天火明命のこと

★はじめに

天火明命は尾張氏の始祖と言うことになっているが、おそらく尾張氏を天孫族として天照大神の系譜につなげるために創出された神(人)ではなかったかと思われる。系譜上は『日本書紀』では天忍穂耳尊と高皇産靈尊の娘「栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)命」の間の子とされ(「一書曰、天忍穗根尊、娶高皇産靈尊女子𣑥幡千千姬萬幡姬命・亦云高皇産靈尊兒火之戸幡姬兒千千姬命、而生兒天火明命、次生天津彥根火瓊瓊杵根尊。其天火明命兒天香山、是尾張連等遠祖也。」『日本書紀』卷第二 第九段 一書第六)、天照大神の孫に当たる。一般には瓊瓊杵(ににぎ)尊は弟という。天孫降臨に際しては瓊瓊杵尊は華々しく活躍するが、天火明命はだんまりしたままである。「火明(ほあかり)」の意味だが、「太陽光や熱の神格化」とか、「<穂赤熟>で、稲穂が熟して赤らむ意味」とか言われている。太陽神あるいは農業神と言うのである。天火明命は尾張氏をはじめその子孫が多いが、物部氏でも時代が違うものの伊香色雄命という子孫の多い人物がいる。もっとも、天火明命と物部氏の祖である饒速日命とは同一の神ともいわれて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)(『先代旧事本紀』)と言う名前も創出されている。でたらめもここに極まれりというような神名で『先代旧事本紀』の著者は藤原氏全盛時代でストレスが溜まってこんなことを言っているのではないか。『日本書紀』に「長髄彦が神日本磐余彦の元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は、昔、天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。神日本磐余彦と長髄彦は共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかった。」とあるので、天津神は天照大神系や饒速日命系などいろいろあるようなので、『先代旧事本紀』が天照大神の孫の天火明命と饒速日命を同一神とするのは論理上おかしい。
天火明命は『記紀』では事績らしいことが何もないのでどういうことをしていた人かは解らないが、以下、少しばかり検討をしてみる。

★天火明命と古墳造営一族

『新撰姓氏録』によれば火明命の子孫は完全に古墳造営業者に特化している。歴史的に名のある氏族を列挙してみると、
左京 神別 天孫 尾張宿祢、尾張連、伊福部宿祢、石作連など。
右京 神別 天孫 尾張連、伊与部、六人部、子部(宮中で雑事に奉仕していた子供を統率する伴、伴造は児部。践祚大嘗祭において蓋綱をとることに関与していた。)、丹比宿祢(反正天皇の名代丹比部の伴造)など。
山城国 神別 天孫 尾張連、六人部連、伊福部、石作、水主直、三富部など。
大和国 神別 天孫 尾張連、伊福部宿祢、伊福部連など。
摂津国 神別 天孫 津守宿祢、六人部連、石作連など。
河内国 神別 天孫 丹比連、若犬養宿祢、笛吹、身人部連、尾張連 、五百木部連など。
和泉国 神別 天孫 若犬養宿祢、丹比連、石作連、津守連など。
以上より火明命の子孫は『新撰姓氏録』に出てくるすべてが古墳造営に従事していたとは言えないが、有力氏族は古墳築造に関わっている。また、天火明命の本宗家は尾張氏と思われるが、尾張氏については、
1.尾張国造として熱田神宮を奉齊し、勢い頗る盛であった。但し、大宮司家はその後藤原南家の族である季範を女婿とし藤原氏に変わった。
2.系統のことなる一族が多数存在していた。
3.尾張国諸郡の郡司として多く名を残している。
4.無姓の尾張氏は大和・越前・備前・周防などの諸国に分布。
5.尾張部は河内・美濃・備前に分布。
などとあるが、肝心の尾張氏が古墳造営に携わっていたという古記録等は見当たらない。しかし、「前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たした。」とか「前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされた」というのは濃尾の雄だったと思われる尾張氏を抜きにしては考えられないと思う。即ち、尾張氏も統括責任者として古墳造営に関わったことは間違いないと思う。

★天火明命と手焙形土器

手焙形土器は今までに全国でおよそ720個ほど発掘されており、主なる出土地としては、中国・瀬戸内(岡山県)、近畿、東海が多く、一般的な分布としては中部日本が認められるという。用途は不明と言いながら、「覆いの内面に煤が付いているものが出土しており、何かを燃やして使うことがあり、祭祀に使ったものと考えられます。」という。

一応、起源・発祥地等については、

1.縄文土器説
縄文土器にも類似の土器があり、縄文土器が日本列島を東から西へ移動したのではないか、と言う説。手焙形土器類似の縄文土器には釣手土器あるいは香炉形土器がある。釣手土器の釣手の幅が広がって透かし状になったようなものを香炉形土器という。釣手土器の特徴としては、
a.出現は中部・関東地方を中心とした中期の勝坂式土器からという。
b.釣手土器は懸垂して使用されたものと考えられている。
c.内部に煤が付着した状態で検出された例がある。
d.呪術性や実用性を含めて、灯火具説、香炉具説が有力視されている。
ほかに、「縄文時代中期には、いわゆる手焙形土器(完形品)が見つかっている渚遺跡(岐阜県高山市久々野町渚奥垣内)」とある。 この説によると手焙形土器は我が国プロパーなもので東南アジアなどにある類似製品とは関係がないようだ。
2.近畿(河内国)発祥説
手焙形土器が一番多く発掘されているのは近畿地方で、最大発掘地は発祥地である、と言うもののようである。兵庫県立考古博物館のウェブサイトでは28個の兵庫県内発掘の手焙形土器が掲載されている。近江国等発祥説もあるが支持する向きが少ない。

結論としては、(財)岐阜県文化財保護センターが言う渚遺跡の記述が正しければ縄文土器説が正しいのであろうが、何分にも渚遺跡の手焙形土器は戦前(江馬ミサオ、 1937 「 渚出土縄文土器」『ひだびと』第五年第十号、とある)の話であり、失礼ながらそのまま信用していいものかは疑問である。

用途

手焙形土器の用途も発掘される場所によっていろいろ連想が膨らむようだが、あげたら切りがないので、一応、一般的な用途を列記すると、

1.暖房器具
2.照明器具
3.蚊取り線香ホルダー(害虫を焼く)
4.葬送や農耕儀礼に使用された
5.古墳の墳頂での儀式に使う
6.祭祀用具
7.香炉
8.小形で特殊な細工物などの加工道具
などがある。

私見としては、当該土器は古墳時代直前に出現し、古墳時代前期に消滅しているので、おそらく古墳築造の際の照明器具として使われたのではないか、と考える。無論、古墳は薄葬令(『日本書紀』大化二年(646)三月二十二日条)に「詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。古之葬者因高爲墓、不封不樹、棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而已。故、吾營此丘墟・不食之地、欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅鐵、一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。棺漆際會三過、飯含無以珠玉、無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也、欲人之不得見也。」と宣言し、そのあとにくどくどと述べているのでこの頃までは大型古墳が築造されていたのであろうから、その遙か前に消滅している手焙形土器は古墳とは関係がないのではないかと述べられる向きもあろうかと思われる。そもそも、古墳の照明についてはそれらしきことを『記紀』から抜粋してみると、

【古事記 上卷】
故刺左之御美豆良【三字以音下效此】湯津津間櫛之男柱一箇取闕而 燭一火 入見之時
故、左の御美豆良(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の男柱(おばしら)一箇(ひとつ)を取り闕(か)きて、一火(ひとつび)燭(とも)して入りて見る時に、
【日本書紀 卷第一 第五段 一書第九 原文】
于時闇也 伊奘諾尊 乃擧一片之火而視之 時伊奘冉尊 脹滿太高 上有八色雷公

古代の櫛は、縦長で歯の部分がとくに長く、おそらくヘアピンのように束ねた髷(まげ)を止めるための挿し櫛であったと思われる。『古事記』の文章の方が具体的で<みずら>を止めていた櫛の歯(当時は男柱と言ったようだ。)一本を折って火を灯したと言うのである。(話題の舞台は伊弉冉尊の墓の中)どのように着火したのか、また、当時の櫛は木製であったと思うがその素材は何であったのか。現在のマッチの軸木にはポプラ、シナノキ、サワグルミ、エゾマツ、トドマツなどが使われる、と言う。古墳時代になって松ヤニ等を集めて火を灯すと言う技術があったか、なかったか。

【日本書紀 卷第五 御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇 原文】
十年秋七月丙戌朔己酉
乃葬於大市 故時人號其墓 謂箸墓也 是墓者日也人作 夜也神作 故運大坂山石而造 則自山至于墓 人民相踵 以手遞傳而運焉

「是墓者日也人作 夜也神作」とあるのは現代的に言うと、夜間作業を行っていた、あるいは、二交代制で作業をしていたと言うことではないか。いくら神とは言え月の明かりしかない夜に正確な仕事はできなかったと思う。そこで照明が必要になるのであるが、当時の屋外での照明方法としては松明(たいまつ)があったのではないか。後世には「野外用を松明(たいまつ)と称し、屋内用を脂燭(ししょく・しそく)と言う。」とある。もっとも、私見ではここに出てくる「人」は大和国の人であり、「神」は大和国以外の他国の人のことではないか。当時、大和国の人には石を加工する技術がなく、他の国から招いたものであろう。『日本書紀』垂仁七年秋7月にある「奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。」というのも當摩蹶速に石工の技量がなかったので出雲国の野見宿禰に与えたと言うことではないのか。おそらくこの土地には二上山も含まれていたと思われる。出雲国の野見宿禰と言うが因幡国一宮の神主家は伊福部氏(本業は古墳築造あるいは石工だったか。)と言い、あるいは因幡国の白兎の伝説と相まって因幡国の人だったか。但し、出雲国にも四隅突出型墳丘墓と言う独自の弥生墳墓がある。

★まとめ

まず、天火明命とは字義通り「火」を根源とする「熱」や「明かり」の神で、稲穂の神様ばかりが並んでいる天皇家とはまったく関係のない神ではないか。稲の前に火があったのであり、日本神話においては天火明命は古層の神であったと思われる。おそらく拝火教的なものが前にあり、日神教的なものは稲作とともにもたらされたのではないか。わずかに神社名で残っているのは「天照御魂神社」で祭神がほとんど天火明命である。丹波国天田郡には天照玉命(アマテルタマノミコト)神社があり、祭神は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊となっているが一般には天火明命と解されているようだ。おそらく但馬国の天日槍命と同じく天火明命も丹波国天田郡が本拠地の神ではなかったか。あるいは、天日槍命が「元々は日矛を祭祀具に持つ大陸系の日神信仰を持つ集団であったと想定する見方も存在する。」とあり、天日槍命などと言う神(人)はいなかったということである。天火明命も懸垂式照明器具か定置式照明器具かは解らないが祭祀具の照明器具あるいはその発する明かりを擬人化したものか。拝火教が中国に入ってきた時には日本も有史時代に入っており天日槍命と天火明命は直接には結びつかないようだが、天日槍命説話が遼河流域・華北東部・モンゴル・満州など東北アジアに広くみられる日光感精による懐妊説話なので天火明命も東北アジアからやってきた一団の人々かも知れない。しかし、火を神聖視する思想というのは世界中至る所にあると言うので天火明命も日本プロパーな神(人)かも知れない。
手焙形土器はそれまでの懸垂型照明器具(釣手土器)から石棚などを設け定置型照明器具(手焙形土器)に改良されたものではないか。改良の発端は古墳の石室内部の仕上げ工事を効率化しようとしたのではないか。手焙形土器が岡山県や近畿地方、東海地方で主に出土するのも古墳に関係があると思う。石室内部が広くなると工事にかかる時間も多くなり照明器具が必要になったと考えられる。懸垂型から手焙形にして覆いをつけたのは、中の火が消えないようにしたものか。手焙形土器に関してはその用途をいろいろ挙げる向きもあるが、現代的に言うと産業用に使われていたものを民生用に転換したものであろう。そして、一説を引用するなら手焙形土器が発する明かりがその後神格化されて天火明命と言われるようになったものか。

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