葛木氏について

★はじめに

葛城氏については葛城襲津彦以降の葛城氏の興亡について論じる書物は多いが、それ以前のことについてはあまり興味を示さないのが現今の学説の主流かとも思われる。襲津彦(そつひこ)、葦田宿禰(あしたのすくね)、玉田宿禰(たまたのすくね)、円大臣(つぶらのおおおみ)の四代で滅亡したようである。葛城氏自身は『古事記』に葛城襲津彦の子孫として「葛城長江曾都毘古(そつびこ)は<玉手臣、的(いくは)臣、生江(いくえ)臣、阿藝那(あぎな)臣等の祖なり>」とあり、円大臣が雄略天皇に滅ぼされてお家断絶となったようだ。これには後日譚があり、蘇我馬子は何を血迷ったのか図々しくも「「葛城縣者、元臣之本居也、故因其縣爲姓名。是以、冀之常得其縣以欲爲臣之封縣。」と言いだし、推古天皇に拒否されている。馬子が蘇我馬子ではなく葛城馬子とでも名乗っていたらその言い分にも一理はあったかもしれないが、遠い先祖は同じ(それも蘇我馬子がとりまとめた系図と思われる)でも、お門違いの申し立てと言うべきものだろう。また、存在していないはずの葛城氏について『新撰姓氏録』は、

左京 皇別 葛城朝臣 朝臣 葛城襲津彦命之後也 日本紀。続日本紀。官符改姓並合。

太政官符により改姓したというのであろうが、一説に、「<葛城朝臣>は忍海原連から朝野宿禰を経たのちの改氏姓であり,渡来系氏族であったと考えられる(天武紀10年4月庚戌条・続紀延暦10年正月己巳条)」とある。どうして渡来人の子孫が「皇別」とか、「葛城襲津彦命之後」とか名乗り、太政官がそんなことを認めているのか。一説は間違いで朝廷は、一旦、滅亡としながら、また、復活というのであろうか。一般常識では考えられぬ。
葛城襲津彦に関してはほかに襲津彦の時代は未だ氏の名はなく、葛城襲津彦の葛城は地名であるとするもの。また、欠史八代の天皇には葛城の地に宮を置く天皇があるが、
綏靖天皇の宮は「葛城の高岡宮」(古事記綏靖段)・「葛城の高丘宮」(綏靖紀元年正月己卯条)
安寧天皇の宮は『日本書紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、『古事記』では片塩浮穴宮(未詳。奈良県北葛城郡、現・大和高田市片塩町か)
孝昭天皇の宮は『古事記』では葛城掖上宮、『日本書紀』では掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)
孝安天皇の宮は『日本書紀』では室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)、『古事記』では葛城室之秋津島宮
とある。
これらの初期の宮や天皇陵が葛城地方に措定された経緯については、当地にも勢力を拡大した蘇我氏(推古紀32年10月癸卯条・皇極紀元年是歳条)による最初の国史編纂事業(天皇記・国記)にかかわってのこととする説がある。この説によれば欠史八代の時代は葛城王朝の時代などというのは成り立たないと言うことだろう。欠史八代の時代は資料や文献が少ないのであったのかなかったのかや蘇我氏あるいは飛鳥官僚の作文だったのかは判断ができないというのが現実かと思う。
私見がここで問題にする葛城氏は襲津彦の前の時代の葛城地方にいて畝傍とか磐余とか橿原とか言われる地域の大王だった神武天皇に対抗した葛城氏を言う。

★葛城の地名

「葛城」の文献初出は『日本書紀』神武天皇
「戊午年九月天皇、祇承夢訓、依以將行、時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、」
「己未年春二月因改號其邑(高尾張邑)曰葛城。(又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。)
「二年春二月復以劒根者、爲葛城國造。」などと神武天皇の時代より見える。
以上より判断するならば、神武天皇の頃は高尾張邑と葛城邑が混同されていたようで、あるいは、高天原の比定地の一つとされる「奈良県御所市高天(葛城・金剛山高天台)」を高尾張と言い、その台地の下を葛城と言ったものか。「皇軍結葛網而掩襲殺之」というのは葛城の地名より類推されたものであろう。
剣根が葛城国造になったというのであるが、一説によるとこの国造氏は小国造と言い、奈良県葛城市葛木の地が発祥か。但し、葛木の名は、明治維新後に桑海村と正道寺村が合併してできた葛木村が基盤となっ ています、とある。とは言え、葛木御県神社が鎮座しているので、この周辺が葛城県の中心であったとする説もある。
葛城の語源であるが、「カ」(高いところ)、「ツラ(ヅラ)」(連なる)、「キ」(場所を表す接尾辞)で、二上山、葛城山、金剛山が連なる金剛山地を意味したものか、はたまた、「カ」(カハ<川>の下略)、「ツラ」(~のほとり)、「キ」(場所を表す接尾辞)で、川の畔を意味したか。「カ」(高いところ)、「ツラ(ヅラ)」(蔓)、「キ」(場所を表す接尾辞)で、蔓が多く生えていた高地の意味か。『日本書紀』は蔓説のようである。葛木御県神社のあたりが「葛城」地名の発祥地なら「川(高田川)のほとり」ほどの意味ではないか。京都の桂も桂川のほとりにある。

★葛城にはどんな人がいたの

『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀戊午年九月に、磯城邑には磯城八十梟帥がおり、高尾張邑(葛城邑)には赤銅八十梟帥がいた。これらの人々はみんな天皇と戦おうと思っている。
『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀己末年二月に、高尾張邑には土蜘蛛がいて、その人となりは短身で手足が長い。侏儒と相似ている。皇軍は葛の網を結(す)いて襲い殺した。邑の名前を葛城邑と改めた。
これを見れば当時の大和盆地には東の大関(磯城邑・倭国)には磯城八十梟帥、西の大関(高尾張邑・葛城国)には赤銅八十梟帥がいた。盆地中央南部大和三山々麓には一人横綱の神武天皇がいた。このほかに高尾張邑には土蜘蛛がいて短身、手足長く、侏儒に似ると言う。
何か『魏志倭人伝』の読み過ぎか、とも思われる話だが、同じく神武天皇の論功行賞に、珍彦(椎根津彦)には倭国造、剣根には葛城国造に任じられた。神武天皇の時代に国造などという制度はないと説く向きが多い。虚説と言うことになるのだろうが、ここで読み取るべきは、大和盆地は当時にあって倭国と葛城国と言う上部組織があって、その下に県という組織があったようである。ここでも異論を唱える人がいて国も県も同列であるという見解もある。神武天皇条には猛田県(縣主は弟猾)と磯城県(縣主は弟磯城)が出てくる。県は天皇家直轄領(水田)という見解もある。
以上を総括すると、磯城八十梟帥(倭国)、赤銅八十梟帥(葛城国)はともに一般的な弥生人であって、高尾張邑の土蜘蛛は旧石器時代からの縄文人で、天皇氏は縄文人・弥生人の中間あたりの人と言うべきか。水稲稲作の点から見ると葛城国は倭国よりその導入を先んじて行い、報道では「奈良県御所市の中西遺跡を調査中の県立橿原考古学研究所は8日、弥生時代前期(2400年前)の水田跡約9000平方メートルを新たに見つけたと発表した。これまでの調査で発見された水田跡は計2万平方メートルを超え、弥生前期では最大。」(2011/11/8付日本経済新聞)とある。また、高尾張邑(葛城邑)には赤銅八十梟帥がいた、と言うのも赤銅とは青銅のことと思われ、青銅器も葛城国が先んじていたと言うことなのだろう。倭国と葛城国ではその差は厳然としてあったようである。しかし、天皇氏はその後倭国と同盟し、木津川水系や淀川水系の豪族と同盟や協商を結んで畿内一円に勢力を拡大したようである。大和朝廷の勢力が拡大する過程で葛城国は消滅してしまったのだろう。但し、地名は残った。

★まとめ

磯城八十梟帥や赤銅八十梟帥の末裔はその後どうなったのかと言うことだが、天皇氏直臣の珍彦(倭国造)や剣根(葛城国造)がその地位に取って代わり、支配者としての地位はなくなったのだろう。珍彦、剣根の子孫は「大和宿禰」とか「葛木」とか言う氏の名で『新撰姓氏録』に見える。葛城氏と葛木氏の関係だが、葛城襲津彦に関して『紀氏家牒』逸文では荒田彦(葛城国造)の女の葛比売が襲津彦の母という。しかし、『記紀』には記載がない。特に、『日本書紀』では襲津彦の系譜の記載はない。『新撰姓氏録』で、「左京皇別 葛城朝臣 – 葛城襲津彦命の後。」というのは眉唾物であろう。おそらく、公式には葛城氏はお家断絶となっている。葛城氏は武内宿禰の子孫というのは少しばかり苦しいが、応神天皇の頃に葛城国で勃興し、雄略天皇の御代に滅亡した一族なのであろう。
遺跡については、縄文晩期から弥生早期の奈良盆地の代表的な遺跡として、倭国の領域では橿原遺跡(橿原市畝傍町)、葛城国の領域では竹内遺跡(葛城市竹内。旧・當麻町竹内)、両国の中間的領域では東安堵遺跡(安堵町東安堵)がある。
橿原遺跡については、畝傍山東麓に広がり、縄文晩期中葉から後葉の土器が多量に出土し、特に、西日本では珍しい土偶が多量に出土した。ほかに特筆すべきものとしては、タイ、ボラ、スズキ、フグ、エイなどの魚類の骨、クジラの骨なども出土し、大阪湾岸地域との交易が想像されるという。遺物包含層中には大型の土器と獣骨類のほか木炭がしばしば混在して出土し、更に磨製石斧、敲石、打製石斧、砥石などが集中して出土する箇所がある。果実では多量のイチイガシの果実が出土している。出土する土器の交流範囲は北は関東や東北地方から南は九州地方中部まで広範な分布を有している。
竹内遺跡については、縄文前期から弥生、古墳にいたるまで、地点を変えながらも継続して営まれた拠点集落である。出土遺物は縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、石製品(紡錘車、双孔円盤、石庖丁)、木器(建築部材)、動物遺存体(ウマ(歯))など。縄文晩期には土壙墓群や配石遺構が検出され、祭祀センターとなったか。
東安堵遺跡については、縄文中期末から晩期の低地部に立地する遺跡。土器や多量の植物遺体が出土。どんぐり(クリ、コナラ、アカガシ)、他の堅果(トチノキ、オニグルミ)。晩期の土器は終末の凸帯文土器である。
橿原遺跡は出土する石器や土器、その他の遺物も種類が多く、土器の交流範囲も当時としては全国的なものである。検出された魚類の骨は大阪湾岸地域との交易のたまものとも思われるが、あるいは、道臣命(大伴氏)が神武天皇(天皇氏)にプレゼントしたことの痕跡か。政治的には磯城国の方が優位にあったのではないか。竹内遺跡は長期間にわたって葛城国の拠点集落であったようだが、こちらも豊富な出土物があるが、御所市の葛城臣氏の台頭とともに衰退に向かい、葛木国造は祭祀のみを行うようになったようである。
宮都については、確実な遺跡は藤原京からで、それまでの『日本書紀』に書かれた宮都の推定地は、桜井市13、高市群明日香村9、橿原市7、御所市3、天理市2、大和高田市、磯城郡田原本町、奈良市、北葛城郡広陵町が各々1となっている。
以上よりまとめてみると、奈良盆地は旧石器時代よりそれなりに栄えており東部の倭国、西部の葛城国、南部の磯城国(敷島の大和国から勝手に推測)が鼎立していたのではないか。推定宮都で俄然多いのが南部でほかの地域はまばらだ。特に、北部は有力な豪族が輩出しなかったらしくほとんど宮都が設置されていない。ここでも奈良盆地南部の磯城国が大和国の本宗の地位にあったと思われる。
大和国の倭国造や葛城国造のその後であるが、天皇氏に主導権を握られると「祭政」の「政」の方は天皇氏に取り上げられ、「祭」の主催者だったと思われる。
『新撰姓氏録』によると、
倭国造氏は、
大和国 神別 地祇 大和宿祢 宿祢 出自神知津彦命也 神日本磐余彦天皇。従日向地向大倭洲。到速吸門時。有漁人乗艇而至。天皇問曰。汝誰也。対曰。臣是国神。名宇豆彦。聞天神子来。故以奉迎。即牽納皇船。以為海導。仍号神知津彦。[一名椎根津彦。]能宣軍機之策。天皇嘉之。任大倭国造。是大倭直始祖也
珍彦:うずひこ、推根津彦:しいねつひこ、神知津彦命:かむしりつひこ、は同一人物で、倭(やまと)は、大倭、大和、大養徳とも書き、姓ははじめは「直」その後、連、忌寸、宿祢となったようである。大和(おおやまと)神社の神主は長尾市を始祖とするが姓は大和直で大和の国造を兼ねる。『続日本紀』和銅七年(714)条に大倭忌寸五百足を氏上として神祭を司らしめた、とある。この一族からは有力な氏人が出ている。
葛城国造氏は、
大和国 神別 天神 葛木忌寸 忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也
河内国 神別 天神 葛木直   直  高魂命五世孫剣根命之後也 (こちらが本宗家という説もある。)
葛木国造氏と葛城臣氏の関係だが、おそらく無関係の関係で両氏の出身地は葛木国造氏は現在の葛城市竹内あるいは葛城市葛木あたりで、葛城臣氏は御所市名柄あたりかと思われる。葛木国造氏は小国造で、姓は、一応、直、連、忌寸と順当に進んだようだが、大和朝廷からは一顧だにされなかったか。もし、河内国の葛木直が葛木氏の本宗家と言うことなら、蘇我馬子が葛木県(葛城襲津彦の支配していた現在の御所市界隈を言うのであろう。葛城氏直系の子孫はいない。)の押領に成功したなら葛木氏の領地をも押領しようと河内国へ追いやったものであろう。しかし、この計画は推古天皇に払いのけられたもののようである。押領魔の蘇我馬子に比べ葛木氏の子孫には有為な人がいたようで、葛城連戸主(へぬし、と読むか。後に宿祢)は、妻和気広虫( 和気清麻呂の姉)の献言によって恩勅が降り、京中の孤児に葛木連の姓を与え、戸主(へぬし)の戸に編入したと言い、また、恵美押勝の乱で飢疾した棄子八十三児を収養し、彼らに葛木首の姓を賜ったという。
天下国家も大事だが、葛木連戸主・和気広虫夫妻のように本人の意志とは関係なく奈落の底に突き落とされた孤児たちをすくい上げた行為は称賛に値すると思う。

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