柱について

★はじめに

「柱」には1.建築や土木構造物の部材として、 地面・礎石・土台の上に垂直に立て、屋根・梁(はり)・床・冠(かんむり)<坑道の天井部>など上部の荷重を支える部材と、2.荷重を支えず類似の形状を持つ縦に長いもの、の二通りのものがあるようだ。一般的に柱と言えば「1.」を指すが、ここで取り上げたいのは「2.」の方にしたい。「1.」は研究者も多くたくさんの書籍も出回っている。柱と言ってもいろいろな単語があり、鼻っ柱、茶柱、粥柱、貝柱、氷柱、柱絵、霜柱、火柱、太陽柱、柱松、水柱、蚊柱、帆柱、標柱、門柱、電柱など挙げたら切りがないが、ここではこの種の日常生活的な「柱」の語も割愛する。
それでは何を論ずるのかと言えば、我が国には縄文時代から意味不明の巨木文化があり、現在ではかすかに長野県の諏訪大社に代表される御柱祭(「式年造営御柱大祭」)にその痕跡をとどめるが、そのほかにも祭場に大きな柱や柱松(柱の上にたいまつを掲げたもの。柱、柱松とも20m以上のものが多い。)を立てて神事を行う神社は全国に散在しているようだ。日本では縄文時代から竪穴式住居や高床式建物があり荷重を支える柱はあったと考えられ、また、三内丸山遺跡の目的不明の六本柱建物や北陸地方を中心とした環状木柱列(真脇遺跡では柱は10本)なども縄文時代の遺跡から発掘され、荷重を支えない柱も縄文時代からあったと思われる。但し、当時は荷重のかかった柱とかからない柱は別の語で呼ばれていたかも知れないが、文献上そのような例がないので双方とも柱と呼び起源が違うとした。

★古代の柱

柱の語は「古事記」上巻には早々と、
1.是に天つ神の諸の命以ちて、伊邪那岐命・伊邪那美命、二た柱の神に、「是の多陀用幣流(ただよえる)國を修理(つくろ)い固め成せ」と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)いて言依(ことよ)さし賜いき。
2.其の嶋に天降(あまくだ)り坐(ま)して天の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てき。
と述べているが、
1.の「二た柱の神」というのは通説あるいは古典によると二神などとは言わず、二柱と言うそうな。語源は柱(ハシラ)は階(キザハシ)などと語源を同じくし、天と地とを結ぶ橋(ハシ)であり、神は柱を目指して降臨するからか。階(キザハシ)は現在で言う階段であり、はしご段あるいは縄ばしごの類いのものか。具体的には、高床式建物(神殿や倉庫が多い)の階段を上り下りする人とか建物の上層階に住んでいて階段あるいは柱で上り下りする人を死後に神と言ったか。特に、神殿を上り下りする人は集落の長とか神官であった可能性は高いと思う。
2.の「天の御柱」は、柱を立てて八尋殿を建てたと言うのであるから、後世の大黒柱のことではないか。『古事記』ではその後伊弉諾尊と伊弉冉尊が結婚することになっている。『日本書紀』では「便(すなわ)ち淤能碁呂島を以ちて國中(くになか)の柱(みはしら)【『柱』、此を美(み)簸(は)旨(し)邏(ら)と云う】と爲して陽神(おかみ)は左より旋(めぐ)り、陰神(めかみ)は右より旋(めぐ)る。」とあり、『古事記』の 「天の御柱」と『日本書紀』の「國中(くになか)の柱(みはしら)」とは前者が建物の柱を言うのに対して後者は国土の中心を言うもののようである。現代的に見ると前者は常識的であり、後者は何か『世界の中心で、愛をさけぶ』的発想で大げさな話と言うことになろうかと思う。
現在、御柱と称する柱のある神社としては、
1.伊勢神宮 伊勢神宮正殿の床下中央に立てる柱。「心御柱(しんのみはしら)」として神聖視されるが、これは梁(はり)にとどかぬ短い柱で、構造部材としての柱ではなく、神籬(ひもろぎ)を象徴するものかと思われる、と言う説もある。
2.出雲大社 出雲大社本殿は田の字の構造になっており、建物は九本の柱で支えられている。浜床(前面)から見て両側の「側柱」が三本ずつ、中の三本の柱の真ん中が「心御柱」(岩根御柱)で、他の二本の柱が「宇豆柱」という。有名な三本の柱が束になっているのは「心御柱」と「宇豆柱」である。出雲大社における「心御柱」も伊勢神宮の心御柱と同じく梁にも届かぬ柱で構造材ではないとする人もいるが、柱を三本束ねた意味がわからない。絵図で判断しているようなので「正」かどうかは不明。出雲大社は過去に何回か自然倒壊しているが、それは荷重のせいではなく宮大工の勘違いによる施工ミスと言うことか。
3.諏訪大社 諏訪大社の御柱祭は「山の中から、選ばれた16本のモミだけが御柱となり、 里に曳き出され、7年毎の寅と申 の年に諏訪大社の社殿の四隅に建てられます。 宝殿の造り替え、そして御柱を選び、山 から曳き、境内に建てる一連の行事を「御柱祭」と呼び、・・・」とある。伊勢神宮、出雲大社の「御柱」が社殿の中にあるのに対し、諏訪大社の御柱は社殿の外にあり趣を異にしている。諏訪大社は上社本宮(ほんみや)、上社前宮、下社春宮、下社秋宮と四宮があり、それと関係するか。あるいは、本来の祭神はミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々で、敗者の将は神殿の外に追いやられてしまったものか。
4.一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ) 群馬県富岡市一ノ宮にある上野国一宮。社殿は単層二階建てで、真御柱が荷重を支えている、と言う。構造的には出雲大社に似ており、側柱が四本ずつ、中の柱は三本で出雲大社の宇豆柱に相当するものは「立通し」と言い、「真御柱」と同じ寸法、材質らしい。こちらの「真御柱」は出雲大社と違い両端がしっかりと大地と棟引と称する棟木に付いている。
そのほかにも「心(真)御柱」と称する柱を有する神社等があるが、割愛する。

★まとめ

柱に荷重のかからない柱は伊勢神宮の「心御柱(しんのみはしら)」と諏訪大社の「御柱(おんばしら)」であるが、伊勢神宮の心御柱は一説によると神籬の痕跡と言い、神籬とは神道において神社や神棚以外の場所において祭祀を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの、と言う。「ひもろぎ」の語源は、「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、「き」は木の意とされ、神霊が天下る木、神の依り代となる木の意味となる、と言う。要するに、伊勢神宮といえども原初は社殿がなく「神籬」を用いて神事を行ったと言うことかと思われる。但し、神籬については「古書は、神をめぐる空間の構造を磐座、神籬(ひもろぎ)、磐境と区別している。《日本書紀》天孫降臨の条では、天孫の座を磐座と呼び、神体・依代(よりしろ)・神座の意に、神籬は柴垣・神垣の意に、磐境は結界・神境の意に用いている。」と異なった趣旨に解釈している見解もある。この見解では、神のいる世界は真ん中に磐座(神体・依代)があり、その周りを神籬(神垣・柴垣)が囲み、さらにその外には磐境(結界・神境)があるとするもののようだ。従って、屋外神事等を行う場合は会場の中心あたりを磐座として神体・依代を置き、その周りを神籬(垣根)で囲い、さらにその外周部を磐境(現今では糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄や幕のことか)を巡らし神事を行うと言うことではないか。
諏訪大社の社殿屋外の四隅に御柱が建てられるというのは諸説あるが、神殿の柱説、トーテムポール説、結界表示説、天地を支える柱説などがあるようで、おそらく一社殿につき四本というのは何らかの自己主張を表したのではないかと思われる。おそらく端的に言うならばこの四本の柱でできた四角形は自己の建物敷地の占有先占を主張したもので、形は丸でも何でも良かったのであろうが、日本では宅地は一般的に四角形がほとんどだ。定期的に立て替えられるのは柱が腐蝕等により機能しなくなるので再建したものであろう。縄文時代にあっても自己が建てた建物や耕した農地などには現今で言う占有や所有の意識があったのではないか。
北陸の巨木文化であるが、主なものに以下の例がある。
小矢部市の桜町遺跡(中期)では「環状木柱列が2基」とある。ほぼ同一の場所に重複して作られており、建替の結果か。10基の柱穴からなる。直径6.2mの円周上に、約2mの間隔で線対称に並ぶ。
金沢市のチカモリ遺跡(中期)では直径85cmの木材が半截され、半截面を外側にして直径6.5mの円形に10本並べるという構造。A環からD環まで発掘されている。
富山県井口村の井口遺跡(後期)では直径1mの柱穴が10個、直径約8mの円形に並ぶという遺構。
石川県能登町の真脇遺跡(後・晩期)ではA環からF環が発見されており、▽まん丸の円であること▽柱が10本あること▽柱を縦割りすること▽クリ木を使うこと、などが共通点という。
金沢市の米泉遺跡(後・晩期)直径約5.5mに、門柱部2本を含めて8本で構成されている。中央部にサケの骨を含んだ穴が検出され、祭りの場と見なされる、とある。
富山市の古沢A遺跡(晩期)では直径が約1mの柱穴が4個一対で方形に配置された遺構が2基みつかつています、と言う。
これと名古屋大学教授山本直人博士が言う、
「北陸で水稲農耕を受容するのに約400~約500年ついやした理由は、そうした指導者層(筆者注・縄文古老のこと)が水田稲作に基盤をおいた生活システムという新しいものを拒絶し、従来とは異なる価値体系の受容を拒否したためであると筆者は考えている。北陸という地域社会の指導者層が従来の価値観を守旧し、狩猟民、採集民、漁撈民としての自分たちの存在を再確認し、その儀礼を強化しようとして建造したのが環状木柱列であると考えている。新たな生産システムや価値体系に対抗し、地域共同体の紐帯を強めるために建造した装置が環状木柱列であると考えている。」とを考え合わせてみると、
1.「水田稲作に基盤をおいた生活システムという新しいものを拒絶」とあるが、これは米が狩猟(鳥獣の肉)、採集(どんぐり、果物)、漁撈(魚介類)より劣っていたと言うことで、味も劣っただろうし、収穫期もバラバラ、思いのほか手間暇がかかる、水がなければならないなどすぐに米食へ切り替えるとは行かなかったのではないか。この地域の人は心身共にはっきり、すっきりの生活を選んだと言うことだ。
2.「指導者層が従来の価値観を守旧し、狩猟民、採集民、漁撈民としての自分たちの存在を再確認し、その儀礼を強化しようとして建造したのが環状木柱列である」とあたかも環状木柱列が非科学的なものと言わんばかりだが、上述のように環状木柱列は縄文時代中期よりあり、稲作の脅威が縄文中期まで遡るかは疑問である。環状木柱列は円周上に柱が10本で線対称に並ぶと言うのが基本のようで、晩期には「柱穴が4個一対で方形に配置された」とあるのでだんだん改良されたのではないか。円周の内部には建物や土壙墓などはなく儀礼の会場とは考えづらい。
3.「新たな生産システムや価値体系に対抗し、地域共同体の紐帯を強めるために建造した装置が環状木柱列である」とある。縄文人が弥生人の生産システムや価値体系に対抗したのは当然としても、地域共同体の紐帯を強めるために環状木柱列を必要としたとは思われない。縄文人が弥生人の生産システムや価値体系に対抗と言うのは経済力の対抗でありそれはとりもなおさず生産性を上げると言うことである。当時にあって産業技術の向上とは豊かな資源と少ない人口のバランスの上に成り立っており、ただただ資源を採りまくるにつきるのではなかったか。そのための技術革新であったかと思うが、狩猟、採集、漁撈はともに自然相手の仕事であり、その収穫期を知ると言うことは重要なことだったと思われる。例えば、鮭漁の時期に村を挙げて狩猟に出かけ、帰ってきたらおいしいところはみんな上流の人たちに採られていたなどというトンチンカンなことをしていたらそんな村なんて遅かれ速かれ消滅してしまう。私見ではこの縄文環状木柱列は縄文人の狩猟期や採集期、漁撈期を事前に知ろうとした努力の表れではなかったか。環状木柱列の利用法についてははっきりしないが、当時は太陽の移動で一年間を10等分していたのか。富山市の古沢A遺跡(晩期)では直径が約1mの柱穴が4個一対で方形に配置された遺構、とあるので、縄文晩期には10等分が4等分でいいとなったのか。おそらく太陽の観測地点が環状木柱列のあったところが一番いいとなって同じところに建て替えられたのだと思う。環状木柱列は現代で言うカレンダーかと思うが、ストーンサークルと併用してあるいはストーンサークルは日時計的に利用されたのではないか。但し、日本ではストーンサークルは一族の墓であるというのが通説である。

 

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