日本国の成立

★はじめに

インターネットで見たので正確ではないかも知れないが『産経新聞 大阪本社版』で【萌える日本史講座】と言うシリーズ物だと思うが「古代史の”七五三論争”」と言う記事があった。はじめは純粋な新聞記事かと思い読んでいたら、末尾に特定の著者の書名と価格が記載されており、記事広告類似のものかなとも思った。内容的には、「日本国はいつ誕生したか、天皇制につながる卑弥呼の統治」とあり、既存の説として【邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)が統治した「3世紀」か、仁徳天皇ら倭の五王による巨大前方後円墳が築かれた「5世紀」、そして天皇制が確立したとされる飛鳥時代の「7世紀」かで議論が分かれている】とし、著者は【邪馬台国の時代にはすでに女王が国を治め、中国王朝と外交関係を築き、国家といえる形が整っていた】とか【卑弥呼が各地の王の上にたって統治していたとし、「こうした統治体制は、5世紀の倭の五王の時代と変わらない。これが、のちの天皇制へとつながっていった】と述べて、邪馬台国の発祥が曲がりなりにも日本国発祥と解しているようである。『記紀』では初代天皇は神武天皇で日本国と言おうか大和朝廷と言おうか、一応、現在の日本国の成立は神武天皇に始まるとみているようである。『魏志倭人伝』でも、「倭」国の歴史について、

「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼」(『魏志倭人伝』、『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人)とか、
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼」(『後漢書』卷85 東夷列傳第75)

以上の二説をまとめると、倭国は男王が統治すること七、八十年。その後、桓帝・霊帝の治世の間(146年 – 189年)に倭国では大乱が起き、何年も統治者がいなかった。189年頃に各有力者の推挙により卑弥呼女王が共立された、と言うものであろう。即ち、卑弥呼女王の登場前には80年間くらいの男王による安定期と、40年間くらいの混乱期があったようだ。中国人の目から見ると倭国には卑弥呼女王以前にも国王的な人がいて倭国をまとめていたと思われる。日本の『記紀』では左様な全国区的統治者としては、初代天皇神武天皇となる。神武天皇の版図としては、①皇后が出雲国系の人なので日本海側では出雲まで広がっていた。②大阪湾沿岸では大伴氏を、大和国に邸宅を与え直臣のようにしている。③丹波国方面では天火明命の後裔(後世の尾張氏・海部氏・伊福部氏など)が大和国(神武天皇)の傘下に入っていたのではないか。また、宗像氏は大国主命の後裔といい、神武天皇は出雲神族を通じて間接的にでも九州北部を支配していたのではないか。

★瀬戸内海と倭国の統一

瀬戸内海も倭国の統一には大きな役割を果たしたのではないか。淡路島を九州の東端という説も少なくない。また、当然のことながら畿内の領域という説もある。高地性集落も倭国統一の過渡的なものであると思われるが、九州北部と畿内を結ぶ瀬戸内沿岸と四国及び大阪湾岸に集中している。九州方面からの侵攻があったという見解(神武東征)もあるが、比較的高地性集落の遺跡が多い愛媛県について、愛媛県生涯学習センターは以下のごとく説いている。
「第Ⅰ期(弥生前期)・第Ⅱ期(中期前半)の高地性集落の分布からみる限りにおいては、西部瀬戸内海から東に向かった流れを認めることができる。」
「第Ⅲ期(弥生中期中葉)では大別すると山口県東部と備讃瀬戸、それに大阪湾周辺の三地域に集中して分布しているという特色をみせている。これら高地性集落を防御的機能と理解すると、防御するには敵対する集団の存在がなければ防御そのものがなり立たない。このように考えた場合、中部瀬戸内を中心とした地域と、大阪平野ならびにその背後を中心とした地域に地域統合をした強力な連合国家的性格を持った集団が形成され、他の地域と相対立する勢力圏を形成していたと想定することができる。」
「畿内に敵対する勢力は、少なくとも瀬戸内海の西部か九州にあったものではなかろうか。・・・かつまた朝鮮半島よりの侵入をも考慮に入れなければなるまい。・・・弥生時代後期を境として高地性集落はほぼ消滅しているが、これとほぼ時を同じくして銅剣・銅鉾・銅鐸が地下に埋納されている。これらを追求して行けば統一国家、すなわちわが国の国家誕生の時期、時代も明らかになるのではなかろうか。恐らく高地性集落の終焉と、青銅器祭祀の終焉の時期が国家の誕生とみるのが案外自然であるかも知れない。」
以上をまとめてみると、1.備讃瀬戸の国々を糾合した吉備国と後世の畿内の国々を糾合した大和朝廷が覇権争いを展開し、2.九州北部(山口県東部の高地性集落)と吉備国の鉄の活用が青銅器文化を粉砕した。その大和を粉砕した人はその後どうなったのかであるが、いわゆる「イリ王朝」というなら崇神天皇と垂仁天皇の二代で終わったと思う。支石墓も九州北部から愛媛県に入ってきたようだが、長続きはしなかった。一体に、九州から本州に入ってきたものでその後長期にわたり継続したものは少ない。
『記紀』で強い政治勢力が西からやって来たとするのは「神武東征」であり、少し時代が下って「応神天皇の東上」がある。ほかに江上波夫東京大学名誉教授の「騎馬民族征服王朝説」が有名だ。吉備氏は軍事的にも強かったようで、大伴氏を現在の神戸市から大阪市に追いやり、現在の尼崎市あたりまで一時的には進出したかも知れないが、結局、景行天皇以下のワケ王朝に元の領有域まで押し込められてしまった。「高地性集落」については、いろいろ言われているので以下にまとめてみると、
目的
1.戦闘に備えた砦・見張り台・のろし台・逃げ城の機能をもった集落。
2.山城のように軍事的性格の強い集落。
3.畑作農耕を営む目的で形成された集落。
4.潜在的な自然環境の変化(猛暑?)から逃れるための今日的に言う避暑地。
5.稲作前線の拡張に伴い先住民が避難した集落。
などがあるが、「山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。」と。 いわゆる、戦国時代で言う山上にある天守閣と山麓の城下町を言うものか。

時期と分布
高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。そのうち、高地性集落の時代区分としては第一次から第五次までに区分され、第一次、第二次の高地性集落は九州北部に、第三次は九州北部と瀬戸内西部に、第四次と第五次は瀬戸内東部と畿内に分布するもののようである。これだけ見ると高地性集落は九州北部から畿内へ移動したと思われるが、例えば、山口県周南市本陣町の竹島御家老屋敷古墳から出土した「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」が<正始元年は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。>(山口県周南市生涯学習課)と曰う説もあり、もし高地性集落が備讃瀬戸(吉備国、吉備氏)と大阪湾岸(摂津国、大伴氏・大和朝廷)との抗争の産物とするなら、高地性集落が瀬戸内海沿岸西方にあるからといって吉備陣営のものかどうかは不明で、大和朝廷が吉備氏の後方攪乱のために送ったものかも知れない。
「畿内周辺では、〈高地性集落〉は第五次(V期)に入ってもあらためて発達しており、軍事的緊張が何度か繰り返されたことがわかる。」とあり、吉備氏、大伴氏の小競り合いはその後も継続したものかと思う。最終的に断を下したのは雄略天皇で大伴氏を大和朝廷傘下に入れて、吉備前津屋(さきつや)、吉備田狭(たさ)、星川稚宮皇子などの「反乱鎮圧」の名目で吉備氏の勢力を削いだ。

次いで、国家の成立については首長埋葬祭祀の型式を従来の各地でまちまちであったものを全国的に統一した時を以て倭国統一という見解がある。墳墓の統一型式は前方後円墳で、細部は異なるものの前部は方形、後部は円形となって一体化した墳墓である。副葬品もまちまちではあるが基本的には、鏡、玉、剣のセットと装身具(玉類、冠帽、耳飾り、指環など)、武具、馬具、農具、工具、漁具、石製品、金属品、土器類など。被葬者の評価等により少しずつ違うようだ。
前方後円墳の出現期は、一応、三世紀中頃と考えられており、原型として考えられるのは「奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓」と言い、「瀬田遺跡の円形周溝墓から纒向石塚古墳へ、そして箸墓古墳へと、前方後円墳がどのように出現したかを考えることができるようになりました。」と言う。しかし、これらの円形周溝墓(瀬田遺跡のほか香川県や兵庫県、大阪府、滋賀県で見つかっている。)が前方後円墳の原型になったことについては疑問を呈する向きもある。近藤義郎・吉田晶『図説 岡山県の歴史』河出書房新社 P55によれば、
「前方後円墳は弥生墳丘墓から一歩一歩変遷をとげて出現したのではなく、どうやら突如として創出されたもののようである。というのは第一に、弥生墳丘墓から最古型式の前方後円墳に到る”進化”的足取りが見られない点である。次に前方後円墳の最古型式のものは弥生墳丘墓に比べ非常に相違した特色を持っている。
(弥生墳丘墓と最古型式の前方後円墳の違いの例)
*墳丘 80mの大型墳丘(弥生墳丘墓)、200mないしそれを越える巨大墳丘(前方後円墳)
*土木工法 各地バラバラ(弥生墳丘墓)、墳丘を堅固に高く盛り上げ、幾何学的な整然とした形状。技術は優(前方後円墳)
*平面形 円形。時に突出部在り(弥生墳丘墓)、前方後円形として定型化し、ことに前方部は撥形(前方後円墳)
*墳丘斜面 特殊壺、特殊器台(弥生墳丘墓)、葺石、特殊器台形・特殊壺形の埴輪(前方後円墳)
*棺 棺の長さ2m(弥生墳丘墓)、割竹棺。棺の長さ4、5mから7、8m(前方後円墳)
*副葬品 貧弱。組み合わせの原則がない(弥生墳丘墓)、中国鏡(なかんずく三角縁神獣鏡)・各種武器・農工漁の生活用具の組み合わせの原則(前方後円墳)
弥生の墓制はことごとく地域性のうちにあって全土的な普遍性を持つものはない。大和の有力首長の主導のもとに瀬戸内沿岸、山陰、北陸、東海の一部などの首長たちが連合結集し、全体に共通する首長埋葬祭祀の型式を従来の各地弥生墳墓の特色をあるいは飛躍させ、あるいは変化し誇張させつつ取り入れながら、新たに創出したものと言える。弥生墳丘墓と違って、全土的な普遍性をもつものとしてまた全土的な較差をもってあらわれたのである。」と。
前方後円墳は旧来の墳墓とは隔絶しているというのである。当然のことながら造営した人たちも旧来の造営者とは違うだろう。現在で言うならば意匠設計と構造設計の建築士が別々に設計したと言うことなのだろう。1800年ほど前であるが現代建築に近いものがある。

★まとめ

以上見てきたように、日本国の成立には①高地性集落の消滅をもって国家の成立とみるのか、②首長埋葬祭祀の型式を全国的に統一した時を以て倭国統一とするのか、③文献によるのかなどが考えられる。一応、それぞれを検討してみると、
①高地性集落の消滅説
高地性集落はそれぞれの必要性に応じて発生したものであり、その目的はいろいろありすべてが「山城のように軍事的性格の強い集落とする」のはいかがなものか。地域的にも偏りが在り、備讃瀬戸と大阪湾岸に集中しており、この二つの勢力の統合が即倭国(日本国)の成立かと言われれば、日本にはほかの地域にも多種多様なクニがあり、とてもこの二地域間の統合をもって国家の成立とは言いがたいと思われる。そもそも高地性集落のような多様な目的で建造された集落を物事の基準とすることには大いに疑問がある。従って、高地性集落の隆盛や消滅をもって倭国(日本国)の発祥を占うことはできないと思う。基準としては不適当と言うことである。
②首長埋葬祭祀の全国統一説
上記岡山大学名誉教授近藤義郎博士の説は「大和の有力首長の主導のもとに瀬戸内沿岸、山陰、北陸、東海の一部などの首長たちが連合結集し、全体に共通する首長埋葬祭祀の型式を従来の各地弥生墳墓の特色をあるいは飛躍させ、あるいは変化し誇張させつつ取り入れながら、新たに創出したものと言える。」と言っておられるが、要は、崇神天皇が四道将軍を派遣し、首長埋葬祭祀の全国統一を図ったことをもって倭国(日本国)の成立と言うもののようである。高地性集落よりは明確な基準ではある。はっきりした人為的な基準であるからである。
③文献による日本国の成立
『記紀』では以下の天皇の時に日本国の成立があったというもののようである。
1.神武天皇
2.崇神天皇
3.景行天皇
4.応神天皇
外国文献では、
5.倭国王帥升(『後漢書』東夷伝)
6.邪馬台国女王卑弥呼(『魏志倭人伝』)

1.の神武天皇については、奈良盆地一帯の地域の王と言う見解もあるようだが、皇后は媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)と言い大物主神の子とも事代主神の子とも言い、鉄のとれない大和国ではなく鉄のとれる出雲国(大物主、事代主ともに出雲系の神)から迎えたものと思われる。また、後世の摂津国や河内国に勢力のあった大伴氏の祖道臣命とも昵懇の間柄だったようで、あと、現在の京都市(賀茂神社)や和歌山県(熊野三山)の八咫烏とも関係があり、弱いながらもそれらの地域も支配していたのではないか。よって、当時にあっては倭王なのであろう。
2.崇神天皇は言わずとしれた四道将軍の派遣を行った天皇でこれにより従来の倭国の領域を拡張したものと思われる。特に今まで手薄だった東国への国土伸長がめざましい。
3.景行天皇は『日本書紀』を敷衍するならば、<日本国統一を行った天皇>と言うことになるのだろう。北は現在の岩手県から南は熊本県、宮崎県まで版図を広げた。
4.応神天皇は景行天皇の事業を受け継ぎ、国土を日本ばかりでなく朝鮮半島へまで広げた。
5.倭国王帥升は九州北部沿岸の地域国家の王ではないかと言われている。日本国統一とはほど遠いと思われる。帥升とは素戔嗚尊のスサの音を写したものか。
6.卑弥呼女王は連合国家倭国の女王と思われ、中国にも認められた国家の王のようである。連合国家を構成したのは毛野国から筑紫国までか。
以上により日本国の領土が広がるごとに新しい日本国(当時は倭国)が成立し、初代王は神武とか崇神とか応神になったのである。淡海三船が名付けたという天皇の漢風諡号の神は新しく成立した日本国の初代国王の意味であろう。神武の神の字が先頭に来ているのは初代の中の初代で、崇神、応神は神武の子孫で各々の時代の初代王と言うことなのだろう。
結論を言うと、崇神天皇は具体的な領土の拡張とともに宗教的なモニュメントとして前方後円墳を造営し、祭祀を創始した。やはりこれはこの時代にあっては画期であり、時代的には弥生時代と古墳時代の境目であり、新日本の誕生と言うことになるのではないか。

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