古代にもアルコール依存症はあったのか

★はじめに

日本の酒は醸造酒は奈良時代からあったようであるが、蒸留酒はタイから沖縄に14~15世紀頃伝わり(現在の泡盛のこと)、ウィスキーにいたっては幕末のペリー来航の際(1853)献上物として持ち込まれたようである。また、生産となると大正時代に入ってからと言うことである。ところで、江戸時代の川柳に、

神代にもだます工面は酒が入(いり) 『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』のなかの一句(川柳)、とあり、何やら先史時代にも酒があったようである。しかし、『古事記』には「其の足名椎、手名椎の神に、<汝等、八鹽折(やしおおり)の酒を釀(か)み、・・・>」とあるので、この酒は「口噛み酒」であり、おそらく米を噛んでいると思われ、弥生時代に入ってからのものかとも考えられる。

酒は「みき」と言い、漢字で書くと「み=御」、「き=酒」のことで、今はご丁寧にも「おみき=御神酒」などと言って、美称を重ねている。一説によると、『古事記』には酒を「くし」とも言い、これは「奇(くし)」に繋がるもので、酒の効能が奇瑞とされたことによるものである、と言う。酒を飲んだくらいでエクスタシー状態(恍惚、忘我)になってしまうのか。
ところで、我が国では庶民が酒を飲むようになるのは鎌倉時代から(江戸時代からと言う説もある)のようで、奈良時代や平安時代は、祭礼(新嘗祭とか神嘗祭<伊勢神宮>と言われる。天皇が即位の後,初めて行う新嘗(にいなめ)祭を大嘗祭と呼ぶ。)や正月、慶事の際に集団で飲んでいた程度で、朝廷や武家、神人、僧といった一部特権階級の人たちが飲むものだった、と言う。あるいは、『魏志倭人伝』では、「その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。」とも言っている。魏の使節団は自分たちが酒食でもてなされたのを倭人の日常と勘違いしたものか。

しかし、『日本書紀』を読んでいたら、こんなのがあった。

『日本書紀』巻第十二去來穗別天皇 履中天皇 即位前紀
爰仲皇子畏有事 將殺太子 密興兵 圍太子宮 時平群木莵宿禰 物部大前宿禰 漢直祖阿知使主 三人 啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】 故三人扶太子令乘馬而逃之 【一云 大前宿禰抱太子而乘馬】 仲皇子不知太子不在 而焚太子宮 通夜火不滅 太子到河内國埴生坂而醒之 顧望難波 見火光而大驚 則急馳之
ここに、啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】(太子にお声をかけたが返事がなかった。或書では、太子は酔って起きなかった)とあるのだが、古墳時代の当時にあって皇太子といえど酔い潰れるほど(大嘗祭の酒宴があったという)酒が飲めたものか、と言うことだ。日本で醸造酒が量産化したのは奈良時代と言われ、古墳時代に限定した酒造法は不明と言うほかない。おそらく、古墳時代に飲めた酒の量は現在で言うならコップ一杯分くらいではなかったのか。

★日本の古典や遺物に現れた酒にまつわる文物

古典の中の酒であるが、『古事記』中巻応神天皇段になると急に宴会の話や酒の話が出てくる。また、渡来者としてたくさんの工人にまじり「酒釀むを知る人、名は仁番(にほ)またの名は須須許理(すすこり)等、參い渡り來たり。 故、是の須須許理、大御酒釀みて以ちて獻りき。 是に天皇、是の獻りし大御酒に宇(う)羅(ら)宜(げ)て【宇羅宜の三字は音を以ちてす】御歌に曰く、
「須須許理が 釀みし御酒に 我酔ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒に 我酔ひにけり」以上は朝鮮半島の酒造方法であるようだが、日本式の酒造方法もあったらしく、以下のごとくである。
「吉野の國主(くにす)等・・・吉野の白檮(かし)の上<地名。カシの生えているところの意。カシノフと読むか。>に横臼(よくす)を作りて、其の横臼に大御酒(おおみき)を釀(か)みて其の大御酒を獻る時に、口鼓(くちつづみ)を撃ちて伎(わざ)を爲て歌いて曰く、「白檮の上に 横臼を作り 横臼に 釀みし大御酒 美味らに 聞こしもち飲せ まろが父」
此の歌は國主(くにす)等が大贄(おおにえ)獻る時時に、恆(つね)に今に至るまで詠う歌なり。
文書にすると醸造方法としては同じように見えるが、半島方式と日本方式は大いに違ったのではないか。そうでなければ、日本方式は半島方式に駆逐されていたと思う。一般的には、須須許理が導入した酒造法は「須須許里らが神前に捧げた醴酒(一夜酒)は口噛酒ではなく、穀芽酒、多分、牙米酒であったと思 われる。」という見解もある。また、日本でも「大神の御乾飯(かれいい)が濡(ぬ)れてカビが生えた。それで酒を醸した」(『播磨国風土記』宍粟郡庭音村)とあり、前述の穀芽酒(須須許理が招来したものか。半島、大陸系の醸造酒。)とは違い日本プロパーな麹との見解もある。
また、酒にまつわる遺物については、
縄文土器には注口土器、双口土器、壺形、瓶形、徳利形、水差形、土瓶形、片口付鉢形、碗形、コップ形など、現代の酒器に似た土器も混在しているが、中身はと言えばほとんどが軟水や海水だったのではないか。さらに、縄文時代中期以降に出現する「有孔鍔付土器」は樽のような形をして、つばに孔が開いているところから、酒造りの道具とも、口に皮を張って太鼓として使用したともいわれる。口縁部の内外に赤色塗彩がみられる、とある。まだ米もなく食糧事情が良くなかった時代にあって酒ばかりがバンバン作られたとは考えづらい。
とは言え、素戔嗚尊の八岐大蛇退治の話が縄文時代だったとすると、『古事記』では「八鹽折(やしおおり)の酒」とあり、『日本書紀』では「八醞酒(やしおりのさけ)」とある。本居宣長は「八回酒で酒を重醸した」と言う。『古事記』の「八鹽折」の折の字には<折り重なる>というような言い方もあるので、折は重畳の意味か。但し、アルコール度の強い酒とか毒入りの酒と言っても八岐大蛇には効果があったかどうかは不明。私見では八岐大蛇の実態は人間(出雲国あるいは越国の人)で時代も弥生時代初期の頃か。また、八岐大蛇が殺されたのなら俗に言う「寝込みを襲われた」とか言う場合ではないのか。
『日本書紀』(巻第一神代上、一書曰)では「素戔嗚尊乃教之曰「汝、可以衆菓釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。」(汝、衆菓(アマタノコノミ)を以て酒八甕を醸すべし)」と書かれ、素戔嗚尊の頃は果実酒だったようだ。

★履中天皇と允恭天皇

履中天皇に始まると思われるいわゆる「倭の五王」の在位年数はそれまでの長期在位の天皇から極端に在位期間の落ち込んだ天皇と言うことになっているが、これに事績の少なさを加えるとおそらく事実とは違う改ざんがなされたものであろう。

「倭の五王」の在位年数(満暦年、推定)
17履中天皇  5

18反正天皇    4

19允恭天皇 40

20安康天皇  3

21雄略天皇 24

「倭の五王」の中国への遣使
讃 421年(永初2) 425年(元嘉2)<司馬曹達> 430年(元嘉7)
珍 438年(元嘉15)
済 443年(元嘉20)451年(元嘉28)460年(大明4)
興 462年(大明6) 477年(昇明1)
武 478年(昇明2) 479年(建元1)<南斉から鎮東大将軍> 502年(天監1) <梁(りょう)から征東大将軍>
日中の記録で大きく違うのは安康天皇で、日本では在位3年となっているが、中国の記録ではどう見ても15年はありそうだ。履中天皇も日本の在位5年に対し、中国の記録から見て10年ほどはその地位にあったようだ。允恭天皇は水増しか。在位は、履中天皇10年、反正天皇4年、允恭天皇20年、安康天皇15年、雄略天皇24年ほどが妥当な線か。

在位年数の少ない理由はいろいろあるであろうが、私見では住吉仲皇子事件に端を発した大伴氏の失脚が大きいと思われる。大伴氏失脚後は政権中枢の記録は中断し、史書に書くべき事績がなければ、外国の文献を丸写しして書くとか、当該天皇とは関係のない天皇や豪族の事績を移記する、創作文章を載せる、などが考えられるが、在位年数を減らすことも有力な手法だったと思われる。そもそもこれら倭の五王は中国の宋王朝に外交使節団を送っており、在位3年、4年、5年で簡単に遣使ができるものかは疑問だ。もっとも、倭の五王の遣使は宋(南朝)の皇帝から辞令をもらうことにあったようで、朝貢品を持参しても絢爛豪華なものとはほど遠く、従って、御下賜品も少なかったようだ。しかも、倭の五王はその辞令の中に領有地や支配国(特に、百済)を詰め込むだけ詰め込もうとしたが、望み叶わず、雄略天皇のように遣使をやめてしまった天皇もいる。

履中天皇の事績としては「四年秋八月辛卯朔戊戌 始之於諸國置國史(ふみひと) 記言事達四方志 ○冬十月 堀石上溝」くらいなもの。諸国に国史なる役人を設置したと言うことなのだろう。国情を報告させたと言う。石上の溝を掘る、とは、大伴氏の代行者として物部氏を当てたので物部氏に対する優遇策か何かか。事務官系の大伴氏に対して、技官系の物部氏ではあまり期待もできなかったのではないか。これより前、「二年冬十月 都於磐余 當是時 平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連 圓 【圓 此云豆夫羅】 大使主 共執國事」とあるのも嘘っぽい記事で、一体に『日本書紀』は『古事記』に比べ平群氏の記事が多いが、これは日本書紀の執筆者に平群臣子首がいて日本書紀の編纂にあまり熱心ではない舎人親王などの目を盗んでは平群氏や平群氏を取り立ててくれた蘇我氏の説話を加筆していたのではないかと言うことである。履中天皇についてはその陵墓について意見の違いが鮮明になってきた。曰く、「現在の履中天皇陵と称するものは仁徳天皇陵であり、仁徳天皇陵と称するものは雄略天皇陵である」と。このほかに、雄略天皇陵は河内大塚山古墳という説もあるが、築造年代が6世紀中葉かそれ以降と言うことで欽明天皇の前後の天皇陵とするのが有力。それなら、本物の履中天皇の御陵はどれかと言えば、物部氏が主導して造営したのなら古市古墳群の中にある古墳のいずれかであり、葛城氏が主導して造営したのなら御所市の宮山古墳あるいは大和高田市の築山古墳などか。但し、宮山古墳は葛城襲津彦の墳墓、築山古墳は武烈天皇陵とする説がある。

允恭天皇については、『允恭天皇前紀』に、「我之不天 久離篤疾 不能歩行 且我既欲除病 獨非奏言 而密破身治病 猶勿差」とあって、「病、重篤にして、歩行が困難、誰にも相談せず我流の治療法を試みたが依然癒えず」という状態だったらしい。これに対して父親である仁徳天皇及び兄である履中、反正両天皇は「汝雖患病 縱破身 不孝孰甚於玆矣 其長生之 遂不得繼業 亦我兄二天皇 愚我而輕之」(『お前は病を患っているとはいえ、みだりに身を傷つけた。不孝の極みだ。長く生きたとしても、天業を継ぐことは出来ないであろう』とおっしゃられた。また我が兄である二人の天皇は、『私を愚かであると軽んじた。』)父親が息子の病気が原因で叱りつけるなどと言うのは、持って生まれた病気ではなく現今で言う生活習慣病ではないか。歩行困難になる原因としては運動と栄養の不足だそうで、允恭天皇の場合は酒ばかり飲んでいて運動はせず、かつ、十分な栄養(食事)を取らなかったのではないか。天皇の主なる事績としては、

*二年春二月丙申朔己酉 立忍坂大中姫 爲皇后 是日爲皇后定刑部(皇后のための刑部<生活の資を貢納する部曲>の設置)
*四年秋九月辛巳朔戊申 詔曰 群卿百寮及諸國造等皆各言 或帝皇之裔 或異之天降 然三才顯分以來 多歴萬歳 是以 一氏蕃息 更爲萬姓 難知其實 故諸氏姓人等 沐浴齋戒 各爲盟神探湯(身分を偽るものが多くなったので、沐浴斎戒の後、盟神探湯を行った。)
*五年秋七月丙子朔己丑 地震 先是 命葛城襲津彦之孫玉田宿禰 主瑞齒別天皇之殯 則當地震夕 遣尾張連吾襲 察殯宮之消息 時諸人悉聚無闕 唯玉田宿禰無之也 吾襲奏言・・・天皇設兵將殺 玉田宿禰 乃密逃出而匿家 天皇更發卒 圍玉田家 而捕之乃誅(五年七月十四日。地震。これより先に玉田宿禰に先帝瑞齒別天皇の殯宮の大夫<管理者>とした。地震の夕、尾張連吾襲を様子見にやったところ物・人ともに問題がなかったが、ただ玉田宿禰がいなかった。・・・玉田宿禰は密かに逃げ出し家に隠れたが、天皇はこれを捕らえ誅殺した。)
*十一年春三月癸卯朔丙午 天皇詔大伴室屋連曰・・・則科諸國造等 爲衣通郎姫 定藤原部(天皇は室屋に命じ、室屋は諸国の国造に妃の衣通郎姫<そとおりのいらつめ>のために藤原部を設置させた。)大伴室屋が唐突に出てくるが、允恭天皇と室屋は親族関係(又従兄弟くらいか)にあったのではないか。仁徳天皇の時代は緊縮財政下にあり、皇子たちも満足に遊ばせてもらえなかったので室屋の先代(父か兄であろう)がそれじゃあ子供の教育に良くないと言うことで大伴氏の淡路島の別荘に皇子たちを連れていって室屋も一緒に遊んだことだろう。「履中天皇五年秋九月乙酉朔壬寅 天皇狩于淡路嶋」とか「允恭天皇十四年秋九月癸丑朔甲子 天皇獵于淡路嶋」とか言うのは二人の天皇が子供の頃を思い出し今一度淡路島へ出かけたのだろう。允恭天皇が室屋よりは年長だったようで、兄弟がいなくなった天皇は室屋を弟のように扱ったのではないか。当時は外朝(外廷)はなかったという説もあるので、内廷の中の内廷業務を身内の室屋にさせていたのではないか。
以上が主なものである。

★まとめ

1.履中天皇については、「時平群木莵宿禰 物部大前宿禰 漢直祖阿知使主 三人 啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】 故三人扶太子令乘馬而逃之 【一云 大前宿禰抱太子而乘馬】 」はどう見ても「酔って起きられない」とか「馬にも乗れない」などと言うのは現今で言う酒の飲み過ぎで「泥酔状態で前後不覚に陥った」と言うことではないのか。また、允恭天皇が「我之不天 久離篤疾 不能歩行 且我既欲除病 獨非奏言 而密破身治病 猶勿差」と言うのも、毎日酒を飲み歩行が不安定になった状態を言うのではないか。允恭三年八月に新羅より名医が来て、幾ばくも経ずして完治したと言うが、信じがたい話である。本当の医者は藪医室屋で、室屋は天皇から足のふらつきの話を聞き、「それはズバリ言って酒でしょう」と曰って天皇から酒を取り上げたのではないか。断酒のかいあってか天皇の足のふらつきや手の震えなども徐々に好転し、その後は順風満帆で天寿を全うしたと言うことである。
ところで、倭の五王時代は古墳時代のまっただ中で、あの巨大古墳を造るには日本人ばかりか朝鮮半島の人材もそれ相当にやって来たのではないか。力仕事ともなれば仕事が終われば酒を飲みたくなるのが人の常で酒を飲ませろと言う半島系の人と酒はないと言う日本の現場監督が押し問答の末、造り方が解らないなら教えてやろう、などと大見得を切った半島系の人が日本での酒の量産化に成功したのではないか。もっとも、『魏志倭人伝』にも「他人就歌舞飲酒」とか「人性嗜酒」とかあるのでアルコールに強かったと思われる縄文人は果実酒のような酒を量産していたのかも知れない。酒造は地域の王の独占という見解もあるがどうか。酒のような嗜好品はあっという間に古墳築造現場に広がり、日本人の現場監督から古墳造営総監督へ伝わり、総監督から天皇をはじめとする上層階層へ拡散したのではないか。すでに、応神天皇の頃から宴会や飲酒の話が頻繁に出てきており、その頃から国の上層部では飲酒の風習が定着したのではないか。当然のことながらアルコールに弱い人がガバガバ飲むとアルコール依存症になってしまう。
2.宋書の系図で讃と珍(兄弟)と済(父)、興、武(子)のつながりがはっきりしないが、済(允恭)は父親の仁徳天皇に見放され、家族(仁徳天皇や履中天皇など)は河内や摂津に住んだのに済(允恭)だけが大和に住んだので中国人は二つに分けたのではないか。日本の多数説はこの二つのグループを別々のグループとは見なしていないようだ。
3.天皇陵は被葬者が依然として決着しない。履中天皇陵が仁徳天皇陵より築造が古いと言うことで仁徳天皇の御陵の地位も揺らいでいるようだが、全国第二位の規模を誇る応神天皇陵とも比較検討し仁徳陵がそんなに新しいものかを検討してほしいものだ。一応、築造年代は、応神陵 5世紀前半頃の築造(羽曳野市HP)、仁徳陵 5世紀中ごろの築造(堺市HP)、履中陵 5世紀前半頃の築造(堺市HP。形や出土した埴輪、陪塚の出土品などから仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られたことがわかっています、と言う)となっているが、大雑把に言うと応神陵の被葬者と履中陵の被葬者は兄弟、仁徳陵の被葬者は応神陵、履中陵いずれかの被葬者の子と言うことになろうかと思われる。皇室の系図は第15代応神天皇、第16代仁徳天皇、第17代履中天皇とつないでいるので、現応神天皇陵はそのまま応神天皇陵で、現履中天皇陵は仁徳天皇陵、現仁徳天皇陵は履中天皇陵とも考えられる。しかし、履中天皇は在位10年ほどと考えられそんなに長期政権でもない天皇に日本一の御陵はおかしいとお述べになる方もおられるかと思われるので、着工時期と工期を考えるならやはり現行の推定が、一応、正となるのではないか。古墳の形が仁徳陵が履中陵より新しいと言うが完成時の流行で化粧直しをしたものか。

 

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