天皇・大伴組はどうして葛城・吉備組に勝ったのか

★はじめに

日本の人皇から始まる有史時代は現在の奈良県から始まったようで、『記紀』には初代神武天皇は九州南部(日向)からやって来た(いわゆる、神武東征)とあるが、現在の歴史学・考古学では史実であるとは考えられていない、と言う。当然と言えば当然で、日向がどれほど先進的地域であったかは解らないが、船に乗って東征したとはいうものの、九州南部で古代遺物として船や櫂はあまり見かけないようだし、隼人は漁師だったと言っても何を釣っていたのか。あるいは、遠く北海道などまでにゴホウラ貝とか、オオツタノハとか、イモガイ等が発掘されるがこれらの貝が当時は沖縄県が主産地だったので当然海運があったとか、西都原遺跡からは船の埴輪が出土していると言うことで、それを復元した「ひむか-神武東征の船-」(絵画、服部  武司)とか、古代の船を再現した全長12mの模造船「おきよ丸」とか言う重さは約1.3トンの船が宮崎神宮に展示してある。しかし、こんな大型の船が当時日本にあったとは考えづらい。兵庫県豊岡市出石町出土の船団の線刻画(袴狭遺跡群)は準構造船の船団を描いているもののようであるが、「おきよ丸」ばりの大型の船は一隻のようである。言うなれば、「神武東征」とは何かを下敷きにした創作譚なのかと思われる。それも諸説あっていろいろ言われているが、「神武東征」の研究をするのがこの論考の意図するところではないので割愛する。
そもそも天皇氏をはじめとする我が国草創期の主要な氏族は現今の奈良県を中心に畿内及びその周辺の出身者がほとんどで当時の国土(倭国)の果てとも言うべき九州南部までにはとても及ばなかったと思われる。『記紀』の原典ができた頃に大和朝廷の勢力が九州南部にまで及び隼人族懐柔の一環として「大和・隼人同祖論」が出てきたのではないか。隼人とは『日本書紀』景行天皇条に出てくる、厚鹿文(あつかや)、市乾鹿文(いちふかや)、市鹿文(いちかや)の鹿文(かや)と隼(はや)は同じ語で地名の現・鹿児島県鹿屋市の「鹿屋」に基づくものである。当時は「K」と「H」は交替しやすかったのであろう。従って、熊襲も隼人も同じ種族と思われるが、熊襲に関しては「球磨」+「阿蘇」とか「球磨囎唹」(『筑前国風土記』)を語源とすると言う説がある。どうしてこんな混乱が生じたのかと言えば、大和朝廷軍が熊襲隼人軍を攻撃する際、現在の熊本県側からと宮崎県側の二手に分かれたため、同じ人物を攻撃しているのに別々の人物を攻撃したように報告したり、鹿児島弁にも多少の違いがありその聞き取りの差とか、生活習慣の違いとかが出てカヤとかハヤになったのではないか。よってこれをまとめるなら、地域名は「熊襲」(語源は「球磨囎唹」か。九州南部のこと。)、種族名は隼人(ハヤト)ないし鹿文(人)(カヤないしカヤト)と言うべきか。もっとも、熊襲には頭領が二人おり渠師者(イサオ)と呼んだと言うが、これも実態は一人の人物か、あるいは、まとまりの悪い隼人を大隅隼人、薩摩(阿多)隼人に別てそれぞれの長を言ったものか。
いずれにせよ天皇氏が隼人の長だったとか、熊襲に在住していたとかは考えづらく、歴史学や考古学の通説が言うように史実ではないと思われる。

★畿内における合従連衡

国家が特定の王家などに統一されるまでにはあまたの肉弾戦や外交政策が必要だ。「合従連衡」の語彙にしても元々は中国の外交術で、戦国時代に西方の秦が強大になり東方の国々を併呑しようとしたので、燕、趙、韓、魏、斉、楚の六カ国は大同団結して同盟し秦に対抗しようとした(合従策。蘇秦の説)。この合従策に対して、秦は各国の利害対立を奇貨として、同盟を瓦解させ、秦と個々に同盟して、自国への秦の攻撃を避けようとした(連衡策。張儀の説)。大和朝廷の草創期も同じようなことが行われたのではないか。日本ではこの合従連衡政策より「遠交近攻」政策の方が重要ではなかったかと思われる。
大和盆地では天皇氏をはじめ有力氏族が争っていたようであるが、だんだんと集約され神武天皇の頃には天皇氏と葛城氏が有力となり大和盆地の覇権を巡って争っていたかと思われる。一般には、神武天皇即位から欠史八代の第九代開化天皇までの期間を葛城王朝と言い、第十代崇神天皇から第十四代仲哀天皇までを三輪王朝と言い、その後を河内王朝と言うようだが、葛城王朝というのがあったとしたら葛城王朝とは葛城氏が王であった頃の王朝を言い、その後は神武天皇に始まる現・天皇氏となるのではないか。勝手な推測で申し訳ないが、ここでは葛城氏による葛城王朝と現・天皇氏による大和王朝と言うべきものとに分けることにする。
まず、葛城氏が支配したのは現在の金剛山地の裾野であり、天皇氏が支配したのは笠置山地の裾野ではなかったか。奈良県立橿原考古学研究所は「2011年11月8日、同県御所市條の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)としては国内最大の水田跡(約2万平方メートル)を発見した」と発表した、と言うのも、葛城王朝の所産ではないかと思われる。これほど大きな水田を作るというのも葛城氏が天皇氏より先行しており、少なくとも大和盆地を平定していたのではないか。とは言え、このような水田耕地をすぐさま右から左へ整備することは難しい。「何事にも先達はあらまほしきことなり」で、その先達は誰かと言えば、吉備国ではなかったか。
天皇氏と葛城氏は現代的に言うと隣家(国)同士で大和盆地の覇権を巡り小競り合いなどを繰り返していた。合従連衡の時代は終わり仲間を募るには遠交近攻策が必要だったと思われる。具体的には、遠交の対象としては、天皇氏は山城国の賀茂(八咫烏)氏、摂津国・河内国の大伴氏、内氏、葛城氏は紀国の紀臣氏、摂津国・河内国の大伴氏ではなかったかと思われる。しかし、これら大和国周辺の諸豪族は葛城氏には与しなかったようで葛城氏はそのまた外郭にある吉備氏と同盟を結んだのではないか。吉備氏はここで大いに喜んだのか当時にあっては最先端の技術である水田耕作の方法を伝授したのではないか。しかし、最先端の技術だからと言って葛城氏に役に立ったかは不明。例えば、天皇氏は葛城氏に後れを取るまいと大伴氏をせっつき四国北岸から淡路島を経由し河内国丹比郡依網郷・摂津国住吉郡大羅郷(現在の大阪市住吉区・大阪府松原市の一部か)で水田稲作を行った(崇神六十二年条に「六十二年秋七月乙卯朔丙辰 詔曰 農天下之大本也 民所恃以生也 今河内狹山埴田水少 是以 其國百姓怠於農事 其多開池溝 以寛民業 ○冬十月 造依網池 ○十一月 作苅坂池 反折池 」とある。天皇氏の草創期の水田は摂津国や河内国にあったのか。)が、崇神天皇のご先祖さまの神武天皇は衆人環視のもと米を試食してみたもののあまりおいしくなかったので関心を示さなかったのではないか。

★葛城氏の遠交近攻

葛城氏の遠交近攻政策はどのようなものだったのか。一応、遠交近攻策とは一般論では魏の范雎(はんしょ)が、隣国を越えて遠方の国を攻める秦の対外政策には効果がなく、逆に遠方の国とよしみを結び、隣国を攻めるべきことを説いた政策で秦はこの遠交近攻策で成果を上げ中国を統一したという。葛城氏が天皇氏を攻略しようと遠交の相手国として選んだのが吉備国だったが、吉備国は大和国より遙かに遠く、両国の間には去就のはっきりしない大伴氏がいた。葛城氏が天皇氏と戦って勝てる保証は何もなかった。そうこうするうちに天皇氏は周りの大伴氏、内氏や賀茂氏、紀氏とよしみを結び葛城氏に攻撃をし始めたのではないか。吉備氏は押し気味に大伴氏との戦いを進めたが、かと言って、勝利するわけではなく、結局、葛城氏にとってはほとんど役に立たなかったと思われる。葛城氏は王朝を開くことなく天皇氏の下風に立つことになったのではないか。従って、葛城王朝というのはなかった可能性が強いのではないか。
大和国には出雲国とともに吉備国の遺物が多いようだが、出雲国の痕跡は天皇氏の関連の遺跡としても、吉備国の痕跡は葛城氏の影響があったのではないか。もちろん、吉備氏は、後世、天皇氏(大和朝廷)の傘下に入ったと思われるが、それ以前の大和国における吉備遺跡も多いものと思われる。

★まとめ

崇神天皇以前の天皇家の系図は欠史八代に、綏靖天皇には食人の趣味がある、安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看/玉手見)」という名の古い神であった、懿徳天皇の原像は「すきつみ(耜友/鉏友)」という名の鋤の神であった、孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神であった、孝安天皇の原像は「くにおしひと(国押人)」という名の古い国造りの神であった、孝霊天皇の原像は「ふとに(太瓊/賦斗邇)」という名の古い神であった、孝元天皇の原像は「くにくる(国牽/国玖琉)」という名の国引きの神であった、開化天皇の原像は「おおひひ(大日日/大毘毘)」という名の古い神であった等、と説く見解があって、ケチのつけられっぱなしである。現代流に言えばイカサマ系図と言うことになるのであろうか。要するに、実名が解らなかったばかりに名前をつけるに際してのネーミングが良くなかったと言うことかと思われる。しかし、第九代開化天皇の皇后は伊香色謎命と言い、妃に丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘、同じく妃に鷲比売(わしひめ) – 葛城垂見宿禰の娘あるいは吉備津彦命の娘の包媛(色媛?)とあり、 第八代孝元天皇の皇后は欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命) – 穂積臣遠祖の欝色雄命(内色許男命)の妹であり、第七代孝霊天皇以前の皇后が縣主系の娘であったのに対し、ステータスの上がるごとに有力者とよしみを通じ、その子女を皇后や妃にしていることがうかがわれる。これで見ると、葛城氏と吉備氏が中央政界にデビューしたのは第八代孝元天皇か第九代開化天皇の頃かと思われるが、両氏が神武天皇以来同盟関係を継続していたようだ。それに対し、大伴氏は神武天皇以来その先祖が天皇氏と同盟関係を保っていたことは間違いないがその間の天皇の皇后や妃に大伴氏の子女はまったく出てこない。神武草創期に活躍した大伴氏、久米氏には宅地を、賀茂氏には恩賞(山城国葛野郡の縣主か。)を与えたようだが、いずれも後世にいたっても天皇氏の姻族とはなっていない。久米氏、賀茂氏はその後中小豪族の域を出なかったようで大伴氏も大連になったとは言え同じような扱いだったか。しかし、大伴氏は大阪湾岸のコングロマリットのオーナーとしてその後景行期や仁徳朝、継体朝などに多大な貢献をしており、やはり大阪商人気質の大伴氏と権力主義的な天皇氏とは馬が合わず、大伴氏が天皇氏を敬遠したか。
天皇氏と大伴氏のそもそもの接点は海部系の大伴氏は山の資源を、山部系の天皇氏は海へ出るルートを探していたが、神武天皇と大久米命は道に迷い途方に暮れていたところたまたま日臣(道臣)一行に出会い道臣命が天皇一行を家まで送りとどけた、と言うことではないのか。当然のことながら、天皇の大久米命に対する信頼は低下し、臣下ではなかったものの序列一位は道臣命、二位は大久米命になったのではないか。道臣の名前の由来もここいらにあるのでは。大伴氏と葛城氏は多少の面識はあったかもしれないが、天皇家も皇后としては仁徳天皇皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと、石之日売命。葛城襲津彦の娘)が主なるものでその後仁徳天皇の後継天皇は葛城氏の子女を母や皇后にする人が多かったが、仁徳系天皇が途絶えると葛城氏も衰退した。仁徳天皇が磐之媛命を皇后としたのは対高句麗政策のためで、皇后の父葛城襲津彦が朝鮮外交巧者であったので一旦緩急あれば半島出兵をお願いしようと思ったのであろう。
このように見ると、大伴氏も葛城氏も天皇氏草創期よりその名が知られるが(但し、『記紀』では葛城氏は武内宿禰の子葛城襲津彦を祖とする皇別氏族と言うが疑問。葛城氏は神武天皇と同じ頃に葛城地方にいた豪族と思われる。)、やはり双方とも活躍したのは仁徳朝の頃で、葛城氏が天皇との血縁関係で優位に立っていたが、允恭天皇になると「葛城は酒を飲むことしか能のないやつ」とばかりに、大伴氏を再登用したのではないか。
神武天皇は大伴氏や賀茂氏、大和国の縣主などを自陣営に引き入れグループを結成することに成功したのに対し、葛城氏は吉備氏としか手を結ぶことができなかったのであろう。地域的に見ると神武・大伴組が四国北岸から淡路島、大阪湾岸、具体的に言うと後世の山城国、摂津国、河内国(和泉国を含む)等を支配地にしたのに対し、葛城・吉備組は大和国の一部と吉備国だけだったのではないか。葛城氏が吉備国に行くとしても大伴氏の領有地を通らなければならず大変不便だったと思う。吉備氏は強行突破し吉備国から淀川河口までの回廊を造ろうとしたが失敗したようだ。葛城・吉備組は初めっから勝ち目はなかったようだ。

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天皇・大伴組はどうして葛城・吉備組に勝ったのか への3件のフィードバック

  1. へろへろさん より:

    考えづらいという言い回しは曖昧だから文章の説得力を減退させる。
    (”考えづらいがあり得なくもない”という含意)

    • tytsmed より:

      へろへろさん

      ご教示どうもありがとうございました。
      以後、気をつけて書こうと思います。
      今後ともよろしくお願いいたします。

      • tytsmed より:

        へろへろさん、こんにちは。

        弓は和弓も洋弓も数回しかやったことがなく、いずれも小生の体力負けで断念いたしました。特に、和弓は高価なもので素人が触って壊されたら困る、などと言われたような気がしました。訳もわからないやつが余計なことを論ずるのはおかしいと思われればそれまでなのですが、ここでは考古学上の遺物としての話としてご理解いただければと存じます。

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