古代の祭神

★はじめに

我が国の古代の正式な神社の祭神は「太陽神」と「国魂神」で、両神はセットで祀られていたようである。具体的な神名としては「天照御魂神」とか「天照国照大神」とか「天照玉命(天照御魂の誤記か。あるいは、<てるたま>は照り輝く球体の意味で太陽のことか。)」などがあるようである。崇神天皇の時代には宮中では天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)が祀られていたと言う。 但し、崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、両神を皇居の外に移し、別々に祀った。
一体に我が国には何の脈絡もない太陽神が多く、例として『記紀』に出てくる太陽神を見てみると、

天照大神
太陽を神格化した神であり、皇室の祖神<皇祖神>で一般には女性とされる。起源は日本で原型は神武天皇から天武天皇の間にできたか。

高木神
高御産巣日神とも。高木を神格化した神と言われるが、私見では縄文太陽神で三内丸山遺跡に始まり出雲大社まで続く巨木文化にまつわる太陽の運行を観測する高木即ち暦の神ではなかったか。但し、『魏志倭人伝』の(裴松之)の注では「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」とあり、二至二分を知らず、暦などと言うものはおぼつかなかったようなことを書いている。『日本書紀』では皇祖とも言われている。起源は日本で縄文時代か。

天火明命(天照国照彦火明命)
「天照国照」「火明」からわかるように太陽光や熱の神格化である、と言う。天照御魂神社の祭神はほとんどが天火明命である。照らすとか明かりと言うので現代用語で言う照明の神か。中国由来の拝火教の痕跡か。

天穂日命
「火日」の意味として太陽神とする説と「穂霊」の意味として稲穂の神とする説がある。出雲国造家の祖と言うが出雲国には天穂日命を祀る有名な神社は少ない。息子に建比良鳥命あるいは武日照命(たけひなてるのみこと)とあるので世界中至る所に見られる農業太陽神か。日本の起源は稲とともに東南アジアから入ってきたと言うが、やや持って怪しい説だ。

天日槍命
日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団の始祖神、と言う。満蒙の太陽神か。起源は東北アジアで満州、蒙古か。日本の始祖神は新羅国の王子という。

などがある。高木神以下は国家神である天照大神が創作されると徐々にそれに吸収あるいは置換され現在ではマイナーな神社の祭神になっている。

国魂(くにたま、国霊とも。)とは、村、郷、郡、国(令制国)または国土そのものを神格化したものである、と言い、統轄神は大国魂神(大国主神、倭大国魂神など)と言う。また、日本は海洋国家なので海延いては海神(例として、綿津見神や住吉神などのワタツミの神)を祀っても良さそうなものだが、一部の海人族に限られているようだ。

★天照大神の前の太陽神は

崇神天皇が天照大神と倭大國魂神とを宮中に祀ったというのは、太陽神あるいは天空神と国魂神あるいは地母神を宮中に祀ったと言うことであろう。世界的には天なる父と大地なる母と言うことになるのだろうが、日本では太陽神が強調されて天には女性が、「その国を経営坐(つくりし)し功徳(いさお)ある神を、国玉国御魂」(本居宣長)と言い、国魂神あるいは大地の神とはその土地の開拓者を言うようだ。女性の開拓者はあまり聞かないところで必然的に男性と言うことになるのだろう。
翻って、縄文時代の我が国はざっくばらんに言うと小さな地域集落が点在していて、交流で物々交換をしたりして生計を立てていた社会ではなかったかと思う。その中にあって、巨木文化の地域は巨木一本を運ぶにせよある程度の労力を必要とし複数の集落がまとまって共同作業をするようになり、参加する集落の数もだんだん増えて後世の国(大きさは律令時代の令制国より広域か)のような大きさになった。具体的には、筑紫国(筑前、筑後)、出雲国(因幡、伯耆、出雲、石見)、吉備国(備前、備中、備後)、摂津国(摂津、河内、和泉)、丹波国(丹波、但馬、丹後)、尾張国(三河、尾張、美濃)などがあり、なぜか辺鄙な奈良盆地を統一し、中小豪族をまとめ上げた天皇家が当時の倭国を統一することになった。
当然のことながら、今も昔も大きな組織にはいろいろデータも整っているが、中小組織には記録をつけると言うこともままならず、語部によるちんぷんかんぷんな話しかなかったのではないか。そこで歴代天皇はまず相談したのは隣国の友人で後世の大伴氏かと思うが、大伴氏はそういう家伝の記録が豊富なのは出雲氏だ、と言い、天皇の矛先を出雲氏へ向けたが、出雲氏は出雲氏で「我が家と天皇家は何の関係があるのだ」と言って取り合わず、その後双方は紛争に発展したのではないか。結末は、出雲は意外にも武力に弱く大和に簡単に負けてしまった。大和朝廷が検討した結果、海洋国家で交易を生業としていた出雲と周りを山々に囲まれ奈良盆地のなかにあった大和では参考になるものはほとんどなく『記紀』では出雲神話として取り入れられている。そこで大和朝廷が参考にしたのは大伴氏の家伝で、その祖「高御産巣日神」の有力氏族は大伴氏と忌部氏があるが、大和朝廷としては高御産巣日神を天皇家の祖神としても良かったかも知れないが、他の氏族のことも考慮し統一太陽神として天照大神を創出したのではないか。しかも、当時にあってはほとんどの太陽神が男性であったのに対し、大和朝廷では女性のトップ(卑弥呼や台与)が多く、天照大神も女性とされたのではないか。『記紀』によれば当時の西日本には女性の首長も多かったようだ。
そこで、天照大神が統合の太陽神として創作される前に、我が国には一説によるとモデルとなる太陽神があったということのようである。それは第一の説では、高御産巣日神と言い、第二の説では天火明命というもののようである。高御産巣日神は縄文時代からの太陽神と考えられるが、天火明命は天照御魂神社の祭神の多くが天火明命で、その祭神が天照大神の出現とともに天火明命から天照大神に代わったというもののようである。しかし、天火明命の子孫は多くが古墳造営に従事しており、天火明命自身が太陽神とは考えづらい。即ち、天照御魂神社は太陽神とは何も関係のない神社ではないのか。天照御魂を解釈すると「天」は美称であり、「照」は周りを照らすもの、「御魂」は「み」は接頭語、「魂」は霊の宿る大切な品物即ち現今で言う灯明台のようなものか。但し、籠神社(このじんじゃ)の系図では、始祖彦火明命 亦名天火明命 亦名天照国照彦火明命 亦名天明火明命 亦名天照御魂命とあって「火明命」と「天照御魂命」が同一の神である、と言う。しかし、「火明」にせよ「天照御魂」にせよこれらの言葉から太陽が連想されることはほとんどないのではないか。一方、縄文太陽神と思われる高御産巣日神と弥生太陽神であったと思われる天照大神は性格が異なる神であったのではないか。太陽の運行観測に関わったような神(高御産巣日神)と神御衣を織らせ、神田の稲を作り、大嘗祭を行う神(天照大神)とはかなり違ったはずだ。私見では二神の時代背景としては高御産巣日神は弥生時代から古墳時代に、天照大神は縄文時代晩期から弥生時代にでも時代設定されると良かったのではないかと思われる。従って、天照大神の前任の太陽神は考えられず、『記紀』編纂者が大伴氏の家伝を無批判に取り入れただけの話ではないのか。天照大神のモデルと言っても高御産巣日神は『記紀』では天照大神の夫神のようだ。

★まとめ

古代の神と言おうか人と言おうか現在の神社に祀られている神(人)はステータスがあがるにつれその名前にいろいろと修飾語がついていくようだ。籠神社の宮司家の系図では「始祖彦火明命 亦名天火明命 亦名天照国照彦火明命 亦名天明火明命 亦名天照御魂命」五回も名前が変わっている。この場合は、「火明」が実名で彦、命、天、天照国照、天明、天照御魂等の美称と言おうか修飾語は後世の人がつけたものであろう。極めつけは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(『先代旧事本紀』)で、「火明」と「速日」は同一人物と言いたいのだろうが、時代も系統も違う。火明は天照大神の孫と言われ、速日は神武天皇と同世代と思われる。火明は天孫系で速日は天神系である。速日一族は「天磐船に乗って河上の地(河内国河上の哮ヶ峯<たけるがみね>)に天降り、その後大和国(奈良県)に移った、と言う。大和盆地には旧石器時代からの遺跡があり先住民がいてもおかしくはないが、双方が同化して天皇家になったと言うのは速日系の創作か。それに饒速日の語義であるが、「饒」は美称で、「速」は敏速にことを処すことか、集団の長に適任な人、「日」は「速」もそうだが、私見では縄文語で「日」=一日(24h)、「日」=太陽、「日」=神のことであり、今は「霊」の字を当てるようだが、速日とは<はやのかみ>とでも読んだのではないか。一体に旧家には名前に「日」の字がつく人が多いようで、例えば、大伴氏は初代を「天忍日命」と言っている。これは、物部氏、大伴氏はともに縄文時代からの古くからの家伝を語り継ぎ、『記紀』にもその内容が反映されていると言うことなのだろう。物部目大連が伊達に大伴室屋大連と争って物部氏の家伝を押し込んだようではないらしい。
『延喜式神名帳』では神社の祭神は一神がほとんどで、二神以上は少ないようだ。しかし、『延喜式神名帳』は平安時代のもので縄文、弥生、古墳、飛鳥・奈良時代の神社とは違うだろうから、元々は祭神は一神だったとか、はたまた、二神だったとは決めつけられないと思われる。祭神が複数の神社は夫婦神等の親族神だったとか、あるいは、合祀によったものかとも思われる。崇神天皇のように意識して天神地祇を祀るのはすでにそれなりの見識があったということなのだろう。崇神天皇は一神よりは二神の方が霊的効果が高いと思ったのだろうが、二神はいがみ合ってマイナスの効果しか出なかったようだ。よって、神頼みは「寄らば大樹の陰」ではないが、霊験あらたかな有力神一神だけにしたようだ。但し、崇神天皇の類似の例として『延喜式神名帳』に「山城国 久世郡 水主神社(十座) 並大。月次新嘗。就中同水主坐天照御魂神。水主坐山背大国魂命神二座。預相嘗祭。」とあるが、これは古墳建造関係者の神社と地元の元々の神社が合体したからではないか。古墳建造には意外といろいろな職種の人がいて諸々の神を祀っているものだ。

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