一体分身とは

★はじめに

我が国の皇統は「万世一系」なのか、はたまた、途切れ途切れで現在にいたっているのか、諸説あるようだが、戦前に『記紀』に書いてあることに異を唱える輩は津田左右吉博士ではないがあちこちから批判を受け、挙げ句の果てに「不敬罪」だの「出版法違反」(津田左右吉事件)だのと言われ、発表者は思わぬ災難に遭ったようだ。戦後は「嘘八百」でもない限り、思想信条あるいは意見学説に対して文句を言われることはなくなったが、その中で戦後一時期は盛んに論じられた「王朝交替論」も今はどこかへ吹き飛ばされ、好事家でもなければそのようなことは話の種にもしなくなった。そもそもそのようなこと(王朝交替論)はいくら論じてみても正解などは出てこないし、現今のように誰もが論じ合える時代になっては自説に固執するあまりヒステリックになってしまう人がいるようだ。そこが学者先生のような玄人の人と、単に歴史好きな素人の人との違いかとも思われる。
戦後は、王朝交替と言っても終戦直後ではいろいろな説があったようだが、今は「継体天皇をもって皇統に変更があった」とみなす説が多いらしい。換言すれば、現天皇家は継体天皇の直系の子孫であって、神武天皇、崇神天皇、応神天皇などの著名な天皇とは血統的つながりはないと言うことか。この説は戦後ずーっと言われ続けられてきたらしく、天皇家は「万世一系」ではないと言うことで、少なくとも皇室第125代の今上陛下までに一回は男系血筋が途切れていると言うことである。但し、女系ではつながっているらしいので世界的に見るとあまり問題にすることではない。
また、我が国には世界的にはほとんど類のない一人の人物が『記紀』の編纂者の都合によりか二人の人物に分割されて記されているなどと言う説がある。具体的には、神武天皇と崇神天皇、応神天皇と仁徳天皇がその例のようである。一応、諸説があるが、同一人物かどうかについて検討してみる。

★神武天皇と崇神天皇

神武天皇
神武天皇の名称は、
即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言い、以下の名称がある。
狭野尊(さののみこと) – 『日本書紀』での幼名。
彦火火出見(ひこほほでみ) – 『日本書紀』での諱。
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) – 『日本書紀』での美称。
若御毛沼命(わかみけぬのみこと) – 『古事記』。名前の「み」は敬称で、「け」は食物を意味するとされる。
豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) – 『古事記』。
磐余彦尊(いわれひこのみこと) – 『日本書紀』第二の一書。
神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれひこほほでみのみこと) – 『日本書紀』第三の一書。
磐余彦火火出見尊(いわれひこほほでみのみこと) – 『日本書紀』第四の一書。
磐余彦帝(いわれひこのみかど)
以上の名称のうち、実体と言えるものは、磐余彦尊、 狭野尊、彦火火出見、御毛沼命の四つの名称で四人あるいは四神の伝説等をまとめたものか。
磐余彦尊の磐余は地名で現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部の一帯を言う、とするのが通説かと思われる。
狭野尊の狭野は神武天皇生誕地という。宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田117狭野神社がその地という。「当地の地名の狭野が由来すると伝えられており、当社より西に1キロ程に有る末社の皇子原神社がご生誕の地といわれます。」とある。但し、両神社の現在の所在地は蒲牟田であって狭野ではない。宮崎県のウェブサイトでも「「狭野」の名はカムヤマトイワレヒコの幼名「狭野尊(サノノミコト)」に由来しているといわれています。」とある。
彦火火出見の火火は穂穂(穂の複数を表現したと思われる。)のことであって、出穂の状態を言っているのではないか。
御毛沼命の御毛は御饌(みけ、ぎょせん)のことかと思われる。高貴の人、特に天皇の食べ物。みけ。供御(くご)。沼は「~の」の「の」のこと。
以上より連想するなら神武天皇は現在の奈良県(奈良盆地)出身で、稲作に力を入れていた領主と言うことになるのであろうが、狭野の地がどこかについてはっきりしないので検討してみる。
「狭野」ないし「佐野」の地名は九州南部には見当たらないようだ。従って、神武天皇が現在の宮崎県(日向国)から東征して奈良県(大和国)へ来たと言うのはほぼ考えられないことなのだが、畿内の「狭野」ないし「佐野」の地名を見てみると、

1.奈良県の狭野

万葉集 巻第三 265
長忌寸奥麿の歌一首 苦しくも 降り来る雨か 神の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに(苦毛 零來雨可 神之崎 狭野乃渡尓 家裳不有国)
現桜井市金屋に山崎の地名が残り、三輪山の南側にある尾崎突端を称した。『和州旧跡幽考』『大和志料』などは「神の崎」を当地に比定し、「狭野の渡り」は山崎から初瀬川を渡る津とする。現在も初瀬の追分西方に佐野橋があり、古くからこの河畔が佐(狭)野の渡りと伝承される。但し、和歌山県新宮市佐野、三輪崎に「狭野の渡り」「神の崎」を比定する説が多数説か。

2.和歌山県新宮市の狭野(現在の佐野)

『日本書紀巻三』(戊午年六月乙未朔丁巳)
遂越狹野而到熊野神邑(遂に狭野を越え、熊野の神邑<みわのむら>に到る)。
この説が最有力である。

3.大阪府泉佐野市(旧佐野。現在は佐野川の名が残る。)

文献初出は藤原定家『明月記』建仁元年(1201)10月7日条「サ野王子」である。後鳥羽上皇が熊野に御幸。定家が上皇に随行した。地名についてはもっと古いと言う説もあるが不詳。

以上の狭野(佐野)を神武天皇と関係づけるとするならば、和歌山県新宮市佐野と言うことになるのだろう。神武天皇がこの地で生誕したと言うことではなく、当該地の狭野尊という豪族が佐野より奈良盆地へ行ったことがあるという説話が神武天皇のモデルの一人に加えられたのではないか。何やら狭野も熊野も似たような語感の言葉だ。
神武天皇のその他の名は、磐余彦尊は磐余の領主の意味であり、彦火火出見は奈良盆地に始めて水稲稲作を導入した人の意か。御毛沼命は食物の神であり、神武天皇の時代にあっては人々はまだまだ飢餓に苦しんだのではないか。これらの名前から推察される神武天皇は長髄彦をはじめとする賊軍を倒し中州を平定したなどと言っている『記紀』の説話はあまり信用できないのではないか。

崇神天皇
崇神天皇は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいた。天皇や皇族の名称に特色があり、天皇は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)と言い、皇子・皇女には活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと、垂仁天皇)、豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)、大入杵命(おおいりきのみこと)、八坂入彦命(やさかいりびこのみこと)、渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)、十市瓊入媛命(とおちにいりびめのみこと)と名称に入彦(イリヒコ)、入姫(イリヒメ)の文字が加わっていることが多く、「イリ王朝」とも言う。おそらく、入彦や入姫の前にある御間城とか活目などが出身地を表し、五十瓊殖とか五十狭茅は現在で言う名前を表しているのだろう。天皇自体の幼名とか諱などもあまりなく≪御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえのすめらみこと)、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)くらいなもの≫、大和の三輪地方出身なのだろうか。但し、御間城(御牧の意か、水間城の意か。城は地名の接尾語と思われる。)については、 奈良県奈良市にある大字に水間(みま)町と言うのがあり、ここが崇神天皇の出身地か。垂仁天皇の伊久米は大和国とするなら大和国高市郡久米郷が著名である。但し、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見えるので久牟は久美浜の久美とでも読むか。しかし、大和国には久美の地名はないようだ。

以上より判断するならば神武天皇も崇神天皇も大和国の人かも知れないが、神武天皇が大和国で広く活躍していたのに対し、崇神天皇は四道将軍の派遣の記事がなければ何をしていた人かと思うほどだ。内政を充実させたとばかりに、崇神天皇12年9月、戸口を調査し、課役を科す。崇神天皇65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図った、と言うのがその例。
しかし、崇神天皇の時代は『魏志倭人伝』の邪馬台国や卑弥呼女王にも重なり合っており、そこいらがどのようになっているかと言うことである。「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸」とあるのであるが、官の伊支馬(いきま)、彌馬升(みます)、彌馬獲支(みまかき)、日奴佳鞮(なかつ)は何のことやら。伊支馬(いきま、あるいは、いきめ)は伊久米で第十一代垂仁天皇のことか。彌馬升(みます、あるいは、みまつ、みまき<升は支の誤記か>)は観松彦で第五代孝昭天皇あるいは御間城で第十代崇神天皇のことか。彌馬獲支(みまかき)は御間城で第十代崇神天皇のことか。奴佳鞮(なかつ)は足仲彦で第十四代仲哀天皇か。但し、仲哀天皇架空説がある。古墳から検討すると仲哀天皇陵は、宮内庁により大阪府藤井寺市にある惠我長野西陵に治定されている。考古学名は「岡ミサンザイ古墳」(前方後円墳、墳丘長242m)と言う。この古墳は五世紀末葉の造営とされ、五世紀初頭の造営とされる応神天皇陵(宮内庁により大阪府羽曳野市誉田にある惠我藻伏崗陵に治定されている。公式形式は前方後円。遺跡名は「誉田御廟山古墳」<前方後円墳、墳丘長約420メートル>)とは、一般的に言うと、息子の墓が一世紀近く前に父親の墓よりも早く建てられている。まったく以ておかしな話だ。また、古墳群の陵墓にいろいろな王朝(「イリ王朝」とか「ワケ王朝」とか)の混在が認められる。例えば、「イリ王朝」とは崇神、垂仁、景行(景行以下の天皇にはタラシがつく)、成務、仲哀の各天皇とされ、「ワケ王朝」とは応神、仁徳、履中、反正(和風諡号でワケがつくのは仁徳を除きここまで)、允恭ほか。「イリ王朝」については成務、仲哀両天皇は実在を疑問視する向きが多く、崇神、垂仁、景行とするならば景行天皇は「タラシ」と「ワケ」の称号がついており、子女には「イリ」と「ワケ」が混在している。「イリ王朝」と「ワケ王朝」との過渡期の人か。これら三天皇の陵は柳本古墳群に崇神天皇陵(行燈山古墳)と景行天皇陵(渋谷向山古墳)があり、佐紀古墳群に垂仁天皇陵(宝来山古墳)があるという。これは当時の墳墓の造営方法から言っておかしいといい、柳本古墳群に垂仁天皇の陵らしき墳墓を探したが見当たらず、近くの大和古墳群に属する西殿塚古墳を崇神天皇陵とし、行燈山古墳を垂仁天皇陵とする見解もあるようだ。私見では『魏志倭人伝』的に垂仁天皇陵を西殿塚古墳とし、崇神天皇陵(行燈山古墳)と景行天皇陵(渋谷向山古墳)はそのままとしたらどうだろうか。
神武天皇と崇神天皇が同一人物とする説の根拠は、
1.神武天皇の称号は始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)とあり崇神天皇の称号は御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とある。いずれも漢字は違うが読みは同じで初代天皇という意味らしい。「はつくにしらすすめらみこと」は後世の読みで、双方は当時(『記紀』成立時)の読みでは別々ではなかったかという説もある。私見を簡略に述べると、神武天皇は大伴氏にまつわる初代天皇の説話であり(さればこそ、大伴氏の先祖の道臣命は功一級の論功行賞に与ったのである。)、崇神天皇は物部氏(崇神天皇の母堂は伊香色謎命と言い、大綜杵命の子であり、兄の伊香色雄命が物部氏の祖である。)の伝承にある初代天皇の説話ではないか。神武天皇の論功行賞には物部氏は関わっていない。しかし、欠史八代の第八代孝元天皇は皇后:欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)- 穂積臣遠祖の欝色雄命(内色許男命)の妹、妃:伊香色謎命(いかがしこめのみこと、伊賀迦色許売) – のち開化天皇の皇后で崇神天皇の母。第九代開化天皇は皇后:伊香色謎命(いかがしこめのみこと) – 元は孝元天皇の妃、 妃:丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘、妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命) – 姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹などとあって、桂川、宇治川、木津川が合流する地点(京都府八幡市か)を拠点に大和の勢力が現・八幡市や宇治市、枚方市方面に進出してきたのか、はたまた、八幡市の勢力が勃興してきたのかは解らないが、三川合流地点を拠点に四方へ遠征したのかも知れない。しかし、崇神天皇の四道将軍派遣の説話は中国の皇帝が天下を統一するときには四方に軍を派遣し征服統一するという説話があると言い、崇神天皇の四道将軍派遣の説話は中国の故事をまねたものであり事実ではないと否定する見解がある。
2.根拠の二つ目は、一人の初代天皇が即位するまでは神武天皇と言い、即位後が崇神天皇とする説。神武東征の話は詳しいが、その後はバッタリ。日向を発ってから橿原で即位するまでの7年間はいいが、その後の<在位:神武天皇元年1月1日 – 神武天皇76年3月11 日>76年間は何をしていたのだというもののようだ。それなりの仕事をしていたであろうが、欠史八代の天皇ともども記録が欠如していることは事実のようである。大伴氏は天皇氏とはあまり親しくなかったので天皇家の家伝は解らなかった。但し、天皇家は男系血統というものの、神武天皇の頃からすでに女性も首長として活躍していたようだ。具体的には邪馬台国の卑弥呼女王を見ると「年已長大 無夫壻 有男弟佐治國」とあり、このまま解釈すると卑弥呼女王には直系子孫はいないようで記録の継承ができなかったように思われる。あるいは、神武天皇後半から欠史八代の時代は中国史書に言う「倭国大乱」の時代であったかもしれず、記録は散逸してしまったのかも知れない。当時は口承が主体だったので大乱で語部が急減した。
神武天皇は倭人の天皇で崇神天皇は渡来人の天皇という説もあるようだ。従って、いずれも(はつくにしらすすめらみこと)であると。しかし、崇神天皇の陵は前方後円墳であり、倭人ではなかったか。我が国には天地開闢以来外国人が天皇や将軍などになったと言う記録はないのではないか。

★応神天皇と仁徳天皇

応神天皇
『記紀』では応神天皇は一般常識にかけ離れた人物と書かれていることが少なくない。1.父の仲哀天皇架空説。理由は、『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも五十二歳とするが、これから逆算すると、仲哀天皇は父・日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。2.仲哀天皇死後にもかかわらず異常に出産が遅れたこと。実父は住吉三神とか武内宿禰とするものがある。3.父の仲哀天皇はもとより、日本武尊、成務天皇、神功皇后ともども架空説が根強く、実体は景行天皇の皇子か。母は物部氏か。
以上より応神天皇の実在を否定する説もあるが、多数説は実在を肯定しているようだ。以下、『記紀』による天皇の事績を見てみると、
『古事記』に「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」
『日本書紀』にも、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」

『古事記』に、百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、牡馬牝馬各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。この阿知吉師は阿直史等の祖。また、横刀(たち)や大鏡を献上した。また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」。
『書紀』の十五年八月条(百濟王遣阿直伎 貢良馬二匹)と十六年二月条(王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁)に同様の記事が見える。また、応神二十年九月条に「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている、と。
応神天皇の皇后や妃については、以下の通りである。
皇后:仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命) – 品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女
妃:高城入姫命(たかきのいりびめ、高木之入日売命) – 品陀真若王女、仲姫命同母姉
妃:弟姫命(おとひめ、弟日売命) – 品陀真若王女、仲姫命同母妹
妃:宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売) – 和弭日触使主女
妃:小甂媛(おなべひめ) – 和弭日触使主女、宮主宅媛妹
品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女を主要な皇妃として、和弭日触使主女を妃としているようである。
和弭日触使主については、『日本書紀』では「難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)」や「武振熊」、『古事記』では「難波根子建振熊命」や「建振熊命」と表記されて応神、仁徳両帝の河内や摂津への進出とも関係するのかも知れない。表向きは武振熊が神功皇后とのちの応神天皇に対して反乱を起こした忍熊王を討つため、武内宿禰とともに遣わされ忍熊王を討伐した論功行賞か。和弭日触使主は武振熊の息子という。しかし、和弭日触使主が物部氏や大伴氏のような藩屏になれたかは疑問。ここでは品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女に力点があり、もし応神天皇が景行天皇の皇子としたら景行の手元に残した五百城入彦皇子・成務天皇・日本武尊の三人(日本書紀)のうち五百城入彦皇子だけが何の任務のために残されたのか解らない。私見で恐縮ではあるが、五百城入彦皇子は景行天皇の推定皇位継承者であったが、当時は朝鮮半島情勢が風雲急を告げ景行天皇は応神、仁徳に半島情勢の対処をさせるため派遣したが、たいした戦果も挙がられず帰国した。驚いたのは五百城入彦皇子で朝鮮半島の危機が去ったわけではなく、喫緊の対応として応神を天皇として国難を切り抜けようとしたのではないか。応神は応神で五百城入彦皇子の血脈が途絶えたら大変とばかりに品陀真若王女を皇妃に迎え入れたのではないか。
応神天皇と仁徳天皇の類似性については、いずれも現在の京都府、奈良県、大阪府界隈の開発を行っている。渡来人関係については応神天皇の時は学者、文書係、鋳造工や鍛造工、縫製工、土木作業員など多彩な人がやって来たようだ。仁徳天皇関連の渡来人は不明だが、紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した、と言う。

仁徳天皇
仁徳天皇は「聖帝」と言われ、善政を敷いた天皇と言われているが、この天皇も出生につき疑義があるようだ。『日本書紀』の仁徳条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は『古事記』の応神条の冒頭にある記事(五百城入彦皇子→品陀真若王→中日売→大雀命)と矛盾する、と言う。大雀命は五百城入彦皇子の曾孫と言うのである。『日本書紀』の原文は「母曰仲姫命 五百城入彦皇子之孫也」とあり、母の仲姫命が五百城入彦皇子の孫ともとれる書き方だ。古代史にはこの程度の誤謬はままあることであり、問題にすることではないのではないか。私見では仁徳天皇の実父は景行天皇と思われ、母は大伴氏ではなかったかと思っている。仁徳天皇の陵は和泉国にあり、ああいう大型墳墓(大仙陵古墳)を造営するには地元の有力者の協力が必要で、当時にあって摂津国や和泉国の有力氏族は大伴氏ではなかったか。応神天皇も同じことで誉田御廟山古墳も物部氏の協力のもと造営されたものと思われる。従って、応神天皇と仁徳天皇は兄弟と考える。応神天皇の時代は朝鮮半島が動乱期で、
1.『好太王碑文(辛卯年条ー391年)』「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年(391)來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」 2.『同碑文』399年、新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出た 3.『同碑文』400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。 4.『同碑文』404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
これらの紛争の対応を一介の地方豪族や有力中央豪族が取り仕切ったとは思われず、有力皇族が出陣し現地で指揮を執ったのではないか。10年ほどたっても勝負がつかず応神・仁徳両天皇は帰国したもののようだが、遠征による国内経済の疲弊は畿内にまで及んでいたらしい。仁徳天皇は特に、「仁徳四年三月己丑朔己酉(21日) 詔曰 自今以後 至于三年 悉除課役 以息百姓之苦 是日始之・・・」と詔して三年間の免税を断行した。しかし、仁徳天皇は世界最大の墳墓という大仙陵や難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った(『紀』仁徳「十一年冬十月 掘宮北之郊原 引南水以入西海 因以號其水曰堀江 又將防北河之澇 以築茨田堤」)と言うのを失業対策のための公共事業と言うべきか、はたまた、単なる浪費と見なすべきかは難しいところで、しかもこれらの事業は当時の日本人の能力ではできず、新羅人が建造に当たったらしい。(『紀』十一年。是歳 新羅人朝貢 則勞於是役。『記』又伇秦人、作茨田堤及茨田三宅)大仙陵と誉田御廟山陵は朝鮮遠征の成果(精華?)と言われても、現在にあっては納得しがたいものがある。仁徳天皇とは功罪相償う天皇だったか。
また、『日本書紀』では、
『日本書紀』では応神天皇3年条に百済の辰斯王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」の辰斯王が死去したと記述されている年は西暦392年である。
『日本書紀』では応神天皇8年条に「百済紀には、阿花王(あくえおう、あかおう)が王子直支を遣わしたとある。」と記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が太子腆支(直支のこと)を遣わしたと記述されている年(阿莘王6年)は西暦397年である。
『日本書紀』では応神天皇16年条に百済の阿花王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が死去したと記述されている年(阿莘王14年)は西暦405年である。
以上より応神・仁徳両天皇が活躍した時代は四世紀後半の四半世紀から五世紀前半の四半世紀頃だったと思われる。

★まとめ

日本の学者先生のなかには、例えば、神功皇后の実在性が怪しいとなればそれ以後のご子孫はあり得ないという見解を唱える人がいるようだ。この場合、応神天皇以下は全否定と言うことになり、どのように国史を取り繕うのだ、と言うことになろうかとも思われる。無論、このような見解は少数で、多数説は応神天皇実在論に傾いているようだ。しかし、応神天皇はいろいろ難癖をつけられる天皇と見え、『紀』の応神天皇の条には天皇の亡くなった記事はあるが、葬地(陵)についての記載がない。このこともあって、文献学から応神天皇と仁徳天皇が本来同一人物だったとする見方も出ている、と言う。(注1)因みに、『記』では、応神陵「御陵は川内の恵賀の裳伏の岡に在り」とあり、占部家本の『記』では、その箇所に「百舌鳥陵也」との註記がある。まったく以て煩わしい話で、書けば書いたで他の文献との齟齬を指摘され、書いていなければそんな天皇はいなかったなどと存在を否定される。こんなのは占部家本写本に問題があり、写本を作成する際、書いていないことを加筆することはいいことなのか。
大和国(大和古墳群、柳本古墳群、佐紀古墳群)、河内国(古市古墳群)、和泉国(百舌鳥古墳群)の大型古墳はほとんどが天皇陵と考えられ、その造営順序もほぼ固まっているようだ。白石太一郎大阪府立近つ飛鳥博物館館長の見解によると、造営順序は以下のようになるとのことだ。
三世紀中葉過ぎから四世紀中頃まで、奈良盆地東南部、
1.箸墓古墳(奈良県桜井市)→2.西殿塚古墳(天理市。現手白香皇女衾田陵)→3.外山(とび)茶臼山古墳(桜井市)→4.メスリ山古墳(桜井市)→5.行燈山古墳(天理市。現崇神陵)→6.渋谷向山古墳(天理市。現景行陵)の六基が継続的に造営。
四世紀後半、奈良盆地北部、佐紀古墳群
7.宝来山古墳(奈良市。現垂仁陵)→8.五社神(ごさし)古墳(奈良市。神功皇后陵)の二基が造営。
四世紀末葉以降五世紀前半まで、大阪平野、古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に、
9.仲津山古墳(藤井寺市。現仲津媛陵)→10.上石津ミサンザイ古墳(堺市。現履中天皇陵)→11.誉田御廟山古墳(羽曳野市)→12.大仙古墳(堺市)
以上が三世紀中葉から五世紀前半までの大王墓という。古市古墳群と百舌鳥古墳群に交互に古墳が造られるようになったのは人材難、あるいは、大和国の古墳造営グループと河内国(和泉国も含む。)の古墳造営グループが別々のグループだったのかも知れない。
いずれにせよ神武・崇神同一人物説では、神武天皇と崇神天皇の同一人物説を支持しているのは崇神天皇始祖説支持者だけです、と曰う人もいるが、神武天皇始祖説でも問題がないのではないか。要するに、神武崇神天皇と言うべき人を二人に分けたのだから。しかし、神武・崇神同一人物説にはにわかに賛成できできない。天皇家の始祖伝説には高御産巣日神が出てきており、同神は大伴氏の祖神であり、また神武天皇は大伴氏の祖道臣命にいたくご執心で論功行賞として邸宅を与えている。また、橿原遺跡の縄文晩期遺物として「多くの食物残滓(ざんし)のなかにはクジラ、タイ、スズキなどの海産物の骨も遺っていて、海浜地域との連絡があったことも知ることができる。」とあり、これも大伴氏がらみの遺物か。あれやこれや考え合わせると神武天皇は大伴氏の祖先説話に絡(から)まり、崇神天皇は母堂が物部氏の遠い先祖(伊香賀色雄命)の妹と言い、また、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に、大水口宿禰(系図にもよるが伊香色雄命の子で、穂積臣始祖。弟が物部十市根で物部大連氏始祖。)は倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)とともに同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられた旨を天皇に奏上した、とある。物部氏の遠祖の伊香色雄命は現在の枚方市伊加賀(本、東、西、北、南、栄、寿、緑などの諸町がある)あたりが本拠地で物部氏も最後は東大阪市衣摺が本拠地となったようだが、当初は枚方市あたりに本拠地があったのではないか。丁度そこに崇神天皇が進出してきたと言うことか。よって、大伴氏伝承の初代天皇は神武天皇であり、物部氏が最初にお近づきになった天皇は崇神天皇で物部氏伝承では初代天皇は崇神天皇となったのではないか。
応神・仁徳同一人説については以下のような意見を言う人物(前田晴人大阪経済法科大学教養部客員教授)がいる。曰く、

「応神・仁徳同体分化説」と呼ばれる興味深い学説が、戦後に提唱された。応神・仁徳両天皇の事績を詳しく比較検討してみると、類似する事績や行動がくり返し記されていることがわかる。つまり天皇父子の事績が、あるひとりの王者像から分化させられたものだという説である。
しかし、原型となる王者が誰なのかは立証されておらず、今でも応神天皇の実在性を肯定する研究者は多い。だが、神功皇后が神話的な虚像であるとするなら、その御子である応神天皇も虚構の王者と解すべきであろう。
何らかの政治的理由により神功・応神母子にまつわる伝説の造作が必要になったと考えられるのだ。

、と言う。
しかし、私見で恐縮かと思うが、日本武尊、成務天皇、仲哀天皇などの実態のない人々を除くと応神、仁徳は景行天皇八十人の実子のうちの二人の実子となり兄弟ではなかったか。景行天皇は期待もしていなかったのか二人に「九州へ行って熊襲を討伐してこい」と言ったが、二人は少しばかり利口で伊都国で作戦会議を開き、地元首長が論功行賞に金銀ほしさから朝鮮半島への出撃なら協力するという言葉に引かれ、半島出兵となったのであろう。そこで、仮令、応神と仁徳の類似事績が畿内方面での開発行為や農業振興であったとしてもやむを得ないのではないか。日本ではこの種の「同体分化説」とか「一体分身説」は古くからあったようである。例、三輪流神道(大神神社)には「伊勢と三輪が一体分身」という神学があるという。
これも物部氏と大伴氏のからみの話になるのだが、景行天皇は当初より天皇への資金提供者として物部氏と大伴氏に癒着していたようで、戦費はおろか陵墓造営費も両氏に出させたのではないか。それが日本一、二を争う陵墓になった。誉田御廟山古墳は河内国(物部氏の勢力下)に在り、大仙陵古墳は和泉国(大伴氏の勢力下)に在り、両氏にとっては迷惑な話ではあったとは思うが、応神天皇、仁徳天皇は別人の天皇であり、父の景行天皇が日本統一を果たし、応神、仁徳は海外遠征ができたのである。

(注1)上記の引用は『森浩一 筑摩選書 「天皇陵古墳への招待」』からなのだが、森名誉教授は以下のことも述べておられる。

1.誉田山古墳の陪墳の二ツ塚古墳は応神の妻(仲姫皇后)の父品陀真若王(五百城入彦皇子の子。景行天皇の孫。)の墓? P206

2.誉田山古墳の陪墳のアリ山古墳には二段逆刺鉄鏃(腸抉(わたぐり)ともよばれる逆刺(かえし)が二段ある鉄鏃)が多数(341本。鉄鏃の総数1542本。)があった。二段逆刺鉄鏃の分布圏は隼人が集中的に居住した南部九州、もう一つが大阪府、奈良県、滋賀県の比較的大きな古墳から出土。南部九州が本来の流行地域大阪府等が隼人の移住先。誉田山古墳の被葬者が応神天皇とすれば九州からの東進の際隼人系の集団、例えば、応神妃の髪長媛の父日向の諸県君牛諸井がいた。P208

3.誉田山古墳の内濠出土品(出土状況等は不明)には土製品のクジラ、イカ、タコサメ(またはイルカ)の出土がある。誉田山古墳の被葬者に海の生物を贈る習慣があった。河内政権の出自を示唆? P210~211

1.については、品陀真若王の墓が先にあって、応神天皇の入り婿説を匂わせているが、応神天皇は大鞆和気命(おおともわけのみこと)から誉田別命(ほんだわけのみこと)になっているので、大鞆(古代豪族大伴氏と関係があるかどうかは不明)から品陀に入り婿になったのではないか。景行天皇が意図した天皇家の嫡流は景行天皇→五百城入彦皇子→品陀真若王の皇統ではなかったかと思われるが、朝鮮半島の情勢急転から品陀真若王から急遽応神天皇に天皇(大王)の地位が委譲されたものと思われる。私見では応神天皇も品陀真若王も景行天皇関係者であり、応神天皇が品陀真若王の皇女をみんな自分の后妃とすることはなかったのではないか。

2.については、二段逆刺鉄鏃は応神天皇の戦利品で、あるいは応神天皇は熊襲(隼人)討伐へも行ったか。また、京田辺市大住は隼人の竹細工、舞踊、相撲の技術に着目した応神天皇が技術者として大隅国から連れてきたのではないか。また、武力にも優れていると言い、戦闘要員としても連れてきたか。神武東征に代わる応神東征とでも言いたいのだろうが、関係はないと思う。

3.については、魚類の貢納は大和国では交易か貢納かは解らないが、縄文時代末期から行われていたようであり、応神天皇が海洋民族出身と言うことにはならないと思われる。

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