邪馬台国の官人

★はじめに

『魏志倭人伝』には邪馬台國について、投馬國より水行十日陸行一月かけて到着するとなっており、そのあとに「官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳堤」とある。当時の魏の役人も官僚機構に関心が高かった見えて真っ先に「官」と出てくる。これらの官名から推測すると内閣総理大臣とか外務大臣とか国税庁長官などの官名ではなく、個人の名前の一部を聞き取ったようだ。その官名の意味するところは、
1.伊支馬(イクメ、活目入彦五十狭茅尊、垂仁天皇)
2.彌馬升(ミマツ、観松彦香殖稲天皇、孝昭天皇)
3.彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ、御間城入彦五十瓊殖天皇、崇神天皇)
4.奴佳堤(ナカツ、足仲彦天皇、仲哀天皇)
と勝手に仮定する。もちろん、諸説あるが検討を割愛させていただく。

古代の我が国では那(ナ、土地)と名(ナ、名前)は同義で、名から那を推測してみると、
1.伊支馬(イキマ、イクメ) 美作国久米郡久米郷(現・岡山県津山市宮尾。宮尾遺跡)
2.彌馬升(ミマス、ミマツ) 播磨国佐用郡佐用郷(現・兵庫県佐用郡佐用町)
3.彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ) 美作国(比定地不詳。現・岡山県美作市か)
4.奴佳堤(ナカテ、ナカツ) 吉備の中山(中山神社。現・岡山県津山市一宮)

以上は意図的に選んだものではなく、邪馬台国と狗奴国の紛争が大和と吉備の戦い(古墳時代に入っても大和と吉備の序列は変わらない。即ち、邪馬台国は大和であり、狗奴国は吉備なのである)なら、大和と吉備の地名に目が行くのが当たり前で『和名抄』の郡郷名あたりを基準にしたら上記のようになった。

★上記の地域名を選定した理由

1.伊支馬(イキマ、イクメ) 当時の「久米」の地名で有力どころは、大和国高市郡久米郷(奈良県橿原市久米町)、美作国久米郡久米郷(岡山県津山市宮尾)、伊予国久米郡(愛媛県松山市久米駅界隈) があり、大和(邪馬台国)にも吉備国(狗奴国)にもあった。久米は久美・久味(=組)と同義で何らかの組織を言ったものか。即ち、当時にあっては軍隊を言い、久米郡ないし久米郷は軍隊の駐屯地を言ったものか。伊支馬はその長で軍隊が司令官を失うと言うことは大変なことだったと思う。大和の大久米命のような人だったか。狗奴国はあるいは久米国の音を写したものか。
2.彌馬升(ミマス、ミマツ) 『播磨国風土記』に「飾磨郡」に大三間津彦命とか「讃容郡」の邑宝里に弥麻都比古命、同里・久都野の段に弥麻都比古命とあり、播磨国佐用郡と美作国吉野郡は隣接して双方行き来があったようで、かなり後世になるが「明治29年(1896年)4月1日 岡山県吉野郡石井村の所属郡が兵庫県佐用郡に変更。兵庫県佐用郡江川村が岡山県吉野郡讃甘村の一部(中山)を編入。」という記事がある。彌馬升(ミマス、ミマツ)も現在の兵庫県佐用郡佐用町もしくは姫路市あたりの出身か。

<美作国の吉野郡ないし吉野郷について>
『和名抄』には、吉野郡はなく吉野郷が英田郡と勝田郡にある。
*吉野郡の文献初出は、応仁二年(1468)十二月二十九日 後花園上皇院宣「美作国吉野郡粟井庄」(現・美作市粟井中など)
文化年間(1804~18)成立。地誌「東作誌」「文明三年(1471)英田郡の七郷を割いて成立」
以上より美作国吉野郡の成立は15世紀後半か。
郡域は、美作市の一部、英田郡西粟倉村の全域、兵庫県佐用郡佐用町の一部(明治11年<1878>)
*英田郡吉野郷 『和名抄』東急本に記載あり。高山寺本には記載なし。
推定郷域 美作市山手から五名
*勝田郡吉野郷
推定郷域 勝田郡勝央町上香山、曽井、田井、豊久田、美野等。
古墳時代に入ってから美作最大の首長勢力の存在した地域という。美野高塚古墳、美野中塚古墳、田井高塚古墳、植月寺山古墳など。
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳堤が邪馬台国へ行ったあと英田郡吉野郷から勝田郡吉野郷へ移住してきて、覇権を確立か。双方の吉野郷はそんなに離れてはいない。

3.彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ) 美作国は発祥地未詳であって、従って地名の語源も定かではない。彌馬獲支(ミマカキ、ミマキ)即ち御間城入彦に相当する部分は弥麻都比古と類似性が見られるのではないか。地域的には現在の岡山県美作市あたりか。
4.奴佳堤(ナカテ、ナカツ) 吉備国には中山という地名がやや多いそうで、その中でも「吉備の中山」と言われるところは、①備前一宮の吉備津彦神社と備中一宮の吉備津神社が鎮座している中山、②美作国一宮中山神社のこと、と言う二箇所の地名が著名である。一般的には岡山市の中山が通説のようだが、津山市の中山神社説も折口信夫・池田弥三郎・山本健吉等の著名人の賛同を得て有力説にのし上がってきているようだ。ここでは自己の主張に有利な美作国一宮中山神社説を正とする。

以上を総括すれば、四人の官人は現在のJR西日本姫新線佐用駅から美作千代駅にかけての豪族だったか。中国山地南麓に位置し、当該地は一般に砂鉄の産地と言われているが、吉備の製鉄については「岡山県内では遅くとも五世紀の中頃<月の輪古墳(つきのわこふん)の墳頂から出土した一点の鉄滓を根拠とする。岡山県久米郡美咲町飯岡(ゆうか)の大平山(標高320メートル)山頂に5世紀前半に築かれた古墳>に始まった製鉄は、六世紀後半以降、箱形炉による操業が盛んになり、「まがねふく吉備」と呼ばれるに至る(光永真一「岡山県の歴史」P.68) 」という。邪馬台国時代には吉備では製鉄は行われていなかったという見解だが、一般論として「小林(行雄)博士は弥生時代における農耕開始後の階級発生は必然ではなく,唯物史観からみた単なる公式的見解にすぎないことを自認しつつも,鉄器使用の普遍化を鉄製の鍬鋤刃先の採用と捉え,それが農地の開墾を容易にし,生産力の急激な増大に至らしめ,巨大な古墳の築造をも可能にしたとする。さらには日本列島における階級社会の出現を急速に推し進める原因ともなったと推断したのである。」と言い、弥生時代後期即ち邪馬台国時代には製鉄があったと言う見解は考古学者には多いようである。

★吉備国の分断工作は何のためか

当時の播磨国から西は吉備国の勢力下にあったと思われ、こんな分断工作を行ったのは播磨国の隣国摂津国(当時は津ノ国)の豪族で邪馬台国の雇われ軍師であった大伴氏であったと思われる。大伴氏が分断工作を行った理由は、
1.播磨国の主力豪族である伊和大神<播磨国宍禾(しさわ)郡伊和村を本拠とする伊和君(いわのきみ)に祭られて,揖保(いいぼ),宍禾,讃容(さよ)などの諸郡に事績を残している。>の逃げ道の確保。
大伴氏は吉備国へ侵攻する際、まず播磨国の伊和大神との前哨戦を行ったが(実際には大伴軍は天日槍命が主導した)、大伴某はその勝利を事前に確信し、殺戮等は行わず、現在のJR姫新線に沿って追いやった。伊和君は播磨国の古墳造営の総監督とも言うべき氏族であったが、古墳造営がなくなると伊和君も消滅したという。
2.大伴氏は邪馬台国のために鉄の確保に奔走したが、美作国久米郡久米郷、播磨国佐用郡佐用郷、美作国英田郡吉野郷は砂鉄の産地と思われ、中山神社も祭神が金属にまつわる神がほとんどだ。その砂鉄を鉄鋌にして邪馬台国に今で言う鉄工所を建てて鉄器(主に鋤鍬の類いか。豊鍬入姫命<とよすきいりひめのみこと>という皇女がいた。卑弥呼女王の宗女台与のことか)の製造をしようと思ったが、卑弥呼女王一族の人の反対で断念したか。
しかし、邪馬台国時代にも鉄器製造群落遺跡があり、兵庫県淡路市黒谷にある弥生時代後期の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)は、国内最大規模の鉄器製造群落遺跡である、と言い、滋賀県彦根市稲部、彦富両町にある弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の稲部遺跡は同時代では他にない規模という鉄器工房群の遺構と言う。
大伴氏は邪馬台国(大和国)での鉄工所建設を諦め対狗奴国(吉備国)前線基地のために淡路島に、後方支援基地のために近江国に鉄工所を建てたのではないか。しかし、鉄器工房はいいのだが、我が国には弥生時代の製鉄遺跡がないと言うのが金属の専門家の意見で、大規模な鉄器工房をまかなうのに全部が全部輸入品でまかなうとは考えづらく、何らかの形で鉄素材が増えたので二大工房ができたと思われるので今後の遺跡の発見を待ちたい。製鉄遺構の調査例で最古のものは6世紀後半と言い、遺構は製鉄炉、作業場、廃滓(はいさい)場、燃料置場がセットになっているという。製鉄原料には赤目(あこめ)とよばれる砂鉄(さてつ)が、燃料にはアベマキが用いられた。注目したいのは「このころの和鉄製錬は、地面を掘って築いた野炉(のろ)で砂鉄と木炭をあわせて溶融したものといわれる」との一文で、野炉は後世の竪形炉の前身の炉ではないか。即ち、竪形炉は、地面を直径約 60 ㎝の円筒形に深く掘った部分を炉とし、地上部に粘土で煙突を設けた構造です。炉の後ろには踏ふいごと呼ばれる送風装置が設置され、炉の中に風を送り込むための羽口が1本取り付きます。この羽口は内径約10㎝、長さ約60㎝で、箱形炉の羽口に比べて大型です。未だ美作国北辺からは鉄滓などを伴う炉穴などは出てきていないようだ。

★まとめ

邪馬台国の官人は『魏志倭人伝』からは何をしていたかは解らないが、狗奴国との紛争状況から見て紛争解決要員として期待されていたのではないかと思われる。しかるに、もし四人の官人が吉備国出身(地位はヨーロッパの辺境伯のようなものか)としたならば、その動きは非常に鈍いものになっていたと思われえる。あまり期待できないものをスカウトしてきた大伴氏は卑弥呼女王一族(神武天皇の子孫か)から総スカンを食ったのではないか。しかし、大伴氏は吉備国の勢力下にあった播磨国の隣国摂津国の領主で、邪馬台国としては大伴氏に頼るほかはなかったのではないか。大伴氏は戦略家だったらしく、吉備国(狗奴国)攻略の前哨戦として播磨国の伊和大神を破り、吉備(後世の備前、備中)へ進攻しようとしたとき卑弥呼女王が逝去したようである。休戦協定としては豊鍬入姫命(『魏志倭人伝』に言う台与)の邪馬台国への輿入れ、鋤、鍬などの膨大な鉄器を嫁入り道具(邪馬台国から見ると戦利品)として持参等が取り決められたのではないか。
伊和大神は架空の神とする向きもあるが、その信仰圏は播磨国揖保郡、讃容郡、宍禾郡に及び、播磨国宍禾郡伊和村を本拠としていた。その事績としては土地の開拓、境界の設定、酒の管理、外敵追放などがあるようだ。「石作の里(もとの名は伊和)  石作と名づけるわけは、石作首らがこの村に住んでいる。庚午の年(670)に名を改めて石作の里とした」とあるように、伊和大神の本性は古墳造営ないし製鉄業で、伊和は石(イハ)の意味か。付近には波賀(はが)の地名もある。波賀はハカ(墓)のことか。兵庫県宍粟市の波賀町は奈良時代に「波加」、平安時代に「伯可」の表記で記録のある地名、とある。
邪馬台国の拡張策は現今で言う手に職のある中小豪族を取り込み、経済発展で富国強兵を実現しようとしたもので、『魏志倭人伝』の言う倭国大乱はどの程度のものだったか。また、雄略天皇(倭国王武)の中国の宋(南朝)の順帝に送った上表文では戦争、戦争また戦争で領土を拡張したようなことを言っているが本当か。
吉備国(狗奴国)は、鉄、米(吉備国の語源は黍という説もある)、塩などで邪馬台国より優位に立ち、最終的に邪馬台国の後裔国家である大和朝廷に従属するようになったのは応神天皇の時代ではないかと思っている。後世の美作国の四人の豪族が邪馬台国(大和朝廷)に寝返ったからと言って吉備国が滅びると言うことはなかったのである。

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