天皇陵について

★はじめに

天皇陵と言ってもどこにでもあるものではなく、ほとんどがその天皇が営んだ宮都のそばに造営されている。現在の都道府県名で言うと京都府、大阪府、奈良県が多いようである。特に、講学上「古墳時代」と称される時代には前方後円墳と言われる巨大墳墓が「大王」の墳墓を頂点にほぼ全国的に造営されている。ところが、この隔絶した巨大古墳に関して問題になるのは、ほとんどが誰の墓か解らないことである。一応、我が国最古の古典『記紀』にはおおむね各天皇の墳墓の所在が記載されているが、その後の考古学等の進展による知見と相まって<怪しい>とされる記述が多いようだ。
例えば、白石太一郎ほか編『天皇陵古墳を考える』(学生社、2012.1.20刊)によると(同書、P148~149)、

「『延喜式』にみられる具体的、相対的な位置関係を示すような陵名は、このとき定められたものと思われ、必ずしも確かな根拠をもつものとは考えられません。」
具体的には、『延喜式』の諸陵寮式の陵墓暦名が仁徳陵を百舌鳥耳原南陵中陵、履中陵を百舌鳥耳原南陵、反正陵を百舌鳥耳原北陵としているのは間違いと言うことなのだろう。『記紀』の原本とも言うべき『帝紀』ではたんに百舌鳥野、ないし百舌鳥耳原とよばれた地域に存在することしか伝えられていなかった、と言うのである。

「大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群に営まれた大王墓は、古市の仲津山古墳→百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳→古市の誉田御廟山古墳→百舌鳥の大仙陵古墳というように、この時期、古市古墳群と百舌鳥古墳群との間で交互に営まれます。したがって、仁徳、履中、反正の三代続いた大王がすべて百舌鳥につづけて大王墓を営んだとする記・紀の伝承は、こうした最近の考古学的な古墳の編年研究の成果とは明らかに矛盾します。」
ここまで来ると、『記紀』の従来の万世一系の皇統譜にもヒビが入ると言うことか。

そして、白石太一郎先生はこう締めくくっている。

「これは、古墳の編年など考古学的な研究や判断に問題があるのか、あるいは記・紀にみられる陵墓の記載、さらには記・紀の王統譜の伝承それ自体に問題があるのかのいずれかでしょう。むしろそのすべてに問題があるのかもしれません。」
「一般に史料的確実性がきわめて高くなると考えられている応神以降の帝紀の記載にも、大きな問題が残ると考えざるをえないことになります。」
白石先生は考古学者なので『記紀』の伝承に問題あり、とお考えのようだが、現代の科学の進歩によればそれも宜なるかなではある。とは言え、ここで『記紀』の皇統譜をひっくり返すとなると正鵠を射ることはできなくなるのではないかと思われる。そもそも大王は当時の首長連合、政治連合の盟主であり、連合諸国の一国である倭国の王と考えられていたようだ。倭国王が世襲制であったかどうかは解らず、あたかも血縁でつながっているように書いてある『記紀』には疑問を呈する向きも多い。

★記・紀は根本的に間違っている

『旧辞』、『帝紀』は誰が編纂したのかだが、日本の大王(後世の天皇)や首長連合の首長(各豪族の長)は中国の例に倣い家伝等を整備するのに文字のない時代から「語部(かたりべ)」等を育成し祖神から続く我が氏(うじ)の歴史を記録していたようである。はじめは各氏の記録であり自分のご先祖の武勇伝的なものが多かったであろうが、地域が統一され、日本列島が統一されてくると、各氏の歴史ばかりでなく、国家の歴史(国史)の編纂も必要となってきた。『記紀』において日本列島の統一の歴史を飾る天皇としては、神武、崇神、景行、応神の諸天皇がいるが、やはりこれらの天皇がステップ・バイ・ステップで国土の統一を図り、その記録を残してきたので後世にその名を挙げているのである。たんに『旧辞』、『帝紀』の編者がそこいらに語り継がれていた首長の名を拾い集めていたものではないと思う。当然のことながら、当初は国史編纂者としては大王があたりその直属機関として語部や文字による記録者がいたと思われる。文字による記録に一本化したのは雄略天皇の大連だった大伴室屋からではなかったか。
雄略天皇は、「倭の五王」中の倭王武に比定され、その倭王武の上表文では勢力拡張を述べ、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「獲加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王」と解する説が有力で、中国の宋(南朝)の順帝に送った上記上表文や上述の鉄剣銘や鉄刀銘を考え合わせると雄略天皇の時代に中国の漢字文化が本格的に移植されたのではないか。
翻って、『続日本紀』巻第四に以下のごとき一文がある。

「《和銅元年(七〇八)正月乙巳(乙未朔十一)》和銅元年春正月乙巳。武蔵国秩父郡献和銅。・・・・・自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪無軽重。已発覚・未発覚。繋囚・見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。 謀殺人已殺。賊盗。常赦所不免者。不在赦限。亡命山沢。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。・・・・・」

和銅元年一月十一日未明以前の死刑以下の罪、罪は軽重なく、出頭・自首、拘留中のもの・現行犯(あるいは流刑中?)のもの、ことごとく大赦とする。八虐、故意の殺人・謀殺人の既遂、強盗で「律」で通常の恩赦を認められないものは今回の大赦の限りではない。山沢に逃亡し、禁書を所持し、百日経っても自首しないものは元のごとく罰する。

「其犯八虐。・・・」以下はその前の文章の但し書きのようだ。
何か禁書を所蔵して逃亡し百日で自首しないものは大赦の恩恵には与(あずか)らず、当初の罪に復すと言うことらしく、禁書を持ち歩くものの方が死刑囚より罪が重いと言うことのようだ。禁書とは政権に都合の悪い図書のことで、思想統制の最たるものだ。似たような文章は慶雲四(707)年七月十七日(亡命山沢。挟蔵軍器。百日不首。復罪如初。)、養老元(717)年十一月十七日(亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初。)にもある。民衆から軍器を取り上げ、禁書を取り上げ、兵器を取り上げるの意味らしい。「民衆の一斉蜂起は言語道断」と言うことらしく、為政者の成果は徐々に上がっていったようである。
このほかにも、持統天皇の御代には「持統五年(691)八月己亥朔辛亥、詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記。」とあり、実際には墓記は提出されなかったという説もあるが、提出されたが返還されなかったと言う説もある。天皇家の資料でははなはだ心許なく、これらの氏族の墓記をつまみ取りし天皇家の家記に補充したと言うことか。
以上よりとても正確な国史編纂とは言えなかったと思われる。しかも、実際に『日本書紀』の編纂業務を担ったものは、以下のごとく大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首(前半)、従六位上紀朝臣清人・正八位下三宅臣藤麻呂(後半)と位階の低い下級官吏ではなかったか。有り体に言えば当時は無責任体制がはびこっていたのではないか。天武天皇の詔にある中臣大嶋と平群子首以外の川島皇子等は仰々しく見せるための付け足しではなかったか。
『日本書紀』による
天武天皇十年(681)三月庚午朔癸酉、・・・・・丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。
『続日本紀』による
《和銅七年(714)二月戊戌(10)》○戊戌。詔従六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰国史。

★古市古墳群と百舌鳥古墳群

古市古墳群と百舌鳥古墳群の大王級の古墳は交互に言わばたすき掛けで造営されていたというのが現今の多数説であるようだ。従って、実際には応神天皇系の大王家と仁徳天皇系の大王家の二系統があって交互に大王の地位に就いていたのかもしれないが、造営年代につき円筒埴輪や須恵器で判定されているのは少し疑問だ。例えば、仁徳天皇の後継の天皇は、
第17代履中天皇(在位:履中天皇元年2月1日 – 同6年3月15日。5年間。)。名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)。
第18代反正天皇(在位:反正天皇元年1月2日 – 同5年1月23日。4年間。)。名は多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)・水歯別命(古事記)。
第19代允恭天皇(在位:允恭天皇元年12月 – 同42年1月14日。41年間。)。名は雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。
第20代安康天皇(在位:允恭天皇42年12月14日 – 安康天皇3年8月9日。2年間。)。名は穴穂(あなほ)。
第21代雄略天皇(在位:安康天皇3年11月13日 – 雄略天皇23年8月7日。21年間。)。名は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)。
とあるが、あくまでも『記紀』の記述が正しいとすればの話であるが、仁徳天皇陵は寿陵(天子が、生前に作っておく自分の墓。)と言うが、「於是天皇登高山見四方之國 詔之 於國中烟不發 國皆貧窮 故自今至三年 悉除人民之課役 是以大殿破壞 悉雖雨漏都勿修理 以棫受其漏雨 遷避于不漏處 後見國中於國滿烟 故爲人民富 今科課役 是以百姓之榮 不苦役使 故稱其御世謂聖帝世也」(『古事記』下巻)とある、「自今至三年 悉除人民之課役(三年間の免税)」とか「聖帝」という言葉とどのように整合性をとるのか。株式会社大林組の試算によると仁徳天皇陵(大仙陵古墳)を造営するには15年8ヶ月を要するという。仁徳天皇の在位は仁徳天皇元年1月3日 – 同87年1月16日と言うので86年の長きにわたるが、何説を採っても先代は応神天皇で、その多くは応神天皇とともに朝鮮出兵に関わっていたであろうし、とって返して大陵墓の造営は考えがたい。あるいは在位86年間も今では考えられないような数字だ。また、仁徳天皇の諱の大雀(おおさざき)も一族が景行天皇(忍代別)、応神天皇(誉田別)、履中天皇(去来穂別)、反正天皇(瑞歯別)と言って「ワケ王朝」を表すかのようなカバネ(?)を使っているのに、仁徳天皇だけが「大雀」である。この意味するところは仁徳陵は天皇の逝去後に造営されたもので完成までに短命政権が何代か続いていたと思われる。年数から言うと允恭天皇の御代に完成したと思われるが、あるいは雄略天皇の御代までずれ込み雄略天皇が築造をやめさせたのかもしれない。その間造営関係者たちも誰の墓を造っているのか解らなくなり、被葬者を大雀(大きな墓の意)命としたのではないか。関係者も年を取り過ぎて今で言う痴呆症にでもなったか。
以上より古墳の築造年代を円筒埴輪だけで判断するのは問題であり、今のところはそれしか判断材料がないと言うのかもしれないが、指紋一つ、髪の毛一本からでも犯人を割り出す時代なのだから、もう少し最新科学を導入・駆使して発掘成果を鑑定してはどうか。古市古墳群と百舌鳥古墳群も先行する古墳(古市の津堂城山古墳<被葬候補者:允恭天皇>・仲津山古墳<現・応神天皇皇后・仲津姫命陵>と百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳<現・履中天皇陵>)があり、墓地としての開発は早かったようだ。

★まとめ

我が国の古墳時代以前の大和朝廷の王家については、はっきりしているだけでも初代神武天皇系の王朝、「イリ王朝」「ワケ王朝」の三王朝があったようで、それぞれの王朝の開祖はその版図を拡大して王朝の開祖となったようである。各王朝は前王朝を滅ぼして王位を簒奪したわけではなく、「神武王朝」「イリ王朝」「ワケ王朝」は言わば鼎立していたような状態になっていた。

まず、神武王朝であるが、神武天皇は元々大和(現・奈良県)の人で神武東征の話はまゆつばの話ではないかと思う。『魏志倭人伝』によると不安定な政権だったようでおそらく神武天皇の子孫の卑弥呼女王(倭姫命か)の代になって安定しだし、外国とも正式な国交をもつようになったと思われる。神武王朝時代は日本の時代区分では弥生時代であり、天皇陵と言っても弥生墳丘墓と言うことになろうかと思われる。『記紀』に書かれている神武天皇や欠史八代の天皇の「陵」が墳墓と言えるかについてはいろいろと意見があるようだ。また、欠史八代の天皇は「現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力」という有様で、御陵について言うと、
第二代綏靖天皇陵 奈良県橿原市四条町にある桃花鳥田丘上陵 直径約30メートル、高さ約3・5メートルの円墳 2018年2月23日考古・歴史学会代表者の立ち入り調査
第三代安寧天皇陵 奈良県橿原市吉田町にある畝傍山西南御陰井上陵 公式形式は山形 未調査
第四代懿徳天皇陵 奈良県橿原市西池尻町にある畝傍山南纖沙溪上陵 公式形式は山形 未調査
第五代孝昭天皇陵 奈良県御所市大字三室にある掖上博多山上陵 公式形式は山形 未調査
第六代孝安天皇陵 奈良県御所市大字玉手にある玉手丘上陵 公式形式は円丘 未調査
以下省略するが、墓の形式で山形とあるのは単に山のことであって古墳ではないと主張する学者もいる。総じて、弥生墳丘墓とは認めがたいと言うことか。

次いで、イリ王朝であるが、イリ王朝のほか崇神王朝、三輪王朝とも言われる。大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され、この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とよばれる。『記紀』では崇神天皇が始祖と言う。
古墳時代の前期(3世紀の中葉から4世紀の初期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和・柳本古墳群が展開し、渋谷向山古墳(景行陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓か)、行燈山古墳(崇神陵に比定)、メスリ塚、西殿塚古墳(手白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300から200メートルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったと推測される、と言う。さらに、これらの王たちの宮(都)は『記紀』によれば、先に挙げた大古墳のある地域と重なっていることなどから、崇神天皇に始まる政権はこの地域を中心に成立したと考えられる、と。
三輪政権は、初期大和政権と捉えることができる。この政権の成立年代は3世紀中葉か末ないし4世紀前半と推測されている。それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造された。
ところで、イリ王朝が始まったとされる3世紀の中葉から4世紀の初期は『魏志倭人伝』に言う邪馬台国の時代であり、女王一族共々「官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳堤」とある。官名と言うが当時の日本には官名があったかどうかは不明でせいぜいカバネのことかと思う。従って、これらの官名とされるものは現在の名前の一部で、伊支馬(いきま、活目入彦五十狭茅尊、垂仁天皇か)、彌馬升(みます、観松彦香殖稲尊、孝昭天皇か)、彌馬獲支(みまかき、御間城入彦五十瓊殖、崇神天皇か)、奴佳堤(なかて、足仲彦、仲哀天皇か)と勝手にこじつけて、活目入彦は伊久米伊理毘古(古事記)と解し後世の美作国(旧吉備国)久米郡か。観松彦は三松彦か。「三松」姓は全国的にも奈良県に多く、また、奈良県北葛城郡王寺町畠田に集住しているという。但し、『播磨国風土記』飾磨郡の条に大三間津彦命、『同』讃容郡邑宝里、久都野に弥麻都比古命の伝承がある。また、阿波国名方郡に御間都比古神社があり、板野郡中臣、名西郡に孝昭天皇の裔孫居住の伝承があった。播磨から阿波にかけて勢力があった古代豪族か。大和朝廷ならさしずめ大伴氏というところか。『新撰姓氏録』には、(右京 未定雑姓 中臣臣 臣 観松彦香殖稲天皇[謚孝昭。]皇子天足彦国押人命七世孫着大使主之後也<米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)は、孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫>)とある。彌馬獲支は御間城(みまき)で美(みま)作(さか)国の「みま」に関係した語か。奴佳堤は「なかつ」で仲彦(なかつひこ)と思われる。『日本書紀巻第十』応神天皇廿二年秋九月辛巳朔丙戌にも「次以上道縣封中子仲彥」とあり吉備国にも中子とか仲彦と言う言葉があったようである。我田引水で申し訳ないが、邪馬台国の官は吉備国延いて言えば後世の播磨国・美作国の出身者からなっていたのではないか。端的に言うと吉備国の外周の人であり、極論すれば吉備の裏切り者と言うことになるのではないか。因みに、美作(みまさか)は読みようによっては美作(みまさく)ともなり、作は柵(さく)ともなり城(き、百済語という。疑問である。岸、築<つき>などの「き」と同じではないか。)と同義ではないか。即ち、美作(みまさく)は御間城(みまき)とは同義になるのではないか。この王朝から本格的な古墳時代に突入したようである。

最後に、ワケ王朝であるが、ワケ王朝の始祖は景行天皇と思われるが(諱は忍代別か)、皇子、皇女に五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)、五百城入姫皇女(いおきいりびめのひめみこ)、五十狭城入彦皇子(いさきいりびこのみこ、気入彦命?)、高城入姫皇女(たかぎいりびめのひめみこ)(以上、イリ系)、忍之別皇子(おしのわけのみこ)、大酢別皇子(おおすわけのみこ)、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)、国乳別皇子(くにちわけのみこ)(以上、ワケ系)とあり、イリとワケが混在しているようだ。過渡期の天皇の表れか。景行天皇もそれまでの天皇が国勢強力なる大和や吉備の出身と思われるのに対し、おそらく山陰地方の因幡国巨濃郡恩志呂神社<鳥取県岩美町恩志(おんじ)>あたりかと思われる。このあたりは良質な石材がとれるようであり、天皇の皇子皇女の御名が五百城入彦皇子とか五百城入姫皇女とあり、五百城とは石材に関する語かと思われる。宇倍神社の宮司家も伊福部氏と言う。景行天皇は言わば墳墓造営技術者の中心地から来たような人で上述の邪馬台国の官人、伊支馬(垂仁天皇)、彌馬升(孝昭天皇)、彌馬獲支(崇神天皇)、奴佳堤(仲哀天皇)のなかでは一番大きな御陵に葬られているのではないか。
順位 古墳名             単位m  所在地
08   渋谷向山古墳(景行陵)       300   奈良県天理市渋谷町
16   岡ミサンザイ古墳(仲哀陵)     242   大阪府藤井寺市藤井寺
16   行燈山古墳(崇神陵)        242   奈良県天理市柳本
20   宝来山古墳(垂仁陵)        227   奈良県奈良市尼ヶ辻町
ワケ王朝は軍事に特化した一族だったようで、墳墓は古市古墳群と百舌鳥古墳群に分かれているが内容的には同一の氏族という。誉田御廟山古墳(応神陵)と大仙陵古墳(仁徳陵)を頂点に古墳群が形成されている。ところで、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳がそれぞれの古墳群の最初に造営されたのなら問題がないが、近時の研究の結果ではそうではないらしい。
古市古墳群の築造順:津堂城山古墳→仲津山古墳→誉田御廟山古墳(築造時期は5世紀初頭)
百舌鳥古墳群の築造順:上石津ミサンザイ古墳(履中陵)→大仙陵古墳(仁徳陵)→土師ニサンザイ古墳(被葬候補者:第18代反正天皇の空墓)
と言う具合で、このほかに御廟山古墳(被葬候補者:第15代応神天皇。築造時期は5世紀前半)もある。
そこで古市古墳群と百舌鳥古墳群の盟主とも言うべき誉田御廟山古墳と大仙陵古墳以前の古墳は誰の陵墓かと言うことである。古市古墳群の津堂城山古墳と仲津山古墳であるが、いずれも『魏志倭人伝』に言う四人の官人のうち津堂城山古墳は彌馬升(孝昭天皇)の陵で仲津山古墳は奴佳堤(仲哀天皇)の陵墓ではないかと思われる。四人の官人は大和朝廷の調略係大伴某の口車に乗せられて「卑弥呼女王は末永くはない大王にしてやる」と言われたはいいが、実際に大和へ来たら卑弥呼女王にそんなことは言っていないなどと言われ、すったもんだの末に陵墓を大王墓ばりにしようとなったのではないか。先に亡くなった伊支馬(垂仁天皇)と彌馬獲支(崇神天皇)は大和盆地に葬られたものの、彌馬升(孝昭天皇)と奴佳堤(仲哀天皇)は「あんな裏切り者と同じところに寝ていてはいつ寝首をかかれるか解らない。大和から追い出せ。」と卑弥呼女王一族のものが言い出し、結局、津堂城山古墳には彌馬升(孝昭天皇)が仲津山古墳には奴佳堤(仲哀天皇)が葬られたのではないか。
百舌鳥古墳群に関しては、上石津ミサンザイ古墳(履中陵)→大仙陵古墳(仁徳陵)→土師ニサンザイ古墳の順と言うが、これは完成基準であって着工基準は大仙陵古墳(仁徳陵)→上石津ミサンザイ古墳(履中陵)→土師ニサンザイ古墳ではなかったかと思う。大林組試算の大仙陵工期が15年8ヶ月というのも、現在の基準であり、当時は栄養・カロリーともに現在より低く、体格・体力ともに現代人より劣ると仮定すると、着工期の順序では大仙陵古墳(仁徳陵)→上石津ミサンザイ古墳(履中陵)→土師ニサンザイ古墳が十分考えられる。学者先生の見解と庶民感覚がかみ合わないようであるが、ワケ王朝の大王は軍人と言っても気働きのある人が多く、自分たちの序列を壊してまでどうのこうのという人はいなかったと思われる。

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