紀氏はどうして大臣にならなかったのか

★はじめに

紀氏については「葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかかわらず、大化前代に大臣を出していない点は留意されよう。」(Wikipedia)とあり、応神天皇の紀角宿禰から始まり平安時代初期の紀古佐美など連綿と大和朝廷の高位高官が続いたのに、そういうこともあったのかと思いつつも何やらおかしい気がした。

紀氏には大別して二流があり、一流は紀臣氏で皇別の紀氏である。他流は紀直氏で国造の紀氏である。

紀氏の氏の名の起源は、
1.紀国(木国、後の紀伊国<和歌山県>)に基づく説
2.平群坐紀氏神社の神社名あるいは鎮座地(大倭国平群県紀里。現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近。)に基づく説
がある。
一説によると、蘇我馬子が物部氏に対抗して武内宿禰を持ち出し、蘇我派を結成して武内宿禰の子孫と称する二十七氏族を並び立てたのは、祖先に大臣伝承を持った氏族と言うことで「紀氏(紀臣氏)には大臣がいなかった」と言われても何かの間違いではと思うばかりなのだが、蘇我馬子が意図した「紀氏」は、おそらく、鎮座地(大倭国平群県紀里)に由来するものだったのではないか。一体に武内宿禰の子と称する人は、波多八代(大和国高市郡波多郷)、許勢小柄(大和国高市郡巨勢郷<奈良県御所市古瀬>)、蘇賀石河(葛城県蘇我里<奈良県橿原市曽我町>)、平群都久(大和国平群郡平群郷<奈良県生駒郡平群町>)、木角(大和国平群県紀里<奈良県生駒郡平群町上庄>)、久米能摩伊刀比賣、怒能伊呂比賣、葛城長江(大和国葛上郡<御所市名柄>)、若子(『古事記』にのみ記載がある。不明。)とあり、みんな奈良盆地南部の人と思われ、紀角(後世の紀氏)宿禰も現在の奈良県出身と思われる。従って、蘇我馬子の眼中にあったのは平群県紀里の紀氏であって紀国の紀氏(紀直)ではなかったと思われる。

『記紀』で紀氏や武内宿禰が出てくるのは、
『日本書紀』

大日本根子彦國牽天皇  孝元天皇
七年春二月 妃伊香色謎命 生彦太忍信命・・・彦太忍信命 是武内宿禰之祖父也

大足彦忍代別天皇 景行天皇
三年春二月 遣屋主忍男武雄心命・・・則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛 生武内宿禰
第八代孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命が紀国造(菟道彦)の女「影媛」を妃として、その間に「武内宿禰」が産まれたと言う。但し、『古事記』では屋主忍男武雄心命は系譜にない。即ち、

『古事記』中巻 大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)

又娶木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣 生子 建内宿禰 此建内宿禰之子并九【男七 女二】・・・次木角宿禰者【木臣 都奴臣 坂本臣之祖】
『日本書紀』では紀角宿禰が武内宿禰の子かどうかは解らない。『古事記』では「木角宿禰者【木臣 都奴臣 坂本臣之祖】」となっているので、一応、「皇別の紀氏」は武内宿禰の子孫と言うことになる。
「皇別の紀氏」が「紀」姓を名乗ったのは、武内宿禰の母が紀の国造家出身だったからと言う。紀臣氏と紀直氏は通婚関係にあったと思われる。

「国造の紀氏」は土着の豪族と思われ、天道根命(神魂神の五世の孫)を祖とし、神別氏族と思われる。紀直(国造の紀氏)と言う。『記紀』に見える、紀直氏は、
『古事記』中巻

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇段)
木國造之祖宇豆比古

御眞木入日子印惠命(崇神天皇段)
木國造 名・荒河刀辨

『日本書紀』卷第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇
三年二月 紀直遠祖菟道彦

『日本書紀』卷第九 息長足姫尊 神功皇后
摂政元年二月 紀直祖豊耳

『日本書紀』巻第二十 敏達天皇
十二年七月 紀國造押勝與吉備海部直羽嶋
十二年十月、紀國造押勝等還自百濟
欠史八代から朝廷に仕えていたことが解り、押勝を除いては古くから内政に関わっていたのかも知れない。朝鮮半島に帰化(紀臣奈率彌麻沙など)して外政に貢献した紀臣氏ほどではないにしても大和朝廷草創期より国政でも活躍していたようだ。但し、記録がほとんどないので在地豪族扱いである。
翻ってみると、武内宿禰は架空の人物という説が根強く、武内宿禰の子孫は二十七氏と言うが、世代が錯綜した系図が多いようで信用できないと言う説も多い。研究論文も多い。大先生のお説を云々する資格はないので私見を述べることにする。

★「皇別の紀氏」

皇別の紀氏は古くは臣のカバネを名乗っていたらしく、「天武天皇の八色の姓の制」で朝臣となったという。紀臣氏と紀直氏の関係だが、明らかではない。一応、同族説と別氏族説がある。同族説なら始祖は天道根命であり、一族は二分し紀臣氏は大和朝廷傘下に入り、紀直氏は紀国にとどまったと言うことなのだろう。紀臣氏が大和朝廷傘下に入ったのは隣国の大伴連に懐柔されたのではないか。瀬戸内海航路だが当時は山陽道沿岸(瀬戸内海沿岸)は吉備氏が圧倒的力を持って支配していた。大和朝廷といえども易々と筑紫国までは行けなかったので、時の天皇は大伴連に四国沿岸航路の開発を命じたのであろう。大伴氏としては自らが開発するか、はたまた、海に強い有力氏族に依頼するか逡巡したのであろうが、結局、造船の素材である自然林を大和国吉野郡に所有していた言わば隣家の紀臣氏に白羽の矢を立てたのではないか。このことは、『日本書紀』卷第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇 九年五月「・・・汝大伴卿與紀卿等 同國近隣之人 由來尚矣」(同國近隣之人の意味は紀伊の紀臣に対し和泉の大伴連が近隣の人を意味するらしい。紀角宿禰の子孫の坂本臣(和泉国和泉郡坂本郷)とか根使主(和泉国日根郡日根里)の本貫が和泉国にあるようなので和泉国で大伴氏と紀氏が近隣だったか、と思ったが、違うようである。)と符合するものか。ほかの紀臣氏の同族は角臣氏であるが、『日本書紀』には周防国都濃郡が本貫とある。小鹿火宿禰は紀角宿禰の子孫なのか。一説に、紀小弓の子、紀大磐の弟とある。ほかに紀角宿禰に関係する土地として、津野神社(滋賀県高島市今津町北仰・近江国高島郡角野郷)、角刺神社(奈良県葛城市忍海、但し、祭神は飯豊青命)などがある。しかし、紀角宿禰の実在を疑う見解もある。
紀臣氏の『記紀』に見られる功労者としては、応神・仁徳朝の紀角宿禰、雄略朝の紀小弓宿禰、雄略・顕宗朝の紀大磐宿禰、欽明・崇峻朝の紀男麻呂宿禰などが散見する。主に朝鮮半島での軍事・外交において活躍が著しい。特に、『日本書紀』巻第十 誉田天皇 応神天皇 三年「是歳 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无禮状 由是 百濟國殺辰斯王以謝之 紀角宿禰等 便立阿花爲王而歸」とあり、これを『好太王碑文』の「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年(391)來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」の記事のこととする説がある。但し、前述したように紀角宿禰のように実在が疑われる人物もいる。また、顕宗朝の大磐、欽明朝の男麻呂などは蘇我氏の全盛期と重なっている。従って、紀臣氏が大臣に就かなかったと言うことは考えづらいことではある。あまりに大伴氏よりだったためか。しかし、紀臣氏の本業は吉野山から材木を吉野川、紀ノ川を経て紀ノ川河口まで送り、そこで船を造る現今で言う林業、造船業ではなかったか。当時の船は未だ丸木舟や準構造船で兵員の大量輸送には適さなかったが、小型とは言え朝鮮半島へ渡るには船が必要で造船業者であった紀臣氏には一日の長があったのではないか。

★「国造の紀氏」

古記録は当然と言えば当然だが中央豪族の記録はまずまず残っているが、地方豪族となると極端に少なくなる。『風土記』のようなものを天皇の代替わりに提出させるとかすれば少しは地方の記録も残ったのだろうが、諸般の事情によりそういうこともかなわなかったようである。中央官界の仕事をしたのは敏達朝の紀国造押勝で百済にいた日羅を迎えるために朝鮮に派遣された。
国造の紀氏の由緒来歴はよくわからない。『先代旧事本紀』天神本紀によれば、高天原から葦原中国へ降臨することとなった饒速日尊の護衛として付き従った三十二神の一神で、同書国造本紀や紀伊国造家が伝える『国造次第』によれば神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられた、と言うが、失礼ながら信ずる人は少ないと思われる。しかし、紀の国造家が本拠とした紀伊国名草郡(和歌山平野)は紀の国造家により開墾されたと思われ、宮井(灌漑用水)は古く古墳時代にまで遡り、紀の国造家の主導の下に紀ノ川の旧河道を固定化して造成されたと考えられている。従って、紀の国造家は水田稲作を専一にし、その祭祀した日前宮も農耕神ではないかと思われる。

★まとめ

紀臣氏と言っても、本貫は紀国(紀伊国)であったと思われ、蘇我馬子が拾い上げた平群坐紀氏神社の紀氏とは何の関係もなかったのではないか。そもそも平群坐紀氏神社は紀船守が創建し、祭神も平群木菟宿禰と言う。端的に言うと、平群氏の神社であって紀氏の神社ではない。但し、「三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式である。6世紀半ばの古墳とのこと。 」とあり、また、「石棚のある横穴式石室の古墳は紀ノ川下流域に多いが、奈良県下では三里古墳を含めて3例のみであり、他の2基も吉野川(紀ノ川)流域に築造されている。 」とある。これをなんと見るべきかだが、
「石棚をもつ横穴式石室は、和歌山市岩橋千塚古墳群をはじめとする紀伊地域を中心に、近畿の北部と瀬戸内から九州の一部にまで分布する。これらは、文献史料で想定される紀氏一族の分布に重複する地域が多く、石棚のある横穴式石室は紀氏とその同族が造った墓」とするものと、
「岩橋千塚などの石棚は高い位置にあり、石室の構造材としても機能していて、三里古墳の低い石棚はそれらとは同列に扱えないこと、さらに、平群谷に紀氏が居住したのは奈良時代以降」とする説がある。
上記いずれの説も正しいとするならば、石棚に構造材としての機能を持たせているのなら、そちらの方が技術的に高度なものであり、石棚が岩橋千塚古墳群に多いのなら石棚がある古墳は紀の国造氏にまつわる墳墓ではないのか。紀氏と言っても「紀臣氏」「紀直氏」「蘇我馬子が勘違いしたカバネ不明の紀氏」があるようで、おそらく奈良県の石棚つき古墳の被葬者は紀直氏に近い人で、自分の墓を紀直氏の墳墓のごとく見よう見まねで築造したものではないか。石棚つき墳墓が奈良県に三基というのも大和国には紀伊国の石室形式が入ってこなかったと言うべきではないか。
平群坐紀氏神社の紀氏は根拠薄弱ではあるが、紀直氏の関係者かと思われ、もし平群郷にいた紀氏が紀直氏なら臣のカバネでもないのに大臣などとなるはずもなく、仮令「直」として「大直」というカバネがあったとしてもそれは「大臣」とは違うものであろう。従って、平群の紀氏が大臣を賜与されることは皆無だったと思われる。よって、紀氏が大臣となることはなかった。また、紀臣氏であるが、こちらにも大臣がいなかったと言うことかと思われるが、大化の改新前代にあっては紀氏は主に朝鮮半島に在住し、日本本国とは縁が薄かったのではないか。今でもそうだが、出世の要諦は本社→地方→本社→地方というようなルーティンを繰り返すことで、地方(紀臣氏の場合は朝鮮半島)ばかりにいては出世はおぼつかないそうだ。よって、本社(大和国)にいない紀臣氏には大臣の地位が回ってこなかったと言うべきか。
紀臣氏と紀直氏だが、同国の人ではあるが紀臣氏は林業や造船業、海運業はたまた軍事・外交を家業とし、紀直氏は農業、建設業等を家業としていたのではないか。従って、紀臣氏が縄文時代色の強い氏族であったのに対し、紀直氏は弥生時代色の強い氏族であったかと思われる。おそらく両氏は別の氏族であったろうが、古くは通婚関係があったようだ。和歌山市には日前神宮・國懸神宮があるが、本来はいずれかが紀臣氏の神社で他方が紀直氏の神社ではなかったか。紀臣氏が律令時代になると完全に奈良市の方へ引っ越してしまったので、紀の国造家が双方の神社を奉斎するようになったのではないか。

 

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紀氏はどうして大臣にならなかったのか への2件のフィードバック

  1. Kino より:

    初めまして。紀伊国造の祖の天道根命や神魂神の出自は不明ですが、五十猛から紀伊国造へ続く系図を辛島氏が持っているようです。また江戸時代の「熱田旧記」に紀氏は出雲の大国主の子孫とあるように、武内宿禰は出雲王家の末裔と思われます。
    国譲り以降、出雲系と天孫系は皇統を争い続けており、勝利した方が敵の高貴な女性を人質として后にしているでしょう。后が裏切ったり、皇子を自分の氏族の男児とすり替えたりすれば、皇統が変わります。神武天皇の后(大物主/事代主の娘)は裏切ったのでしょう、息子達は兄弟同士で争っていますね。そのうち神八井耳命の子孫から孝元天皇へとつながる系図を、雀部が持っているようです。皆「タケ」が付きます。タケミナカタの子孫でしょうか。武内宿禰は孝元天皇の孫ですね。紀伊国造の方は五十猛の系統で、同族同士がより濃い婚姻関係を結んだのだと思います。
    応神天皇の行幸を喜んで国栖族が舞を踊りました。国栖奏は今でも孝元天皇の即位日に行われます。彼らは天武天皇を吉野で匿いました。孝元・応神・天武・南朝などは出雲系でしょう。また明治維新の有名志士達には、龍馬・西郷・毛利氏を含め、紀氏系・野見宿禰の子孫が多いです。
    私は「国主」と来栖・九頭・国栖など(クルス・クズ)が同じと考え、アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世(大クルス=大国主)がスサの王であったことから、出雲系はこの末裔ではないかと考えます。この仮説についてどう思われますか?

    • tytsmed より:

      Kinoさん、こんにちは。
      早速ですが、
      >武内宿禰は出雲王家の末裔と思われます。
      (Ans)武内宿禰は蘇我馬子が蘇我氏ほか26氏を天皇氏系図へ結びつけるための創作ではないでしょうか。馬子は本来は穂積氏との姻戚関係から山代内臣氏に関連付けたかったと思われるが、穂積氏は物部氏とも同族関係にあり紛争回避のため紀伊国の武内氏としたのではないか。

      >私は「国主」と来栖・九頭・国栖など(クルス・クズ)が同じと考え、アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世(大クルス=大国主)がスサの王であったことから、出雲系はこの末裔ではないかと考えます。この仮説についてどう思われますか?
      (Ans)「国主」はクズと読む説もあり、来栖・九頭・国栖はクズで、地形用語で崩れ地を指すのではないかと思われます。従って、アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世(大クルス=大国主)は失礼ながら極端な飛躍であって、日本に中近東の影響がないとは言わないものの、極々微少でましてや国の指導者などと言うことは考えられないと思います。

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