋氏に源を発する『日本書紀』(景行天皇段)、『新撰姓氏録』、『高橋氏文』は事実とは反するというのが現今では有力になっている。高橋氏改賜姓も『日本書紀』には載っておらず、高橋氏の勝手な自己宣伝という説もある。よって、太氏が神武天皇の子の神八井耳命の後裔とするのは間違いで、神産巣日神を祖神としていたのではないか。太氏が途中で祖先を神産巣日神から神八井耳命に切り替えたのは大和朝廷にあっては出雲系祖神では役人としての活動に影響があったからではないか。大伴氏の祖神高御產巣日神を先に立て、太氏の祖神神產巣日神を次にしたのは、太安麻呂が国史編纂を大伴氏とともに行おうとしたとも考えられる。但し、大伴氏は凋落したとは言え未だ体制派の人であり太安万侶の野心には乗らなかった。

★大和朝廷発足当初の大伴氏

大和朝廷が発足した頃、即ち西暦一世紀頃の我が国はおおむね『魏志倭人伝』が言う邪馬台国の少し前の時代で、「舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」とあり、倭国は邪馬台国を盟主とする連合国家で、連合国家ができる前は百余国あったが、その後三十カ国に淘汰されたようである。倭国の国政を担う官人は国(領土)持ちの豪族で、後世の官吏から高級官僚になった人(蘇我氏、藤原氏など)とは違う。天皇氏も当初は三十人の同位者の代表で大伴氏も大きな領土(摂津国、河内国)の豪族であったと思われる。
国家体制は後世の幕藩体制に似て、大領主は大和国にも自分の領国にも邸宅を持ち(神武天皇が道臣命に論功行賞として大和国に宅地を与えたというのもこの理なのであろう)、中小国の領主は国元と邪馬台国の行き来の費用も大変なので江戸時代の定府大名よろしく邪馬台国に定住していたのではないか。『魏志倭人伝』で九州北部の国々から邪馬台国へ行くまでで国王がいるのは伊都国だけで他の国は邪馬台国が派遣した長官が政務執政官だったのではないか。神武天皇は道臣命を一の子分のように思っていたようだが、道臣命は神武天皇を単なるお隣さんとかお友達くらいに思っていたのではないか。神武天皇が道臣命を不必要に呼び出すのも道臣命にとっては煩わしさ以外の何物でもなかったのではないか。
神武天皇の頃の大和国の版図は東征の論功行賞では、
・道臣命(大伴氏の祖)       築坂邑の宅地
・大来目(久米氏の祖)       来目邑の宅地
・椎根津彦(倭直部の祖)      倭国造に任命
・弟猾(菟田主水部の祖)      猛田県主に任命
・弟磯城(黒速)            磯城県主に任命
・剣根                   葛城国造に任命
・八咫烏(葛野主殿県主部の祖) 不明(おそらく今の京都市)
以上で、みんな奈良盆地内に収まっている。せいぜい八咫烏が京都市に土地を与えられた程度だ。神武天皇は奈良盆地を平定したのが関の山なのだろう。但し、「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であった(本拠地、保久良神社)」とする説もある。大伴氏の小型版か、あるいは、関係があるのか。よって、神武天皇の初期の版図は最大限に見積もっても、現在の奈良盆地(神武天皇)、京都市(八咫烏氏)、大阪府・兵庫県南部(大伴氏)あたりではないか。その後、神武天皇は道臣命の先導よろしきを得てあちこちの国を案内(現代流に言えば紹介?)されたり、「井(奈良盆地)の中の蛙(神武天皇)大海(大阪湾)を知らず」だったのが、みるみるうちに知見や知識を広め、大和朝廷として頭角を現してきたのではないか。要するに、神武天皇の時代には道臣命即ち大伴氏が先行していたのであるが、大伴氏が別の隣国である吉備国との抗争に明け暮れしている間に大和朝廷が畿内の小国をまとめ上げたと言うことであろう。それに、大和朝廷は大伴氏が吉備氏と戦っている間に吉備氏と政略結婚を行うなど信義にもとる行為があったのではないか。例として、皇族の中に「豊鍬入姫命」(崇神天皇の皇女)という名があるが、当時の大和国では鍬は作れず、鉄の産出する国(吉備国)から輿入れしたのではないか。但し、豊鍬入姫命は『魏志倭人伝』にある「台与」の可能性が大で休戦協定により鍬とともに輿入れしたか。
以上より大和朝廷発足当初は大伴氏が優勢で『記紀』の記載には少々脚色があり、道臣命(大伴氏)、剣根(葛木氏)、八咫烏(賀茂氏)は祖神を高御産巣日神としており、おそらく神武東征の論功行賞の説話は神武天皇の奈良盆地平定の話と大伴氏一族の話が合体したものであろう。

★語部と天皇氏・大伴氏

我が国に文字が導入されたのは大和朝廷が発足した西暦一世紀頃からと思われるが、文字の読み書きのできたのは朝鮮半島や中国大陸からの渡来人と言おうか帰化人と言おうかその種の人の専売特許だったのだろう。一方、我が国の民は未だ文字をもたず口承伝達が主なる記録保持の手段だったと思われる。口承の内容は古くは複雑多義で地方ごとに多くの口承集団があったと思われる。内容の一端としては、集団生活(今日的に言うと司法、行政、立法)、職業作法(農耕儀礼、狩猟漁撈手法)など。しかし、記録保持の方法が紙等の記録媒体と筆記具に移行すると語部の役割も少なくなるのであるが、大和朝廷が全国に進出すると口承の内容も変質し詞章・民謡となったが、大和朝廷はかかる口承集団を部の制度に組み込んで語部とし、内容も政治的色彩が入ってくるようになった。組織的には、中央伴造に「語造連」、地方伴造に、語臣、語直、語部君、語部首などがあったようである。また、漁民集団の贄の貢進にまつわる服属の古詞を奏するものとして、中央伴造に海(天)語連、語部に海語部がいた。
語部の最盛期は天武朝で、天武天皇は歌舞音曲で自分自身を賛美させるのが好きだったようである。従って、天武朝の語部は本来の語部とは違う。例として、
1.天武天皇四年(675)大倭、河内、摂津、山背、播磨、淡冶、丹波、但島、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張等の国に勅して曰く、所部の百姓の能く歌ふ男女、及び、伎人を選びて貢上れ。
2.天武天皇十二年(683)正月 是の日、小墾田の舞、及び高麗、百斉、新羅、三国の楽を庭中に奏る。(是日、奏小墾田儛及高麗・百濟・新羅三國樂於庭中。)
3.天武天皇十五年(686)1月18日には俳優と歌人に褒賞を与えた。(是日、御窟殿前而倡優等賜祿有差、亦歌人等賜袍袴。)
4.天武天皇の死後になるが、出雲国造の神賀詞奏上の儀式化。
など。
語部が記録として残るのは平安時代で、『北山抄』、『江家次第』、『貞観儀式』、『延喜式』である。それによると、
天皇の即位儀礼としての践祚大嘗祭にあたり、美濃、丹波、丹後、但馬、因幡、出雲、淡路の七カ国から都合二十八名の語部が召集され、二組に分けられ、各々伴氏、佐伯氏に率いられて大嘗宮の東西の掖門から入り古詞を奏する、と言う。古詞の内容は不明。
おそらくこの語部が語り継いでいたことは践祚大嘗祭の式次第等のことであり、一般に言う服属の言葉ではないだろう。選抜された美濃、丹波、丹後、但馬、因幡、出雲、淡路の七カ国と言うのも私見で恐縮ではあるが古墳造営者を輩出した有力な国で、語部が最後に機能したのは古墳造営に関することではなかったか。但し、淡路には前方後円墳がないとのことだが、五色塚古墳(兵庫県神戸市垂水区)や大阪府泉南郡岬町淡輪にある淡輪古墳群は淡路島の有力者の古墳という見解もある。また、語部を先導したという伴氏、佐伯氏も単に門番の伴造と言ってしまえばそれまでだが、語造連氏が文献に出てくるのは天武天皇の時代で、その前にも語部はいたであろうからその伴造をになっていたのは大伴氏ではなかったか。従って、践祚大嘗祭に来たのは正調語部であって、天武天皇以降の芸能(歌舞音曲)語部ではない。

★まとめ

日本神話の舞台に淡路島とか、福岡県・宮崎県(いずれにも「筑紫の日向(ひむか)の小戸(おど)の橘(たちばな)の檍原(あはきはら)」の候補地がある)、島根県(出雲神話発祥の地)などが出てくるが、大和国が発祥の地と思われる天皇氏がこれらの国々と関係があったのか。天皇氏が閉塞感の強かった大和盆地を脱出し、宇治川、木津川、桂川の合流点あたりで同時ではなかったであろうが、一組は淀川を下り大阪湾へ、ほかの一組は桂川を遡上し日本海側へでたのであろう。その限りにおいては淡路島や島根県、福岡県などは合理性のある地名である。しかし、九州南部の宮崎県とか鹿児島県になると少しばかり疑問となる。
距離的な遠近から言って天皇氏は、まず、大阪湾岸の豪族大伴氏と懇意になったのではないか。大伴氏がいつ頃から大阪湾岸に根付いたのかは不明であるが、おそらく遮光器土偶の一部が出土した神戸篠原遺跡(兵庫県神戸市灘区篠原本町3/篠原中町)から鑑みると縄文晩期(3300ー2800年前)ころ今の青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市亀ヶ岡)あたりから大阪湾岸にやって来たのではないか。海の民である大伴氏は舟であちこちに移動し交易を行い、見聞を広め、摂津、河内の大領主となっていたのではないか。これに対し、天皇氏は奈良盆地内での覇権争いに終始し、軍事、経済のいずれにおいても大伴氏よりは後れをとっていたのではないか。
「家伝」に関しても、大伴氏が畿内にやって来てもある程度整っていたのに対し、天皇氏は何もなく、神武天皇になって道臣命に「家伝」の意義なり必要性なりを尋ねたところ、歴史のある出雲の大国主命に聞いた方がいいだろうと二人して出雲国で大国主命からレクチャーを聴いたら、神武天皇の理解不足からか大国主命と口論となり、神武がちょっと大国主を押したら、大国主は再起不能に近い重傷となった。神武の進言で大国主やその子息は大和国へ行ったものの、やや大げさに言うと大国主命は寝たきりに近い状態になり、大和の医術では完治はほど遠かったのではないか。
天皇氏はほかにもいろいろな面で大伴氏に後れていた。例えば、語部なども大伴氏が大伴室屋の息子に大伴談(語)と名付けているが、こういう名の人は本人が語部か、あるいは、語部の管掌者であるという。天皇氏が語部に関心を持ったのは天武天皇以降で、しかも本来の語部とは違う。
大伴氏の宗教も多分に日本では少ない一神教的で、大伴氏の祖神という別天神の一神である高御産巣日神は独神(ひとりがみ)と言うし、伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀、『幽宮御記』に祭神は「伊弉諾尊一柱也」とある)も元々は男神だけだったようである。これを奇貨とした天皇氏は高御産巣日神には天照大神という女神を天皇氏の祖神としてペアで高御産巣日神にならべ、伊弉諾尊には伊弉冉尊を日本神話の国産み・神産みの神(男神だけでは国も神も生まれてこないらしい)として、日本国並びに護国の神の出産者として天皇氏の初代の祖として祀った。住吉大社の住吉三神即ち底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)も高天原神話の「根の国」「底つ国」、「葦原 (あしはら) の中つ国」「顕国 (うつしくに) 」、高天原(たかまのはら)に同じで、現世は上界、中界、下界に分けられるようだ。あるいは、海部の海あるいは川の三界の話が高天原神話に取り入れられたものか。但し、住吉三神が海の神かどうかは不明。『記紀』にはほかに海の神としてオオワタツミ(大綿津見神・大海神)とか綿津見神(綿津見三神)があるので住吉三神は今日的に言う井戸、上下水道、飲料水の神を言ったものか。
天皇氏はその系図に取り入れたのは大伴氏のほかに天穂日命<天穂日命神社(鳥取県鳥取市福井)>、天火明命<天照玉命神社(京都府福知山市今安)、籠神社(京都府宮津市大垣)、真清田神社(愛知県一宮市真清田)>等があり、私見で恐縮だが、これらの神は日本海側に本拠を置く古墳造営を担った豪族の祖神であることが多く、天皇氏は草創期には大伴氏の系図を取り入れ、古墳時代には古墳造営の豪族の系図を取り入れ、その躍進を図ったのではないか。

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