物部氏と蘇我氏は同族か

★はじめに

『記紀』など我が国の古典を見ていると何やら似たり寄ったりな話が出てきて、どうしてこうも同じ原典の使い回しをするものかと不思議に思う。「海幸山幸神話」は民間に移植され「浦島太郎物語」になったとか、神武東征は応神東遷のこととか、神功皇后は推古天皇以降の皇極天皇・持統天皇・元明天皇などの女帝をモデルとした、あるいは、『日本書紀』の編者は『魏志倭人伝』の卑弥呼に比定している、『日本書紀』に出てくる蘇那曷叱知(そなかしち)、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、天日槍(あめのひぼこ)は元は同一の説話で日本書紀の編者が三話に脚色した、武内宿禰は蘇我馬子や中臣鎌足などを原型にして作出した、など、数え上げれば切りがないが、ここでは物部氏と蘇我氏の似たり寄ったりな話を取り上げてみる。
物部氏と蘇我氏が政治の世界に登場したのは物部氏が少しばかり早いようで、神武天皇より先に大和国に来ていたという饒速日命とか垂仁朝の物部十千根とか伝説的な人物を除き、雄略朝の物部目大連が実在した最古参の人物ではなかったか。また、蘇我氏では宣化朝の蘇我稲目大臣が実在を裏付けられる最古の人かという。
何が両氏を結びつけるのかと言えば、物部氏は穂積氏の分家という位置づけになっており、穂積氏の具体的な活動が国史に現れるのは6世紀前半の穂積押山からで、継体天皇に仕えた穂積押山は、蘇我韓子の娘・弟名子媛を妻とした、と言うことである。分家の歴史が本家より古く顕著と言うのもおかしい気がするが、物部氏と穂積氏は同族、蘇我氏の女性が穂積氏に嫁いでいる、と言うことで、元をたどれば物部氏と蘇我氏は無縁ではないように思われる。

★物部氏

物部氏の氏素性は、饒速日命(神武天皇よりも前に大和入りをした天神)が祖先と伝わる神別氏族。本貫は大和国山辺郡あるいは河内国渋川郡あたりかとする。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していた(通説)という。従って、物部氏の「物」とは兵器を意味するか。その後、国々同士の争いが増えて軍事優先の時代になると大伴氏と並ぶ有力軍事氏族になった。天皇家の軍隊は当初は久米氏、ことに大久米命が担っていたようだが、大久米命の死後久米氏は衰退し大伴氏が取って代わったと思われる。『新撰姓氏録』によると中央の久米直氏は二氏あるようだがその出自は、一方は天皇家の久米氏で、他方は大伴氏の久米氏だったのではないか。久米とは組の意味といい、現今における軍隊を意味していたものと思われる。有力氏族は自分の領土(国)を守るため軍隊を組織していたものと思われる。物部氏の場合は古いタイプの氏族を守る軍隊ではなく、比較的新しくなった倭国(国家)の軍隊として発足したのではないか。後ほどになって、大伴氏は宮廷護衛を主務とし、物部氏は国土防衛を担った。しかし、当時の軍隊は常備軍ではなかったようで、紛争がある都度大将軍以下の組織を整え、各氏族より兵員を供出したようである。物部氏の実際に活躍した人物としては、雄略朝の大連、物部目(もののべのめ)からのようで、雄略天皇元年、雄略天皇が娘・春日大娘皇女の嫡出子としての認知を拒否しようとしたところ、その不当性を説いて認知させた。雄略天皇13年、狭穂彦王の玄孫の歯田根命が采女と姦通の罪を犯したので物部目に審尋させた。職務遂行よろしきを得て、餌香(えが・河内国石川左岸。藤井寺市、羽曳野市あたりか)の長野邑(藤井寺市にある辛國神社あたりか)を物部目に賜った。雄略天皇18年、天皇は物部目と物部菟代に伊勢の豪族・朝日郎の討伐を命じた。目は物部大斧手に盾を持たせて自ら進撃し、朝日郎を捕縛して斬った。しかし、菟代は何もしなかった。天皇は菟代が所有していた猪名部を没収し、目に与えた。物部目の勲功は大なるものがあるようで、物部氏躍進のきっかけを作ったようだ。
継体天皇22年(528年)11月、物部麁鹿火が筑紫国造磐井の乱を平定した。
欽明天皇の時代、百済から仏像が贈られた。それを巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子を中心とする排仏派が争った。
両氏ともに代替わりし、蘇我馬子、物部守屋になったが、依然として双方の崇仏と排仏の対立が続いた。
用明天皇の崩御(587年5月21日<用明天皇2年4月9日>)後、守屋は次期天皇として穴穂部皇子を推したが、587年6月馬子は炊屋姫(後の推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子を誅殺した。
587年7月、蘇我馬子並びに諸皇子、群臣は河内国志紀郡から渋河にある物部守屋の家に到着しこれを攻撃した。守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。587年9月、蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位。以降、物部氏は本宗家を石上氏が担ったが、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。
一族の墓所としては、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族か。

★蘇我氏

蘇我氏の系譜としては、武内宿禰を祖としている。即ち、武内宿禰とは、
『日本書紀』景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとする。孝元天皇紀では、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とすることから、武内宿禰は孝元天皇三世孫にあたる。
『古事記』では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてる。
武内宿禰には『古事記』によると、七男二女がおり、その後裔氏族二十七氏があげられており、蘇我氏は蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね、石川宿禰)の後裔と言うことになっている。
蘇我氏の出身地・身分については、
1.河内国の石川(現在の大阪府の石川流域、あるいは、南河内郡河南町一須賀あたり)の土着豪族という説
2.葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説
以上の二説が有力だが、蘇我氏渡来人説、蘇我氏が台頭したのは継体朝以降で継体天皇とともに越国から来た、などの説がある。
実在が確実視されているのは蘇我稲目でそれ以前の満智、韓子、高麗(馬背)については、満智を蘇我倉山田石川麻呂後裔の石川氏の手により創出された人物とみる説もある。一応、満智は『日本書紀』によると履中二年十月条に平群木菟宿禰等と国事を執ったとあるが(平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連 <葛城>圓 【圓 此云豆夫羅】 大使主 共執國事)、信じがたいとするのが多数説である。この文章自体が創作かと思われるが、あるいは大伴氏の名がないので「住吉仲皇子の反乱」に関わって、履中天皇より大伴氏は「出仕に及ばず」となっていたか。住吉仲皇子は住吉と言うくらいなので大伴氏の庇護の元で育ったのではないか。また、「住吉仲皇子の反乱」では淡路島の海人族(阿曇連浜子、倭直吾子籠)が住吉仲皇子側に付いている。淡路島は大伴氏の勢力下にあったと思う。それに、履中朝の四執政官の身分の違いも気になるところだ。平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰はその他大勢の下級官吏と思われ、物部伊莒弗大連 葛城圓大使主は肩書きから高級官吏と考えられる。当時にあっても下級官吏と高級官吏が混在する執行部などというのはあまり聞かないのでは。平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰は後世の追記かと思われる。元々の構成員は大伴大連、物部大連、葛城大臣だったか。なお、このほかに、『古語拾遺』には、雄略天皇の御代、麻智(満智)が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したという(三蔵検校)話が載っているが、忌部氏は持統天皇五年(691)八月の「詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記。」にも取り上げられていない氏であり、そのまま信用はできないと思われる。但し、信用して取り上げている説が多いようだ。墓記とは1.各氏族の祖先たちの朝廷での功業を謳った誄を集成し記録したもの。2.墓記とは基記(もとつふみ)の誤記で、古事記や日本書紀と同様、諸氏族の系譜を中心とした伝承の記録、の二説がある。もっとも、満智ではないかも知れないが蘇我氏の一族(稲目の可能性が大きい)で大伴金村に就職斡旋を依頼し(蘇我氏は元々大和の豪族ではなく、越国から来たばかりで、職がなかったのではないか)、金村は渡来系氏族(秦氏、東文氏、西文氏)に強い蘇我氏にこれらの氏族を使って帳簿を勘録させたのではないか。当時にあっては、これらの職業は下々(しもじも)の職業だったのかも知れないが、蘇我氏の財力を蓄える源泉の一つになったのかも知れない。そもそも、蘇我稲目が天皇の命により諸国に屯倉を設置したとあるが、これはお為ごかしの話で蘇我氏の蓄財のためであって天皇家や朝廷(国家)のためのものではなかったのではないか。
6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においた。
稲目の代になると、かっての大臣系の氏族(葛城氏、平群氏など)は没落し、大連の大伴氏や物部氏と肩を並べる大臣氏族になった。
蘇我氏の躍進の原動力はその婚姻政策にあったようで、稲目の娘は堅塩媛、小姉君が欽明天皇に嫁ぎ、堅塩媛は用明天皇や推古天皇の生母、小姉君は崇峻天皇の生母となっている。石寸名と言う娘が用明天皇妃となっているが、堅塩媛を誤伝したと言う説が有力。また、渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になった、と言う見解もある。
稲目の死後、仏教の受容を巡る問題は蘇我馬子と物部守屋まで引き継がれるが、用明天皇崩御後に後継者をめぐる争いがあり、馬子は守屋に擁立を画策されていた穴穂部皇子を暗殺し、崇峻天皇を擁立した。また、群臣とはかり守屋討伐を敢行した。もっとも、蘇我氏が物部氏を滅ぼしたのは蘇我馬子が物部氏の財産目当てのため、と言うインターネット上の見解もある。それなら、大伴氏の方が良かったのでは。
ここから蘇我氏三代(馬子、蝦夷、入鹿)にわたる専横が続いたが、馬子の死後蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まった。
蘇我氏は、645年の中大兄皇子、中臣鎌足らの「乙巳の変」によって、入鹿が殺害され蝦夷が自殺するとその勢力は大幅に低下した。
蘇我氏の後裔氏族石川氏も平安京遷都後亡くなった正四位上・参議、石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消した。

★まとめ

物部氏、蘇我氏両氏は仲の悪い氏族であったかと思われるが、その先祖を見てみると、物部氏は伊香色雄命の子孫で伊香色雄命は『日本書紀』では大綜麻杵の子といい、『古事記』では欝色雄命の子であるという。(『古事記』中巻第八代孝元天皇段、此天皇 娶穗積臣等之祖 内色許男命【色許二字以音 下效此】妹 内色許賣命 生御子 大毘古命 次少名日子建猪心命 次若倭根子日子大毘毘命 【三柱】 又娶内色許男命之女 伊迦賀色許賣命 生御子 比古布都押之信命)
一応、『古事記』では伊迦賀色許賣命は内色許男命之女と解るのであるが、伊迦賀色許男命と内色許男命との関係は不明である。しかし、古代の命名法として伊迦賀色許男命と伊迦賀色許賣命は兄妹あるいは姉弟の関係と思われ、簡潔に言うなら物部氏のご先祖さまも蘇我氏のご先祖さまも内色許男命から伊迦賀色許男命の系譜につながるものである。おそらく『古事記』の方が正解で内(京都府八幡市内里内)と伊香賀(大阪府枚方市伊加賀)は隣国近隣にあり、淀川水系に勢力を持った一族だったのではないか。
物部氏は内色許男命之男、伊迦賀色許男命を祖先とし、蘇我氏は武内宿禰を祖先としている。いずれの始祖にも「内」の文字が入っているが、当時にあって「内」氏とはあちこちにたくさんいたのかと言えば、国史に現れてくる「内」氏は武内宿禰と味師内宿禰くらいである。物部氏と蘇我氏に共通する氏族としては穂積氏があり、物部・蘇我の両氏は穂積氏から山城国、河内国に盤踞する古代豪族「内」氏の話を聞いていたのではないか。いわゆる、「山代内臣」氏である。その「内」氏の話を物部・蘇我の両氏は我田引水して物部氏の祖や蘇我氏の祖を作り上げたのではないか。物部氏、蘇我氏、穂積氏がなぜ旧知の間柄かと言えば、おそらく三氏はいずれも一族の人々が朝鮮に軍事派遣され、派遣される一族も徐々に固定化されお互い旧知の間柄になったのではないか。筑紫国造磐井は近江毛野臣に「今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前。」とも言っている。
いずれにせよ蘇我氏が越国(こしのくに、後世の越前国)から来たのなら中央豪族との関わりはまったくなかったであろうし、物部氏は氏の名にある「部」というのは比較的新しい氏族と解され天皇家より先に大和に来ていたなどとは考えられないことだ。いずれも古くて誰も知らないような氏族(内氏)を先祖に据えて、同じ穴の狢になったのではないか。

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物部氏と蘇我氏は同族か への4件のフィードバック

  1. 曽川郁夫 より:

    よく調べておられますね、勉強になります。徳島県吉野川市(旧麻植郡)川島町に式内社で日本で唯一伊迦賀色許賣命と伊迦賀色許男命の姉弟が祀られています。氏子である私も阿波忌部氏の忌部郷の中にある社なので少し困惑しています。

    • tytsmed より:

      曽川さん、こんにちは。

      早速ですが、お説の神社は伊加加志神社と言うようで、小生も初めて知りました。明治まで「日命(ひのみこと)大明神」と称していたそうで、何やら大伴氏の遠祖道臣命の旧名(日臣)によった神社名かとも思われました。なお、文中に忌部氏を粗略に扱ったと考えられた部分があったなら大変失礼いたしました。

  2. 曽川郁夫 より:

    ご返信ありがとうございます。ご懸念ご無用です、これからもどんどん歴史に関するテーマでアップしていただきたいと思います。楽しみにしています。

    • tytsmed より:

      曽川さん、こんにちは。
      ご丁寧に返信をいただきありがとうございます。歴史については最近では「歴女(れきじょ)」とかいってやたら詳しい人がいるようです。小生はその域には達していないのでいろいろボロが出てくるとは思いますが今後ともよろしくお願いいたします。

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