縄文祭祀

★はじめに

日本には縄文時代にも祭祀はあったようで、祭祀遺跡もあるにはあるが一般には日本で言う祭祀遺跡は「古墳時代を中心とする時期に、山岳・島・沼沢などの自然を対象に神霊をまつったことが、付近の出土品によって認められる遺跡。」と言うことで「縄文時代以前はその後の文化との継続性に問題が多いため除外する。」とするのが通説である。通説は縄文時代一万年以上はおろか、弥生時代700年(諸説あるが主なるものは600年、700年、800年説のようである)をもないがしろにするごときである。日本には縄文時代や弥生時代の研究者もおりあまり問題にするようなことではないと思うが、縄文文化がその後の文化との継続性に問題が多い、と言うのも、かって、先土器時代・縄文時代の文化を築いた先住民を、大陸から渡来した今の日本人の祖先が駆逐したとする説があったが、現在は分子人類学の進展により完全駆逐説(民族総入れ替え説)は否定されているとあるので、縄文文化の影響は徐々に薄まったとは言え現在に及んでいるのであろう。縄文文化と後続の文化との関係を調べるのが面倒だと言うのなら問題外の発想とは思う。
通説は、また、弥生時代も何か得体の知れない時代とみているようだ。弥生文化と言っても、食料生産に基づく生活を基盤とし、稲作・米食、青銅器・鉄器の製作・使用、紡織などが始まり、専門技術者や政治的指導者が生まれたと言うもののようである。政治的指導者が生じたと言うことは、支配・被支配の関係が生じ、地域社会にクニが発生したと言うことである。とは言え、日本の弥生時代(鉄器時代)は何か変則的らしい。
鉄器時代に入ったと言っても、「大陸新来の要素のなかに伐採斧(太形蛤刃石斧<ふとがたはまぐりばせきふ>)や加工斧(柱状片刃<ちゅうじょうかたば>石斧、扁平(<へんぺい>片刃石斧)、穂摘<ほつ>み貝(石庖丁<いしぼうちょう>)など新式の磨製石斧が含まれている」と言い、「弥生時代の前半は、石器をなお多用する不完全な鉄器時代と考えてよい。後半ないし終わりころには、石器が消滅している事実によって完全な鉄器時代に入っていると理解できる。」と説くが、この場合の弥生日本とは中部・近畿・中国・四国・九州 の西日本であって、残り半分の東日本はどうなっていたかと言うことだ。それに、日本には鉄鉱山はなく、あったとしても一大産業を形成するには難しく、砂鉄にしても後世の『出雲国風土記』(733年頃)には、飯石郡の条に「波多小川。源は郡家の西南二十四里なる志許斐山より出で、北に流れて須佐川に入る。鐵あり。」、「飯石川。源は郡家の正東十二里なる佐久禮山より出で、北に流れて三刀屋川に入る。鐵あり。」とあり、仁多郡の条には、横田郷、三処郷、布施郷、および三澤郷の四つの郷を指して、「以上の諸々の郷より出す所の鐵、堅くして、尤も雑具を造るに堪ふ」とある。奈良時代には民生品を造っていたらしい。神原神社古墳(島根県雲南市加茂町、3世紀後半の築造か)の副葬品には、大刀(たち)、剣、鉄鏃(てつぞく)、鍬(くわ)、鎌(かま)、斧(おの)、なた状鉄器(やりがんな説あり)、鑿(のみ)、錐(きり)、縫い針等の鉄器があり、(砂)鉄の当初の目的は軍需品の生産にあったか。「舟木遺跡」(兵庫県淡路市舟木、弥生時代後期~末期<1世紀~3世紀初頭>)や「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(同市黒谷、弥生時代後期<1世紀半ばから3世紀初め>)、「稲部(いなべ)遺跡」(滋賀県彦根市稲部町、《鉄器生産の最盛期》弥生時代終末から古墳時代初め<3世紀中葉>)などの近畿地方鉄器工房遺跡群は現在で言う軍需工場の色彩が強い。争いがなくなり鉄も武器から民生品(『出雲国風土記』では雑具と言っている)に用途を転換されたようだが、国民の多くがその恩恵に与ったものかどうか。なお、日本の製鉄の歴史では出雲国のほか吉備国が著名ではある。製鉄原料として鉄鉱石と砂鉄を使用していたと言うが、具体的に何を造っていたかは不明である。一般的には武器や農具などが挙げられているが、確証はほとんどない。
日本の弥生農業も問題で、世界の各地(中国、朝鮮半島北部、インド、西アジア、ヨーロッパなど)では、本格的な農耕開始にあたって、穀物の栽培と、食用(肉用あるいは乳用)家畜の飼育とが相並んで行われた。しかし、日本では、稲作を主とする農耕が、食用家畜を抜きにして始まり、食用家畜をもつ社会に共通する風習は日本に根づかなかった。例として、1.渡来人たちは、家畜をいけにえにして「漢神」を祀(まつ)っている。2.食用家畜を飼う社会で広く行われる血(家畜か人間の)を用いての誓いも到来しなかった。3.頻繁には肉を食べない習慣が根づいた。4.内臓や血を口にしない、という世界的には珍しい食習慣も形成された。
1.の生け贄は家畜ばかりでなく人間も生け贄にしていたようで、東北大学大学院特任教授の安田喜憲博士は『古代日本のルーツと長江文明の謎』(青春出版社、2003年)で、中国の遺跡で人間の遺骨が無造作に捨てられているのを見て驚いている様子だった。
2.血(家畜か人間の)を用いての誓い、と言うのも、他人の血を吸うというのであろうが、危険な病気にかかる可能性がある。
3.頻繁には肉を食べない習慣、とは、余計な成人病にはかからないと言うことで長寿にもつながる。
4.内臓や血を口にしない、という食習慣は栄養学的にはマイナス(イヌイットは生肉を食べることでビタミン補給をしてきた)かも知れないが日本人はその分新鮮な魚を生で食べているし、モツ料理も食べている。
以上、いずれも日本人の生理には合わない習慣ではなかったか。

★縄文時代の祭祀

縄文時代の祭祀と言っても竪穴式住居から発見される、土偶、石棒、手形・足形付土版などは一般家庭の今で言う仏壇や神棚で祭祀を行う神具であろう。ここでは私的祭祀は割愛して大衆に受け入れられた縄文時代の祭祀遺跡を筆者の独断と偏見で代表的なものを取り上げてみる。

1.大山(神奈川県伊勢原市大山。大山をご神体としたと思われる大山阿夫利神社が現存する)

*大山は古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂からは祭祀に使われたとされる縄文土器が発掘されている。発掘物としては、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や、古墳時代の土師器片・須恵器片、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されているが、縄文土器等については、後世になってから修験者が持ち込んだ可能性を指摘する説もある。
*大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞い信仰の中心地としても知られていた。
*大山は航行する船の目印となった。
*大山は『万葉集』東歌で、「相模峰の雄峰」と称されているようである。
以上が大山に関する古い記事である。
また、大山阿夫利神社については、
*『延喜式神名帳』に相模国大住郡四座並小と記載された相模国の延喜式内社の一社。「阿夫利神社」と記載されている。
*祭神は、現在は本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。江戸時代以前は本社に石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)、摂社奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。
*創建は、社伝によると崇神天皇の御代。
*天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。
*阿夫利(あふり)の意味は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、「あめふり(雨降り)」の義という。ほかに、アイヌ語説として「アヌプリ」(偉大なる山の意味)から「あふり」「あぶり」とされたとする説、原始宗教における神の所為である「あらぶる」が転じたとする説など。

以上、古いところを抜粋してみたが、大山のところで「縄文土器等については、後世になってから修験者が持ち込んだ可能性を指摘する説」もあるようだが、修験者が考古学に詳しくて縄文土器、土師器、須恵器などの区別ができて持ち込んでいるのならともかく、おそらく各々の土器は別々のところにあっただろうし、地中から掘り出さなければならないだろうし、あれやこれや考えると左様な説は考えすぎなのではないか。ストレートに縄文土器なら縄文人が、土師器・須恵器なら古墳時代人が祭祀のために持ち込んだのではないか。従って、大山信仰は山岳信仰、航海神、磐座信仰、雨乞い信仰など諸説あるが、三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた(大山信仰)とするのが現今の通説のようである。山岳信仰の対象の山は世界的には信仰は山自体に捧げられ、その山に登るのは禁忌とされる場合が多い。しかし、日本では山頂に達することが重要視され、民衆の間でも信仰の顕れとして登山を行う習慣がある。山自体の信仰はもとより早朝に山頂より拝まれるご来光に<あの世>の極楽を念願しているらしい。以上より、日本人は縄文時代より神体山(神奈備、霊峰)に登る風習があったのではないか。

2.諏訪湖 (長野県岡谷市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町。諏訪大社が現存。)

*中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線の断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層陥没湖)。
*『古事記』に州羽海とある。
*諏訪湖を取り囲むように諏訪湖南西側を諏訪湖南岸断層群、諏訪湖北東側には諏訪断層群がある。南西岸および北東岸に断層が通るため山地が迫り,北岸および南岸に平たん地が広がる。
*遺跡としては、旧石器時代(諏訪市上ノ平遺跡、諏訪市茶臼山遺跡等)、縄文時代(諏訪市細久保遺跡、岡谷市樋沢遺跡、原村阿久遺跡等の山間地遺跡)。
*地域の開拓を巡って渡来・海部系の建御名方神(出雲系)と土着・山部系の洩矢神(もりやしん)の対立があったらしい。
*全面氷結(近年は発生頻度が減少している。)、御神渡り(おみわたり)、七ツ釜(湖底源泉の湖上は氷結せず、湖上に7ヵ所の穴が開いて見えた。)、漁業も諸般の事情により振るわなくなった。
*現在は天竜川の水源地(湖)となっている。
以上が諏訪湖に関する特筆すべき事かと思われる。
諏訪大社に関しては、
*『延喜式神名帳』に信濃国諏訪郡二座並大「南方刀美神社二座<ミナカタトミ>(名神大)」とある。
*祭神は、建御名方神 (たけみなかたのかみ)、八坂刀売神 (やさかとめのかみ・建御名方神の妃。)。異説として、ミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神など。
私見では、御名方は諏訪湖を指し、八坂刀売は周辺の八坂(傾斜地)や刀売(崩壊地形)を表し、建御名方、八坂刀売はともに諏訪盆地の開拓者だったのではないか。なお、南方刀美とか建御名方富命神とあるのは夫婦神を一体化して読んだものか(現代なら河野太郎花子夫妻というような表現)あるいは元々一神だったものを二神に分けたものか。いずれにせよ一方が北岸(諏訪大社下社)の開拓者であり他方が南岸(諏訪大社上社)の開拓者で婚姻等により一本にまとまったと言うことかと思われる。なお、ミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などは旧石器時代から縄文時代のプリミティブな神様で諏訪の人には一万年以上にわたって信仰されてきたので諏訪大社の祭礼や神事には建御名方神(弥生神か)は出てこないそうだ。土着神の最高神とも言うべきミシャグチ神だが、漢字で「御赤蛇」とか「御蛇口」と書いて金精信仰の神と主張する向きもあるが、やはり漢字では「御石神」と書いて石の神様を意味するのではないか。当該地は少し遠くになるが霧ヶ峰や八ヶ岳の黒曜石産地があり、石神とのつながりは深いのではないか。また、守屋山は諏訪大社の神体山である、と言うが、語源がソハ(嶮岨な地形)ならそれでもいいが、ス(砂)ハ(端)で、砂地の湖岸と言うほどの意味ならいかがなものか。守屋もモリ(盛)、ヤマ(山)の下略で単なる山を言ったものか、守谷でモリ(盛)、イハ(岩)の転で高い岩山を言ったものか、モレヤ神ともあるのでモレ(漏)、ヤ(谷)で湿地を言ったものか、はなはだ判断が難しいが、神名を建御名方神としながらご神体山を定め「大社には本殿がない」というのもいささかちぐはぐな話だ。以上を総括すれば、諏訪大社の祭神は諏訪湖そのものであり、水神を祀ったものではないのか。
*創建年代は不明。
*御柱祭(社殿の四隅に御柱<おんばしら>と呼ぶ木柱を立てる。)、御頭祭(本宮より前宮へ神輿渡御のあと,古くは鹿の頭75個を供えて流鏑馬<やぶさめ>を行った。)等独自の神事がある。

以上より諏訪大社は縄文信仰が根強く残り、大和朝廷が弥生信仰への改宗を推し進めようとしたが失敗したようだ。弥生化を拒否した地域は現在でも頭脳明晰な人が多いように思われる。但し、長野県が教育県というのは過去のことで今は批判が多いらしい。

3.三輪山 (奈良県桜井市。大神神社が現存する。)

*鳥居が二本の柱とその柱をつなぐ注連縄でできているのは東日本の縄文時代の立柱遺跡と同趣旨か。
*三輪山の祭祀遺跡は、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)と言うが、これは後世宗像祭祀遺跡のそれぞれからとられたと言う。山の神社なのに「津」というのはおかしいと言うことか。
*奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡があり、と言い、縄文時代の関東・東北で多く見受けられる配石遺構(環状列石)と同趣旨か。
*山は松、杉、檜などの大樹に覆われている。
*山麓に初期の大型前方後円墳が多いので、人間が三輪山に関わるようになったのは古墳時代以降か。
三輪山はさほど縄文時代の痕跡をとどめていないようである。
大神神社(奈良県桜井市三輪)に関しては、
*『延喜式神名帳』には、「大和国城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」とある。
* 大神神社は古墳時代以前、纒向一帯に勢力を持った先住族が崇敬し、諸説あるが、代々その族長により磐座祭祀が営まれた、と言う。
*三諸山そのものを御神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。
*主祭神は大物主大神で、大物主神は蛇神であると考えられている。
*大物主神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば大国主の国作りに協力すると言った。その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。
環状列石が出てきたり、蛇神が出てきたりと東日本の縄文文化に似たところがあり、縄文文化は全国的に拡散していたものと想像される。

4.大阪湾(大阪府、兵庫県。大阪湾岸にはたくさんの有力神社があるが、ここでは住吉大社を取り上げたい。)

*大阪湾の定義は、田倉崎(和歌山市)と生石鼻(淡路島)を結ぶ線(紀淡海峡)、松帆崎(淡路島)と朝霧川河口左岸(明石市)を結ぶ線(明石海峡)及び陸地によって囲まれた海域、と言う。陥没湾。
*古称の「茅渟の海」は、五瀬命(神武天皇の兄)が矢を受けて負傷した際に、傷口をこの海で洗ったことから血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来と言う。
*黒鯛がよく獲れたことから、チヌ(茅渟)は黒鯛の別名のひとつになっている。
*瀬戸内海航路の起点として、淀川の河口には難波津や住吉津などが置かれ、シルクロードの日本の玄関口であった。
*難波(なにわ)の語源は魚介類が豊富な「魚の庭(なのにわ)」説がある。
*森の宮遺跡(大阪市中央区森ノ宮中央一丁目)では一時期遠く関東・東北地方や九州西北部と交流したことが判明したと言い、また、日本各地から移動する縄文人の集散の地にもなっていたと推定される、と言う。
*篠原遺跡(神戸市灘区篠原本町)では縄文時代晩期の遮光器土偶(部分)や東北系縄文土器片、石棒が出土。
大阪湾沿岸には縄文時代にはさほど人間が住んでいなかったと言われるが、遺跡・遺物もそれなりにあり東日本との交流が偲ばれる。
住吉大社(大阪市住吉区住吉町)については、
*『延喜式神名帳』では、「摂津国住吉郡 住吉坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗」とある。
*浦島太郎の物語は全国的に広がっているが、摂津国では『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)がある。一応、『丹後国風土記』(逸文)にある「筒川嶼子」、「水江浦嶼子」]は、浦島太郎の物語の原型と解されている、と言う。しかし、日本の昔物語に鶴だの、亀だの、鰐だのと動物が出てくるおとぎ話は元々は中国人が話していたものを日本人向けに語り直し(書き直し)たものと言う説がある。その点、摂津の浦島太郎は亀姫などとは言わず「海若 神之女」(海神の女)と言っており、『丹後国風土記』(逸文)とは別の、あるいはもっと古層の物語ではないかと言われている。高橋虫麻呂は物部氏系の藤原宇合の副官と言うが夫人が大伴氏でその別荘で浦島伝説の話を聞いたものか。『万葉集』に載っていると言うのも何やら大伴家持との関連を想起させる。従って、丹後の浦島太郎の話は弥生時代のものならば、摂津の浦島太郎の話は縄文時代のものなのだろう。
*住吉三神(大神)が底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと)と言うのも日本では珍しい神である。そもそも日本ではワタツミ神は意外と多く、まず、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。神産みの段で伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)二神の間に生まれた。次いで、山幸彦と海幸彦の段では、火照命又は火須勢理命(海幸彦)の釣針をなくして困っていた火遠理命(山幸彦)が、塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)の元を訪れ、綿津見大神の娘である豊玉姫と結婚と言うもの。最後に、綿津見三神(底津綿津見神・中津綿津見神・表(うわ)津綿津見神)及び住吉三神(底筒男命 、中筒男命 、表 (うわ) 筒男命)である。漁師用語で「つつ」とは<アナゴやウナギを捕獲する筒状の罠。アナゴ籠。>を言ったもののようで、大阪湾では今でもウナギやアナゴがとれ、地名でも鰻谷とか靱(うつぼ)とか言うそれらしき地名もある。あるいは、住吉三神の「筒男」は「地引き網」「船引き網(中層引き網)」「底引き網」などの漁法を言ったかとも思うが今ひとつはっきりしない。海を三階層に分けているので潜水漁法を主とした海人族の神か。一説に、「住吉三神の神々の名にある「ツツ」の二番目の「ツ」は、神威、神霊を意味する「チ」が転じたものといわれています。あるいは、津(港)、さらに航海の指標となるツツ(星)と関連があるとの説もあります。」と。また、神主を津守氏とするのもはなはだ疑問で、津守氏には別に大海神社と言う神社があり、神功皇后が田裳見宿禰を神主としたのも何やら唐突で田裳見宿禰の前に住吉三神を祀る神主がいたと思われ、それは摂津の有力者大伴氏だったのではないか。大伴氏が中央政界にコミットすればするほど摂津との縁が薄くなり、津守氏が神主職を代行したか。但し、垂直志向は北方圏に多く水平志向は南方圏に多いそうだ。

★まとめ

「縄文文化がその後の文化との継続性に問題が多い」と言うのも、日本の神社には上記の四社をはじめ縄文時代から続いている神社が多いと思われる。環状列石にしても東北や北海道ばかりでなく大神神社の磐座にもその痕跡があるという。また、蛇神信仰も関東の中央線沿線界隈や奈良県の大神神社が著名でここいらでも縄文文化の東西交流があったのではないか。縄文前期には日本列島内に九つの文化圏があったようだが、時代が下ると「ナラ林文化」(「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」)、「照葉樹林文化」(「北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」)、石狩低地以東の北海道、トカラ列島以南と四つに収束された。これを持ってしても、日本は全国均一的な国家であり現代日本が縄文時代と継続性がないなどと言うことは考えられない。現代の神社においては縄文神は客神とか言われてあまりいい扱いを受けていないようだが、かと言って完全に否定されているわけではないようである。縄文時代の現代のおける痕跡(例、和弓、土器<土鍋など>、漆器、石器<石臼など>など)は途中で途切れてその後朝鮮半島や中国から入ってきたものではなく、日本古来のものが改良、工夫されて今日にいたっているのではないか。神社の祭祀にあっても、神木とか磐座等というのは弥生稲作には何の関係もなくひとえに縄文祭祀の痕跡である。従って、縄文時代と弥生時代は断絶はしていないと言うことで、縄文時代が弥生時代に進み、弥生時代が古墳時代に進み今日にいたっていると考える。

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