高天原神話は天皇氏の神話か

★はじめに

各国の神話はブリコラージュ(Bricolage。寄せ集めて自分で作る)で成り立っているそうで、理由は、先行する民族や隣接する民族の神話を引用したり、各地方の神話をひとまとめにしたりしながら神話が形成されてきたために、神話体系が寄せ集めの状態(ブリコラージュされた状態)となっているから、と言う。我が国の神話には代表的なものとして「高天原神話」、「出雲神話」、「琉球神話」、「アイヌ神話」などがある。そのうち「出雲神話」は『記紀』に書かれているものと『出雲国風土記』に書かれているものと二通りあるが、双方は主演者も出演舞台も神話の内容もほとんど違う。
「高天原神話」で主役を務めるのは大国主命であり、「出雲神話」では八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)となっている。
『記紀』では、当初、大国主と少名毘古那が協力して葦原中国の国造りを行い、少名毘古那が常世へ去ったあとは大国主命が独力で国造りを行った。葦原中国とは曖昧ではあるが今の日本国を言うのであろう。但し、『古事記』では少名毘古那が常世へ去ったあと大国主命の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である大物主神と国造りを行ったというもののようである。
一方、『出雲国風土記』では、いわゆる、「国引き神話」で、内容としては「八束水臣津野命が、遠く「志羅紀」「北門(きたど、きたと)佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという。志羅紀は新羅で、高志は越であろうが、北門佐岐、北門農波の北門(きたど)は不明。佐岐は岬を言い、農波は野原を言うのであろうか。但し、農波は良波(よなみ)とする写本もある。また、北門佐岐の佐岐を現・出雲市大社町鷺浦としたり、北門農波の農波を現・松江市島根町野波とする説もある。しかし、これは国引きの出発点も到着点も島根半島となりおかしくはないか。一般的には、北門佐岐(隠岐道前)、北門農波( 隠岐道後)とするもののようである。一層のこと、八束水臣津野命の大いなる勘違いとして、今の竹島や鬱陵島にしたらいいのではないか。
それに、八束水臣津野命の神名にしても臣というカバネは後世のものらしく、かつ、八束水は現・鳥取市気高町八束水に関係あるのではないか。また、『和名抄』因幡国気多郡勝部郷の勝部氏は土木工事(古墳造営か)に携わっていたという説もある。出雲国にも神門郡に杵築大社出雲臣氏に対抗した勝部氏もいるが、八束水臣津野命とともに出雲国にやって来た一族ではないかと思料する。国引き神話も一種の土木工事とみていいのではないか。『出雲国風土記』の「国引き神話」は出雲国の本旨とは少しずれたところにあったのではないか。因みに、八束水は八塚見で八は数の多いこと、塚は古墳のこと、見は廻(めぐる、~の辺り)の意で、八束水古墳群という遺跡名もあり、古墳の多い土地を言うのではないか。また、勝部氏(因幡国気多郡勝部郷、伯耆国久米郡勝部郷、越前国今立郡勝戸郷)は因伯地名より発祥した氏の名ではないか。
『古事記』(712)、『日本書紀』(720)、『出雲国風土記』(733?)は同じ頃に編纂されているのに、『記紀』と『出雲国風土記』がまったく違う内容であるのにも関わらず『出雲国風土記』の編纂者である出雲国造の出雲臣広島や筆者の神宅臣金太理及び各郡の郡司は特段の異を唱えていないところを見ると、当時にあって大国主命神話は忘却の彼方へと追いやられ、現国造(出雲臣広島)家の祖先伝承である八束水臣津野命の国引き神話が残っていたのであろう。一説に、現地で伝えられていたのは『出雲国風土記』の神話であって、『記紀』の神話は話が大規模で入り組んでいて大和朝廷による脚色ともとれる見解もあるが、出雲郡には巨大な建物(出雲大社)や四隅突出型墳丘墓と言う独自の墳墓、大量の銅剣、銅鐸の埋納など、あるいは、現在の全国の神社が祭神を出雲系の神々を主体とするなどを考え合わせると『記紀』に書かれた出雲神話もいい加減な話ではないと思われる。特に、出雲大社などは出雲国の力では当時は建設できなかったであろうし、因幡国や丹波国など、後世、古墳造営に活躍した国の人々はおろか大和国の人々が参加して建設されたものではないか。
換言すれば、ことほど左様に真実はどこにあるのか探索するのは難しく、『記紀』の高天原神話も本当かと言うことになる。

★高天原神話の発祥地

高天原神話(日本神話)を『記紀』により時系列にならべてみると、
①天地開闢 世界の最初に高天原で、別天津神・神世七代という神々が誕生。これらの神々の最後に生まれてきたのが伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊(伊邪那美・いざなみ)である。
別天津神・神世七代という神々は、言わば、露払いというところで、天皇家あるいは日本国民ないし国土の祖神は伊弉諾尊(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみ)であると言うことかと思われる。

②「国産み」と「神産み」 イザナギ・イザナミは自らが造ったオノゴロ島に降り、結婚して最初に淡路島が作られた。次に大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していった。さらに、さまざまな神々を生み出していった。一部内容ではイザナギは黄泉の国へ向かい、その後、黄泉のケガレを祓う為禊をし、この時もさまざまな神々が生まれた。
国家とは、一定の領土と国民と排他的な統治組織とをもつ政治共同体を言う、とあり、領土としてオノゴロ島、淡路島、大八洲等を造り、次いで様々な神々と称する国民を造ったのである。

③「アマテラスとスサノオの誓約」および「天岩戸」 素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)は根の国へ行途中高天原へと向かう。天照大神(天照大御神・あまてらす)はスサノヲが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えてスサノヲを迎えた。スサノヲはアマテラスの疑いを解くために誓約で身の潔白を証明した。しかし、スサノヲが高天原で乱暴を働いたためアマテラスは天岩戸に隠れた。そこで、神々は計略でアマテラスを天岩戸から出した。スサノヲは下界に追放された。
統治機構として天照大神を頂点とする高天原統治共同体ができたが、代表代行の素戔嗚尊の乱暴狼藉(実際は経済政策の失敗か何かであろう)で根の国(美祢の国か)へ追放。

④葦原中津国平定(国譲り) 高天原にいた神々は、葦原中国を統治するべきなのはアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に遣わした。最終的に大国主が自らの宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束する。
国家の運営がうまくいかない高天原は、その一隅で善政を布いている葦原中国に目をつけその乗っ取りを謀る。老齢の身になった大国主命は葦原中国の譲渡を決意。その対価は豪壮な宮殿(出雲大社)で、大国主命の別荘になったか。本邸は大和国にあったか。有り体に言うと、「国譲り神話」とは高天原(大和国)のある程度の他国平定即ち国家統一の説話ではないのか。

⑤天孫降臨 アマテラスの孫である瓊々杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が葦原中国平定を受けて日向に降臨した。ニニギは木花開耶姫(木花之佐久夜毘売・このはなさくやひめ)と結婚し、木花開耶姫は(主に)火中で御子を出産した。
ここはよく言われるように葦原中国(中心地は現在の島根県か)を平定しながら、どうして九州の日向国に降臨したか。但し、この日向は、福岡市西区と糸島市の境界あたりに、日向峠、日向山、槵触(くしふる)山の地名がある、(イザナギは筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原というところで禊ぎをした)と言い、福岡県のことという説あり。『記紀』の原著作者がいろいろな説話の継ぎ接ぎに失敗したか。今までの高天原神話の一貫性から逸脱し、まゆつばの話が多くなるか。火中の出産の話はこのほかに、垂仁天皇と狭穂姫との間の本牟智和気(ほむちわけ)命の火中の出産の話がある。

⑥「山幸彦と海幸彦」 ニニギの子である海幸彦・山幸彦は山幸彦が海幸彦の釣り針をなくした為、海神の宮殿に赴き釣り針を返してもらい、兄に釣り針を返し従えた。山幸彦は海神の娘と結婚し彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(鵜草葺不合命)という子をなした。ウガヤフキアエズの子が神日本磐余彦尊(神倭伊波礼毘古命・かんやまといわれひこ)、後の神武天皇である。
兄弟の遺恨ないし葛藤の話は世界の神話のあちこちに見られるようで、例として、カインとアベル、エサウとヤコブが取り上げられている。これも有史時代に入ってからの天孫族による隼人族懐柔の話を神代の時代に遡らせたものか。

⑦「神武東征」 カムヤマトイワレヒコは兄たちと謀って大和を支配しようともくろむ。ヤマトの先住者たちは果敢に抵抗し、カムヤマトイワレヒコも苦戦するが、結局は成敗される。彼は畝傍橿原宮の山麓で即位する。これが初代天皇である神武天皇である。
神武東征の話は、「神武東征とトゥアサ・デー・ダナン(ダーナ神族:ケルト神話では神の一族)のアイルランド征服神話<吉田敦彦学習院大学名誉教授説>」、「神武東征とアレキサンダー大王の説話」などが類似性を指摘されている。

★まとめ

天孫族の天降り先の話として、淡路島とか日向国が出てくるが、大和盆地の出身と思われる天皇氏がどうして海人族に祖神を求めなければならないのか。天皇氏の第一の家臣は大伴氏の前は久米氏で、久米氏のいわゆる久米歌はみんな山の民の歌で天皇氏の祖神が海の近くの淡路島や日向国に天降ったとは到底考えられない。これは、畢竟、高天原神話が他の氏から天皇氏に取り入れられたもので、双方は親しい間柄であったと思われる。伊弉諾尊・伊弉冉尊が天降った淡路島の有力豪族は後世の大伴氏だったのではないか。おそらく、現在の伊弉諾神宮のあるあたりは古く(応神天皇以前)は大鞆(おおとも)と言われていたと思われ、これが大伴氏の氏の名や応神天皇の諱(いみな)の大鞆和気の起源となったのではないか。応神天皇と仁徳天皇は母堂が大伴氏出身と思われ淡路島で育ったのではないか。それかあらぬか、このお二方はめっぽう淡路島に縁があるが、天皇家と淡路島の関係は、
『古事記』
第三代安寧天皇 子・磯城津彦命 孫・和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。
第十四代仲哀天皇 此之御世、定淡道之屯家也。
第十六代仁徳天皇 欺大后曰「欲見淡道嶋。」而、幸行之時、坐淡道嶋、遙望歌曰、
淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由(おしてるや、難波の埼よ 出で立ちて わが国見れば、粟島 淤能碁呂島(おのごろしま)、檳榔(あじまさ)の島も見ゆ。佐気都(さけつ)島見ゆ。)
これは仁徳天皇が吉備国の黒比賣に会いに行ったのではなく、淡路島へ天皇の息子たちに会いに行ったら現代流に言えば「パパ、何しに来たの」と言われ、天皇はふて腐って大伴某と淡路島を回り昔を懐かしんだものではないか。ほかに、以下の文もある。
此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。故切是樹以作船、甚捷行之船也、時號其船謂枯野。故以是船、旦夕酌淡道嶋之寒泉、獻大御水也。茲船破壞、以燒鹽、取其燒遺木作琴、其音響七里。爾歌曰、
『日本書紀』
神功皇后十年春二月「香坂王・忍熊王・・・・・乃詳爲天皇作陵、詣播磨、興山陵於赤石、仍編船、絚于淡路嶋、運其嶋石而造之。」
第十五代応神天皇二年春三月「又妃皇后弟々姬、生阿倍皇女・淡路御原皇女・紀之菟野皇女」
同十三年春三月「一云、・・・・・、時天皇幸淡路嶋而遊獵之。」
同二十二年春三月「仍喚淡路御原之海人八十人爲水手、送于吉備。夏四月、兄媛自大津發船而往之。」
同二十二年秋九月「天皇狩于淡路嶋。」
以下略。
これらの文章を見ると天皇氏は早くから淡路島に別荘を持っていたようだ。そのためか天皇氏の発祥の地は淡路島という説もある。天地開闢の地が淡路島であっても何らおかしくはないと言うことなのだろう。一説に淡路島の天皇氏の勢力として天日槍一族や物部氏一族を挙げる向きもあるが根拠は薄いのでは。淡路島には出石神社(式外社)があるのでその可能性もなくはないが、これは大伴氏が邪馬台国(大和国)と狗奴国(吉備国)の戦いで天日槍命を淡路島に駐在させていた痕跡ではないのか。物部氏の本拠地も淀川中流域で、同族の鬱(内)氏とか、穂積氏とか、伊迦賀氏とか、いわゆる川部氏と思われ、何やら高句麗の「始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降出生」の河伯女郎即ち川部氏に似ている。ほかに丹波氏(丹波道主命)を京都府向日市、紀臣氏を大阪府堺市など。遠くにいては肝心の時にお役に立てなかったら元も子もない。
一応、大伴氏と淡路島を結びつける資料は何もない。しかし、天皇氏と淡路島が緊密になるのは第十五代応神天皇からで、「第十四代仲哀天皇 此之御世、定淡道之屯家也。」というのは、第十五代応神天皇の間違いではないか。失礼ながら、仲哀天皇の皇后である神功皇后はその存在に疑問詞のつく人物でその夫や如何にと思われる。仲哀天皇が存在していたとしても時代が違う。
以上をまとめると、天皇氏の高天原神話は元々は大伴氏の伝承で天皇氏が大伴氏から譲り受けて潤色したものではないか。天皇氏は山の民と思われ、大伴氏の海の民を天皇氏のものとしてなぞったものではないか。

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