葛城襲津彦と大伴狭手彦

★はじめに

葛城襲津彦と大伴狭手彦の共通点と言えば、双方とも朝鮮半島に出陣し成果を上げた武将である。とは言え、『日本書紀』によれば葛城襲津彦は「新羅王の人質を護送中に対馬にて新羅王の使者に騙されて人質に逃げられた。」とか、『百済記』逸文によると「新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣されたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪(襲津彦のこと)を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせた。」とか、「天皇は帰化を希望している弓月君の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、三年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。」とか、これが応神天皇の朝鮮半島における後継者かと思うと、現代の口の悪い人に言わせると、とんまでアホと違うか、と言われそうな人物である。そこで『日本書紀』の編者は汚名挽回とばかりに正統・葛城襲津彦として時代は下るが大伴狭手彦を描いたのではないか。無論、葛城襲津彦は4世紀末から5世紀前半頃の人と推定されており、大伴狭手彦は6世紀中頃の人物と推定されている。おそらく二人の年代差は100年以上あり、また、一般には二人は実在の人物であると考えられている。二人の事績を見ても葛城襲津彦はへまばかりしており、それが延々と葛城襲津彦の事績として書かれているが、大伴狭手彦の方は名家出身の優等生らしく失敗はないが「高句麗討伐」などは伝承の誇張として非難されている。ここで両名の事績を簡単にまとめておくと、

葛城襲津彦

神功皇后5年3月7日条
新羅王の人質の微叱旱岐(みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。

神功皇后62年条
新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』を引用する。

『百済記』逸文
壬午年(382年)に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという。
また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという。

応神天皇14年是歳条
百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。

応神天皇16年8月条
天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。

仁徳天皇41年3月条
天皇は百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。

以上を見るとずいぶんと長寿の人だったようで、その記録は神功皇后5年(在位神功元年から神功69年)から(応神天皇:在位応神天皇元年1月1日 – 同41年2月15日)、仁徳天皇41年までにわたり、ざっと見積もっても146歳と言うことになり、話半分としてもおそらく武内宿禰のモデルは葛城襲津彦ではなかったか。パッとした話はないが、これは『日本書紀』の編者が『百済記』に惑わされたもので事実とは考えづらい。何分にも葛城襲津彦の子孫は男性なら大臣、女性なら皇后、皇妃などとなっており、トンチンカンな人の子孫がそんな高い地位につけられないと思われる。それに葛城襲津彦は朝鮮半島専門の重臣のように書かれているが、内政の重臣としても活躍したのではないか。
『百済記』は沙至比跪は新羅討伐に派遣され新羅の美女二人に惑わされたと言うが、これは後述の大伴狭手彦と松浦佐用姫の話を誤解したものではないか。「一云」とあって、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないので石穴に入って自殺した、などと言っているが、これは襲津彦が亡くなって古墳に埋葬されたということを言っているのであって『百済記』の曲解である。もし『百済記』が言っていることが正なら襲津彦はそんなに長寿ではなく、神功皇后の時代に政治の表舞台から遠ざかってしまったはずである。『日本書紀』が言っている応神、仁徳両朝の事績とはマッチしないだろう。とにもかくにも『日本書紀』が言っている葛城襲津彦は応神、仁徳両朝にあって朝鮮半島で武人として活躍した一団の人があって、その主将ではなかったかと思われる。『古事記』で武内宿禰の子とされる、羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、若子宿禰などは葛城襲津彦の配下の将軍だったのではないかと思われる。

大伴狭手彦

宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った。

欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)。

『日本三代実録』貞観3年(861年)8月19日条の記事にも見えており、狭手彦の献じた高句麗の囚が山城国の狛人の祖となったという。

『肥前国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻5には、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられている。

宣化2年の「新羅の任那への侵攻に際し、大伴狭手彦を派遣、撃退したという。」 説話であるが、一説に「欽明天皇の即位は辛亥年となって先の継体没年(25年辛亥<531>・日本書紀)とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。」というつれない説もあり、そうなれば狭手彦の派遣もあり得ないと言うことになる。しかし、『日本書紀』原文は「二年冬十月壬辰朔 天皇 以新羅冦於任那 詔大伴金村大連 遣其子磐與狭手彦 以助任那 是時 磐留筑紫 執其國政 以備三韓 狭手彦往鎭任那 加救百濟」とあり、これもどこからか持ってきた文章かと言うことになるのだが、思い当たるのは『好太王碑文』の「倭の辛卯年(391年)における三韓征伐」が考えられる。三韓征伐の日本側記録の主役は神功皇后であるが何せ実在性にも疑問が呈されており、ここでは神功皇后は横に置き応神、仁徳両帝が新羅出兵を行ったとする。応神、仁徳両帝は『記紀』では親子とされるが、実は兄弟ではっきりした古代の兄弟相続の形で現れるのはこの兄弟で、次の世代は末弟の子供が継ぎ(仁徳の次は、履中、反正、允恭)、(允恭の次は、安康、雄略)、(雄略の次は、清寧<清寧天皇には後継者がいなかった>)、後継者がいるときは問題ないが弟や子のない天皇は問題を起こす。一応、三韓征伐の時は応神天皇が半島へ渡り戦闘部隊を指揮し、仁徳天皇が後方支援(兵站)を行ったようだ。大伴狭手彦の新羅撃退の時は磐と狭手彦は、磐が兵站業務を担い、狭手彦が前線業務を担ったものであろう。こういう高度な軍事手法は軍事氏族と言われる大伴氏が継承していたのかも知れないが、大伴氏が天皇家に従属するようになったのは大伴室屋の時代からと言う説(丹羽基二説)もあり、応神・仁徳の時代に大伴氏が国政に関与していたかは不明。この頃は史上に出てくるのは武内宿禰とか葛城襲津彦を含んだ武内宿禰の子供たちが活躍しているようになっている。

★まとめ

長々とくだらないことを書いたので、某歴史作家の言うように「長々と書くと読者に嫌がられる」という説を採用し、まとめてみることにする。
1.まず、『百済記』に出てくる、沙至比跪(さちひこ)と『記紀』に出てくる狭手彦(さてひこ)だが妙に似た名前である。『日本書紀』にある大伴狭手彦の説話がいい加減な話とするなら、あるいは原話は三韓討伐の話だったか。
2.『百済記』に言う、迎えの新羅の美女2人の話だが、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との話を脚色したものか。
3.狭手彦の「高句麗討伐」は伝承の誇張と非難されているが、実態は日本的に言うと国造や縣主の屋敷を攻撃したのに彼我の文化の差で王宮と勘違いしたのかも知れないが、三韓討伐の話と類して高句麗が出てくる。
4.狭手彦の説話は安閑・宣化朝なんてなかったというなら虚構と言うことになるのだろうが、狭手彦の事績は葛城襲津彦と比べ非常に少なく(新羅撃退、高句麗討伐、弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話)若くして亡くなったとは思う。しかし、『新撰姓氏録』によればその子孫に「神別 左京 榎本連 – 道臣命十世孫の佐弖彦の後。」とあり、「刺田比古神社」の祭神の一神という。榎本姓は和歌山県や淡路島に多いとされ、関西近県では和歌山県南部・三重県南部、奈良県御所市(旧:榎本・金剛山の麓にあったようだが不明。)あたりが発祥の地か。和歌山県と淡路島は大伴氏と結びつく地域か。「刺田比古神社」の祭神は古文書喪失のため本来の祭神は不明と言うが、刺国大神、大国主命などが有力である。神社側は「古屋家家譜」では道臣命の父を刺田比古命とし、道臣命については「生紀伊国名草郡片岡之地」と伝える。この記載から刺田比古神社側では、本来は祖先神としてこの刺田比古命を祀ったものと推測している、として刺田比古命を祭神としている。岡の里古墳があり出土した土器の形状から6世紀頃と推測されており、刺田比古神社や大伴氏との関係が指摘される、と言う。要するに、これらの説は大伴氏は現在の和歌山県出身と言いたいようだ。
5.葛城襲津彦に関しては『記紀』にはその実態が正確に表されていない。おそらく『百済記』に引かれていい加減な作文になったのだろう。
6.以上より葛城襲津彦と大伴狭手彦を比較してみると『日本書紀』の編者はでたらめな葛城襲津彦像を作り上げながら、大伴狭手彦のところで少しばかり修正を加え本来の襲津彦像に仕立て上げたのであろう。けしからん話とは思う。

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