弥生時代

★はじめに

過日(2018年5月15日)の全国各紙に「卑弥呼の時代の?桃の種 年代測定、邪馬台国論争に一石」とか「測定した教授「集大成」 モモの種年代測定」とか「邪馬台国 畿内説後押し – 西暦135年~230年と判明/纏向遺跡のモモの種、年代測定」というような見出しが一斉に書かれていた。<邪馬台国 畿内説後押し>などとあったので有力な傍証でもあったのかと思いきや某紙には「(加速器質量分析法は)近年の研究では日本の試料は国際的な補正データとズレがあることが指摘され、日本独自の補正グラフの作成が求められている。」とのおまけまでつき、2003年5月19日の国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表した、「水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは、定説より約500年早い紀元前1000年ころ」と言うのと変わらないじゃあないか、と言う思いだ。
国立歴史民俗博物館の研究チームが水田稲作開始期の調理用の土器についているススなどの炭化物を炭素14年代測定して発見したという。その主導的役割を担った国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎博士が、過般(2015年8月20日)、『弥生時代の歴史』(講談社刊、講談社現代新書2330)を上梓され、弥生時代あるいは弥生遺跡が従来考えられていたのとはかなり異なったものであることを述べられているので的外れかもしれないが検討をしてみることとする。

★前提としていること

藤尾博士はその著『弥生時代の歴史』の「はじめに」の項で、
1.弥生時代とは、本格的な水田稲作が九州北部で始まった紀元前10世紀から、定型化した前方後円墳が近畿に造られて古墳時代が始まる後3世紀までの約1200年間を弥生時代とする。
2.文字や暦のない時代の遺跡や遺物の年代は、考古学的な方法と自然科学的な方法を用いて調べる。
3.自然科学的な方法では炭素14年代測定法(AMS=加速器資料分析法)を使用する。具体的には、まず、試料の炭素14年代の測定はAMS(Accelerator Mass Spectrometry = 加速器質量分析計・装置の小型化に伴い多くの施設で入手可能)で行い、校正曲線で較正年代(暦年代・Calendar year)に換算する。
校正曲線とは、暦年代が解っている年輪ごとに炭素14年代測定して作られたデータベース。その結果を修正して統計処理したものが較正年代であり、較正年代を結んで線状に表現したものが較正曲線である。一般的には、Y軸には炭素14年代、X軸には較正年代が当てられ、座標平面に較正曲線が描かれる。
年代の読み方には次の二通りがある。
*炭素14年代(炭素14の動植物の内部における存在比率は死ぬまで変わらない。死後は新しい炭素の補給が止まり、存在比率が下がり始める。この性質と炭素14の半減期が5730年であることから年代測定が可能となる。)
*較正年代(暦年代・Calendar year)(年縞堆積物および年輪年代により年代の較正が行われる。年輪年代では、およそ12600年程度までの放射性炭素年代値 (BP) と実際の年代の対応表が作られている。計算式でもできるという。)
科学技術の技術は日進月歩なので前の測定と後の測定に大きな差があることがある。
4.弥生開始年代 暦博の当初の測定では弥生開始較正年代は紀元前9世紀であったが、その後の試料の増加で紀元前10世紀後半となった。これに対する批判として、
①従来の弥生開始年代をまったく変える必要はない。暦博の試料に問題がある。
②従来の年代観よりは遡るが暦博の言う前10世紀までは遡らない。近隣地域の朝鮮半島や中国の遼寧地域の考古学的知見により判断している。
③暦博説を肯定する。土器型式ごとの較正年代に準拠している。
5.弥生時代とは、水田稲作を生活全般の中心においた文化。弥生時代には、弥生文化(本州、四国、九州)、続縄文文化(北海道)、貝塚文化(奄美、沖縄、先島)、縄文文化の四つの文化が存在していた。九州北部以外は水田稲作が始まるまでは縄文文化が続いていた。
6.弥生時代を、早期、前期、中期、後期に分ける。一度始めた水田稲作を継続し、古墳を作るのは鹿児島から宮城までの地域に限られている。北海道や沖縄では水田稲作は行われていなかった。東北北部では水田稲作をわずか300年しか行わず(水田稲作をやめた)、古墳を作らなかった。
7.弥生時代の登場人物 縄文人(弥生時代に日本列島にいて水田稲作を行っていない人) 弥生人(弥生時代に日本列島にいて水田稲作を行っている人) 外来人(外国から我が国へやって来た人。渡来人とも) 在来人(元々日本列島に住んでいた人) 倭人(縄文人と弥生人を統合した名称であろうが、鉄を求めて朝鮮半島南部に渡るようになってからあとの人)

★弥生時代の問題点

本当はここで藤尾博士の分類した弥生時代の早期、前期、中期、後期の各期における問題点を一点ぐらい取り上げて論じようと思ったのだが、冗長になり、何を言いたいのだなどとケチをつけられてはと思い、暦博の発表で物議を醸したと言ったら語弊があるかもしれないが、弥生時代の開始年代につき、Wikiー「放射性炭素年代測定」では、

「弥生時代の開始期は通説では紀元前5 – 紀元前4世紀ごろであったが、2003年3月の国立歴史民俗博物館の発表では約500年古い(早い)約3000年前(紀元前10世紀終頃、つまり、九州北部の弥生時代早期が前949年 – 915年から、前期が前810年頃から、中期が前350年頃から、それぞれ始まった。)に遡る結果が出た。2003年5月の日本考古学協会総会での報告は、衝撃、当惑、賛成、反発などとともに拒否、嘲笑などに覆われた。

その後、土器に付着した炭化物が海産物に由来する塩を使って調理や貯蔵されていた場合、前述した海洋リザーバー効果により年代が100年から500年古く推定されることが明らかとなった。このため、国立歴史民俗博物館は2014年に計測をやりなおした結果を発表し、過去の推定に間違いがあったことを認めている。」と。
但し、私見で恐縮であるが、国立歴史民俗博物館の2014年プレスリリースには訂正のことは載っておらず、逆に「企画展示ー弥生ってなに?!【2014年6月5日】」の「企画主旨」には「紀元前10世紀に九州北部で水田稲作が始まってから云々」と曰っている。これに対しWikiー「国立歴史民俗博物館」(<弥生時代開始時期繰り上げ説>の項)では、「北海道埋蔵文化財センターグループや九州大学グループからの指摘により次第に論調が弱くなってきた。
そして、2014年の論文で博物館の研究チームは、日本縦断的に土器を調査することにより炭素14年度測定法では土器に付着した海産物の海洋リザーバー効果などにより100-500年古くでることを認めるに至り[弥生移行期における土器 使用状況からみた生業 – 国立歴史民俗博物館 国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014年2月 p283-347]、弥生時代開始時期繰上げ論は破綻した状態になっている。

以上を総括するならば、「弥生時代開始時期繰り上げ説」は専門家の間ではまだ安定した通説にはなっていないのではないか。

★まとめ

我が国は縄文時代はもとより、弥生時代でも未だ統一国家はなく、従って、藤尾博士の言う弥生時代の早期、前期、中期、後期というのも弥生文化即ち水稲稲作が浸透している本州、四国、九州の稲作地帯における時代区分であって、これらの地域(本州・四国・九州)であっても稲作を行っていないところは縄文文化だった。続縄文文化(北海道)、貝塚文化(奄美、沖縄、先島)の地域は米(こめ)では弥生人とは結びついてはいなかったが、人種では弥生人と結びついていたか。また、我が国には水田稲作を300年間行い、その後忽然とやめた地域がある、と言う。現在の青森県で、垂柳遺跡は洪水が原因で廃絶されたという。洪水に遭っていない地域に移転したわけではなく、青森県全体で水田稲作をやめた。
ところで、縄文時代とか弥生時代というのは土器の違いにより命名されたもののはずだが、後年、弥生土器と古墳時代の土師器の区別が難しくなり「その時代を特徴付ける指標で区別する」という考えが提示され、「水田稲作の開始をもって弥生時代が始まる」と定義している。なんだかご都合主義とも思われるような見解だが、専門家の多数が良とするものなのでそれでいいのだろう。
また、上述したように、暦博の研究チームが「日本縦断的に土器を調査することにより炭素14年度測定法では土器に付着した海産物の海洋リザーバー効果などにより100-500年古くでることを認めるに至り・・・」(Wikiー国立歴史民俗博物館)と言っているのに、失礼ながら頑迷固陋と言おうか、古色蒼然と言おうか、「水田稲作が紀元前10世紀に始まった」を固守している。しかし、藤尾博士の所見では日本に水田稲作の到来した紀元前10世紀から100年ほどで、弥生的遺物や遺跡が出現している。例として、
最古の環濠集落 福岡市那珂遺跡 前9世紀 直径が約150mの壕を二重にめぐらした環濠集落。
最古の有力者の副葬品 福岡市雑餉隈遺跡 前9世紀 木棺墓に小壺、磨製石鏃、磨製石剣が副葬されていた。
最古の戦死者 糸島市新町遺跡 前9世紀 長さ16cmもある柳の葉のような形をした石の矢じり(朝鮮式磨製石鏃)が左大腿骨に突き刺さった男性の遺体が支石墓に葬られていた。
と言うことで、水田稲作が日本で始まり100年ほどで農耕社会が成立した。それには論理の矛盾はないだろうが、何が問題かと言えば弥生時代の開始をAMS炭素14年代測定法で行い、その後の社会の進捗を考古学的手法で行っている。厳密を旨とするなら全部AMS炭素14年代測定法で測定した方が良かったと思う。
水稲稲作は250年間九州北部にとどまり、その拡散は緩慢だった、とあるが、これは現代的に言うならば商品化に時間がかかったと言うことであろう。一説によると、「日本の温帯ジャポニカ種は 他の地域に比べ多様性を喪失している これは渡来したイネが極少数であったことを表し 一握りの籾を携え丸木舟でやって来た人たちを想像することが出来る」とあり、朝鮮半島から五月雨式に東アジア型の支石墓の風俗などを携え大勢の稲作農民が九州北部へ来たとは思われない。東アジア北東部の水稲農耕の民(Y-DNA O1b2)は日本人及び朝鮮民族に高頻度であり、満州族でも中頻度で見られる、とあるが、朝鮮半島ではともかく日本では水稲農耕とは関係がないのではないか。従って、藤尾博士の水稲農耕朝鮮半島由来説はいかがなものか。もし、我が国の水稲稲作が朝鮮半島由来のものならもう少し支石墓が多くてもいいはずだが、実際には九州(福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島県)のほかは愛媛県(1基という説あり)くらいである。
九州の水田稲作民の行動方式もおかしく、板付遺跡ではコメのみしか作っていなかったのに対し、本州・四国の遺跡ではキビ・アワの畑作と水田稲作を併用している。遺跡によっては水田と畑の組み合わせが異なると言う。これも九州の水田稲作民は危険分散の意味を正しく理解していなかったのではないか。また、佐藤洋一郎博士によると、「静岡大学近くの曲金北(まがりがねきた)遺跡では、100の小区画のうち、水田はたった22区画だけだったんです。さらにDNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲でした。」と言うことで、九州の水田稲作農民はコメの収量の多いところ(中国・江南)から来たか年がら年中コメがとれたところとなるのだろう。
水田稲作の拡散状況を計る指標として遠賀川式土器があるようで、藤尾博士も大阪平野、鳥取市本高弓ノ木遺跡、徳島市庄・蔵本遺跡(文中では触れられていないが庄・蔵本遺跡は遠賀川式の集落という)を紹介しているが、水田稲作の拡散が一般的に言われるような「一気に」とか「瞬く間に」とはならず、「九州北部から近畿に広がるまで約350年、関東南部にいたっては約650年かかった」と言う。当たり前のことで、高度な水田稲作技術が簡単に技術移転できるものではなく、外来系弥生人が多くなったからと言ってみんながみんな農業に詳しいわけではなく、地図を見ても東日本の遠賀川系土器(まがい物のことか)の分布は散発的なものだ。遠賀川式土器と水田稲作は同時進行的に西から東へ移動したが、土器は品質が良くて、コメは副食として最適だったので受け入れられたのではないか。九州のコメに特化した農業って何だったのだろう。それに、福岡県遠賀郡水巻町のウェブサイトでも、
「立屋敷遺跡は、昭和6年(1931年)に発見された弥生時代の集落遺跡です。特に、文様のある弥生式土器は、九州ではこの立屋敷遺跡ではじめて発見されたもので、稲作文化の伝播ルートを考える上で、当時の学界の注目を集め、遠賀川式土器と呼ばれ、弥生時代前期に位置づけられました。これまでに3回にわたる調査が行われましたが、掘立柱建物の柱跡や井戸跡、ドングリを貯蔵した穴、多量の弥生式土器や石包丁、木製農具などがみつかりました。いずれも弥生時代後期のものでこの時期が集落の最も栄えた時であったと考えられます。」
とあり、やや冷めた目で見ているようだ。
我が国の史書『記紀』によれば、我が国が国家として統一されたのは景行天皇の時代と言い、弥生時代とは国家の統制のない自由経済の所産と思う。

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