初期の『記紀』の出典は

★はじめに

いつも思うのだが、天皇家は現在の奈良県(旧大和国)出身と思われるのに何か始原の神と考えられる伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱の神は淡路島に降り立ったとか、あるいは、『記紀』の神話にこれが我が氏(うじ)の祖神と唱える大伴氏の高皇産霊尊(高木神)が皇祖神天照大神と一緒に出てきたりとか天皇家の神話には大伴氏の家伝が取り込まれているのではないかと思われる節がある。特に、高木神は葦原中津国平定・天孫降臨の際の主導者(道臣命がモデルか)で本来の皇祖神だとする説を曰(のたま)う向きもある。高御産巣日神は『古事記』では天之御中主神・神産巣日神共々造化三神とされ、いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされて、天地開闢の段に出てくる。しかし、高御産巣日神は性別がなく、人間界から姿を隠している独神と言われながら、子供(思金神<おもいかね>、栲幡千千姫命<たくはたちぢひめ>など)もおり、天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほほみ)が、高御産巣日神の娘である栲幡千千姫命と結婚して生まれたのが天孫・邇邇芸命(ににぎ)である。このことから高御産巣日神は天孫・邇邇芸命の外祖父に相当する等々、純粋な神なのか、はたまた、人間なのかははっきりしない。大伴氏の祖は高皇産霊尊の子の安牟須比命と言い、忌部氏の祖は高皇産霊尊の子の天太玉命と言う。大伴氏は神代に遡ると天皇家とは姻戚関係になるらしい。
神代の話をまともにとる方がおかしい、と言われてしまえばそれまでだが、そこには何かしらの我々凡人並みの生の営みとか、場合によっては現今で言う権力闘争のような争いがあったのかもしれない。天皇家といえどもそれが人皇になってから具体的で生々しくなってきたようである。

★応神天皇と仁徳天皇はどこの出身か

NTTの電話帳の登録によると、「大鞆」と言う苗字の人は全国に四軒ある。即ち、兵庫県淡路市に二軒、兵庫県神戸市西区に一軒、兵庫県宝塚市に一軒である。あまり見慣れない「鞆」の字だが、現在残されている地形を見てみると海や平地に浸食した「出っ張り」を言うようである。「伴」も同じ意味かと思うが、『古事記・応神天皇段』に「この太子の御名に大鞆和気命(オホトモワケノミコト)と負はせし所以は初め生れましし時、鞆の如き宍御腕(シシミタダムキ)に生りき。かれ、その御名に著けまつりき。」とあるのも「出っ張り」を意味するのではないか。即ち、応神天皇の大鞆和気というのは件数も少ないので現在の兵庫県淡路島で発祥した名前ではないかと思料される。
一方、仁徳天皇の大雀命(大鷦鷯<おおさざき>)については、「ささき」「さざき」「ささぎ」(漢字では、佐々木、笹木、篠木、沙沙貴、佐崎、佐々希、佐左木など)、人名、地名ともに多いが、淡路島には極々少数であまり見当たらない。大型古墳(前方後円墳はない)が少ない地域だったためかも知れない。この場合の、「ささき」の意味だが、「みさき(岬)」などと同源で海や平地に突き出たところと解すると、大鞆と同じような意味になり応神仁徳同一人説に拍車をかけるような話になるが大雀は「さ(小百合などのさ)、「さき」(物の先端の方)のことで、大鞆が父あるいは兄、大雀が息子あるいは弟を意味するか)。また、仁徳天皇も応神天皇同様架空説とか不存在説が有力だ。曰く、

『古事記』『日本書紀』にみられる仁徳の位置や所伝は、あくまでも系譜の上で作り出されたものとみられる。すなわち、6世紀初頭に新たに王権を継承した継体天皇がみずからの正当性を主張するために、5世紀に実在したA、Bふたつの大王家の系譜と自己の保有する系譜とを統合する過程で、B大王家から出た最後の実在の大王である武烈すなわちワカサザキ(ワカタケル大王の子)の名前からヒントを得て、A、B両大王家共通の祖先名として、オオサザキなる王が案出されたのである。『延喜式』によれば、陵は和泉国大鳥郡(堺市、高石市)にあった百舌鳥耳原中陵。堺市にある全長485mの前方後円墳(大山古墳ともいう)は仁徳天皇陵として有名だが、年代的には合致しない。(朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版/朝日日本歴史人物事典について 遠山美都男著)

と、言うのだが、私見を述べるとこれらの二人の大王はその後の事績で、

応神天皇『日本書紀』
二年春三月「妃皇后弟々姬、生阿倍皇女・淡路御原皇女」(妃である皇后の妹弟姫が阿倍皇女・淡路御原皇女を生んだ)
十三年春三月「一云、・・・始至播磨、時天皇幸淡路嶋而遊獵之。」(始めて播磨に行き、天皇、時に、淡路島へ狩りに出かけた)
廿二年春三月「仍喚淡路御原之海人八十人爲水手、送于吉備。」(妃・兄媛を淡路三原<旧三原郡三原町>の海人八十人を水手として吉備へ送らせた)
廿二年秋九月「天皇狩于淡路嶋。」(天皇、淡路島で狩りをした)
廿二年秋九月「乘輿(てんのう)屢(しばしば)遊之。天皇便自淡路轉、以幸吉備」(天皇、しばしば狩りをして遊ぶ。淡路より巡りて吉備にいでまし)
しばしば淡路島へ出かけているのではないか。縁もゆかりもないところへ頻繁に行くものか。

仁徳天皇『古事記』
「天皇、戀其黑日賣、欺大后曰「欲見淡道嶋。」而、幸行之時、坐淡道嶋、遙望歌曰、」(太后磐之媛を騙して、淡路島を見たいと思うと言い淡路島へ出かけた)

淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由
(おしてるや  難波の崎よ     出で立ちて  我が国見れば   淡島    淤能碁呂島  檳榔の     島も見ゆ   放つ島見ゆ)

「此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。故切是樹以作船、甚捷行之船也、時號其船謂枯野。故以是船、旦夕酌淡道嶋之寒泉、獻大御水也。」(高木を切り倒し枯野と言う船を造り、朝夕天皇の飲料水を淡路島から運んだ)
このように見ると、二人の大王は淡路島をまったく知らないと言うことではなかったと思う。特に、仁徳天皇が「我が国見れば 淡島 淤能碁呂島 檳榔の島も見ゆ 放つ島見ゆ」と言っているのは、天皇の元々の出身地は淡島(淡路島) 淤能碁呂島(オノゴロ島) 檳榔の島(ビロウの生えている島)も見ゆ 放つ島(その先の島)、即ち、現在の淡路島か。また、応神天皇の旧名大鞆和気も淡路島のどこかに大鞆という地名があって、そこに古代豪族大伴氏の別邸があり、大鞆和気、大雀命共々幼児期には母堂(大伴氏であろう。)と過ごしたのではないか。「和気」と「命」が混在しているのは、両皇子の実父と思われる景行天皇はカバネマニアでいろいろなカバネを使用したのであろう。大鞆、大雀が本名かと思われる。ただ、名前の意味から判断すると、いずれも「大きな古墳」の意とも考えられ、被葬者の実名を反映したものとは考えられないかも知れない。
とは言っても、二人は成人になって実父と思われる景行天皇のところへ行ったら、都より遠くへ追いやられ、行動を共にしていたため、同じような事績を書かれ、応神仁徳同一人説なる説があるが、文字による記録が希薄なためやむを得ないと思われる。仁徳天皇を応神天皇の子としたのは、五百城入彦皇子の血筋(仁徳の母は五百城入彦皇子の孫、仲津姫命皇后になる)を引き、正統な皇統とするためであろう。実際には、応神、仁徳は兄弟であったと思われる。

★大伴氏の神話がなぜ天皇氏の神話に組み込まれているのか

『記紀』神話では天皇氏の祖神・天照大神と大伴氏の祖神・高皇産霊尊が同格の神として出てくるといい、天孫降臨の神話では高皇産霊尊が主導しているので高皇産霊尊が本来の皇祖神と説く学者先生もおられるようだ。一般に、天照大神は高皇産霊尊かどうかは解らないが何らかの神様をお手本に作出されたと言うことで、『記紀』編纂時までの有力豪族の説話もかなりの割合で加えられていると思われる。特に、大伴氏は『記紀』では神武天皇以来のご友人で後世の海部出身と思われる大伴氏と内陸盆地出身の天皇氏とはお互いを補完する関係にあったのではないか。『古事記』の応神天皇段に「此之御世、定賜海部・山部・山守部・伊勢部也。」とあるのも本来なら「山部・山守部・海部・伊勢部」となるべきところを応神天皇の海辺(淡路島)で育ったという特異性か。また、誉田御廟山古墳内濠出土品には土製品のクジラ、イカ、タコ、サメ(またはイルカ)の出土があるという。これも応神天皇が奈良県より淡路島や摂津国で育ったと言うことか。いずれにせよ上古の大王は海に関心を向けており、大伴氏が海に関する親近者ではなかったか。それ故、天皇氏は大伴氏を通じて奈良盆地という井の中の蛙が大海を知ることができたのではないか。

★まとめ

両天皇が都したところは、
応神天皇 軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町に比定。おそらく五百城入彦皇子の宮都で応神天皇は常駐していなかった。)。並びに、大隅宮(おおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区。『日本書紀』)。
仁徳天皇 高津宮(たかつのみや、大阪市中央区法円坂の難波宮跡)。
大隅宮及び高津宮はいずれも現・大阪市にあり、旧摂津国になり、大伴氏の本邸か別邸のあった現・大阪市住吉区帝塚山(東・西)にやや近く、国家緩急の折には大伴氏に援助を仰いだのではないか。両天皇は大伴氏とは緊密な間柄だったと思われる。

伊弉諾尊・伊弉冉尊の創世神話だが、一説に淡路島の海人族が伝えた説話という。淡路島には津名郡に淡路伊佐奈伎神社(名神大)(『幽宮御記』に祭神は「伊弉諾尊一柱也」とある)と三原郡に大和大国魂神社(貞・名神大)がある。それぞれに有力な海人族がついていたようで、淡路伊佐奈伎神社には阿曇連浜子系の一族が、大和大國魂神社には倭直吾子籠系の一族がバックアップしていたのではないか。もっとも、淡路島には元々は三原郡の淡路伊佐奈伎神社(現・伊弉諾神宮)しかなかったが、後ほど大和国から倭直氏がやって来て淡路伊佐奈伎神社を津名郡の崖っぷちに追いやったという説もある。
しかし、「伊弉諾尊を皇祖神の親とする信仰が宮廷に古くからあったとは思えず、2神が組み込まれたのは7世紀中頃以降で、大嘗祭卯の日の神事に召された淡路出身者や、宮廷に食料を運んだ淡路の海人が伝えたとする。」(松前健博士説)『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日条では、「伊佐奈岐命」の神階が無品勲八等から一品勲八等に昇叙されている。意味不明の昇叙である。
文献では、古くは『日本書紀』履中天皇5年条9月条において島に居る「伊奘諾神」の記載や、允恭天皇14年9月条に「島神」の記載があり、これらは一般に淡路伊佐奈伎神社に比定される。大和大國魂神社も延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大とされた。大和大國魂神社を大和(大和神社)より淡路島へ勧請した人は国魂神を勧請したと思ったかと思うが、伊佐奈伎神が淡路島の国魂神であって天照大神のような太陽神を勧請すべきだったか。いずれにせよイザナギ・イザナミの創世神話は漁民の話ではなく大伴氏自身、あるいは、大伴氏が淡路島ないし河内・摂津で採集した神話ではなかったか。

高地性集落の発祥と原因についてはいろいろあるが、倭国大乱が原因で発祥したとする説が有力である。特に、その分布地は瀬戸内海沿岸と大阪湾沿岸が多く、九州北部では少ないので、大乱の発生地域を大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸とする説や朝鮮半島南部という説がある。大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸地域とする説は吉備氏と大伴氏・大和朝廷連合の争いであり、朝鮮半島南部とする説は韓の南にあった倭国は強大になった韓や濊の侵略を受けて倭国大乱になったと言う。その難民が日本列島に押し寄せ、先住民である日本列島倭人は高地に逃げ城や砦を造って戦ったという。しかし、『魏志倭人伝』の倭国大乱は邪馬台国や卑弥呼女王の倭国であり、朝鮮半島とするのは疑問である。日本神話に出てくる高天原や葦原中国のモデルは高天原は高地性集落として葦原中国は『記紀』では出雲国となっているので大阪湾沿岸の高地性集落から出雲国へ遠征したかはまたまた疑問である。大和朝廷は対吉備国外交にせよ、対出雲国外交にせよ大伴氏の仲立ちによりなり立っていたのではないか。

以上より『記紀』の神代より人皇になって「ワケ王朝」の頃までは、その出典は大伴氏の資料によるところが大きいと思われる。

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