洪水について

★はじめに

『記紀』を見ていると、いわゆる「洪水神話」というものが非常に少ないようである。 世界的には洪水神話というものはいたるところにあり、起源と言おうか元祖と言おうかその種のものは二流あり、文字に残された最古のものは「古代シュメールの洪水神話」で、3000年前とか6000年前とか、日本から見ると気の遠くなるような諸説があるようだ。この神話のたどり着く先は『旧約聖書』の「ノアの箱舟」の神話と言うことになる。しかし、日本にはこの種の西アジア系洪水神話は入ってきていない。神話の内容は、1.ノアという人名、2.不敬な人間を罰するための洪水、3.一対ずつの家畜を箱船に入れる、4.鳩を放って減水を調べる、などが主なものである。もう一方は、東南アジアからオセアニアにかけての洪水神話で、宇宙の二大原理あるいはその代表者が相争う過程において洪水が生じたと言うものである。東京大学名誉教授大林太良博士は「日本神話の山幸彦が潮みつ珠で高潮を生じさせて海幸彦を苦しめた話もこの系列に入る。」と言う。この洪水の後、兄妹二人だけが洪水から生きのび、結婚して人類あるいは特定氏族の先祖となったという。この神話も日本には無縁のものと思われるが、大林太良博士は「日本のイザナギ・イザナミの国生み神話に痕跡がある。」と言う。
当然のことながら、洪水神話は大雨の少ないアフリカ大陸には少なく(中央アフリカのマンジャ族に洪水神話があるという。但し、「ノアの箱舟」の類話か。)、キリスト教やイスラム教が入ってきてその影響下の「ノアの箱舟」の類話があるのみと言う。
洪水神話の定義としては、「洪水によって人類や生物のほとんどが滅亡し、現在の世界はその後新しく作られたとする神話。」とする見解があるが、これは洪水による集落の滅亡とその後の別の地域の住人による地域の再建を言ったものであろう。

洪水神話の構成要素としては、
1.来たるべき洪水の予告。例として、魚が洪水を予告し、船を造って王は助かった。
2.洪水を逃れる方法。例として、船や容器(カボチャに入って生き延びる。太鼓に入って水上を漂う、など)に入る。大魚を食べずに、高い椰子の木に登った。
3.一族は助かる。例として、小山に避難した少数の者だけが助かった。
4.儀礼。例として、洪水の収まった記念に毎年祭りを催していた。
ほかに、洪水が去った後の後片付けやこれから来るであろう洪水の対策などを説く神話もあるようだ。

またその原話はほとんどの地域でキリスト教の『旧約聖書』(西アジア系洪水神話)からで出ているものが多いようだ。

類型による分類もあり大別すると、
(1) 懲罰型 驕慢になった人間を懲罰するために神が大洪水を起すという型で、ノアの箱舟の神話がその典型的な例である。エジプト、バビロニア、ギリシアなどの洪水神話。
(2) 予告型 (1) に似ているが、懲罰要素を欠く型。インド、ペルシアの伝説がこれにあたる。インド伝説では、角のある小魚 (ビシュヌ神の化身) の予告に従って舟を造って難を免れたマヌが人間の祖となる。
(3) 偶発型 偶発的な事件が洪水の原因になるもので、洪水を起すのは物の怪 (ボリビア)やカエル (オーストラリア) であったりで、必ずしも神とはかぎらない。ポリネシア,オーストラリア,南アメリカの洪水神話。ソシエテ諸島の伝説では、一人の漁夫が釣針を海神ルアハクの髪にひっかけてしまったので、ルアハクが怒って海水を氾濫させ、人間を滅ぼす。
(4) 治水型 中国の『淮南子』『山海経』などにみられるもので、洪水そのものよりも治水の面に重点をおく。尭・舜の代に大洪水が起こり、初め鯀(こん)が起用され治水に失敗、子の禹が後を継いで刻苦13年で成功し、禅譲を受けて夏王朝を創始したという。

★日本にはどうして洪水神話が少ないのか

洪水神話は当然のことながら洪水による被害が発生しなければこのような話は成り立たないのであって、その原因の多くはサイクロン(インド洋・ベンガル湾・アラビア海)、台風(北西太平洋・マリアナ諸島・カロリン諸島・南シナ海)、ハリケーン(大西洋西部・カリブ海・メキシコ湾)などの熱帯低気圧かと思われる。そのほかに地震による津波なども一因かと思われる。洪水神話が多いのは大河流域と島嶼で、大河流域では大雨を洪水の原因にし,島嶼では海水の氾濫をその原因にしている。前者は熱帯低気圧が主因かと思われ、後者は地震が主因と思われる。
前述したように『記紀』における洪水神話と呼ぶべきものは大林太良博士によれば、

「日本神話の山幸彦が潮みつ珠で高潮を生じさせて海幸彦を苦しめた話もこの系列に入る。」として、「東南アジアからオセアニアにかけての洪水神話で、宇宙の二大原理あるいはその代表者が相争う過程において洪水が生じたと言うもの。」
「日本のイザナギ・イザナミの国生み神話に痕跡がある。」として、「(東南アジアからオセアニアにかけての洪水神話で)洪水の後、兄妹二人だけが洪水から生きのび、結婚して人類あるいは特定氏族の先祖となったという。」

以上より判断するならば、大林博士は日本の洪水神話は東南アジア系で不完全なものと考えておられるようだ。しかし、「イザナギ・イザナミ」神話についてはうろ覚えで恐縮だが、「ノアの箱舟」の洪水の予告と洪水を逃れる方法がカットされた神話(西アジア系洪水神話の後半部分を取り入れたもの)と曰っていた先生がおられたような。この種の話の起源になると日本ではほとんどが外国に起源を求むべく外国の文献を探すようだが、よくよく見てみると日本が起源だったり、日本で開発されたと言う日本プロパーないし日本オリジナルの方が多いような気がする。
イザナギ・イザナミの神話にしても、舞台は、場所(旧河内湖。湖の中央部に小高い淤能碁呂島がある)、時代(弥生晩期から古墳初期)、場所の状況(陸地化寸前の泥沼、あるいは、湿地)、主演(湖畔の若き恋人同士)というところで、シナリオライターは大伴氏一族の人物か。ここで大伴氏一族としたのは大伴氏は摂津、河内(和泉)、淡路、場合によっては四国北岸に勢力があったと思われ、多くの歴史学の先生も「伊弉諾・伊弉諾神話」は天皇家ではなく大伴氏の所伝と考えられているようだ。奈良盆地と河内湖は河川(大和川のことか。一説によると、大和川は古代には大和から河内へ入ると、幾条にも分岐して河内湖に流入したという)によって直結していたと言うが、天皇家が河内や摂津に定住したのは応神天皇以降のことでそれまでの天皇は大和国に在住していた。また、『記紀』に書かれた舞台は淡路島で大伴氏と無関係ではなかったと思われ、大伴氏が三原平野や洲本平野の開発(水抜き、干拓など)にあたり、かっては湖沼地帯(三原は水原のことか)だったと思われる三原平野が舞台となったものか。但し、淡路島については、
応神十三年秋九月「一云・・・時天皇幸淡路嶋 而遊獵之」
応神廿二年春三月「喚淡路御原之海人八十人爲水手 送于吉備」
応神廿二年秋九月「天皇狩于淡路嶋・・・天皇便自淡路轉 以幸吉備 遊于小豆嶋」
以上の応神天皇の行動は吉備国並びに淡路国に対高句麗戦を想定した陣地設営のための視察か。
反正天皇が『書紀・反正前紀』に「天皇初生于淡路宮」とあり、履中天皇が五年秋九月「天皇狩于淡路嶋」とか、允恭天皇が十四年秋九月「天皇獵于淡路嶋」とかあって、天皇家の発祥の地が淡路島と考える向きもあるが、いずれの天皇も仁徳天皇の皇子であり、生母が葛城氏なので別の要素からと思われる。反正天皇の出生地淡路宮と言うのも所在未詳とするのが多数説かとも考えられる。

山幸彦の潮満珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおふるたま)の神話だが、西都市にある鹿野田神社(かのだじんじゃ)の境内にある「潮の井」は「潮の満ち引きに合わせてその水位が上下するといわれています。」とあり、単純に潮の満ち引きを神話化したものではないのか。あるいは、大地震による津波とも考えられるが、そういう大地震による津波はそうそう簡単に発生するものではなく、結局、呪具で人々を錯覚に陥らせるのはせいぜい規則正しくやってくる潮の満ち引きか小さな津波ではないのか。

『記紀』に述べ立てるほどの洪水がなかったとしたら当時の天気はどうなっていたか、と言うことである。
縄文時代は多くの人々が東日本に住んでおり(一説によると縄文中期の東日本の人口は日本の人口の96%、縄文晩期で86%と言う)、東日本の気候がどのようだったかを厳密に調べなければ解らないが、おそらく降水量、気温、台風の発生回数及び日本への上陸回数、雨期、四季のありよう、日照時間などは今とほとんど変わらなかったのではないか。但し、気候に左右されると思われる植生に関しては一つは西日本のカシ・シイ・クスなどの常緑広葉樹林(照葉樹林帯)があり、もう一つは東日本のブナ・ナラ・クリ・クルミなどを主とした落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)とがあるという。しかし、これも縄文前期から現在にいたるまで変わっていないという説がある。それらを総括すると縄文時代は今と同じで北日本では台風や雨期の水害は少ないと思われ、特に、人口密度が高かったと思われる関東地方に関しても自然排水路あるいは流水路とも言うべき河川が発達し、さしたる洪水災害はなかったのではないか。現今の関東地方の水害は人工的なものという説もある。
弥生時代の人口は縄文時代とは逆で西高東低となったようである。西日本の人口増加の一因には中国大陸の内戦があったと思われる。秦の始皇帝の死に始まり、陳勝呉広の乱など反乱の勃発、項梁(後に甥の項羽)率いる反乱軍による秦の滅亡。劉邦と項羽の垓下の戦いにより劉邦が勝利し前漢(紀元前202年ー8年)を建国。新(紀元8年ー23年)、後漢(紀元後25~220)と王朝が変わるたびにゴタゴタが続き迷惑を被ったのは朝鮮半島と日本ではなかったか。西日本の人口増の一因にはやはり大陸・半島の社会変動があると思う。話はそれるが、現在でも朝鮮半島有事の際は日本へ押し寄せる難民は10万人単位という政治家もおられる。話半分とは言わなくとも10分の1ほど、即ち、1万人ほどが五月雨式に日本列島へやって来たか。当時の我が国の縄文人は水田稲作は知らず、渡来人の唱導するままに灌漑溝を掘削して言わば新しい川を建設して水害を防いだのではないか。
以上より縄文時代は縄文人の居住地域により、弥生時代は水田が導入されて水害時の貯水槽(現今の首都圏外郭放水路)になったのではないか。
以下、『日本史大事典』3 <P.95(こ~し)平凡社>に載っている「洪水」を抜粋する。執筆者は新潟大学名誉教授大熊孝博士。
1.豪雨や融雪などによって流水が急激に増大し、河道いっぱいに流れる現象を、河川工学上、洪水という。
2.日本の河川は、地形的に急峻な山地から流れ、比較的短距離で海に注ぐため、台風や前線による豪雨で発生する洪水の継続時間は、多くの河川でせいぜい数時間であり、利根川や信濃川などの大河川でも二日ないし三日程度である。
3.洪水ピーク流量の平均流量に対する比は、大陸の河川では、砂漠の河川を除けばその比が小さいが、日本では数十倍から100倍と極端に大きく、そこに日本の河川の特徴がある。<中国の河は河道が広く深く河道が普段よりフル活用されているが、日本の河は普段はわずかの水量が流れるだけで洪水時になって河道がフル活用されると言うことかと思う。>
4.日本における洪水現象のもう一つの大きな特徴は、明治以降の河川改修工事によって、かつて上流であふれていた洪水が河道に閉じ込められ速く流下し、また、流域の都市化によって舗装や屋根が降雨の地下浸透を妨げ直接流出を増大させ、下流における洪水のピーク流量が極端に大きくなってきた。
5.洪水現象は単なる自然現象だけでなく、社会現象である。

★まとめ

ここで論ずる洪水とは主として縄文・弥生の先史時代の洪水のことなのであるが、日本にははっきりとした洪水神話(原古に大洪水が発生し、それまでの人類、世界の秩序は滅び、その後に現在の秩序が確立され、現今の住民が繁殖した)とか治水神話(氾濫していた水を制御した)とか原初海洋モティーフ神話(原初には世界は水でおおわれていた)というのはなく、逆に、弥生時代に入ると水田用の水不足が露呈し、崇神天皇の時代に「崇神天皇六十二年秋七月乙卯朔丙辰 詔曰 農天下之大本也 民所恃以生也 今河内狹山埴田水少 是以 其國百姓怠於農事 其多開池溝 以寛民業 ○冬十月 造依網池 ○十一月 作苅坂池 反折池 【一云 天皇居桑間宮造是三池也】」とあり、灌漑用溜池を築造したと言うことか。
洪水の原因は1.台風、前線(前線の存在は降水を生じやすく,この降雨を前線性降水、と言う)、低気圧等による高潮等、2.地震による津波、3.融雪等が考えられるが、台風等による大雨や融雪による洪水被害は痕跡をほとんど残さないため、現在となっては縄文・弥生の台風や融雪による水害は解らないといった方が正解かと思う。これに対して地震による津波の被害は地震考古学という新しい学問分野で古代の地震の研究もなされているが、縄文時代の地震の痕跡は東日本にはやや少なく、人が住んでいない西日本に多かったようだ。但し、調査する人によっては東日本に多かったとする人もいる。弥生時代になると西日本の大地震が多くなり、津波及びそれに基づく洪水被害があったかどうかはほとんど解らない。おそらく、人口はそれほど多くなかったので人的被害はさほどなかったようだが、家屋、水田、灌漑設備等の被害は当時の人々にとっては甚大であったという見解もある。兎角、インターネットなどを見ていると一般の人が地震のことを書くと、書いた人は「アホ呼ばわり」され、「不安をあおるもの」と決めつけられているようだ。ましてや、縄文・弥生の地震・津波などは裏付けのとれない問題外のことらしい。日本で資料的裏付けのとれる地震は 『日本書紀』允恭天皇5年7月14日(416年8月22日)の条に「五年秋七月丙子朔己丑 地震」の記述が最初と言う。
大熊孝博士の見解にある「(明治以降の)洪水現象は単なる自然現象だけでなく、社会現象である。」というのは、現代の我々が遭遇している洪水は古代の自然現象の洪水ばかりか、諸々の社会現象により生じた洪水にも直面していると言うことである。その意味で、我々は古代の人々より遙かに多くの洪水に遭遇しており、それを改善しようとして不完全な技術が投入されますます持って不便な生活を余儀なくされている。かって、昭和61年(1986)8月に台風10号がもたらした小貝川氾濫の洪水につき、全国紙のコラムが江戸時代に伊奈忠治が川の流れに湾曲部を設け洪水の弊害を避けようとしたのに明治以降それを非効率とばかりに直線化したのが原因と曰った。しかし、これには「中・下流は河道の曲流が多く、水害の多発地」(「角川日本地名大辞典 8 茨城県」P408)とあり、少しばかり驚きだ。
地震だって同じことで、過般、東京大と産業技術総合研究所の研究チームが「江戸時代前期の1703年に起きた「元禄関東地震」(マグニチュード=M8.2)と同型の巨大地震は、6300年前から2200年前までにも4回起きており、最も短い発生間隔は500年だった。従来は、元禄型の関東地震は7200年前から3000年前までに3回起き、最も短い発生間隔は2000年とされていた。」と言い、大地震及びそれに伴う津波の発生間隔もだんだん短くなっているようだ。原因は何かと言えば、地震の原因はプレート運動と言うのが一般的で地球の内部が勝手に動いているようにも思われるが、最近の地下核実験とか相次ぐ大規模火山の噴火なども地震の一因ではないのか。2004年スマトラ島沖地震では「M 9.3 の地震の発生から約3ヵ月半後の2005年3月12日にスマトラ島西部のタラン山が噴火、また翌3月13日にはジャワ島西部のタンクバンプラフ山が噴火するなど近隣に存在する火山の活動が活発となった。」とある。但し、学説では地震と地殻変動(火山もその一種か)は関係がないという。

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