丹波国天田郡には誰が住んでいたの

★はじめに

丹波国天田郡(現・福知山市)の『和名抄』に記される郷名は六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷、和久郷、拝師郷、庵我郷、川口郷、夜久郷、神戸郷と十郷があり、特に、前の四郷は古墳造営と関係するような気がして、どうしてこんなところに古墳造営業者が集中しているのかなと思っている。
六部は現代流に言うと土木工学における数学的管理を行い、
土師は墳丘の築造あるいは埋納土器の制作を行い、
但し、ここの土師は『日本書紀』雄略天皇十七年春三月丁丑朔戊寅、詔土師連等「使進應盛朝夕御膳淸器者。」於是、土師連祖吾笥、仍進攝津国來狹々村・山背国內村俯見村・伊勢国藤形村・及丹波・但馬・因幡私民部、名曰贄土師部。」にある丹波の贄土師を言う、と言う説がある。また、中央の土師氏は古墳造営の統括管理者で土石工事を担った。
宗部はサカあるいはスガあるいはソギ(削)の訛でサカなら語源的には〈サカシキ(嶮)〉〈サカヒ(堺、境)〉〈サカフ(逆)〉〈サキ(割)〉の原語のサとカ(処)とから成る等の説がある。しかし、坂といわれる場所が地域区分上の境界をなしたり、交通路の峠をなしたりしている事例が少なくない、とある。スガと解するなら、「州処(すか)」の意という。川岸・海岸の砂地や砂丘を言う。ソギなら土砂を削って墳丘築造に用いると言うことか。古墳造営的に言うと宗部とは古墳の墳丘用に土砂を手当てしたり、あるいは、用地選定などを行ったか。こちらは宗宜部首と言い中央の蘇我臣とは関係がないようである。
雀部は読みは『和名抄』のルビーとしては散々倍とか佐々伊倍とかがあるが、松尾大社文書に「さゝいへ」とあるので「ささいべ」を正としているようである。雀はミササギの当て字で「陵」即ち古墳のことか。ササギには小高い丘の意味があるという。読みはほかの文章ではササギとかササイの二通りが有力であったらしいが、また、ほかにもいろいろな読みがある。雀部で著名なのは仁徳天皇の名代氏族で雀部があり、膳部を担当した。雀部は古墳の造営完了後のメインテナンスを主に担当したものか。参考になる氏の名として近江国蒲生郡に佐々貴山(ささきやま・<みささぎやま>で古墳のことであろう)氏がある。あるいは、膳部で工事従事者の食事を調理していたのかも知れない。
以上の四氏は全国的に分布している。
六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷の地名が「部」とか「師」などの人間の集団にまつわる地名なのに対し、和久郷以下は地形地名のようである。石材工事業者と思われる石作とか伊福部(五百木部)などの文字がないのが残念ではある。但し、『先代旧事本紀』巻第五の天火明命の九世の孫「弟彥命」の弟に「若都保命.五百木邊連祖」とある。なお、尾張氏は古墳造営(前方後方墳)も得意だったらしく一族には、津守連、六人部連、石作連、身人部連などの名が出てくる。

★『先代旧事本紀』の諸氏の系図は信用できるのか

丹波国天田郡の六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷の四郷(四氏族)については『先代旧事本紀』巻第五の尾張氏の系図に天火明命につながる玉勝山代根古命と言う人物を祖とする天田郡四郷に似たような氏族が出てくる。無論、土師氏は表向きは天穂日命の子孫と言う野見宿禰を遠祖としているので六人部、宗宜部、雀部のグループには入っていないようだ。ところで、『先代旧事本紀』だが、「序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。」とある。現今でも「〇×詐欺」とか言って詐欺に引っかかりやすいのが人間の性(さが)だが、歴史の書物を見ているとその道の大家までが『先代旧事本紀』を引用している。浅学菲才の身なのでその顰み(ひそみ)にならうこととする。
早速であるが、『先代旧事本紀』の当該部分(巻第五)を引用すると、
九世孫-弟彥命.
妹,日女命.
次,玉勝山代根古命.山代水主雀部連‧輕部造‧蘇宜部首等祖.《山代水主<直>・雀部連・輕部造・蘇宜部首等祖が正で、直の文字が欠落したか》
神名帳云,山城國久世郡水主神社十座就中天照御魂神‧山背大國魂命神二座御相並祭.
今按天照御魂者,天照國照彥天火明尊‧山背大國魂者,御勝山代根古命乎.
又按姓氏錄,火明命之後‧榎室連祖-古麻呂,家在山城國久世郡水主村.
次,若都保命.五百木邊連祖.
次,置部與曾命.
次,彥與曾命.以上六柱,倭得玉彥命子也.
問題となるのは「玉勝山代根古命、山代の水主直・雀部連・輕部造・蘇宜部首等祖」なのだが、丹波国天田郡の十郷のうち六部郷、土師郷、宗部郷、雀部郷が類似しているので双方の関連性を説き、なかには、玉勝山代根古命は山代から丹波に渡り丹波国を開発後また山代に戻ったなどという見解もある。前述のように「『先代旧事本紀』は偽書」と江戸時代の国学者から指摘されたにもかかわらず、今になって「正」とするがごとき意見を述べる人物もいるようだ。曰く、『京都府の地名』(日本歴史地名体系第二六巻、平凡社刊。P326。雀部郷の項)『「日本地理志料」は「天孫本紀、玉勝山代根古命雀部連、蘇宜部首等ノ祖也、蘇宜部ハ即宗部也、与六人部氏為同系、其族居此、因名」と記す。天田郡内に宗部・六部・雀部の三郷が接近してあるのは、古代各郷の先住者がその祖を一にしたことと関係があるように思われる。』と。「同一の祖」とは玉勝山代根古命を言わんとするようであるが、ほかに丹波氏もその候補にあがるようだ。『続日本紀』延暦四年(785)正月二七日条に天田郡大領丹波直広麻呂の名が見え、丹波氏は丹後国丹波郡丹波郷を本貫としたと考えられているが、あるいは、丹波国天田郡でも支配的地位にあったと思われる。神社は式内社、天照玉命神社、生野神社、奄我神社、荒木神社のうち天照玉命神社が天火明命を祀り、奄我神社が天穂日命を祀るという。天照玉命神社は六人部氏、宗宜部氏、雀部氏が祀り、奄我神社は土師氏が祀ったと言うことか。

★まとめ

丹波国天田郡は数は少ないが縄文時代より遺跡が残り、
武者ヶ谷遺跡 福知山市堀 縄文時代 京都最古の縄文土器(刺突文小型丸底土器)
奥野部遺跡  福知山市奥野部 縄文時代 北部の旧期洪積層の谷(小字エンジョ)から早期縄文時代の有舌尖頭器が発見されている。
半田遺跡 福知山市半田 縄文後期 桑飼下式を中心とする縄文土器のほか、打製石錬、打製石斧、磨製石斧、敲石、石錘などの石器類が出土している。
上野平遺跡 福知山市石原上野平 石器、土器(縄文、弥生、土師器、須恵器の土器及び土器片。)
などがあり、弥生時代の遺跡としては今安(いまやす)、新庄、厚(あつ)、前田、土、中、興(おき)などで発掘されている。古墳時代になると至る所に古墳が築造され、代表的なものとして、
前田宝蔵山古墳 四世紀の甕棺
猪崎因幡山古墳 五世紀の前方後円墳。人物、鳥、馬、琴、靭(うつぼ、ゆぎ)などの形象埴輪の破片。
報恩寺奉安塚(ほうあんづか)古墳 後期古墳。鏡、勾玉、鉄刀、鉄工具類、馬具類、須恵器等の遺物が出土。馬具類は、鐙(あぶみ)を除く金属部が残欠を含めてほぼ完存している、として朝鮮文化との近縁性を説く見解もある。そのためか、由良川沿岸には、阿良須、有路(ありじ)、荒河(あらが)、荒倉など、ARで始まる発音の地名が多いことから朝鮮語の影響と見る向きもある。但し、阿良須は本字は蟻道(安里知)で、蟻巣と変わり、転訛して阿良須となったと言うので阿良須と有路は元は同一語であったのではないか。従って、有路を割愛する。難癖をつけるわけではないが、この「あら」は漢字で書くと「新(あら)」となり、当該地は洪水被害が多く、洪水があるたびに新しい地形が現れ、「あら××」と名付けられたのではないか。
福知山盆地の洪水被害だが、盆地内を流れる由良川は盆地出口から河口まで狭く勾配のない峡谷が続き、大量の降水をさばけず盆地内に滞留するため氾濫原の広さと相まって洪水被害が甚大であった。それは近代になって始まったことではなく、縄文・弥生の古代から続いてきたものと思われる。古代にあってはその復旧作業はほとんど人力に頼り、莫大な労力と時間を要したことと思われる。当然その回数を重ねるうちに技術も向上し現代的に言うと早くに土木工学の泰斗も現れてきたのではないかと思われる。その代表が、六人部、土師、宗宜部、雀部だったのではないか。これらの人々は大和国で大型古墳(箸墓古墳か)を造営する際、中央に召集され、現在の城陽市に住まわされたのではないか。そこには、玉勝山代根古命がいたと思われるが、「玉勝山代根古命、山代の水主直・雀部連・輕部造・蘇宜部首等祖」とあり丹波国天田郡からやって来た六人部、土師、宗宜部、雀部とやや構成が違う。丹波国天田郡の人々は古墳造営に関わった人々と思われるが、玉勝山代根古命の子孫は必ずしも古墳造営とは関係がないかも知れない。玉勝山代根古命の直系は水主直と思われるが、水主には1.水の神2.井戸掘り係3.用水路管理4.飲料水管理5.厨房係など諸説がある。水主氏は栗隈大溝(『日本書紀』には仁徳朝と推古朝に大溝が開削されたとある。)の開削に尽力した、とする説が有力で、用水路の管理者だったと思われる。しかし、私見では古墳造営にも水が必要で(例、土砂、石材などの材料の運搬に水路を設け筏等に貨物を載せて運ぶ、あるいは濠に注水する、飲料水を確保するなど。但し、濠は造営当初は空堀と言う見解もある。)この水主氏も古墳造営に関わったのではないか。あと、軽部氏だが、軽部(かるべ)=允恭天皇太子木梨軽(きなしかる)皇子の御名代部とする説。しかし、玉勝山代根古命は允恭天皇より遙か前の時代にいた人物で軽部と名乗る前の軽部氏が何をしていたかは不明。これは後世のこととは思うが、縄を編んで畚 (もっこ) のようにつくった軽籠 (かるこ) と呼ばれる運搬具を用い、これに荷物を載せ、棒を通してかついで運んだ軽子即ち軽部のことか。
以上をまとめてみると、丹波国天田郡の氏族と山城国久世郡の氏族との氏の名の類似性だが、おそらく丹波国天田郡の氏族が古墳造営のため招集されて山城国久世郡に定住し、旧来の氏族と一体化して『先代旧事本紀』は玉勝山代根古命の子孫としたのではないか。従って、野見宿禰が現れる前の古墳造営の担い手は丹波国天田郡の人々であり、古墳が頗る頑丈にできているのは度重なる水害にもめげず技術向上を図った丹波衆の努力のたまものではなかったか。日本では技術的なことになると何でも朝鮮人や中国人を引き合いに出すが、それはなかったのではないか。古墳時代草創期の古墳築造は部分的には半島からの土工や石工が加わったと思うが、多くは日本人だけで行われたものと思われる。箸墓などは墓作り工人がどこからともなく現れ、パッと築造し、パッといなくなった、と言う感想を持たれる大家もいるようだ。よって、『日本書紀』が言う「「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。」というのは信じがたい。古墳作りを主導した丹波の人はやや持って縄文系の人であり、大陸や半島からやって来た弥生系の人とは違うのではないか。

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